奈良には、但馬とゆかりのある地名・神社があるという。奈良へ出かけるついでに時間をつくって糸井神社をたずねた。
磯城郡は北を大和郡山市、東は天理市、南は橿原市、西は北葛城郡で、法隆寺の斑鳩町、河合町には名神大 二十二社(中七社)の廣瀬大社など、田原本町の式内社鏡作神社、多神社(多坐弥志理都比古神社) 、村屋神社などが目白押しで回りたかったが、川西町の隣、三宅町には但馬という大字もあり、養父郡糸井(現在の朝来市和田山町糸井)との関連がささやかれる神社で、とくに興味があった神社。
境内案内によると、
この神社は、約千年前の「延喜式」という書物 に糸井(神)社として記されている由緒ある古社で、 祭神は名称のとおり糸に関係する綾羽・呉羽が 主神であるとされている。境内には本殿・拝殿・ 宝庫などがあり、さらに4つの境内社をもつ大規模な神社で春日大社から移建されたといい伝えられ手法も春日大社の社殿とよく一致しています。
秋祭りは、毎年十月の第四土曜日(宵宮)第四 日曜日(本祭)の両日に行われるが糸井神社の氏子が輪番でつとめる当家(頭屋)の行事は「当家相 撲」があるなど格調高く、大和祭礼のなかでも最 も注目すべきものです。
郷土史研究で知られる宿南保氏は、『但馬史研究』(H20.3月号)で、
『和田山町史』上巻編集中のこと、奈良県磯城郡川西町の町史編纂室から、室長 上田正弘氏ほか一名の方の訪問を受けた。川西町に所在の式内社「糸井神社」は糸井造(みやつこ)ゆかりの神社と言い伝えられている。この神が朝来市和田山町糸井に何らかの関係があるのか、その由緒を求めて来室されたのであった。
(中略)
川西・三宅・田原本町の三町域は「倭のミヤケ」が置かれた地域である。ミヤケとはヤマト王権が多様な目的を果たすために地方の国造等の領内に置いた政治的・軍事的・経済的拠点である。
(中略)
川西町域にも渡来人の活動を推定させる史跡が二つある。糸井神社と比売久波神社である。『川西町史』は次のように叙述している。
まず、「糸井」という地名についての疑問点である。糸井とは、一般的に結崎やその付近一円を総称した郷名と解釈されることが多い。しかし10世紀後半に成立した『和名抄』の城下郡の郷名としては見当たらない。また平安時代の延久三年(1070)の「雑役免帳」には「糸井南庄」と「糸井北庄」という荘園名がある。しかしながらその「糸井庄」の範囲を現在の地名に当てはめてみると、田原本町の東部になってしまい、結崎付近とはかなり離れた場所となる。したがって糸井庄にあった神社だから糸井神社とは言えないのである。
次に現在の糸井神社そのものの問題点である。まず糸井神社はいつごろからそう呼ばれていたかである。中世には「結崎明神」や「結崎宮」と呼ばれ、今も境内に残る石灯籠にも「大和結崎大明神」と刻まれている。江戸時代には春日大社の古い社殿を移建したことによるのか、「春日大社」とも称されていたようである。
また祭神についても諸説がある。
糸井神社に確定されたと思われる明治初期の「神社明細取調帳」(明治13年)には、まず「祭神 不詳」とあり、但し書きに「土人は豊鍬入姫命と云う。神名考証に天日槍命と在り。」とある。つまり祭神は地元の昔からの言い伝えでは豊鍬入姫命としているが、祭神は「天日槍命」とする考証もあるとしている。
(中略)
出石に落ち着いてから大和へ移ったとみられる天日槍伝承を持つ氏族の中から、名前の顕れているものに糸井造と三宅造がある。『川西町史』は三宅氏が天日槍の直系の子孫に当たる氏族で、その三宅氏から後に分かれた一分族が糸井氏であると推測できる」としている。
三宅氏の姓が倭のミヤケに由来するのか、但馬国出石郡三宅(今の豊岡市)三宅の地名に由来するのかについては断定できないけれども、但馬の人たちは豊岡市三宅に由来すると考えているだろう。全国の製菓業者から菓子の神様として尊崇を集めている式内社の中嶋神社があり、天日槍の子孫 田道間守を祭神としているからである。「糸井造」も同様に和田山町糸井に由来すると考えているだろう。
(中略)
『川西町史』は「この地が五世紀のヤマト王権の直接的な支配が及ぶ最先端部にあたり、それまでほとんど手つかずのまま残されている広大な平地であったため、灌漑・水利の面等で新しい技術やそれを身につけた人たちを投入すれば、未開の低湿地は肥沃な耕地に生まれ変わり、王権にとって重要な経済的拠点になる、ということである」天日槍の伝承を持つ集団はこの地にうってつけの人たちであったことが理解できよう。
この地に投入された人を語るよすがの一つになるかもしれないのが、大和盆地に散在している国名集落である。三宅町には上但馬・但馬といった地名が現存する。同町には他の国の国名集落として石見・三河が存在する。