【環日本海の歴史】(6) 水田稲作の始まり

関裕二氏『海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ』で、
そもそも日本人とは何か
弥生時代は稲作文化が普及した時代であると同時に、農地、水利、さらには金属器の流通を巡る諍いが絶えない時代でもあったわけだ。ただし、この混乱が征服劇だったかというと、それは間違っている。

たとえば、渡来人の密集していたであろう北部九州でも、渡来文化を受けつつも縄文的な風習を継承していた人びとも確認されている。つまり両者は棲み分けと融合をくり返していったのであり、また、渡来人が染み込むように日本土着の民と融合していったことは、「日本語」が、縄文中期にはすでに完成していたと考えられていて、しかも今日にまで継承されていることからも言えるのではないだろうか、という。

水田稲作の本格的な開始という形で定住化がすすみ、縄文土器にかわって、これまでよりも薄く、つぼやかめ、食器などさまざまな用途に分けられた弥生土器がつくられるようになりました。青銅・鉄の技術が加わり、さらには中国や朝鮮半島からの交流が活発化する中で充実していきました。中期になると、銅鐸(どうたく)という謎の多い青銅器が現れて消えていきます。

弥生変革が生じた背景には、海を渡って渡来した人々があり、在来人と混血したであろうと想定されてきました。反対に、在来の縄文人が外来の新しい知識・文物を入手して、弥生人になることが基本であったともいえます。

早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となります。

水田耕作の始まり

すでに縄文時代に大陸から稲がもたらされ、自然の水たまりを利用して小規模な栽培が行われていましたが、紀元前4式ごろまでには、灌漑用水路を伴う水田を利用した稲作の技術が九州北部に伝わりました。

初期の水田は、福岡市博多区にある板付遺跡や、佐賀県唐津市の菜畑遺跡など、九州北部地域に集中して発見されており、弥生時代の前3~2世紀には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、次いで紀元前2世紀~紀元1世紀には同県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡からも広範囲に整然とした水田区画が見つかっています。水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及したといえます。

水田を用いた稲作が始まると、これまで小高い丘に住んでいた人々は、稲作に適した平地に移り、ムラ(邑)をつくって暮らすようになりました。大規模な水田がつくられるようになると人々は共同で作業するようになりました。

稲穂の摘み取りには石包丁が用いいられ、収穫して乾燥させた穂を納める高床式倉庫が建てられました。ムアでは豊かな実りを祈り、収穫に感謝する祭りが行われました。

稲作と技術の伝播

稲の伝来ルートについても従来は朝鮮半島ルートが有力視されていましたが、これには疑問点が多くあります。
・中国遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと
・朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり畑作米の確認しか取れない点
・極東アジアにおける温帯ジャポニカ種(水稲)/熱帯ジャポニカ種(陸稲)の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部(満州)から当該遺伝子の存在が確認されない
ことなどの複数の証左から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート等)による伝来である学説が有力視されつつあります。従来の説とは逆に水稲は日本から朝鮮半島へ伝わった可能性も考えられています。弥生米のDNA(SSR多型)分析によって、朝鮮半島には存在しない水稲の品種が確認されており、朝鮮半島経由のルートとは異なる、中国中南部から直接渡来したルートが提唱されています。後述の青銅器の伝来も古代中国に起源をもち、日本や朝鮮など東アジアで広く使用されたとされることと重なります。
協和発酵(株)元会長 加藤辨三郎(べんざぶろう)編「日本の酒の歴史」から引用する。
いろいろな説があるが、今日の学説から次の3つに要約することができる。

(1)華北説(華北→朝鮮半島→北九州)
(2)江南説(江南→東シナ海→南朝鮮・北九州)
(3)「海上の道」説(台湾→沖縄→九州)

第一の華北説は考古学者浜田博士が提唱したものであるが、華北の仰韶(ヤンシャオ)文化・龍山(ロンシャン)文化と日本の弥生文化との間の時間的な落差があまりにも大きすぎるので今日では疑問視されている。また、第三の柳田国男説も偶然性が強く説得力に乏しいとして退けられている。したがって、第二の安東博士の提唱した江南説(江南の稲作が日本と南朝鮮へ同時に伝わったとする学説)が最も有力で、多くの学者の支持を得ている。

江南というのは、今の中国の揚子江以南地域を指すが、ここから南シナ沿岸地方にかけては、かつては呉・越・ビンなどの名で呼ばれたオーストロ・アジア系の非シナ稲作民族が先住していた。彼らは稲作を行うかたわら航海技術にも長じ、早くから船を操って沿岸交易に従事していた。ちょうどその頃、この地にまず呉・越が台頭し、次に楚(ソ)が勢いを得たが、さらに北からは秦の、続いて漢の国家的統一が進み、漢民族が大挙して江南の地に進出するといった政治的激動が起こった。強大な漢民族の圧迫に耐えかねたこの地の非シナ稲作民族は、やむを得ず海上へ脱出して難を避けた。江南から北九州へ、あるいは南鮮へと稲作文化が移動していったのは、このような民族移動の一つと見られ、紀元前二、三世紀のことであった。

「稲の日本史」 佐藤洋一郎著では、
弥生時代の人びとの中でもっともポピュラーであった植物資源はドングリの仲間であり、イネがこれに続くがそのウェイトは全体の中ではそんなに大きくない。弥生時代の食は、水田稲作が導入された後とはいえまだ採集に依存する部分が相当に大きく、栽培によって得られる資源の中でもイネに依存する割合が高いわけでもない。日本列島では農耕の開始や広まりは実にゆっくりしたものだった。
としています。

黄河の下流の肥沃な土地で、約3000年前には稲作が始まったとされる。また緯度が揚子江より高く、温帯性の気候である。
渤海の北側離岸流から対馬海流に乗る。伽耶国あるいは新羅に到着する。伽耶国は鉄の産地なので、このルートで鉄器が伝来した可能性はあるが、稲作については文献資料は残されていない。

東シナ海に出帆し、黒潮の本流に乗ると、秋冬は強い偏西風により、日本列島沖合いを流される可能性が大である。台風に遭遇することが多い。鑑真はこのあたりより出帆し、何度も渡航に失敗している。また元寇の際にも南宋の船団は操船に苦労し、遅延したという記載がある。東シナ海に出帆した漁師の食料の籾が、黒潮に流され、九州に漂着して、自生したという説がある。

朝鮮併合時代に、朝鮮半島は日本総督府によって隅々まで水稲栽培や治水整備がなされた。
韓国・朝鮮には農酒(マッコルリ)という濁り酒のような酒はあるが、それ以外に米を用いた紹興酒や清酒のような濾過した酒は今も昔も存在しない。
また、山口県豊北町の響灘にある土井が浜遺跡で弥生人の人骨が多数発見され、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系「新モンゴロイド」の特徴がありました。

彼らのルーツを求めて、朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極めてよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国だったという説が有力になりました。

したがって、弥生文化は、朝鮮半島からの移民だけだと考えるのはどうもおかしいのではないだろうかと思います。日本に稲作文化をもたらしたのは、中国江南から移住した弥生人だと思われるからです。

ところで、弥生時代の日本の人口は、稲作農耕の普及と国家の形成に伴って、人口はめざましく伸長し、5万9千人くらいになっていたと想定できるようです。

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