【環日本海の歴史】(6) 中国統一と徐福伝説

[catlist id=8 orderby=title order=asc]中国統一

中国北部の黄河地域に早くから漢民族が住み着き、農耕や牧畜を行っていました。約3500年前には殷(イン)という王朝がおこり、青銅器を祭器として用い、漢字の原型がつくられました。殷が亡び、かわっての時代になると、鉄製の兵器や農具が使われるようになりました。周が衰えると国内は分裂し、その後、戦乱の時代が長く続きました。この時代には多くの思想家があらわれ、政治のあり方を説きました。孔子はその一人で、その教えを儒教とよばれました。

中国を初めて統一したのは秦(シン)の始皇帝で、紀元前3世紀のことです。始皇帝は、強大な軍事力で、韓・魏・楚・燕・斉・趙の6ヶ国をすべて制圧して中国を統一し、自らを王の上に立つ者として「皇帝」の称号をはじめて名乗った人物です。重い刑罰で秩序を守るべきとする徹底的な専制政治をしき、数多くの大改革を断行、中国に統一国家の礎を築きました。この時代には、文字や貨幣が統一され、北方の遊牧民の侵入に対して万里の長城も整備されました。しかし、彼の政治はあまりにも厳しいものであったため、秦はすぐに滅んでしまいました。

かわって中国を統一したは、紀元前後400年にわたって栄え、大帝国を築きました。同じころ西洋で栄えていたローマ帝国との間に交易路が開かれ、中国の絹がローマに、西方の馬やブドウが中国に伝えられました。この交易路をシルクロード(絹の道)とよびます。インドの釈迦がおこした仏教も、紀元前1世紀ごろ、この道を伝わって中国にもたらされました。

徐福伝説

狩猟・漁労主体の縄文時代から、稲作をはじめ農耕社会の弥生時代へと変わる画期的な文明移行の過程に、いったい何が起こったのだろう。まずこの時代に相当する伝承として、その謎を解くひとつに「徐福伝説」があります。

この伝説は浦島太郎伝説と同様に全国に残っています。まったく根も葉もないところから伝説が生まれたり、長く語り継がれることはないとすると、紀元前200年ごろのことが語り継がれてきた徐福伝説を、単なる作り話だと軽率に否定することはできないと思います。縄文時代から弥生時代へと変わる過程の史実が隠されているのではないかと思います。

司馬遷が著した中国で最も古い歴史書である「史記」にこの一団の話が登場します。

秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、三千人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり戻らなかったとの記述があります。

『史記』は、紀元前100年頃に完成されたものと推定されていますが、非常に高い学術的権威をもった大著とされています。それは、記事や伝承の内容を著者司馬遷自身が現地を訪れ確認した上で収録している部分が非常に多く、そのため極めて真実性に富んだ史書とされているのです。徐福(じょふく)の事件は『史記』の完成わずか100年前の出来事なのです。

この「平原広沢」は日本であるともいわれています。実は中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し、その子孫は「秦」(はた)と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在するのです。もともと徐福は不老不死の薬を持って帰国する気持ちなどなかったかもしれません。万里の長城の建設で多くの民を苦しめる始皇帝の政治に不満をいだき、東方の島、新たな地への脱出を考えていたかもしれません。徐福らの大船団での旅立ちは一種の民族大移動かもしれないのです。

出航地については、現在の山東省から浙江省にかけて諸説ありますが、浙江省寧波市慈渓市が有力とされます。 途中、現在の韓国済州島(済州道西帰浦市・ソギッポ市:地名の由来は徐福が西(中国大陸)に帰って行った港との説もあります。)や朝鮮半島の西岸に立寄り日本に辿り着いたとされます。
『史記』の記事を見ると、徐福は始皇帝を甘言で欺いたペテン師のように書かれていますが、実情はおそらく違ったものであったのでしょう。

その後も徐福について、『漢書』の「郊祀志」および「伍被(ごひ)伝」、『三国志』の「呉志」および「孫権伝」、『後漢書』の「東夷列伝」、さらには『三斉記』『括地志』『太平御覧』『太平寰宇記』『山東通志』『青州府志』など、幾多の時代を通じ、中国の歴史文献に絶える事なく記載されています。

なのに、日本の史書である「記紀」以下の六国史にも徐福の記述はありません。しかしその後も、中国では徐福の渡海から1200年ほどが経過しても、徐福の日本渡来説が現れはじめます。釈義楚の『義楚六帖』によると、顕徳五年(958)日本僧弘順大師が、「徐福は各五百人の童男童女を連れ、日本の富士山を蓬莱山として永住し、子孫は秦氏を名乗っている。」と伝えたとあります。しかし、長い間、徐福伝説は実在の人物ではないと思われていました。
徐福のルーツ
ところが、1982年6月、「中華人民共和国地名辞典」の編纂作業を行っていた、徐州師範学院地理系教授の羅其湘氏は、江蘇(こうそ)省・かん楡(ゆ)県の地名の中に「徐阜(じょふ)村」という地名を発見しました。今更地名が発見されるところに中国らしさを感じますが、同氏は、江蘇省において徐福が住んでいたと伝わる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、実在した人物だとしています。この村が清朝乾隆(けんりゅう)帝以前には確かに「徐福村」と呼ばれ、「徐福」の伝承が残っている事をつきとめました。

その後、プロジェクト・チームが現地に入り、村に残る「徐副廟」を調査したところ、驚くことに、その村には現在も徐福の子孫が住んでいました。代々、先祖の徐福について語り継がれてきたそうです。大切に保存されていた系図には徐福が不老不死の薬を求めて東方に行って帰ってこなかったことが書かれていました。そして古老の語る次の伝承を採録しました。

「徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。『私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや「徐」姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう「徐」姓は名乗ってはならない。』それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。」

全国各地に残る徐福伝説地

日本では徐福渡来にまつわる話が全国各地に伝わります。佐賀県内数ヵ所、鹿児島県串木野、青森県八戸・小泊村、宮崎県、三重県熊野市、和歌山県新宮市、山梨県富士吉田市、京都府与謝郡伊根町、愛知県などが有名です。

東シナ海を出た船は、黒潮(日本海流)か対馬海流に乗れば、沖縄・九州、日本海沿岸、太平洋沿岸のどこかにたどり着きます。ある船は対馬海流に乗って韓国済州島や対馬・壱岐、九州北部から丹後、北陸、東北日本海側の地方まで、またある船は黒潮に乗って四国や熊野灘に面した紀伊半島や伊勢湾・三河湾、遠州灘に面した地域や伊豆半島、八丈島など各地に流れ着いたのだろうといわれています。

東シナ海を大船団なのでひとかたまりで動くことはなく、ある船は対馬海流に乗って東北地方まで、またある船は黒潮に乗って熊野灘に面した紀伊半島や伊勢湾・三河湾、遠州灘に面した地域や伊豆半島、八丈島などにばらばらに流れ着いたはずです。

まず辿り着くのは九州の長崎・佐賀・福岡、もしくは黒潮に乗れば鹿児島西部か四国南部・紀伊半島でしょう。伝説として土地にとけ込んで語り伝えられているのは、中国からも近い佐賀県のようです。

佐賀市金立(きんりゅう)山には、徐福が発見したとされる「フロフキ(名前の由来は不老不死か?)」という植物が自生します。フロフキは、カンアオイ(寒葵)の方言名で、金立地区では、その昔、根や葉を咳止めとして利用していたといいます。

紀伊半島の熊野にある徐福渡来伝承地は、和歌山県新宮市と三重県熊野市波田須(はだす)の2ケ所です。どちらにも徐福の宮と徐福の墓があります。

日本海側では丹後半島の網野と伊根には、紀伊半島の熊野・伊勢地方と同名や似た地名・神社が多いことに気が付く方は多いのではないでしょうか。まるで鏡を置いて写したような偶然です。豊橋市にも熊野神社があります。もとは「秦住」と書かれており徐福の上陸地点であり,徐福が住み着いた場所でもあります。

佐賀県徐福会のHPによると、「吉野ヶ里から発見された絹は、京都工芸繊維大学名誉教授の布目順郎氏の鑑定によると前二世紀頃江南に飼われていた四眠蚕の絹であり、当時の中国は養蚕法をはじめ、蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じていたので、それが最初に国外に出たことを確認できたのが日本で、しかも北部九州であると述べており、さらに吉野ヶ里から出土した人骨が江南の人骨に似ているということから、貝紫や茜で染められた薄絹をまとっていた、佐賀平野の弥生人は、徐福の子孫ではないかと。佐賀に伝わる徐福伝説を考える点で興味深いものです。日本での徐福やその子孫は「徐」の姓を使わず,故国の「秦」から機織り、秦、幡、波田,波多,羽田,畑など「ハタ」と読む漢字をあてて名乗っていたようです。

2009/08/28

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