【出雲神政国家連合】 物部氏の謎1.幻の神政国家“出雲”

物部氏の謎

神武東征の謎: 「出雲神話」の裏に隠された真相 著者: 関裕二

幻の神政国家“出雲”三百九十九社の三つの時期
399社のうちの184社が、神祇官の神社台帳に登録された政府公認の神社であったことを意味する。そのような政府公認の神社は、「式内社」とよばれる。それは、延長五(927)年に完成された『延喜式』の中の、神祇官に関する規定に盛り込まれた「神名帳(じんみょうちょう)」に登録されたことに基づく名称である。

出雲国の式内社の数は、大和国の286座、伊勢国の253座についで多い。しかし、大和朝廷の本拠である大和や伊勢神宮のある伊勢では、大部分の神社が官社とされていた。

そのことからみて、官社以外のものを含めた神社の数では、出雲国が日本一であったと考えられる。さらに、出雲では『出雲国風土記』にみえない山川海野の神々が祀られていた。天武ニ(673)年に語猪麿の娘がサメに殺された話がある。このとき猪麿は、

「天神(あまつかみ)千五百万はしら、地祀(くにつかみ)千五百万はしら、ならびに当国に鎮まります三百九十九社、また海若(わたつみ)たち」

に娘の仇を討ってくれるように祈ったとある。前に掲げた出雲の399社の神社のほかに、海に関する出来事について、人々を守る多くの海の神ワタツミがいるとされたのだ。

399社という神社の数は重要である。それは荒神谷で発見された銅剣の数358と同じ意味をもつもので、ある時期の出雲の首長の総数を示すものだ。それらの神社の数は多彩である。出雲神話に出てくる神、そうでない土着的神々、大和朝廷がつくった高天原神話に登場する神などがいる。さらに、渡来系の韓神(からかみ)もみられる。
そして、そのような神々のあり方を整理すると、それらが三つの段階を経て展開していることが明らかになる。

鶴丸英雄氏は、
1.国津神の大物主命
2.天津神のオオナムチ(大己貴)
3.天津神の少彦名(天皇家)

1番目の大物主
増す名前から原始宗教の「物には神が宿る」思想に基づき、「物」の前後に「大」と「主」をつけていることから、明らかに国津神を想像します。そして天津神の崇神天皇に祟ったことからも、明らかに国津神です。では大物主の正体は誰でしょうか。単純に考えれば、この地で不幸な死に方をした人になり、それは神話からいえばニギハヤヒに殺されたナガスネビコになります。

2番目のオオナムチ(大己貴)
この神はオオクニヌシ(大国主)と同一神といわれています。
『消された王権・物部氏の謎: オニの系譜から解く古代史』 著者: 関裕二
大和最大の聖地・三輪山の大神神社の祭神は大物主神である。大和朝廷の最大の聖地が出雲神なのだ。
出雲神が鬼であったことは、いくつかの例から割り出すことができる。
たとえば、出雲を代表する神の一人、大物主神は葦原醜男(あしはらしこお)ともよばれ、この二つの名の中に、“鬼”を示す言葉が隠されている。

鬼が“オニ”と訓じられるようになったのは平安朝以降で、それまでは鬼は“モノ”“シコ”“カミ”と訓じられていた。したがって、大物主神の“モノ”、葦原醜男の醜“シコ”は、鬼そのものであった可能性が高いのである。西郷信綱氏はこの「しこを」について、彼を鬼類・魔性のものと見なしていたためで、たんに醜い男ということではない。(『古事記注釈』)と述べている。
大和最大の聖地・三輪山の神は、蛇とも雷ともいわれ、大物主神と同体とされるが、雷といえば虎のパンツをはいて太鼓を打ち鳴らす典型的な鬼の姿を思い浮かべるように、古代、雷は祟りをもたらす鬼として恐れられていた。

したがって、三輪の雷神・大国主神は、鬼であったことになる。
さらに、『日本書紀』も、出雲神が鬼であったことを認めている。
出雲神話は、高天原から追放されたスサノオが国津神と同化し出雲を建国した話や、この出雲を天照大神ら天津神が譲り渡しを強要した話から成り立っているが、ここで『日本書紀』は、天津神の言葉として、地上界には“邪(あ)しき神”がいて、この神々は同時に“邪しき鬼”であったとしている。

このとき地上にいた神は出雲神であり、彼らが鬼と見なされていたことは間違いない。鬼はまつろわず(祭らず)征服される者。だから天津神に征服された出雲神が鬼であったことは、まったく矛盾しない。問題は、その後の天皇家の生き様である。

悪の代名詞“鬼”を懲らしめたあとに、なぜ天皇家は過剰ともいえるほどの畏敬の念を、この鬼どもに持つ続けたのであろうか。しかも、この鬼を建国の記念に祀っているのは何故だろう。
一つの推理として、出雲の怨霊を恐れ、これを祀ったのではないかと考えることができる。
“出雲”は実在しないと一般にいわれるが、たとえそうであっても、天皇家が大和に王朝を開くに当たっては、少なからず手を汚し、まつろわぬ者どもを退治したはずだ。

権力を握った者が、その過程で滅びた者たちの遺恨を恐れ、これを祀るのは世の常であろう。とするならば、天皇家の出雲重視は、滅び去った者の名を正史にとどめることができず、“出雲”という架空の存在に見立てて祀ったと推理することも可能なのである。

大和岩雄氏は、「大国主神の名前の変化に注目している。大国主は記・紀では大穴牟遅(おほなむぢ)神とも名乗るが、「根の国」(中略)に行ったとたん、この大穴牟遅の名は葦原色許男に変わっている。根の国には黄泉の国のイメージがあり、(中略)この国から逃げて黄泉比良坂(よもつひらさか)を抜け出ると、大国主に名を変えている。

大国主神は、黄泉国にいるときにのみ「しこを」を名乗っており、「しこめ」は「黄泉(よも)」がつくように、黄泉国にいる「しこめ」である。いずれも「しこ」は死の国にかかわっている。
「しこ」の漢字表記に「鬼」を用いたのは「しこ」が死の国とかかわる言葉だったからであろう。」と推論している。

祟りにおののく神・天皇家

“怨霊”という言葉を不用意に出せば、そのような概念は『日本書紀』の記されたこの当時、まだ日本には伝わっていなかったという反論が出てくるであろう。

しかし、“出雲”が天皇家に祟ったことは、『日本書紀』そのものが認めていることであった。
崇神天皇六年の条には、国内に疫病がはやり多くの人々が死んだこと、農民らが土地を離れ、背く者まで現れ、困り果てた天皇は、翌七年、占いによって神託を得ようとしたことが記され、さらにこのとき大物主神が現れ、自分を祀ることを崇神天皇に命令したとある。

天皇はさっそくこの神を祀るが、験(しるし)がない。そこでもう一度大物主神にお伺いを立てると、国が治まらないのは大物主神の意志であること、もし子の大田田根子なる人物をもって祀らせれば、おのずから世は平らぐ、ということなので、天下に告げて大田田根子を探し出させ大物主神を祀らせたところ、神託通り世は平静を取り戻したという。

ここでは出雲神・大物主神が明らかに祟っており、また『古事記』は、崇神天皇の子・垂仁天皇の時代の別の話の中で、「その祟りは出雲の大神の御心なりき」と、出雲神が祟り神であることを明示している。
天皇家の異常ともいえる出雲偏重は、“出雲神の祟り”のおびえていたからであることは間違いないだろう。天皇家は“鬼”の出雲を退治し征服したのち、逆に“鬼”の毒気、祟りを恐れるあまり、皇祖神そっちのけで、鬼の怒りを鎮めることに躍起になったのであった。

神と鬼を結ぶ“モノ”の意味

神の末裔であり、神そのものでもある天皇が、神ではなく鬼を最も重視し、祀っていた不可解さ。しかも、天皇という王権には、さらに不思議な謎が横たわる。
神と鬼という正反対の存在が、なぜ同一なのか。そしてなぜ、神が鬼を祀らねばならなかったのか。
じつはこの奇妙な現象のなかに、天皇家の不可侵性をめぐる謎が隠されていたといっても過言ではない。そして、この現象を理解するためには、“鬼”とはそもそも何であったかを知っておく必要がある。
そこで注目されるのが、鬼の本来の呼び名“モノ”なのである。
“モノ”は“物”であるが、なぜ“物(物質)”が“鬼”なのかは、現代的な感覚では非常に分かりづらい。ただ“モノノケ(物怪)”といえば妖怪、霊などを意味するところから、“モノ”は物質であると同時に、“非物質”的な要素を兼ね備えていたのではないだろうか。

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