【出雲神政国家連合】 古代出雲1/4 プレ魏志倭人伝 スサノオ

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放送大学客員教授・東京大学大学院教授 佐藤 信氏の『日本の古代』の冒頭を要約してみれば、

日本列島の古代史像は、近年大きな進展を見せている。その背景には、古代の遺跡についての考古学的な発掘調査の成果が積み上げられ、木簡をはじめとする出土文字史料など様々な新資料が発見されて、新しい知見が得られてきたことである。また、世界がグローバル化する動向の中で、改めて東アジア的な視点から中国・朝鮮半島・日本列島・北方・南方の歴史を幅広く見直すようになったこと、日本列島のそれぞれの地域の歴史が掘り起こされて、多元的な地域間の交流が注目されるようになったことなど、古代史を古代国家中心の一元的な歴史観で割り切ってしまわないという姿勢が広まっていることも大きな動きといえよう。

(中略)

東アジアの国際関係に留意しつつ、それぞれの時期・地域の古代史像を雄弁に物語ってくれる「史料」と「史跡」(遺跡)に焦点をあてることに重点を置きたいと思う。

日本列島古代史を展望する上で留意しておきたいのは、まず第一に、古代史を(ヤマト政権という)古代国家中心の一元的な歴史に限定してとらえるわけにはいかないという点である。近代の「国民国家」とは異なって、日本列島には日本列島には琉球王国の歴史や、北海道(東北含む)のアイヌの人々の歴史なども存在しており、あらかじめ単一の日本国家が存在していたわけではなかった。「日本」という国号も七世紀以前の「倭」にかわって歴史的に形成されたものであるし、近代的な意味での「国境」もなく、多様なレベルの地域間交流が展開していた。

◇概 要

出雲とは、稜威母(イズモ)という、日本国母神「イザナミ」の尊厳への敬意を表す言葉からきた語、あるいは稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、その源流とするという説があります。ただし歴史的仮名遣いでは「いづも」であることから、出鉄(いづもの)からきたという説もあります。

はじめて日本に関するまとまった記事が書かれているとされる3世紀末(280年-290年間)に書かれた中国の正史『三国志』中の『魏書東夷伝』(略称:魏志倭人伝)は、当時の倭(後の日本)に、邪馬台国を中心とした小国(中国語でいう国邑=囲われた町)の連合が存在し、また邪馬台国に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。また、本書により当時の倭人の風習や動植物の様子がある程度判明しており、弥生時代後期後半の日本を知る第一級史料とされている。

しかし、必ずしも当時の日本の状況を正確に伝えているとは限らないこと、多様な解釈を可能とする記述がなされていることから、邪馬台国に関する論争の原因になっている。

魏より後の梁(502年から557年)の歴史を記した歴史書『梁書』にはじめて倭・文身国・大漢国・扶桑国など、倭国らしき国名があらわれます。それには倭には古代は奴国(九州北部?)・文身国(出雲・伯耆・因幡?)、大漢国の一部で、丹国(但馬・丹後・丹波)と若狭・越国?と比定して各国(クニ)へと大陸文化が伝わっていったと考えられます。

出雲は神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出方墳や出雲神話への影響が認められます。

スサノオ

『記紀』神話中、最大にして最強の巨神、出雲の荒ぶる神スサノオ尊(素戔嗚尊・須佐之男尊)(すさのおのみこと、以下、スサノオ)です。スサノオは「尊」[*1]としています。本文で、大悪人のごとく記述しているにもかかわらず、スサノオやオオクニヌシの記載が多いのはどういうわけなのでしょうか。

弥生時代の1世紀ころ、百余国もあった日本列島のクニ(といっても日本の一部であろうが)の中で、スサノオ族を中心に結束した九州北部の「奴国?」が、徐々にクニとして頭角を現してきたのです。現在の博多付近に存在したと推定されています。

スサノオの建国した国は、まだ中央集権国家ではなく、豪族の合議・クニの連合体でした。『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与されたとあり、江戸時代に農民が志賀島から「漢委奴国王」と刻まれていた金印を発見し、倭奴国が実在したことが証明されました。委国の委は、倭の人偏を省略したもので、この場合は委=倭です。

スサノオ尊は、小諸国を統一して国造りに努めただけでなく、住民の生活向上に心を配り、様々な事柄を開発・創始し、御子や部下たちを各地に派遣して国土開発や殖産興業を奨励し、人材を適材適所に登用する優れた指導者でもありました。思えば、スサノオは日本列島に初めて国らしき国を創建した建国の始祖王だったのかもしれません。

筑紫では日向を連合させたとき、伊弉諾尊(いざなぎ)の娘・向津姫(むかつひめ、記・紀の天照大神)を現地妻として娶(めと)り、豊国の宇佐や日向の西都に政庁を置きました。そして、各地に御子・八島野(やしまぬ)尊・五十猛(いたける)尊・大歳(おおとし)尊・娘婿の大己貴(おおなむち)尊(大国主)や部下を配置して統治させました。

政情がほぼ安定したのを見定めて、筑紫(ちくし)から讃岐(さぬき)に遷(うつ)って、北九州から瀬戸内地方を統治していた大歳(おおとし)尊に、河内・大和に東遷(とうせん)して、以東の国々を統合するよう命じ、故郷・出雲に帰って亡くなられた。ときに65歳、BC124年頃とみています。

スサノオの御陵は八雲村大字熊野(現・松江市八雲町熊野)にある元出雲国一の宮・熊野大社の元宮の地とされ、「神祖熊野大神櫛御気野尊(かむおやくまのおおかみくしみけぬのみこと)」の諡号(しごう)で祀られています。神のなかの祖神(おやがみ)です。

大同五(810)年正月、嵯峨天皇は、「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり」として、スサノオ尊を祀る津島神社(愛知県津島市)に日本総社の号を奉られ、また一条天皇は、同社に天王社の号を贈られました。  当時の天皇は、『記紀』に
中国の史書・「宋史」の日本伝は、神武天皇(記・紀では初代天皇)の六代も前に、スサノオを国王としてはっきりと記しています。

ようやく九州北部にもクニが誕生しきて、大陸の統一国家「漢」への朝貢は、満を持してのことだったはずです。そして、初代奴国王こそ、スサノオの父でしょう。当然、他に百余国もあるのだから、妨害工作や、先に朝貢を試みた諸国は他にもあったと考えられますが、『漢書』に、「奴国」以外の朝貢の記述が無いことから、諸国も納得せざるを得ないほど、「奴国」は強大な国になっていたのでしょう。また、稲作が九州北部ではじまったことなどから、スサノオは、九州で生まれていると思われます。

そして、初代奴国王である父から、王位を引き継いだスサノオの時代がおとずれます。推定、紀元前97年のことです。九州北部から中国地方の出雲に勢力を広げます。

『古代日本正史』の著者、原田常治氏は、『記紀』という人造亡霊からは、真の古代史などわからない、という一念から、その資料を奈良県の「大神神社」(おおみわじんじゃ)に始まり、全国の『記紀』以前の、創建の神社に求めたのです。

原田氏は、神社名と主祭神との比較検討から、本来祀られていた真実の神を発見し、それら神社の由来を調査した結果、一本の歴史ストーリーを完成させています。同様の手法は、『消された覇王』の著者、小椋一葉氏も採用され、同じ結論に到っています。

それによれば、スサノオは、ヤマト朝廷が成立する以前に、出雲王朝を成立させていた、日本建国の始祖であり、讃え名を「神祖熊野大神奇御食野尊」(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)と言います。

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