第2章 2.『但馬故事記』に詳しい天日槍の足取り

2. 『国司文書 但馬故事記』に詳しい天日槍の足取り

『国司文書 但馬故事記』は、天日槍来朝の叙述や、その子孫の記録は、他書を抜いて最も詳しく、まことに貴重な資料である。
ことに、神功皇后すなわち息長帯姫命おきながたらしひめのみことの母系先祖との関係、および稲飯命の子孫と称せられる新羅王の系譜についても、相当詳しい叙述を行なっている。

-「『国司文書 但馬故事記』訳注」吾郷清彦-

『記紀』はくわしく記していないが、『国司文書 但馬故事記(第五巻・出石郡故事記)』はこれをくわしく記している。現代語にしてみた。

第6代孝安天皇の53年(前340年)*1 新羅の王子 アメノヒボコが帰化した。

ヒボコは、ウガヤフクアエズ(鵜葺草葺不合命)の御子・イナイ(稲飯命)の五世孫なり。

ウガヤフクアエズは、海神・豊玉命の娘・タマヨリヒメ(玉依姫命)を妻にし、イツセ(五瀬命)・イナイ(稲飯命)・トヨミケ(豊御食沼命)・サノ(狭野命)を生みました。

父君のウガヤフクアエズが崩御された後、世嗣よつぎのサノ(狭野命)は、兄たちとともに話し合い、皇都を中州なかつくに*1に遷したいと願い、船師*2を率いて、浪速津なにはつ(大阪湾)に至り、山跡川(大和川)をさかのぼり、河内の国・草香津くさかづ(東大阪市日下)に泊まりました。

まさに山跡(大和)に入ろうとした時、山跡国登見ヤマトノクニノトミ(奈良市)の酋長、ナガスネヒコ(長髄彦)は、天津神の子、ニギハヤヒ(饒速日命)を奉じて、兵を起こし、皇軍を穴舎衛坂クサカエザカ(東大阪市日下)にて迎え討ちました。

しかし、皇軍に利はありませんでした。サノ(狭野命)の兄、イツセ(五瀬命)に流れ矢があたり亡くなってしまいました。サノは、兄たちとともに、退いて海路をとることにしました。

まさに紀の国(和歌山県)に出ようとしたとき、暴風に逢ってしまいました。イナイ、トヨミケは、小船に乗りながら漂流し、イナイは、シラギ(新羅)*3に上り、国王となり、その国に留まりました。トヨミケは、海に身を投げて亡くなられてしまいました。

世嗣のサノは、ついに熊野に上陸し、イツセを熊野碕に葬り、進んで他の諸賊を誅し*4、ついでナガスネヒコを征伐しました。

ニギハヤヒの子、ウマシマジ(宇摩志麻遅命)は、父にすすめてナガスネヒコを斬り、出(い)でて地上に降りられました。中州はことごとく平和になりました。

世嗣のサノは、辛酉(かのととり)の年*5、春正月元日、大和橿原宮に即位し、天下を治め給う。これを神武天皇と称します。

(中略)

ヒボコは、八種の神宝を携え、御船に乗り、秋津州(あきつしま・本州の古名)に来ました。筑紫(九州北部)より穴門(下関の古名)の瀬戸を過ぎ、針間国(播磨)に至り、宍粟邑(しそう・今の宍粟市一宮町)に泊まりました。人々は、この事を孝安天皇にお知らせしました。

天皇は、すぐに三輪君の祖・オオトモヌシ(大友主命)と、倭直やまとのあたえの祖・ナガオチ(長尾市命)を針間国(播磨)に遣わし、来日した理由を問うようにいわれました。

ヒボコは、謹んで二人に向かって話しました。

「わたしは、新羅王の子です。我が祖は、秋津州(日本の本州)の王子・イナイ(稲飯命)。そしてわたしに至り、五世に及びます。
ただいま、秋津州(本州)に帰りたいと欲して、わが国(新羅)を弟の知古に譲り、この国に来ました。願わくば、一畝(ひとつのうね)の田を賜り、御国の民とならせてください。」と。

二人はかえり、この事を天皇に奉じました。天皇は勅(天皇の命令)して、針間国宍粟しさわ・しそう邑と淡路国出浅いでさ邑とをヒボコに与えました。
天日槍は、再び奏していました。

「もし、天皇の恩をたまわれれば、家来らが諸国を視察し、者たちの意にかなうところを選ばせてください。」と。

天皇はそれを許可しました。ヒボコは、菟道川(宇治川)をさかのぼり、北に入り、しばらく近江国の吾名あな邑に留まりました。さらに道を変えて、若狭を経て、西の多遅摩国(但馬)に入り、出島いずしま*6に止まり、住処(居所)を定めました。

ところで、近江国の鏡谷陶人かがみだにのすえとは、天日槍の従者で、よく新羅風の陶器を作ります。

さて天皇は、ついに天日槍命に多遅摩を賜りました。(但馬を与えた)

61年春2月、ヒボコを多遅摩国造としました。

ヒボコは、御出石県主ミズシアガタヌシ・アメノフトミミ(天太耳命)の娘・マタオ(麻多鳥命)を妻にし、アメノモロスク(天諸杉命)を生みました。

 

[註]

*1 中洲・葦原中国(あしはらのなかつくに)
 日本神話において、高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界、すなわち日本の国土のことである。
 *2 船師 江戸時代から明治初期にかけて、廻船を所有して海運活動を行った商人。船の運行に長けた人々のことだろう。

*3 新羅 稲飯命の頃に、半島南部は韓といって、空白地帯に縄文人や弥生人の倭人が住んでいた。三韓(馬韓・弁韓・辰韓)以前で当然国として弁韓に伽倻・任那など12のクニがあった。新羅国も12のクニがあったとされており、弁韓と辰韓は入り乱れており、伽倻に近いところに新羅というまだ小さなクニがあったかも知れない。やがて北部の中国の朝貢国高句麗がその後押しで南下し。漢族・ワイ族など朝鮮系の入植が進み、倭人の子孫との間に婚姻も進む。日本列島は朝鮮渡来人から発展したのではなく、まったく逆であり、半島が倭人が王となってから発展したので、倭に朝貢していた。その半島に渡った子孫の中に帰国して人もいただろう。)


*4  誅 目上の者が目下の者の罪をとがめ殺すこと。
*5 辛酉(かのととり)の日 西暦年を60で割って干支の組み合わせの58番目
*6 出島 今の出石町伊豆・嶋のことではないかと思っている。

つまり、『国司文書 但馬故事記』によると、稲飯命は古代日本の天皇家の皇統とある。これは日本書紀の引用であろうが、天日槍命は人皇初代神武天皇の兄、稲飯命の五世孫で、稲飯命は倭国のひとつである新羅王になったのだから、当時の半島南部は、任那・伽倻で倭国の一部で朝貢国であったろう。その一国から新羅が生まれ、記紀編纂の頃には百済・新羅という国は成立していたが、垂仁天皇3年の頃は新羅という国も半島南部に国家らしきものは全くなく、小さな(クニ)であった。紀は説明がわざと省いたのか「新羅国の王子」のまえに、「今で言う新羅国のあたりの王子」が省かれている。いや友好的な百済国ならまだしも、敵対国で名を記すのも憚れる新羅の王子としたのは、ある意図があったのかも知れないのである。

『但馬故事記』八巻の中で、円山川水系の朝来郡・養父郡・気多郡・城崎郡の各故事記が天火明命あめのほあかりのみことで始まるのに、二方郡のみ書き出しが、大己貴命が出雲国から伯耆・稲葉(因幡)・二方国を開き、多遅麻に入り、伊曾布・黄沼前・気多・津・薮・水石の県を開いで始まり、出石郡は、大己貴命と稲葉(因幡)の八上姫の間に御出石櫛甕玉命みずしのくしかめたまのみことが生まれる。御出石櫛甕玉命は、天火明命の娘・天香山刀売命あめのかぐやまとめのみことを娶り、天国知彦命を生み、天国知彦命が初代の御出石県主みずしのあがたぬしとなる。

ところが、突如脈略もなく、天日槍が出石に現れて、御出石県は伊豆志(出石)となり、出石は一県から但馬の政治の要となり今の出石神社あたりへ遷っている。

記述が異なるのは、天火明命が但馬に入る以前より、出雲勢力の御出石県・二方県があって、人皇6代孝安天皇53年、突如天日槍が登場し、初代多遅麻国造なる。御出石県主・天太耳命の娘・麻多鳥命を娶り、天日槍の子天諸杉命あめのもろすくのみことを以って、2代多遅摩国造と為す。政略結婚によって皇統の国造が気多郡に多遅麻国の府が遷るまで歴代続く。朝廷側に組み入れられたと考えなくもない。これは丹波から但馬が分国し、直轄領(天領)的に、大和政権化に組み入れられたのかも知れないが、日本海の最前線として但馬の重要性が増したのではないだろうか。

丹波と大和朝廷の関係が深くなるのは、天日槍が初代多遅麻国造になる6代孝安天皇(長浜浩明氏の算定で在位期間:西暦60-110年)これより3代のちの人皇9代開化天皇(同じ算定では178-207年)からで約100年後となる。

皇后は伊香色謎命(いかがしこめのみこと) 元は孝元天皇の妃。
一番目の妃に丹波竹野媛(たにわのたかのひめ、竹野比売) – 丹波大県主由碁理の娘。
二番目の妃:姥津媛(ははつひめ、意祁都比売命)姥津命(日子国意祁都命、和珥氏祖)の妹との第三皇子が彦坐王(ひこいますのみこ、日子坐王)

人皇11代垂仁天皇(在位:290-242)が、皇后に彦坐王の女:狭穂姫命(垂仁天皇5年に焼死したとされる)
後の皇后に彦坐王の子・丹波道主王の女・日葉酢媛命
妃:渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ。日葉酢媛の妹)
妃:真砥野媛(まとのひめ。日葉酢媛の妹)
妃:薊瓊入媛(あざみにいりひめ。同上)
(他に、3人の妃が他の国から来ている)


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