第2章 1.記録に残された天日槍の足取り

この章では、ヒボコが辿った足取りを、

(史書の)アメノヒボコに関連する記事は、八世紀の初めに編纂された『古事記』および『日本書紀』(以下『記』『紀』、合わせて『記紀』)に記録されたものが、現在伝えられる最古のものである。

『記』が少し早くて和銅五年(712)、『紀』がその八年後の養老四年(720)、ほとんど同じ頃の成立だ。じつは『記紀』は共にそれまで各氏族に伝わっていた「帝紀」(天皇や皇后、皇子女の系譜)・「旧辞」(昔物語)を元にして、それを天皇家および国の歴史にふさわしく編集し直したものだったから、最古といわれるけれど厳密には誤りである。原典は、六世紀の前半、継体・欽明天皇の頃には最初に文章化されていたと推定されている。(中略)

それにヒボコの渡来伝承は、さらにいくつかの神話をベースにして成立したものであり、その起源をたどっていくと海を渡り、朝鮮半島を北上し、やがて大陸へとつながっていく。

(中略)

日本史は朝鮮半島や中国に起源があるものだという歴史学者の思い込みがあるが、この書が発売された平成9年(1997)、まだ20年前でさえ、そういう固定概念が大勢を占めていたのだから、仕方がない。

以降の解釈は、編者の想像を含んでおり、またこの他にヒボコについて記録された『播磨国風土記』にあるヒボコと伊和大神の土地争いについては第3章にゆずる。

 

1.記紀に記された天日槍の足取り

『古事記』

応神天皇記 [現代語訳]

今よりもっともっと昔、新羅の国王の子の天之日矛が渡来した。

新羅国には「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」という名の沼があり、そのほとりで卑しい女がひとり昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事をうかがっていた卑しい男は、その赤玉をもらい受ける。しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかととがめられたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した。

天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。しかしある時に天之日矛がおごって女をののいると、とうとうたまりかねて、

「私はもう親たちの国へ帰ります。」と言って、天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾(ひめごそ)の社の阿加流比売神であるという(大阪府大阪市の比売許曾神社に比定)。

天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が遮ったため入ることができなかった。そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた。この七代目の孫にあたる高額媛という方がお生みになられたのが息長帯比売命(神功皇后:第14代仲哀天皇皇后)です。

また天之日矛が伝来した物は「玉津宝(たまつたから)」と称する次の8種、

  • 珠 2貫
  • 浪振る比礼(なみふるひれ)
  • 浪切る比礼(なみきるひれ)
  • 風振る比礼(かぜふるひれ)
  • 風切る比礼(かぜきるひれ)
  • 奥津鏡(おきつかがみ)
  • 辺津鏡(へつかがみ)

であったとする。そしてこれらは「伊豆志之八前大神(いづしのやまえのおおかみ)」と称されるという(兵庫県豊岡市の出石神社祭神に比定)。

 

『日本書紀』

『日本書紀』垂仁紀3年条(二十六)

昔有一人 乘艇而泊于年但馬國 因問曰 汝何國人也 對曰 新羅王子 名曰 天日槍 則留于但馬 娶其國前津耳女 一云 前津見 一云 太耳 麻拖能烏 生 但馬諸助 是清彥之祖父也

[現代語訳] 昔、一人がいました。おふねに乗って但馬国に泊まりました。それで(但馬国の人がその船に乗っている人に)問いました。
「お前はどこの国の人だ?」
答えていいました。
「新羅の王こしきの子で、名を天日槍といいます」
但馬に留まって、その国の前津耳まえつみみ、ある伝によると前津見まえつみ、ある伝によると太耳ふとみみの、娘の麻拕能烏またのおを娶めとって但馬諸助たじまのもろすく(但馬故事記は天諸杉命)を生みました。これが清彦すがひこ(5代多遅麻国造) の祖父です。

『日本書紀』では、垂仁天皇3年(BC27年)春3月、新羅の王の子であるヒボコが、羽太はふとの玉を一つ、足高あしたかの玉を一つ、鵜鹿鹿うかか赤石あかいしの玉を一つ、出石の小刀を一つ、出石のほこを一つ、日鏡ひかがみを一つ、熊の神籬ひもろぎ[*1]を一揃え謁見してきた。(八種神宝)

それを但馬の国に納めて神宝とした。

一説によると、三輪君みわのきみ[*3]の祖先にあたる大友主おおともぬし[*4]と、倭直やまとのあたい[*5]の祖先にあたる長尾市ながおち[*6]を遣わした。大友主が「お前は誰か。何処から来たのか。」と訪ねると、ヒボコは「私は新羅の王の子で天日槍と申します。「この国に聖王がおられると聞いて自分の国を弟の知古ちこに譲ってやって来ました。」

天皇は、初めは、播磨はりま宍粟邑しそうむら[*7]と淡路あわじ出浅邑いでさのむら[*8]を与えようとしたが、「おそれながら、私の住むところはお許し願えるなら、自ら諸国を巡り歩いて私の心に適した所を選ばせて下さい。」と願い、天皇はこれを許した。ヒボコは宇治川を遡さかのぼり、北に入り、近江国の吾名邑あなむら、若狭国を経て但馬国に住処すみかを定めた。近江国の鏡邑かがみむらの谷の陶人すえびとは、ヒボコに従った。

但馬国の出嶋いずしま[*9]の人、太耳の娘で麻多烏またおを娶り、但馬諸助もろすくをもうけた。諸助は但馬日楢杵ひならきを生んだ。日楢杵は清彦すがひこを生んだ。また清彦は田道間守たじまもりを生んだという。

『日本書紀』によると、ヒボコはひとりの童女阿加流比売アカルビメ神を追って日本にやってくるのであるが、その童女はヒボコに「私は親の国に帰る」と叫ぶのだ。

『古事記』応神天皇記では、その昔に新羅の国王の子の天之日矛が渡来したとし、アカルビメは、新羅王の子であるヒボコ(アメノヒボコ)の妻となっている。この話は『日本書紀』のツヌガアラシト来日説話とそっくりなのである。

[註]
*1…神籬(ひもろぎ)とはもともと神が天から降るために設けた神聖な場所のことを指し、古くは神霊が宿るとされる山、森、樹木、岩などの周囲に常磐木(トキワギ)を植えてその中を神聖な空間としたものです。周囲に樹木を植えてその中に神が鎮座する神社も一種の神籬です。そのミニチュア版ともいえるのが神宝の神籬で、こういった神が宿る場所を輿とか台座とかそういったものとして持ち歩いたのではないでしょうか。
*2…八種類 『古事記』によれば珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種。これらは現在、兵庫県豊岡市出石町の出石神社にヒボコとともに祀られている。いずれも海上の波風を鎮める呪具であり、海人族が信仰していた海の神の信仰とヒボコの信仰が結びついたものと考えられるという。
「比礼」というのは薄い肩掛け布のことで、現在でいうショールのことです。古代ではこれを振ると呪力を発し災いを除くと信じられていた。四種の比礼は総じて風を鎮め、波を鎮めるといった役割をもったものであり、海と関わりの深いもの。波風を支配し、航海や漁業の安全を司る神霊を祀る呪具といえるだろう。こういった点から、ヒボコ神は海とも関係が深いといわれている。
*3 三輪君(みわのきみ)…初めは姓(カバネ)の三輪君だったが、大神氏と名乗る。大神神社(奈良県桜井市三輪)をまつる大和国磯城地方(のちの大和国城上郡・城下郡。現在の奈良県磯城郡の大部分と天理市南部及び桜井市西北部などを含む一帯)の氏族。天武天皇13年(684年)11月に朝臣姓を賜り、改賜姓五十二氏の筆頭となる。飛鳥時代の後半期の朝廷では、氏族として最高位にあった。三輪氏あるいは大三輪氏とも表記する。
*4 大友主(おおともぬし)…「日本書紀」にみえる豪族のひとつ。三輪(みわ)氏の祖。
*5 倭直(やまとのあたい)…椎根津彦を祖とする。のち倭氏
*6 長尾市(ながおち)…市磯長尾市(いちしのながおち)。大倭直の祖。名称の「市磯」は、大和国十市郡の地名(奈良県桜井市池之内付近)とされる。出石神社代々の神官家は長尾家。
*7 穴栗邑…兵庫県宍粟市
*8 出浅邑 (いでさのむら)…「ヒボコは宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て…剣でこれをかき回して宿った。」とあるので、淡路島南部 鳴門の渦潮付近か?
*9 出嶋(イズシマ)…兵庫県豊岡市出石町の今の伊豆・嶋。イズシマから訛ってイズシになったのかも知れない。または、出石の古名である御出石(ミズシ・水石とも書いた)をさすのかも知れない。

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