たじまる あめのひぼこ 7

天日槍は伽耶(カヤ)の人

1.天日槍は新羅の王子ではない

垂仁天皇在位は、三世紀後半から四世紀にかけてと思われています。
垂仁天皇の記述については日本海周辺に関わる者が多く、任那人が来訪して垂仁天皇に仕えたという逸話が残っています。朝鮮半島と越(こし)国(福井県)の重要性が増したためと考えられています。歴史家の考証によると、『日本書紀』の編年は半年を1年とする「二中暦」だといわれています。しかも天皇の系譜をオーバーにするためにかなり遡ってつけられているので、垂仁天皇は、実際は紀元332年(推定)に即位したのだろうといいます。垂仁天皇3年(紀元前27年)3月、新羅王子の天日槍(あめのひほこ・以下ヒボコ)が神宝を奉じて来朝」と記していますが、垂仁天皇99年(紀元361年)に崩御されたとあります。

朝鮮半島北部は高句麗、西部は百済、東部(慶尚道)に紀元356年、新羅国が興り、935年まで存在していました。ただ、377年、前秦への朝貢の際に、新羅という国号を初めて使用しましが、402年までは鶏林の国号が使用されました。
ヒボコが新羅かやってきたのは362年のことですが、一説にはそれより以前の4世紀初頭の頃と考えられています。いずれにしても、そのころ新羅という国号はありません。朝鮮半島南部は大駕洛国があり、新羅が大駕洛国を吸収したのが532年ですが、伽耶はそのまま残り、のちに任那(みまな)となるまで伽耶は存在していました。

天日槍はおそらく伝説上の人物ですが、一人をさすのではなく出石に定住した鉄の国・渡来系の伽耶(または任那)の人々でないとおかしいのです。第十一代垂仁天皇は、四世紀初めで、実在性の高い最初の天皇であるとされます。この頃から記紀には日本海周辺に関わるものが多くなります。その時代は朝鮮半島とそこに面した越(福井県)や丹波の重要性が増したためだと考えられます。

(『日本書紀』(720年)編纂時代は、百済、新羅、高麗(高句麗)の三国を三韓と呼んでいた)。
任那は伽耶諸国の中の大伽耶・安羅・多羅など(3世紀から6世紀中頃・現在の慶尚南道)を指すものとする説が多いです。伽耶(カヤ)、あるいは加羅(カラ)とも呼ばれます。これは大駕洛という国の名前が伝わる際にその音を取って、新羅では伽耶、百済や中国では加羅と表記されていたためだと言われ、日本では南部の金官郡だけは任那(みまな)日本府の領域として一線を画していました。562年に新羅の圧力により滅亡しました。
伽耶の古墳と出土遺物

伽耶諸国の竪穴式石郭や横穴式石室を主流とする古墳からは、洗練された曲線美をもつ土器をはじめ、おびただしい数の副葬品が出土しており、当時の栄華を今日に伝えている。とりわけ注目されるのは、刀剣などの武具や馬具、装身具とともに、多数の鉄製品が副葬されていた。遺体が安置された石室の底部には、大量の鉄てい延が敷き詰められていることがあるが、伽耶の国々は、この豊富な鉄を近隣の諸国に供給し、独自の勢力基盤を有していたことが伺える。一方、新羅の古墳は、木郭を組み、棺と副葬品を収めて、その周囲に石を積み上げ、さらに土を盛り上げた構造になっていた。これを積石木郭墳といい、4世紀から6世紀ごろまでさかんに造営された。金冠や華麗な金銀の装飾品、ガラス製品、馬具、土器などが埋葬されていた。高句麗も石をピラミッド状に積み上げた積石塚と、石室を土で覆った石室封土墳がある。

ヒボコは天日槍という神名から天孫あるいは、天津神とされている。天津神は蕃の神(となりのかみ・外国の神)であり、国津神・地祇神とは日本にあった土着神です。

しかし、おそらくこうした性格は、天(あま)は海(あま)で、天孫族というよりも、もともと海人族(漁民)の信仰していた海、もしくは風の神と、ヒボコ神(武神)の信仰が結びついたものでしょう。こうした性格は福井県敦賀市の気比神社のツヌガアラシトと似ており、ホムタワケ(応神帝)とイササワケ(伊奢沙別大神)が名前を易(か)えたとされる伝えと共通のものであり、『日本書紀』においてはヒボコ神がその地に立ち寄ったとされる記述もあることから、この二神は同一神ではないかといわれています。

2.加耶の古墳と出土遺物

伽耶諸国の竪穴式石郭や横穴式石室を主流とする古墳からは、洗練された曲線美をもつ土器をはじめ、おびただしい数の副葬品が出土しており、当時の栄華を今日に伝えている。とりわけ注目されるのは、刀剣などの武具や馬具、装身具とともに、多数の鉄製品が副葬されていた。遺体が安置された石室の底部には、大量の鉄延が敷き詰められていることがあるが、伽耶の国々は、この豊富な鉄を近隣の諸国に供給し、独自の勢力基盤を有していたことが伺える。

一方、新羅の古墳は、木郭を組み、棺と副葬品を収めて、その周囲に石を積み上げ、さらに土を盛り上げた構造になっていた。これを積石木郭墳といい、4世紀から6世紀ごろまでさかんに造営された。金冠や華麗な金銀の装飾品、ガラス製品、馬具、土器などが埋葬されていた。高句麗も石をピラミッド状に積み上げた積石塚と、石室を土で覆った石室封土墳がある。新羅から鉄は産出しない。竪穴式石郭や横穴式石室はない。

まったくの『記紀』や風土記は創作かというと、そうは思えないのが出石や丹後に残る地名や遺跡の多さです。

  • 豊岡市加陽(カヤ)と大師山(だいしやま)古墳群と近くには出石町安良
    新羅にはつくられない金官伽耶国に共通する竪穴系横口式石室という特殊な石室。竪穴系のものと横穴系のものとがある。
  • 丹後加悦町(与謝野町)と古墳群、加悦町明石(アケシ)・出石(イズシ)の韻が共通する?
    入江から入った地理が似ている。
  • 敦賀気比神宮の伽耶王子・都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)と天日槍(アメノヒボコ)は同一視されている。
    円山川河口にも気比神社がある。祭神は気比神宮と同じで敦賀から遷宮されたと伝わる。
    も気比神社の付近に飯谷と書いてハンダニ。畑上は秦(ハタ)?。韓国(からくに)神社など。
  • 日本海流は、半島南部を出ると自然に若狭湾にたどり着く(現在でも海岸にはハングル文字のゴミが多く漂着する)
  • 伊福部神社は出石町鍛冶屋(カジヤ)にあり、伊福とはふいごのことで、伊福部とは鍛冶職人に関係する。鍛冶屋は砂鉄がとれたらしい。
  • 出石入佐山古墳から砂鉄が納めれていた。
  • いずれにせよ、この頃の日本列島は、倭国・国家というべきものではなくクニが連立していたから、朝鮮半島と日本海沿岸は比較的自由であった。
    加耶のなかで大国であった大加耶では、独特の形態をもつ一二弦の琴がつくられていましたが、于勒は加耶琴の名手として知られ、于勒は新羅に亡命して加耶琴を新羅に伝えました。今日、朝鮮の代表的な楽器の一つに加耶琴がありますが、彼の亡命と新羅における活動に求めることができます。

    3.新羅の呼称に隠れた伽耶諸国

    日本列島が弥生時代と呼ばれるころ、百済(クダラ)の南には、三韓時代に弁韓(のちの任那)とよばれた地域があり、百済や新羅の台頭のはざまで、小国が分立するという状況が続いていました。朝鮮半島東南(釜山近辺)の洛東江両岸には小国が散在し、この地域は、新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・日本(倭)においては加羅とも表記されました。

    朝鮮半島中部から南部にかけての地域には農耕を主たる生業とする漢族が居住していました。遼東半島を支配した公孫氏政権は、この漢族の成長に対功するため楽浪郡との間に帯方郡を設けました。漢族の地は、三世紀ごろには70を越える小国があったと伝えられ、言語や習俗によって、馬韓(のちの百済)50余国、辰韓(のちの新羅)12国、弁韓(のちの任那)12国に分かれていました。これらを三韓とよびます。中国の魏の楽浪郡と帯方郡は、三韓諸国の首長をはじめとする千以上にのぼる者たちに印章や衣服を与えていました。魏は諸小国の首長たちを懐柔しつつ、朝鮮半島南部の弁韓地方で豊かに産出された鉄の確保にかかわっていたとみられています。

    • 高句麗(吉林省・両江道)
    • 楽浪郡(平安北道・平安南道・黄海北道。ただし、黄海南道を含むとする説もある。)
    • 帯方郡(黄海南道。ただし、京畿道とする説もある。)
    • 北沃沮(咸鏡北道)
    • 東沃沮(咸鏡南道)
    • シ歳(ワイ)(江原道)
    • 馬韓(京畿道・忠清北道・忠清南道・全羅北道・全羅南道。ただし、京畿道・忠清北道・忠清南道を含まないとする説もある。)
    • 辰韓(慶尚北道・慶尚南道)
    • 弁韓(全羅南道・慶尚南道。ただし、全羅南道を含まないとする説もある。)
    • 州胡(済州特別自治道)
      早くから鉄の生産や海上交易で栄え、これらのなかから、金官加耶(金海)、安羅(やすら・アンラ=咸安(かんあん[ハマン]))、大加耶(高霊[コリョン])といった国々が頭角を現し、しだいに国家統合の動きもみせはじめました。

      こうした加耶諸国の独自の国家統合の動きがあったものの、百済や新羅の侵攻は激しさを増し、これに対して日本列島の倭国との連携をしのぐという抵抗もありましたが、532年には金官加耶が、やがて安羅も新羅に降伏しました。最後まで抵抗し続けた大加耶も562年に新羅に滅ぼされました。任那(ミマナ)とは伽耶諸国の任那加羅(金官加耶・駕洛国)の勢力範囲を指す和名です。高句麗・新羅に対抗するために百済・倭国と結び、倭国によって軍事を主とする外交機関(後に「任那日本府」と呼ばれた)が設置されていたとする説もあります。伽耶連盟の盟主となったとされる金官伽耶・大伽耶(伴跛)だけではなく、阿羅伽耶(安羅)(慶尚南道咸安郡)、古寧伽耶(慶尚北道尚州市咸昌)、星山伽耶(慶尚北道星州郡)、小伽耶(慶尚南道固城郡)などは六伽耶・五伽耶とまとめて呼ばれることがありました。

      ところで、これらの地域からは前方後円墳が発見されており、日本の墓制との関連で注目されています。このことからも弥生時代は、日本列島・朝鮮半島・中国東北部を環日本海という漢族のひとつの文化圏と考えるべきで、倭国も朝鮮半島も中国冊封国家とされた時代です。国家というよりも、クニという小集団の連合体であり、早くから鉄の生産や海上交易で栄えていた三韓時代の弁韓(のちの任那)沿岸の任那伽耶の氏族が日本海に定住し始めたといった方が正しいでしょう。

      それに、飛鳥時代にヤマト王権が漢字を取り入れて、倭国と深い関係にあったのは、百済という国であって、新羅、あるいは高句麗という国との交流の気配は『古事記』『日本書紀』には記されていません。どこまでも百済との交流です。

      日本書紀や播磨風土記に登場する、天日槍(あめのひぼこ)は新羅の王となっています。紀元後100年ぐらいの出来事だとされています。天日槍が創作の人物であるとしても、当時の朝鮮半島は、半島南部も小規模なクニはあったでしょうが、新羅や百済・加耶といった国はまだ存在していませんし、また、記紀が製作された8世紀はじめには、すでに新羅によって朝鮮半島は統一されていますから、数百年も経って、かつての国名で記す必要はないし、高句麗・百済・加耶といった国は忘れ去られてしまっているはずです。したがって、その当時は正しくは伽耶または任那からの渡来人であったはずですが、新羅と見なして記述したのではないかと思います。

      日本列島では青銅器と鉄器の伝来はほぼ同時期とされていますが、青銅は、紀元前3世紀頃、稲や鉄とともに九州に伝わり、紀元前1世紀頃、日本でも生産が始まったといわれています。紀元前3世紀頃に渡来したのは徐福が有力だとみます。ちなみに鉄の列島での生産(製鉄)は5世紀頃だとされているので、2世紀(111年)に渡来したと思われる天日槍(あめのひぼこ)は、いずれにしても鉄製造集団ではなく、青銅製造集団、つまり銅剣・銅矛・銅鐸を担った出雲の物部族=大己貴命(オオナムチノミコト)、すなわち、オオクニヌシ(大国主)の時代でなければおかしいのです。天日槍(あめのひぼこ)の時代は、銅鐸が現れ消えていく、弥生時代中期(紀元前1世紀)から後期(1世紀半ば頃から3世紀の半ば頃まで)と重なるからです。

      4.伽耶と天皇家の秘密

      スクナヒコナ(小彦名神)は宮中で韓の神(からのかみ)と呼ばれているから、『日本書紀』を記した朝廷の役人は、スクナヒコナが「韓」は加羅、伽耶からやって来たことは知っていたはず。それにもかかわらず、地名を用いず、“常世の国”という架空の国からやって来たとするのはそれなりの理由があったからでしょう。その理由は、“韓、カラ、カヤ”が日本に多大な影響を及ぼしたことを神功皇后の新羅征伐にあるように、朝廷が抹殺したかったからでしょう。

      『播磨国風土記』がヒボコの出身地を「韓(加羅)」と伝えているのにもかかわらず、『日本書紀』は新羅としていることも、事情は同様です。

      ヒボコはツヌガアラシトと同一人物であるとする説があり、伽耶からやって来たのに、新羅として事実をねじ曲げようとしたのは、伽耶をめぐる朝廷の複雑な思いと、歴史の真相が隠されていたためだったのです。
      また、『古事記』や『日本書紀』が記された当時(八世紀初頭)には、新羅が統一をなし、百済や伽耶諸国は滅亡しています。すでに六百年も過去にさかのぼってまで、すでになくなっている国名の百済や伽耶の人などと記しても誰もわからないからだったとも考えられます。

      ここでの問題は、スクナヒコナがツヌガアラシト同様、伽耶出身の鬼とみなされたことは確かであり、同一人物であった可能性が高いことで、一人の人物が三体に分けられてしまったとすれば、彼らが鬼も王国出雲へ接近していたことが、八世紀の朝廷にとって不愉快な史実であったと想像できる点です。

      まず第一は、紀元節(建国祭)の起源となった祭りに、“園神の祭り”と“韓神の祭り”があって、祭神が園神(国の神)=大物主神と、韓神(伽耶出身の神)=オオナムチとスクナヒコナである点です。

      そして第二に、『出雲の国造の神賀詞(かむよごと)』のなかで、出雲を代表する四柱の神の一つに、カヤナルミなる名が登場していることです。カヤナルミは伽耶の姫の意味であり、下照姫の別名で、この女神の存在を正史『日本書紀』がまったく無視しているところにも、出雲と伽耶がヤマト建国に大きな役割を果たしていたことを、かえって暗示しているといえるでしょう。

      この女神が伽耶と密接に関係していることは確かなようですが、だからといって、出雲全体が「伽耶」そのものだったかといえば逆です。伽耶の姫というのはあだ名であって、夫が「伽耶」だったからだと言われています。夫はオオナムチ(大己貴神)です。大己貴神と大物主神は同一の神とされていますが、これは全くの誤解であるとしています。それは上記のように、オオナムチは韓の神(伽耶)の神であり、大物主神は国の神=出雲出身の土着の神だからです。

      ヤマト朝廷誕生の裏側に隠されたもう一つの鬼・伽耶。本来、天皇家に近い存在であったはずのこの王国は、なぜ出雲に接近し、しかも八世紀『日本書紀』のなかで祟る鬼とみなされてゆくのでしょうか。
      それは、“ヤマト”が東西日本(倭国)の融合であると同時に、この合併劇に伽耶も大きく絡んでいたことは疑いようがなく、三つの勢力が同盟関係に入り、その後の政局の動きのなかに、伽耶が鬼と目されてゆくほんとうの理由が隠されていたと考えられます。
      その政局のうねりのなかに、物部、蘇我、伽耶という鬼の一族たちの共通点が秘められていたのです。

      5.ヒボコと神功皇后はコンビを組んでいた?

      神功皇后は時代考証やルートから、限りなく邪馬台国のトヨ(壱与)に近い人物とされており、この女傑が邪馬台国やヤマト建国の秘密を握っている疑いが強いのです。

      また、ヒボコは太陽神の名を与えられているように、『日本書紀』も『風土記』も、この人物を神話として扱っています。歴史時代の人物であるにもかかわらず、神扱いされているのは、『日本書紀』がよく使う歴史改ざん・隠滅の手口だとしています。さらに神功皇后の子の応神は、北部九州で生まれ、東征しています。この行動とルートが、まさに初代神武天皇の東征の動きと神功皇后・トヨ(壱与)・ヒボコにそっくりなところに問題があります。

      そうなってくると、ヒボコがヤマト建国に深く絡んでいた疑いがあります。そして、ここでヤマトが但馬(出石)を介して朝鮮半島とつながり、大量に鉄を入手してしまえば、北部九州、出雲、吉備のそれまでの戦略は根本から崩れ去る。彼らは慌ててヤマトの地を目指して猪突したのではないでしょうか。これが纒向(まきむく)誕生のきっかけではないか。

      それにしても、なぜヒボコは、日本列島を目指してやって来たのかといえば、それは燃料、つまり木を求めたからでしょう。中国大陸や朝鮮半島では、早くから金属冶金文化が発展していて、森林破壊が進んでいました。そのため「製鉄のための燃料の枯渇」が起きていました。何しろ鉄を作るためには、山の森ひとつ、すぐになくなるほどの木材を消費するのです。

      その点、降水量の多い日本列島は当時、森林資源に恵まれていたのだろうし、このことは神話のなかでスサノヲが「日本には浮宝(木材)」が豊富だと語っていることからも分かります。ヒボコの目的も、「燃料の確保」だったはずです。

      奈良県田原本町の唐古池(唐古・鍵遺跡)の弥生後期初頭の溝から、渇鉄鉱の中にヒスイの勾玉(マガタマ)を入れた「巨大な鳴石」が見つかっています。
      三世紀の出石(いずし・豊岡)で砂鉄製鉄という産業革命が起きたことで、鉄の国産化、ヤマトの勃興が同時進行していたのではないか。豊岡平野はすでに縄文時代に書いたように、かつては湿地帯でした。出雲から海岸づたいに東へ進むと突如ぽっかりと子宮のような入江湖が現れます。湿地帯と鉄のつながりは渇鉄鉱です。水草の根や粘土質の土のまわりには、渇鉄鉱の結晶がこびりつきます。やがて根は腐り、粘土は乾いて中が空洞となり、振るとカラカラ鳴るようになります。このため鳴石とも呼びます。根に付着した渇鉄鉱は別名「鐸(さなぎ)」で、まさに形状は、虫のさなぎに似ているし、銅鐸のようにも見えます。

      弥生時代後期の山陰地方の四隅突出型墳丘墓の広がりと鉄器の流通、そして「孤立するヤマト」を重ねてみると、豊岡から敦賀、ヤマトにかけての一帯が、「九州や出雲と対立していた地域」だったのです。このような西日本諸国の「ヤマト」封じ込めに対し、丹波が出石を中心にヤマト連合が、有効な対抗手段を確立していいたのがヤマト勃興のカラクリであり、豊岡(出石)の砂鉄と唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)の渇鉄鉱が、これを証明しているように思えます。

      神功皇后は、「ヒスイの国・越」から九州に向かい、「ヒスイの女神」と接点を持っていきますが、この女人を後押ししたのが「鉄の王」ヒボコや武内宿禰であり、唐古・鍵遺跡の「鳴子」が、ものの見事に、三世紀のヤマトの発展を予言していたように思えてならない、としています。

      6.天日槍伝説の考察

      『古事記』の阿加流比売神の出生譚は、女が日光を受けて卵を生み、そこから人間が生まれるという卵生神話の一種であり、類似した説話が朝鮮に多く伝わっているそうです。例えば高句麗の始祖東明聖王(朱蒙)や新羅の始祖赫居世、伽耶諸国のひとつ金官国の始祖首露王の出生譚などがそうです。

      • 『古事記』では新羅王の子であるヒボコ(アメノヒボコ)の妻となっている。この話は『日本書紀』のツヌガアラシト来日説話とそっくりなのである。そのことについては、のちほど気比神宮でくわしく述べますが、時代的に新羅という名称は、1、2世紀の時代、存在していないので、伽耶(カヤ)の王子と解すべきでないかと思います。

        ヒボコは新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もあります。また、秦氏ではないかという説もあります。

      • 『日本書紀』では意富加羅国王の子である都怒我阿羅斯等(ツヌガアラヒト)が追いかける童女(名の記述はない)のエピソードと同一です。
        「記紀」で国や夫や女の名は異なっていますが、両者の説話の内容は大変似通っているそうです。

      7.神となったヒボコは倭人?

      ヒボコは伽耶に渡った倭人であるとする説です。日本書紀によると、ヒボコはひとりの童女アカルビメを追って日本にやってくるのですが、その童女はヒボコに「私は親の国に帰る」と叫びます。しかし、ヒボコが同じ韓(加羅)の国の人であるなら、わざわざ同国の人があえてヒボコに親の国という必要はないはずです。これはヒボコの先祖の国が日本列島にあったことを暗示しています。

      すなわち、朝鮮半島には鉄鉱石があふれていたが、燃料がなかった。一方日本列島には、鉄鉱石はなかったが、燃料の木はふんだんにあった(日本の砂鉄製鉄はその後の話)。両者の利害を共有すれば、「環日本海鉄コンビナート地帯」が完成するわけで、その橋渡し役をしたのが外国からやって来た脱解王であり、ヒボコであったのでしょう。
      また、彼らの活躍があったからこそ、西日本全体が一つにまとまるという方向性ができたのだろうし、彼らの活躍が大きすぎたがゆえに、ヒボコに「日本的な神の名」を与えられる一方で、無理矢理亀に乗せられ、浦島太郎に化けさせられ、歴史から正体を抹殺されたのでしょう。

      • ヒボコは人物であるにも関わらず神扱いされている。
      • 神功皇后はヤマト建国前後に活躍し、これにヒボコが絡んでいた。遠征ルートがよく似ている。
      • 鉄の国・伽耶から来日したヒボコは但馬に拠点を設け、ヤマトに鉄を「密輸」することで、富を獲得することに成功したので、特別に神扱いされた。
      • 当時の交通手段は陸路が整備されていないので海路や水路であり、円山川あるいは由良川から加古川のルートは、日本で最も低い分水嶺であり、ヤマト(大和)は最短の但馬(出石)を介して朝鮮半島とつながり、大量に鉄を入手してしまえば、北部九州、出雲、吉備のそれまでの戦略は根本から崩れ去る。
      • 倭国連合(北部九州、出雲、吉備)は慌ててヤマト王権の地を目指して突進した。
      • これが纒向(まきむく)誕生のきっかけだ。
        としています。

        8.朝鮮半島の建国神話

        建国神話の類似性

        『魏書』高句麗伝に、「扶余[*1]の王子が迫害を受けて故国を追われ、南下して高句麗を建国した」と知りされており、百済の神話は、高句麗の建国神話を前提にして、高句麗の始祖東明聖王(朱蒙)の王子二人が高句麗の地を離れ、南のソウル地方にやってきて、弟の温示乍が百済を建国したとされます。実際に百済は、自らの出自を、高句麗とともに扶余族であることを対中国外交で主張しており、538年には、国号を南扶余としています。

        一方、扶余には、北方のタクリ国の王子が、迫害を受けて故国を逃れ、大河の南に扶余を建国したという建国神話が伝わっています。一部に地名などに若干の差異はあるものの、その構造は同一であり、高句麗の建国神話は扶余の神話と酷似している。しかも、このような建国神話の類似性は、百済まで及び、百済の神話は、高句麗の建国神話を前提にして、高句麗始祖の王子二人が高句麗の地を離れ、南のソウル地方にやって来て、弟の温そが百済を建国したことになっています。

        こうした建国神話の類似性ないし連鎖性に注目して、高句麗族は扶余族を出自とし、さらに百済の王族もまた、扶余出自の高句麗族の系譜を引くという説は古くから唱えられてきました。実際に、百済は自らの出自を、高句麗とともに扶余族であることを対中国外交で主張しており、538年には、国号を南扶余としています。

        しかし、自国の王統系譜を正当化する論理として、王の出自を外部に求めたり、共通の集団に求めたりすることが古今東西の王権神話にみられることで、類似性と民族的系譜関係とは直接に結びつくものではありませんが、互いに扶余との系譜を強く意識しながら、対立を先鋭化させていた点は注目されます。

        伽耶の建国神話

        『カラク国記』には、現在の金海にあった金官国には、天から六つの卵が降りてきて、そこから生まれた六人の童子の一人が金官国の始祖となり、残りの五人が五伽耶の王となった。また、『釈利貞伝』には、大伽耶国には、天神と伽耶山神から生まれた兄弟が、大伽耶と金官の始祖になったとされています。

        両国が加耶諸国のなかでも有力国であったことがうかがえます。

        新羅の建国神話

        『三国史記』[*2]が伝える新羅の建国神話に、初代王とされる朴赫居世(カッキョセイ)は、卵から生まれたという。第四代の王となった昔脱解は、外国で卵から生まれ、箱船で漂流していたところ、新羅の東海岸に漂着し、やがて成長して第二代の王の娘婿となり、即位した。金姓をもった最初の王である十三代味雛(ミスウ)王の始祖・閼智(アッチ)は、金の箱のなかに入って天から鶏林に降り立ったと伝えられている。

        これらの神話に見られる三姓の始祖たちのモチーフは、始祖は内部の人ではなく、天から降り立ったり、卵から生まれ外国よりやって来たりしたというように、外部から訪れたことで一致しています。また、それぞれの始祖は、神話のなかで姓の由来が語られていて、最初から姓をもっていたことになっています。しかし、新羅において姓の使用が確認されるのは六世紀半ば以降になってからであり、これらの神話は史実とは結びつかない。いずれにしても、三つの集団があって、それぞれが王を交立したといった可能性があり、おのおのの始祖神話をもっていたと理解できます。こうした神話は、新羅の国家形成と王権が複雑な様相をもっていた反映とみなせます。

        これらの神話に見られる三姓の始祖たちのモチーフは、始祖は内部の人ではなく、天から降り立ったり、卵から生まれ外国よりやって来たりしたというように、外部から訪れたことで一致しています。それは「天孫降臨」と似ている。

        また、それぞれの始祖は、神話のなかで姓の由来が語られていて、最初から姓をもっていたことになっています。しかし、新羅において姓の使用が確認されるのは六世紀半ば以降になってからであり、これらの神話は史実とは結びつかない。いずれにしても、三つの集団があって、それぞれが王を交立したといった可能性があり、おのおのの始祖神話をもっていたと理解できます。こうした神話は、新羅の国家形成と王権が複雑な様相をもっていた反映とみなせます。


        [*1]扶余 紀元前三世紀、東夷諸国のなかでも最も早期に国家形成をとげた。五世紀に高句麗に降伏して滅びた。
        [*2]『三国史記』 1145年に高麗で編纂された新羅・高句麗・百済の史書。朝鮮における現存最古の体系的な史書。

        -出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
        -出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-

コメントする

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください