天日槍ゆかりの神社
天日槍(アメノヒボコ)ゆかりの神社は、いずれも式内社で、出石神社と御出石神社を囲むように旧出石郡に集中している。
- 諸杉神社 天日槍の子・多遅摩母呂須玖(タヂマモロスク)/出石町内町
- 比遅神社/多遅摩斐泥(タヂマヒネ) 但東町口藤
- 中嶋神社 曾孫が、菓子の神とされる多遅摩毛理、田道間守(タヂマモリ)/豊岡市三宅
- 日出神社 多遅摩比多訶(タヂマヒタカ)/但東町畑山、清日子(スガヒコ)であり、
- 多遅摩比多訶(タヂマヒタカ)の娘が菅竃由良度美(スガカマノユラトミ)/須義神社/出石町荒木
一節には清日子(スガヒコ)の娘とあります。
私は、この天日槍(アメノヒボコ)ゆかりの神社を調べて、これは後々の伝承に過ぎないのだと断言できる。『国司文書但馬神社系譜伝』によれば次の神社は天日槍とはまったく無関係である。
比遲(ヒジ)神社 本来の祭神は味散君
佐伎都比古阿流知命神社は、平安期までは養父郡浅間郷坂本に鎮座しており、
祭神 佐伎津彦命・阿流知命 (浅間郷開拓の祖神)
諸杉(もろすぎ)神社
兵庫県豊岡市出石町内町28
式内社 旧県社
御祭神 多遲摩母呂須玖神(たぢまもろすく)
『国司文書但馬神社系譜伝』は天諸杉命 亦の名 多遲摩母呂須玖、但馬諸助
アメノヒボコ(天日槍)命の嫡子とある。
豊岡市出石総合支所駐車場の前の出石城の東に隣接する古社ですが、私もはじめて訪ねました。この辺りは出石観光の中心にあたります。日本書紀に「但馬諸助」とある神で、
「母呂須玖」が社名の「諸杉」と転訛したようです。
木の鳥居が古さを物語る。
拝殿
創祀年代は不詳。当初は小坂村水上(むながい)に祀られていたが、天正二年(1574)、但馬国守護山名氏が居城を
此隅山(小盗山)から出石有子山に移すにあたり現在地に遷座したという。
本殿
比遲(ヒジ)神社
兵庫県豊岡市但東町口藤字山姥547
式内社 旧村社
御祭神 多遲摩比泥(たじまひじ)神
多遲摩比泥神は天日槍の孫であり多遅摩毛理の祖父神。
多遅摩比泥とも、多遅摩斐泥とも書かれる。『国司文書但馬神社系譜伝』には、ご祭神 味散君(みさのきみ)。
人皇五十代柏原天皇の延暦三年夏六月、葛井宿祢比遲は出石主帳となり、これを祀る。
味散君、百済国都慕王十世孫・塩君の子なり。葛井宿祢の祖。
日出(ひので)神社
豊岡市但東町畑山329式内社 旧村社
御祭神 多遅摩比多訶神(たぢまひたか)祭神は、ヒボコの四世孫・多遅摩比多訶神。多遅摩比那良岐の子、田道間守命の弟。社号の日出、鎮座地が日殿村で、この祭神名から取られたものでしょうか。
日出神社は但馬神話で出石を中心とする但馬地方を治めたヒボコの四世「多遅摩比多訶」を祭神とします。神社の創立は明らかでないが、延喜式に但馬国出石郡の小社と記された式内社であります。現本殿の建立は、建築の様式技法から考察して室町時代末期の16世紀初頭と考えられ、その後、宝永元年(1704)、享保11年(1726)、明治21年(1888)に修理したことが棟札によって知られます。解体修理は昭和48年10月に着手し、翌昭和49年11月に工事を完了しています。構造様式は旧規を踏襲し、後世改変された箇所は資料にもとづいて復旧し、覆屋も撤去して当初の姿に修復された。
本殿は室町時代末期の様式技法をよく伝えているとして、昭和38年に兵庫県指定文化財となり、昭和45年6月に国指定の重要文化財となった。国の文化財保護審議会において「日出神社本殿は庇部分に後世の改造部分が多いが、手挟、蟇股など細部は当初材を残し、兵庫県における室町時代末期の三間社流造本殿の一例として保存すべきものと考える」と評価されています。
須義(すぎ)神社
兵庫県豊岡市出石町荒木字竹ヶ原273-1
但馬國出石郡 シ頁義神社 式内社 旧郷社
御祭神 由良度美神(ゆらとみのかみ) 配祀 誉田別
神社伝によると、応神天皇四十年の創祀。
『国司文書但馬神社系譜伝』には、須義芳男命(亦の名は荒木帯刀部命)
一説に、神功皇后が熊襲征討のため
出石神社に戦勝祈願をした時。山の中腹の高い場所に祀ったのもその権力を誇示するためだろうか。
鳥居を過ぎると長い石段が迫る。
式内社・須義神社に比定されている古社で、『三代実録』に、貞観十年十二月二十一日に
正六位上から従五位下に昇進した「菅神」が当社。
吉野朝時代、当社付近を菅庄と称し、八幡宮領となり、八幡神を併せ祀ったという。菅川のそば、菅谷の菅庄に鎮座する神社で、以前は、菅八幡宮と称し、
荒木の八幡さんと呼ばれている神社。かつての京街道沿いにあり、かつて但馬征伐で秀長率いる豊臣軍が浅間峠を越えて出石城攻めに行軍した道です。
拝殿
『神名帳考證』には、多遲摩母呂須玖神(たぢまもろすくのかみ)とある。多遲摩母呂須玖神は天日槍神の子。
菅竈由良度美神は、その多遲摩母呂須玖神の妹、あるいは娘、あるいは四世孫清日子の娘で神功皇后の外祖母と考えられる神らしい。
本殿
石段を登ると境内は以外と広かった。