縄文的であるがゆえに広まった大国主命信仰

神道は、太古の日本から信仰されてきた固有の文化に起源を持つ宗教。日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立していった。

なお、神道には明確な教義や教典がなく、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『宣命』などといった「神典」と称される古典を規範である。森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊を祀り、祭祀を重視する。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目と、他宗教と比べて、現世主義的であり、性善説的であり、祀られるもの(神)と祀るもの(信奉者)との間の連体意識が強い、などといった特徴が見られる。

日本では気象、地理地形に始まり、あらゆる事象に「神」の存在を認める八百万(やおよろず)の神といい、万物に精霊が宿るというアミニズムから発展した多神教で、そこいら中に神がいて、どの神が正しいというはっきりとした基準はない。

多神教の神には二つの顔があるのだ。ひとつは、人々に恵みをもたらすありがたい福の神「豊饒(ほうじょう)の神」、そして、祟りのような災難をもたらす神である。これは、良い神と悪い神の二種類が存在するということではなく、一柱の神に、「神」と「鬼」の二面性があるという意味である。

つまり、神と鬼は表裏一体であり、神は祟るからこそ祀られ、そして、祟る神=鬼は祀られることで、恵みをもたらす豊饒の神へと変身する。このような複雑で原始的な図式が多神教の特色であり、一神教世界は、この混沌から抜け出し発展したと自負しているのだ。また、先進国で多神教を信奉しているのは日本だけで、おそらくこの辺りにも、「日本は異質だ」、といわれる特性の根本があるのだろうか。

これに対し、キリスト教世界では、神は一人であって、だからこそ絶対的存在とみな信じているのである。「唯一絶対の神がこの世を想像し、その教えが絶対的に正しい…」、これがいわゆる一神教というものである。

神道と仏教の違いについては、神道は神話に登場する神々のように地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村etc)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教は主に個人の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく異なる。

日本の神道は、多神教で神道の神々は、別の宗教の神を排斥するより、神々の一人として受け入れ、他の民族や宗教を自らの中にある程度取り込んできたとして、その寛容性が主張されることがある。しかし、世界各地に仏教が広まった際に、土着の信仰との間に起こった摩擦だ。日本に552年(538年説あり)に仏教が公伝した当初には、仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識されていた。

神道は多神教だが、祖霊崇拝性が強いため、古いものほど尊ばれる。1881年の神道事務局祭神論争における明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利し、天照大神が最高の神格を得たが、敗北した出雲派的なものが未だに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多い。

明治の神仏分離令によって分離される以前は、神道と仏教はしばしば神仏や社寺を共有し寺院の境内に社があったり、神社の境内に神宮寺が併設されたり、混じりあっていた。それは人と同じような姿や人格を有する「人格神」であり、現世の人間に恩恵を与える「守護神」ですが、祟る(たたる)性格も持っている。災害をもたらし、祟るからこそ、神は畏れられました。神道の神は、この祟りと密接な関係にある。

縄文的であるがゆえに広まった大国主命信仰

『古代出雲王国の謎: 邪馬台国以前に存在した“巨大宗教国家”』 著者: 武光誠氏などを参考にすれば、
縄文時代中期にあたる紀元前1000年ごろまでは、出雲の遺跡数は少ない。その時期の出雲は後進地帯であったと考えてよい。さて、吉備政権もヤマト朝廷も、九州北部の人びとが瀬戸内海を東進して作り出したものだ。ゆえに大和、吉備、北九州の勢力は、縄文文化との縁を絶ち切った上に生み出されたといえる。

しかし、古代にあっても現在にあっても、日本人の多くは間違いなく縄文時代の日本の住民の系譜を引いている。弥生時代に朝鮮半島や南方から渡ってきたのは、ひと握りの有力者であった。

出雲でより強く縄文的信仰の伝統を受けついだ大国主命信宏が生まれた。出雲の神は北九州の神やヤマト朝廷の神より、古代の庶民層の支持を受けやすいものであったといえる。それゆえに、大国主命信仰が九州から東国に至る各地で受け入れられることになった。古代にあってその広まりは、邪馬台国連合の信仰の系譜を引く宗像信仰、宇佐信仰やヤマト朝廷の天照大神信仰のそれよりはるかに勝っている。

分類

武光誠氏は、日本固有の信仰は、精霊信仰、祖霊信仰、首長霊信仰の三層から成ると述べた。
精霊信仰は縄文人の信仰で、山・川・風・動物・植物など、あらゆる事象に精霊が宿るとする考えである。

自然物や自然現象を神格化した神

最も古い、自然物や自然現象を神格化した神。古代の日本人は、山、川、巨石、巨木、動物、植物などといった自然物、火、雨、風、雷などといった自然現象の中に、神々しい「何か」を感じ取っていました。自然は人々に恩恵をもたらすとともに、時には人に危害を及ぼします。古代人はこれを神々しい「何か」の怒り(祟り)と考え、怒りを鎮め、恵みを与えてくれるよう願い、それを崇敬するようになっていった。これが後に「カミ(神)」と呼ばれるようになった。

祖霊信仰は、弥生時代中期に江南(中国長江以南)からもたらされたもので、亡くなった祖先はすべて神となり、自然現象を司り、子孫を見守るとするものである。

そして、首長霊信仰は弥生時代のごく末に、ヤマト朝廷によってつくられた。それは、大王や大王に仕える首長たちの祖先の霊は 、庶民の霊よりはるかに強い力をもつとする信仰である。そこで、朝廷は民衆に自分の祖先を祀るとともに、王家の祖神の祭りに参加する事を命じるようになった。

古代の指導者・有力者の神格化

武光誠氏は、祖霊信仰は、ヤマト朝廷によってつくられたとしているが、これはくわしくいうとそうとは限らない。一族が祖先の霊を祀ることは、ヤマト朝廷が成立する以前からあった。もともと祀られていた各地域の首長を祀っていたので必ずしも天皇家を合祀していない神社の方が圧倒的に多いからだ。

日本において天皇のことを戦前は現人神と呼び、神道上の概念としてだけでなく、政治上においても神とされていました。現在では、昭和天皇によるいわゆる人間宣言により政治との関わり、国民との関係は変わりました。しかし、神道においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)の血を引くとされる天皇の存在は現在も大きな位置を占め、信仰活動の頂点として位置付けられている。

その時代の有力者を死後に神として祭る例(豊臣秀吉=豊国大明神、徳川家康=東照大権現ど)や、権力闘争に敗れまた逆賊として処刑された者を、後世において「怒りを鎮める」という意味で神として祭る例(菅原道真、平将門など)もこの分類に含まれる。

ヤマト朝廷が成立する以前から、さまざまな部族が個々に固有の神を信仰していました。祖霊信仰と首長霊信仰を合わせたものとして、それらの部族が交流するにしたがって各部族の神が習合し、それによって変容するようになっていった。この神神習合が、後に仏教をはじめとする他宗教の神々を受け入れる素地となっていく。
主祭神の他に、時代によって祭神が増えていき、また摂社としてあらゆる祭神が祀られていく。

神政国家だった出雲政権

出雲が邪馬台国の卑弥呼の出現の約三十年前に出雲を統一できた…につては、出雲という土地の特殊性をつかむことによってその答えが明らかになると思われる。
首長霊信仰の発生が日本統一のきっかけになった。天皇家は、大和や河内の有力豪族の祖神を天皇家の祖神の下位に位置づける。それとともに地方豪族の祖神も朝廷がつくる神々を組織した秩序の中に組み込んでいく。

これによって、全国の首長は天皇家の祖神の保護下におかれることになった。そして、首長支配下の民衆は、首長霊を祀ることを通じて、その上にいる天皇家の祖神に従う。そのようなヤマト朝廷の支配のもとでは、天皇家への貢納物は、天皇家の祖神へのささげ物とされた。
ヤマト朝廷は武力で各地の首長を討って日本を統一したのではない。自家の祖神が日本列島の住民すべてを治めるべきだとする信仰上の動機によって、天皇家は地方豪族を次々に従えていった。

ならば、そのような首長霊信仰が生まれる前の邪馬台国や出雲の、小国に対する支配は、どのような名目でなされたものであろうか。
九州北部の小国は、古代ギリシャで栄えた城壁都市ポリスに近い交易国家であった。彼らは、遠距離の交易によって他地域から来る有益な物品を独占し、周辺の小国に分け与えることを通じて豊かな生活を享受することに満足し、領域を広げて統一国家になろうとする野望はもたない。

それゆえに、交易国家の段階では小国分立の状況になり、小国同士が相手の内政に干渉しない形がつくられる。したがって、国の統一の機運は生じない。九州北部の小国は、紀元前一世紀末にしきりに朝鮮半島北部にあった中国の植民地・楽浪郡と交易した。その段階で北九州に公益国家が芽生えたといえる。やがて、魏の洛陽に使者を通じて奴国が巨大化した。

しかし、出雲氏を中心とするまとまりは、交易のためにつくられたものではない。彼らは荒神谷での祭祀を通じてまとまった。ゆえに出雲政権を「神政国家」とよぶのがふさわしい。と記している。

大国主は出雲氏の祖神ではない

したがって、ヤマト朝廷以前の出雲の小国連合は、出雲氏の祖神であるアメノホヒノミコト(天穂日命)を、小国の首長たちの祖神と同列におく形をとった。そして、自家の祖神の上に新たに有力な神をつくりだした。出雲氏は祖神である天穂日命を重んじずに、大国主命の祭祀をその職務にした。これは、出雲氏が大国主命の祭祀により出雲の豪族をまとめたが、彼らの内政に関与しなかったことを意味する。出雲氏が、自家の祖神を配下の豪族に拝ませる形をとったなら、出雲の統一はこれほど早く行われなかったろう。

そのため、『出雲国風土記』に数多くの神の活躍がみられることになった。ヤマト朝廷の支配が強化される段階で、出雲の神のいくつかは中央の神統譜に組み込まれた。スサノオにはじまる系譜も、出雲氏がつくったものではなく、朝廷の指導のもとに形づくられていったものである。としている。

コメントする

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください