たじまる 地方自治-7

さて、いま「三位一体改革」による地方分権を進めようとしていますが、地方への財源と権限の保障が曖昧であるため、地方公共団体からは「『地方主権』『自治型社会の実現』からは程遠い」と指摘する声も少なくありません。

1.道州制

道州制を考える際には、「現行の都府県より広域の地方公共団体をどう設置するか」が論議される事になります。道州制の論議は今に始まったことではなく、明治維新までにおける、現行の都府県より広い地域を統治した広域行政体やその範囲の変遷は、大雑把に以下のようになっています。

  • ヤマト王権による統一以前には、各地の国造を初めとして、地方豪族の分立状態であり、必ずしもこれらの広域な国全体が一体的統治をされていたわけではない。
  • ヤマト王権によって統一国家が形成された時代(律令制の時代)
  • 戦国大名による一円知行
  • 江戸時代の幕藩体制
  • 明治の廃藩置県明治政府は、地方の反乱が相次いだために、県より広い行政体の設置には消極的であった。しかし、人口希薄などを理由として、北海道にあった3県を廃止して、北海道庁 (1886-1947)を設置した。以降は台湾総督府、樺太庁、朝鮮総督府、南洋庁と順に設置された事で、府県の狭小さが経済統制の障碍と考えられ、内地を統轄する内務省下に、郡制廃止とともに複数の府県を包括する広域行政体の設置が議論され、田中義一内閣の行政制度審議会が、1927年に、全国を6箇の州に分けて、官選の長を置く「州庁設置案」を内閣に提案した。ここでの州名は、州庁所在都市名を取った物になっている。仙台州、東京州、名古屋州、大阪州、広島州、福岡州
  • 1940年にこの提案の実際の措置として、府県行政を調整し、広域行政体を統合しようとした。「国の出先機関」の様相を強く持っていた。また、戦時下(特に地方総監府時代)には、本土決戦に備えた行政の効率化という側面も有していた。
    また、戦時統制経済のもとでは、各地の鉄道・電力・ガスといったインフラを中心に企業が、政府主導で統廃合された。
  • 太平洋戦争後の改革において、物資不足から引き続き経済統制の必要性と地方自治法により国の知事への統制が制限された。都道府県のブロック化が強まる懸念と区域の狭小さの点から、1948年の行政調査部により、地方行政庁案・道制案・州制案の3案が提案された。
  • 1955年には、関西経済連合会が、府県の廃止と、国の総合出先機関としての道州制を提案した。また、1957年の第4次地方制度調査会は「地方制」案を答申した。この地方制は7地方・8地方・9地方案であった。
  • 高度経済成長期(1960-70年代)には、地方から都会への出稼ぎや集団就職で人口が工業地帯へ移ったことによって、過疎・過密の問題が生まれた。この時期から貨物量の急激な増加や通勤・通学の長距離化や季節要因での大規模移動が発生し、地方毎の広域の社会資本整備の必要性から道州制論議は存在していた。大都市圏とそこに含まれない地方の道県との間では、所得や生活基盤に格差が生まれており、地方交付税などで是正できる程の税収を持ち合わせていなかったため、予算規模の拡大を目指し、いくつかの県が合併する道州制が考えられた。
  • 1989年から1992年にかけて臨時行政改革審議会が置かれ、都道府県の広域連合とともに道州制の検討を答申した。
  • 1994年には地方自治法改正により県の広域連合が制度化された。国会においても地方分権の決議が採択され、道州制の論議が高まることとなった。
  • さらに2004年の地方自治法の改正により、都道府県の合併が申請によって可能となった。
  • 第28次地方制度調査会は、2006年に「道州制のあり方に関する答申」をおこない、都道府県の廃止と新設となる道州による道州制導入を打ち出した。道州には9道州・11道州・13道州の3例。
  • 2006年に道州制特区推進法を公布した。
  • 2007年9月21日、政府の道州制ビジョン懇談会において江口克彦座長(PHP総合研究所社長)は、東京23区と大阪府を特別州とし、東北・北信越など全国を12道州に分ける私案を公表した。 日本は古くは律令制からすでに中央集権化が進んでおり、連邦制もしくは連邦国家を形成するにはふさわしいとは思えません。イタリアの5つの特別自治州のように、明治から北海道、沖縄に関しては暫定的に特別自治州的な優遇政策処置をとってきた。道州制論議(道と州を置く地方行政制度。北海道以外の地域に複数の州を設置し、それらの道州に現在の都道府県より高い行政権を与える構想を指す。)も、首都の政財界(諸井虔など)が区割りを勝手に決めている状況であり、財源と権限に関する論議が行われていません。もともと、君主国や都市国家、あるいは主権国家が統合して国家を形成した連邦国家とは異なり、中央から自治を区分する形態は分権であり主権ではありません。「地方分権」という場合、平成期の日本のように、中央政府が指揮命令権を持ったまま、地方を「出張所」として仕事を投げ売りするケースも起こり得るといわれています。このように、地方統治の合理化としての「地方分権」は、「中央分権」と揶揄されることもあります。明治維新で廃藩置県が行われ、再三の統廃合が中央から実施されました。「地方分権」や「地方主権」といっても、同州制もただ県の範囲を拡大した併合であっては、基礎自治体(市や村)が主体なのか、県が主体なのか、道州が主体なのか、というように、どの規模の地方自治体が主体性を持つかによって、意味合いも異なるのです。一方で、国は「小さな政府」と称しつつ、地方への統制の強化と合理化を進めている。これは、市町村を大量に削減し、次いで広域自治体である県を大量に削減しようという発想としての道州制で、中央集権の強化という色が濃い。政府の道州制論議や、その前段階の三位一体の改革では、国の行政機関・機能・財源を都道府県に委譲するのを拒み、都道府県や市町村の「住民自治」の部分のみを「小さな政府」として、国は依然として統制権の強い「大きな政府」に留まろうとする意見が散見されるために、全国知事会では反発がある。それに対して大阪府のように他の政令指定都市では、府県と市との二重行政の弊害が指摘されている。国に政治機能を残して都府県の上に新たに州を設置すれば、「地方分権」は、「中央分権」をさらに複雑化するデメリットを指摘される。戦前から道州制議論はすでに続いてきており、一極集中と地方衰退、人・財・時間などの無駄をまねいている弊害は、誰もが認めるところです。とくにEUヨーロッパ諸国の国家主権や地方分権がどのようなウエイトかはくわしくはわからないものの、現代では国際関係行政区分の階層は無駄を省き、単純化することが最善である。

    2.北近畿地方の地方自治

    まるごと北近畿北近畿広域観光連盟の画像をお借りしています。 律令制の「山陰道」として丹波・丹後・但馬という地域をもう一度考察してみたいと思います。古くから日本海側に出雲から北陸にかけて朝鮮半島との交流文化圏を形成してきました。また、都に近い(近国)ために大陸との経由地点として交流がさかんでした。 したがって、古代には若狭・丹後・但馬・因幡、さらに出雲・越国も含めた広域な出雲文化圏を形成していました。歴史風土的に似た面が多く、また、若狭・丹後・但馬は、五畿(山城・大和・河内・和泉・ 摂津)との影響も受けやすい近国と位置づけられ、独自色が薄く強固な基盤を持ちにくいといえます。

    廃藩置県後、若狭は当初滋賀県に、のち福井県に、丹後・丹波・但馬は豊岡県に、のちに丹後・丹波(北東部)は京都府に、但馬・丹波(南西部)は兵庫県にとそれぞれ分かれており、交通面で山陰本線でも横との直通運行はなくなり、連携は少なくなっています。

    福井県の場合

    仮に道州制が施行された場合、福井県の所属について地方制度調査会(所在地:東京都区部)による区割り案は、9道州の場合は関西州に、11道州及び13道州の場合は北陸州、また、「熱論・合州国家日本」に掲載されている区割り案では、大前研一案が北陸道、平松守彦案が関東信越州、江口克彦案が信越北陸州とされている。 明治初期には約4年半の間、嶺北は石川県、嶺南は滋賀県だった。

    2006年3月1日、河瀬一治・敦賀市長は、新年度当初予算案発表会見の中で道州制について触れ、以下のように発言した。

    • 「嶺南の総意は近畿(関西)に入る事。嶺北が北陸に入るならば縁を切る事もある。」
    • 「文化圏や今秋(2006年秋)のJR直流化など、嶺南は近畿に近い。嶺南だけを見れば当然、近畿。県も経済的な繋がりが深い近畿に向いているだろう。嶺北が北陸に入るとなれば、縁を切って、お別れという事になる。」次いで、同年3月6日には、村上利夫・小浜市長も、市議会の所信表明で道州制について触れ、以下のように発言した。
    • 「福井県が関西と圏域を一にする事を強く主張する。少なくとも小浜市や嶺南が北陸に属する事はあってはならない。」
    • 「道州制は、東京一極集中を是正する動機になるやもしれぬと期待している。国と県で論議されるべき問題だが、地域割りについては市町村として決して看過できる問題ではない。自治体としての意思表示を明確にすべき時だ。」鳥取県の場合財界では、中国地方5県で一組の州とする「中国州」を提唱している。鳥取県においては鳥取市の経済界を中心に「関西州」への編入を求める声も上がってきている。一方で県西部の米子市などでは道州制導入に際し、島根県松江市などと合併して「中海市」を設ける考えが以前から存在しており、東・中部と西部の間で意見のずれが生じている。また、平井伸治鳥取県知事は近畿ブロック知事会への参加を表明、2008年6月6日、正式に加入が認められたことから県内の道州制論議に何らかの進展をもたらす可能性がある。

      近畿地方

      近畿ブロック知事会では、道州制を拒否している井戸敏三・兵庫県知事以外にも、西川一誠・福井県知事が道州制に反対する意見を出しており、山田啓二・京都府知事も道州制に対して慎重な意見を出している。

      2004年6月30日には、京阪神の経済団体から、近畿2府6県(福井県・滋賀県・京都府・三重県・奈良県・和歌山県・大阪府・兵庫県)に、四国の徳島県を加えた広域行政体の設置を求める提言が出されており、州庁の組織や行政運営に留まらず、州の様々な設置方法も提案されている。

      2007年9月21日、政府の道州制ビジョン懇談会において江口克彦座長(PHP研究所社長)は、東京23区と大阪府を特別州とし、東北・北信越など全国を12道州に分ける私案を公表した。

      また、中国地方では、財界では、中国地方5県で一組の州とする「中国州」を提唱している。鳥取県においては鳥取市の経済界を中心に「関西州」への編入を求める声も上がってきている。一方で県西部の米子市などでは道州制導入に際し、島根県松江市などと合併して「中海市」を設ける考えが以前から存在しており、東・中部と西部の間で意見のずれが生じている。また、平井伸治鳥取県知事は近畿ブロック知事会への参加を表明、2008年6月6日、正式に加入が認められたことから県内の道州制論議に何らかの進展をもたらす可能性がある。

    3.近畿地方の地方自治

    近畿ブロック知事会では、道州制を拒否している井戸敏三・兵庫県知事以外にも、西川一誠・福井県知事が道州制に反対する意見を出しており、山田啓二・京都府知事も道州制に対して慎重な意見を出している。 2004年6月30日には、京阪神の経済団体から、近畿2府6県(福井県・滋賀県・京都府・三重県・奈良県・和歌山県・大阪府・兵庫県)に、四国の徳島県を加えた広域行政体の設置を求める提言が出されており、州庁の組織や行政運営に留まらず、州の様々な設置方法も提案されている。

    2007年9月21日、政府の道州制ビジョン懇談会において江口克彦座長(PHP研究所社長)は、東京23区と大阪府を特別州とし、東北・北信越など全国を12道州に分ける私案を公表した。

    また、中国地方では、財界では、中国地方5県で一組の州とする「中国州」を提唱している。鳥取県においては鳥取市の経済界を中心に「関西州」への編入を求める声も上がってきている。一方で県西部の米子市などでは道州制導入に際し、島根県松江市などと合併して「中海市」を設ける考えが以前から存在しており、東・中部と西部の間で意見のずれが生じている。また、平井伸治鳥取県知事は近畿ブロック知事会への参加を表明、2008年6月6日、正式に加入が認められたことから県内の道州制論議に何らかの進展をもたらす可能性がある。

    出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司
    放送大学准教授 山岡 龍一
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たじまる 地方自治-6

目 次

  1. 平成の大合併
  2. 平成の大合併の目的
  3. 合併のメリット・デメリット
  4. 地方分権一括法
  5. 三位一体改革

1.新憲法における地方自治

明治憲法は、地方自治に関する規定は存在せず、あくまで国の行政の一環として地方行政があるという位置づけでした。しかし、市町村には一定の自治が認められており、大正デモクラシー期には地方自治の拡充という動きもありましたが、それら市町村は、国の地方機関としての都道府県下に置かれるものであって、本来的な意味での地方自治が達成されていたとは言い難いものでした。

これに対して1946(昭和21)年に公布された新しい憲法は、第八章に地方自治の章を設け、国家体制のなかで明示しています。憲法のなかでは「地方自治の本旨」がうたわれ、さらに1947年には「地方自治法」が施行され、府県知事は官選から公選に、また府県の役割自体も広域自治体としての性格を持つようになりました。

その一方で、自治に「不慣れ」な市町村に対する中央省庁の不信感も根強く、いかにして地方をコントロールするかが大きな問題となっていました。こうしたなか、各省は国の事務権限を都道府県から引き上げる方針が明らかにされたことをきっかけに、その妥協の産物として都道府県知事や市町村長などを国の機関と見なして国の事務を行わせる、「機関委任事務」を多用するようになりました。これ以降、1990年代に地方分権改革論議が高まり、機関委任事務が廃止されるまで、機関委任事務は、国の地方に対する重要なコントロールの手段として用いられることとなりました。

1.シャウプ勧告

1949年に提出された「シャウプ勧告」は、地方公共団体の財政的基盤を強化することをめざして以下の三つの原則を示しました。その内容は、国庫補助負担金の大幅整理、税源分離原則、のちの地方交付税の原型というべき「平衡交付金制度」などからなるものでした。

  1. 責任明確化の原則
      国、都道府県、市町村の三段階の行政機関事務は明確に区別し、一段階の行政機関には一つの特定の事務が割り当てられ、さらにそれぞれの行政機関はその事務の遂行と一般財源によってこれをまかなうことについて、全責任を負うべきである。
  2. 能率の原則
      それぞれの事務は、各段階の行政機関がこれを能率的に遂行するために、規模、能力、財源によって準備の整っているレベルの政府(機関)に配分されるべき。
  3. 市町村優先の原則
      地方自治のためには、事務の再配分は市町村に第一の優先権が与えられ、第二に都道府県に、そして国は、地方レベルでは有効に処理できないような事務だけを引き受けるべきである。

実際には、シャウプ勧告は、日本の実情に合わないとする中央省庁の強い反発にあい、その内容が反映されるのはごく一部にとどまりました。また市町村優先主義の明示は、戦前に地方行政の機関として機能してきた都道府県の反発をも招きました。

やがて1952(昭和27)年、講和条約により日本の再独立が認められると、こうしたシャウプ勧告に示された方向性は転換されました。そして1956(昭和31)年に改正された「地方自治法」では、都道府県と市町村の指揮監督の関係が明確にされ、終戦直後に目指された市町村を中心とする地方自治を構築しようとする試みは、いったん閉ざされることとなりました。こうした動きが再燃するのは、1990年代の地方分権議論に際してでした。

「政治学・行政学の基礎知識」 著者: 堀江湛・真下英二

1.地方公共団体の財政

膨大な借入金残高を抱えるなど、現在、日本の地方財政はさまざまな問題を抱えていることが指摘されています。そもそも戦後日本の地方財政は、自治体の税収が歳入全体の三割程度にしかならないことから生まれた「三割自治」と言う言葉に象徴されるように、憲法に保証された自治を可能にするための基盤が極めて弱い。シャウプ勧告は市町村財政の基盤強化を唱えましたが、中央省庁や都道府県の反発により頓挫した経緯もあり、地方公共団体の中央への財政的依存度は非常に高いものです。

国や地方公共団体の活動のための歳入の基本となるのが「国税」及び「地方税」です。2001年度の国民が負担する租税のうち約六割にあたる約50兆円は、国の財源となる国税です。これに対し同年度の歳出は、国と地方の歳出純計額約160兆円のうち、地方は約96兆円と、国の約1・5倍になります。つまり、地方は収入が少なく支出が多い状態にあるわけです。地方公共団体が活動するためには、国から相当の財源移転を行わなければならないわけです。

地方公共団体の主な財源は、地方公共団体の税収である「地方税」と、国税として徴収され、一部または全部が一定の基準で地方公共団体に譲与される「地方譲与税」「地方特例交付金」「地方交付税」「国庫支出金」、さらに借金にあたる「地方債」です。

このうち「地方特例交付金」や「地方交付税」は国からの財政移転ですから、地方独自の収入となるのは「地方税」と、実質的に地方税とほぼ同じ性格を持つ「地方譲与税」です。そして地方公共団体の歳入のうち、これら財源が占める割合は、平均で三~四割程度に留まっています。つまり、必要とされる財源のうち六割は、国からの支出や借金に頼らざるを得ないということになります。

「国庫支出金」は、いわゆる補助金で、公共事業や義務教育など、地方公共団体が行う特定の事務や事業に関わる経費について、国がその使途を指定して支給するもので、地方公共団体としては、獲得するために特定の事業を行ったりするために地方行政が硬直化する可能性があります。また、地方行政体制の縦割り化を促進することにもつながります。

「地方交付税」は、富裕団体とそれ以外の団体との格差をなくそうとするもので、使途も限定されていませんが、財源の乏しい地方公共団体ほど多額の交付税を公布されることにつながり、地方が自助努力によって収入を増やそうとする意欲を失わせてしまうとの批判もあります。

これら国からの支出に、歳入の六割を依存している現状では、地方公共団体の活動に一定の裁量権が与えられたとしても、これを自主的に実施できる可能性は大幅に低下します。その結果、地方公共団体の活動は、財政を通じて国のコントロールを受けることにつながっていると考えられています。

1.平成の大合併

明治の大合併や戦後の昭和の大合併は、それぞれ小学校、中学校の運営に必要な規模という、国において明確な行政規模の設計の上での合併推進だったのが特徴的です。これらに対して、高度成長期の合併と平成の大合併については、そのような目標設定がないまま、財政規模の増大、財政破綻の回避に、住民の競争心や危機感をあおる形で行われ、「理念なき市町村合併」という批判があります。

次ぎのような大きな流れを経ています。

  • 1999年(平成11年)4月頃から2006年(平成18年)4月頃にかけて起こった合併ブーム。
  • 1965年(昭和40年)に十年の時限立法として制定された合併特例法は、1975年(昭和50年)以降も十年毎に延長を繰り返して来たが、1970年代後半からは合併の動きが低調になりました。そのような中、1980年代末頃から、商工会議所などの経済団体や青年会議所を中心として、市町村合併を推進する提言が各地で行われ、これを報道機関が、明治の大合併、昭和の大合併に続く「第三次合併ブーム」と報じた。
  • これを受けた形で、1995年(平成7年)に改定された合併特例法では、住民の直接請求により法定合併協議会の設置を発議できる制度や、合併特例債制度の設置などが盛り込まれた他に、政令指定都市への移行や、町村の市への移行のための人口要件の緩和なども、数度の改定で盛り込まれ、合併論議が加速されることになりました。
  • 影響が大きかったのは、政府(旧自治省、現総務省)による合併特例債を中心とした行財政面での支援及び三位一体改革の元に行われた地方交付税の削減である。 合併特例債は、法定合併協議会で策定する「合併市町村建設計画」に定めた事業や基金の積立に要する経費について、合併年度後10年度に限り、その財源として借り入れることができる地方債のことで、対象事業費の95%に充当でき、元利償還金の70%を後年度に普通交付税によって措置されるという、破格の有利な条件だった。合併特例債等の特例が2005年(平成17年)3月31日までに合併手続きを完了した場合に限ると定められたことから、駆け込み合併が相次いだ。また、合併直前に施設整備や職員採用を行う市町村や、合併特例債による町おこしとして注目を浴びた兵庫県篠山市がその後急激に財政状況を悪化させるなどの事例が発生し、新聞紙上には「合併バブル」という言葉も現れました。合併特例債がアメと言われたのに対して、ムチと言われたのが、地方交付税の削減です。従来、地方交付税は小規模町村には優遇政策が取られていましたが、三位一体改革の名の下、大幅な削減がなされるようになり、地方交付税への依存度が高い小規模町村を直撃しました。

    ただし小規模町村であっても、原発等の電力事業等の交付金等により、地方交付税への依存度が低い町村の合併は進みませんでした。平成の大合併での市区町村数の変化は、東京都が63から61に、神奈川県が37から33市にしか減らず、都市部における合併が進まなかったのに対して、新潟県が112から31、富山県が35から15になる等、地方と呼ばれる地域の合併促進の要因となりました。

    市町村合併の動きは2003年(平成15年)から2005年(平成17年)にかけてピークを迎え、平成の大合併の第一弾が終了し、1999年(平成11年)3月末に3,232あった市町村の数は、2006年(平成18年)4月には1,820にまで減少しました。

    その後、2005年(平成17年)4月に施行された合併新法(市町村の合併の特例等に関する法律)に基づき、引き続き市町村の合併が進められている。合併新法においては、合併特例債などの財政支援措置がなくなったため、合併の動きは鈍いが、県に合併推進勧告の勧告権があることから、合併新法の期限である2010年(平成22年)3月末に向けて、合併の動きが進むことが予想されます。

日本の市町村数推移
1888年(明治21年)末71,314
1889年(明治22年)末15,820
1953年(昭和28年)10月9,868
1961年(昭和36年)3,472
2006年(平成18年)4月1,820
2008年(平成20年)4月1,788

 

2.平成の市町合併の目的

政府などが掲げる目的は、概ね以下の通りです。

  1. 地方分権に対応して、基礎自治体の財政力を強化できる。
  2. 車社会の進展に伴う、生活圏の広域化に対応できる。
  3. 政令指定都市や中核市・特例市になれば、権限が移譲される。 しかし、政府主導による平成の市町村合併ブームには、以下のような批判も少なくありません。
  1. 住民発議で合併に誘導する制度はあっても、合併の是非を問う住民投票が法制化されていない。このため、一応は議会の議決はあるものの、住民に歓迎されない合併も行われている(例:大崎市)。
  2. 合併に関する特例法は存在するが、分割や分立に関する特例法が存在しない。
  3. 合併後にも、旧市町村の議員が、そのまま新市町村の議員として任期を延長できる「在任期間の特例」に関する問題がある。財政難を理由にして合併をしても、合併後には議員の任期と給与を上げる事例が目立つ。
  4. 合併後の市町村の名称が、歴史的な地名を軽視した「方角とひらがな」ばかりになっている。(→#合併後の名称問題)
  5. 「規模を適正にする」という観点を軽視した合併が行われている。このため、県の面積に匹敵する巨大な市が、次々と作られている。
  6. 財政問題の解決を口実にした合併が目立つため、原発が立地することで国からの支援が降りる小規模自治体、空港などの固定資産税、あるいは大企業・大工場・莫大な収入を持つ個人からの地方税によって裕福な小規模自治体などは、合併による周囲の財政難自治体の債務の肩代わりを嫌って、合併しない例が多かった。そのため、将来の財政難を理由に合併した市町村が、「貧民連合」と侮蔑的に呼ばれた。
  7. 各市町村の思惑が絡み合い、いびつな飛地が多数発生した(例:津軽半島周辺)。
  8. 初めに合併ありきで合併したため、生活圏が異なる自治体同士が合併したケースがある(例:大崎市、相模原市など)。
  9. 財政の健全化が目的なのに、合併特例債(前述)によるバラマキにより却って財政悪化に繋がりかねない。

これらの問題点が挙げられていることから、福島県東白川郡矢祭町や群馬県多野郡上野村などのように、合併を拒絶して、自立・自律や独自性を謳う市町村も現れている。これらの中には、山間部などに位置していて、合併によって一層の過疎化が懸念されている所も少なくない。

反面、住民が合併を望んでいるにも拘らず、「自立」を謳って合併を拒絶したり、合併協議の破談や首長と議会の対立の末に「自立」を謳う市町村もまま見受けられる。

もちろん、住民が分割や分立を望んでいるにも拘らず、議会や首長が拒絶をする市町村もある。

3.市町村合併のメリット・デメリット

以下にメリット・デメリットを記載するが、規模等により大きく異なることがあるので、あくまでも一般的なものである。

メリット

住民生活の利便向上

* 住民の生活行動圏に見合った行政サービスの広域化
通勤・通学、通院、買い物等の行動圏域は従来の行政区画を越えている場合が多いが、行政区域が広域化することによって、住民票の写しの交付等の窓口サービスが勤務地や外出先などの近くで利用できるようになる。また、文化会館、図書館、スポーツ施設等の各種公共施設については、それまで利用に制限がある、利用料金に差がある等した隣町の施設についても、同条件で利用が可能となる。
* 住民サービスの高度化
住民の価値観の多様化により市町村行政に求められる機能も高度化・複雑化しているが、専門的知識を備えた職員を確保することにより、専門的かつ高度な行政サービスを提供できるようになる。
地域づくりの進展
* 地域のイメージアップ
「市」への施行、あるいは新しい市町村名とすることにより、地域としての全国的なイメージアップが図られ、地域経済の活性化や若年層の定着、観光交流客の誘致、大型プロジェクトの誘致等へのプラス効果も期待できる。しかし、「市」の数が増えてしまうとせっかく「市」になっても知名度が上がらず意味がないことが多い。むしろ今まで知名度のある市町村名を消すことで知名度が下がることもある。
* 地域づくりの契機
合併の議論を通じて、自らのまちを見直す機会となる。合併後も、まちづくりビジョン実現のため、住民、諸団体の地域づくりへの主体的参画が期待される。
* 行財政の効率化
個々の自治体が行ってきた管理業務を一つに集約することにより、職員数や経費を削減する一方、新たな行政ニーズの発生している部門に充てることができる。職員数も人口当たり少なくなすることができるため、行政サービスの向上を図りつつ、人件費や経費を抑制することができる。ただし、合併で消滅する自治体においても市町村職員の地位は法律で保証されているため、人員抑制・削減効果が期待できるのは合併後数年以上経過してからとなる。また、支所の配置方式によってもその効率化効果はかなり異なってくる。
* 施設の効果的配置
住民の生活行動圏に即した広域的な視点から公共施設を計画的かつ効率的に配置することとなり、隣接した地域での類似施設の重複を避けることができる。ただし、合併前の駆け込みで事業実施する等の弊害も生みがちである。
権限の拡大、行政能力の向上
* 行政の高度化・専門化
長期的には、行政規模拡大により生み出された財源や人員の余裕を、現代においてニーズの高い都市計画、環境政策、情報化、法務等、高度に専門性を要する分野へと振り向けることにより、多様で専門的な人材を長期的に確保し、行政サービスの高度化・専門化を図ることができる。
また、計画的かつ体系的な職員研修プログラムなどを通じて、行政職員の政策形成能力の向上が図られる。
* 広域的な地域づくり
広域的な視点に立った交通基盤や各種公共施設の整備、総合的な土地利用の推進などにより、一体的な地域づくりを効果的に実施することができるようになる。さらに、環境問題や観光交流振興など従来の市町村域の枠を越えた広域的な取組みが求められる領域においても、一体的な対応が可能となる。
さらに、政令指定都市、中核市、特例市や市制への移行等により、自治体としての権限が拡大する効果も期待できる。
* 大型事業の実現
行財政の効率化によって生み出される財源を、選択と集中により、新たな地域づくりや産業振興のために重点的に投資することが可能となる。財政規模の拡大によって、重点的な投資が可能となり、今までの個別自治体の規模では困難だった大型事業を計画的に実施することができる。

デメリット

* 端々の地域が寂れる庁舎の存在する地域は市町村の目も届き、各種事業が実施される。しかし、周辺部においては強く事業実施を要望しても、取り残されることはほぼ確実であり、中心部と周辺部の格差が拡大しがちである。また、それまで行なってきた地域づくり活動が継承されず、その成果が省みられなくなってしまう。例えば、2005年に合併した北海道の(新)石狩市では、南北に細長い地形と住宅密集地が南部の地区に集中していることも相まって、北部の旧厚田村(今の同市厚田区)や旧浜益村(今の同市浜益区)で顕著である。

ひいては、従来の歴史、文化、各種伝統行事といった地域の特徴が失われる恐れがある。地区出身の町村職員が自発的に地域文化を支えてきた面も一部にはあり、これら職員が本庁に吸い上げられることによって、担い手が確保できず消滅することになりかねない。

* 市町村行政と地域住民との距離の拡大行政組織が大きくなって、また議員の数も減少し、地域の住民の意見が市町村行政に届きにくくなる。また、行政の広報委員としての役目の他に、地域と市町村行政との実質的なパイプ役となってきた区長等の地区役員制度も都市部の様式に統一されることによって、機能が削がれる恐れがある。合併により誕生した岐阜県の新・高山市や同県の飛騨市が顕著な例である。

* 行政サービスの低下役所や公共施設への距離が遠くなり、不便になる。効率化によって、行政サービスが高度化するとはいえ、それらは長期的に効果発現するものであり、また直感的には感じられにくいものである。また、分庁舎方式で各旧自治体役場に各部署を分散させる方式を採った場合、申請や手続きの度にその部署を有する遠く離れた分庁に足を運ばなくてはならない。

* 住民・事業所負担の増大町村から市に移行する場合、今まで安かった公共料金が合併で大幅に値上がりしたりなど税等の住民や事業所の負担が増大することがある。例えば、函館市と合併した南茅部町、椴法華村、恵山町、戸井町では水道料金が大幅に値上がりし、ゴミと託児所が有料化された。

* 意見が通らなくなる比較的大きな市と小さな町村が合併した場合、両者の産業の種類に大きな差があると、小さな町村の産業は無視される。また、市長選挙でも大きな市ひとつの人口が他の町村の人口を上回ることがよくある。市議会選挙においても同様で、当選には旧町村議会とは比べものにならない票数を必要とするため、旧町村内で候補者を調整しても、数名の議員しか当選させられず、議会の主導権は完全に旧市側に握られる例が多い。また、選挙日の事務効率化で合併により開票所までの距離が遠いことで繰上げ投票時間を設定する必要が出てくる。

例えば、石狩市は石狩市と厚田村と浜益村が合併して誕生したが、旧石狩市は札幌のベッドタウンと商業港の町だったのに対し、厚田・浜益両村は漁業を中心とした村である。石狩市の人口は両村合わせた数の10倍以上であり、両村の意見はほとんど通らなくなる。

4.地方分権一括法

日本の中央地方関係について、その特徴を「集権的分散システム」と表現することがあります。実際、地方財政は国庫に、つまり中央政府による地方への財政移転に大きく依存しています。これは中央政府よりも地方政府の歳出額の方が圧倒的に大きいことを意味します。それに対して、歳入額は、税制上地方が受け取る金額は少なくなっています。

米国の場合、連邦政府が税財源を持ち、州や市、郡もそれぞれ税財源を持っており、必要な予算を賄う際には、一定の要件を満たせば、税率を変更することができます。これに対して、日本では多くの税財源について国、中央政府が一括して国民からの税金を集めるシステムになっており、国を介さずに地方へ直接納められる税金は限られています。

このように国に一旦税金を集め、それを配分していくシステムはある意味で集権的であるといえるでしょう。
そして、その税収をどう配分するのかは国の判断で決定され、その決定に基づいて地方交付税や国庫支出金という形で、均衡の原則に基づいて全国の自治体へと配分されています。

歳入の自治において、自治体は制約を受けており、各自治体は歳入の規模と内容を自ら決定することができません。つまり、自治体には「課税自主権」がないため、たとえば福祉を充実させるために、あるいは財政的な苦しさを理由に税率を上げたいと考えてもできないことになります。さらに、特別な税を自治体が独自に課そうとしても、中央政府の承諾なしには実施することはできません。

また、自治体からみると、歳入は「自主財源」「依存財源」の二つに分かれますが、そのうち地方税は自主財源、地方交付税は依存財源にあたります。これらは地方自治体の一般会計に入るので、何にいくら使うかは自治体が決めることになります。これに対して、「国庫支出金」とよばれる補助金があり、これは各省庁が自治体に対して国が指定する業務を行わせるために配分される予算です。この他にも、予算の不足を補うために地方債という債券を自治体は発行しています。このように地方自治体は国の支持を受けることが多くなっているわけです。

地方分権一括法制定前

1990年代半ばから、こうした状況を改善すべく地方分権改革が本格化し、1999年「地方分権一括法」という法律が制定され、翌年4月に施行されました。これは均衡の原則よりも自治の原則を、より重視した内容です。この際に設置された、有識者などからなる地方分権推進委員会は、中央省庁による「縦割り画一的行政システム」をなくして住民主導による行政システムに改めようという結論を出しました。

この法律が施行される前の時代の地方自治制度についてみてみますと、一言でいえば、自治体の仕事の大半が国の仕事を肩代わりすることで占められていました。当時の自治体の事務には、公共事務、団体委任事務、行政事務、機関委任事務がありました。

  • 「公共事務」…住民票を発行するなど自治体が本来行うべき事務
  • 「団体委任事務」…法令によって自治体に実施が義務づけられた事務
  • 「行政事務」…地方公共のための規制や取締りに関する事務 この三つの事務は自治体が当然に行うべき事務として位置づけられていました。そして、自治体のすべての事務の中で多くを占めていたのが、「機関委任事務」でした。それは、本来国が行うべき事務ではあるものの、国(各省庁)が3200市町村(当時)に出先機関を作って、国道や橋の管理を行うのは効率的ではないという考えから、地方自治体が国が決めたことをその通りに行う事務のことであり、所轄大臣が指揮監督して知事が執行し、さらに知事が指揮監督して市町村が執行するという図式になっていました。

    そして、この機関委任事務が都道府県の仕事の80%、市町村の仕事の40%を占めていました。つまり、選挙で都道府県知事や議員を選んでも、実際に彼らは住民を向いて仕事をしなくなります。霞ヶ関に対して責任を負い、国から言われた通りにやっているかどうかが問われるからです。そうすれば、国から国庫支出金をもらうことができ、財政的にその自治体は維持されることになります。これが地方自治の問題の一つといわれてきました。自治体に委ねられた仕事の大半が中央省庁に決定権があり、自治体としての仕事と国の下部機関として行う中央省庁の仕事(機関委任事務)が融合しており、これを「集権融合型システム」と呼んでいました。

    機関委任事務の廃止と法定受託事務、自治事務

    機関委任事務を廃止しようという機運が1990年代になって高まり、やがて地方分権一括法の制定、施行にいたり、機関委任事務の見直しが行われました。

    具体的には、機関委任事務の全704項目のうち、事務自体廃止となったのが11項目、国立公園の管理のように国の直接執行事務になったものが20項目、飲食店の営業許可や病院開設許可など、これまで国の事務だった398項目が「自治事務」として自治体、特に都道府県レベルの事務になりました。そして、これまで通り国が責任を負うもの、効率性、利便性を考慮して都道府県に処理を委ねられた事務が275項目あり、これを「法定受託事務」としました。これは以前の機関委任事務と似た性格を持つ項目といえます。公共事務、団体委任事務、行政事務も廃止され、自治事務に統合されました。

    法定受託事務は、機関委任事務と似ているものの異なる点は次の三つです。

  • 自治体が条例を作れるようになりました。
  • 国と地方の間で対立した場合、国地方係争処理委員会が設置され、形式的には国と地方が対等な立場で話し合えるようになりました。
  • 国が関与する最良並びに事務が減らされた。 しかし、裁量が広がったかわりに、自治体が国の言うとおりに処理しなければ補助金の支給等に影響が出てくるために、実際には地方が国の意向に反することはなかなか難しいよいう指摘もあります。▲ページTOPへ

5.三位一体改革

このように自治体の自助努力が促されない財政調整制度によって、より大規模な財政移転を迫られている国の財政が圧迫され続けています。そこで、国の負担を軽減するとともに自治の原則をより重視して自治体の財政基盤の強化を図るために、まず、自治体同士の合併が促されることになりました。つまり、財政規模が大きくなればより安定し、さらに首長や議会は一つに統合されるなど自治体経営も効率的になるという考えからです。

それまで100万人前後が目安となっていた「政令指定都市」は、70万人規模でも認められることになり、静岡市がその例として挙げられます。また、人口が30万人以上で面積が100平方キロ以上の自治体になると「中核市」ななることができるとし、旭川市、青森市、宇都宮市などが認められました。人口20万人以上の自治体は「特例市」に指定されることができるとし、盛岡市、福井市、鳥取市などが指定を受けました。

しかし、自治体への権限委譲の内容をめぐっては、地方分権推進委員会とそれに抵抗する霞ヶ関との折衝の末、政令指定都市や中核市、特例市になっても、さほど大きな権限が自治体に与えられませんでした。このように、地方分権一括法や大都市への権限委譲という過渡的処置では限界があったため、小泉内閣になって「三位一体改革」が行われることになりました。これは、国から地方への補助金削減、国から地方への税源移譲、地方交付税の見直しの三つを一度に行おうというものでした。具体的には税源については国税の取り分として入ってきていたものを地方税に切り替え、地方税を充実させて補助金を減らすことで自治体の歳入に占める地方税の割合を引き上げ、その分だけ地方交付税を引き下げることで交付団体を減らそうとしました。このように財源不足を解消して地方財政のプライマリーバランスをとる、つまり公債費を除いた歳入と歳出の収支を黒字にし、国から地方への財政移転を減らそうと考えました。

また、補助金等の削減によって小さな自治体において行政サービスが立ち行かなくなることを回避するため、行財政基盤の強化のために、2005年3月をめどに国は「市町村合併」を強力に推進しました。つまり、大きな自治体が大きな権限を持って効率的に自治体経営を行うことが望まれたわけで、実際3200市町村は1800にまで減りました。

しかし、補助金改革では、補助金の対象となっている事業項目も削減してその権限を自治体に委譲するはずでしたが、現在のところ少なからず項目において補助率の削減にとどまっています。このため、補助率を削減しても、自治体が何かの事業を行う際には所管省庁に申請し、そこで審査を受けるという手続きはそのまま残ることになります。

削減例を見ると、国民健康保険は50%から43%に、児童手当は3分の2から3分の1に、児童扶養手当は4分の3から3分の1に、施設介護給付費は25%から20%に削減されたという状況です。こうして補助率は引き下げられ、財源移譲は進んだものの、権限委譲があまりにも進まなかったことから、自治体の負担は増える一方で、国による関与が続くことになったという批判もあります。

「三位一体改革」による地方分権を進めようとしていますが、地方への財源と権限の保障が曖昧であるため、地方公共団体からは「『地方主権』『自治型社会の実現』からは程遠い」と指摘する声も少なくありません。

出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司
放送大学准教授 山岡 龍一
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たじまる 地方自治-5

地方分権と市町村合併の歩み

概 要

目 次

  1. 日本の地方自治
  2. 地方自治の理念
  3. 日本の「村」の歴史
  4. 最小公共団体の自治
  5. 明治の大合併
  6. 戦前までの合併
  7. 昭和の大合併
  8. 高度経済成長期の合併

日本の市町村の廃置分合とは、日本における市町村の分割・分立・合体・編入をいいます。地方自治法第7条の「市町村の廃置分合または市町村の境界変更」の一形態に当たる。 合体と編入とは合わせて合併といわれるため、合体・編入がほとんどである市町村の廃置分合は、一般には市町村合併といわれることが多い。

日本では過去、1889年の市町村制施行に伴い基礎自治体の数が1888年の71,314から15,859に減少した「明治の大合併」と、1953年の町村合併法施行から新市町村建設促進法1956年を経て1961年までに9,868の基礎自治体が3,472に減少した「昭和の大合併」の大規模な市町村合併がありました。現在は日本では過去、1889年の市町村制施行に伴い基礎自治体の数が1888年の71,314から15,859に減少した「明治の大合併」と、1953年の町村合併法施行から新市町村建設促進法1956年を経て1961年までに9,868の基礎自治体が3,472に減少した「昭和の大合併」の大規模な市町村合併がありました。現在は「平成の大合併」が進行中です。

日本では、明治以降、大局的に見れば市町村数は一貫して減少する傾向にあり、合併の例が分割の例に比べて圧倒的に多い。また、合併や分割の協議の決裂により、飛地が発生する場合もあります。

1.日本の地方自治

「地方自治」という言葉は、元来、日本語ではなく、Local Self-Gohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifernmentという英語を訳したものです。意味は、まさに自分たちで自分たちを統治する「自己統治」を意味します。米国では日本のような地方交付税制度はなく、義務教育をはじめさまざまな地方自治体による行政サービスの多くが地元の負担で行われています。これに対して、日本では中央政府が地方税に関して標準税率を定めており、課税については自治体側には決定権がほとんど認められていません。また、米国では消費税率は州によって異なり、独自に税金を課すこともできます。そのため、税負担が重くても行政サービスが良い自治体もあれば、その逆の自治体もあります。それが、自分たちがどういう自治体にするかを自分たちで決めることができるという、自己統治の意味になります。

地方自治を担うのが「地方公共団体」であり、この地方公共団体にはさまざまなレベルのものがあります。まず基礎的な地方公共団体としては、「市」「町」「村」があり、それは国、都道府県に対して末端に位置づけられる基礎的な行政単位となります。このような基礎自治体の上にあるのが市区町村を包括する広域の自治体で、都道府県になります。これらを合わせて一般に「普通地方公共団体」と呼びます。

「普通地方公共団体」の他に「特別地方公共団体」と呼ばれる自治体があります。東京都の23区がそうで、「特別区」といいます。東京都はかつて東京府であった時代には東京市が置かれ、郡・町・村の呼称を廃し、6の大区の下に97の小区を置き、「大区小区制」が敷かれました。1943年(昭和18年)1月、政府が帝国議会に提出した「東京都制案」が可決され、同年7月1日、東京都制によって東京府・東京市が廃止されて「東京都」が設置されました。都下の各区は特別区と呼ばれ、「特別地方公共団体」に含まれます。区長や区議会が設置されており、政令指定都市の中に設置される区とは区別されます。政令指定都市の区は、基礎自治体が設定して行政区分であり、区長は選挙で選ばれるのではなく、市長が任命した職員が就いています。特別区は都道府県の市町村と同格といえます。

  • 普通地方公共団体:都道府県と市町村。
  • 特別地方公共団体:特別区、地方公共団体の組合、財産区、地方開発事業団。

    単位

    一般的に、国家の行政組織を階層別に分けると、「基礎自治体(市町村役場など)<広域自治体(県庁、州政府、地方王国政府など)<中央政府(連邦政府)」の順で大きくなる。底辺ほど数が多く、広域になるに連れて少なくなる。

    基礎自治体

    都市や村落、即ち「点」「コミュニティー」を範囲とする地方公共団体を基礎自治体といいます。単位系では、都市を市、村落を村として分ける場合もあるが、「○○市」「○○村」を区別しない場合もあります。尚、「○○市」「○○村」を区別せずに一括する国家は、ヨーロッパに多く見られる。

    広域自治体

    県や道(州)など、広い範囲を治める地方公共団体や、複数の基礎自治体が集まって構成される地方公共団体を、広域自治体といいます。「面」「エリア」の概念となる。

    単位の種類には、郡、県、道などがあります。規模は「郡<県<道」の順に広くなり、県は小さな広がりを、道は大きな広がりを指す。規模が大きく異なる為、県規模と道規模の行政区画を区別する事が多い。

    尚、県や道などとは別に、基礎自治体同士の広域連合体が結成される事もあります。この場合は、「○○広域連合」のような一部事務組合の形式を採って、一部の案件を広域連合体に移して実施する事例が見られる。

    「特別地方公共団体」には、特別区の他に「組合」や「財産区」、「地方開発事業団」があります。消防組合や清掃組合がその例としてあげられます。たとえば、現在、日本には1800の自治体がありますが、各自治体がすべて清掃工場を持つことは不可能なので、近隣の自治体同士で連携して一つの清掃組合を持ち、広域で清掃事業を運営するというやり方をとるのです。また、財産区というのは財産ないし公の施設の管理や処分、廃止のために設けられ、地方開発事業団は地方公共団体の間の公共開発事業の実施主体として設けられています。

    2.地方自治の理念

    地方自治の理念は、二つの原則から成り立っており、その相対する原則によって地方自治が直面する重要な問題が生じています。

    一つ目の原則は「自治の原則」であり、これが本来の地方自治の考え方です。つまり、自治の原則により、地域的なサービスは地域の自己決定と自己負担の原則に基づいて供給されるべきものであると考えられます。これは第二次世界大戦後に日本に入ってきた考え方で、それ以前の時代では地方自治はなかったといっても過言ではないのです。たとえば戦前の知事の決め方は民選ではなくて官選でした。

    もう一つの原則は、「均衡の原則」です。国民はどこに居住していようとも、同一水準の税負担で同一水準の行政サービスを享受できるようにしようと言う考え方です。たとえば、公教育は1学級最低40人ということが、均衡の原則によって守られてきましたが、最近では義務教育に対する国庫負担の削減に伴い、自治体の裁量権が増え、財政的に余裕のある自治体は少人数学級で教育を行ったりしていますが、一方で、財政的に苦しい自治体でも自力では行政サービスを行うことができない自治体があるため、国がその財源を補助する仕組みになっています。

    このように自治の原則と均衡の原則はどちらも立派な考え方といえますが、理念的に両者は矛盾しているメンがあります。つまり、自治の原則に従えば、当然自治体が独自性を発揮することが期待されます。しかし、均衡の原則に従えば、そうした独自性よりも画一性、均質性が重視されます。そうした対立する二つの原則の間でこれまで日本の地方自治は運営されてきたわけです。

    3.日本の「村」の歴史

    ここで日本の集落や基礎自治体である(むら、そん)の歴史をさかのぼって考えてみたいと思います。村は、集落や基礎自治体の一種で、第一次産業(農林漁業)に従事する者が多く、家の数と密集度が少ない地域を指す名称です。とも書きました。社会学や地理学では村落といいます。

    町(ちょう)は城下町などの第二次産業(商工業)が密集した地域。または市(都市)。 近代化以前の「村」は自然村(しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位であり、複数の集落の統合体であることが多かったのです。惣村(そうそん)は、中世日本における百姓の自治的・地縁的結合による共同組織(村落形態)を指す。(そう)ともいいます。惣村の指導者には、乙名(おとな)・沙汰人(さたにん)などがありました。また、惣村の構成員のうち、乙名になる前の若年者を若衆(わかしゅ)といいました。中世初期の領主が荘園公領とその下部単位である名田(みょうでん)を領地の単位としていたのに対し、戦国時代や江戸時代の領主の領地は村や町を単位としてきました。中世初期(平安時代後期~鎌倉時代中期)までの荘園公領制においては、郡司、郷司、保司などの資格を持つ公領領主、公領領主ともしばしば重複する荘官、一部の有力な名主百姓(むしろ初期においては彼らこそが正式な百姓身分保持者)が管理する(みょう)がモザイク状に混在し、百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らはそれぞれの領主、名主(みょうしゅ)に家人、下人などとして従属してきました。百姓らの生活・経済活動はモザイク状の名を中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態は出現していなかった。

    しかし、鎌倉後期ごろになると、地頭が荘園・公領支配へ進出していったことにより、名を中心とした生活経済は急速に姿を消していき、従来の荘園公領制が変質し始めた。そうした中で、百姓らは、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強め、まず畿内・近畿周辺において、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村落が次第に形成されていいました。このような村落は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員により形成されていたことから、惣村またはと呼ばれるようになった。(中世当時も惣村・惣という用語が使用されてきました。)

    南北朝時代の全国的な動乱を経て、畿内に発生した村落という新たな結合形態は各地へ拡大していいました。支配単位である荘園や公領(郷・保など)の範囲で、複数の惣村がさらに結合する惣荘(そうしょう)・惣郷(そうごう)が形成されることもありました。惣荘や惣郷は、百姓の団結・自立の傾向が強く、かつ最も惣村が発達していた畿内に多く出現した。また、畿内から遠い東北・関東・九州では、惣村よりも広い範囲(荘園・公領単位)で、ゆるやかな村落結合が形成されたが、これを郷村(ごうそん)といいます。なお、関東においては、惣荘や惣郷の存在について確認されていないが、特殊な事例であるが、香取文書には、下総国佐原において、それに近いものが存在していたことが書かれている。

    室町時代には、守護の権限が強化され、守護による荘園・公領支配への介入が増加した。惣村は自治権を確保するために、荘園領主・公領領主ではなく、守護や国人と関係を結ぶ傾向を強めていいました。そして、惣村の有力者の中には、守護や国人と主従関係を結んで武士となる者も現れました。これを地侍(じざむらい)といいます。惣村が最盛期を迎えたのは室町時代中期(15世紀)ごろであり、応仁の乱などの戦乱に対応するため、自治能力が非常に高まったとされる。

    戦国時代に入ると、戦国大名による一円支配が強まり、惣村の自治権が次第に奪われていいました。中には戦国大名の承認の下で制限された自治を維持する惣村もありました。最終的には、豊臣秀吉による兵農分離(刀狩)と土地所有確認(太閤検地)の結果、惣村という結合形態は消滅し、江戸時代に続く近世村落が形成していったとされるが、惣村の持っていた自治的性格は、祭祀面や水利面などを中心に近世村落へも幾分か継承され、村請制度や分郷下における村の統一維持に大きな役割を果たしたと考えられている。

    惣村が支配者や近隣の対立する惣村へ要求活動を行うときは、強い連帯、すなわち一揆を結成した。一揆(連合、同盟)は元々、心を一つにするという意味を持っており、参加者が同一の目的のもとで、相互に対等の立場に立って、強く連帯することが一揆でありました。

    惣村による一揆を土一揆(つちいっき)というが、土一揆は15世紀前期に始まり15世紀中期~後期に多発した。土一揆は、惣村の生活が困窮したために発生したというよりも、自治意識の高まった惣村が、主張すべき権利を要求したために発生したと考えた方がよい。ほとんどの土一揆は、徳政令の発布を要求する徳政一揆の性格を帯びてきました。当時の社会通念からして、天皇や将軍の代替わりには土地・物品が元の所有者へ返るべきとする思想が広く浸透しており、これを徳政と呼んできました。そのため、天皇や将軍の代替わり時には徳政を要求した土一揆が頻繁に発生した(正長の土一揆、嘉吉の徳政一揆など)。また、支配者である守護の家臣の国外退去を要求した土一揆も見られた(播磨の国一揆)。その他、不作により年貢の減免を荘園領主へ要求する一揆もありました。これらは、惣村から見れば、自らの正当な権利を要求する行為でありました。戦国時代に入り、戦国大名による一円支配が強化されるに従って、惣村の自治的性格が薄まっていき、土一揆の発生も次第に減少していいました。

    江戸時代には百姓身分の自治結集の単位であり、中世の惣村を継承してきました。また、江戸時代の百姓身分とは、主たる生業が農業・手工業・商業のいずれかであるかを問わず、村に石高を持ち、領主に年貢を納める形で権利義務を承認された身分階層を指した。都市部の自治的共同体の単位である(ちょう)に相当しますが、村か町かの認定はしばしば領主層の恣意により、実質的に都市的な共同体でも、「村」とされている箇所も多かったようです。

    明治に入ると、中央集権化のため、自然村の合併が推進されました。

    こうして、かつての村がいくつか集まって新たな「村」ができましたが、これを「自然村」と対比して行政村(ぎょうせいそん)ともいいます。

    4.最小公共団体の自治

    惣村の内部は、平等意識と連帯意識により結合してきました。惣村の結合は、村の神社での各種行事(年中行事や無尽講・頼母子講など)を取り仕切る宮座を中核としてきました。惣村で問題や決定すべき事項が生じたときは、惣村の構成員が出席する寄合(よりあい)という会議を開いて、独自の決定を行っていいました。 惣村の結合を維持するため、寄合などで惣掟(そうおきて)という独自の規約を定め、惣掟に違反した場合は惣村自らが追放刑・財産没収・身体刑・死刑などを執行する自検断(じけんだん)が行われることもありました。追放刑や財産没収は、一定年限が経過した後に解除されることもあったが、窃盗や傷害に対する検断は非常に厳しく、死刑となることも少なくなかった。なお、中世の法慣習では、支配権を有する領主や地頭などが検断権を持つこととされていたが、支配される側の惣村が検断権を持っていた点に大きな特徴があります。(検断沙汰も参照。)

    荘園領主や地頭などへの年貢は、元々、領主・地頭側が徴収することとされていたが、惣村が成立した後は、惣村が一括して年貢納入を請け負う地下請(じげうけ)が広く行われるようになった。地下請の実施は、領主側が惣村を信頼していることを意味するだけでなく、年貢納入が履行されなければ惣村の責任が強く問われることも意味してきました。地下請の伝統は、惣村が消滅し、近世村落が成立した江戸時代以降も承継されていいました。

    惣村は、生産に必要な森・林・山を惣有財産とし、惣村民が利用できる入会地に設定した。惣村の精神的な中心である神社(鎮守)を維持するために神田を設定し、共同耕作することも広く見られました。また、農業用水の配分調整や水路・道路の普請(修築)、大川での渡し船の運営など、日常生活に必要な事柄も主体的に取り組んでいいました。

    近現代の大字(おおあざ)といわれる行政区域は、ほぼかつての自然村を継承しており、現在でも地方自治法の第七章「執行機関」第四節「地域自治区」(第202条の4~第202条の9)として旧自然村に相当する単位での自治が法律上認められています。また、自治会(地区会・町内会)や消防団の地域分団の編成単位として、地域自治の最小単位としての命脈を保っている面があります。

    5.明治の大合併

    明治維新後も江戸時代からの自然発生的な地縁共同体としての町村が存在し、生活の基本となっていました。当初、明治政府はこれと無関係に大区小区制を敷きましたが、住民の反発が大きかったことから、1878年(明治11年)に郡区町村編制法を制定し、町村を基本単位として認め、郡制及び5町村程度を管轄する戸長役場を置きました。しかし、府県、郡役所、戸長役場、町村という複雑な4層構造になってしまったため、行政執行に適した規模の町村の再編が必要となりました。 やがて明治政府は、1888年(明治21年)に市制及び町村制を公布するとともに、内務大臣訓令で、各地方長官に町村合併の推進を指示しました。これに基づき強力に町村合併が進められた結果、町村数は、1888年(明治 21年)末の71,314から1889年(明治22年)末には15,820となり、約5分の1に減少しました。このときは、おおむね小学校1校の区域となる、約300戸から500戸が町村の標準規模とされました。

    明治の大合併を経て、地縁共同体だった町村は、近代的な意味で地域を行政統治するための地方公共団体に変貌することとなりました。しかし、大きな合併を経ていない小規模町村においては、現代に至るまで江戸時代からの地縁性が残っており、欧米と比較したとき、その地方公共団体と江戸時代からの自然村的な集合体との二重性が日本の町村の特長となっています。

    6.戦前までの合併

    • 1889年(明治22年)以降も町村合併は進められ、1898年(明治41年)までにさらに2,849減少した。
    • 1898年(明治41年)以降は漸減傾向で推移し、1918年(大正7年)までには267が減少したのみだった。
    • 1923年(大正12年)には郡制が廃止されたが、これをきっかけに町村合併等の機運が盛り上がり、1918年(大正7年)から1930年(昭和5年)までの12年間に、町村数は約500減少した。
    • その後、1940年(昭和15年)紀元2600年を記念して合併が進められた時期などがあり、1943年(昭和18年)には市数200、町村数10,476となりました。
    • 1945年(昭和20年)、第二次世界大戦終戦直後には、市数205、町数1,797、村数8,818となっていました。▲ページTOPへ

    7.昭和の大合併

    第二次世界大戦終戦後、1953年(昭和28年)10月頃から1961年(昭和36年)6月頃にかけて、昭和の大合併と呼ばれる大規模な市町村合併が実施されました。 戦後、新制中学校の設置管理、市町村消防、自治体警察の創設、社会福祉、保健衛生関係などが、新たに市町村の事務とされ、増大した行政執行の財政確保のために、市町村を適正規模に拡大することが必要となりました。

    このため、1953年(昭和28年)に町村合併促進法が施行され、新制中学1校を管理するのに必要な規模としておおむね8,000人以上の住民を有することが標準とされました。さらに「町村数を約3分の1に減少することを目途」とする町村合併促進基本計画(昭28年10月30日閣議決定)の達成のため、1956年(昭和31年)に新市町村建設促進法が施行され、全国的に市町村合併が推進されました。

    1953年(昭和28年)の町村合併促進法施行から、新市町村建設促進法を経て、1953年(昭和28年)10月に9,868あった基礎自治体が1961年(昭和36年)には3,472になり、約3分の1に減少しました。

    8.高度経済成長期の合併

    1965年(昭和40年)に「市町村の合併の特例に関する法律」(合併特例法)が制定されたが、この時期にも合併ブームが起こりました。 高度経済成長期には、「大きいことは良いことだ」が流行語となり、首都たる東京都区部への人口の流出も重なって、地方の市町村では、岡山市・倉敷市・富士市などの地域拠点になることを目指した合併や、新産業都市の指定を目指して平市・磐城市など14もの市町村がいわき市になるなどの大規模な合併も行われました。

    また、高度経済成長期には、山間部の過疎が進行したため、隣接する都市が山間部を取り込むという動きもありました。静岡市などがそれに該当します。

    また、市制施行のための人口要件が緩和され、鴨川市・備前市・東予市など、人口3万人以上での市制施行を目指した合併も行われました。

    -出典: 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司 放送大学准教授 山岡 龍一

    たじまる 地方自治-4

    日本の政治との比較

    目 次

    1. 国と地方の統治関係
    2. 日本の政治との比較
    3. 日本との行政区画比較

    1.国と地方の統治関係(官治と自治)

    地域社会(いわゆる「ムラ」)の統治については古代より、国家の成立以前から行われているところであるが、これは現代の国家においても国家全体の統治構造の基礎となっている。

    国が地方を統治する方法としては官治(国が国の機関において直接運営すること)及び自治(意味合いは既述)のふたつの方法があり、中央集権型国家においては官治、地方分権型国家においては自治に重点が置かれた統治がなされます。

    しかしながら、個別具体的かつ複雑な地方の統治、運営を全国的な視点をも踏まえつつどちらか一方の方法によりのみ行うことには限界があり、それぞれの国においては官治、自治をそれぞれの国の実情に応じてバランスを保ちながら統治構造を構築している。日本国憲法

    日本の地方自治については日本国憲法第8章において定められている。

    • 憲法第92条において「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。」こととしており、地方自治の原則を示している。なお、ここでいう地方自治の本旨とは、住民自治及び団体自治を指すとされます。
    • 憲法第93条において「地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。」こととし、また、「地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。」としている。これは、地方自治の実施主体である地方公共団体について、首長制による統治機構の構築と統治に携わる者の選任を規定することにより、地方自治における民主主義の確保を図っている。
    • 憲法第94条において「地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。」こととしており、地方公共団体が地方に係る財産権、行政権(公権力を持つもの)及び立法権を保有することを規定している。
    • 憲法第95条において「一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。」こととしており、国に対する地方公共団体の独立性を確保し、これにより地方自治制度そのものを担保している。

      2.日本の政治との比較

      日本は、立憲主義に基づく国家であると言えます。しかし、日本の国制(国家の形態)もしくは政体は、立憲君主制(立憲君主国)であるか、共和制(共和国)であるか、議論があります。
      立憲君主制であることの根拠は、次の3つに集約されます。

      • まず第一に、公選の大統領などを置かないことから共和制であるとは言えないこと。
      • 第二に、世襲君主たる天皇を持つこと。
      • 第三に、近代的意味の憲法を持つことから専制君主制ではないこと。
        以上から、日本は立憲君主制を採る立憲君主国であるとします。一方、共和制であるとすることの根拠は、君主に措定された天皇が、国政に関する権能を有していないことを最大の根拠とします。現に、政治上の権力を行使するのは、司法部を除き、公選された者を中心として構成され、共和制に準じる体制を採ります。さらに、法律によって首相公選制が施かれた場合には、大統領を置く共和制とほぼ変わりなくなるからです。以上から、日本は共和制を採る共和国であるとするものです。他方、君主制、民主制といった区分によるよりも、民主主義国家と呼ぶのが実態に沿っているとの立場もあります。

        1889年(明治22年)に公布された大日本帝国憲法では、立法機関(天皇が有する立法権の協賛機関、5条)として帝国議会を置き、帝国議会は衆議院と貴族院の二院からなりました。民選(公選)議員のみからなる衆議院に対して、貴族院は皇族議員、華族議員、勅任議員(帝国学士院会員議員、多額納税者議員など)によって構成されました。

        しかし、1946年(昭和21年)に公布された日本国憲法は、立法機関として国会を置き、国会は衆議院と参議院の二院からなる。衆議院および参議院はいずれも民選議員のみによって構成され、衆議院議員および参議院議員(国会議員)は「全国民を代表する選挙された議員」と定められた(43条1項)。GHQの示した憲法改正案(マッカーサー草案)では、衆議院のみの一院制にする予定で、日本側の反発によっては取り引き材料としての譲歩も考慮に入れていた。果たして、日本側の松本烝治は二院制の意義を説き強く反発したため、GHQ側は第二院を第一院(衆議院)同様、民選議員のみにすることを条件に、二院制の存続を認めた。こうして成立したのが参議院でした。

        内閣総理大臣の指名は両院とも行えますが、参議院で衆議院と異なった議決をした場合において両院協議会を開いても意見が一致しないとき、または参議院が衆議院の議決から一定期間内に議決しないときは、衆議院の議決が国会の議決となる(衆議院の優越)。予算の議決、条約の承認についても同様であります。また予算は先に衆議院に提出され審議されます。
        衆議院で可決した法律案について参議院がこれと異なりました議決をした場合、衆議院で出席議員の3分の2以上の多数で再可決したときは法律となる。

        日本(現在)日本(改正案)イギリスフランスアメリカ
        宮内庁王室フランス大統領大統領官邸
        首相官邸首相官邸首相官邸
        内閣府内閣事務局
        総務省(旧総務庁・郵政省・自治省)総務庁内務省

        • 緊急災害対策局
        • 刑務局
        • 首都圏警察本部など電信電話局
        郵便・電気通信

        内務省

        電話管理局(ART)

        フランス・テレビジョンなど

        内務省
        公共事業地方分権省
        文化省文化省文化省
        ラジオ放送局
        文部科学省教育省教育雇用訓練省教育・研究・技術省教育省
        青年・スポーツ省
        科学技術庁貿易産業省
        経済産業省貿易産業省科学技術庁経済・財政・産業省

        宇宙科学センター(CNES)

        原子力エネルギー供給局

        商務省
        エネルギー省
        ガス・電力市場管理局
        水道局
        防衛省国防省国防省国防総省Defense
        住宅都市開発省
        厚生労働省厚生省保健省雇用省保健社会福祉省
        労働省社会保障省労働省
        農林水産省環境食糧省農務水産省農務省
        法務省法務省法務省司法省
        外務省外務省外務省国務省
        環境省国土環境省環境食糧省地域計画環境省

        • 林野局(ONF)
        • 水利国際局
        • 水道局
        • 環境エネルギー管理局
        国土交通省交通省交通省設備・運輸・住宅省運輸省
        財務省財務省財務省
        退役軍人省
        消費者製品安全委員会
        連邦緊急時管理庁 (FEMA)
        環境保護庁
        国際開発省

        3.日本との行政区画比較

         日本よりも早く州と県の行政区分を取り入れ、北と南に長いイタリアは、中央集権国家的で日本とよく似た特徴があります。

        日本
        現行

        • 単位系:市・町・村都・府・県<中央政府:二層制

        道州制が導入された場合

        • 単位系:市・町・村都・府・県州(道)<中央政府:三層制

        参考:イタリア

        • 単位系:コムーネレジオーネ(県)<連邦政府:三層制

        面積:総計 377,835km(2)(60位

        人口:総計(2008年) 127,288,419人(10位)

        人口密度:337人/km2

        GDP(MER) 合計(2007年) 4兆3,459億ドル(2位)

        GDP(PPP) 合計(2007年) 4兆3,460億ドル(3位)

        1人当り:34,023ドル

        建国 紀元前660年2月11日(記紀において神武天皇が即位したとされる日)

        但し、建国時期を示す明確な記録はない。
        「日本」という国号が成立した時期は、7世紀後半から8世紀当初までの間と考えられている。具体的には、天武天皇治世において成立したとする説と、701年(大宝元年)の大宝律令成立前後に成立したとする説が有力視されている。

        イタリアと日本の比較

        日本の山陰地方と似た例としてイタリアの州をみてみると、

        • プーリア州 面積 19,000 km2、人口 4,000,000 人、人口密度 210 人/km2
        • カンパニア州 面積 13,595 km2、人口 5,701,931 人、人口密度 419.4 人/km2
        • ヴァッレ・ダオスタ州 面積 3,262 km2、人口 119,548人、人口密度 37 人/km2
        • バジリカータ州 面積 9,992 km2、人口 597,768人、人口密度 60人/km2、県:2:マテーラ, ポテンツァ、コムーネ数:131、州都:ポテンツァ 人口 68,051人
        • カラブリア州 2,011,466人、州都:カタンザーロ、面積 15,082 km2、人口 2,009,506人、人口密度 132人/km2
          県:5:ヴィボ・ヴァレンツィア、カタンザーロ、クロトーネ、コゼンツァ、レッジョ・カラブリア、コムーネ数 409
        • 鳥取県 面積 3,507.26km2、総人口 594,661人、(推計人口、2008年12月1日)、人口密度 170人/km2
        • 島根県 面積 6,707.78km2、総人口 724,727人、(推計人口、2008年12月1日)、人口密度 108人/km2
        • 計      10214km       1319388人また、中国地方では、財界では、中国地方5県で一組の州とする「中国州」を提唱している。鳥取県においては鳥取市の経済界を中心に「関西州」への編入を求める声も上がってきている。一方で県西部の米子市などでは道州制導入に際し、島根県松江市などと合併して「中海市」を設ける考えが以前から存在しており、鳥取県の東・中部と西部の間で意見のずれが生じている。また、平井伸治鳥取県知事は近畿ブロック知事会への参加を表明、2008年6月6日、正式に加入が認められたことから県内の道州制論議に何らかの進展をもたらす可能性があります。▲ページTOPへ

    たじまる 地方自治3

    ヨーロッパの地方分権

    目 次

    1. イギリスの概要
    2. イギリスの政治
    3. 第三の道
    4. ドイツ連邦
    5. イタリア
    6. 日本との比較
    7. 中華人民共和国
    8. 主要国概要

    1.イギリスの概要

    グレートブリテン及び北アイルランド連合王国首都:ロンドン 7,172,091人
    面積:総計 244,820km2(76位)
    人口:総計(2006年) 60,270,708人(21位)
    人口密度:246人/km2
    GDP(MER) 合計(2007年) 2兆7,773億ドル(5位)
    GDP(PPP) 合計(2007年) 2兆1,374億ドル(6位)
    1人当り:35,134ドル

    建国 1801年グレート・ブリテンおよびアイルランド連合王国建国。1927年に現在の名称に変更。
    イギリスは四つの非独立国 ― イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドよりなる。これらの非独立国は一般に「国」(あるいは country) と言われる (但し北アイルランドにも用いるかどうかは論争がある)。この構成はかつての主権国家であるイングランド王国 (征服されたウェールズ公国を含む) とスコットランド王国との1707年の連合法によるグレートブリテン王国 (1707年-1800年)の形成と、それに続くグレートブリテン王国とアイルランド王国との1800年の連合法に基づくグレートブリテンおよびアイルランド連合王国の形成という政治的連合によって構築された。1922年のアイルランド自由国の独立ならびにアイルランド分割により、現在のグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国となりました。

    イングランドおよびウェールズは様々な目的で、特に法律を共有しているという点から一体のものとして扱われるが、スコットランドと北アイルランドは独自の法体系を有している (スコットランド法を参照)。

    2.イギリスの政治

    イギリスの政治(Politics of the United Kingdom)は単一国家と立憲君主制を基本としています。ウエストミンスター・システムとも呼ばれるこの統治形態は、カナダ・インド・オーストラリア・ニュージーランド・シンガポール・ジャマイカなどでも取り入れられています。 憲法は1つの成典にはなっておらず、制定法と判例法及び慣習法など様々な要素を合わせて憲法とみなされています。

    イギリス議会は王国の立法機関です。議会を構成するのは国王、上院(貴族院)、下院(庶民院)です。王国の4つの地域であるイングランド、ウェールズ、北アイルランド、スコットランドはいずれも議会に代表を持つ。

    国家元首はイギリス国王であるが、権力は首相と内閣とによって行使される。憲法を構成する慣習法の一つに、国王について、「君臨すれど、統治せず」とあり、伝統の中に築かれた民主主義が見て取れる。憲法を構成する法律は、他の法律と同様、議会で修正が可能なため軟性憲法と呼ばれる。

    イギリスの議会は、上院(貴族院)と下院(庶民院)の二院制です。明治新政府における日本なども採用する政治形態の議院内閣制が発祥、発達した国であり、行政の長である首相は通常慣例に従って下院第一党党首を国王が任命、閣僚は議会上下両院の議員から選出される。下院は単純小選挙区制による直接選挙で選ばれるが、上院はその正式名称の通り貴族が議員となっているので直接選挙は無い。近年、従来右派の保守党と左派の労働党による二大政党制化して来ましたが、近年では第三勢力の自由民主党(旧自由党の継承政党)の勢力も拡大しています。

    2007年3月7日、貴族院に選挙制導入を求める決議案が庶民院で可決され、数年のうちに全議員もしくは大半の議員が、選挙で選ばれた者によって構成される見通しが出てきた。この決議案に基づき政府が貴族院改革法案を提出して成立すれば、貴族のみで構成されていた貴族院は700年の歴史に幕を閉じる可能性があります。ただし、トニー・ブレア首相、デービッド・キャメロン保守党党首はともに可決された決議案には反対しており、また貴族院では全員任命案以外は否決されたため、改革の行方がどうなるかはまだ不透明です。

    イギリスの地方行政区画 (subdihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifisions of the United Kingdom) は複雑、重層的、不均質で、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドのそれぞれで異なる。現在の構造に到達するの数百年かかっています。

    最近は、伝統的に最も重要な層であるカウンティ (county) とパリッシュ (parish)、スコットランドの場合はカウンティとバラ (en:burgh) からシティ、ディストリクト、あるいは欧州連合の影響を受けたリージョンといった他の行政区画への移行が顕著です。
    さらに、英連邦王国は、自国の国王として英国王を戴く国家形式、また該当するオーストラリア、ニュージーランド、カナダ、バハマ、ジャマイカなどの16の国家があります。いずれも国家共同体(英連邦)に属します。英国以外の英連邦王国は、かつて英国の植民地であったが、今日では英国に従属しない独立国です。

    3.第三の道

    第二次世界大戦直後、労働党のクレメント・アトリー政権が「ゆりかごから墓場まで」をスローガンにいち早く福祉国家を作り上げましたが、階級社会の伝統が根強いこともあって経済の停滞を招き、1960年代以降は「イギリス病」とまで呼ばれる不景気に苦しみました。

    1980年代にマーガレット・サッチャー首相が経済再建のために急進的な構造改革(民営化・行政改革・規制緩和)を実施し、大量の失業者を出した。地方経済は不振を極めたが、ロンドンを中心に金融産業などが成長した。1990年代、政権は保守党から労働党のトニー・ブレアに交代し、イギリスは市場化一辺倒の政策を修正した第三の道への路線に進むことになりました。このころからイギリスは久しぶりの好況に沸き、「老大国」のイメージを払拭すべくクール・ブリタニアと言われるイメージ戦略、文化政策に力が入れられるようになりました。第三の道(だいさんのみち、英語:The Third Way)とは、新自由主義的な経済路線の保守党政権に対抗するために、新自由主義的な経済路線を大幅に取り入れた、旧来の社民主義の「大きな政府」路線でも、サッチャー流の市場原理主義路線でもないもう一つの道を目指すべきとして、イギリスの社会学者ギデンズなどによって主張され、主にヨーロッパの社会民主主義勢力が取り入れた政治路線の総称。イギリス労働党のブレア政権(1997年5月2日 – 2007年6月27日)が最も有名です。

    サッチャーとその後継メージャーの保守党政権による新自由主義政策の下で、政府による富の集権的再配分によって積極的な福祉政策と弱者救済を行うという福祉国家のモデルは次第に解体されつつあった。保守党政権は市場原理を最重要視し、経済政策への政府による介入は減らされ、民営化と規制緩和が盛んに行われた。結果として、長く続いた「イギリス病」は概ね克服され、イギリスの経済構造は大きく改革・改善された。一方で、経済格差が広がり、公共サービスを受けられない層が増大していた。しかし、労働党は従来の産業国有化方針を脱却できず、グローバリゼーションによる市場化の波には対応できないままであった。ブレア労働党は、保守党の市場化一辺倒、労働党の市場化への適応不足という袋小路に陥った状況を乗り越える路線として、市場の効率性を重視しつつも国家の補完による公正の確保を指向するという、従来の保守-労働の二元論とは異なるもう一つの新しい路線を目指すと主張した。これが、イギリスにおける「第三の道」です。

    この第三の道における公正は、伝統的社民主義の哲学が提示する結果の平等ではなく、教育の充実などの政策に立脚した上での、機会の平等に重きを置いています。これにより、移民政策にも通じる多様な文化的「差異」を前提としてグローバリゼーションへの対応を指向します。

    具体的に行われた政策としては、保守党が重視してきた所得税や法人税の軽減などを継承する一方で、より社会の下層に配慮し公正を目指す就労支援や公立校改革などを展開すること、また、弱者を手当て(ネガティブウェルフェア,依存型福祉)するのではなく、家族形成や就労を含めて「社会参加」の動機づけを持つ者を支援(ポジティブウェルフェア,自立型福祉)すること、そして、公共サービスでのPPP(Public-Prihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifate Partnership)による官民連携、さらに、サッチャーによる中央集権政策への反省から地方の自治・自立を促す地方分権(スコットランド・ウェールズ・北アイルランド各地方へ地方議会の設置)などがあります。また、1999年には、英国では初となる最低賃金法を導入した。

    ブレア政権の成功はヨーロッパ各国の社会民主主義政党に影響を与え、90年代末のヨーロッパ主要国では中道左派-第三の道路線の政権が相次いで誕生した。2005年まで続いたドイツ社会民主党のシュレーダー政権の政策も旧来福祉国家からの改革を唱えるなど第三の道の影響を受け「新たな中道(die neue Mitte)」を唱えるようになりました。英国では既に保守党時代に徹底した福祉国家の解体を終えていたことから公正の面がより強調されたが、他の国の第三の道では効率にまず重点が置かれる傾向があった。このためリベラル(自由主義)や社会自由主義との差異は小さいものとなり、むしろ中道左派として共通することとなりました。

    否定的な見解

    「第三の道」は新自由主義でも旧来の社民主義でもない新たな思想・新たな政治路線であると一般的に考えられているが、この考え方に対しては新保守主義・新自由主義を肯定する右派からは「小さな政府」の仮面をかぶった「大きな政府」路線と揶揄され、左派からも「労働組合の切り捨て」「社民主義への裏切り」などの批判も根強く、先駆者のブレア政権でも実際バッシングは多かった。例えば、ビル・エモットは、現在の英国(およびその影響を受けたドイツ)では、誰もこの思想を話題にはしておらず、ブレア自身も政権の途中からこの言葉を使わなくなった、理由はそんな思想など元々存在しなかったからだ、と主張しています。彼によれば、「第三の道」は左派政党が支持者に対して「右派の政策を採択することによって左派を裏切ろうとしているのではない」ことを説得する方便にすぎないからだとしています。

    ブレア政権は確かに福祉・教育予算を拡充し、サッチャー政権下で荒廃した病院や教育を立て直すことを目指したが、充分に成功したとは評価されていない。理念として提示した社会的公正の実現もさほど成功しなかったと分析しています。

    政策を実行する上では有権者の強い支持を得ることができ、政権運営の役に立ったが、保守政権の政策を基本的に踏襲した政策の実情はブッシュ政権の唱えた「思いやりのある保守主義」と呼ぶべきものであり、また、「第三の道」が新たな政治路線ではなく、「思いやりのある保守主義」であることに有権者が気づいたことも、2度連続して総選挙に大勝したブレアが辞任に追い込まれた理由の一つである、と主張しています。

    4.ドイツ連邦

    • 単位系:ゲマインデクライス<連邦政府:三層制

    面積:総計 357,021km^(2)(61位)
    人口:総計(2004年) 82,424,609人(14位)
    人口密度:231人/km2
    GDP(MER) 合計(2007年):3兆3,222億ドル(3位)
    GDP(PPP) 合計(2007年):2兆8,097億ドル(5位)
    1人当り:34,181ドル
    形成 843年 統一(ドイツ帝国) 1871年
    連邦共和国成立 1949年5月23日 東西統一 1990年10月3日

    ドイツ連邦共和国という名称にもあるように、十六の州(ラント)が強い自治権を持った連邦制であり、地方分権の進んだ国家といえます。州は独自の憲法と法体系を持ち、独自の行政権を持ち、司法権も州の権限が強い。 また、地方制度に関する統一法典はなく、地方自治体の組織や運営については、各州が制定する法律によって、それぞれ異なる制度が設けられています。 なお、バイエルン州などに見られるように、州都への一極集中が起こっている州も存在します。

    ゲマインデ(基礎自治体)は独自性も比較的強いが、(小さな)基礎自治体同士の広域連合体として、クライス(郡)が結成されている所もあります。また、州政府の出張所(下部行政区画)をクライス(県)と呼ぶ州も存在します。
    歴史的に見ると、ドイツは小国家(バイエルン王国、ハノーファー王国など)が分立していた期間が長く、ドイツ帝国時代も地方分権の気運が強かったのです。ヴァイマル共和政時代も地方分権制だったが、ナチ政権の時代になると州議会は解散させられ、州の行政権も中央に移されて強力な中央集権・中央主権体制が敷かれ、アドルフ・ヒトラーの独裁政権を作りました。
    戦後のドイツ連邦共和国で地方分権が進んだのは、ナチ政権の再来を防ぐ意味と、ドイツの大国化を避けたい連合国の思惑もありました。

    5.イタリア

    • 単位系:コムーネレジオーネ<連邦政府:三層制

    面積:総計 301,230km^(2)(69位)
    人口:総計(2004年) 58,057,477人(23位)
    人口密度:193人/km2
    GDP(MER) 合計(2007年:2兆1,047億ドル(7位)
    GDP(PPP) 合計(2007年):1兆7,864億ドル(10位)
    1人当り:30,448ドル

    伝説では紀元前753年にローマ建国 エトルリア人も12の都市国家による都市連合の王政を築いていた。
    伝承に、紀元前509年にローマ人パトリキ(貴族)がエトルリア人の王を追放し共和制開始。サムニウム戦争(紀元前343年 – 紀元前290年)などにより紀元前272年にイタリア半島を制圧。

    1861年2月、イタリア王国を建国(イタリア統一1861年3月17日)

    正式名はイタリア共和国(Repubblica Italiana)。大戦終結後に共和制に移行。イタリアは現在20の州(Regione)から構成される。 通常の州に先がけて設置された、5つの特別自治州(autonoma a statuto speciale)は通常の州より大きな地方自治権を有します。そのうち、シチリア、サルデーニャ、トレンティーノ=アルト・アディジェ、ヴァッレ・ダオスタ、が1948年に、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州は1963年に制定された。通常州は、1972年に制定された。各州はそれぞれ県 (Prohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifincia) に分割(州よりも歴史が古いため、州が県の集まりともいえる)され、県はコムーネ(自治体)の集合体から構成されています。最も人口が多いのはロンバルディア州(州都ミラノ:1,299,633人[2位])で、9,032,554人、面積:23,861 km2、次いでカンパニア州(州都ナポリ:973,132人[3位])で、5,701,931人、面積:13,595 km2、3番目はラツィオ州(州都ローマ:2,718,768人[1位])5,112,403人、面積:17,203 km2、ヴェネト州(州都ヴェネツィア)4,527,694人、面積:18,264 km2、ピエモンテ州(州都トリノ:908,263人[4位])で、4,214,677人、面積:25,400 km2の順。最も少ないのは、ヴァッレ・ダオスタ州(州都アオスタ)で、119,548人、面積 :3,262 km2。

    イタリア全土で110の県(アオスタ県を含む)があり、最も狭い県であるトリエステ県は、面積順で100位のコムーネよりも狭い。3ッの県が2009年に分離の実施が予定されているなど増殖傾向にあります。2001年時点のイタリアのコムーネの数はイタリア国立統計研究所によると8,101です。

    イタリアは1861年に統一に成功しイタリア王国を建国しました。大戦終結後に行なわれた共和制移行を問う国民投票の結果を受け、1946年にウンベルト2世が退位し、サヴォイア家による王政が廃止され、大統領制によるイタリア共和国となりました。両議院の選挙制度は、上下院ともに完全比例代表制で、イタリア国民の選挙に対する関心は高く、2006年、2008年にそれぞれ行われた総選挙では投票率は80%を超えています。

    しかし、イタリアは伝統的に中央集権の流れが強く、ファシスト政権時代には徹底的に地方分権が押さえ込まれました。戦後もシチリアなど本土から離れていたり、南チロルなど多民族が共生する地域に設置された特別州を除けば、(周辺国であるドイツやスペインに比べて)地方分権には否定的でした。1972年の改革により漸く州政府の設置が認められますが、財政面や法律運用など重要な部分は中央政府の統制化に置かれています。各州はそれぞれ県 (Prohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifincia) に分割(州よりも歴史が古いため、州が県の集まりともいえる)され、県はコムーネ(自治体)の集合体から構成されています。各県に独自の議会、評議会、知事 (presidente) が存在し、政府に任命された役職の官選知事 (prefetto) もいます。県は日本語に訳される際しばしば、「市]と訳されることがあります。

    こうした中央集権の強い現状への批判から自治運動が盛んな北イタリアを中心にロンバルディア同盟などの地方議会の権限強化を望む地域政党が成長し、1991年には他の州の地域政党が連合して北部同盟が結成されました。彼らは「連邦制か、さもなくば独立か」をスローガンに、移民者排斥などの過激主張や中央政府の南部優遇政策への批判を展開、タンジェントポリにより既存政党が衰退していた事もあって飛躍的に党勢を伸ばしました。
    その後は独立騒動による支持者の離反によって低迷しますが、不法移民への反感の高まりを背景にイタリア中部・南部の左派票を獲得して復活を果たしました。現在、南部でも「自治という選択」などの地域政党が成長しており、中央政府がこの動きにどう対応するかが注視されています。
    全土で110の県(アオスタ県を含む)があり、増殖傾向にあること、最も狭い県であるトリエステ県は、面積順で100位のコムーネ(最小自治体)よりも狭く増加傾向にあります。

    7.中華人民共和国

    中華人民共和国はチベット(西蔵自治区、青海省など)や内モンゴル(内蒙古自治区)、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)、満州(遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内蒙古自治区の東部など)などを中華民国から継承しましたが、これらの地域は法制(中華人民共和国憲法の民族自治規定等)上は完全に他の中華人民共和国省区、内地と同格であり、法制度の上では植民地とは言えないものです。

    これらの地域では現在問題となっているような民族元来の文化、宗教、思想の弾圧が行われており、特に東トルキスタン、チベット、内モンゴルにはその傾向が強いです。さらにチベット民族の政治的・労働的劣位が明かであることがにされています(米国務省「世界の人権状況」2002年次報告)。もともと、1950年に中国共産党軍がチベットを武力侵略した狙いは、チベットの豊富な鉱物資源だったといわれ、実際に鉱物資源を輸送する青蔵鉄道の建設、大規模な採掘事業など、チベット鉱物の開拓は中国の国策として着実に進められています。また中国政府が推進する「チベット地域支援政策」によって、大量の漢民族が社会的・経済的優位が保障されるチベット自治区に流入し、現在の自治区人口比では漢民族がチベット民族を凌駕しています。さらに前述の政治的・労働的優位性のもとに、漢民族がチベット民族を低廉な賃金で就労させている現状が米国務省報告に記載されており、資源の搾取、原住民族の労働力化などが行なわれており、東トルキスタン亡命政府、チベット亡命政府、内モンゴル人民党などの独立や自治を目指す諸団体は「中華人民共和国の植民地支配」という表現を使用することが多いようです。

    8.主要国概要

    日本

    面積:総計 377,835km2(60位)
    人口:総計(2008年) 127,288,419人(10位)
    人口密度:337人/km2
    GDP(MER) 合計(2007年) 4兆3,459億ドル(2位)
    GDP(PPP) 合計(2007年) 4兆3,460億ドル(3位)
    1人当り:34,023ドル
    建国 紀元前660年2月11日

    フランス

    面積:総計 675,417km2(47位)
    人口:総計(2008年) 64,473,140人(20位)
    人口密度:114人/km2
    GDP(MER) 合計(2008年) 2兆8431億ドル(5位)
    GDP(PPP) 合計(2008年) 2兆4,858億ドル(8位)
    1人当り:33,188ドル
    形成 843年

    中華人民共和国(中国)

    面積:総計 9,596,960km2(3位)
    人口:総計(2008年) 1,324,424,000人(1位)
    人口密度:140人/km2
    GDP(MER) 合計(2007年) 2兆4662億ドル(4位)
    GDP(PPP) 合計(2008年) 12兆9,886億ドル(2位)
    1人当り:5,869ドル
    建国  統一王朝 紀元前221年
    民国成立 1911年10月10日
    人民共和国成立 1949年10月1日

    註1: 香港、マカオを含まない。
    註2: 中華人民共和国と面積順位第3位とされるアメリカ合衆国の面積は非常に近く、それぞれの国土の定義によっては、順位が入れ替わることがあります。

    インド共和国

    面積:総計 3,287,590km2(7位)
    人口:総計(2005年) 1,131,043,000人(2007年)人(2位)
    人口密度:324人/km2
    GDP(MER) 合計(2005年) 7,719億ドル(11位)
    GDP(PPP) 合計(2005年) 3兆6330億ドル(4位)
    1人当り:3,100ドル
    独立 イギリスより 1947年8月15日

    • 順位 国 2007年推計人口
    • 1 中華人民共和国 1,336,317,000
    • 2 インド 1,169,016,000
    • 3 アメリカ合衆国 310,252,000
    • 4 インドネシア 231,627,000
    • 5 ブラジル 191,791,000
    • 6 パキスタン 163,902,000
    • 7 バングラデシュ 158,665,000
    • 8 ナイジェリア 148,093,000
    • 9 ロシア     142,499,000

    出典:ウィキペディアなど

    たじまる 地方自治2

    アメリカの地方分権

    概 要

    目 次

    1. アメリカの地方分権
    2. 連邦制度と地方制度
    3. アメリカの自治体
    4. アメリカの自治体の特徴

    1776年に独立した世界史的に見て比較的新しい人造国家(非自然発生的国家)の1つである。市民革命により1783年に独立したアメリカ合衆国や、1789年のフランス革命によって生まれたフランスの共和国が、近代的な共和制のモデルとなり、19世紀以後、世界中に広まった。

    1.アメリカの地方分権

    アメリカ合衆国

    • 単位系:シティ・タウン・ヴィレッジ郡(カウンティ)・独立市<連邦政府:三層制

    面積:総計 9,372,615km2(4位)
    人口:総計(2006年) 300,007,997人(3位)
    人口密度:31人/km2
    GDP(MER) 合計(2007年):13兆8,438億ドル(1位)
    GDP(PPP) 合計(2007年):13兆8,438億ドル(1位)
    1人当り:45,845ドル

    独立 イギリスより 宣言 1776年7月4日 承認 1783年9月3日

    アメリカ合衆国は、連邦政府の力が弱く、州が大きい自治権を持つ地方分権国家である。二度の世界大戦と、戦間期の不況やニューディール政策期を経て、連邦政府の権限と影響力は大幅に拡大したものの、なお州が独自の立法権を持ち、それぞれ憲法や軍を所持しており、連邦政府の管轄は合衆国憲法で定められた分野に限定され、合衆国憲法の改正に州議会の承認が必要になるなど、各州が高い独自性と決定権を持つことに変わりはない。また、地方制度の構築に関する権限は、基本的に州に与えられており、具体的にどのような種類の地方団体が設けられるかは州およびその地域ごとに異なっている。独立市は日本の都道府県から独立した政令指定都市と同様だが、州の下位行政区分として郡と同等に扱われる。

    2.連邦制度と地方制度

    アメリカ合衆国は、50の州 (state)、1の地区 (district)で構成されるが、その他に、プエルトリコなどの海外領土(事実上の植民地)を有する。 独立当時、13の植民地にそれぞれ州が置かれた。1959年にハワイ州が州に昇格されるまでの間、各地方の割譲、侵略、買収、併合を経て、現在は50州を持つ。なお、星条旗の帯は独立当時の13州を、星は現在の50州を示している。また、連邦政府直轄地としてワシントンD.C.(正式名称はワシントン・コロンビア特別区)がある。

    アメリカでは連邦制度と地方制度がある。本来的な主権は州にある。連邦政府の有する権限は非常に強大である。広大な国土に画一的・統一的な地方制度を確立することは不可能であったと思われる。合衆国憲法は地方自治について一切触れていない。各州が独自の立法機関を設置し独自の憲法と州法を有する。

    連邦法は全州にわたって効力を有するものとして上位に位置するものではあるが、各州の自治が歴史的に尊重されていたこともあり、日本における地方自治体の条例に比べると、各州法の地位はかなり高く、「United States」の名のとおり、独立国にも比する強大な自治権を認められている。

    合衆国憲法により、連邦法を制定することができる分野は、国家としての対外的な規律に関わる問題や、州をまたぐ通商に関連する事項等に限定されていることから、会社法や刑法などの一般的法律も州法において規定されている。これらの影響により現在も禁酒法がところにより残っている。

    アメリカ合衆国の50の州(state) は連邦政府とは主権を共有しながらも独立した準国家統治体である。州は連邦政府の設置によるものではなく自立的に作られた統治体で、その自律性は非常に高い。(アメリカ合衆国の州を地方行政区画、あるいは地方自治体に準じた見方をするのは誤りである。詳しくは「アメリカ合衆国の州」を参照。)個別の州毎に憲法を持ち、州内の自治体設立も州の権限でおこなっている。

    各州の地方行政体系・自治構成単位の構成・構造はかならずしも同一ではないが、基本的に州憲法で地域で分割した行政単位として郡(county、ルイジアナ州はparish、アラスカ州はborough)が設置されている。郡は日本の都道府県庁に似た機能をもつ実体的な地方行政組織である。デラウェア州が3郡、テキサス州が254郡を有するといった幅があるが50州で計3,100ほどの郡がある。郡の行政機関は郡政府と日本語訳される。

    3.アメリカの自治体

    通常自治体

    通常自治体(Municipal Gohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifernment)は、州法下で自治体法人として結成される自治体で、20,000ほどある。日本の市町村に近い形態で、市(city)、区(borough)、町(town)、村(http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifillage)、ハムレット(hamlet)に分けられることが多い。
    通常は郡内に市が存在する「郡、市」の形となるが、市が発展し「郡=市」となったり、極端な例では複数の郡が市に取り込まれた。日本のように、市になれば郡に属さないのは例外で、郡から独立し、どの郡にも属していないのは、43ある独立市(independent city)だけである。

    タウン/タウンシップ

    Town Gohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifernmentやTownship Gohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifernmentは、15,000ほどある。これらは通常自治体と重なり合って存在する場合もある。
    コネチカット、メイン、マサチューセッツ、ニューハンプシャー、ロードアイランド、バーモント、ニューヨーク、ウィスコンシンの各州ではタウン、そのほかの州ではタウンシップと呼ばれることが多い。また、メイン州ではPlantation、ニューハンプシャー州ではLocation Gohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifernmentと呼ばれることもある。

    インディアン居留地

    Indian Reserhttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifation、アメリカ合衆国内務省BIA(インディアン管理局)の管理下にある、インディアン(アメリカ州の先住民族)部族の領有する土地。リザベーションという呼び名が一般的だが、有力な民族のものは自治権が強く1つの国家にも等しい力を持つとされ、ネイション(国家)とも呼ばれる。同様にインディアンやエスキモーが先住するカナダにも同種の領域が存在する。

    4.アメリカの自治体の特徴

    アメリカの地方自治を参考させていただくと、各州には郡とは別の地方行政区画として各種の自治体があり、これらは日本における市町村レベルの機能とほぼ同等で、合衆国全体で計84,400ほどある。しかし、アメリカ合衆国の自治体は州によって区画されて成立したものでなく、住民によって結成され州憲法に定める手続きによって承認されるものであり、自治体が設置されていない地域(未編入地、未組織地域)が国土面積の大半を占めている。連邦政府は地方団体の確立に関する権限は有さず、それは各州の基本的な留保権限である。また、アメリカで地方団体というとき、その中に州は含まれない。各州は地方団体の「創造主」であり、地方団体そのものではないのである。日本の県がアメリカの州と姉妹州県を結ぶことがよくあるが、そもそも県と違って州は地方団体ではないのである。各州はいかなる地方団体制度を確立しようと自由であり、連邦政府が制限を加えることはない。従って、地方制度は各州により千差万別であって、日本のように地方自治法により全国画一的に規定されているのとは全く異なる。市町村といってもその性格は州によって大きく異なり、市町村とも存在する州もあれば、市と町、市と村、あるいは市しかない州もある。

    アメリカの地方団体数は、現在、総数で約8万で減少傾向にあるが、これは、学校区の合併によるものである。郡の数は変化がない。タウン(タウンシップ含む)は古い自治形態で減少傾向にある。日本の市町村に相当する「自治体」は約2万で微増している。特別行政区の数は激増している。日本の郡は、今や町村を含む地理的な名称に過ぎないが、アメリカの郡は、地方行政機関として実際に広範な機能を有している。郡は町・村ばかりでなく、市をも含む。例えば、ジョージア州には159の郡がある。これはテキサス州の254に次ぐ多さである。平均面積は943km2(富山県の約4分の1、新川地方とほぼ同面積)で、ケンタッキー州と並んで全米で最も小さい。州憲法は郡政府の数を159までに限定している(このような規制は郡に対してのみであり、市政府に対してはない)。平均人口は45,000人で、最大はアトランタ市を含むフルトン郡の70万人から、最小はタリアフェロ郡の 1,800人まで、かなりのばらつきがある。45の郡で人口が1万人に満たない。アメリカには県はないので郡が相当する。

    アメリカの地方自治体の特徴

    アメリカの地方自治で日本と最も異なる点は、地方自治体というものは、国から与えられ又は国の出先機関として存在するのではなく、住民自らの意思により創出されたものであるということである。すなわち、一定地域での人口集中があり、州や郡(州の出先機関)が提供する以上の公共サービスが必要になったとき、住民自らの要求があってはじめて州議会を経て自治体が設立(法人化)されるのである。従って、アメリカには自治体のない地域(非法人化地域)も相当あり、アメリカ国民の2割がどこの自治体にも属していない。「法人化」されてはじめて設立される自治体は、反対に廃止することも可能である。

    自治体を設立するには、「自治憲章」を制定し、州政府がこれを承認し、「法人格」が与えられなければならない。自治憲章とは、日本の地方自治法に当たるような自治体の権限や職制を規定した自治体の基本法であり、各自治体自らが有している。これは、行政形態、公務員の名称・資格及び選出方法、財政、行政サービスの内容、各部局の編成などに関する規定が盛り込まれた行政運営の基礎である。

    また、アメリカの自治体には、「地域のことは、地域において決定し、実行する」という「ホーム・ルール」の思想がある。すなわち自治憲章の制定に際しては、州政府の規定した一般的な範囲内であれば、住民が自由に規定できる。また、具体的な個別の政策に関しても州政府が禁止していない範囲内で裁量が認められるべきであるという考え方である。

    以上のように、アメリカの地方自治体は正に「地方の住民が自ら治める団体」なのであって、日本の地方公共団体とは歴史的にも性質を異にするのである。

    シティー「市」

    市とは、一定の地域に一定の人口の集中があり、その結果、従来タウンの住民だった人がタウンが提供する一般的な行政サービス以上のサービスを求めるとき、自ら自治憲章を制定し州がそれを承認したときに、タウンの一部又はタウンの境界を超えて組織される強力な権限を持った地方自治体である。市が組織された場合、市はタウンの管轄から離れる。現在州内には62の市(人口は2,800人~700万人)が存在する。

    市になれば、起債が認められるほか、他の地方団体に認められている固定資産税以外に所得税、消費税及び物品税を課すこともできる。所掌事務は警察、消防、上下水道、図書館、公営住宅、公園、都市計画、廃棄物処理など住民生活に密着したものが多い。ニューヨーク市に限っては、これに加えてカウンティーの全ての事務も行う。

    市の機構は、各々の市の自治憲章により様々な形態があるが、大半の市が公選の議会を持ち、また市長は公選されるか議会によって任命され、裁判組織も独自に保有し、明確な三権分立が確保されている。代表的な市の機構は次に記述するとおりである。

    ①支配人型(Manager System)

    任命された専門の行政職が行政のトップになる。議会が政策の決定機関であり、市長は儀礼的な存在。支配人は行政部局の長の任命権を持ち、予算の編成権を有するが、議会の決定を覆す権限はない。州内19市がこの形態を採っている。

    ②強力市長型(Strong Mayor System)

    公選市長が行政部門の長であり、議会は政策決定機関である。市長は部局の長の任命権と予算の編成権を持ち、しかも広範な拒否権を有する。日本の市町村長は形式的にはこの形態に一番近いと思われる。

    ③非力市長型(Weak Mayor System)

    市長は儀礼的な存在である。議会は政策の決定に加え、委員会形式で行政も行う。また、議会は行政部局の長の任命権を持ち、予算の編成権も有する。市長には拒否権はない。②③併せて州内40市がこの形態を採っている。

    ④委員会型(Commission)

    委員は個別行政部門の責任者として公選され、各委員からなる委員会が政策を決定する。委員のうち1人が儀礼的な市長役を務めることがある。州内3市がこの形態を採っている。

    近年の傾向

    州の下部組織として設置されたカウンティーとタウンは、近年では、自治憲章の採択により、市や村同様の自治権を持つ地方自治体としての権限を州から与えられ、州の業務に加えて、従来市や村が行ってきたような独自の住民サービスを提供するようになってきた。従って、特にカウンティーと域内市町村の間でしばしば提供されるサービスに重複が見られ、行政コストや責任の不明確化といった問題が起こっている。
    出典:ウィキペディアなど
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    地方自治-1

    日本の国家と地方自治

    目 次

    1. 日本の国家としての歴史
    2. 日本の政府
    3. 君主制と共和制
    4. 連邦制と単一国家
    5. 立憲主義

    3.君主制と共和制

    君主制(英:Monarchy)は君主が支配する統治形態(政体)です。君主政とも言います。連邦は、複数の国家、またはそれに相当する強い行政上の権限を有する政府によって統治される州の集合であり、それらが1つの上位政府によって統治される国家様態です。中央政府から距離を取り連邦制を主張または擁護する立場を連邦主義といいます。
    これに対して、共和制(英:republic)は、国家に君主を置かない政体。君主制に対置される概念です。共和政ともいいます。共和制を取る国家のことを共和国といいまう。また、共和制を国家のあるべき姿だとする思想のことを「共和主義」といいます。一般に共和制では、国家の元首は君主ではなく、国民により選出されます。

    4.連邦制と単一国家

    地域間の民族的相違や国家の大きさなどを考慮して権力を分立させる考え方であり、その現実の形が「連邦制」です。州(アメリカ合衆国)、ラント(ドイツ連邦共和国)、共和国(ロシア連邦)などと呼ばれるいくつかの支分国が集まり、一つの主権国家を構成しますが、その際に中央政府への過度の権力集中を防止するために、中央政府と地方政府との間の合意に基づいて、憲法において両者の間の権限分配に関して明確に規定しています。ただし中央政府と地方政府との間で権力の衝突があるような場合には、中央政府が優越するという原則があります。

    主権が中央政府と政治的構成単位(州や地方など)との間に分割され、多くの場合連邦と呼ばれる体制を形作るような政体。とりわけ広大な国家や多民族国家など、地域的、民族的、また歴史的な多様性が見られる場合には、連邦制は対外的統一性と、国内的な分権性という両立させることができる制度であると考えられるため、採用されることが多いもの。対外的な、主として外交・国防部門での強固な統一性と、国内的な、主として民政部門での各構成単位の確固とした独立性の留保が、矛盾なく両立されることが目指されます。アメリカ合衆国、アラブ首長国連邦、ドイツ連邦共和国など、連邦制を敷いている国家は、地方分権的傾向が大きいとされています。また広義では現在のヨーロッパ連合(E.U.)の強い連邦政府(中央政府)と弱い国家政府を指します。

    比較的領土の大きな国や、歴史的に数多くの君主国や都市国家が並立していた時代が長かった(ドイツなど)、革命の過程で誕生した多民族国家が統合したソビエト連邦などなどで(ソビエト連邦はロシア連邦に)、他には2つの主権国家が統合して1つの国家となったアラブ連合共和国、英国の植民地であった13州が統合したアメリカ合衆国など、連邦国家には幾多もの成り立ちがあります。ただし、国によっては連邦制が形骸化している場合があります(アルゼンチンなど)。このような連邦制では、基本的に国家としての立法権や執行権及び司法権はすべて中央政府に集中されており、それに対して、場合によっては中央政府の意志として国家機能の一部が地方政府に委譲されているような国家を「単一国家」と呼びます。例としてはイギリスやフランスであり、日本もそのような単一国家として分類されます。
    歴史的には連邦国家においても中央政府の権力の拡大という現象が見られました。しかし今日では連邦国家か単一国家かに関わらず、参加民主主義への指向や各地方の住民のニーズの多様化、行政の効率化などに対応する形で、地方分権の流れが一般的となっています。

    5.立憲主義

    民主化の程度の高い国においては、統治に当たる者の権力行使を防止し、国民の権利と生活を守るための仕組みとして、代議制を駆動させる両輪として、選挙制度と政党があります。この他にも権力行使を抑制する制度としてまず、近代国家の最も基本的な仕組みが立憲主義です。憲法をはじめとした法による制限を通じて、統治者による権力行使を防止し、個人の権利や自由を擁護しようというものです。立憲主義の歴史は、1215年、イギリスで制定されたマグナカルタにはじまるとされています。それ以降、世界で最初の現代的民主国家であるアメリカ合衆国の独立宣言(1776年)や絶対王政を打倒したフランスの人権宣言(1789年)などによって、民衆によって選出された指導者によるワンマンな権力行使を抑制する近代的な立憲主義が確立していきました。

    さらに、権力を分立させて相互に抑制と均衡の役割を担わせる仕組みが。いわゆる「三権分立」です。国家の主要な統治機構としての立法府、行政府、司法府の三つですが、それぞれ異なった人間や党派に担当させることによって、多数派による少数派に対する横暴を防ごうという狙いもあります。

    立法府は国権の最高機関ですが、世界の多くの国は「一院制」であり、日本のように「二院制」を採用している国の2倍弱の約120ヶ国です。
    フランス革命の指導者の一人であるアベ・シェイエスは、1789年に二院制を否定する言葉を残しています。

    「第二院は何の役に立つか。もし第二院が第一院に一致するならば、それは無用な存在であり、第一院に反対するならば有害な存在である。」
    というものです。平民である第三身分の立場を擁護するシェイエスにとって、第三身分こそがすべてであったのであり、人民主義を代表する議員に対しては何らかの抑制も加えられるべきではないと考えていたからです。

    しかし、立法府を二つの院で構成することにも一定の合理性があります。モンテスキューも立法府を二院制で構成することを主張しました。優れた少数派としての貴族と多数派としての人民といった階級的な差異を反映した二院制によって、少数者に対する多数者による権力濫用に対して一定の抑制を施す仕組みということで、今日このイギリスの「貴族院型」と呼ばれる、選挙によって選ばれる代表によって構成される庶民院(下院)の方の権限が、王による勅撰で選ばれる議員によって構成される貴族院(上院)よりも強い。

    この貴族院型に対して、権力の濫用防止といった観点だけでなく、慎重な審議や第二の見解の用意といった観点から第二院が存在している場合もあります。これを「参議院型」と呼び、両院の議員が国民の直接選挙で選ばれる場合には、その権限は比較的に対等です。日本がその例です。衆議院の優越がいわれていますが、予算案の決議、条約の批准、首班指名を除いて通常法案においては両院はほぼ対等な関係にあります。
    二院制はさらに連邦制型と呼ばれる形態も存在します。アメリカがその典型で、国民を代表する院が下院であり、各州の利益を代表する院が上院です。

    2.日本の政府

    日本は天皇を君主とし議院内閣制の立憲君主国になります。国家に君主を置かず、国家の元首は国民から選ばれる(大統領など)政体である共和制国家とは異なります。対外的な、主として外交・国防部門での強固な統一性と、国内的な、主として民政部門での各構成単位の確固とした独立性の留保が、矛盾なく両立されることが目指されます。

    地方分権とは、特に政治や行政において、国家権力を地方自治体に移して分散させる体制を指す。政治・行政以外の組織体では、分権組織と呼ぶ場合もある。対義語は中央集権。

    日本において中央集権国家が成立した時期は、律令制の時代や明治維新の時代が代表的です。
    律令制によって朝廷は中央集権化を目指しましたが、荘園制度の崩壊から平安時代の終わりころには国府は衰えて守護大名が台頭支配しています。
    江戸時代の日本は、幕府という中央政府は存在するが、藩という「地方王国」に権限が下ろされていました。ただし、藩の大名は、参勤交代による江戸への出張や、幕府の公共事業への強制的な出費や参加も命じられており、半ば中央統制的な面も有していました。明治維新で廃藩置県が実施されると、強固な中央集権体制を作り上げ、135年が経った現在も変わっていません。2000年施行の地方分権一括法では、機関委任事務が廃止され、国家と地方公共団体が名目上では対等な関係とされています。しかし、中央政府主導で基礎自治体を合併させるなど、上から強制する姿勢で、「地方自治」と相容れない現象も起きています。

    たじまる 地方自治-INDEX

    地方分権薄桜(うすざくら)#fdeff2最初のページ戻る次へ
    1.日本の国家と地方自治
    2.アメリカの地方分権
    3.ヨーロッパの地方分権
    4.日本の政治との比較
    5.地方分権と市町村合併の歩み
    6.日本の地方分権
    7.北近畿の地方自治
    8.北近畿地方の都市圏
    9.政治と非政治のあいだ
     歴史を探る第一には、現在を考え、将来を見据えるためにある。経済のグローバル化や環境・災害の問題、戦争や生命の問題、家族の崩壊、人口問題など、今日、多くの問題に直面している。過去に遡って見てこそ現状が分かる。過去と現在と未来を結んでいるのが歴史である。
    同じような問題や課題を、先人たちがどう考え、どう対処して生きてきたのかを探ることも極めて重要なことであって、生きるヒントが見出せることになる。歴史の事実が正しい評価によって必ずしも動いているわけではない。そこに多様な物の見方を養う必要がある。
    歴史は人間が描くもの、歴史の転換点における人間の動きについて、さらに世界の歴史は、近代世界が形成されて大きく変化してきた。人と歴史がどうか変わってきたのかを考える。

    北近畿鉄道物語-氷ノ山(ひょうのせん)越えと山陰本線計画

    北近畿鉄道物語

    北近畿鉄道物語-氷ノ山(ひょうのせん)越えと山陰本線計画

    氷ノ山(ひょうのせん)越えと山陰本線計画

    明治後期に鉄道敷設がさかんになると、舞鶴の軍港と大阪を結ぶ計画の阪鶴鉄道(現JR福知山線)が福知山まで完成。また、山陽鉄道(現JR山陽本線)、さらに姫路から和田山までを結ぶ播但鉄道(現JR播但線)が完成した。さらに京都鉄道が京都から福知山、そして阪鶴鉄道がさらに福知山から舞鶴まで鉄道がつながると、舞鶴の軍港と鳥取の陸軍師団を結ぶ山陰鉄道敷設計画が持ち上がってきた。ことは、山陰線を舞鶴から鳥取までどう通すかということを決める辺りから始まっている。

    当初、山陰線は軍港舞鶴と豊岡を鉄道でつなぐという構想でスタートした(鉄道敷設法)。丹後地区が敏感に反応し、期成同盟などの取組みがあったが、どうやら海岸線は艦砲射撃にやられるというような発想があったらしく福知山経由となったようだ。しかし、平坦部が少ない山陰海岸は難工事ではあったが、氷ノ山を貫く大トンネル工事は、当時のトンネル技術では困難なことから、明治42年頃には和田山から城崎まで北進していた播但鉄道から、鳥取まで延伸する計画となった。当初は、豊岡駅から舞鶴までは峰豊線(現:北近畿タンゴ鉄道宮津線)、鳥取までは、内陸部の八鹿駅から若桜へ抜けるルート構想もあった。鳥取県郡家町郡家(こおげ)駅を起点として若桜町までは敷設できており(旧国鉄若桜線、現若桜鉄道)、海岸線は敵国艦隊から砲撃を受ける危険性があるため内陸を通す計画であった。
    ここで注意すべきは、この時点では出石は沈黙していることだ。というより、当時の全国の鉄道新設で見られたように、鉄道を拒否していたのではないだろうか。それで結局、(思惑通り)出石に鉄道延伸はなかった。山陰線が開通し始めると、やっぱり鉄道が欲しいということになり、出石・日高で個別に鉄道敷設の行動が起る。

    また別に、大正初期に宮津から若桜までの当初の山陰本線最短ルートを実現させようと考えた、とんでもない人物が、「大正の大風呂敷」と言われた日高町長(当時日高村)だった故藤本俊郎村長である。
    彼はすでに営業されていた出石軽便鉄道の株主の一人であり、さらに江原駅から村岡へ抜ける鉄道敷設を計画して、江原駅を東西南北を走る交通の要所にしたいという構想を抱いていた。彼はこの事業以外にも銀行設立や阿瀬電力など事業家であった。実際に豊岡町や近隣町村の猛反対にも遭いながら、国会議員の支援も取り付けた。

    但馬鉄道敷設工事跡(日高町久斗・現在は市道になっている)

    軽便鉄道敷設工事(但馬鉄道)は三方鉱山(日高町十戸)から十戸あたりまで完成していく。また丹後山田から加悦まで鉄道は延びており、出石鉄道まで延長するという計画で、藤本村長は旗振り役となり自らも事業家として私財を投げ売り夢見た計画だった。

    餘部(あまるべ)橋梁

    ところが不運なことに大正の世界的な大恐慌が始まってしまう。藤本は鉄道敷設を町民の出資でまかなおうとしたが、藤本自らの政治失脚などもあり、結局は頓挫している。海岸ルートに決まったころ、鳥取まで開通した山陰西線と竹野まで開通していた山陰東線は、最大の難所である山陰海岸(浜坂・香住間)を残すのみとなった。そして餘部(あまるべ)鉄橋(日本一の高さ)と桃観トンネル(山陰本線最長)などの難工事の末、開通したのが現在のJR山陰本線である。


    桃観トンネル

    出石軽便鉄道

    そしてその大ロマン但馬鉄道計画の面影を今に伝えているのが、京都府野田川町の丹後山田駅を起点として、加悦町加悦までを走る加悦鉄道(廃線)と、鳥取県郡家町こおげ駅を起点として若桜町わかさ駅を終点とする若桜鉄道(旧JR若桜線)、出石鉄道跡、但馬鉄道跡である。

    出石軽便鉄道廃線跡(日高町上郷・現在は市道になっている)

    出石鉄道(いずしてつどう)は、かつて兵庫県に存在した軽便鉄道路線およびその運営会社。路線距離(営業キロ):11.2km、軌間:1067mm、駅数:7駅(起終点駅含む)。但馬の小京都と呼ばれた出石町(現在の豊岡市出石町)と山陰本線の江原(JR江原)を結ぶべく1918(大正7)年7月20日 出石軽便鉄道敷設免許申請。発起人は、日高村長藤本俊郎、出石桜井勉以下78名連名。

    1920年(大正9年)に会社が設立され、紆余曲折の末に昭和4年(1929年)、地元住民の出資により軽便鉄道(貨物には蒸気機関車・旅客車はガソリンカー)として開通したが、経済不況や自然災害などにより営業不振が続きた。

    1938(昭和13)年、江原自動車を買収し、自動車運輸営業権を得る。

    そして太平洋戦争下の昭和19年(1944年)に国により不要不急線として営業休止に追い込まれる。

    終戦後、路線復活の動きもあったものの、結局昭和45年(1970年)に正式に廃線となった。事業会社としての出石鉄道では、バスの運行や、営業休止の賠償としてトラックを入手し、運輸事業等も行っていたが、全線運休後に全ての事業を停止した。