旧豊岡県庁門


久美浜縣庁門を豊岡縣庁に移しました。(豊岡市図書館)

1868年(慶応4年)に久美浜縣(くみはまけん)が誕生。丹後、丹波、但馬、播磨、美作5ヶ国の久美浜代官所、生野代官所支配地および但馬、丹波の旗本領の926ヶ村23万石を管轄する広大な縣でした。
久美浜は天領(幕府直轄領)だったので、縣名云々よりもとにかく旧藩(旧勢力)の解体を急いだのです。その処置は全国的に行われました。

しかし、久美浜縣は、その範囲があまりにも広く、生野代官所支配地を中心に分離運動が高まり、1869年(明治2年)、但馬北部を豊岡縣、但馬南部と播磨、美作3ヶ国を生野縣として分離しました。また、南東部の一部を篠山藩へ移管しました。
1868年(慶応4年)に久美浜縣(くみはまけん)が誕生。丹後、丹波、但馬、播磨、美作5ヶ国の久美浜代官所、生野代官所支配地および但馬、丹波の旗本領の926ヶ村23万石を管轄する広大な縣でした。

1869年(明治2年)8月10日、但馬、播磨、美作を生野縣として分離、但馬南部の一部を篠山藩へ移管。
1871年(明治4年)11月2日、久美浜縣は舞鶴縣や篠山縣など11縣16郡を豊岡縣に統合され消滅。
それは、久美浜は北端に位置するため、播磨、美作などから遠すぎたためです。
但馬
生野縣/出石縣(3万石)/豊岡縣(1.5万石)/村岡縣(1.1万石)
丹後
宮津縣(7万石)/舞鶴縣(3.5万石)/峰山縣(1.1万石)/久美浜縣
丹波
篠山縣(6万石)/福知山縣(3.2万石)/柏原縣(2万石)
1869年(明治2年)8月10日、但馬、播磨、美作を生野縣として分離
1871年(明治4年)7月14日:生野縣のうち、但馬が豊岡縣、播磨、美作が姫路縣が設置。
1871年(明治4年)11月15日、美作が北条縣として発足。生野縣廃止。
1871年(明治4年)11月22日:舞鶴縣や篠山縣など11縣16郡を豊岡縣に統合。
1876年(明治9年)8月21日:豊岡縣廃止。但馬・氷上郡・多紀郡は兵庫縣へ編入。また丹後と天田郡は京都府へ編入。

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【たじまる】 近代化遺産 旧郡役所

  
旧出石郡役所【出石明治館】/豊岡市出石町魚屋

明治25年に建築された旧出石郡役所を資料館として公開しています。
歴史を彩った出石の偉人たち、出石磁器トリエンナーレ入賞作品などを展示しています。
土日休館は何とかして欲しいものです。一度も中に入ったことがありません。

  
旧七美郡役所【民俗資料館まほろば】/美方郡村岡区村岡2324-1

明治27年に洋風スタイルを取り入れた美方郡の旧役場で、現在は民俗資料館として公開されています。1階のロビーでは各種企画展を開催しており、2階の常設展では古墳の出土品や昔の生活道具等を展示しています。上記旧出石郡役所とよく似た建築です。但馬に現存する旧役所はこの2カ所のみで兵庫県内で6カ所のみ。

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砦がわりの寺院 経王寺と福成寺


日蓮宗 経王寺(きょうおうじ)

石部神社の向かい、加藤弘之生家の下隣り


福成寺(ふくじょうじ)

国道から左折し、出石城に向かう一通を入ってすぐ右手、田結庄通り突き当たり


宗鏡寺

戦闘など非常のときは兵を集めて駐屯し防備に当たる目的で、城下の数多くの寺院を街道の大事な場所に置きました。東の京街道の経王寺、吉祥寺、光明院、北東に宗鏡寺とその塔中諸寺や本高寺、昌念寺など、北西には見性寺、西の街道口には称名寺や法城寺を、南の入口には福成寺とその塔中諸寺がありました。

現在でもその面影をとどめる二層の鐘櫓が経王寺と見性寺に残り、経王寺には銃眼をもった高塀もありました。

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箕谷(みいだに)古墳群


兵庫県養父市八鹿町小山字箕谷

昭和58年(1983)度から59年度にかけて、兵庫県養父市八鹿町小山字箕谷で公園整備のため行われた箕谷古墳群の発掘調査により、須恵器、金環3点、鉄鏃・馬具等の鉄製品、鉄刀など103点の遺物が出土しました。
八木川下流域左岸の谷奥に立地し、2号墳は東西12m、南北14mの円墳であり、長さ8.6m、幅1.2m、高さ1.7mの横穴式石室。出土した須恵器により、6世紀末から7世紀初旬に築造されたと考えられており、出土状況から2回以上の追葬が行われたとみられています。

  

3号墳は3段の列石を巡らせた円墳で兵庫県下でもこれだけです。2、3、4号墳(直径7mの円墳)、5号墳(直径6mの円墳)の4基の古墳が現地保存され、平成4年(1992)12月18日に「箕谷古墳群」として国の史跡の指定を受けています。石室はすべて谷の入り口方向である南に開口するよう規則的に造られています。そして2・3・4・5号墳と順次標高の低い方から高い方へ築かれています。時期が新しくなるにつれて墳丘・石室が小規模化しているのが特色で、この時期の古墳の変遷過程をよく示しています。

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【たじまる】 村岡山名氏をたずねる


村岡山名氏ゆかりの兵庫県香美町村岡区に行って来ました。


村岡陣屋が置かれた御殿山

あいにく雪で断念しました。また別の機会に行きたいと思います。


武家屋敷

住んでおられ、手入れが行き届いています。


村岡山名氏菩提寺の法雲寺

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平安会館庭園

[catlist categorypage=”yes”]放送大学単位認定試験
放送大学の試験に京都に行って来ました。
25日 英語総合A
第三世界の政治
27日 生物学の歴史
人口減少社会の生活像
植物の生理
バイオサイエンスで豊かな暮らし
28日 宇宙とその歴史
29日 経済学入門

平安会館に2泊しました。御所の西側でKBSの隣の閑静な場所。向かいは蛤御門があります。
もともと公卿の屋敷跡だったそうです。

レストランにて中庭を眺めながら夕食
これまで一人旅っていっても、いろいろな団体や会に所属していたから最近になってのこと(といいても放送大学試験で来ているからだが)。わいわい賑やかに食事していた思い出が多すぎて、隣のカップルと私一人だけのフロアはせつない、とおもいつつこれもいいかと。

平安会館は御所の禁門の変前のKBS京都の隣りの烏丸通りの静かな場所に位置する。試験会場は堀川通りのリーガロイヤル京都前なのだけど、御所に行きたくてここをとった。(楽天トラベルでたまたまその日が格安だったからこともある…)
お風呂は部屋以外にも別に和風浴場がある。たまたま2人しか入っていなかった。湯船は広いしなかなかいい。

 

平安会館ページより

○平安時代
天皇の台所を預かる内膳司に勤務する役人の宿舎である内膳町が置かれる。昭和53年の発掘調査により、井戸、掘立柱建物、陶器等数万点に及ぶ出土品あり。

○戦国時代
織田信長の築城による旧二条城に関係あり。
旧二条城は、当館の南方にあったと推定されているが、当館の敷地からも石仏を転用した石室や織田家の紋所である木瓜文等が出土した事から、関係していたことがうかがえる。

○安土桃山時代~江戸時代
糸商人松屋三郎右衛門が居住。
「慶長九年白糸六十斤入」等と書かれた木札が出土。

○江戸時代~明治時代
公家屋敷が置かれる。
宝永二年1705年京町絵図によると「九条大納言御連中」とある―御連中とは御婦人の意。
慶応四年1868年京町絵図によると「醍醐殿」とあり、醍醐家は清華家(摂政、関白にもなれる家柄の総称)の家柄であり、公家の中では上の下に位置する。

○明治以降
日の出新聞(戦後京都日々新聞と合併し、今日の京都新聞となる)社長→長瀬産業社長→昭和27年支部買収
http://www.heian-kaikan.com/J/heian.html

付近にコンビニがなく、同志社大学がある今出川までいかないとないから、歩くとつらかった。

まあ昔は草莽崛起の志士たちもそのような思いでこの御所通りを歩いていたのかどうかしらないが、そんな距離以上に京都市中を夜ごと歩いていたのだから、なんて、ロマンにチックに考えるほどの年でもないのですが。

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森尾古墳 (兵庫県豊岡市森尾)

県道から森尾地区を望む

豊岡市森尾字市尾

この古墳の発見は、但馬地方でもっとも早く大正年間の工事中に発見されて以来、地元研究者や大学の研究者が何回となく取りあげていました。その時すでにいくつかの遺物が発掘されています。そして但馬地方が考古学的に論及されるのは、ほとんどこの森尾古墳だけであったのが最近までの状況でした。1墳丘3石室となっており、埋葬施設は3基の竪穴式石室です。

また、昭和51年8月~平成6年3月30日に行われた「森尾古墳確認調査概要報告」(豊岡市教育委員会)で、古墳の構成や出土遺品などを考慮すると、この古墳自体が新旧で使われていたものであろうと考えられています。~森尾古墳を但馬最古の古墳と位置づけ、県下でも最古の一群に入れられるものとして考えられてきました。

ところが、近年森浩一氏が消滅したとされる森尾古墳の墳形について、ひとつの可能性として長方形説を打ち出し基底部が残存しているのではないかとの指摘もあわせて行ない、さらに本村豪章氏も「前期古墳の諸様相」を著して森尾古墳の再検討をも行ない、今後の発掘調査等によらなくてはならないとしながらも、大胆に方墳あるいは前方後方墳の可能性を指摘していました。

三角縁神獣鏡の謎


画像:「三角縁神獣鏡」雲南市 神原神社古墳-島根県立古代出雲歴史博物館蔵

※画像:島根県立古代出雲歴史博物館は見学いたしましたが、館内撮影禁止のため、古代出雲歴史博物館HPからお借りしています。

森尾古墳が全国的に有名になったのは、発掘された二面の青銅鏡で、「三角緑神獣鏡」で卑弥呼の鏡ともいわれており、北近畿で最古の鏡であることが分かり、北部九州並みの大陸との関係が指摘されました。

神獣鏡(しんじゅうきょう)とは、古鏡の銅鏡の区分のひとつで神仙界の理想郷を図文化した鏡。鏡の裏の文様が神像と獣像とを半肉彫にしたものを主として組み合わせた文様を持つものがこう呼ばれています。鏡の縁の断面が、平たくなっている平縁(ひらぶち、へいえん)式と、三角形になっている三角縁式(さんかくぶち、さんかくえん)とに大別され、特に三角縁式のものは、魏の明帝が邪馬台国の女王卑弥呼に下賜した銅鏡にあたると言う説があることで知られています。

三角縁神獣鏡の銘文中に紀年が記された銅鏡は四面あります。

島根県雲南市加茂町大字神原・神原神社古墳出土の「景初三年」鏡
群馬県高崎市柴崎町蟹沢・蟹沢古墳
兵庫県豊岡市森尾字市尾・森尾古墳
山口県周南市(旧新南陽市)竹島御家老屋敷古墳

神原神社古墳出土の「景初三年」鏡以外の三古墳から出土したものは同型の「正始元年」鏡です。これらの鏡四面は、すべて文様の神像と獣形像が同じ方向に並ぶ同向式。

また、同時に見つかった鏡の一つが1世紀に中国でつくられた近畿で最古級の「方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)」と同じであることがわかりました。

もう一面は、1917年に出土した「方格規矩四神鏡」は、約二千年前の紀元前後、中国の年号である「正始元年」で始まる文字が刻まれています。

森尾古墳の三角緑神獣鏡は、北近畿最古の鏡で、山口県竹島御家老屋敷古墳で出土した「正始元年銘三角縁階段式神獣鏡」や蟹沢古墳(群馬県高崎市)と同笵鏡(同じ鋳型からできた鏡)であり、正始元年(240)は邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを出し、魏王から銅鏡100枚を贈られた翌年にあたり、出土した鏡はこうした「魏志倭人伝」に記されていることと深くかかわっていると考えられています。それらが遠い距離を隔てて別の地点で出土していることから、ある政治的な意志で1か所から配布されたのではないかとも説明されています。

従来、三角縁神獣鏡=魏の鏡=卑弥呼の鏡というのが定説で、銘文に「景初三年(239)」「正始元年(240)」などの魏の年号や「陳氏」「張氏」「王氏」など中国人の作者名があり、図像文様からみても明らかに中国鏡の特徴を持っています。このため、三角縁神獣鏡は3世紀中葉の魏で作られ、卑弥呼に贈られた「銅鏡百枚」にあたると考えられ邪馬台国畿内大和説の有力な根拠とされてきました。

しかし、三角縁神獣鏡は中国本土ではいまだ1枚も出土していないことや、魏の元号が改元されて存在しなかった「景初四年」銘の鏡が見つかったことから、最近ではこの三角縁神獣鏡は日本製との見方が強まっています。しかも、これまで中国で出土した神獣鏡は、魏が支配した北中国に少なく、呉の領域とした南中国に多いことから、三角縁神獣鏡は神獣鏡をつくる伝統のない魏の製作ではなく、呉の鏡工人が日本に渡来して製作した説を、中国考古学者の王仲殊は唱えたのです。

しかし、卑弥呼が魏に使いを送った景初三年(239)に画文帯神獣鏡をモデルとして三角縁神獣鏡がつくりだされたことは確かであり、「銅鏡百枚」のなかにそれが含まれていたであろうことも容易に推測できます。

三角緑神獣鏡は倭王権の誕生を示すものなのか

したがって、卑弥呼が若い頃に入手した画文帯神獣鏡は、近隣の首長に分配しただけですが、晩年に入手した三角縁神獣鏡は、分配域が九州から関東まで大きく拡大しました。それは邪馬台国を盟主とした倭王権の誕生を意味するものでしょう。

1953年、鉄道工事中に京都府椿井大塚山古墳で32面以上の三角縁神獣鏡が出土しました。調査に関係した小林行雄氏は、4組9面の同笵(どうはん)鏡があることを見つけ、もし鏡は一枚ずつバラバラの状態で入手されたのなら、偶然が重ならない限り起こりえないから、それがセットにまとまった状態でもたらされたと考えました。そして、日本全国の三角縁神獣鏡に42個の同笵(どうはん)鏡であることを確かめ、それが九州から関東まで広がっていること、椿井大塚山古墳を中心に畿内と地方の間で分有され、地方だけの分有関係はほとんどないことを明らかにしました。そこから、三角縁神獣鏡は畿内の倭王のもとに一括保管されたのち、椿井大塚山の首長が各地の首長にたいして分配したと考えました。さらに4つの違う形式ごとに分布の偏りがあることから、数回に分けて配布され、倭王権と地域首長との政治的関係が成り立つことによって各地に古墳が出現したと論じました。

1998年には奈良盆地東南部の黒塚古墳から33面の三角縁神獣鏡が出土しました。7組15面も同笵(どうはん)鏡がみつかり、九州から関東にわたる39古墳と同笵(どうはん)鏡を分有しています。倭の中枢部から多数の同笵(どうはん)鏡が出土したことにより、小林行雄氏の同笵(どうはん)鏡論は揺るぎないものとなりました。

しかし、椿井大塚山の首長が同笵(どうはん)鏡を配布したという考え方は、加茂岩倉から39個の銅鐸に15組26個の同笵(どうはん)関係が確かめられたように、出度数か多くなれば、それだけ同笵(どうはん)関係の中心になるのは当然で、椿井大塚山と黒塚の被葬者は、倭王から相当の数の銅鏡を下賜された有力者であったのでしょう。

神仙と霊獣の図像の外縁に「景初三年」を含む銘文41文字が鋳出されています。邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送り銅鏡100枚を賜ったとされる魏の年号「景初三年(239年)」という銘のある銅鏡は、大阪の和泉黄金塚古墳とともに全国でわずかに二例が知られるのみです。

[googlemaps http://maps.google.co.jp/maps?f=q&source=s_q&hl=ja&geocode=&q=%E8%B1%8A%E5%B2%A1%E5%B8%82&sll=35.535579,135.195694&sspn=0.368222,0.396881&g=%E5%AE%AE%E6%B4%A5%E5%B8%82&ie=UTF8&ll=35.576079,134.836922&spn=0.184006,0.198441&t=p&z=12&iwloc=addr&output=embed&s=AARTsJpQER4K4W-9knGmk4jzeDd6XQpplg&w=425&h=350] 但馬北部(円山川流域)

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NTV「歴史サスペンス劇場」忠臣蔵

12.3放送のNTV「歴史サスペンス劇場」を観ました。

歴史好きな自分にはNHK大阪「堂々日本史」が好きでした。
「その時歴史は動いた」に代わってからはあまり見なくなりました。

(松平さんのナレーションは好きではないので・・・)

まず、忠臣蔵というテーマなのに冒頭の新選組の話が入っているのが分からない。

忠臣蔵だけで良いのでは。

吉良を一方的に悪者扱いしていない中立的に取り扱っているのはいいと思いました。

ただ、大石りくを豊田藩家老石束家の長女と説明したのにはがっくりした。「但馬豊岡藩」でしょう。豊田藩なんて全国どこにも存在しません。

ちなみに「豊田藩」ってあったのかをググッってみると、トヨタの工場が集まる豊田市周辺を、地元の人は豊田藩と皮肉っぽく呼んでいることがわかりました。

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大師山古墳 (豊岡市引野)


豊岡市引野


90墓近い円墳が造られています。2008年11月29日に訪ねました。


大師山は標高100mほどの細長い丘陵で、円山川と出石川に挟まれた豊岡平野が見渡せる見晴らしの良い場所で、すぐ近くに葦田神社があります。しかも気多神社や楯縫古墳と出石神社を結ぶ中間にあるのが意味深いです。

竪穴系横口式石室という特殊な石室の群は、半島南部の伽耶(かや)地方にみられ、引野がかつて加陽(カヤ)郷と呼ばれる地であったことと考えあわせて興味深い。
古墳時代に朝鮮半島から渡来した人たちが、ここに墓を造り、故国の基制をまねたと考えると想像がふくらんでいく。

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