日下部氏流(4)太田垣氏

太田垣(おおたがき)氏


家紋:木 瓜
(但馬国造日下部氏後裔) *家紋を九枚笹とする説もある。
武家家伝さん

太田垣氏も、八木氏同様、但馬国造彦座王から日下部連の後裔を称する古来からの但馬の名族です。

『日下部系図』によると、第37代孝徳天皇-有馬皇子-日下部表米王---建屋太郎光村─石和田光忠─太田垣光保とあって、建屋(たきのや)・石和田・太田垣を同族としています。

『但馬国太田文』には尊勝寺領養父郡建屋荘の下司建屋五郎大夫女子も、同新荘の地頭石和田又太郎光時も、ともに御家人(鎌倉幕府家臣)として見えるから、大田垣氏もこの辺りを本拠とした建屋氏の庶流といえます。

日下部氏の一族である八木・朝倉・奈佐など皆、粟鹿神社を祖神として崇敬し、朝倉氏などはのちに越前に移ってその居城中に越前に粟鹿神社を勧請しています。

山名氏の但馬制圧に協力したことから、朝倉宗家を凌いで強大となり、ついには垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名氏の四天王と呼ばれる隠然たる勢力にまで成長し、丹波・播磨への通路を扼する要衝、朝来郡竹田城を本拠とするに至りました。

延文三年(1358)、祐徳寺に建屋新荘のうち田一段を寄進した太田垣光善、正平十八年(1363)に建屋下司職内の田一段を寄進した実阿(光善の法号かも知れない)などの名がみえ、嘉吉三年(1443)以後竹田城を預かったという太田垣光景、応仁元年(1467)の竹田城主太田垣土佐守、その嫡子新左衛門宗朝、二男新兵衛尉、備前守護代として山名俊豊を擁した太田垣美作入道、その舎弟三河守、同新右衛門大尉、同左京亮らの名が諸書に散見されます。

■太田垣氏の台頭

明徳の乱で、但馬国衆は山名氏清方と山名時熈方に相分かれて戦いました。有力国衆の多くは氏清方に味方し、土屋氏、長氏、奈佐氏らが勢力を失いました。なかでも土屋氏は一族五十三人が討死するという惨澹な有様で、山名氏は多大な人的損害を被りました。時熈は山名氏を掌握したものの、国衆の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていきました。いきおい、優秀な人材に対する時熈の期待は高くなりました。

このような状況にあって、急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏でした。とくに、「応永の乱(1399)」における両氏の活躍が、その台頭に拍車をかけました。

明徳の乱・応永の乱に活躍して、太田垣氏興隆のもとを築いたのは通泰でした。通泰は太田垣光善の子で、光成の弟と推定される人物です。太田垣氏は明徳の乱に、一族を挙げて山名時熈方に味方して戦りました。乱の過程で通泰が一族を率い活躍したことで、応永七年(1400)、但馬守護代に任ぜられたのでした。このとき、土屋(垣屋)遠江入道も但馬守護代に任ぜられ、二人は管轄地域を分けてその任を遂行したようです。ちなみに、土屋(垣屋)氏は気多郡(今の日高町と旧豊岡市と竹野町の南部分)を管轄し、太田垣通泰は朝来郡と養父郡の南半分を管轄していました。さらに、通泰は翌八年三月、備後守護代にも任ぜられています。

嘉吉元年(1441)、「嘉吉の乱」で赤松氏討伐に功のあった山名氏は播磨守護に補せられ、太田垣誠朝が播磨守護代に任ぜられました。そして備後守護代には一族の者を据え置いたようです。それは美作守宗応でした。宗応は光成系太田垣氏の人物と思われ、いわば太田垣氏の本家筋にあたり、宗応の家は、惣領家となった通泰の子孫が備後へ赴いている間、但馬における太田垣一族の中心となって、その留守を守っていたのでしょう。宗応のあとの備後守護代は、美作守宗収がなっています。

美作守宗収は美作入道と同一人物と考えられ、『翠竹真如集』にみえる法諱を宗収、徳叟と号した人物のようです。若年には山名時熙に可愛がられ、中年には持豊に仕え、晩年には政豊に重用されました。そして、政豊は嫡子俊豊を備後守護に任じたとき、山名俊豊が若年であったため、宗収を守護代に任じて俊豊を補佐させました。宗収はこれに応え、よく山名俊豊を補佐しました。宗収の死後、備後守護代は惣領家から派遣された宗朝の子俊朝が受け継いでいます。

宗収には子宗幸、そして甥に光久がいたと伝えています。また、『日光院文書』にも光朝・時久・氏定・隆定・三河入道浄□・紹悦らの名が見えるが、一般に知られている『太田垣系図』には光朝を除いてその名を欠き、太田垣氏には不明な点が多いようです。

引用:「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会・武家列伝他
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【但馬の歴史】(24) 日下部氏流(3) 八木氏

八木氏


三つ盛木瓜/九曜
(日下部氏朝倉氏族 右:見聞諸家紋にみえる八木氏の横木瓜紋)
武家家伝

八木氏は、開化天皇の子孫とされる但馬の表米王から数代のち、古族日下部氏から出て養父郡朝倉庄に城を築いた朝倉高清の次男安高(一説に孫)が、但馬国養父郡八木を領して八木氏を称したのが始まりとされています。すなわち、朝倉信高の兄弟である八木新大夫安高、小佐(養父市八鹿町)次郎太郎、土田(はんだ:朝来市和田山町)、三郎大夫らが新補地頭や公文に任じられ、それぞれ地名を名字として但馬各地に割拠したのです。
日下部氏の嫡流は朝倉氏であったようですが、承久の乱において朝倉信高は京方に味方して勢力を失い、朝倉氏の庶流が越前に住み、一乗谷にて守護代に成長しました。但馬では朝倉氏に代わって鎌倉方に味方した八木氏が勢力を拡大しました。以後、同地の豪族として成長し、南北朝期には但馬守護山名氏の配下となり国老四家(山名四天王)のひとつと呼ばれました。 見聞諸家紋をみると「横木瓜紋」が日下氏の注記をもって八木氏、太田垣氏の家紋として収録されています。

八木庄は朝倉庄から数キロ西に位置します。八木城は平安時代末期の康平六年(1063)頃、閉井四郎頼国が源義家から但馬国を与えられ、この地に築城したのが始まりとされています。その後、鎌倉時代初頭の建久五年(1194)に朝倉高清が源頼朝から但馬国を与えられ、八木から東へ約 4.7キロメートル離れた朝倉に城を築きました。やがて、閉井氏と朝倉氏が対立し、朝倉氏が閉井氏を滅ぼします。その後、朝倉高清は第二子の重清を八木城に入れ、八木氏を名乗らせました。以後、八木氏は十五代三百余年にわたって同地に勢力を振るいました。 家系図の壬生本系図によると、宗高の孫、高景の弟、安高が八木に移り、八木氏を名乗りました。安高の弟、信高が浅倉氏を継いでいますが定かではありません。庶家に但馬国では太田垣、養父、小和田、軽部、宿南、奈佐、田公、阿波賀等があり但馬国最大一門となります(壬生本系図)。  信高の三男八木三郎高吉の子に、宿南氏の祖、宿南三郎左衛門能直、寺木七郎高茂、田公八郎右衛門尉高時です。

八木氏は幕府との関係強化につとめ、四代高家は執権北条貞時に、つぎの泰家は北条高時、「元弘の争乱」で幕府が滅亡してのちは将軍足利尊氏に従いました。そして、泰家の子重家は、但馬国守護の山名時氏および時義の重臣として活躍したといいます。しかし、南北朝期から室町時代における八木氏の消息は皆目といっていいほど分からない、というのが実状です。

たとえば、南北朝期、八木荘の隣郷の小佐荘にいた但馬伊達氏の文書のなかにも八木氏は出てきません。ただし、系図だけはしっかりしたものを残しています。同系図は『寛政重修諸家譜』が編集されたとき、八木勘十郎宗直が提出したもので、これには『但馬太田文』に記載されている八木姓の地頭・公文たちの名がすべて載っていて、系譜上の位置も矛盾がないそうです。
八木氏に関する系図以外の史料では、わずかに宗頼・遠秀に関する事蹟がしたためられている「八木遠秀絶筆歌後序」ぐらいです。とはいえ、八木氏は養父郡八木庄に本貫を置き、南北朝初期、山名氏が但馬守護に補せられたのち、その被官となったようです。

風流の武士 八木宗頼


八木城趾/養父市今滝

八木氏の名が史上に現れるのは八木宗頼の代で、室町時代の宝徳(1449)のころから、文明十六年(1484)までの三十五年間です。宗頼は文学も親しむ武人で、毎年正月には漢詩をつくるのを例にしていたといわされています。寛正六年(1465)三月、将軍足利義政臨席の洛北大原野の花見盛会に、主君山名宗全とともに招かれたことが知らされています。また、応仁の乱後に、いわゆる五山僧との間でやりとりされた漢詩に関する史料も残っています。

文明十二年(1480)ごろ、主君山名政豊が京都から但馬へ下国したのに従い、同十三年には一時的に但馬守護代となっており、一方、大徳寺の春浦宗熈との交流があったことから、春浦について参禅していたらしい。但馬在国中の宗頼は春浦に詩を寄せ、その詩によると居所に高楼二宇を築造して、宋代の隠者林通にちなむと思われる「月色」「暗香」の字を選んで扁額にしていたことがうかがわされています。このように八木宗頼は、和歌・連歌、そして漢詩のいわゆる和漢に造詣をもった風流の士だったのです。

文明十五年(1483)十二月、山名政豊の軍勢が播磨と但馬の国境真弓峠で、赤松政則の軍を破り南下しました。翌年二月、播磨野口の合戦において、宗頼は北野神像すなわち菅原道真の像を見つけだしました。像を得た宗頼は大いに喜び、相国寺の横川景三に賛辞を求め、子孫に伝えて敬神の範にしようとしたと伝えています。

宗頼の卒去については不明ですが、文明十六年以降、その存在を記す史料が見当たらないこと、のち山名と赤松の争いが激化し、延徳から明応のころ(1489~1500)になると子の豊賀が史料に現れてくる。おそらく、その間の数年のうちに宗頼は亡くなったものと思わされています。

八木氏歴代のなかで、とくに宗頼に史料が多く見られるのは、かれの教養が高く和漢に対する造詣も深く、交流をもつ人々に風流な公家や僧侶がいたからであろう。しかし、かれの作った作品が多かったにもかかわらず、その筆跡が伝わっていないのは残念なことです。

但馬争乱と八木氏

因幡と但馬のあいだを結ぶ山陰道が通じる養父郡は、重要な要衝です。その養父郡を統治していた八木宗頼には長男遠秀を頭に四人の男子がありました。遠秀は山名持豊に仕え、「忠にして孝、武にして文、修斎治平の才」に恵まれた武士でしたが、文明元年(1469)六月、二十七歳で早世しました。そして、宗頼のあと八木氏を継いだのは豊賀でした。延徳三年(1491)八月、山名俊豊が上洛したとき、従した武士に八木氏が見られますが、豊賀であったと思わされています。

豊賀も早世したようで、その弟で三男貞直が家督を継ぎました。貞直は、兄豊賀の生存中は僧門にあったようで、その卒去により還俗して、八木氏の家督を継いだようです。明応六年(1497)に小佐郷内の田一反を妙見日光院へ寄進していることが史料に残されています。
四男が宗世で、一説によれば、この宗世が宗頼の家督を継いだともいい、惣領が名乗る受領名但馬守を称しています。しかし、その息子誠頼は八木氏の家督を継ぐことはかなわなかったらしく、八木氏の家督は誠頼の従兄弟にあたる直宗(直信?)が継いだようで、直宗が但馬守を称しています。
戦国時代の永正九年(1512)、八木豊信は垣屋・太田垣・田結庄ら但馬の有力国人衆と謀って山名致豊に離叛し、山名誠豊を擁しました。以後、八木豊信と垣屋光成・太田垣輝延・田結庄是義らが但馬を四分割するようになりました。

国道9号線但馬トンネルを出て左に、頂上が平らになった山が見えます。大谷川と大野川に挟まれたこの山に中山城の跡があります。本丸、二の丸、三の丸を堀割で区切り、石垣を積み、規模は小さいですが整った城で、堀切も十㍍に及ぶものが数カ所も残っています。

鎌倉時代には菟束(うづか)氏が、南北朝のころは上野氏の城となり、のち八木氏の支城となり天正五年(1577)秀吉の山陰攻めによって落城し、因幡の国に逃げたのですが、用瀬(もちがせ)の戦いで滅んだそうです。立派な城にしては残っている話が少ない城のひとつです。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝

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【但馬の城ものがたり】 日下部氏流(2) 朝倉氏

朝倉氏の起源

養父郡八鹿町朝倉(養父市八鹿町朝倉)は、越前国(福井県)の守護となって北陸に勢力を張った朝倉氏の出身地として知られています。この村の高さ60mばかりの山の上に残る城跡が朝倉城です。室町時代の末頃、朝倉大炊守(おおいのかみ)が城主であったといわれています。

朝倉氏は但馬最古の豪族、彦座王を始祖とする日下部(くさかべ)氏の一族で、平安時代末期に余三太夫宗高がここに居住し、地名をとってはじめて朝倉氏を称したといいます。朝倉氏が築いた3つの城(但馬朝倉城跡・但馬朝倉比丘尼城跡・但馬朝倉向山城跡)があります。宗高の子高清には興味深い話が伝わっています。

白猪を退治した豪傑高清と朝倉城

朝倉氏の歴史を述べた『朝倉始末記』によると、高清は豪勇の人として知られていました。寿永年中(1182~84)平氏にしたがって西国で戦いましたが、平氏の滅んだ時密かに逃げ帰り、七美郡(美方郡東部)小代谷の山の中の洞窟に隠れました。しかし、鎌倉方の平家残党さがしがきびしくなり、建久五年(1194)捕らえられて鎌倉へ送られました。

このころ鎌倉地方に長さ2.1mもある大きな白猪がいて、人々を襲い悩ませていました。対峙に出かけた者はことごとく殺されてしまう有様でした。

占ってみますと「西国に異様な姿をした武士がいる。その人なら必ず退治してくれるだろう。」ということです。高清は身の丈1.8m、色黒く体中毛に覆われ、熊の皮の衣服を着ていました。人々は高清を見て、「この人こそお告げの人だ。」と思い、そこで白猪退治を頼みました。これを引き受けた高清はm三七日の暇を与えてもらうことを願い出て、許されると彼は風のような早さで但馬に帰りました。わずか七日間であったといいます。そして七日七夜養父明神にこもり、一心不乱に神に祈りました。そして満願の夜のことです。いつものように神前におこもりをしていますと、深夜にわかに辺りが騒がしくなったと思うと、腹を揺さぶるような鳴動が起こり、神前のとびらが大きな音を立てて倒れました。と同時に、神々しい光が辺り一面にみなぎり、その光の中に尊いお姿が浮かびました。

「汝の願い聞き届けたり。すみやかにこの矢を持ちて関東に下り、白猪を撃て」とのお告げを聞き、「ハハ-ッ」とひれ伏した途端、高清は我に返りました。辺りは元の静けさに戻っていました。夢を見ていたのでした。うつろな思いで前の床を見て、高清は「アッ」と驚きました。ほの暗い光の中に夢で見たそのままの鏑矢(かぶらや)がそこにあるではありませんか。この矢を持ち、高清はいさんで鎌倉へ下りました。そしてめざす獲物に遭うと明神のお加護を祈りながら、ヒョーッと射ると、さしもの魔獣も一矢で倒されてしまいました。この功により高清はとらわれの身を許されて但馬に帰ることができました。

ところが、国にはまた意外なことが待っていました。高清の一族の者たちが高清の豪勇を恐れ、彼を亡き者にしようとはかっていたのです。このたびの大功で鼻を高くし、前以上に一族のものをさげすみはしまいかというのでした。建久六年(1195)5月23日、高清は帰る途中堀畑村(養父市)に泊まりました。その夜、一族の者たちは高清の寝所を襲い、あわやその命は風前のともしびとなって消えようとした瞬間、例の鏑矢が赤々と光を放って飛び出してきました。そして一族の者どもに襲いかかったのです。この不思議に圧倒され、一族の者どもは高清を撃つことができなかったのです。

かずかずの神徳をよろこんだ高清は、但馬に落ち着くと養父明神の近く、奥米地(養父市)に表米神社を建て、城崎郡の妙楽寺(豊岡市)には等身大の阿弥陀仏をつくって祭ったということです。

高清には鎌倉方に捕らえられるまでに一人の男の子がありました。関東へ下るにあたり、同族奈佐太郎知高の養子にやって奈佐氏を継がせました。奈佐春高といいます。帰ってからさらに四人の子をもうけましたが、最初の子を又太郎高景といい、彼に朝倉氏を継がせました。この子孫が朝倉城を築いたのです。高清から八代の孫広景は南北朝のころ越前に移り住んで活躍し、朝倉氏繁栄のもとをつくりました。また高清の三男次郎重清は八木荘(養父市八木)に、四男三郎右衛門尉高房は宿南荘(養父市八鹿町宿南)に、五男四郎清景は田公荘(美方郡西部)に住まわせました。それぞれの地名をとって姓としたのでした。

越前朝倉氏

数代下って、南北朝時代に広景が、足利方の斯波(シバ)高経の被官となり、越前で戦功を挙げ、越前国坂井郡黒丸城に拠り斯波氏の目代となって活躍しています。朝倉氏は広景以後家景の代まで黒丸城を本拠とし、守護代甲斐氏などと争いながら、坂井郡・足羽郡に勢力を伸ばしていきました。甲斐氏、織田氏に次ぐ斯波三守護代の第三席。のちに守護代三家で斯波氏領国三国を分けることになります。

朝倉孝景(英林孝景)が守護代甲斐常治とともに主である斯波義敏と対立し、足利将軍家の家督争いなどから発展した応仁の乱では山名持豊(宗全)率いる西軍から細川勝元率いる東軍に属し、越前から甲斐氏を追う。孝景は越前国守護に取り立てられ、一乗谷城に城を構えて戦国大名化に成功しました。孝景は分国法である『朝倉敏景十七ヶ条』を制定しました。

義景は京風の文化を一乗谷に移し、足利義昭も一時その庇護受けたほどで、一乗谷文化あるいは朝倉文化の名で山口の大内文化などとともに著名です。

元亀元年、織田信長は朝倉義景を攻めるため兵を越前に進めました。ところが信長の妹お市の方を嫁がせ同盟関係を結んでいたはずの北近江浅井長政が信長に反旗を翻しました。ここにおいて浅井・朝倉は、信長の前に共同の敵として立ち現われることにななりました。この年六月、近江の姉川を挟んでいわゆる姉川の戦いが行われ、義景は一族の景健に兵一万をつけて遣わしましたが敗北してしまいました。
天正元年、信長は、古谷に来ていた義景の浅井援兵を追って越前に侵入し、ついに義景は自害しました。越前に勢力を誇った朝倉氏も、こうして織田信長によって滅ぼされてしまいました。

出典: 「校補但馬考」「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
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日下部氏流(2) 朝倉氏

朝倉氏の起源


三つ盛木瓜
(日下部氏流)

養父郡八鹿町朝倉(養父市八鹿町朝倉)は、越前国(福井県)の守護となって北陸に勢力を張った朝倉氏の出身地として知られています。この村の高さ60mばかりの山の上に残る城跡が朝倉城です。室町時代の末頃、朝倉大炊守(おおいのかみ)が城主であったといわれています。

朝倉氏は但馬最古の豪族、彦座王を始祖とする日下部(くさかべ)氏の一族で、平安時代末期に余三太夫宗高がここに居住し、地名をとってはじめて朝倉氏を称したといいます。朝倉氏が築いた3つの城(但馬朝倉城跡・但馬朝倉比丘尼城跡・但馬朝倉向山城跡)があります。宗高の子高清には興味深い話が伝わっています。

白猪を退治した豪傑高清と朝倉城

朝倉氏の歴史を述べた『朝倉始末記』によると、高清は豪勇の人として知られていました。寿永年中(1182~84)平氏にしたがって西国で戦いましたが、平氏の滅んだ時密かに逃げ帰り、七美郡(美方郡東部)小代谷の山の中の洞窟に隠れました。しかし、鎌倉方の平家残党さがしがきびしくなり、建久五年(1194)捕らえられて鎌倉へ送られました。

このころ鎌倉地方に長さ2.1mもある大きな白猪がいて、人々を襲い悩ませていました。対峙に出かけた者はことごとく殺されてしまう有様でした。

占ってみますと「西国に異様な姿をした武士がいる。その人なら必ず退治してくれるだろう。」ということです。高清は身の丈1.8m、色黒く体中毛に覆われ、熊の皮の衣服を着ていました。人々は高清を見て、「この人こそお告げの人だ。」と思い、そこで白猪退治を頼みました。これを引き受けた高清はm三七日の暇を与えてもらうことを願い出て、許されると彼は風のような早さで但馬に帰りました。わずか七日間であったといいます。そして七日七夜養父明神にこもり、一心不乱に神に祈りました。そして満願の夜のことです。いつものように神前におこもりをしていますと、深夜にわかに辺りが騒がしくなったと思うと、腹を揺さぶるような鳴動が起こり、神前のとびらが大きな音を立てて倒れました。と同時に、神々しい光が辺り一面にみなぎり、その光の中に尊いお姿が浮かびました。

「汝の願い聞き届けたり。すみやかにこの矢を持ちて関東に下り、白猪を撃て」とのお告げを聞き、「ハハ-ッ」とひれ伏した途端、高清は我に返りました。辺りは元の静けさに戻っていました。夢を見ていたのでした。うつろな思いで前の床を見て、高清は「アッ」と驚きました。ほの暗い光の中に夢で見たそのままの鏑矢(かぶらや)がそこにあるではありませんか。この矢を持ち、高清はいさんで鎌倉へ下りました。そしてめざす獲物に遭うと明神のお加護を祈りながら、ヒョーッと射ると、さしもの魔獣も一矢で倒されてしまいました。この功により高清はとらわれの身を許されて但馬に帰ることができました。

ところが、国にはまた意外なことが待っていました。高清の一族の者たちが高清の豪勇を恐れ、彼を亡き者にしようとはかっていたのです。このたびの大功で鼻を高くし、前以上に一族のものをさげすみはしまいかというのでした。建久六年(1195)5月23日、高清は帰る途中堀畑村(養父市)に泊まりました。その夜、一族の者たちは高清の寝所を襲い、あわやその命は風前のともしびとなって消えようとした瞬間、例の鏑矢が赤々と光を放って飛び出してきました。そして一族の者どもに襲いかかったのです。この不思議に圧倒され、一族の者どもは高清を撃つことができなかったのです。

かずかずの神徳をよろこんだ高清は、但馬に落ち着くと養父明神の近く、奥米地(養父市)に表米神社を建て、城崎郡の妙楽寺(豊岡市)には等身大の阿弥陀仏をつくって祭ったということです。

高清には鎌倉方に捕らえられるまでに一人の男の子がありました。関東へ下るにあたり、同族奈佐太郎知高の養子にやって奈佐氏を継がせました。奈佐春高といいます。帰ってからさらに四人の子をもうけましたが、最初の子を又太郎高景といい、彼に朝倉氏を継がせました。この子孫が朝倉城を築いたのです。高清から八代の孫広景は南北朝のころ越前に移り住んで活躍し、朝倉氏繁栄のもとをつくりました。また高清の三男次郎重清は八木荘(養父市八木)に、四男三郎右衛門尉高房は宿南荘(養父市八鹿町宿南)に、五男四郎清景は田公荘(美方郡西部)に住まわせました。それぞれの地名をとって姓としたのでした。

越前朝倉氏

数代下って、南北朝時代に広景が、足利方の斯波(シバ)高経の被官となり、越前で戦功を挙げ、越前国坂井郡黒丸城に拠り斯波氏の目代となって活躍しています。朝倉氏は広景以後家景の代まで黒丸城を本拠とし、守護代甲斐氏などと争いながら、坂井郡・足羽郡に勢力を伸ばしていきました。甲斐氏、織田氏に次ぐ斯波三守護代の第三席。のちに守護代三家で斯波氏領国三国を分けることになります。

朝倉孝景(英林孝景)が守護代甲斐常治とともに主である斯波義敏と対立し、足利将軍家の家督争いなどから発展した応仁の乱では山名持豊(宗全)率いる西軍から細川勝元率いる東軍に属し、越前から甲斐氏を追う。孝景は越前国守護に取り立てられ、一乗谷城に城を構えて戦国大名化に成功しました。孝景は分国法である『朝倉敏景十七ヶ条』を制定しました。

義景は京風の文化を一乗谷に移し、足利義昭も一時その庇護受けたほどで、一乗谷文化あるいは朝倉文化の名で山口の大内文化などとともに著名です。

元亀元年、織田信長は朝倉義景を攻めるため兵を越前に進めました。ところが信長の妹お市の方を嫁がせ同盟関係を結んでいたはずの北近江浅井長政が信長に反旗を翻しました。ここにおいて浅井・朝倉は、信長の前に共同の敵として立ち現われることにななりました。この年六月、近江の姉川を挟んでいわゆる姉川の戦いが行われ、義景は一族の景健に兵一万をつけて遣わしましたが敗北してしまいました。
天正元年、信長は、古谷に来ていた義景の浅井援兵を追って越前に侵入し、ついに義景は自害しました。越前に勢力を誇った朝倉氏も、こうして織田信長によって滅ぼされてしまいました。

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【但馬の歴史】(22) 日下部氏族(1)

但馬の古代豪族、日下部(くさかべ)氏
開化天皇の孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔。(『古事記』、『大日本史』)
孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。(『朝倉始末記』)
出石神社と並ぶ但馬国の一宮、粟鹿神社の社家は、古代に神部氏が務め、その後日下部系図に見える日下部宿禰であった 。
越前国を拠点とした朝倉氏はこの出自。応仁の乱では山名持豊(宗全)率いる西軍に、越前朝倉氏は西軍から細川勝元率いる東軍に属した。

■参考略系図 (但馬国造)
開化天皇━彦坐王━若筒木王━船穂足尼━豊忍別乃君━島根尼君━太尼古尼君・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・(日下部君/国造)  (養父太郎)
・・表米王━━荒嶋・・貞祢┳利実━用樹━蕃在━親泰━┓
┃                         ┃
┗安樹━公基                    ┃

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

┣則方━則国━家貞
┃   (日下部)
┗広佐━佐清┳清季━┳清国(小和田)
┃(三方)  ┣季平        ┏俊経
┣清泰   ┣季貞(山本)  ┏俊直━┻長家
┃     ┗家清     ┃
┃(軽部)           ┣俊村━━━━━━━━┓
┣俊通━┳俊家━━━╋光家━┳光広        ┃
┃    ┗俊真   ┗家村 ┣家高(大谷)      ┃
┃(朝倉)  (八木)     ┣家恒(釜田)      ┃
┗宗高━┳高清┳安高    ┗光綱━安元      ┃
┗高綱┗信高    (太田垣)(田公)     ┃

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

┃(石和田)
┃┏光村━光高━光時┳光茂
┗╋光忠┳光春    ┗光秀・・・・氏秀
┗俊高┗光保┳保喜━光喜━光氏━光継━光朝━光景
(建屋)    ┗保俊━保久


┗景光
土佐守? 新左衛門
┏景近━┳宗朝━┳朝定
┃    ┃    ┃加賀守 土佐守 土佐守━╋景安

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【但馬の歴史】(21) 明延(あけのべ)鉱山と明神電車

平安時代初期から、但馬では金銀鉱山の採掘が行われていました。とくに生野銀山は山名氏支配の時代から四天王の太田垣氏が、阿瀬金山などは山名、垣屋氏が経営し、山名氏の衰退と下克上に大きく寄与する財源になっていたのではないかと考察します。養父郡北部を領していた八木氏は、中瀬鉱山・日畑金山などがその領地内にありました。そして各鉱山は豊臣・徳川時代まで最盛期が続き、重要な鉱山として幕府直轄領になりました。

明延(あけのべ)鉱山

明延鉱山(あけのべこうざん)とは、兵庫県養父市大屋町で世界的に有名な多金属鉱脈鉱床です。日本最大の錫鉱山で日本の産出量の90%をしめていました。かつて操業していたスズ、銅、亜鉛、タングステンなどの多品種の非鉄金属鉱脈をもつ鉱山。特にスズは日本一の鉱量を誇っていました。

歴史

明延鉱山は平安時代初期の大同年間に採掘開始といわれる。明治初年(1868年)、生野銀山とともに官営となり、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払い下げられました。
昭和48年(1973年)に三菱金属株式会社(現三菱マテリアル株式会社)となり、昭和47年(1972年)のオイルショックをきっかけに、昭和51年(1976年)に三菱金属の子会社として分離・独立し明延鉱業株式会社となる。最盛期には、鉱山関係の人口が4,123人(963世帯)おり、娯楽施設の協和会館では、最新の映画が上演され、多くの芸能人(島倉千代子、村田英雄、フランク永井など)が歌いました。

大正元年(1912年)に明延鉱山の鉱石を神子畑(みこばた)選鉱所に運ぶためにつくられた5.75kmの鉱山列車「明神電車」は、昭和27年(1952年)以来、乗車賃「一円」で乗客を運んだことから、「一円電車」として有名になったこともあります。

粗鉱生産量は、ピーク時の戦時中から昭和26年(1951年)頃には月産35,000トン、閉山前頃には、銅、亜鉛、スズの粗鉱生産量が月産25,500トンであったが、プラザ合意後の急激な円高に伴う銅、亜鉛、スズの市況の下落により、大幅な赤字を計上することとなり、まだ採掘可能な鉱脈を残して、昭和62年(1987年)1月31日午後11時20分の発破を最後に、同年3月をもって閉山しました。

平成19年(2007年)11月30日公表の近代化産業遺産認定遺産リスト(経済産業省)において、「25.我が国鉱業近代化のモデルとなった生野鉱山などにおける鉱業の歩みを物語る近代化産業遺産群」の中で、明延鉱山関係では、「明神電車と蓄電池機関車」、「明延鉱山探検坑道(旧世谷通洞坑)」、「明盛共同浴場『第一浴場』建屋」の3点が選定されました。

神子畑鉱山・選鉱所


創業当時の神子畑(みこばた)選鉱所
選鉱所は現在は撤去されています。

  
ムーセ旧居」。ムーセ旧居前には樹齢約200年の百日紅の木がある。

朝来市佐嚢。1878年(明治11年)の鉱脈再発見により、加盛山と呼ばれ、生野鉱山の支山として稼働していましたが、1896年(明治29年)の生野鉱山の三菱合資会社への払い下げ後、1917年(大正6年)採鉱の不況により閉山しました。明延鉱山で採鉱された鉱石の選鉱場となり、1919年(大正8年)に竣工。昭和に入ってから数度の拡張工事を経て、最盛期には東洋一と謳われた選鉱施設となりました。

最初の建設が1919年(大正8年)の選鉱場跡は、2003年(平成15年)の調査で、内部の階層延べ22階、幅110m、斜距離165m、高低差75mという規模が確認されました。木造部分と鉄骨部分があり(木造部分が初期の建設と考えられる)、一部鉱石などを入れる容器としての鉄筋コンクリート造の部分がある。 2004年(平成16年)に取り壊され、現在はコンクリートの基部やシックナー(液体中に混じる固体粒子を泥状物として分離する装置)の一部等が残るのみとなりました。

神子畑鋳鉄橋

  

兵庫県朝来市の神子畑川に架かる鋳鉄一連アーチ橋。明延(あけのべ)鉱山から採掘されたものを神子畑選鉱所(最盛期には東洋一と謳われた選鉱施設)や生野精錬所まで輸送するための鉱石運搬道路として手引車や牛車(後に鉄道馬車等のトロッコ用の線路が引かれる)などのためにかけられた鉄橋群の一つである。鋳物で作られたものとしては日本では最古のもので横須賀製鉄所で作られ飾磨まで海輸し運ばれたとされ、生野鉱山の開発などで呼ばれたフランス人技師たちの指導のもと作られました。

他に5箇所架けられていたが現在は他に羽淵鋳鉄橋を含めて2つだけが現存するものとなっています。 1977年6月27日に重要文化財に指定されています。老朽化のため1982年には一年かけて修繕が行われました。2007年に近代化産業遺産に認定されました。

明神電車(めいしんでんしゃ)

明神電車は、かつて兵庫県大屋町(現・養父市)・朝来町(現・朝来市)の明延鉱山にあった鉱山用軌道。明延(あけのべ)と神子畑(みこばた)を結ぶことからその名がついた。延長:5.75km

鉱石列車のほかに、鉱山関係者の便宜を図って人車も1945年から運行されました。この時、当初は運賃無料であったのが、1949年から50銭、1952年から1円を徴収するようになった。その運賃はその後、1985年11月の廃線まで変わらなかった。「1円電車」と呼ばれる所以はここにある。

なお、登山客へも10円の料金を徴収して開放していた事があり、その後は関係者かどうかに関係なく運賃を1円に統一した。しかし、1960年代にマスコミで「運賃が1円」ということが取り上げられた結果、興味本位の部外者の乗車が増え、その中には運行を妨害するような者も少なからずいたことから、業務に支障が出るという本末転倒の事態になり、部外者の乗車を禁止せざるを得なくなった。(小学生の時に乗った時は11円でした。)

円高の進行で錫鉱山としての国際競争力が低下し、明延鉱山が1987年に閉山となったことに伴い、明神電車も廃線となりました。

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【但馬の歴史】(20) 生野銀山

[catlist categorypage=”yes”] 平安時代初期から、但馬では金銀鉱山の採掘が行われていました。とくに生野銀山は山名氏支配の時代から四天王の太田垣氏が、阿瀬金山などは山名、垣屋氏が経営し、山名氏の衰退と下克上に大きく寄与する財源になっていたのではないかと考察します。養父郡北部を領していた八木氏は、中瀬鉱山・日畑金山などがその領地内にありました。そして各鉱山は豊臣・徳川時代まで最盛期が続き、重要な鉱山として幕府直轄領になりました。

生野銀山の歴史

生野銀山(いくのぎんざん)は兵庫県朝来市(旧生野町)に開かれていた、戦国時代から昭和にかけての日本有数の銀山。

生野銀山は平安時代初期の大同2年(807年)の開坑と伝えられていますが、詳細は不明です。天文11年(1542年)、但馬国守護大名・山名祐豊が銀鉱脈を発見、石見銀山から灰吹法といわれる採掘・精錬技術を導入し、本格的な採掘が始まりました。

このようにして山名氏の時代が約十五年続き、その後弘治二年(1556)家臣である竹田城主太田垣朝延の反逆によって約二十年経営され、天正五年(1577)から慶長三年(1598)までの約十六・七年間、織田信長・豊臣秀吉の直轄時代を経て、江戸時代にはただちに徳川家康が間宮新左衛門を代官として「銀山奉行」を設置。佐渡金山、石見(いわみ)銀山と並び徳川幕府の財源的な存在でした。徳川幕府が滅ぶまでの約二百七十年間、生野奉行が置かれ、第三代将軍・家光の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出しました。宝永2年(1705年)には、「御所務山(ごしょむやま)」という最上級の鉱山に指定されています。

慶安年間(1648年~1652年)頃より銀産出が衰退し、享保元年(1716年)には生野奉行は生野代官と改称しました。江戸中期には銀に換わり、銅や錫の産出が激増しました。

明治元年(1868年)から政府直轄運営となり、鉱山長・朝倉盛明を筆頭として、お雇いフランス人技師長ジャン・フランシスク・コワニエらの助力を得て、先進技術を導入し近代化が進められました。数年後、但馬南部・播磨を生野県として成立。

明治22年(1889年)から皇室財産となり、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払下げられ、国内有数の鉱山となりました。
昭和48年(1973年)3月22日、資源減少による鉱石の品質の悪化、坑道延長が長くなり採掘コストが増加し、山ハネなどにより採掘が危険となったことから、閉山し、1200年の歴史に幕を閉じた。坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達しています。
2007年、日本の地質百選に選定されました。

その間掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達しており採掘した鉱石の種類は黄銅鉱・閃亜鉛鉱など70種にも及んでいます。

生野銀山と太田垣氏

戦国末期に至り、ついに太田垣輝延、垣屋・八木・田結庄ら山名の四天王は但馬の有力国人衆とはかって守護山名致豊(いたとよ)に離反し、誠豊(まさとよ)を擁立して但馬の領国経営の実権を握りました。以後、垣谷光成・八木豊信・田結庄是義ら四頭が割拠し但馬を四分割しました。

天正三年(1575)、信長の指令を受けた羽柴秀吉が中国征伐を進めると、太田垣輝延は八木豊信・垣屋豊続を擁立して毛利氏の吉川元春と「芸但和睦」を結び、秀吉に対抗しました。しかし、結局は秀吉によって没落の憂き目となりました。輝延以降の系図は残っていないようです。

生野銀山は、山名氏支配の時代が約十五年の間続いたのですが、弘治二年(1556)、朝来郡を任された家臣である太田垣朝延の反逆によってこの城塞を占領され、銀山の経営を奪われることになって、祐豊は本城である有子山城(出石城)に追われてしまったのです。それ以後朝延は、自分の家臣を代官としてこの城に駐在させて銀山経営にあたり、秀吉の但馬征伐までの永禄・元亀時代の約二十年の間を自分のものとして続けてきました。

生野平城

生野にはもうひとつ、生野平城といって平地に築かれた城がありました。これについても「銀山旧記」に書いてあるのを見ると、但馬守護の山名祐豊が天文十一年(1542)二月に築いたものと伝えられ、城の構えは掻き上げ掘に石垣をめぐらし、内堀もつくられています。そしてこれに三階の天守閣をつくり、隅々には矢倉(櫓)をつけたとあり、相当立派な城であったと思われます。

この平城の「追手(表口)」は、その当時二本の柳の木があった北国町であり、「搦め手(裏口)」は井口です。現在の町で見ると、追手に当たるところは生野小学校校庭の端あたりで、搦め手の井口というのは口銀谷の五区鉱業所社宅のある付近を指すように考えられます。そして、侍屋敷、町々の家屋、寺社もあって栄えたと書かれています。この区域をまとめてみると、生野小学校校庭の「生野義挙趾碑」あたりから南、生野郵便局あたりの間が城の内であったことになります。

この平城は敵にそなえて造られたものでありますが、それと同時に生野銀山を確保するための重要な目的を持っていました。そこで城塞というより「鉱政庁」といった方がよいくらいで、軍兵などは置かず、鉱山の経営に重点を置いて、侍たちがその役務を果たしており、城の本陣という館で山名祐豊が監督し指図していたといわれます。

それからは実権が徳川幕府に移り、滅ぶまでの約二百七十年間、生野奉行が置かれ、鉱政庁として利用されていました、そして明治維新の改革で明治二年(1869)に生野県がおかれた時、その役所としてこれまでの代官所に使用されていた館などがそれにあてられました。
しかし、同四年廃県となった時に、この由緒ある建物は払い下げて売られ、取り壊して何一つなくなり、ただ石垣と外堀だけが昔を偲ぶ城跡として残っていました。しかしながら、史跡を守り文化財を重要視する現代と違った大正時代に、この生野の歴史的価値のある平城を惜しげもなく取り崩し、埋め立てて宅地に造成するなどによって、その存在した事実さえ知らないというのが、この城にまつわる物語であります。

銀の馬車道

「銀の馬車道」は、明治の初め生野と飾磨港の間、約49kmを結ぶ道として新しく作られ、正式には 「生野鉱山寮馬車道」と呼ばれた、当時の高速道路というべき馬車専用道路です。 完成から約130年がたった今では、道の大部分は車が走る国道や県道に変わり、 一部は新幹線姫路駅になっています。 しかしながら、「銀の馬車道」のルートをたどれば、あちらこちらに記念碑などがあり、 往時のおもかげを残しています。

1873年(明治6年)7月、生野鉱山長だった朝倉盛明とフランス人鉱山師フランソワ・コアニエが選んだ技師レオン・シスレーを技師長として「銀の馬車道」の工事が始まりました。 道路を水田より60cm高くし、 あら石、小石、玉砂利の順に敷きつめる技術は「マカダム式」と呼ばれ、当時のヨーロッパの最新技術を導入することにより、雨等の天候に左右されず、馬車がスムーズに走行できる工事が3年がかりで行われました。 この馬車道により、物資を非常に早く輸送でき、生野から飾磨港までの輸送経費が8分1まで低減したと言われています。

ジュール・レスカス(JulS. Lescasse)

明治初期に活躍した在日フランス人建築家。明治4(1871)年に来日。官営生野鉱山に勤めたのち、横浜に建築事務所を開設、かたわらパリの建築金物店ブリカール兄弟社の代理店も営んだ。代表作にニコライ邸(1875頃)や西郷従道邸(1885頃)などがある。

ジャン・フランシスク・コワニエ(Jean Francisque Coignet)

(1835年 – 1902年6月18日)は、フランスより招聘された御雇(おやとい)外国人技師のひとりである。兵庫県・生野銀山(生野鉱山)の近代化に尽力した。

コワニエは、フランス・サンテチェンヌの鉱山学校を卒業したのち、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州など世界各地の鉱山を視察し、1867年(慶應3年)より鉱業資源調査のために薩摩藩によって招聘されていた。

明治新政府は官営鉱山体制を確立すべく、1868年(慶應4年)、江戸幕府から受け継いだ産業資産のひとつである但馬国の生野鉱山(現・兵庫県朝来市生野町)の鉱山経営を近代化するため、コワニエは帝国主任鉱山技師として現地に派遣された。鉱山長・朝倉盛明の元、政府直轄となったこの鉱山を再興するため、鉱山学校(鉱山学伝習学校)を開設し新政府の技術者らを鉱山士として指導、近代的鉱山学の手法により当時の欧米先進技術を施し成果を挙げる。

坑口の補強にフランス式組石技術を採用し、鑿(のみ)と鏨(たがね)だけの人力のみに頼っていた採掘作業に火薬発破を導入、運搬作業の効率化を図り機械化を推進、軌道や巻揚機を新設した。また、より金品位の高い鉱石脈に眼をつけ、採掘の対象をそれまでの銅中心から金銀に変更するよう進言した。さらに、製錬した鉱石その他の物資輸送のための搬路整備を提案し、生野~飾磨間に幅員6m・全長50kmの、当時としては最新鋭のマカダム式舗装道路「生野鉱山寮馬車道」として1878年(明治11年)結実する。大阪の造幣寮(現・造幣局)への積出し港である飾磨港(現・姫路港)の改修なども指導し、発掘から積み出しまでの工程を整備した。

着任当初の鉱山の混乱(播但一揆に伴う鉱山支庁焼打ち事件:明治4年)もあり一時離日するが、その後再任し上記事業に本格的に取り組んだ。大蔵卿・大隈重信の官営鉱山抜本的改革についての諮問により、日本滞在中に各地の鉱山調査もあわせて行い、1874年(明治7年)『日本鉱物資源に関する覚書』(Note sur la richesse minerale du Japon)を著した。1877年(明治10年)1月に任を解かれ帰国、1902年、郷里のサンテチェンヌにて67歳で死去。

銀山現地にはコワニエの業績を称え、彼のブロンズ胸像が建つ。当時、生野の鉱山にはフランスから地質家・鉱山技師・冶金技師・坑夫・医師らが呼ばれ、その総数は24名に達したという。

鉱山資料館

現在は、史跡・生野銀山(三菱マテリアル関連会社の株式会社シルバー生野が管理・運営)となっており、のみの跡も生々しい坑道巡りのほか、鉱山資料館は、「和田コレクション」、「石亭標本」、「藤原寅勝コレクション」など常時2,000余点を展示しております。国内産出鉱石標本としては世界的にも貴重な国内最大級の鉱物博物館として知られております。「和田コレクション」は、和田維四郎博士が明治8年から30年間にわたって収集したもので、明治年間に我が国で産出した鉱物の大半を網羅し、最初の完全な日本産鉱物標本として国宝的評価と名声を博しています。和田維四郎の標本の散逸を惜しんだ三菱合資会社の岩崎小彌太社長が、同コレクションを一括して譲り受けました。その後当地に移管され、現在の三菱ミネラルコレクションの主体を成しています。 「和田コレクション(和田維四郎)」、「石亭標本」は、木内石亭が苦労の末に日本全国から集めた2千余点の奇石や鉱物類の標本で、我が国最古の岩石・鉱物コレクションです。

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【但馬の歴史】(19) 垣屋氏(5) 垣屋氏と山名氏の対立

轟・垣屋氏と楽々前・垣屋氏

垣屋氏は板東から山名時氏に従って、但馬に移り住んだのが垣屋家が山名氏に仕えた始まりで、以後代々山名氏の家老となる。 山名氏から気多郡の西気谷の三方郷に所領を与えられたようであるが、弾正の孫の代になると、所領は西気谷から竹野谷へと拡げられ、垣屋氏勢力扶植の基盤を確立したようだ。義遠の息子ら三兄弟のうち、長子熙続、二子熙知はともに主君山名時熙の偏諱を受けたもので、垣屋氏に対する時熙の信頼がいかに篤かったかを示すものである。 明徳2年(1391年)明徳の乱にあたって、大部分は山名氏清・山名満幸に属したのに対し、山名時熙方に属したのは垣屋氏だけだったことが発端である。その結果、明徳の乱を契機として垣屋氏は躍進を遂げることになった。 このとき、垣屋家は10万石以上を手にしたとされており、これを垣屋氏の最盛期であると判定する。

明徳の乱で但馬国衆は山名氏清方と山名時熈方に相分かれて戦った。その結果、執事の小林氏をはじめとして、山名氏家中の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていた。山名氏の建て直しを急務とする時熈にすれば、優秀な人材を求める気持は強かった。さらに、氏清方に味方した土屋氏、長氏、奈佐氏らは勢力を失い、山名氏家中に大きな逆転現象が起こった。そのような状況にあって、急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏であった。とくに、「応永の乱(1399)」における両氏の活躍が、その台頭に拍車をかけた。

応永の乱とは大内義弘が将軍義満に起こした叛乱で、これに関東公方らが加担して一大争乱となったものである。さらに、明徳の乱で没落した氏清らの一族も丹波で義弘に呼応した。時熙は丹波を平定、堺の合戦において被官の大田垣式部入道が目覚ましい活躍をみせ、乱後、但馬守護代に抜擢された。その後、時熙が備後守護に補任されると大田垣氏が守護代に任じられ、但馬守護代には垣屋氏が任じられた。こうして、垣屋氏・大田垣氏が山名氏の家中に重きをなし、さらに八木氏、田結庄氏を加えて山名四天王と称されるようになるのである。

明徳の乱以来着々と力を蓄えていた垣屋氏は山名家の筆頭家老の座につき、以後山名氏を陰で支えることとなる。

明徳の乱で活躍した垣屋弾正の孫の代になると所領は西気谷から竹野谷へと拡げられ、垣屋氏勢力扶植の基盤を確立した。 嘉吉の乱の恩賞で山名宗全が播磨守護職を賜ったとき、その代官として播磨守護代に任命されたのは垣屋越前守熙続であった。熙続の名は『但馬大岡寺文書』にもみえている。『校補但馬考』がもっとも整然としているとする『因幡垣屋系図』には越中守豊春も越前守熙続もその名を欠いている。おそらく、垣屋氏は多くの庶子家を抱える巨大な武士団を構成していたようだ。

このころから垣屋氏は 越前守熙続(長男)・ 越中守熙知(次男)・ 駿河守豊茂(三男)に別れ、それぞれ越前守家は三方郷の楽々前城、高田郷の越中守家は宵田城、駿河守家は竹野谷の轟(とどろき)城を受け持った。なお彼らは 垣屋弾正の孫、すなわち遠江入道の子である。

日高(高生・たこう)平野の南、円山川支流の稲葉川が大きく南に流れを変える岩中佐田連山の東端にある山城で、場所に永享二年(1430)、築城された。北に祢布城(にょうじょう)・国分寺城、北北西に水生(みずのお)城、北西に伊福(ゆう)城、日高・高生田が一面に見渡せ、岩山の急斜面があり、ふもとを流れる円山川の支流稲葉川が自然の堀となって、最高の条件に恵まれていました。稲葉川が東向きから急に南方に向きを変えるところにつくられており、気多郡の要として重要な位置にあります。楽々前城からのなだらかな稜線が続く形から南龍城とも呼ばれました。

幸福丸は播磨守隆国と名を改め、応永年間(1394~1427)に佐田知見連山の高峰に楽々前(ささのくま)城を築き、自らはここに移り住み、宵田城には隆国の次男垣屋隠岐守国重を城主にしました。  本丸の跡は300mの頂上にありましたが、今は車で登れる道が整備され城跡は区が整備する公園になっています(ただし一般通交禁止)。ここから本拠の楽々前(ささのくま)城まで尾根づたいにつながっていたといわれています。

応仁の乱(1467年-1477年)以降、山名氏に付き従っていた垣屋氏は没落し、戦国時代後期には垣屋続成が田結庄是義に殺される。

かくして、天正三年の秋、野田合戦が起こった。田結庄是義が他出した隙を狙った垣屋続成の子の轟・垣屋豊続(光成)が鶴城を攻撃したのである。急をきいてかけ戻った是義と豊続軍は野田一帯で対戦、敗れた是義は自害した。垣屋豊続は続成の仇をとったことになった。そして轟城から鶴城に本居を移した。この戦いに際して、楽々前城の垣屋播磨守らは田結庄氏を支援したようで、垣屋氏は毛利方と織田方に分かれて一族の対立は深刻化していた。
着々と力を蓄えていた垣屋氏は山名家の筆頭家老の座につき、以後山名氏を陰で支えることとなります。このころから垣屋氏は 垣屋弾正(重教)・時忠・隆国の三代百年に渡る間に、発展の基礎を打ち立てました。

嘉吉の乱と山名氏の衰退

山名氏は嘉吉の乱で守護領国となっていた播磨や備前では、応仁の乱を期に回復した赤松政則が占拠している状況にあいました。山名氏と赤松氏はいわば犬猿の仲です。山名政豊は、旧領回復のため、文明15年(1483年)に赤松家の内紛に乗じて播磨に出兵します。当初は真弓峠の戦いで大勝したものの、文明17年(1485年)以降は劣勢となり、長享2年(1488年)には政則に敗れて(坂本の戦い)、播磨における影響力を失うに至りました。

赤松氏は六千、山名氏は三万の軍隊を投入していました。圧倒的な大軍にかかわらず、山名が負けたのは、布陣を誤り、垣屋の陣所、森岡城が攻撃を受けている時に、山名政豊は遠く離れた書写坂本城(姫路市)にいて、援軍を出すすべも及ばなかったためです。その後も播磨で山名と赤松との間に一進一退の戦いを展開するが、文明十八年(1486)、英賀の戦いには、山名勢は敗北、垣屋越中守、惣右衛門など数十人が討ち死にしてしまいました。

つまり、前年の戦いに次いで良国のみが一人残されました。先に文明8・9・12年にわたって、隆国の三子が相次いで他界しました。

さらに同年四月、書写坂本の戦いにも敗北した山名政豊は、書写坂本城を保持するばかりに追い詰められました。長享二年(1488)、坂本城下で激戦が行われ、敗れた山名方は結束を失っていきました。

窮地に陥った政豊は但馬への帰還を願いましたが、垣屋氏をはじめ但馬の国衆らはあくまで播磨での戦い継続を求めました。さらに嫡男の俊豊も撤収に反対したため、追い詰められた政豊は、ついに坂本城を脱出して但馬に奔りました。かくして山名勢は総退却となり、赤松勢の追尾によって散々な敗走となりました。但馬国衆まもとより俊豊を擁する備後国衆らは背を向けました。

なかでも一連の敗北で、多くの犠牲を払った山名氏の有力被官で播磨守護代の垣屋氏と政豊の間には深刻な対立が生じていました。備後守護代であった大田垣氏や備後衆は俊豊を擁する動きをみせ、俊豊が政豊に代わって家督として振舞っていたようです。ところが、明応の政変によって将軍足利義材が失脚、義材に従って河内に出陣していた俊豊は窮地に陥りました。ただちに但馬に帰った俊豊でしたが、与党であったはずの垣屋・太田垣氏らが政豊方に転じたため、但馬は俊豊の意のままにはならない所となっていました。  垣屋続成は明応二年(1493)、山名俊豊と対立、政豊・致豊の重臣として実質的に山名領国の経営を担うようになる。

永正九年(1512)居城を楽々前城から鶴ケ峰城(日高町観音寺)に移し、ここを垣屋本流の拠点としました。楽々前城よりも標高が高く、山名氏の本城をはじめ四方が見渡せるからでしょう。こうした中、轟城主系の垣屋には戦死者が出なかったのが、せめてもの救いでした。
天正になると、山名氏の衰退とともに、西に毛利氏、東に織田氏が台頭すると、四天王たちは独立色を強め、二派に分かれ抗争を繰り広げ、山名氏の衰退をさらに加速させました。
垣屋続成の子が播磨守光成で、光成は八木・田公・田結庄ら但馬の有力国人衆と謀って主君である山名致豊に離叛し、山名誠豊を擁立して但馬の領国経営の実権を握ります。以後、垣屋光成(気多郡)・太田垣輝延(朝来郡)・八木豊信(養父郡)・田結庄是義(城崎郡)等四頭が割拠し但馬を四分割した。
この後、田結庄との「野田合戦」が起きた。

垣屋氏と山名氏の対立

本拠地を九日市から直轄領である出石郡西部の此隅山へ退転し、さらに現在の出石城がある有子山に城を移した。出石への移転の背景には、被官垣屋氏との相克がある。特に将軍位継承にからんで、義稙派の垣屋氏と義澄派の山名氏との勢力バランスが微妙に関わり合ったと見られる。山名氏は応仁の乱・播州放棄・山名政豊が死去し、子・俊豊や国人の背反など、政豊によって辛うじて維持されていた山名氏の勢いがなくなり、大きく傾いた。
さらに播州放棄・山名政豊が死去し、子・俊豊や国人の背反など、政豊によって辛うじて維持されていた山名氏の勢いがなくなり、大きく傾いた。

永正元(1503)年夏、軍勢乱入により出石神社が焼失した(沙門某勧進帳)。近くの此隅山山下の山名致豊勢を垣屋氏が襲ったと見られるが、一宮出石神社の所在地としても、直轄領の重要拠点であったから、城や在所の有無に関わらず、この地で両者が衝突することはあり得たと思われる。

永正2(1505)年6月、垣屋氏との争い後、将軍義澄は山名致豊に命じて垣屋氏と和睦させたが、内書では「先年和与を申しつけておいたのに実を挙げていない」と叱責する。
問題は、この和与調停にある。和世の条件等は不明であるが、山名氏の出石への退去の要因・動機であり得た可能性は極めて高い。義澄の調停の意図は、復権を目指す前将軍義稙の上洛に対抗して「腐っても鯛」である山名氏国衆の統一と団結とその和解に期待したものといえる。

結局、義稙は復権し(永正5年)、義稙派の垣屋光成は行粧諸道具使用を許されて将軍直参の資格を得、永正9年、山名致豊引退とともに本拠を宵田城(日高町)から城崎城(今の神武山豊岡城)に移した。後に豊岡に残した宵田の地名(現・中央町)は邸があった場所である。

この時点で、垣屋氏は山名政権下の国人筆頭の地位を脱して名実ともに、但馬の支配者としての地歩を固めた。

田結庄是義の父・右近将監は垣屋氏の出であり、太田垣氏・田公氏を始めとするかつての山名氏の有力被官にも養子を送り込まれている。

野田合戦後、田結庄氏の居城鶴城(愛宕山城)に入った轟・垣屋豊継は城崎城の但馬山名氏が衰えたあと、垣屋豊継は宵田城から城崎(木崎)城に入った垣屋氏と組んで「但馬一円を知行」したとされ、天正8(1580)年、但馬を征服した豊臣方の宮部善祥房がまず鶴城に入ったのは、但馬支配者の城だったからと説く向きもあります。

天正二(1574)年に山名祐豊が有子山城に復帰したとき、垣屋氏を含めて旧被官が傘下に列したのは、但馬を制圧した織田氏が、但馬の新秩序を固めるために強制した体制であったが、天正三(1575)年の田結庄氏滅亡といった傘下被官同士の争乱に見られるように、山名氏にその統制力はなかった。

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【但馬の歴史】(9) 山名氏(4) 生野城(古城山=いくのじょう)

足利三代将軍義満の時代、幕府最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいた。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(武士のトップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていた。

応永三十四年(1427)十月、四職のひとりである播磨守護赤松満祐(みつすけ)が、父義則の三十五回忌の法要仏事を赤松家の菩提寺である京都東山龍徳寺で行っていた。その時、将軍義持の使者として、南禅寺の長老が来て一通の書状を手渡した。その文面は赤松満祐の領地播磨国を足利将軍の直轄地として、そこの代官職を分家筋にあたる赤松持貞に代えるという思いがけないものであった。これにはいろいろ原因があるとされるが、つまりは満祐は将軍義持に嫌われており、その間に立って持貞がうまく将軍に取り入っていたことのよるものと伝えられている。

この意外な書状を読んだ満祐は、たとえ父が死んだといっても播磨国は祖父円心以来立派に治めてきた土地であるから、領地を取り上げられることは許してもらいたいとたびたび願ったのですが、ついに聞き入れてもらえなかった。そこで満祐も仕方なくこれに従うことを伝え、その日の仏事を住ませたのち自分の屋敷に帰り、決心して多くの財宝を召使いの者に分けた与え、屋敷には火をかけ焼き払い、夜にまぎれて本国の播磨へ引き上げてしまった。
これを知った将軍義持はたいそう怒って、「播磨一国を取り上げてもまだ備前・美作の二国があるにもかかわらず、このような反抗は許し難い。残る一国も他の赤松家に与え、満祐を討伐せよ。」

ということになって、その命令が山名時熈(ときひろ)と一色義貫(よしつら)に下ったのです。しかし、一色は様子を見るために出発しなかったようだ。

生野城

山名時熈は将軍義持の命に従い、すぐに京都から本国の但馬に帰り、赤松満祐討伐のため、播但の要衝である生野を選び、その北にそびえる標高六百mの山上(古城山)に城を築きました。「銀山旧記」という古文書によりますと、「ここ二十間(約36m)四方の居所を構え、尾崎尾崎に物見をつけ、厳重の要害なり。」と書かれている。これから考えてみますと山上に“館(たて)”といわれるような建物を造り、その尾根続きの要所には見張所も構えていたものと思われます。こうした陣をしいて敵方の様子をうかがっていたわけで、時に応永三十四年(1427)の十一月も末頃のことといわれている。

一方播磨国に引き上げた赤松満祐は、一族を集めて本拠の白旗城に立てこもり、戦いの体制を整えながらも、今一度将軍義持にあてて、「自分の所領地は播磨一国でいいから、先祖から受け継いだ土地として相続させてもらいたい。そしてこの度の軽率な行動は深くお詫びするから許してほしい。」という書状を送ったのですが、将軍義持は承知しなかった。
ところが、翌年に突如持貞と義持側室との密通に関する告発があり、持貞は切腹に追い込まれた。満祐は諸大名の取りなしを受けて赦免された。

今まで将軍義持のお気に入りであった分家筋の赤松持貞がおごりにふけって良よからぬことをしていたことがわかり、将軍義持は大へん怒って持貞に切腹を命じ、それまで憎んでいた満祐に対して心機一転その謀反の罪を許すことになりました。また、管領畠山氏のすすめで、満祐もとりあえず家臣を名代として京都へ送り幕府にあやまり、自分も十二月中ごろに上洛して、謀反の罪を詫びましたので、ことは無事に治まり、満祐は父の後を継ぎ播磨国を治めることができ、とにかく落ち着いたのです。

こうしたことで、生野城砦にいた山名時熈は、かねがね尊敬していた黒川村大明寺の月庵和尚の墓に参って、新しく香華を供えたと伝えられている。山城跡は“御主殿”とも“古城山”とも呼ばれ、その雄大な姿は生野小学校校歌にも取り入れて歌われ、生野銀山発祥の地として郷土史に輝いているのです。

生野平城


生野にはもうひとつ、生野平城といって平地に築かれた城がありました。これについても「銀山旧記」に書いてあるのを見ると、但馬守護の山名祐豊が天文十一年(1542)二月に築いたものと伝えられ、城の構えは掻き上げ掘に石垣をめぐらし、内堀もつくられている。そしてこれに三階の天守閣をつくり、隅々には矢倉(櫓)をつけたとあり、相当立派な城であったと思われます。
この平城の「追手(表口)」は、その当時二本の柳の木があった北国町であり、「搦め手(裏口)」は井口です。現在の町で見ると、追手に当たるところは生野小学校校庭の端あたりで、搦め手の井口というのは口銀谷の五区鉱業所社宅のある付近を指すように考えられます。そして、侍屋敷、町々の家屋、寺社もあって栄えたと書かれている。この区域をまとめてみると、生野小学校校庭の「生野義挙趾碑」あたりから南、生野郵便局あたりの間が城の内であったことになります。
この平城は敵にそなえて造られたものでありますが、それと同時に生野銀山を確保するための重要な目的を持っていた。そこで城塞というより「鉱政庁」といった方がよいくらいで、軍兵などは置かず、鉱山の経営に重点を置いて、侍たちがその役務を果たしており、城の本陣という館で山名祐豊が監督し指図していたといわれます。
「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝
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