古代山陰道と但馬・丹波

古代山陰道と但馬・丹波


図:国土交通省近畿地方整備局 近畿幹線道路調査事務所

律令制の時代、わが国は五畿七道(ごきしちどう)という地域区分をもち、現在の近畿地方を中心とした国づくりが行われていました。

ここでいう「道」とは、中国で用いられていた行政区分「道」に倣った物であり、朝廷の支配が及ぶ全国を、都(平城京・平安京)周辺を畿内、それ以外の地域をそれぞれ七道に区分していました。

五畿七道には、律令で定められた国(令制国)があり、それぞれの国府は、七道と同じ名前の幹線道路で結ばれていました。幹線道路は大路、中路、小路に区分され、大路は都と大宰府を結ぶ路線、中路は東海道・東山道の本線、小路はそれ以外の道路とされています。

この時代の記録を残す物の一つとして知られているのが、平安時代中期に編纂されほぼ完全な形で伝わっている「延喜式」(えんぎしき:律令の施行細則的位置づけ)で、細かな事柄まで規定され、古代史の研究で重要な文献となっています。そして「延喜式」は、幹線道路の沿道に置かれ、使者に馬や食事、宿泊などを提供した「駅家(うまや)」の一覧が載っている最古の記録なのです。

■古代山陰道の国と駅

延喜式によれば、山陰道のルートは畿内の山城国(現在の京都府南?部)から丹波国、但馬国、丹後国、伯耆国、因幡国、出雲国、石見国、隠岐国を通るとされます。現代の道との比較をしてみると、古代の山陰道は、おおよそ国道372号線、国道176号線、国道483号線、国道9号線などのルートを通ったものと考えられています。 古代山陰道の駅は、当然のことながら実在したものではありますが、それが実際にどこにあったのかということについては、地名などをもとに、比定地について研究が進められており、駅によって、諸説がほぼ一致しているものもあれば、説が分かれている場合もありますが、おおよその地域については研究の結果明らかになってきています。

【延喜式による古代山陰道の国と駅】

駅名
丹波国大枝野口小野長柄星角佐治日出花浪
丹後国勾金但馬国粟鹿郡部養耆山前面治射添春野因幡国山崎佐尉敷見柏尾伯耆国笏賀松原清水奈和相見出雲国野城黒田宍道狭結多杖千酌石見国波弥託農樟道江東江西伊甘

吉川弘文書刊「完全踏査 古代の道」(木下良監修/武部健一著)を参考に作成

これらのことからもわかるように、古代の道は江戸時代の道とは違い、未だ解明されていない部分も多いとされますが、一方でその研究結果から、古代の道は直線的道路が多く、かつ道幅も広くとられていたと考えられており、非常に計画的に整備された交通路であったといわれています。

■古代の山陰道と近畿豊岡自動車道との関係

古代の山陰道は平成18年7月に供用を開始した近畿豊岡自動車道の一部である春日和田山道路のルートと一致する部分も多く、この道路のパーキングエリアとなっている、山東、青垣などは古代山陰道の駅の比定地などとほぼ一致しているなど、高規格道路と古代道路との連関性は、全国的にも事例が多いとされています。

古代の遺物という観点では、古墳や遺跡などわかりやすい形でみることのできるものがある一方で、実は今私たちの目の前に当たり前のように存在する「みち」は他の古代の遺物と同じように歴史や文化の宝庫でありながら、今もなお長い歴史の現在進行形の中で私たちが利用しその恩恵を受けている地域社会の生きた古代遺産ということを実感します。

 

「みち」がまちをつくり、そして「みち」や「まち」の出来事の蓄積が地域の歴史や文化をつくってきました。現代においても、北近畿豊岡自動車道が春日・和田山間に供用されたことで京阪神からの丹波・但馬地域への観光客も増加しており、新たな「みち」による北近畿文化圏の新たな1ページが開かれるのかも知れません。
古代山陰道の時代の丹波国とは、現在の京都府の亀岡市・園部町、兵庫県篠山市・丹波市にわたるエリアということができます。古代山陰道は京都の羅城門から始まり、この丹波を入り口に本路は但馬へ、支路は丹後を通り再び但馬で本路に合流し、日本海岸にむけて道がつづきます。延喜式による山陰道本路における丹波国の駅は「大枝」「野口」「小野」「長柄」「星角」「佐治」の6つが示されており、その比定地等について見ていきます。

■古代山陰道:丹波国の駅家

畿内の山城国から老の坂峠を越えて丹波国に入り、出発点の羅城門から約13.4キロの距離に最初の駅「大枝駅」(おおえ)があります。現在の京都府亀岡市篠町王子あたりと考えられています。同名の地名が京都府西京区にも残っていることから、もともとは(奈良時代には)山城国にあった駅家が平安時代に丹波国に移されたものと考えられています。

山陰道本路は、亀岡市の東西道路から先は、大筋では近世の篠山街道あるいはそれを踏襲する国道372号のルートに乗るものになりますが、より直線的な篠山街道のルートが近いと考えられています。また、丹波国府を経由するルートが本来の山陰道であるという考え方もあります。

そのルートの先にあるその次の駅家が「野口駅」(のぐち)です。現在の京都府園部町南大谷あたりに存在したと考えられています。十世紀に成立した百科事典「和名抄」に船井郡野口郷の記述があり、現在の薗部町南大谷に旧字名の野口があることから、比定地として有力視されているのです。ここには、地元の郷土史家の方々が立てられた「野口駅跡」の石碑が存在しています。

ここから「天引峠」といわれる峠を越えると同じ丹波でありながら、京都府から兵庫県に入ります。現在の篠山街道(デカンショ街道ともいわれています)に沿って、丹波第3番目の駅「小野駅」(おの)があります。これは現在の兵庫県篠山市小野奥谷あたりと考えられています。近隣には、「史跡延喜式小野駅跡」と記された碑と祠、その横に篠山市による板が立てられています。

「小野駅」から篠山街道を進み、次の駅「長柄駅」(ながら)に向かいます。「長柄駅」の比定地については諸説ありますが、西濱谷遺跡などの発掘などから、篠山市西濱谷にあった可能性が高いとされています。小野駅から篠山市街地の北側の山麓沿いを通ってきたと考えられ、小野駅からは12キロ程度となります。「長柄駅」から先の古代山陰道は本路と支路に分かれます。本路は現在の丹波市を通って但馬地方へ抜ける道であり、支路は篠山から丹後地方に向かい、但馬の出石地方を通って香美町村岡区で本路と合流します。

延喜式山陰道の本路は、「長柄駅」から国道176号線を北に向かいます。直線的な道路が多くなり、古代の道の面影を感じさせる風景がつづきます。

「長柄駅」の比定地から約16.4キロ、丹波市氷上町石生のあたりが「星角駅」(ほしずみ)の比定地とされています。このあたりは旧道の国道 175号線と国道176号線が合流する地点で、標高100メートル未満の太平洋と日本海の分水嶺としても有名で、「水分れ」と呼ばれる地区です。このあたりから延喜式山陰道は、昨年供用が開始された国道483号線(北近畿豊岡自動車道)と平行して走るようになり、駅家もインターチェンジの場所とほぼ同じ配置となってきます。ちなみに星角駅は北近畿豊岡道氷上ICの近くになります。

丹波地区最後の駅は「佐治駅」(さじ)です。北近畿豊岡道の青垣ICの近くであり、丹波市青垣町佐治という地名から比定地には問題がないとされています。北近畿豊岡道の「遠阪トンネル」を抜けると、もうそこは兵庫県朝来市にはいり、「丹波国」から「但馬国」に入ることとなります。

■古代山陰道における丹後・但馬路の分岐について

山陰道丹後支路最初の駅は「日出駅」(ひづ)駅です。その比定地は兵庫県丹波市市島町上竹田段宿とされ、由良川支流の竹田川右岸を北上し、市島町に入ってからは左岸に移って比定地に達します。現在は国道175号線が近くを通っています。

その次は福知山市にあると考えられる「花浪駅」(はななみ)です。日出駅から由良川筋を避け、西回りでいくルートと考えられます。福知山市中心部から西の西明寺・今安付近を通過して府道109号線を北上し、福知山市野花から府道528号線を沿って北上すると「花浪駅」にいたります。具体的な比定地としては京都府福知山市瘤ノ木周辺とされています。

この周辺には「花浪駅跡」とされた地元が建立した石碑もあり、和泉式部の歌にも「はななみ」の言葉が用いられたものがあります。ここから小さな峠を越え、国道426号を通り、丹後支路は丹後国に入ります。 国道426号を加悦町を経て、野田川町に達すると、ここが丹後国唯一の駅家「勾金駅」(まがりかね)の比定地となります。支路と丹後国府への道がクロスするポイントに置かれたと考えられています。この駅家から丹後国府へは10キロ程度で、国府は宮津市中野府中あたりとされ、宮津湾が天の橋立にふさがれた風光明媚な阿蘇海に面しています。 再び「勾金駅」に戻り、支路を進むことにしましょう。府道2号線宮津八鹿線を西に進み、岩屋峠を越えるとそこは但馬国です。ここに山前駅を置く説もありますが、山前駅については諸説あって分からないことが多いので、今回の特集ではふれないこととします。

さらに西に進み、豊岡市出石町中心部まで支路は峠を越えながら直線的に進むと考えられています。出石市街からは、国道482号線を通り、豊岡市日高町に向かいます。豊岡市日高町には但馬国府があったとされ、この周辺の弥布ヶ森遺跡がそれではないかと有力視されています。正倉院文書の中に「高田」駅家という記述があり、延喜式以前、このあたりに「高田」という駅家があったと考えられています。延喜式の時代には、但馬国府がその代替施設として役割を果たした可能性があります。)

丹後・但馬路の最後の駅家は「春野駅」(かすがの)1です。この駅の比定地については諸説あり、特定は難しいとされています。ある説では、国道 482号線の蘇部トンネルを抜けて、香美町村岡に通じるルートにその駅家があったのではないかと考えられています。古代道路のルートを新しい自動車道やバイパスが通る例がよく見られることなどを考えると、可能性のある説とはいえ、近くの道の駅「神鍋高原」があるあたりが好適地とも思われます。 ここをまっすぐ進み、古代山陰道の支路である丹後・但馬路は香美町村岡区で本路と再び合流すると考えられます。

(丹後と但馬を結ぶ支路で山前はどこなのか。射添と春野間は蘇武岳越えという難所ではありますが直線距離が近すぎるので、山前は勾金と春野の間であれば高田あたりであれば勾と春野の中間、出石神社あたりではないか。)

この支路は丹後国府へ行くだけでなく、それから但馬国府を経て山陰道本路へ戻ります。分岐点の考え方にはいくつかあり、比較される路線は、「佐仲峠越え」「瓶割り峠越え」「水分れ街道」の3つが考えられています。 「佐仲峠越え」は「長柄駅」より本路を進み、現在の舞鶴若狭自動車道とクロスするポイントから分かれるルートで、佐仲峠を越えて、丹波市春日町国領に出る道です。

「瓶割り峠越え」のルートは、鐘ヶ坂峠の手前で分岐し、北上して瓶割峠を越え、「佐仲峠越え」と同じく丹波市春日町国領に出ます。福知山市史などはこのルートを採用しています。

「水分れ街道」のルートは丹波国の駅家「星角」から、現在の国道175号線やJR福知山線に沿って進む黒井川沿いのルートです。 それぞれのルートの違いは「佐仲峠越え」がもっとも標高が高いところを通り丹後・但馬路の最初の駅に最も近く、「水分れ街道」は峠を越えない平坦な道路であるが最初の駅までは最も遠くなっています。古代道路は最短のルートをとる場合が多いこと、江戸時代の道しるべも「佐仲峠越え」のルートを丹後への道としていること、高速道路に沿ったみちであることなどを考えると「瓶割り峠越え」のルートの蓋然性が高いと考えられます。

丹波市春日町国領から北上すると舞鶴若狭自動車道の春日ICに到達しますが、この付近に位置する七日市遺跡で南北方向に走る幅約11mの道路遺構が見つかり、位置や方位、幅員などから山陰道丹後支路の可能性が高いとされています。この遺跡では、多数の建物や、木製品・硯・石帯、および「春マ郷長」「大家」「門殿」などと記された墨書土器が出土し、木簡・墨書土器が多数出土した付近の山垣遺跡とともに、この地域を治めた役所の跡と考えられています。

■古代山陰道:但馬国の駅家

但馬国は現在の兵庫県但馬地方とほぼ同じ地域をさします。第2回の中で、とりあげた丹波市青垣町から北近畿豊岡道にある全長4キロ近くある遠坂トンネルを抜けると兵庫県朝来市、但馬地域の入り口となります。

延喜式による山陰道本路における但馬国の駅は「粟鹿」「郡部」「養耆」「射添」「面治」とつづき、その後但馬国から因幡国に入ります。

但馬国の一番最初の駅は、「粟鹿駅」(あわが)です。北近畿豊岡道に沿って進み、次のIC(山東)の近くと考えられています。遺跡地名の粟鹿がありますが、近くの朝来市山東町柴で「駅子」と書かれた木簡が出土し、このあたりが駅家の場所ではなかったかと考えられています。(柴遺跡として知られています。)この近くにある粟鹿神社は延喜式時代のものといわれ、古代の情緒を残した神社として知られています。

ここからのルートは学説がいくつかに分れます。一つは近世山陰道や国道9号の道筋である円山川沿いを進むルート、今ひとつは朝来市和田山町牧田から峠越しに同市同町岡、岡から養父市畑を経て広谷あたりに出たと考えるルートです。古代道路の多くはその経路として、氾濫などの多い河谷沿いを避ける傾向があり、円山川がたびたび氾濫を繰り返したことから後者の川沿いを避けたルートという考え方に基づいて話をすすめていきます。

次の「郡部駅」(こうりべ)は円山川沿いを避けたルートとすると、養父市広谷または岡田辺りがその比定地と考えられます。ただし、このあたりには明確な遺跡等が確認されていません。現在北近畿豊岡自動車の和田山八鹿間の工事が行われ、養父ICの設置が予定されている近くであり、古代山陰道と北近畿豊岡自動車道との関係性をここでも見ることができます。また、丹波の星角駅よりつかずはなれずつづいてきた古代山陰道と北近畿豊岡道の関係はここでおわり、ここから駅路は国道9号に沿って進むことになります。

次の駅は「養耆駅」(やぎ)です。この駅についてはいくつかの説がありますが、養父市八鹿町八木に遺称地名があり、この近くにある中世八木城遺跡の発掘調査で、奈良時代の須恵器や役人の存在を物語る石帯が出土しており、この地を有力な比定地とする考え方が主流といえます。なお、延喜式では「養耆駅」の次に「山前」(やまさき)とよばれる駅が記されていますが、この山前駅は丹後-但馬間の支路に位置する駅である可能性が高いので、今回は本路の駅としてとりあげることは避けることとします。

さて、国道9号をさらに北上すると、途中の香美町村岡区村岡で、丹後・但馬を通った支路と合流し、さらに進むと次の駅「射添駅」(いそう)にいたります。遺跡などは見受けられませんが、香美町村岡区和田のあたりと比定され、湯船川と矢田川の合流地点付近とされています。

但馬最後の駅家は「面治駅」(めじ)です。新温泉町出合付近に比定されており、近くに「面沼神社」があり、「米持」(めじ)の小字名もあることから、この付近を比定地することに大きな異論はないところです。この周辺は湯村温泉の温泉街のすぐ近くです。

三丹地域の古代山陰道の特徴の一つとして、丹波・丹後・但馬をトライアングル状につなぐ支路の存在があります。この支路が本路のどのあたりから出たかということについては、いくつかの説があります。いずれにしても丹波のある地点から分岐し、丹後をとおり、その後但馬国府を通って、但馬の美香町村岡区付近で本路に合流する経路です。 延喜式によれば、この経路における駅は、「日出」「花浪」「勾金」「山前」「春野」とつづき、本路に合流します。

参考:国土交通省近畿地方整備局 近畿幹線道路調査事務所 「みちまち歴史・文化探訪」

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北但馬の古墳

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概 要

さて、丹後地方とは隣り合わせの但馬(たじま)の古墳についてはどうでしょう。

兵庫県はもともと5つの旧国からなる広大な地域であることから、古墳18,351ヵ所は日本第1位、遺跡28,882ヵ所は日本第2位であり、上古より拓けていた地が多いとされています。但馬地方には、これまで約3000ヵ所の古墳が見つかっています。記紀に崇神・垂仁・神功皇后・応神の頃には但馬は丹後と並び、記載がとくに多くなることから、ヤマト朝廷と朝鮮半島南部との要衝として朝廷との結びつきが強まります。
8世紀の初めの頃までに記された「播磨国風土記」には、但馬の郡名が三つ載っています。夜夫(やぶ)の郡(現養父市)、氣多(ケタ)の郡(旧気多郡、現豊岡市日高町)、それに伊豆志(いずし)の郡(現豊岡市出石町)です。それはこの地域に首長が納めるクニが存在していたことを記しています。いずれも円山川流域で、上流部の但馬南部には近畿地方で4番目の巨大前方後円墳・池田古墳など、但馬国王級の巨大墓が多い阿相(あさぐ)の郡(現朝来市)があります。

但馬地方は奈良時代までは、丹後と同じ丹国(丹波)で、但馬地方の古墳は、丹後地方の古墳が築かれた時代と重なりながら、円墳や前方後円墳が築かれました。弥生時代中期から弥生後期まで吉備・山陰・北陸の各地方で行われた四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓である「四隅突出型方形墓」は、出雲と越との中継地の丹後には数基のみ見つかっていますが、なぜか中間の但馬地方ではいまだ見つかっていませんでした。しかし、近年、朝来市・粟鹿遺跡から但馬で初めての方形貼石墓1基が発掘されています。

但馬で発見された貴重な遺物を時系列で並べると、
・中谷貝塚(豊岡市中谷 縄文時代)
・見蔵岡遺跡石棒(豊岡市竹野町松本)西日本初、子孫繁栄を願う石棒の出土品
・粟鹿遺跡で発見された但馬初の方形貼石墓(弥生時代中期末~後期初頭)
・気比銅鐸4個(弥生時代中期(前2~前1世紀))
・珍しい久田谷銅鐸片(豊岡市日高町 弥生時代)
・森尾古墳(豊岡市森尾)の正始元年(240年)三角緑神獣鏡
・城ノ山古墳(4世紀後半 朝来市和田山町東谷 国指定重要文化財)の三角縁神獣文帯三神三獣鏡
・茶すり山古墳の「三角板革綴襟付短甲(さんかくばんかわとじえりつきたんこう)」(5世紀前半)
・船宮古墳(朝来市桑市 県指定史跡)5世紀代の同一水面の周濠をそなえた前方後円墳  日本最古の牛形埴輪が出土
・八幡山古墳群(香美町村岡区福岡 県指定史跡 5~6世紀)三角持送り式天井の竪穴系横口式石室
・大藪(おおやぶ)古墳群(養父市大藪 県指定史跡 6世紀後半~7世紀代)但馬最大級の後期古墳群。環頭大刀単龍式
・箕谷(みいだに)群集墳(養父市八鹿町小山 国指定史跡 7世紀前半(630年ごろ))戊辰年銘大刀が7世紀前半(630年ごろ)
・二見谷古墳群(豊岡市城崎町上山 県指定史跡)但馬では類例の極めて少ない家形石棺を内蔵し、金銅製の鉄刀や鈴などを副葬するすぐれた古墳群。圭頭大刀2点
などがあります。

京都府加悦(かや)町(与謝野町)と豊岡市加陽(かや)の地名が似ている点も、朝鮮半島南部の伽耶と同じ氏族が渡来した可能性も指摘でき、古くは丹国(但馬・丹後・丹波)としてまとまった文化圏であった可能性も高いものです。

森尾古墳


古墳前期-古墳(方墳、竪穴式石室)

豊岡市森尾字市尾

この古墳の発見は、但馬地方でもっとも早く大正年間の工事中に発見されて以来、地元研究者や大学の研究者が何回となく取りあげていました。その時すでにいくつかの遺物が発掘されています。そして但馬地方が考古学的に論及されるのは、ほとんどこの森尾古墳だけであったのが最近までの状況でした。1墳丘3石室となっており、埋葬施設は3基の竪穴式石室です。

また、昭和51年8月~平成6年3月30日に行われた「森尾古墳確認調査概要報告」(豊岡市教育委員会)で、古墳の構成や出土遺品などを考慮すると、この古墳自体が新旧で使われていたものであろうと考えられています。~森尾古墳を但馬最古の古墳と位置づけ、県下でも最古の一群に入れられるものとして考えられてきました。

ところが、近年森浩一氏が消滅したとされる森尾古墳の墳形について、ひとつの可能性として長方形説を打ち出し基底部が残存しているのではないかとの指摘もあわせて行ない、さらに本村豪章氏も「前期古墳の諸様相」を著して森尾古墳の再検討をも行ない、今後の発掘調査等によらなくてはならないとしながらも、大胆に方墳あるいは前方後方墳の可能性を指摘していました。

三角縁神獣鏡の謎


画像:「三角縁神獣鏡」雲南市 神原神社古墳-島根県立古代出雲歴史博物館蔵

※画像:島根県立古代出雲歴史博物館は見学いたしましたが、館内撮影禁止のためHPからお借りしています。
森尾古墳が全国的に有名になったのは、発掘された二面の青銅鏡で、「三角緑神獣鏡」で卑弥呼の鏡ともいわれており、北近畿で最古の鏡であることが分かり、北部九州並みの大陸との関係が指摘されました。

神獣鏡(しんじゅうきょう)とは、古鏡の銅鏡の区分のひとつで神仙界の理想郷を図文化した鏡。鏡の裏の文様が神像と獣像とを半肉彫にしたものを主として組み合わせた文様を持つものがこう呼ばれています。鏡の縁の断面が、平たくなっている平縁(ひらぶち、へいえん)式と、三角形になっている三角縁式(さんかくぶち、さんかくえん)とに大別され、特に三角縁式のものは、魏の明帝が邪馬台国の女王卑弥呼に下賜した銅鏡にあたると言う説があることで知られています。

三角縁神獣鏡の銘文中に紀年が記された銅鏡は四面あります。

島根県雲南市加茂町大字神原・神原神社古墳出土の「景初三年」鏡
群馬県高崎市柴崎町蟹沢・蟹沢古墳
兵庫県豊岡市森尾字市尾・森尾古墳
山口県周南市(旧新南陽市)竹島御家老屋敷古墳

神原神社古墳出土の「景初三年」鏡以外の三古墳から出土したものは同型の「正始元年」鏡です。これらの鏡四面は、すべて文様の神像と獣形像が同じ方向に並ぶ同向式。

また、同時に見つかった鏡の一つが1世紀に中国でつくられた近畿で最古級の「方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)」と同じであることがわかりました。

もう一面は、1917年に出土した「方格規矩四神鏡」は、約二千年前の紀元前後、中国の年号である「正始元年」で始まる文字が刻まれています。

森尾古墳の三角緑神獣鏡は、北近畿最古の鏡で、山口県竹島御家老屋敷古墳で出土した「正始元年銘三角縁階段式神獣鏡」や蟹沢古墳(群馬県高崎市)と同笵鏡(同じ鋳型からできた鏡)であり、正始元年(240)は邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを出し、魏王から銅鏡100枚を贈られた翌年にあたり、出土した鏡はこうした「魏志倭人伝」に記されていることと深くかかわっていると考えられています。それらが遠い距離を隔てて別の地点で出土していることから、ある政治的な意志で1か所から配布されたのではないかとも説明されています。

従来、三角縁神獣鏡=魏の鏡=卑弥呼の鏡というのが定説で、銘文に「景初三年(239)」「正始元年(240)」などの魏の年号や「陳氏」「張氏」「王氏」など中国人の作者名があり、図像文様からみても明らかに中国鏡の特徴を持っています。このため、三角縁神獣鏡は3世紀中葉の魏で作られ、卑弥呼に贈られた「銅鏡百枚」にあたると考えられ邪馬台国畿内大和説の有力な根拠とされてきました。

しかし、三角縁神獣鏡は中国本土ではいまだ1枚も出土していないことや、魏の元号が改元されて存在しなかった「景初四年」銘の鏡が見つかったことから、最近ではこの三角縁神獣鏡は日本製との見方が強まっています。しかも、これまで中国で出土した神獣鏡は、魏が支配した北中国に少なく、呉の領域とした南中国に多いことから、三角縁神獣鏡は神獣鏡をつくる伝統のない魏の製作ではなく、呉の鏡工人が日本に渡来して製作した説を、中国考古学者の王仲殊は唱えたのです。

しかし、卑弥呼が魏に使いを送った景初三年(239)に画文帯神獣鏡をモデルとして三角縁神獣鏡がつくりだされたことは確かであり、「銅鏡百枚」のなかにそれが含まれていたであろうことも容易に推測できます。

三角緑神獣鏡は倭王権の誕生を示すものなのか

したがって、卑弥呼が若い頃に入手した画文帯神獣鏡は、近隣の首長に分配しただけですが、晩年に入手した三角縁神獣鏡は、分配域が九州から関東まで大きく拡大しました。それは邪馬台国を盟主とした倭王権の誕生を意味するものでしょう。

1953年、鉄道工事中に京都府椿井大塚山古墳で32面以上の三角縁神獣鏡が出土しました。調査に関係した小林行雄氏は、4組9面の同笵(どうはん)鏡があることを見つけ、もし鏡は一枚ずつバラバラの状態で入手されたのなら、偶然が重ならない限り起こりえないから、それがセットにまとまった状態でもたらされたと考えました。そして、日本全国の三角縁神獣鏡に42個の同笵(どうはん)鏡であることを確かめ、それが九州から関東まで広がっていること、椿井大塚山古墳を中心に畿内と地方の間で分有され、地方だけの分有関係はほとんどないことを明らかにしました。そこから、三角縁神獣鏡は畿内の倭王のもとに一括保管されたのち、椿井大塚山の首長が各地の首長にたいして分配したと考えました。さらに4つの違う形式ごとに分布の偏りがあることから、数回に分けて配布され、倭王権と地域首長との政治的関係が成り立つことによって各地に古墳が出現したと論じました。

1998年には奈良盆地東南部の黒塚古墳から33面の三角縁神獣鏡が出土しました。7組15面も同笵(どうはん)鏡がみつかり、九州から関東にわたる39古墳と同笵(どうはん)鏡を分有しています。倭の中枢部から多数の同笵(どうはん)鏡が出土したことにより、小林行雄氏の同笵(どうはん)鏡論は揺るぎないものとなりました。

しかし、椿井大塚山の首長が同笵(どうはん)鏡を配布したという考え方は、加茂岩倉から39個の銅鐸に15組26個の同笵(どうはん)関係が確かめられたように、出度数か多くなれば、それだけ同笵(どうはん)関係の中心になるのは当然で、椿井大塚山と黒塚の被葬者は、倭王から相当の数の銅鏡を下賜された有力者であったのでしょう。

神仙と霊獣の図像の外縁に「景初三年」を含む銘文41文字が鋳出されています。邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送り銅鏡100枚を賜ったとされる魏の年号「景初三年(239年)」という銘のある銅鏡は、大阪の和泉黄金塚古墳とともに全国でわずかに二例が知られるのみです。

入佐山(いるさやま)・茶臼山(ちゃうすやま)古墳


■入佐山古墳

豊岡市出石町入佐

入佐山は50mほどの丘で、沢庵和尚ゆかりの宗鏡寺と出石高校の間に位置しています。 「入佐」の地名は沢庵和尚が入佐僧と号した事などで、江戸時代に「城崎温泉」や「生野銀山」とならぶ但馬の名所となりました。また公園整備された展望台のある山頂部は古墳群で家型埴輪や中国製の銅鏡なども出土しています。

入佐山1号墳 前方後円墳??
入佐山2号墳 直径15mの円墳
入佐山3号墳 砂鉄と共に数々の遺物が副葬 4世紀後半 高さ3.5m 36mX23mの方墳

資料によると標高約90メートルのこの入佐山の狭い尾根筋には弥生時代後期から古墳時代前期いたる墳墓群が点在。尾根筋をつなぐ小さな3つのピーク部にそれぞれ古墳があり、尾根筋には50を越える小さな木棺直葬墓が点在している。このうち 一番奥のピークにある3号墳が発掘調査され、時期のほぼ同じ二つの墓壙が一部重なさつて存在し、第一の墓壙では赤く塗られた木棺の中 頭の直ぐ上に土器と共に砂鉄 鉄鏃 鉄斧が置かれ、体の右側に四獣鏡と太刀 左側に割れた方銘四獣鏡と刀・剣・ヤリカンナ 足元には鉄鏃と槍がおかれ、棺の直ぐ左にも鉄剣が置かれていた。この墓壙に重なるもう一つの墓壙はむしろこちらが古墳の中央にあり、先の墓と考えられるが、第一の墓壙で一部壊されていて、詳細はわからないが、ガラス玉が出土している。

但馬北部では前方後円墳がまだ見つかっておらず、入佐山1号墳が勇逸の前方後円墳?らしい。
3号古墳が他の2つの古墳より先に作られたと考えており、その副葬品などから 鉄の技術を有する渡来系のこの地を治めた豪族と考えられている。また この尾根筋の直ぐ近く 南東の丘陵の端に但馬最大の円墳茶臼山古墳があり、一つの古墳群を形成している。

■茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)
豊岡市出石町谷山字ムク谷
北但馬最大の円形古墳。

古墳構成
墳丘直径49m、高さ7mの三段築成で北但馬最大の円墳。明治時代、耕作の最中に偶然発見されるが、その時石室の一部が破壊されている。また、人骨や遺品なども出てきたのだが、そのまま埋め戻されてしまった。正式に発掘調査に入ったのは、1977年(昭和52年)のときである。
全国最大規模の祭祀跡 入佐川遺跡(出石郡出石町宮内)

小野川河川改修のために昭和62年度から発掘調査を進めています。これまでの調査では、奈良~平安時代の“祓”(はらえ)に使用する木製の人形・馬形などの祭祀具が大量に出土しています。今回の調査では、古墳時代中期の水田跡や川跡が見つかり、お祭りをした跡と考えられる土器列や緑色の石で作られた石釧(腕輪)の破片も出土しました。

■小見塚古墳

兵庫県豊岡市城崎町今津
但馬海直(あま)一族のものと考えられています。北但馬には5,000基以上の古墳がありますが、埴輪が出土したものは少なく、ここでは、現在但馬地方で一番古い埴輪が出土しています。丹後久美浜との関係がうかがえます。

大師山(だいしやま)古墳群


豊岡市引野

90墓近い円墳が造られています。2008年11月29日に訪ねました。
大師山は標高100mほどの細長い丘陵で、円山川と出石川に挟まれた豊岡平野が見渡せる見晴らしの良い場所で、すぐ近くに葦田神社があります。しかも気多神社(上郷)や楯縫古墳と出石神社にも近く、それらを結ぶ中間にあるのが興味深いです。この地区はかつては気多郡中郷で、加陽(かや)といわれていて、現在でも加陽という地区が残っています。

竪穴系横口式石室という特殊な石室の群は、半島南部の伽耶(カヤ)地方にみられ、引野がかつて賀夜(カヤ)郷と呼ばれ現在も加陽という地名であったことと考えあわせて興味深い。
古墳時代に朝鮮半島から渡来した人たちが、ここに墓を造り、故国の基制をまねたと考えると想像がふくらんでいく。

■妙楽寺見手山古墳群
昭和4 0年8月。但馬における竪穴系横口式石室の調査による最初の確認であり、但馬で最も新しい時期の前方後円墳の調査例となった。
-豊岡市教育委員会-

古墳に用いられる埋葬施設には、竪穴系のものと横穴系のものとがある。竪穴系のものは、築造された墳丘の上から穴を掘り込み(墓坑 ぼこう)、その底に棺を据え付けて埋め戻したものです。基本的にその構造から追葬はできず、埋葬施設内に人が活動するような空間はありません。竪穴式石槨、粘土槨、箱式石棺、木棺直葬などがあります。このうち、竪穴式石槨は、墓坑の底に棺を設置したあと、周囲に石材を積み上げて壁とし、その上から天井石を載せたものです。古墳時代前期から中期に盛んに造られました。粘土槨は、墓坑底の木棺を粘土で何重にもくるんだもので、竪穴式石槨の簡略版とされています。古墳時代前期中頃から中期にかけて盛んに造られました。

伽耶諸国の有力国の一つに安羅国があって、高句麗に対抗する勢力の一員として「広開土王碑」にもその名が見えます。その王族たちの末伊山古墳群は、伽耶諸国のなかでも最大級の規模を誇り、当時の国力のほどが推察されます。出石町に安良(やすら)という地名があります。

伽耶諸国の竪穴式石槨や横穴式石室を主流とする古墳からは、洗練された曲線美をもつ土器をはじめ、おびただしい数の副葬品が出土しており、とりわけ注目されるのは、刀剣などの武具や馬具、装身具とともに、多数の鉄製品が副葬されていた。伽耶の国々は、この豊富な鉄を近隣の諸国に供給し、独自の勢力基盤を有していたことが伺えます。

大師山古墳群と『日本書紀』の考察

豊岡市加陽の大師山古墳群や八幡山古墳群の半島南部に見られる竪穴系横口式石室という特殊な石室の群は、百済の侵攻から逃れてきた伽耶からの渡来人系の墓である可能性が高いし、豊岡市加陽や与謝野町加悦という地名からも有力。また、日本以外では朝鮮半島南部の伽耶のみに見られる円筒埴輪や内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴う前方後円墳が丹後から発見された。伽耶(任那)に朝廷より派遣された丹波国首長クラスの倭人のものかも知れないので、首長のみに前方後円墳を許可したのかも知れない。

いずれにしても、丹波(但馬・丹後)と伽耶諸国の当時の関係が強まった。

『日本書紀』崇神記によれば、
崇神紀10年9月、大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(実際には4世紀初めのことと思われる)(四道将軍)。

しかし、大彦命だけは異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返し、倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の叛意を知ることとなる。武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとしたが、天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。 崇神紀11年4月、四道将軍が地方の賊軍を平定させて帰参、その様を奏上した。
崇神紀12年9月、戸口を調査し、課役を科す。天下平穏となり、天皇は御肇国天皇と褒め称えられる。 崇神紀48年1月、豊城命(豊城入彦命)と活目命(垂仁天皇)を呼び、どちらを皇太子にするかについて熟慮決断した。4月、弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた。
崇神紀60年7月、飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺される。 崇神紀65年7月、任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した。
垂仁紀3年3月(紀元前27年)、(実年は三世紀)新羅王子(伽耶だろう?!)の天日槍(あめのひほこ)が神宝を奉じて来朝。→伽耶人のこと、あるいは、伽耶に移住していた丹波の倭人か?
垂仁紀5年10月(紀元前25年)、皇后の兄・丹波の狭穂彦(さほびこ)が叛乱を起こし、皇后は兄に従って焼死。→丹後加悦(伽耶)人の抵抗ではないか?
垂仁紀7年7月(紀元前23年)、野見宿禰(のみのすくね)が当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)。→伽耶人の抵抗を鎮圧
垂仁紀15年2月(紀元前15年)、丹波道主王の女たちを後宮に入れ、8月にその中から日葉酢媛を皇后とした。→丹国の政略結婚による支配

垂仁紀25年(紀元前5年) 倭姫命(やまとひめのみこと)は、日本神話中の登場人物。第11代垂仁天皇の第4皇女。母は皇后日葉酢媛命。また日本武尊の叔母とされる。天照大神の「御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)」として大和国から丹波・伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により現在地に伊勢神宮を創建した(丹波籠神社より伊勢に遷る・元伊勢伝承)。→丹国および諸国平定

垂仁紀32年7月(3年)、垂仁天皇の皇后 日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)は、伝説上(記紀)の皇族。父は丹波道主王。母は丹波之河上之麻須郎女で、日葉酢媛が薨去し野見宿禰の進言に従い、殉死に替えて土偶を葬る。

『古事記』に「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにしべ)を定めたまいき」とある。石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めたというのである。(埴輪の起源説話)=(否定されている)

と古丹波の話題に集中しているのも何か作り話ばかりではないようだ。垂仁天皇の皇子 誉津別命(ほむつわけのみこと)がしゃべれないので湯河板挙(鳥取造の祖)が出雲(一書に但馬)で鵠(くぐい、今の白鳥)=コウノトリを捕まえて献上すると話せるようになったとか、コウノトリとは半島から渡ってくる鳥を伽耶人(ひと)にたとえているのではないだろうか。伽耶を併合または征服したことを語っているのかも知れない?

垂仁紀90年2月(61年)、田道間守(たじまもり)に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。→百済への侵略(中嶋神社創建)

但馬西部の古墳
出雲国造の同祖とされる二方(ふたかた)国造の名が記されていることからも、但馬国がまとまる前は、但馬西部には因幡・出雲に近しいクニが存在していたようです。
■八幡山古墳群(やはたやまこふんぐん)
香美町村岡区福岡

・県指定史跡
5~6世紀、三角持送り式天井の竪穴系横口式石室

八幡山の丘陵屋根の南東に寄ったところにかたまり、かつては他に数基の古墳があったようです。この丘陵上には現在4基の古墳があり、3・5・6号墳が開口しています。構造から竪穴系横口式石室の名でよばれる石室で、特に5号墳は「三角持送り式天井」という特殊な構築方法として注目されています。石室の隅を三角にもちおくって天井部を架構していく方法は、日本全国をみても例が多くなく、源流は朝鮮半島に認められるといわれています。

また、6号墳からは多くの土師器(はじき)や須恵器(すえき)が出土されており、本古墳群の時期の一端をうかがわせます。5世紀末ころから6世紀前半にかけての遺物を含み、一度限りの埋葬だったとは考えにくい遺物の状況にあります。京都府福知山市夜久野町でも竪穴式石室が見つかっています。
流尾・長尾古墳 京都府福知山市夜久野町大字平野小字流尾、小字長尾

1961年、偶然発見されたが、当時夜久野中学校上校(現在宝陵中学校)の移転地とされていたため、緊急発掘調査が行われたものである。この二つの古墳は、同じ台地上の突端部に流尾古墳、その西約80mの台地端部に長尾古墳と、南面の見晴らしのよい高台に並んで築造されていた。

流尾古墳で注目されるのは石室の構造で、長さ5.13m、幅1.1~1.38m、高さ1.2mの羨道式窓のある竪穴石室で四壁の下半部は同時に石積みされ、上半部は三方と窓の壁を積み、埋葬後天井石をのせたもので類例のないものである。天井石は6枚で構成され、その最大のものは長さ2.2m、幅1.3m、厚さ0.2~0.3mあった。

こういった形式は、朝鮮慶尚北道達四面古墳群等の影響を受け5~6世紀に本邦に伝わって来たものではないか、又これらの形式は竪穴系横口式古墳と呼ぶのにふさわしいのではないか、言われている。(「日本の考古学」近藤良郎、藤沢長治編に記述)

■竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)

古墳時代前期から中期にかけてよく見られる古墳の埋葬形式である。発掘過程で竪穴の石室のように検出する事からその名がついた。中期には、先に石室を構築してから埋葬を行う、異なる系統の竪穴式石室が出現しています。これらは割石積みで構築されていますが、長さが短く、やや幅広の平面形の石室で、中期後半から後期にかけて、北部九州地方や中国地方、和歌山県の紀ノ川流域などで見られます。これらの石室は、旧来の竪穴式石室からの変化というより、朝鮮半島南部の洛東江下流域、の伽耶地域に顕著にみられる竪穴式石室からの影響を考えるべきものと思われています。

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丹後の古墳 丹後国旧竹野郡(福田川・離湖流域)

京丹後市網野町は、旧竹野郡(たかのぐん)で、日本海に注ぐ福田川と鳴き砂の浜で有名な琴引浜などの海水浴場、京都府下で一番広い湖である離湖(はなれこ)があり、古くは離湖と西の池があって福田川が流れ込んで日本海に注いでいたといわれています。丹後ちりめんの生産で知られています。木津温泉は京都府内でももっとも古い温泉で、別名「しらさぎ温泉」とも呼ばれています。奈良時代の僧侶行基が、しらさぎが傷を癒しているのを見て発見したという伝承も残っています。城崎(きのさき)温泉もコウノトリが癒していたのを見て発見された伝承があります。また、日本の文献で最初に柑橘が登場する記紀では、田道間守(たじまもり)が垂仁天皇の命を受け常世の国に遣わされ持ち帰った非時香菓(ときじくのかぐのみ)は、その後田道間花といわれ省略されて「たちばな」となり、橘と書くようになりました。その後橘が伝来した土地として、橘を「キツ」と読み現在の「木津」になったともいわれています。

網野銚子山古墳


日本海沿岸部では最大規模の前方後円墳 網野銚子山古墳

網野町では、網野銚子山古墳があります。日本海に注ぐ二級河川福田川の下流右岸の丘陵にも連なる台地上に築かれています。築造時期は、古墳時代前期末~中期初頭(4世紀末~5世紀初)と推定され、日本海沿岸部の前方後円墳で最大の規模を誇ります。隣りの弥栄町にも黒部銚子山古墳(全長100m) という古墳があり、これと区別するために網野銚子山古墳と呼ばれることが多いです。

 

この古墳は、崇神天皇の時代、四道将軍の一人としてこの地に遣わされた丹波道主命の墓ともいわれています。しかし、丹波道主命の墓は、弥栄(やさか)町の黒部銚子山古墳にも伝承が残っています。
近くには、日子坐王(ひこいますおう・水江日子坐王)、住吉大神、浦嶋子神などを祀る網野神社があります。

丹後国熊野郡 久美浜湾

旧熊野郡(京丹後市)は、京都府の最西北端に位置し、北は日本海に面し、西は豊岡市、東は木津・網野と、国道312号線で峠を境に峰山に接しています。南は天日槍で名を残す但馬国出石に、西は森尾古墳の豊岡にそれぞれ山をへだてて接し、日本海の荒波と河川から流れこむ砂で作られた「小天橋」と呼ばれる砂州に囲まれる奥深い湾を持った地域です。熊野の地名の由来には、色々ありますが、「隠国・こもりく」→「隠野・こもりの」→「くまの」と転化したという説があります。江戸時代には北回り船で栄え、明治新政府で丹後、丹波、但馬、播磨、美作5ヶ国を管轄する「久美浜県」の県庁所在地になりました。

この地は地理的条件から西の但馬地方との交流も古くから盛んでした。したがって、古代遺跡の状況は両地域の関係が色濃く見られますが、函石浜(はこいしはま)遺跡から採集された代表的な遺物「中国新代(西暦8~23年)の王莽(おう もう、ピンイン、紀元前45年~紀元後23年):中国新朝の皇帝)によって鋳造された貨泉(貨幣)」からも、また今も残る「海士(あまし)」の地名をみても海部氏(あまし)の伝承があり、海洋氏族の根拠地があったと想像され、朝鮮半島・大陸との交流があったとも考えられています。兵庫県豊岡市城崎町今津の小見塚古墳は、但馬海直(あま)一族のものと考えられています。北但馬には5,000基以上の古墳がありますが、埴輪が出土したものは少なく、ここでは、現在但馬地方で一番古い埴輪が出土しています。丹後久美浜との関係がうかがえます。

久美浜湾には4つの河川が流れていますが、そのうちの佐濃川・川上谷川の流域に谷が形成され、遺跡・古墳もこの流域に集中しています。丹後の他の地域にみられる大型の前方後円墳は見られないものの、川上谷川右岸には古墳時代前期と考えられる島茶臼山古墳(全長42m)、中期の時代といわれる岩ヶ鼻古墳(全長51m)、芦高神社古墳(推定全長50m)などがあります。

一方、川上谷川左岸には、方墳の四隅を面取りし、その先端に方墳を付加した出雲地方に多く見られる「四隅突出墳」のような形態を持つ、丹後地方では特異な権現山古墳があり、その上流には100基余りの小古墳が集中する須田古墳群があり、その奥まった一画に1981年、黄金色の金銅装「親子双龍式環頭柄頭太刀」の発見で全国に一躍その名をとどろかせた湯舟坂古墳があります。2号墳の石室は保存され現在も私たちにその姿を見せてくれています。

そのほか、丹後地域では珍しい玄室の床に敷石を敷きつめた横穴式石室(他の2例は野田川町高浪古墳と湯舟坂2号墳)を持つ畑大塚古墳群、須田古墳群の中の平野古墳、久美浜湾に突出する岬に築かれた大明神岬古墳などがあります。また前述の函石浜遺跡、浦明遺跡・椎ノ坪遺跡・橋爪遺跡など縄文・弥生時代からの遺跡が散在しています。これも同様に豊岡市加陽の大師山古墳群に横穴式古墳があります。

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【丹国の歴史】(38) 丹後国 与謝郡(よさぐん)

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与謝郡(よさぐん)・加佐郡
与謝郡式内大社
与謝郡 籠神社 京都府宮津市
大虫神社 京都府与謝郡与謝野町
小虫神社 京都府与謝郡与謝野町
加佐郡 大川神社 舞鶴市大川

7世紀に丹波国の与射評として設置され、701年の大宝律令(たいほうりつりょう)では評が郡になり、713年に丹後国が設置されると加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡となります。与謝郡には、宮津郷、日置郷、拝師郷、物部郷、山田郷、謁叡郷、神戸郷によって構成されました。地元では「よざ」と発音されることが多いようです。与謝郡は、京都府最北端にある経ヶ岬から舟屋で有名な伊根町、日本三景天橋立、丹後一宮籠(この)神社や国府・国分寺が置かれ、宮津湾に野田川流域に古墳が多く築かれた加悦(かや)までの南北に続く、古くから丹後地方の中心的な地域です。

野田川の古墳

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加悦谷(かやだに)平野の南部、野田川上流のこの地域は、全長145mを測る丹後三大前方後円墳【国指定史跡】「蛭子山(えびすやま)古墳群」と【国指定史跡】「作山(つくりやま)古墳」、を復元整備した「古墳公園・はにわ資料館」をはじめ、「明石大師山古墳群」や旧加悦町内に存在する古墳数は630基といわれ、8つの古墳グル-プに分けられていますが、そのうちの6グル-プ80%が野田川東岸に位置しています。

蛭子山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された全長145mの大型前方後円墳で、丹後地方最大の大首長墓です。その蛭子山古墳と谷一つ隔てた作山古墳は5基の中型古墳で構成され、古墳時代前期後半から中期前半(4世紀から5世紀前半)にかけて築造されたものです。5基の古墳は、その墳形が、円墳、方墳、前方後円墳というように、古墳の代表的な形がそろっています。銚子山古墳、神明山古墳は古墳時代中期(5世紀)。一番大きいのは網野町の銚子山、次が丹後町の神明山。蛭子山は三番めの大きさですが、時期はこれが一番古く4世紀の後半です。

「中国の古墳文化は圧倒的に方形墳が多い。ただし、円墳もある。高句麗の古墳は圧倒的に方墳が多い。円墳は非常に少ない。百済の場合は円墳が非常に多い。方墳は少ない。」-京都大学名誉教授  上田 正昭氏

蛭子山古墳のすぐ隣りに円墳の作山古墳が数基造られているので、本家はそのまま加耶明石を拠点としていたのでしょうが、漢民族である秦の集団のあと、加耶諸国からの渡来人が代わっていった?あるいは同化していき丹後王国といった巨大な勢力をもつ国が誕生したようです。稲作が得意な江南人にとって加悦谷平野はうってつけで手放せないでしょう。太田南古墳と黒部銚子山古墳は前期~中期とされます。網野銚子山と神明山古墳は古墳時代中期であり、ほぼ同時期に造られたのは、加悦谷から竹野川に移り、さらにより大陸や日本海沿岸諸国との交易に便利な丹後半島の海沿いに拠点を移し、丹後国各郡を同族で統治していたのではないでしょうか。戦国時代には、同族や家臣に領地を分け与えるのは普通ですので、江戸時代には京極家が丹後を三藩に分けて統治していた例もあります。

この古墳が集中している背後の山が大江山であり、山麓から稜線を登って行けば「鬼の岩屋」と伝えられる岩窟があります。ここから見下ろせば、それぞれの古墳群が一望のもとにあり、「オニ」退治の伝承を考え、大きな力を持った豪族の存在と重ね合わせると、ヤマト王朝と対峙した!?この地の古代の勢力の大きさが彷彿として浮かんでくるようです。

2000年10月、蛭子山古墳の北側で「日吉ケ丘・明石墳墓群」が発見されました。国史跡に指定され同町にある墳墓・古墳の指定は4件目で、府内では京都市と並び最多です。弥生中期(紀元前1世紀)に造られた同時期の墳墓としては吉野ケ里遺跡(佐賀県)の墳墓に次ぎ2番目に大きい方形貼石墓(はりいしぼ)で、670個以上の管玉が出土しました。しかしこの墳墓は出雲・吉備から北陸にかけて見つかっている特有の四隅突出貼石墓ではなく四隅が突出せず、丹後特有の墓の形であることも独立国家が栄えていたとも考えられています。

明石墳墓群は、弥生後期-古墳前期(2-3世紀)の築造で、同王国を支えた地元の有力者が被葬者とされる丹後特有の台上墓として貴重な遺跡です。

加悦町教育委員会では「この時代に、すでに強大な権力を持つ王が丹後地方にいた証」と話していました。弥生時代後期後半の岩滝町にある大風呂南墳墓、峰山町の赤坂今井墳墓、古墳時代前期後半の蛭子山古墳などの大型墳墓や古墳に代表される古代丹後王国の首長権力の出現が、弥生時代中期後半までさかのぼり、約500年間の長期にわたる繁栄が見えてきました。日吉ケ丘遺跡は古代丹後王国の謎を紐解く鍵が秘められているともいえます。

加悦町日吉ケ丘墳墓跡の墳墓は、この地域の支配者の墓とみられ、新聞紙には「弥生中期最大級の墳墓、丹後王国のルーツ見えた」という活字の見出しが踊りました。(のちの)丹波地方などにも影響力を持った独立王権「丹後王国」の可能性を示す重要な遺跡とされ、専門家も注目しています。組み合わせ式木棺の跡から我が国最多の真っ赤な朱と緑色凝灰岩製管玉677個以上が出土しています。

付近には弥生時代後期末頃から古墳時代前期中頃(2~4世紀)に造られた総数40基の墳墓群があります。加悦町古墳公園(所在:京都府与謝郡与謝野町明石(あけし)として整備されています。

加悦町古墳公園にほど近い与謝野町温江には、日本海側最古の大型前方後円墳として国の史跡に指定されている白米山(しらげやま)古墳があります。出土した土器から古墳時代前期中葉(4世紀中頃)のころ築造された墓であるとされています。丹後地域独自の王権と支配体制を兼ね備えた丹後王国が野田川を中心に存在したとする説すらあります。

野田川下流域にある与謝郡岩滝町大風呂南墳墓(国重要文化財)は、弥生時代後期(200年ごろ)に丘陵の中腹に築造されたとみられる2基の台状墓からなり、その1号墓からはガラス製の釧(くしろ:腕輪)が見つかり、コバルトブルーに輝く全国で初めての完成品です。西谷3号墓(島根県出雲市)でも同じ材質の巴型勾玉がみつかり、出雲と丹後の交易が有力視されます。また、同時に鉄剣11本(同時代の一つの墓からの出土例としては全国最多)銅釧13個などの副葬品も多数出土し、弥生時代の大型武器の副葬として最大の量であり、当時、手に入れにくいものとされていた鉄製武器を大量に保持していた大きな力を持った権力者、軍事的統率者が埋葬された墓と推定されます。

弥生時代前期の出土品の中に面白い遺物があります。竹野川の河口右岸の砂丘上にある竹野(たかの)遺跡から出土した土笛(陶けん)です。6つの穴が開いた楽器で、尺八あるいはオカリナのような音がするという。この遺物は渡来系集団が弥生文化を島根、鳥取を経て日本海ルートで伝えた証だそうです。野田川が注ぐ天橋立の内海を阿蘇海というが、古代にはもっと加悦谷の奥まで入り込んいて、この付近は港に陸揚げされた西国(中国地方の)や越の国(越前から越後)、あるいは朝鮮半島からの物資を丹波を抜けて畿内へ輸送する交易ルートの要衝ではなかったでしょうか。日本海から大和に通じる最短ルートだからだ。さらに言うならば、カヤ(加悦):伽耶とかシラゲヤマ(白米山):新羅という地名自体が、当時の朝鮮半島との関係を示唆しているようにも思えます。

弥生人はウルトラマン?
与謝野・温江遺跡で人面付き土器
京都新聞 2月26日/2009


弥生人の顔を模した人面付き土器(京都府与謝野町)

京都府埋蔵文化財調査研究センターは26日、与謝野町温江の温江遺跡で弥生時代前期(紀元前4世紀)の「人面付き土器」が出土したと発表した。人の顔を写実的にかたどり、とさかのような頭は一見、ウルトラマンのよう。同センターは「弥生人の顔や当時の習俗を示す貴重な資料」としている。

土器は、弥生前期の集落を囲む溝跡(幅約2メートル、深さ1・2メートル)から、つぼやかめの破片とともに出土した。

顔の長さ、幅ともに7・6センチ。切れ長の目や筋の通った鼻が特徴的で、見る角度によって表情が変わる。

後頭部にくしで結ったまげがあり、その上にかんざしのようなものを刺していたと見られる穴もあった。両耳にも耳飾りを通していたような穴が開いており、同センターは「土器には農耕祭祀で使う特別な道具を入れた可能性が高い」と推測している。

土器は3月15日まで、同町立古墳公園はにわ資料館で公開する。(3月13日偶然に公開中で見てきました。)

設楽博己・駒澤大教授(日本考古学)の話

髪型は、先祖の住む世界から米を運び、豊作をもたらす使いの鳥の「とさか」を表現していると思われ、儀式で鳥にふんして踊る人の顔を表しているのではないか。

加佐郡(かさぐん)

旧丹後國加佐郡は、おおむね現在の京都府舞鶴市と京都府福知山市大江町、宮津市由良の範囲です。この地に人が住み始めたのは約1万年前だと言われています。その後、弥生時代になると由良川流域など広範囲で稲作が営まれました。古代に国造が分立した時代には、加佐郡は丹国の領土に入っていました。7世紀に丹波国に属する加佐評として建てられ、713年に丹後国が分けられるとこれに属しました。平安時代と室町時代には加佐郡に丹後の国府が置かれていました。

古代丹後地方は、漁や、塩つくりなど、海にかかわって生活する人びとによって開かれていきました。火(日)の神、「天火明(あめのほあかり)」を先祖神とするこの人びとを、「海部(あまべ)」といい、大和朝廷によって、海部直(あまべのあたい)として政権内にくみ入れられたのは、5~6世紀、さらに凡海連(おおしあまのむらじ)として、海に面する古代丹後の郷を統治しはじめたのは、6~7世紀ではないかと考えられます。

この若狭から丹後にかけての古代海部と舞鶴の関係は、『丹後風土記』や、地元の伝説に色濃いことはわかっていたのですが、昭和50年代に入って、古代製塩を中心とする考古学的事実があきらかにされたことと、近年、古代学に脚光をあびて登場した、宮津籠(この)神社の国宝「海部氏系図」が、にわかに、この開係をうかびあがらせました。

丹後、若狭の古代海人(かいじん)たちの国『アマベ王国』発祥の地は、青葉山を中心とする東地域である可能性がつよくなってきたのです。

幻の大地「凡海郷(おおしあま)」

「昔、大穴持(おおなむち)、少彦名(すくなひこな)の二神がこの地にこられ、小さい島を寄せ集めて、大地をこしらえられた。これを凡海郷という。ところが大宝元年(701)3月、大地震が三日つづき、この郷は、一夜のうちに青い海にもどってしまった。高い山の二つの峯が海上にのこり、常世島(とこよじま)となる。俗には、男島女島(おしまめしま)といい、この島に、天火明(あめのほあかり)神、目子郎女(めこいらつめ)神を祭る。海部直(あまべのあたい)と凡海連(おおしあまのむらじ)の祖神である。」(『 丹後風土記』より)  この消え去った大地、凡海郷は、10世紀の百科辞典『和名抄(わみょうしょう)』の中に、加佐郡内に実在した郷として名があり、「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、大宝元年の項に「丹波国大地震三日続く」と記しています。

海部系図は、何をかたるのか

海部系図のはじめの方に記される神々を祀る社として、勘注系図は、倉梯山の天蔵社(あまくらのやしろ)、祖母谷山口社(そぼたにやまぐちのやしろ)、朝来田口社(あせくたのくちやしろ)、その他、多くは東地域の社をあげ、実在した人物の初出である16世大倉岐命(おおくらきのみこと)は小倉の布留神社にまつり、長谷山大墓に葬ると記し、祖神「天火明神」は別名、大弥加宣志楽別(おおみかげしらくわけ)といったと記し、海部の発祥が、古代志楽郷(大浦の内側を含む)と深くかかわることがわかります。また、海部直の弟、凡海連(おおしあまのむらじ)のくだりに、「小橋」「磯嶋」の名があり、小橋の葛島(かつらじま)神社の故地、磯葛島から、昭和60年に、祭祀遺跡としての製塩土器も発見され、凡海連と、小橋、あるいは三浜丸山古墳との関係が、さらに浮びあがってきました。

若狭湾(わかさわん)

若狭湾は、福井県から京都府にかけての海岸地形を形成する、日本海に深く入り込んでできた湾です。福井県北部西端の越前岬と京都府北端の経ヶ岬(きょうがみさき)を直線、及び本州の海岸線によって囲んだ海域を指し、2,657 km2の面積を有します。日本海側では珍しい大規模なリアス式海岸が特徴です。

湾内には敦賀湾や美浜湾、小浜湾、舞鶴湾、宮津湾などの支湾があり、観光名所として日本三景の一つ天橋立、日本三大松原の一つ気比の松原があります。その風光明媚な地形は1955年に笙の川以西の全湾岸周辺が若狭湾国定公園の大部分に、また1968年には東岸周辺の一部が越前加賀海岸国定公園の一部に指定されていましたが、2007年8月3日に若狭湾国定公園のうち由良川以西が分離独立し、大江山などを加えて新たに丹後天橋立大江山国定公園となり、3つの国定公園を有することになりました。

若狭湾に点在する港は古来より良港でしかも京都にも近いため、鯖(サバ)などの魚介類の水揚げ地(いわゆる鯖街道)とされてきました。日露戦争当時、日本海軍はロシア海軍が本土に上陸する地点は若狭湾であると想定し、京都への侵攻を防ぐため舞鶴に鎮守府を、また舞鶴から高浜町にかけての海岸沿いには砲台を備えた要塞を設置しました。現在の舞鶴

■舞鶴の古墳

舞鶴の古墳は分布調査の中間発表で、すでに300基をこえますが、この多くの古墳の中で、最大の石室(内璧の長さ9m、玄室巾は2.4m)は、白杉神社境内の、「鬼のやぐら」古墳で、丹後全体でも十指の中には入ると思われます。後背地のない海辺に近いこの古墳は、海部とのかかわりが考えられます。このような海岸部に展開される古墳は、他にも、田井に現存し、土器その他から存在を追認できる所として、瀬崎、佐波賀、野原などがあり、群集墳である三浜丸山古墳とともに海部にかかわるものであると思われ、古代舞鶴の海辺が、海人達の集う場所として賑ったようすがしのばれます。

■大川神社(おおかわじんじゃ)

京都府舞鶴市
大川神社は、京都府舞鶴市大川にある神社である。社格は式内社(名神大)、府社。
主神 保食神(うけもちのかみ)
相殿 句句廼馳神(木神)、軻遇突智神(火神)、埴山姫神(土神)、金山彦神(金神)、罔象水神(水神)
大川神社は名神祭に朝廷からあしぎぬ(絹の布)や綿、木綿などを贈られた加佐郡唯一の神社で、老人嶋神社から祭神を移したという伝承をもっています。

社伝によれば、「顕宗天皇乙丑年(485年)に宮柱を立て鎮祭、神位は貞観元年(859年)に従五位、同13年(861年)には正五位下に昇進した」とある。延喜式神名帳においては名神大社に列せられ、また六国史所載の神社である。近世に至り、田辺藩主細川氏の保護を受けた。 1872年(明治5年)に郷社、1919年(大正8年)に府社に列せられた。 五穀豊穣、養蚕および病除、安産の守護神として近隣に知られ、北陸や関西地方からの参拝者も多い。

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丹後の古墳 丹後国 与謝郡(よさぐん)

与謝郡(よさぐん)・加佐郡

与謝郡式内大社
与謝郡 籠神社 京都府宮津市
大虫神社 京都府与謝郡与謝野町
小虫神社 京都府与謝郡与謝野町
加佐郡 大川神社 舞鶴市大川

7世紀に丹波国の与射評として設置され、701年の大宝律令(たいほうりつりょう)では評が郡になり、713年に丹後国が設置されると加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡となります。与謝郡には、宮津郷、日置郷、拝師郷、物部郷、山田郷、謁叡郷、神戸郷によって構成されました。地元では「よざ」と発音されることが多いようです。与謝郡は、京都府最北端にある経ヶ岬から舟屋で有名な伊根町、日本三景天橋立、丹後一宮籠(この)神社や国府・国分寺が置かれ、宮津湾に野田川流域に古墳が多く築かれた加悦(かや)までの南北に続く、古くから丹後地方の中心的な地域です。

野田川の古墳
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加悦谷(かやだに)平野の南部、野田川上流のこの地域は、全長145mを測る丹後三大前方後円墳【国指定史跡】「蛭子山(えびすやま)古墳群」と【国指定史跡】「作山(つくりやま)古墳」、を復元整備した「古墳公園・はにわ資料館」をはじめ、「明石大師山古墳群」や旧加悦町内に存在する古墳数は630基といわれ、8つの古墳グル-プに分けられていますが、そのうちの6グル-プ80%が野田川東岸に位置しています。

蛭子山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された全長145mの大型前方後円墳で、丹後地方最大の大首長墓です。その蛭子山古墳と谷一つ隔てた作山古墳は5基の中型古墳で構成され、古墳時代前期後半から中期前半(4世紀から5世紀前半)にかけて築造されたものです。5基の古墳は、その墳形が、円墳、方墳、前方後円墳というように、古墳の代表的な形がそろっています。銚子山古墳、神明山古墳は古墳時代中期(5世紀)。一番大きいのは網野町の銚子山、次が丹後町の神明山。蛭子山は三番めの大きさですが、時期はこれが一番古く4世紀の後半です。

「中国の古墳文化は圧倒的に方形墳が多い。ただし、円墳もある。高句麗の古墳は圧倒的に方墳が多い。円墳は非常に少ない。百済の場合は円墳が非常に多い。方墳は少ない。」-京都大学名誉教授  上田 正昭氏

蛭子山古墳のすぐ隣りに円墳の作山古墳が数基造られているので、本家はそのまま加耶明石を拠点としていたのでしょうが、漢民族である秦の集団のあと、加耶諸国からの渡来人が代わっていった?あるいは同化していき丹後王国といった巨大な勢力をもつ国が誕生したようです。稲作が得意な江南人にとって加悦谷平野はうってつけで手放せないでしょう。太田南古墳と黒部銚子山古墳は前期~中期とされます。網野銚子山と神明山古墳は古墳時代中期であり、ほぼ同時期に造られたのは、加悦谷から竹野川に移り、さらにより大陸や日本海沿岸諸国との交易に便利な丹後半島の海沿いに拠点を移し、丹後国各郡を同族で統治していたのではないでしょうか。戦国時代には、同族や家臣に領地を分け与えるのは普通ですので、江戸時代には京極家が丹後を三藩に分けて統治していた例もあります。

この古墳が集中している背後の山が大江山であり、山麓から稜線を登って行けば「鬼の岩屋」と伝えられる岩窟があります。ここから見下ろせば、それぞれの古墳群が一望のもとにあり、「オニ」退治の伝承を考え、大きな力を持った豪族の存在と重ね合わせると、ヤマト王朝と対峙した!?この地の古代の勢力の大きさが彷彿として浮かんでくるようです。

2000年10月、蛭子山古墳の北側で「日吉ケ丘・明石墳墓群」が発見されました。国史跡に指定され同町にある墳墓・古墳の指定は4件目で、府内では京都市と並び最多です。弥生中期(紀元前1世紀)に造られた同時期の墳墓としては吉野ケ里遺跡(佐賀県)の墳墓に次ぎ2番目に大きい方形貼石墓(はりいしぼ)で、670個以上の管玉が出土しました。しかしこの墳墓は出雲・吉備から北陸にかけて見つかっている特有の四隅突出貼石墓ではなく四隅が突出せず、丹後特有の墓の形であることも独立国家が栄えていたとも考えられています。

明石墳墓群は、弥生後期-古墳前期(2-3世紀)の築造で、同王国を支えた地元の有力者が被葬者とされる丹後特有の台上墓として貴重な遺跡です。

加悦町教育委員会では「この時代に、すでに強大な権力を持つ王が丹後地方にいた証」と話していました。弥生時代後期後半の岩滝町にある大風呂南墳墓、峰山町の赤坂今井墳墓、古墳時代前期後半の蛭子山古墳などの大型墳墓や古墳に代表される古代丹後王国の首長権力の出現が、弥生時代中期後半までさかのぼり、約500年間の長期にわたる繁栄が見えてきました。日吉ケ丘遺跡は古代丹後王国の謎を紐解く鍵が秘められているともいえます。

加悦町日吉ケ丘墳墓跡の墳墓は、この地域の支配者の墓とみられ、新聞紙には「弥生中期最大級の墳墓、丹後王国のルーツ見えた」という活字の見出しが踊りました。(のちの)丹波地方などにも影響力を持った独立王権「丹後王国」の可能性を示す重要な遺跡とされ、専門家も注目しています。組み合わせ式木棺の跡から我が国最多の真っ赤な朱と緑色凝灰岩製管玉677個以上が出土しています。

付近には弥生時代後期末頃から古墳時代前期中頃(2~4世紀)に造られた総数40基の墳墓群があります。加悦町古墳公園(所在:京都府与謝郡与謝野町明石(あけし)として整備されています。

加悦町古墳公園にほど近い与謝野町温江には、日本海側最古の大型前方後円墳として国の史跡に指定されている白米山(しらげやま)古墳があります。出土した土器から古墳時代前期中葉(4世紀中頃)のころ築造された墓であるとされています。丹後地域独自の王権と支配体制を兼ね備えた丹後王国が野田川を中心に存在したとする説すらあります。

野田川下流域にある与謝郡岩滝町大風呂南墳墓(国重要文化財)は、弥生時代後期(200年ごろ)に丘陵の中腹に築造されたとみられる2基の台状墓からなり、その1号墓からはガラス製の釧(くしろ:腕輪)が見つかり、コバルトブルーに輝く全国で初めての完成品です。西谷3号墓(島根県出雲市)でも同じ材質の巴型勾玉がみつかり、出雲と丹後の交易が有力視されます。また、同時に鉄剣11本(同時代の一つの墓からの出土例としては全国最多)銅釧13個などの副葬品も多数出土し、弥生時代の大型武器の副葬として最大の量であり、当時、手に入れにくいものとされていた鉄製武器を大量に保持していた大きな力を持った権力者、軍事的統率者が埋葬された墓と推定されます。

弥生時代前期の出土品の中に面白い遺物があります。竹野川の河口右岸の砂丘上にある竹野(たかの)遺跡から出土した土笛(陶けん)です。6つの穴が開いた楽器で、尺八あるいはオカリナのような音がするという。この遺物は渡来系集団が弥生文化を島根、鳥取を経て日本海ルートで伝えた証だそうです。野田川が注ぐ天橋立の内海を阿蘇海というが、古代にはもっと加悦谷の奥まで入り込んいて、この付近は港に陸揚げされた西国(中国地方の)や越の国(越前から越後)、あるいは朝鮮半島からの物資を丹波を抜けて畿内へ輸送する交易ルートの要衝ではなかったでしょうか。日本海から大和に通じる最短ルートだからだ。さらに言うならば、カヤ(加悦):伽耶とかシラゲヤマ(白米山):新羅という地名自体が、当時の朝鮮半島との関係を示唆しているようにも思えます。

加佐郡(かさぐん)

旧丹後國加佐郡は、おおむね現在の京都府舞鶴市と京都府福知山市大江町、宮津市由良の範囲です。この地に人が住み始めたのは約1万年前だと言われています。その後、弥生時代になると由良川流域など広範囲で稲作が営まれました。古代に国造が分立した時代には、加佐郡は丹国の領土に入っていました。7世紀に丹波国に属する加佐評として建てられ、713年に丹後国が分けられるとこれに属しました。平安時代と室町時代には加佐郡に丹後の国府が置かれていました。

古代丹後地方は、漁や、塩つくりなど、海にかかわって生活する人びとによって開かれていきました。火(日)の神、「天火明(あめのほあかり)」を先祖神とするこの人びとを、「海部(あまべ)」といい、大和朝廷によって、海部直(あまべのあたい)として政権内にくみ入れられたのは、5~6世紀、さらに凡海連(おおしあまのむらじ)として、海に面する古代丹後の郷を統治しはじめたのは、6~7世紀ではないかと考えられます。

この若狭から丹後にかけての古代海部と舞鶴の関係は、『丹後風土記』や、地元の伝説に色濃いことはわかっていたのですが、昭和50年代に入って、古代製塩を中心とする考古学的事実があきらかにされたことと、近年、古代学に脚光をあびて登場した、宮津籠(この)神社の国宝「海部氏系図」が、にわかに、この開係をうかびあがらせました。

丹後、若狭の古代海人(かいじん)たちの国『アマベ王国』発祥の地は、青葉山を中心とする東地域である可能性がつよくなってきたのです。

幻の大地「凡海郷(おおしあま)」

「昔、大穴持(おおなむち)、少彦名(すくなひこな)の二神がこの地にこられ、小さい島を寄せ集めて、大地をこしらえられた。これを凡海郷という。ところが大宝元年(701)3月、大地震が三日つづき、この郷は、一夜のうちに青い海にもどってしまった。高い山の二つの峯が海上にのこり、常世島(とこよじま)となる。俗には、男島女島(おしまめしま)といい、この島に、天火明(あめのほあかり)神、目子郎女(めこいらつめ)神を祭る。海部直(あまべのあたい)と凡海連(おおしあまのむらじ)の祖神である。」(『 丹後風土記』より)  この消え去った大地、凡海郷は、10世紀の百科辞典『和名抄(わみょうしょう)』の中に、加佐郡内に実在した郷として名があり、「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、大宝元年の項に「丹波国大地震三日続く」と記しています。

海部系図は、何をかたるのか

海部系図のはじめの方に記される神々を祀る社として、勘注系図は、倉梯山の天蔵社(あまくらのやしろ)、祖母谷山口社(そぼたにやまぐちのやしろ)、朝来田口社(あせくたのくちやしろ)、その他、多くは東地域の社をあげ、実在した人物の初出である16世大倉岐命(おおくらきのみこと)は小倉の布留神社にまつり、長谷山大墓に葬ると記し、祖神「天火明神」は別名、大弥加宣志楽別(おおみかげしらくわけ)といったと記し、海部の発祥が、古代志楽郷(大浦の内側を含む)と深くかかわることがわかります。また、海部直の弟、凡海連(おおしあまのむらじ)のくだりに、「小橋」「磯嶋」の名があり、小橋の葛島(かつらじま)神社の故地、磯葛島から、昭和60年に、祭祀遺跡としての製塩土器も発見され、凡海連と、小橋、あるいは三浜丸山古墳との関係が、さらに浮びあがってきました。

若狭湾(わかさわん)

若狭湾は、福井県から京都府にかけての海岸地形を形成する、日本海に深く入り込んでできた湾です。福井県北部西端の越前岬と京都府北端の経ヶ岬(きょうがみさき)を直線、及び本州の海岸線によって囲んだ海域を指し、2,657 km2の面積を有します。日本海側では珍しい大規模なリアス式海岸が特徴です。

湾内には敦賀湾や美浜湾、小浜湾、舞鶴湾、宮津湾などの支湾があり、観光名所として日本三景の一つ天橋立、日本三大松原の一つ気比の松原があります。その風光明媚な地形は1955年に笙の川以西の全湾岸周辺が若狭湾国定公園の大部分に、また1968年には東岸周辺の一部が越前加賀海岸国定公園の一部に指定されていましたが、2007年8月3日に若狭湾国定公園のうち由良川以西が分離独立し、大江山などを加えて新たに丹後天橋立大江山国定公園となり、3つの国定公園を有することになりました。

若狭湾に点在する港は古来より良港でしかも京都にも近いため、鯖(サバ)などの魚介類の水揚げ地(いわゆる鯖街道)とされてきました。日露戦争当時、日本海軍はロシア海軍が本土に上陸する地点は若狭湾であると想定し、京都への侵攻を防ぐため舞鶴に鎮守府を、また舞鶴から高浜町にかけての海岸沿いには砲台を備えた要塞を設置しました。現在の舞鶴

■舞鶴の古墳

舞鶴の古墳は分布調査の中間発表で、すでに300基をこえますが、この多くの古墳の中で、最大の石室(内璧の長さ9m、玄室巾は2.4m)は、白杉神社境内の、「鬼のやぐら」古墳で、丹後全体でも十指の中には入ると思われます。後背地のない海辺に近いこの古墳は、海部とのかかわりが考えられます。このような海岸部に展開される古墳は、他にも、田井に現存し、土器その他から存在を追認できる所として、瀬崎、佐波賀、野原などがあり、群集墳である三浜丸山古墳とともに海部にかかわるものであると思われ、古代舞鶴の海辺が、海人達の集う場所として賑ったようすがしのばれます。

■大川神社(おおかわじんじゃ)
京都府舞鶴市

大川神社は、京都府舞鶴市大川にある神社である。社格は式内社(名神大)、府社。
主神 保食神(うけもちのかみ)

相殿 句句廼馳神(木神)、軻遇突智神(火神)、埴山姫神(土神)、金山彦神(金神)、罔象水神(水神)
大川神社は名神祭に朝廷からあしぎぬ(絹の布)や綿、木綿などを贈られた加佐郡唯一の神社で、老人嶋神社から祭神を移したという伝承をもっています。

社伝によれば、「顕宗天皇乙丑年(485年)に宮柱を立て鎮祭、神位は貞観元年(859年)に従五位、同13年(861年)には正五位下に昇進した」とある。延喜式神名帳においては名神大社に列せられ、また六国史所載の神社である。近世に至り、田辺藩主細川氏の保護を受けた。 1872年(明治5年)に郷社、1919年(大正8年)に府社に列せられた。 五穀豊穣、養蚕および病除、安産の守護神として近隣に知られ、北陸や関西地方からの参拝者も多い。

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丹後の古墳 神明山古墳

神明山古墳(しんめいやまこふん)

【国指定史跡】 京都府京丹後市丹後町大字宮

古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳で墳丘長190メートル。丹後半島を貫く竹野川の河口付近に位置する、網野銚子山古墳に次いで日本海側最大級の丹後三代古墳です。葺き石と丹後型円筒埴輪列をもつ三段築成。丹後一帯を支配した豪族の墓と推測されています。

かつて古墳の北西にあった潟湖・竹野湖のほとりにあり、砂丘で海と隔たっていることが指摘されていました。船と船を漕ぐ人物の埴輪が出土しており、古代の海岸線と平行に築造されていて、葺石を貼っているから海上から眺めると白色に輝いてよく目立ち、港の位置を示す標識にもなっていました。同様に4世紀の後半以降、港との関係で大規模な前方後円墳が現れ、上総、尾張、丹後、伯耆などでは、その地域最大の古墳も港との関係で出現したといわれています。このようなことから、丹後王国(丹後政権)論が提出されています。

丹後半島最北端の経ヶ岬から西へ、丹後半島の背骨を流れきる丹後最長の竹野(たかの)流域は、丹後国旧中郡(大宮町、峰山町)と、旧竹野郡(弥栄町、丹後町)を経て、日本海に流れ込む全長28kmにも及ぶ丹後一の長流です。縄文から弥生へ、さらに古墳時代へと数多くの遺跡・古墳を今に残しています。「タニハのクニ」、丹国(古丹波)の文化を生み出した中心であったと考えられています。峰山町丹波は、古代の丹波国(のち丹後国)丹波郡丹波郷にあたり、古丹波(丹後)地方の中心地と考えられ、丹波の國名の起源となったのは、峰山町丹波にあるという説もあります。周辺地域は丹後地方有数の古墳・遺跡の密集地となっています。

竹野川流域の古墳群

丹後町平海岸にある平遺跡(へいいせき)は、縄文時代前期から中期・後期・晩期にわたるものと判明し、深さ約4mにもおよぶ砂丘の包含層から多量の土器や石器が出土しました。一説では丹波という国名の由来ではないかいわれている峰山町丹波の湧田山(わきたやま)古墳群は、丹波と矢田の字界の丘陵上に立地し、大型前方後円墳を盟主とし、大小の円墳を主体として構成される総数約42基からなる丹後地方屈指の古墳群です。当古墳群は、発掘調査が実施されないため、内容については不明ですが、同志社大学考古学研究会の行った地形測量調査によると、一号墳は、全長100メートルに及ぶ帆立貝式の前方後円墳であることがわかりました。

竹野川流域では、弥栄町の黒部銚子山古墳とともに、丹後町神明山(しんめいやま)古墳に次ぐものであり、丹後の古代豪族の勢力等を知る上で重要です。5世紀の初めころに築造された古墳とされ、ただし、墳形からもう少し古い古墳ではないかという説もあるようです。 むしろ日本海側竹野川流域の地域で栄えていたのが丹波の中心地であったのかも知れません。

丹後半島の最東北部に位置する丹後町では、神明山古墳(丹後町宮小字家の上)、産土山古墳、横穴式石室を内部主体とする片山古墳、大成古墳群、金銅装双龍環頭太刀柄頭が出土した高山古墳群などがあります。

大宮町は、丹後大宮のひとつ大宮売(おおみやめ)神社と周辺からは古代弥生時代の頃からの遺跡が多数見つかり、女王墓と確認された大谷古墳、丹後では最大規模の石棚を持つ横穴式石室の新戸古墳、弥生時代からの方形台状墓を持つ小池・帯城の古墳群などが残されています。

丹後最大級の円墳であるカジヤ古墳(峰山町大字杉谷小字カジヤ)は、長径約73メートル、短径約55メートル、高さ約9メートルの楕円形の墳丘を持つ円墳でした。昭和47年2月に土木工事に伴って峰山町教育委員会によって発掘調査が行われた結果、竪穴式石室一、木棺直葬三の合計四つの主体部と多くの副葬品が発見されました。副葬品は第一、三、四主体部から検出され、特に第一主体部の副葬品は質量ともに群を抜いており、この古墳を築く上での中心的人物と思われています。

副葬品は銅鏡・鉄器類・玉類・石製腕飾類等からなりますが、特に注目されるのは鍬形 石、車輪石、石釧等の石製腕飾類が一括して出土したことは、丹後地方では初めての例です。畿内との交流を深めつつあった古墳時代前期における当地方の有力者の遺品としてその資料的価値はきわめて高い。
また京丹後市峰山町赤坂の赤坂今井墳丘墓は、弥生時代後期としては国内最大級の墳墓であり、世界で2例目となる中国の顔料「漢青」(ハンブルー)が含まれたガラス管玉が出土するなど古代中国との交流をうかがわせる内容で、鉄(銅)製武器や工具類、玉類が同時期の他地域の墳墓に比べ非常に多く副葬されていることも注目されます。

赤坂今井墳丘墓は、ガラスや碧玉(へきぎょく)製の玉類計211個を使った豪華な「頭飾り」や垂下式の豪華な「耳飾り」が発見されました。玉類はつながった状態で三連になっており、葬られた人物の頭を取り巻くように並んでうことから、頭を飾る宝冠のようなものと推測されています。このような玉類を使った頭飾りの出土は、国内や中国・朝鮮半島でも例がありません。また、この古墳の被葬者が埋葬された時期は、邪馬台国の卑弥呼の時代と重なります。

他にも、両袖式横穴式石室の桃谷古墳(峰山町)、弥栄町では、府内では例をみなかった装飾付水さしと角杯形土器が出土した大耳尾古墳群、ニゴレ古墳、さらに1994年、日本最古の魏鏡と一躍全国に名をはせた弥栄町と峰山町にまたがる太田南古墳など、有名・無名を問わず数え切れない多くの古墳が存在しています。

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丹後の古墳 竹野川流域の古墳群

丹後半島最北端経ヶ岬

丹後半島最北端の経ヶ岬から西へ、丹後半島の背骨を流れきる丹後最長の竹野(たかの)流域は、丹後国旧中郡(大宮町、峰山町)と、旧竹野郡(弥栄町、丹後町)を経て、日本海に流れ込む全長28kmにも及ぶ丹後一の長流です。縄文から弥生へ、さらに古墳時代へと数多くの遺跡・古墳を今に残しています。「タニハのクニ」、丹国(古丹波)の文化を生み出した中心であったと考えられています。峰山町丹波は、古代の丹波国(のち丹後国)丹波郡丹波郷にあたり、古丹波(丹後)地方の中心地と考えられ、丹波の國名の起源となったのは、峰山町丹波にあるという説もあります。周辺地域は丹後地方有数の古墳・遺跡の密集地となっています。

竹野川流域の古墳群

丹後町平海岸にある平遺跡(へいいせき)は、縄文時代前期から中期・後期・晩期にわたるものと判明し、深さ約4mにもおよぶ砂丘の包含層から多量の土器や石器が出土しました。一説では丹波という国名の由来ではないかいわれている峰山町丹波の湧田山(わきたやま)古墳群は、丹波と矢田の字界の丘陵上に立地し、大型前方後円墳を盟主とし、大小の円墳を主体として構成される総数約42基からなる丹後地方屈指の古墳群です。当古墳群は、発掘調査が実施されないため、内容については不明ですが、同志社大学考古学研究会の行った地形測量調査によると、一号墳は、全長100メートルに及ぶ帆立貝式の前方後円墳であることがわかりました。

竹野川流域では、弥栄町の黒部銚子山古墳とともに、丹後町神明山(しんめいやま)古墳に次ぐものであり、丹後の古代豪族の勢力等を知る上で重要です。5世紀の初めころに築造された古墳とされ、ただし、墳形からもう少し古い古墳ではないかという説もあるようです。 むしろ日本海側竹野川流域の地域で栄えていたのが丹波の中心地であったのかも知れません。

丹後半島の最東北部に位置する丹後町では、神明山古墳(丹後町宮小字家の上)、産土山古墳、横穴式石室を内部主体とする片山古墳、大成古墳群、金銅装双龍環頭太刀柄頭が出土した高山古墳群などがあります。

大宮町は、丹後大宮のひとつ大宮売(おおみやめ)神社と周辺からは古代弥生時代の頃からの遺跡が多数見つかり、女王墓と確認された大谷古墳、丹後では最大規模の石棚を持つ横穴式石室の新戸古墳、弥生時代からの方形台状墓を持つ小池・帯城の古墳群などが残されています。

丹後最大級の円墳であるカジヤ古墳(峰山町大字杉谷小字カジヤ)は、長径約73メートル、短径約55メートル、高さ約9メートルの楕円形の墳丘を持つ円墳でした。昭和47年2月に土木工事に伴って峰山町教育委員会によって発掘調査が行われた結果、竪穴式石室一、木棺直葬三の合計四つの主体部と多くの副葬品が発見されました。副葬品は第一、三、四主体部から検出され、特に第一主体部の副葬品は質量ともに群を抜いており、この古墳を築く上での中心的人物と思われています。

副葬品は銅鏡・鉄器類・玉類・石製腕飾類等からなりますが、特に注目されるのは鍬形 石、車輪石、石釧等の石製腕飾類が一括して出土したことは、丹後地方では初めての例です。畿内との交流を深めつつあった古墳時代前期における当地方の有力者の遺品としてその資料的価値はきわめて高い。
また京丹後市峰山町赤坂の赤坂今井墳丘墓は、弥生時代後期としては国内最大級の墳墓であり、世界で2例目となる中国の顔料「漢青」(ハンブルー)が含まれたガラス管玉が出土するなど古代中国との交流をうかがわせる内容で、鉄(銅)製武器や工具類、玉類が同時期の他地域の墳墓に比べ非常に多く副葬されていることも注目されます。

赤坂今井墳丘墓は、ガラスや碧玉(へきぎょく)製の玉類計211個を使った豪華な「頭飾り」や垂下式の豪華な「耳飾り」が発見されました。玉類はつながった状態で三連になっており、葬られた人物の頭を取り巻くように並んでうことから、頭を飾る宝冠のようなものと推測されています。このような玉類を使った頭飾りの出土は、国内や中国・朝鮮半島でも例がありません。また、この古墳の被葬者が埋葬された時期は、邪馬台国の卑弥呼の時代と重なります。

他にも、両袖式横穴式石室の桃谷古墳(峰山町)、弥栄町では、府内では例をみなかった装飾付水さしと角杯形土器が出土した大耳尾古墳群、ニゴレ古墳、さらに1994年、日本最古の魏鏡と一躍全国に名をはせた弥栄町と峰山町にまたがる太田南古墳など、有名・無名を問わず数え切れない多くの古墳が存在しています。

神明山古墳(しんめいやまこふん)

【国指定史跡】 京都府京丹後市丹後町大字宮

古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳で墳丘長190メートル。丹後半島を貫く竹野川の河口付近に位置する、網野銚子山古墳に次いで日本海側最大級の丹後三代古墳です。葺き石と丹後型円筒埴輪列をもつ三段築成。丹後一帯を支配した豪族の墓と推測されています。

かつて古墳の北西にあった潟湖・竹野湖のほとりにあり、砂丘で海と隔たっていることが指摘されていました。船と船を漕ぐ人物の埴輪が出土しており、古代の海岸線と平行に築造されていて、葺石を貼っているから海上から眺めると白色に輝いてよく目立ち、港の位置を示す標識にもなっていました。同様に4世紀の後半以降、港との関係で大規模な前方後円墳が現れ、上総、尾張、丹後、伯耆などでは、その地域最大の古墳も港との関係で出現したといわれています。このようなことから、丹後王国(丹後政権)論が提出されています。

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楽々前(ささのくま)城と宵田城の落城

楽々前(ささのくま)城と宵田城の落城

天正八年(1580)、羽柴秀吉の但馬侵攻に際して、ときの城主垣屋峰信は織田勢に抗戦、敗れて討死したという。その後、秀吉政権下の有子山城主の支配化におかれ、 現在みられる縄張りはそのおりに改修されたものと考えられている。

宵田村には市が開かれ、気多郡の集積地として栄えました。「宵田表の戦い」で羽柴軍により降参し、豊臣方へつきます。

「郷土の城ものがたり-但馬編」では、このような話が書かれてあります。

宵田城主垣屋隠岐守峯信は、天正八年(1580)、羽柴秀吉が但馬征伐に向かってきてからは恐れおののき、心安らぐ日はありませんでした。

ある日、魚売りが江原村を行商していました。そのころは商人が津居山港から歩いたのではなく、円山川を上下して船で行き来しました。商人は売り声を張り上げて歩いていました。その日は、カキ・どこう・このしろの三種類であったので「かきや・このしろ・どこう」とふれました。

秀吉が今日攻めてくるか、明日攻めてくるかと、びくびくしている時ですから、この売り声が「垣屋この城どこう(退陣せい)」と聞こえてしまいました。そこで、これは秀吉の征伐の前触れと、てっきり思いこんでしまい、一族を引き連れて楽々前城へ逃げました。

佐田から宵田までに道場の風穴といわれるところがあり、道場の人々は、夏ここを冷蔵庫の代用に使ったといわれています。ところが、昭和30年12月、宵田城近くに岩中発電所工事が進められ、昭和31年12月に完成、道場から水を取り、山の中を水道トンネルにしました。この工事中、城の抜け穴と思われる穴を埋めたところ、この風穴は冷たい風がぴたりと止まったそうです。城の抜け穴を通ってきた冷風だったのではないでしょうか。考古的な価値がさけばれなかった頃ですので、今となっては悔やまれます。


宵田城 南方向から 下は国道312号城山トンネル

その年の五月、征伐に来た秀吉軍のうち、斉藤石見守近幸、小田垣土佐守らが大軍を率いて宵田城を攻めた時には、城中は音なしの構えどころか、一人残らず楽々前城へ退き、もぬけの殻であったといわれています。そこで秀吉の命により、宮部善祥房の家来の伊藤与左右衛門父子を城代として守らせました。
楽々前城では、父子家臣ともども籠城しましたが、ついに二百二十年続いた垣屋氏は城とともに滅んでしまいました。

しかし、天正八年(1580)、第二次但馬征伐で秀吉の弟秀長と宮部善祥房が但馬に軍を進めたとき、はじめて秀吉軍と敵対しましたが、宵田表の戦いなどのあと秀吉軍に従いました。そして、「但州・因州境目」の重要拠点岩経城主に起用され、因幡鳥取城攻撃には主力部隊として活躍しています。

垣屋氏と関ヶ原の戦い

垣屋光成の子が恒総で、父と同じく秀吉に仕えました。恒総は天正十五年(1587)の九州征伐、同十八年の小田原征伐、さらに文禄の役(朝鮮出兵)にも出陣し、一万石を与えられ、因幡桐山城の城主となりました。関ヶ原の合戦で垣屋隠岐守恒総は、因幡国若桜の木下備中守と一緒に大阪に着陣し、西軍に属します。諸将と共に伏見城、大津城を攻め、やがて関ヶ原へ向かわんとしていましたが、既に戦が始まり、どうやら西軍の旗色が好くないとの情報が伝わります。垣屋としては為すすべもなく、高野山に逃れて日頃師檀の関係を結んでいた僧侶の許に身を寄せました。
やがて天下の赦免があろうかと心待ちにしていたのですが、徳川軍の検使が来て自害すべしとの命を伝えたので自刃しました。こうして垣屋は、関東から但馬にやってきて、二百年の年月を積み重ね、但馬を追われて因幡に新住の地を得たものの、それは二十年しか保てませんでした。留守の桐山城では城主を失い、鳥取城同様にこの城も攻められるのかと勘違いして、家中の者が隠岐守恒総の内室や子供を引き連れて、但馬の故地気多郡西気谷を目指したといいます。

また幸いにも垣屋駿河守家系統である垣屋豊実が東軍についていたため、江戸時代に至って竹野轟(とどろき)城主垣屋家(駿河守)の家系は、徳川重臣 脇坂氏の家老になります。駿河守系の系図は「龍野垣屋系図」といわれ、本姓源氏で山名氏の支流としています。このように垣屋は生き残っているのであり、滅亡したと記述している諸所の文献は間違いであるといわざるを得ないのです。現実に子孫の方は多く但馬におられます。

関ヶ原の戦いの頃、日本の人口は、500万人の状態が続いていました。農耕の開始に次ぐ人口革命の時期であり、戦国大名の規模の大きな領内開発、小農民の自立に伴う「皆婚社会」化による出生率の上昇などが主たる要因と考えられ、約3倍に膨れあがり1200万人を超えます。

「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

【丹国の歴史】(36) 古墳時代

古墳時代とは、一般に3世紀半ばすぎから7世紀末までの約400年間を指します。中でも3世紀中葉過ぎから6世紀末まで前方後円墳が、北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の世紀ともいわれます。前方後円墳が造られなくなった7世紀には、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられ、終末期と呼ばれています。

日本国家の成立から考察すれば、前期・中期の古代国家の形成期を経て、後期から終末期にかけて日本の中央集権国家が成立したと考えられています。

この時代にヤマト王権が倭の統一政権として確立し、前方後円墳はヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆくなかで、各地の豪族に許可した形式であると考えられています。

ヤマト政権による国内統一も進み、また朝鮮や中国大陸からの文化の流入も一層活発となってきます。

古墳とは

一般には墳丘を持つ古い墓のこと。古代の東洋では特定のわずかな人たちである位の高い者や権力者の墓として盛んに築造されました。日本史では、3世紀後半から7世紀前半に築造されたものを特に「古墳」と呼び、それ以外の時代につくられた墳丘を持つ墓は墳丘墓と呼んで区別しています。

古墳は規模や化粧方法の違いとともにその平面形状によって、さらに埋葬の中心施設である主体部の構造や形態によって細かく分類編年されています。墳丘の築造にあたっては、盛り土部分を堅固にするため砂質土や粘性土を交互につき固める版築工法で築成されるものも多いこと、こうした工法は飛鳥や奈良時代に大規模な建物の基礎を固める工法として広く使用されていることが、修繕時の調査などで判明しています。

古墳は、規模・形状、およびその他の要素において、弥生時代の墓制にとって変わったものでなく、非常に変化した墓制としてあらわれました。それは、特定のわずかな人たちの埋葬法であり、同時代の集団構成員の墓と著しく隔絶したもので、地域的にも不均等に出現します。すなわち、古墳の発生は、墓制の単なる変化や葬送観念の変化にととどまらず、社会・政治の全般に関わる問題としてあらわれたのです。そうした変化から古墳時代と呼ばれます。

日本の古墳は、基本的な形の円墳・方墳をはじめ、八角墳(天武・持統天皇陵)・双方中円墳(櫛山古墳・楯築古墳)などの種類があります。日本の主要な古墳は、前方後円墳・前方後方墳・双円墳・双方墳などの山が二つあるタイプの古墳であることが多いです。

多くの古墳は築かれてから長い時間が経過したため、上に木が生えている事が多いですが、建造当時の木のない状態が多くの古墳の本来の姿でした。

日本の古墳所在件数が最も多いのは兵庫県で16,577基にのぼります。以下、千葉県13,112基、鳥取県13,094基、福岡県11,311基、京都府11,310基とつづき、全国合計では161,560基となります(平成13年3月末 文化庁調べ)。

■3世紀の後半

奈良盆地に王墓と見られる前代より格段に規模を増した前方後円墳が出現。
西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れます。その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出型墳から変化した大型方墳が代表的であり、最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土しています。

■4世紀中頃から末まで

半世紀の間に奈良盆地の北部佐紀(ソフ(層富)とも)の地に4基の大王[*1]墓クラスの前方後円墳が築かれる。
4世紀の後葉
河内平野に巨大古墳が約1世紀の間築造され、この世紀の終わり頃には畿内の一部に先進的な群集墳が現れる。

■5世紀の半ば
各地に巨大古墳が築造されるようになる。

■6世紀の終わり
日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなり、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられ終末期と呼ばれています。
これは、ヤマト王権が確立し、中央・地方の統治組織をできあがり、より強力な政権へ成長したことの現れだと解されています。この後しばらくの間、方墳や円墳が造り続けられています。大王の墓は特別に八角墳として築造されました。

時期区分

■古墳時代前期

大仙(だいせん)古墳(伝仁徳天皇陵)写真:ウィキペディア  3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れます。その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出型墳から変化した大型方墳が代表的であり、最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土しています。それから少し経ち、奈良盆地に大王陵クラスの大型前方後円墳の建設が集中しました。埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られます。この頃、円筒埴輪が盛行し、土師器が畿内でつくられ、各地に普及し、その後、器財埴輪・家形埴輪が現れました。
この時期の主な王墓

・奈良県桜井市 、箸墓(はしはか)古墳(邪馬台国の女王卑弥呼の墓と目され、最初の王墓。280メートルの前方後円墳、造営は3世紀後半説)
・奈良県桜井市 、大和古墳群の西殿塚古墳(219メートル)
・奈良県桜井市 、柳本古墳群の行燈山古墳(242メートル、伝崇神陵)
・奈良県天理市 、柳本古墳群の渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(伝景行陵、310メートル)
この時期の王に準じる規模と内容の主な墳墓
・奈良県桜井市 、桜井茶臼山古墳(280メートル)
・奈良県桜井市 、メスリ山古墳(240メートル)
主な首長墓
・山梨県甲府市 、甲斐銚子塚古墳(168メートル)
・岡山市 、神宮寺山古墳(約150メートル)
・東広島市 三ツ城古墳

■古墳時代中期

5世紀の初頭、王墓クラスの大型前方後円墳が奈良盆地から河内平野に移り、さらに巨大化し、人物埴輪が現れた。5世紀半ばになり、畿内の大型古墳の竪穴式石室が狭長なものから幅広なものになり、長持ち型石棺を納めるようになった。各地に巨大古墳が出現するようになり、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなった。 5世紀後半には、北部九州と畿内の古墳に横穴式石室が採用されるものが増えてきた。北部九州の大型古墳には、石人・石馬が建てられるものもあった。またこの頃大阪南部で、須恵器の生産が始まり、曲刃鎌やU字形鋤先・鍬先が現れた。 5世紀の終わりには、畿内の一部に先進的な群集墳が現れ、大型古墳に家型石棺が取り入れられるようになった。南東九州地方や北部九州に地下式横穴墓がつくられ始め、また、装飾古墳が出現しだした。

一部の地域首長古墳が巨大化
・岡山市 造山古墳(360メートル) 岡山県総社市 作山古墳(270メートル)
畿内の盟主墓
・大阪府堺市 大仙(だいせん)古墳 (伝仁徳天皇陵、486メートル)
・大阪府羽曳野市 誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳 (伝応神天皇陵、420メートル)
・大阪府堺市 上石津(かみいしづ)ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵、365メートル)

■古墳時代後期

6世紀の前半には、西日本の古墳に横穴式石室が盛んに造られるようになった。関東地方にも横穴石室を持つ古墳が現れ、北部九州では石人・石馬が急速に衰退した。

古墳時代後期の大王陵
・大阪府高槻市 今城塚古墳 (真の継体陵、墳丘長190メートル)
・大阪市松原市 河内大塚山古墳 (墳丘長335メートル)
前方後円墳最終段階の大王陵
・奈良県橿原市 見瀬丸山古墳 (みせまるやまこふん、欽明陵と推定される、全長318メートル)
・大阪府南河内郡太子町 敏達陵古墳(びだつりょうこふん、全長100メートル未満、大王陵最後の前方後円墳)
6世紀後半になり、北部九州で装飾古墳が盛行し、埴輪が畿内で衰退し、関東で盛行するようになった。西日本で群集墳が盛んに造られた。

■古墳時代終末期

全国的に6世紀の末までに前方後円墳が造られなくなり、畿内でも方墳や円墳がしばらくの間築造されていた時期を古墳時代の終末期と呼んでいる。
終末期古墳の代表的なもの
・大阪府南河内郡太子町 春日向山古墳 (磯長谷古墳群、現用明天皇陵、63×60メートルの方墳)
・大阪府南河内郡太子町 山田高塚古墳 (磯長谷古墳群、現推古天皇陵、63×56メートルの方墳)
・奈良県高市郡明日香村 石舞台古墳 (蘇我馬子の墓と推定、一辺約50mの方墳、全長19.1mの横穴式石室)
・奈良県北葛城郡広陵町 牧野古墳 (押坂彦人大兄の墓である可能性が高い、径43メートルの円墳
・奈良県桜井市 ムネサカ1号墳 (中臣氏一族、径45メートルの円墳)
・奈良県天理市 峯塚古墳 (物部氏一族、径35メートルの円墳)
・奈良県高市郡明日香村 高松塚古墳
・奈良県高市郡明日香村 キトラ古墳
埋葬施設
古墳に用いられる埋葬施設には、竪穴系のものと横穴系のものとがあります。

■竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)

竪穴系のものは、築造された墳丘の上から穴を掘り込み(墓坑 ぼこう)、その底に棺を据え付けて埋め戻したものです。基本的にその構造から追葬はできず、埋葬施設内に人が活動するような空間はありません。竪穴式石槨、粘土槨、箱式石棺、木棺直葬などがあります。このうち、竪穴式石槨は、墓坑の底に棺を設置したあと、周囲に石材を積み上げて壁とし、その上から天井石を載せたものです。古墳時代前期から中期に盛行する。粘土槨は、墓坑底の木棺を粘土で何重にもくるんだもので、竪穴式石槨の簡略版とされます。古墳時代前期中頃から中期にかけて盛行しました。箱式石棺は、板状の石材で遺骸のまわりを箱状に囲いこむもので縄文時代以来の埋葬法です。木棺直葬は、墓坑内に顕著な施設をつくらずに木棺を置いただけのもので、弥生時代以来の埋葬法です。

石材は二上山のサヌカイト[*2]が一般的ですが、徳島県の吉野川下流域の結晶片岩[*3]もよく使われています。石室の構築には、相当な量の石が運ばれたと想定できます。 割竹形木棺の内・外の面と石室の壁面とにベンガラ(赤色顔料)[*4]が塗られている。棺の内側には朱(水銀朱)[*5]が塗られている場合もあり、ベンガラと朱の両方が用いられる場合もあります。埴輪を造ることが埋葬祭祀の一部であるととられられているので、石室構築も同様に埋葬祭祀行為であったと考えられます。

■横穴式石室(よこあなしきせきしつ)

横穴式石室(よこあなしきせきしつ)とは、日本においては、古墳時代後期に古墳の横に穴をうがって遺体を納める玄室(げんしつ)へつながる通路に当たる羨道(せんどう)を造りつけた石積みの墓室のことをいいます。横穴式石室、横口式石槨などがあります。石室を上から見たとき、羨道が玄室の中央につけられているものを両袖式、羨道が玄室の左右のどちらかに寄せて付けられているものを片袖式と呼びます。玄室内に安置される棺は、石棺・木棺・乾漆棺など様々です。玄室への埋葬終了後に羨道は閉塞石(積み石)や扉石でふさがれているますが、それを空ければ追葬が可能です。古墳時代後期以降に盛行すしました。横口式石槨は、本来石室内に置かれていた石棺が単体で埋葬施設となったもので、古墳時代終末期に多く見られます。

高句麗の影響が、5世紀頃に百済や伽耶諸国を経由して日本にも伝播したと考えられ、主に6~7世紀の古墳で盛んに造られました。奈良県の石舞台古墳のような巨石を用いるもの(石舞台の場合は墳丘が喪失している)が典型的ですが、中国の墓を意識したような切石や平石を互目積(ごのめづみ)にした磚槨式石室と呼ばれるものもあります。

■棺(かん・ひつぎ)

古墳時代には、死者を棺に入れて埋葬しました。棺の材料によって、木棺、石棺、陶棺などがあります。

但馬の主要古墳

名称         郡      所在地     時代区分 種類   遺物
トチ三田遺跡   美含郡 香住町下浜栃三田 古墳 散布地
伊津神古墳    美含郡 香住町原     古墳   古墳  型式不明(金銅装)1点
夕垣8号墳    養父郡 八鹿町下網場 古墳   古墳 頭椎大刀または圭頭大刀(銀象眼八窓鍔)1点
長者ヶ平古墳 美含郡 香住町下岡藤谷 古墳   古墳/幅は奥で2.3m、但馬では最大級の石室
山谷墳墓群
(平成20年08月21日) 美含郡 香住町油良 古墳 古墳
文堂古墳 美含郡 村岡町寺河内 古墳 古墳 双龍環頭大刀1点・頭椎大刀1点(金銅製六窓鍔)・方頭大刀1点・型式不明(銀装)
八幡山古墳群  美含郡 村岡町福岡 古墳 古墳
三の谷壁画古墳  美含郡 村岡町高井 古墳 古墳/線刻の壁画
長者ヶ平2号墳  美含郡 村岡町寺河内 古墳 古墳・須恵質 四注式屋根形
以上美方郡香美町
見手山1号墳 城埼郡 豊岡市妙楽寺 古墳   古墳 須恵器蓋杯2個体よりハマグリ各2個
森尾古墳跡 城埼郡 豊岡市森尾 古墳 古墳 「正始元年」(240年)三獣鏡
大師山1号墳 気多郡 豊岡市引野 古墳 古墳
深谷1号墳     気多郡 豊岡市中郷 古墳 古墳
深谷2号墳     気多郡 豊岡市中郷 古墳 古墳
東山1号横穴墓 城埼郡 豊岡市上鉢山 古墳 古墳 太刀型式不明1点(円頭、圭頭、方頭のいずれか)
田多地小谷遺跡 出石郡 出石町田多地 古墳 古墳 山陰型甑形土器
二見谷1号墳 城埼郡 城崎町二見 古墳 古墳 圭頭大刀2点
二見谷4号墳 城埼郡 城崎町二見 古墳 古墳直径18m、円墳 頭椎大刀1点(金銅製六窓鍔)
ケゴヤ古墳 城崎郡   城崎町上山 古墳 古墳 須恵器・タガイ2個
カヤガ谷2号横穴 城埼郡 豊岡市出石町袴狭 古墳   古墳・横穴墓 型式不明(銀装)1点
荒神塚古墳 城埼郡 豊岡市大谷 古墳   古墳 太刀型式不明(銀装)1点
小見塚古墳 城埼郡 城崎町今津 古墳 古墳 但馬海直一族のものと考えられている。北但馬には5,000基以上の古墳があるが、埴輪が出土したものは少なく、ここでは、現在一番古い埴輪が出土している。
ケゴ谷南1号墳 美含郡 竹野町草飼字毛子谷 古墳 古墳
鬼神谷2号窯 美含郡 竹野町鬼神谷字宮の下 古墳 生活遺跡
阿金谷古墳群 美含郡 竹野町阿金谷 古墳 古墳/鉄剣
楯縫古墳    気多郡 日高町鶴岡 古墳 古墳 円頭大刀1点(銀象眼)
カヤガ谷1号墓 出石郡 出石町袴狭 古墳 その他の墓
茶臼山古墳 出石郡 出石町谷山 古墳 古墳
内町1号窯址 城埼郡 豊岡市内町 古墳 古墳・須恵質 亀甲形
耕地谷古墳群 城埼郡 豊岡市 古墳 古墳/城館跡 鉄器や玉
以上豊岡市
国木とが山1号墳 養父郡 八鹿町国木 古墳 古墳
箕谷2号墳    養父郡 八鹿町小山箕谷 古墳 古墳 戊辰年銘大刀
禁裡塚古墳 養父郡 養父町大薮字中西 古墳 古墳
大藪古墳群(伝 野塚18号墳) 養父郡 養父市大薮字下山 古墳 古墳 単龍環頭大刀
観音塚古墳 養父郡 養父町上野字平野 古墳 古墳
山際古墳
(平成20年01月23日) 養父郡 八鹿町高柳 古墳 古墳
以上養父市
春の木田1号墳 朝来郡 和田山町久田和   古墳 古墳 型式不明大刀(銀象嵌鍔)1点
池田古墳     朝来郡 和田山町平野字イケダ 古墳 古墳
春日古墳     朝来郡 和田山町林垣小字上山 古墳 古墳 頭椎大刀1点
上山5号墳     朝来郡 和田山町林垣小字上山 古墳 古墳・直径12m、円墳 頭椎大刀1点(金銅製八窓鍔)
長塚古墳     朝来郡 和田山町岡田字兜塚 古墳 古墳
城ノ山古墳     朝来郡 和田山町東谷字城山 古墳 古墳 三獣鏡
向山1号墳     朝来郡 和田山町加都字向山 古墳 古墳
筒江中山23号墳 朝来郡 和田山町筒江字中山 古墳 古墳全長60m
小丸山古墳 朝来郡 和田山町岡田字小丸山 古墳 古墳
梅田1号墳 朝来郡 和田山町加都字向山 古墳 古墳
宮内中山古墳群 朝来郡 和田山町宮内 古墳 古墳 方頭大刀1点を含む3点
茶すり山古墳 朝来郡 和田山町筒江字梨ヶ谷 古墳/中世 城館跡/古墳・大型円墳で、円墳としては奈良県富雄丸山古墳と並んで、近畿地方最大規模(直径約86m) 各種玉類・櫛・鏡4面・甲冑・刀剣・鉄鏃・盾・鉄製工具類・家形埴輪・円筒埴輪・朝顔形埴輪など
若水A11号墳 朝来郡 山東町粟鹿字若水 古墳 古墳
船宮古墳 朝来郡 朝来町桑市字野篠 古墳 古墳
大同寺古墳 朝来郡 山東町早田 古墳 古墳 須恵質 亀甲形、2基
内高山東古墳群 朝来郡 山東町 古墳 古墳 刀、小刀・鉄鏃・須恵器・土師器・鉄斧・石突・刀子・玉類(勾玉、管玉、ガラス小玉)
岩屋谷古墳 朝来郡 和田山町 古墳 古墳 須恵質 亀甲形
長尾古墳(1号墳) 朝来郡 和田山町筒江 古墳 円墳か?(詳細不明) 頭椎大刀1点
秋葉山古墳群 朝来郡 和田山町林垣 古墳 古墳 土師器・直刀・鉄鏃(てつぞく)

以上朝来市

*註

[*1]…天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された。古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した。

[*2]…讃岐岩(さぬきがん、sanukite、サヌカイト)はカンカン石とも呼ばれ、 名称のもとである香川県坂出市国分台周辺や大阪府と奈良県の境にある二上山周辺で採取される非常に緻密な古銅輝石安山岩。石匙(いしさじ)、削器(さっき)などの各種のナイフ類、また、鏃(ヤジリ)などに使われる。固いもので叩くと高く澄んだ音がする。玄関のベルの代わりに使われたりしている。楽器としての演奏者も存在している。

[*3]…変成岩の一種。片岩(へんがん、schist[1])ともいう。
[*4]…赤色顔料のひとつ。酸化第二鉄(赤色酸化鉄、酸化鉄(III)、Fe2O3)を主要発色成分とする。
[*5]…赤色顔料のひとつで硫化水銀。赤、辰砂。丹生を参照

-出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-
-出典: 「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学教授 佐藤 信

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