【但馬の城ものがたり】 出石(いずし)此隅山城と有子山城


風景写真

■沿 革
山名時氏以来、城崎荘(豊岡市九日市)を本拠とし、その後、守護所としたが、今の九日市上町の国道と旧道の間にお屋敷があった。当時の円山川は国道の堤防付近まで湾曲して流れていて、少し上流の出石川が合流する上佐野には船着き場があった。女代神社にはその当時の舟が飾ってある。当時水路をさかんに利用していたことを考えれば交通が集まる便利な場所だった。
本拠地を九日市から直轄領である出石郡西部の此隅山へ退転し、さらに現在の出石城がある有子山に城を移した。出石への移転の背景には、被官垣屋氏との相克がある。特に将軍位継承にからんで、義稙派の垣屋氏と義澄派の山名氏との勢力バランスが微妙に関わり合ったと見られる。山名氏は応仁の乱・播州放棄・山名政豊が死去し、子・俊豊や国人の背反など、政豊によって辛うじて維持されていた山名氏の勢いがなくなり、大きく傾いた。
永正元(1508)年夏、軍勢乱入により出石神社が焼失した(沙門某勧進帳)。近くの此隅山山下の山名致豊勢を垣屋氏が襲ったと見られるが、一宮出石神社の所在地としても、直轄領の重要拠点であったから、城や在所の有無に関わらず、この地で両者が衝突することはあり得たと思われる。
因みに最近の研究では此隅山城の築造時期は比較的新しく、永禄12(1569)年の織田方豊臣秀長の但馬征伐に至る情勢の経過の中で織田氏対策として着手されたと説いている。
いずれにしても出石に蟄居したのは応仁の乱以降なので、応仁の乱に武将たちが結集して出陣式をこの城下で行ったというのはあり得ない。おそらく出陣は九日市守護所である。
そして天正8年(1580年)5月21日、山名祐豊は秀吉の因州征伐による第二次但馬征伐によって居城である有子山城を包囲される中で死去しました。ここに二百数十年続いた但馬山名氏も滅亡しました。
山名氏の最盛期、但馬国守護となった山名時義が、出石神社の北側の此隅山に、此隅山城(このすみやまじょう)を築きました。此隅山城は長らく六分一殿山名氏宗家の本拠でしたが、1569年(永禄12)の織田軍の羽柴秀吉による但馬遠征で落城しました。一旦、山名祐豊は城を失いましたが、今井宗久の仲介によって領地に復帰しました。
1574年(天正2)、標高321mの有子山山頂に有子山城(ありこやまじょう)を築き、本拠を移しました。此隅山城が縁起が悪いとして有子(こあり)山城と名づけました。
しかし、毛利氏方についたため、1580年(天正8)、羽柴秀吉による第二次但馬征伐で有子山城も落城、山名堯熙は因幡国に逃走、滅亡しました。

民話「小盗山(こぬすみやま)と有子山(こありやま)」

今から四百年ほど前、出石(いずし→兵庫県北部)は山名氏(やまなし)の城下町でした。
室町時代には出石の中心である比隅山(このすみやま)に城を築き、その子どもの時ひろの時代には、全国六十余州のうち、十一ヶ国を山名一族(やまないちぞく)が占めていたそうです。
これだけ全盛を極めた山名氏も、だんだんと勢力を失っていき、室町の末の祐豊(すけとよ)の代の頃には、やっと但馬一国が守れる程度になっていました。
ところでこの祐豊には二人の男の子がいましたが、二人とも若くして死んでしまったのです。  そこで祐豊の隠居後は、氏政(うじまさ)が城をついだのですが、不幸なことに、いつまでたっても世継の子どもが出来ません。
そこであるとき、氏政は易者を呼んで占わせました。
すると易者は、
「比隅城は場所が悪い、半里ほど南の山に城を移せばよいでしょう」
と、いうのです。
天正二年、さっそく言われた通りに新しい城を築くと、まもなく子どもが生まれました。  それからいうものは、不運の続いた比隅山を『小盗山』と呼び、新しく城を築いて子どもの生れた山を『有子山』と呼ぶようになったのです。


「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会他

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【環日本海の歴史】(9)環日本海


気比神宮

環日本海

日本列島の日本海側と朝鮮半島など大陸の間に日本海を囲む地域を「環日本海」といいます。

古来から西洋の船がやってくるまで、日本の表玄関は日本海でした。
日本海文化は、(一)「北の海つ道」による渡来人と文化、(二)潟湖を港とし、その近辺をも支配する地域勢力の形成、(三)独自の特色をもつ支配理念や文化の形成、の三点において特色づけられる(門脇禎二『日本海域の古代史』・『日本海文化とコシ』)。
弥生人が中国や朝鮮半島から日本海沿岸では九州北部を皮切りに、出雲(石見・伯耆・因幡含む)・丹波(但馬・丹後含む)、若狭・越前(加賀・能登含む)へと海岸づたいに移住していきました。

『紀』崇神紀の末尾に蘇那曷叱知の来航を伝えるが、垂仁紀には、「一に云わく」として越の笥飯浦に来着したのはツヌガアラヒト(都怒我阿羅斯等)またの名を干斯岐阿利叱智干岐であると記す(編一四)。

越前敦賀を中心とする新羅・加羅系の渡来者は、おそらく三人や五人ではなかったであろう。彼らはそこに定着するとともに祖国の文化を伝えたに違いない。式内社として、能登国羽咋郡久麻加夫都阿良加志比古神社、同能登郡加布刀比古神社・阿良加志比古神社、越前国敦賀郡白城神社・信露貴彦神社などがみえる。そのうちとくに、「久麻加夫都」はおそらくコマカブトで、冠帽を意味する韓語の(kat)がカブトになったのであろう。このように能登から敦賀にかけて新羅系文化の伝存がみられるわけであるが、それは同時に物資の交流をともなったに違いない。アメノヒボコは八種の宝を持って渡来したというが、それはヒボコに限ったことではなく、おそらく知識や技術の伝達をともなうものでもあったろう。(福井県史)

継体天皇

25代継体天皇となる男大迹王(おおどのおおきみ)は、『記紀』によると、応神天皇5世の孫(曾孫の孫)であり、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)。先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江高嶋郷三尾野とも)から迎えられました。
継体天皇の皇后は手白香皇女(たしらかのひめみこ。仁賢天皇の皇女)、24代武烈天皇の姉(妹との説もある)
継体天皇以降は、大和の勢力と越前や近江など北方の豪族の勢力が一体化し、ヤマト王権の力が国内で強くなった。

『日本書紀』によれば、継体天皇は、
507年2月、樟葉宮(くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。
511年10月、筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷す。
518年3月、弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か)に遷す。
526年9月、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す。
大和にいたのは最後の5年のみである。

越前か近江か

『日本書紀』(以下『紀』)は、継体天皇の出身地を越前と伝える。しかし『古事記』(以下『記』)は、「故、品太天皇の五世の孫、袁本杼命を近淡海国より上り坐さしめて、手白髪命に合わせて天の下を授け奉りき」と記し、近江の出身と表現している。
『紀』も継体天皇(男大迹王)をやはり近江の生まれと記している。?オホトの父彦主人王は近江高嶋郡三尾の別業において、三国の坂中井の振媛の美貌を聞き、呼び寄せて妃とし、振媛はオホトを産んだと書かれている。しかし継体天皇のまだ幼い時に彦主人王は没し、母の振媛は異郷で幼児を育てられないと、オホトを連れて家郷の高向に帰ったという。したがって継体天皇は、幼少時から迎えられて天下の主となる成年期まで越前で育ったわけであり、越前を主な地盤とみてよいことになる。

一方、用字的にみてほぼ推古朝の成立とみられ、『紀』に劣らず古い史料と考えられる『上宮記』(『釈日本紀』所引)は『紀』とほぼ同様の説話を伝えている。

まず継体天皇の父系の考察から始めよう。『紀』は彦主人王を誉田天皇(応神)四世の孫とするが、その系譜については何も記さない。また三尾の別業にいたと記すが、その本拠地についてはまったく触れていない。一方『上宮記』は、継体天皇の父を斯王とし、凡牟都和希王(一般的に応神天皇と考えられる)より四代の系譜を伝えているが、これは『記』の伝える系譜にきわめて近似したものである。
敦賀の登場の頻度からみて、古墳時代にもさかのぼりうるものであろう。

応神天皇

15代応神天皇は、ホムタワケ(誉田別尊)とよばれ、仲哀天皇と神功皇后の間に生まれました。
『古事記』
アメノヒボコ(天日槍)とタヂママヘツミ(多遅摩前津見)の間に生まれた子がタヂマヒナラキ(多遅摩比那良岐)で、その第二子がタヂマヒタカ(多遅摩比多訶)と(スガカマノユラトミ(菅竈由良度美)のの間に生まれた子がカツラギノタカヌカヒメノミコト(葛城之高額比売命)。
オキナガノスクネ(息長宿祢王)と葛城之高額比売命の間に生まれた子がオキナガタラシヒメノミコト(息長帯比売命[神功皇后] )。
仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた子がホムタワケ(誉田別尊[応神天皇])。
歴史学者の間では、仲哀天皇は実在性のほとんど無い父(日本武尊)と妻(神功皇后)をもっている人物であるため実在性の低い天皇の一人に挙げられている。

しかし、応神天皇は、実在性が濃厚な最古の大王(天皇)とも言われますが、仁徳天皇の条と記載の重複・混乱が見られることなどから、応神・仁徳同一説などが出されている。応神天皇の名とされる「ホムダワケ」は和風諡号であり、和風諡号を追号するようになったのは6世紀の半ば以降と見られる。とくに応神天皇から継体天皇にかけての名は概して素朴であり、ワカタケルのように明らかに生前の実名と証明されたものもある。
しかし、『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『上宮記』逸文によって辛うじて状況を知ることが出来る。

息長氏の性格

息長氏(おきながうじ)は古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を美濃・越への交通の要地を根拠地とした豪族です。『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とする。
但し文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われる。

息長氏は、オキナガタラシヒメ(息長帯比売命・神功皇后)によって古代史上有名な氏族ですが、神功皇后の実在性については多くの議論があり、その系譜の古い部分は信頼性に乏しいようです。しかしオキナガタラシヒメ(息長帯比売命)がホムタワケ(応神天皇)の母と位置づけられている伝承は、応神天皇が継体天皇の五世の祖と伝えられているだけに、無視しがたい重みをもっている。

ヒボコと継体天皇

『日本書紀』によれば、船に乗って播磨国にとどまって宍粟邑(しそうのむら)にいた。天皇から「播磨国穴栗邑(しそうむら)か淡路島の出浅邑 (いでさのむら)に気の向くままにおっても良い」とされた。「おそれながら、私の住むところはお許し願えるなら、自ら諸国を巡り歩いて私の心に適した所を選ばせて下さい。」と願い、天皇はこれを許した。ヒボコは宇治川を遡り、近江国の吾名邑(あなのむら)、若狭国を経て但馬国に住処を定めた。

『古事記』に、ヒボコ(天日槍)の曾祖孫カツラギノタカヌカヒメノミコト(葛城之高額比売命)が近江のオキナガノスクネ(息長宿祢王)の妃となりオキナガタラシヒメ(息長帯比売命・神功皇后)が生まれたとしている。

近江国の吾名邑とは穴師つまり鉱山師の集団であろうし、ヒボコは鉾という名前から武器・神具の製造にも深い。日槍の神社があるのは近江と但馬。ヒボコも息長氏も、ともに伽耶・新羅渡来系であろう。中国の『梁書』には古代、大漢国は丹国・若狭・越国・近江の大きな国だったと記されています。したがって同族の婚姻も多かっただろうし、ヒボコもツヌガアラヒト(都怒我阿羅斯等)、そして応神天皇が継体天皇の五世の祖であり、越前や近江は朝鮮半島ととても縁が深いことになります。

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小見塚古墳 (豊岡市城崎町)

兵庫県豊岡市城崎町今津

 但馬海直(あま)一族のものと考えられています。北但馬には5,000基以上の古墳がありますが、埴輪が出土したものは少なく、ここでは、現在但馬地方で一番古い埴輪が出土しています。丹後久美浜との関係がうかがえます。

但馬国分寺 国分尼寺

但馬国分寺

豊岡市日高町国分寺

国分寺(こくぶんじ)は、天平13年(西暦741年)、聖武天皇の国分寺建立の詔(みことのり)を受けて、国状不安を鎮撫するために各国に国分尼寺(こくぶんにじ)とともに建立を命じた寺院です。正式名称は

国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)
国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)です。

前者には護国の教典『金光明経』十部が置かれ、封五十戸・僧二十人が配されました。後者には滅罪の教典『法華経』十部が置かれ、水田十町・尼十人が配されたといわれています。まさに仏教の力によって国家の安泰と発展を実現することが祈願されたのです。

各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ、国府のそばに置かれました。多くの場合、国府(国庁)とともにその国の最大の建築物でした。大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられました。

さらに天皇は二年後の天平十五年、『華厳経』の教主である廬舎那仏(るしゃなぶつ)の金銅像(大仏)を造立することを宣言する詔を発しました。天皇は自らが天下の富を注いでこの事業を完遂するという決意を述べるとともに、多くの人々が結縁のために、たとい「一枝の草、一把の土」でも協力してくれるよう、呼びかけました。大仏が大仏殿と共に一応完成したのは、天平勝宝元年(749)です。それは諸国の資源と民衆の労力と、そして主に渡来人の人々の技術を総動員して遂行された国家的大事業でした。『続日本紀』が記す「人民苦辛」の程度も相当なものだったと推測されます。四年、来日していたインド僧のボーディセーナ(菩提せん那)を導師として、盛大な大仏開眼の法会が行われました。参列した僧侶は一万人に及び、諸外国の舞楽が奉納されたといわれます。それは文字通り国際的な大イベントでした。


自分のサイト「たじまる」のため撮影してきた。 伊能忠敬が測量した時には7個の礎石が確認できたと記してありますが、現在は1個のみが残っています。

但馬国分尼寺

但馬国分尼寺 豊岡市日高町水上、山本

律令体制が弛緩し、官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れました。ただし、中世以後もかなりの数の国分寺は、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、あるいは後世において再興されるなどして、現在まで維持しているところもあるそうです。また、かつての国分寺近くの寺で国分寺の遺品を保存していることもあります。国分尼寺も同様ですが、寺院が国家的事業から国司、守護など実質統治に代わると、かつての国分寺は復興を受けなかったところが多くなりました。ここ但馬でも国司が中心となって建設が進められました。全国でも伽藍が残っている数少ない国分寺跡として、注目を集めています。

塔跡(画像:但馬国府国分寺館)  昭和48年(1973年)から始まった発掘調査の結果、七重塔、金堂、門、回廊などの建物が見つかり、お寺の範囲がおよそ160m四方もあったことがわかりました。また、全国の国分寺ではじめて、「木簡」(木の板に書かれた文書)が見つかるなど、貴重な発見が相次いでいます。

礎石

現在も日高東中学校の前に二個の礎石が残っています。150年位前には、26個の礎石が一定間隔を置いて残っていたといいます。(国分寺から約1km弱北へ。)

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但馬西部の古墳

出雲国造の同祖とされる二方(ふたかた)国造の名が記されていることからも、但馬国がまとまる前は、但馬西部には因幡・出雲に近しいクニが存在していたようです。

八幡山古墳群(やはたやまこふんぐん)

香美町村岡区福岡
5~6世紀、三角持送り式天井の竪穴系横口式石室
・県指定史跡

八幡山の丘陵屋根の南東に寄ったところにかたまり、かつては他に数基の古墳があったようです。この丘陵上には現在4基の古墳があり、3・5・6号墳が開口しています。構造から竪穴系横口式石室の名でよばれる石室で、特に5号墳は「三角持送り式天井」という特殊な構築方法として注目されています。石室の隅を三角にもちおくって天井部を架構していく方法は、日本全国をみても例が多くなく、源流は朝鮮半島に認められるといわれています。

また、6号墳からは多くの土師器(はじき)や須恵器(すえき)が出土されており、本古墳群の時期の一端をうかがわせます。5世紀末ころから6世紀前半にかけての遺物を含み、一度限りの埋葬だったとは考えにくい遺物の状況にあります。京都府福知山市夜久野町でも竪穴式石室が見つかっています。

流尾・長尾古墳

京都府福知山市夜久野町大字平野小字流尾、小字長尾

1961年、偶然発見されたが、当時夜久野中学校上校(現在宝陵中学校)の移転地とされていたため、緊急発掘調査が行われたものである。この二つの古墳は、同じ台地上の突端部に流尾古墳、その西約80mの台地端部に長尾古墳と、南面の見晴らしのよい高台に並んで築造されていた。

流尾古墳で注目されるのは石室の構造で、長さ5.13m、幅1.1~1.38m、高さ1.2mの羨道式窓のある竪穴石室で四壁の下半部は同時に石積みされ、上半部は三方と窓の壁を積み、埋葬後天井石をのせたもので類例のないものである。天井石は6枚で構成され、その最大のものは長さ2.2m、幅1.3m、厚さ0.2~0.3mあった。

こういった形式は、朝鮮慶尚北道達四面古墳群等の影響を受け5~6世紀に本邦に伝わって来たものではないか、又これらの形式は竪穴系横口式古墳と呼ぶのにふさわしいのではないか、言われている。(「日本の考古学」近藤良郎、藤沢長治編に記述)

■竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)

古墳時代前期から中期にかけてよく見られる古墳の埋葬形式である。発掘過程で竪穴の石室のように検出する事からその名がついた。中期には、先に石室を構築してから埋葬を行う、異なる系統の竪穴式石室が出現しています。これらは割石積みで構築されていますが、長さが短く、やや幅広の平面形の石室で、中期後半から後期にかけて、北部九州地方や中国地方、和歌山県の紀ノ川流域などで見られます。これらの石室は、旧来の竪穴式石室からの変化というより、朝鮮半島南部の洛東江下流域、の伽耶地域に顕著にみられる竪穴式石室からの影響を考えるべきものと思われています。

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大薮(おおやぶ)古墳群 (養父市大薮)


画像:養父市

兵庫県養父市大薮

兵庫県養父市養父地域の円山川右岸道路に隣接した南斜面の丘陵地に大薮古墳群があります。兵庫県を代表する、古墳時代後期のに造られた古墳群です。地形は大薮集落を中心として両側に弓形に広がっています。北に山を背負い、南前方には円山川が流れています。そして川の向こうには養父神社をみることができます。兵庫県を代表する、古墳時代後期に造られた古墳群です。

大薮古墳群の大型古墳は、東からコウモリ塚古墳・塚山古墳・禁裡塚古墳・西の岡古墳など4基の古墳が作られています。また横穴式石室をもつ中・小規模の古墳群として、東から小山支群・野塚支群・穴ヶ谷古墳群などがあります。道林古墳群は石棺や木棺を埋葬施設とする5世紀後半から6世紀前半の古墳群。これらの古墳をすべてあわせたものが大薮古墳群で、約150基の古墳群が造営されています。北近畿でも最大規模の石室墳として注目されており、考古学や歴史ファンの間では「但馬の飛鳥が大薮だ」とも言われています。

大薮古墳群では6世紀から7世紀にかけて禁裡塚古墳を契機として、塚山古墳・西の岡古墳・コウモリ塚古墳といった順番で但馬最大の大型古墳が次々と作られました。しかし5世紀に朝来市和田山町で但馬最大の古墳である池田古墳や茶スリ山古墳を作った地域には、大薮古墳群クラスの横穴式石室を持つ古墳はありません。こうした事から、6世紀になって朝来市和田山町から養父市養父地域に但馬最大の政治権力の中心地が移ったと主張する学説があります。

大薮古墳群は、はたしてだれが作ったのか。簡単には説明ができません。禁裡塚古墳などの大型石室は、奈良県の飛鳥地域にあっても並々ならぬ規模を誇る大型の石室です。但馬らしい田園空間に今も良好な状態で残る大薮古墳群は、名実ともに兵庫県を代表する古墳群だ大薮古墳群クラスの古墳はなく、こうした事から6世紀になって朝来市和田山町から養父市養父地域に但馬最大の政治権力の中心地が移ったと主張する学説があります。

養父市ページより

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船宮古墳 (朝来市桑市)

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船宮古墳 兵庫県指定文化財

朝来市桑市 1988年 古墳時代中期(5世紀代) 前方後円墳 全長約80m

但馬第2の大型前方後円墳(県指定史跡)、日本最古の牛形埴輪。双円墳とする説も。

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若水古墳群A11号墓・若水城跡

若水古墳群A11号墓・若水城跡


写真:兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所
朝来市山東町一品

同遺跡は、粟鹿神社の西側の小さな山塊。『若水城跡』は、山塊の最高所を中心に展開する城跡であり、本城跡は、北方から南下してくる山名氏の軍勢をいち早く察知できる唯一の場所であり、竹田城への東からの谷口を押さえる重要な位置にあることが分かります。天正5年(1577)あるいは天正8年(1580)に、羽柴秀吉(実際には弟の秀長)が但馬侵攻に際して造った陣城と考えることができるそうです。

若水A11号墓は、直径40m、高さ5mを誇る円形の墳丘墓(古墳?)です。直径20m~25mの広さをもつ墳頂の平坦面からは、2つの埋葬施設が発見されました。木棺の両端に石を積むという構造で、似た例としては舞鶴市川向古墳群がありますが、全国的に見ても他には例がありません。第1主体部は10m×5mの大きさの墓穴の中に、長さ約6m、幅約80cmの木棺を納めています。遺物は、鏡(飛禽鏡:ひきんきょう)が1面、漆塗り木製品(容器?)、鉄製品(鉄鏃?)が出土しています。木棺の形態は、円筒形の形をもつ「割竹形(わりたけがた)木棺」の可能性を現在のところ考えています。出土した飛禽鏡(ひきんきょう)は、全国的にみても9例しか存在しておらず、また中国大陸、朝鮮半島でも10数例程度しか確認しておりません。日本での確認例は、弥生時代末から古墳時代初頭の時期に集中しており、時期を決定する決め手となる遺物があまりない若水A11号墓も、鏡や墓の構造などから、この時期の墳丘墓(古墳)であると考えています。

第2主体部は、6m×3m以上の大きさの墓穴の中に、長さ約5m、幅約60cmの木棺を納めています。遺物は小さなガラス玉(直径2~3mm。その中に穴を空けています)が10点以上出土しています。 木棺の形態は、箱形木棺と考えています。 この埋葬施設で注目すべき点は、木棺の周囲を拳大~人頭大の石で囲み、 底には平坦な石を敷いていることです(礫槨状)。 また、若水古墳群A11号墳は、内行花文鏡という銅鏡2面(1面は飛禽鏡といわれるもので日本で十数例しかない珍しいもの)、鉄製のナイフ(刀子)1点と、直径2~4mm程度のガラス小玉50点以上出土しています。南但馬における最も古い大型古墳で、池田古墳、城の山古墳、茶すり山古墳同様、南但馬の王墓の一つと考えられています。若水古墳群A11号墳は南但馬最古の大型円墳です。

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【丹の国の歴史】(43) 丹波(たんば)国の始まり

画像:北近畿開発促進協議会

丹波(たんば)の始まり

丹波とは、延喜式で定めた山陰道の国の一つで、格は上国、近国。
丹波ははじめ「たには」と呼び、古くは田庭・谷端・旦波とも記していました。『古事記』では旦波、丹波、『日本書紀』では丹波と記され、『和名抄』では 「太迩波(たには)」と訓じられています。
峰山町丹波には、古代は丹波郡丹波郷にあたり、古丹波(丹後)地方の中心地と考えられ、丹波の國名の起源となったのは、峰山町丹波にあるという説もあります。
丹波は、現在の元伊勢籠神社の付近を地盤として、若狭湾岸の一部と、丹波高地を版図としていました。また
また、丹とは谷または水銀を「に」と読んだ、波(は)とは日本海であり、谷間と海の国をさすとも考えられます。
この「たには」は、(1) 主基(すき)田の「田庭」から、
「タニ(谷)・ハ(端)」から
「丹(水銀)」から
「タワ(峠)」の転などの説があります。
古代丹国は、北ッ海(日本海)を前に朝鮮半島からの日本の表玄関として、古代は奴国(北九州)・文身国(出雲・伯耆・因幡)の出雲から東に水行5千余里(約260km~300km)の地点に大漢国(丹国・越国・近江)の王都があります。おそらく約260km~300kmから推定すると、福井県・滋賀県のいずれかに王都があったと推定されます。具体的に利便性や気比神宮から敦賀近辺と比定するとします。
「タニハのクニ」、丹国(にのくに)は、近畿地方北部を治めた、古代日本の勢力圏の一つです。丹州(たんしゅう)とも呼ばれていました。 5世紀ころ四道将軍の遠征により大和朝廷に服属したとされます。
7世紀に丹波国が定められたときの初期の中心地は、現在の元伊勢籠神社(宮津市大垣)の付近を地盤として、国府と国分寺が置かれていました。現在の丹波(京都府の中部と兵庫県中東部、京都府北部(丹後)、兵庫県北部(但馬)に及んでいました。丹波(タンバ)と但馬(タジマ)の読みが似ていることも、この背景と関係があるのかも知れません。
しかし、律令制度下でヤマト王権の支配下に入れられると、丹国は丹波国・丹後国・但馬国に3分割されました。天武天皇13(684)年?に丹国北西部の朝来(あさこ)、養父、出石、気多、城崎、美含(みぐみ)、二方、七美(しつみ)の8郡を分けて但馬国(たじまこく)を分割、さらに和銅6(713)年に北部の加佐、与謝、丹波、竹野、熊野の5郡を分けて丹後国を分割し、桑田、船井、多紀、氷上、天田、何鹿(いかるが)の6郡を丹波国としました。大和朝廷の弱体化政策により、古代文身国が出雲と伯耆、因幡に分けられたのと同様に、古丹波国を三分割されたと考えられます。
現在では丹波と丹後をあわせて両丹(りょうたん)、丹波と但馬をあわせて但丹(たんたん)または丹但、丹波・丹後・但馬を三丹と総称することもあります。最近ではJR西日本の特急「北近畿」という名前のようにも呼ばれています。
現在の丹波は大まかに言って三つの盆地、亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山盆地のそれぞれ母川の違う盆地があり、互いの間を低い山地が隔てている地勢です。このため、丹波国は一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化しました。

年号が不明ですが、律令制が布かれ、北西部を『但馬国』、その後、和銅6年(713年)4月3日に北部5郡を『丹後国』として分離し、後世まで長く続く地域が定まりました。江戸時代に丹波は丹州、但馬は但州と書くこともあります。
地域性として、
亀岡・園部の南丹(口丹波)地方は山城・摂津
氷上・福知山・綾部の中丹(奥丹波)は丹後・但馬
篠山・丹波(西丹波)は但馬・摂津・播磨
に密接に係わっています。
そのことからも明治の廃藩置県では数回の変更の末、兵庫県と京都府に分割されることになりました。
方言的には但馬・丹後は山陰のアクセントに似ており、中丹・南丹は関西弁に近いです。もちろん明確に分かれているのではなくて各地域の距離的位置によってより濃厚になってくるようです。(私見)
丹波南東部の亀岡盆地は太古は大きな湖であり、風が吹くと美しい丹色の波が立ったところから、このあたりを丹のうみ・丹波と呼ぶようになったとされており、出雲神話で有名な大国主命(オオクニヌシノミコト)が亀岡と嵐山の間にある渓谷を切り開いて水を流し土地を干拓し、切り開いた渓谷を妻神「三穂津姫命」(ミホツヒメノミコト)の名前にちなみ「保津川・保津峡」と名付けたという伝説が残っています。出雲大神宮(亀岡市千歳町)の祭神となっており、事実、湖だったことを示す地層も明らかになっています。この伝説は、出雲神話をはじめ、但馬の沼地を切り開いたという伝説や網野入り江を切り開いた伝説などとよく似ている(後述)。
これとは異なり、次の説もあります。
上記の峰山町丹波です。6世紀ころには竹野媛や「丹波」の名のつく女性が垂仁天皇の后となっていることからも、古代より丹波の名称はあったようです。

丹後国(たんご)誕生

和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれました。

古墳時代には竹野川流域を中心に繁栄しており、独自の王国が存在したとする説もある(丹後王国論を参照)。7世紀に令制国として丹波国が成立したときは、丹波郡(後の中郡)がその中心地であった説(有力)もある。

丹波国が令制国として成立した当初には、丹波郡・丹波郷を有して丹波国の中心であったとみられる北部の地域が丹波国として残されず、逆に丹後国として分離されてしまったのは、丹波国の中心が北部の丹波郡から、より大和(奈良)の都に近い丹波国南部(丹後分国後の丹波国の地域)へと移動していたためと考えられています。南部の桑田郡(亀岡市)は国分寺・国分尼寺が建立され、奈良時代には丹波国の中心地となっていたことが知られる。

勘注系図[註1]のなかに見える、「丹後風土記残欠」いわゆる「残欠風土記」の問題がある。同書に見える「丹波」という名の由来では、天道日女命らがイサナゴ嶽に降臨した豊宇気大神に五穀と蚕などの種をお願いしたところ、嶽に真名井を堀って水田陸田に潅漑させたので、秋には垂穂が豊かな豊饒の土地となったということで、大神は大いに喜んでこの地を「田庭」といい、天に帰ったという伝承を載せる。これが丹波の語源となったといい、この記事が勘注系図にも同じく見える。「諸国名義考」にも丹波は「田庭なるべし」とあり、古代の丹波郡(京丹後市峰山町)あたりは実際にも豊かな土地であって、丹波は宮廷の大嘗祭の主基国にしばしば当てられた。しかし、これら「田庭」起源説は、当地の国造一族が豊受大神を奉斎したことからくる説話にすぎないともされています。
また、丹波方面で彦坐王が討ったと崇神記に見える鬼「玖賀耳之御笠(陸耳御笠)」についても、「残欠風土記」に見える。同書の記事では、玖賀耳之御笠の拠った地が丹後の青葉山(舞鶴市と福井県大飯郡高浜町の境界にある山で、若狭富士、標高は六九九M)とされるが、これも疑問が大きい。すなわち、仁徳天皇の宮人「桑田玖賀媛」などから丹波国桑田郡(亀岡市)という説(太田亮博士)があり、この点や山城国乙訓郡には久我の地からいって、丹波路の入口にあたる乙訓郡あたりから丹波国東南部にあたる桑田郡にかけての地域を、大和王権の先兵としての彦坐王の勢力がまず押さえて丹波道主命と称せられたと考えるのが妥当であろう。この地域に居て抵抗した土着勢力が玖賀耳だと畑井弘氏もみている(『天皇と鍛冶王の伝承』など)。

中世には足利氏の一族である一色氏が入封、一時期を除いて室町時代を通じて丹後一国を支配した。ただ、その支配体系は不明です。恐らく、九州探題も務めたことのある一色氏自体は在京し、地元豪族を守護代として支配をしたのであろう。戦国時代が始まる1498年には守護の一色義秀が地元豪族に攻められて自殺していることから、強力な施政はできなかったようにも思われる。それでも一色氏の命脈は戦国期を通じて永らえたが、1579年7月に一色氏が細川幽斎に滅ぼされて以来、細川氏が丹後を支配した。関ヶ原の戦い後、京極高知に、丹後守の称号と丹後一国、十二万三千石の領地が与えられ、国持ち大名京極家の領地となりました。

国府は、和名類聚抄および拾芥抄では、加佐郡。現在の舞鶴市西舞鶴と思われる。 ただし、易林本の節用集では、与謝郡とあり、国分寺は宮津市府中(国指定史跡)に見つかっており、一の宮 元伊勢 籠神社も近いので、第一次国府は宮津市府中という地名から国府が置かれていたと推定される。

[註1]「勘注系図」は、江戸期の作成ないし書写ではないかとする見解を先に紹介したが、海部氏系図を天孫本紀の尾張氏系図などの知識を加えて大補充したものであって、平安前期より前の部分は、まったく意味をもたない。それどころか、様々な意味で有害である。それ以降の系図は田雄の孫世代まで及んでいるので、平安前期の範囲に記述はとどまる(全体の系図の詳細も刊本として公開されているが、実物の写真全ては入手しがたい事情にある)。   そもそも、天孫本紀の尾張氏系図の記事には様々な混乱があるのをそのまま引き写し、そこにすら見えない人物をいい加減に多数書き加え、その記事を付けた偽撰系図そのものであり、このような系図まで「附」として国宝指定をするのは、関係者の学究としての見識が疑われる。

だいたい記載内容が支離滅裂のかぎりで、本来の海部氏系図に尾張氏、和珥氏、倭国造氏の系図を勝手に混合させている。倭宿禰(椎根津彦と同人という解釈がなされている)と尾張連の祖・高倉下命(椎根津彦と同じく神武朝の人)との関係さえ、混乱している状況である。同書奥書には、「豊御食炊屋姫(註:推古)天皇御宇に国造海部直止羅宿祢等が丹波国造本記を撰した」という記事があると報告されるが(刊本では確認できない)、この表現には多くの誤りがある。   海部直氏は丹波国造ではないというのが史実なのに、何度も繰り返される重大な誤りが一連の史料の根底にある(これは、籠神社祠官家の主張にすぎない)。いま勘注系図の別名が「丹波国造本記」とされるが、この推古朝までの系図がその当時撰せられたとしたら、現在に伝わる内容のはずではありえないほど杜撰な記事内容なのである。「海部直止羅宿祢」という表記形式そのものがおかしいほか、止羅宿祢なる者は系図のどこに現れるのだろうか。

一の宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ、こもりじんじゃ)
延喜式神名帳には大社7座6社・小社58座58社の計65座64社が記載されています。大社6社は以下の通りで、竹野神社以外は名神大社に列しています。

丹後国府移転の理由は?

この時代の国府移転理由として考えられるのは、やはり桓武天皇の即位でしょうか。天応元年(781年)、桓武天皇は即位すると、新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進めていきます。遷都は前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高める目的があったと考えられており、形骸化した律令官職に代わって令外官などが置かれました。また、桓武は王威の発揚のため、当時日本の支配外にあった東北地方(越後国(後の出羽国を含む))の蝦夷征服に傾注し、坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征服に活躍しています。そのことから国府が宮津湾の与謝郡から舞鶴湾の加佐郡に移された理由として考えられるのは、平安京からわざわざ遠いながらも、湾が入り組んでおり、防衛上より適している舞鶴湾を蝦夷攻撃や朝鮮半島との最重要軍事基地として重要視したためとも考えられます。軍事上舞鶴湾は朝廷に最短距離かつ日本海側で最も適した湾であることが、すでに認識されていたのでしょう。

参考:舞鶴市HP
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