古事記 上巻「神話編」5 三貴子の誕生

三貴子の誕生

イザナギは、続いて左の目を洗った。
すると、天にましまして照りたもう、アマテラス(天照大御神・あまてらすおおみかみ)が出現した。

次に右の目を洗った。
すると、ツクヨミ(月読命・つくよみのみこと・つきよみともいう)が出現した。

最後に、鼻を洗った。
すると、スサノオ(建速須佐之男命・たけはやすさのをのみこと)が出現した。

イザナギは、「私は子供を本当に沢山生んできたけれど、最後に三柱の貴い子を得ることができた。」
と、大変喜んだ。

それで、自分の首にかけていた連珠の首飾りを外して、これをゆらした。
珠同士が触れ合って、しゃらしゃらと美しい音が響いた。

イザナギは、この首飾りをアマテラスに授けて、
「お前は、高天原を治めなさい。」
と命じた。

剣と同じくこの首飾りにも名前があって、御倉板拳之神(みくらたなのかみ)という。
こちらは、神聖な倉の棚に宿る神様。

稲を実らせる稲霊の神は、かつて棚の上に祀られていた。
だからこそこのような名前なのだろう。

また、御倉板拳之神もまた穀物の神の1柱といえる。
そのためこのような神が宿る首飾りを身に着けることで、アマテラスもまた、穀霊の性格が加算されることになった。

次に、イザナギはツクヨミに
「お前は、夜の世界を治めなさい。」
と命じた。

最後にスサノオに
「お前は、海原(うなばら)を治めなさい。」
と命じた。

このようにしてイザナギは、三柱に高天原・夜・海の分治を命じた。

中でもアマテラスは、神々が住まう高天原を統治することになったので、とても重要な神様といえる。
この後、アマテラスは、私達が住む地上を自分の孫に治めさせることにした。
アマテラスの孫が、高天原から地上に降りたことを、「天孫降臨」という。

アマテラスの孫であるニニギ(邇邇藝命)の玄孫が、初代天皇である神武天皇です。
その後、万世一系で引き継がれ、現代の第125代今上天皇へと続いています。

父側の家系を辿ると、神武天皇にいきつくことを「男系」と言います。
世界でひとつの男系がずっと続いて、且つ王朝が変わることなく約2000年以上も続いている国は、世界で日本以外どこにもありません。

日本は、現存する世界最古の国なのです。

古事記 上巻「神話編」4 黄泉の国

そしてイザナキは妻のイザナミに会いたいとお思いになって黄泉の国に後を追って行かれた。
そこでイザナミが御殿の閉まった戸から出迎えられたときに、イザナキは「いとしいわが妻よ、私とあなたで作った国はまだ作り終わっていません。だから帰るべきです」と仰せになった。

イザナミはこれに答えて「残念なことです。早く来ていただきたかった。私はすでに黄泉の国の食べ物を食べてしまいました。されどもいとしいあなたが来てくださったことは恐れ多いことです。だから帰りたいと思いますので、しばらく黄泉の国の神と相談してきます。その間私をご覧にならないでください」と仰せになった。

こういってイザナミは御殿の中に帰られたが、大変長いのでイザナキは待ちかねてしまった。
そこで左の御角髪(ミミズラ)に挿していた神聖な櫛の太い歯を一つ折り取って、これに火を点して入って見ると、イザナミの身体には蛆がたかってゴロゴロと鳴き、頭には大雷、胸には火雷、腹には黒雷、女陰には{さく}雷、左の手には若雷、右の手には土雷、左の足には鳴雷がいて、右の足には伏雷がいた。
併せて八つの雷が身体から出現していた。

これを見てイザナキは怖くなり、逃げ帰ろうとしたとき、イザナミは「私に恥をかかせましたね」と言って、すぐに黄泉の国の醜女を遣わしてイザナキを追わせた。
そこでイザナキは黒い鬘を取って投げ捨てると、すぐに山葡萄の実がなった。醜女がこれを拾って食べている間にイザナキは逃げていった。しかし、なお追いかけてきたので右の鬘に刺してあった櫛の歯を折り取って投げると、すぐに筍が生えた。醜女がこれを抜いて食べている間にイザナキは逃げていった。

 

その後、イザナミは八つの雷に大勢の、黄泉の国の軍を付けてイザナキを追わせた。そこでイザナキは佩いていた十拳の剣を抜いて、後ろ手に振りながら逃げていった。

しかし、なお追ってきたので黄泉の国との境の黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)のふもとに至ったとき、そこになっていた桃の実を三つ取り、待ち受けて投げつけると、すべて逃げ帰った。
そこでイザナキは桃の実に「お前が私を助けたように、葦原中国のあらゆる人たちが苦しくなって、憂い悩んでいるときに助けてやって欲しい」と仰せられて、桃にオオカムヅミ(意富加牟豆美命)という名を賜った。

最後にはイザナミ自らが追ってきた。
そこで千人引きの大きな石をその黄泉比良坂に置いて、その石を間に挟んで向き合い、夫婦の離別を言い渡したとき、イザナミは「いとしいあなたがこのようなことをなさるなら、私はあなたの国の人々を一日に千人絞め殺してしまいましょう」といわれた。
そこでイザナキは「いとしいあなたがそうするなら、私は一日に千五百人の産屋を建てるでしょう」と仰せになった。こういうわけで、一日に必ず千人が死に、一日に必ず千五百人が産まれるのである。

そこでイザナミを名付けて黄泉津大神(ヨモツ)という。またその追いついたことで道敷大神(チシキ)ともいう。また黄泉の坂に置いた石を道返之大神(チガヘシ)と名付け、黄泉国の入り口に塞がっている大神とも言う。なおその黄泉比良坂は、いま出雲国の伊賦夜坂(イフヤサカ)である。

このようなことでイザナキは
「私はなんと醜く汚い国に行っていたことであろうか。だから、我が身の禊ぎをしよう」
と仰せになり、筑紫の日向の、橘の小門の阿波岐原(アワキハラ)においでになって、禊ぎをされた。
生まれた12柱の神様は、陸路と海路に関わる神である。

投げ捨てた杖にツキタツフナト(衝立船戸神)
つぎに投げ捨てた帯にミチノナガチハ(道之長乳歯神)
つぎに投げ捨てた袋にトキハカシ(時量師神)
つぎに投げ捨てた衣にワヅラヒノウシノ(和豆良比能宇斯能神)
つぎに投げ捨てた袴にチマタ(道俣神)
つぎに投げ捨てた冠にアキグヒノウシノ(飽咋之宇斯能神)

つぎに投げ捨てた左手の腕輪にオキザカル(奥疎遠神)、つぎにオキツナギサビコ(奥津那芸佐毘古神)、つぎにオキツカヒベラ(奥津甲斐弁羅神)である。
つぎに投げ捨てた右手の腕輪に生まれた神の名は辺疎遠神(ヘザカル)、つぎに辺津那芸佐毘古神(ヘツナギサビコ)、つぎに辺津甲斐弁羅神(ヘツカヒベラ)である。

身に付けていた物を脱いだことによってイザナギはすっかり裸になった。
そして禊祓(みそぎはらえ)をするため、いよいよ水の中へと進んでいった。

「川の上の瀬は流れが速い。下の瀬は流れがおそい」
といって、そこで中流の瀬に沈んで身を清められた時に、ヤソマガツヒ(八十禍津日神)、つぎにオオマガツヒ(大禍津日神)が生まれた。この二柱の神は汚らわしい黄泉の国に行ったときの汚(けが)れから生まれた神である。
ヤソマガツヒは、沢山の災禍の神様
オオマガツヒは、偉大な災禍の神様
2柱は、あらゆる災いについての神様である。

ヤソマガツヒとオオマガツヒという、あまりに恐ろしい神様ができてしまったので、つぎにその禍いを直そうとして神様が生まれた。

カムナホビ(神直毘神)、つぎにオオナオビ(大直毘神)、つぎにイヅノメ(伊豆能売)の3柱である。

カムナホビは、曲がったことを正しく直すことの神様
オオナオビは、正しく直すことの偉大な神様
イヅノメは、厳粛で清浄な女性、という意味である。名前に「神」がつかないので巫女の起源となる存在といわれている。

イザナミがさらに念入りに、川底、川中、水面と三か所で、体をすすいだ。
三か所でそれぞれ2柱ずつ、次の神様が生まれた。

川の底で禊ぎをしたときに、ソコツワタツミ(底津綿津見神)、つぎにソコツツノヲ(底筒之男命)
川の中程で禊ぎをしたときに、ナカツワタツミ(中津綿津見神)、つぎにナカツツノヲ(中筒之男命)
水面で禊ぎをしたときに、ウハツワタツミ(上津綿津見神)、つぎにウハツツノヲ(上筒之男命)

この3柱の綿津見神は、海の神様。
これら3柱の綿津見神は、阿曇連(アズミノムラジ)らの祖先神として祀られている神である。
そして阿曇連らはそのワタツミの子の、宇都志日金析命(ウツシヒカナサク)の子孫である。
日本神話では神々がやがて人になっていったので、日本国民の誰もが何らかの神々の子孫といえるかもしれません。

また三柱の筒之男命は、何を神格化した神様なのか諸説あるが、船の筒柱の神様ではないかといわれていえう。住吉神社に祀られている住吉大神(住吉三神)である。

黄泉比良坂

古事記 上巻「神話編」3 島産みと神産み

この二神は、大八島(おおやしま)を構成する島々を生み出していった。

最初にお生みになった子は、淡路島である。

淡路国一宮  伊弉諾神宮

つぎに、伊予之二名島(四国)をお生みになった。この島は体が一つで顔が四つあり、それぞれの顔に名があった。そこで、伊予の国をエヒメ(愛比売)といい、讃岐の国をイヒヨリヒコ(飯依比古)といい、阿波の国をオオゲツヒメ(大宜都比売)といい、土佐の国をタケヨリワケ(建依別)という。

つぎに三子の隠岐の島をお生みになった。またの名はアメノオシコロワケ(天之忍許呂別)という。

つぎに筑紫島(九州)をお生みになった。この島も体が一つで顔が四つあり、それぞれの顔に名があった。
そこで筑紫の国をシラヒワケ(白日別)といい、豊国をトヨヒワケ(豊日別)といい、肥の国をタケヒムカヒトヨクジヒネワケ(建日向日豊久士比泥別)といい、熊曾の国をタケヒワケ(建日別)という。

つぎに壱岐の島をお生みになった。またの名はアメヒトツバシラ(天比登都柱)という。
つぎに対馬をお生みになった。またの名はアメノサデヨリヒメ(天之狭手依比売)という。
つぎに佐度の島をお生みになった。
つぎにオオヤマトトヨアキツ(大倭豊秋津島・本州)をお生みになった。またの名はアマツミソラトヨアキヅネワケ(天御虚空豊秋津根)という。
そこでこの八つの島を先にお生みになったので大八島国(おおやしま)という。

その後、帰られるときに吉備の児島をお生みになった。またの名はタケヒカタワケ(建日方別)という。
つぎに小豆島をお生みになった。またの名はオオノデヒメ(大野手比売)という。
つぎに大島をお生みになった。またの名はオオタマルワケ(大多麻流別)という。
つぎに女島をお生みになった。またの名はアメノヒトツネ(天一根)という。
つぎに知訶島をお生みになった。またの名はアメノオシヲ(天之忍男)という。
つぎに両児島をお生みになった。またの名はアメフタヤ(天両屋)という。

イザナキとイザナミは国を生み終えて、さらに多くの神をお生みになった。

そして生んだ神の名はオオコトオシヲ(大事忍男神)、つぎにイハツチビコ(石土毘古神)を生み、つぎにイハスヒメ(石巣比売)を生み、つぎにオオトヒワケ(大戸日別神)を生み、つぎにアメノフキヲ(天之吹男神)を生み、つぎにオオヤビコ(大屋毘古神)を生み、つぎにカザモツワケノオシヲ(風木津別之忍男神)を生み、つぎに海の神、名はオオワタツミ(大綿津見神)を生み、つぎに水戸の神、名はハヤアキツヒコ(速秋津日子神)、つぎに女神のハヤアキツヒメ(速秋津比売神)を生んだ。

このハヤアキツヒコ、ハヤアキツヒメの二柱の神が、それぞれ河と海を分担して生んだ神の名はアワナギ(沫那芸神)、つぎにアワナミ(沫那美神)、つぎにツラナギ(頬那芸神)、つぎにツラナミ(頬那美神)、つぎにアメノミクマリ(天之分水神)、つぎにクニノミクマリ(国之水分神)、つぎにアメノクヒザモチ(天之久比箸母智神)、つぎにクニノクヒザモチ(国之久比箸母智神)である。

つぎに風の神、シナツヒコ(志那都比古神)を生み、つぎに木の神、ククノチ(久久能智神)を生み、つぎに山の神、オオヤマツミ(大山津美神)を生み、つぎに野の神、カヤノヒメ(鹿屋野比売神)を生んだ。またの名はノズチ(野椎神)という。

このオオヤマツミ、ノズチの二柱の神が、それぞれ山と野を分担して生んだ神の名は、アメノサズチ(天之狭土神)、つぎにクニノサズチ(国之狭土神)、つぎにアメノサギリ(天之狭霧神)、つぎにクニノサギリ(国之狭霧神)、つぎにアメノクラト(天之闇戸神)、つぎにクニノクラト(国之闇戸神)、つぎにオオトマトヒコ(大戸或子神)、つぎにオオトマトヒメ(大戸或女神)である。

つぎに生んだ神の名はトリノイハクスフネ(鳥之石楠船神)、またの名は天鳥船という。つぎにオオゲツヒメ(大宜津比売神、または大気津比売神)を生んだ。

つぎにヒノヤギハヤヲ(火之夜芸速男神)を生んだ。またの名は火之炫毘古神(ヒノカガビコ)といい、またの名はヒノカグツチ(火之迦具土神)という。

ところが、この子を生んだことで、イザナミは女陰が焼けて病の床に臥(ふ)してしまった。

このとき嘔吐からカナヤマビコ(金山毘古神)が生まれ、つぎにカナヤマビメ(金山毘売神)が生まれた。
つぎに糞からハニヤスビコ(波邇夜須毘古神)が生まれた。つぎに尿からミツハノメ(弥都能売神)が生まれた。つぎにワクムスヒ(和久産巣日神)。この神の子はトヨウケビメ(豊宇気毘売神)という。

イザナキ、イザナミの二柱の神が共に生んだ島は全部で十四島、神は三十五柱である。
そしてイザナミは火の神を生んだことが原因でついにお亡くなりになった。

そこでイザナキは「いとしいわが妻を、ひとりの子に代えようとは思わなかった」と仰せになって、すぐにイザナミの枕元に臥し、足下に臥して泣き悲しまれた。その涙から成り出た神は、香久山の丘の、木の本におられるナキサワメ(泣沢女神)である。

そして亡くなられたイザナミを出雲国と伯伎国の境にある比婆の山に葬り申し上げた。

そしてイザナキは差していた十拳の剣とつかのつるぎを抜いて、ヒノカグツチの首をお斬りになった。
するとその剣先に付いた血が飛び散ってそこから生まれた神の名はイハサク(石拆神)、つぎにネサク(根拆神)、つぎにイハツツノヲ(石筒之男神)である。

つぎに御剣の本に付いた血が飛び散ってそこからミカハヤヒ(甕速日神)が生まれた。つぎにヒハヤヒ(樋速日神)、つぎにタケミカヅチノヲ(建御雷之男神)、またの名はタケフツ(建布都神)、またの名はトヨフツ(豊布都神)である。

つぎに御剣の柄にたまった血が、指の間から漏れ出たなかからクラオカミ(闇淤加美神)、つぎにクラミツハ(闇御津羽神)が生まれた。

以上の石拆神から闇御津羽神まであわせて八柱の神は御剣によって生まれた神である。

また殺されたカグツチの頭からマサカヤマツミ(正鹿山津美神)が生まれた。
つぎに胸からオドヤマツミ(淤縢山津見神)が生まれた。
つぎに腹からオクヤマツミ(奥山津美神)が生まれた。
つぎに陰部からクラヤマツミ(闇山津美神)が生まれた。
つぎに左の手からシギヤマツミ(志芸山津美神)が生まれた。
つぎに右の手からハヤマツミ(羽山津美神)が生まれた。
つぎに左の足からハラヤマツミ(原山津美神)が生まれた。
つぎに右の足からトヤマツミ(戸山津美神)が生まれた。

そしてイザナキがお斬りになった剣の名はアメノヲハバリ(天之尾羽張)といい、またの名はイツノヲハバリ(伊都之尾羽張)という。

『古事記』 はじめに

日本神話『古事記』

いまさらいうまでもないけれど、『日本書紀』とともに日本最古の歴史書。

しかし、これより以前にも実は歴史書はあった。

 

乙巳の変、壬申の乱などにより、天皇家の歴史書『天皇記』『国記』『帝紀』『旧辞』等が焼失してしまった。

天武天皇の命を受けて、奈良時代の和銅5年(712年)に、稗田阿礼(ひえだのあれ)という『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられた暗記力抜群の28歳の天才青年が語る暗誦を、太安万侶(おおのやすまろ)が編纂し、元明天皇に献上された。国内向けに天皇家の神格化のために使われたと考えられている。日本神話をもとにした。

これより8年あと、舎人親王らが天武天皇の命を受けて、『日本書紀』が養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを書いている。『日本書紀』は、日本の正史として、大和朝廷の権威付けのために作られたと考えられている。文章が漢文で書かれてることから、中国への外交上の目的があったと考えられている。『古事記』とは違い、伝説的な要素はなく事実とされるもののみを集め、異聞も併記している。

そのため、『古事記』は物語が一本で比較的分かりやすい、『日本書紀』は脈絡がなく、時代ごとにあちこちの伝承を集めているため、分かりにくい。

『記』と『紀』の字の違い

『古事記』は「記」なのに、なんで『日本書紀』は「紀」なの。実は私もそこまで考えていなかった。調べてみた。

「記」は、文章を書き「しるす」という意味がある。日記,記録,記事といった熟語からもわかるように、出来事やあったことなどをそのまま書き残しているときに使う字。

「紀」は、すじみちを立てて示したものやルール。紀行・世紀・風紀と言った熟語からもわかるように、流れや規則を表す時に使われる字。

そういう意味では、『古事記』は伝説的な事実ではない神話を含んでいるので記はふさわしくありません。しかし作られた目的が「天皇の神格化」ということを考え、「記」を使ったと考えれています。

ここでことわっておくけど、このころまだ「天皇」という言葉は使われていなかった。「天皇」という呼び名が定まったのは、おそらく天武天皇(大海人皇子)の時代か、后がその後を継いで持統天皇となってからである。ここでは便宜上天皇とする。

さて、いちおう予備知識はこれくらいにして、本章からは現代語でショート風に書いてみた。


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但馬の神社創建年代

『国司文書 但馬故事記』(以下、但記)記載神社を創立年代順に並べてみた。

年代社名所在地祭神
第1代神武天皇御世大歳神社二方美方郡新温泉町居組主祭神 大年神、配祀神 御年神 若年神(但記 大歳神)
伊曽布いそう神社七美美方郡香美町村岡区味取保食神(但記 伊曽布魂命)
小代おじろ神社美方郡香美町小代区秋岡天照皇大神(但記 牛知御魂命・蒼稲魂命)
〃神武天皇3年8月小田井県神社 城崎 兵庫県豊岡市小田井町国作大己貴命くにつくりおおなむちのみこと(但記 上座 国作大己貴命、中座 天照国照彦天火明命、下座 海童神)
〃6年3月御出石みいずし神社出石兵庫県豊岡市出石町桐野日矛ひぼこ神(但記 国作大巳貴命、御出石櫛甕玉命)
 〃9年10月気立けだつ神社(現 気多けた神社)気多兵庫県豊岡市日高町上郷 国作大己貴命
 〃佐久神社兵庫県豊岡市日高町佐田 佐久津彦命(佐々前県主)
 〃御井みい神社兵庫県豊岡市日高町土居主祭神 御井神、配祀神 菅原道真(但記 御井比咩命)
〃15年8月夜父坐神社(養父やぶ神社)兵庫県養父市養父市場主祭神 倉稲魂命 配祀神 大己貴命 少彦名命 谿羽道主命 船帆足尼命

(但記 上座 大巳貴命、中座 蒼稲魂命・少彦名命、下座 丹波道主命・船穂足尼命)

浅間せんげん神社養父兵庫県養父市浅間木花開那姫命(但記 天道姫命)
かづら神社(不明)兵庫県養父市浅間天火明命
御井神社養父市大屋町宮本御井命(但記 御井比咩命)
第4代懿徳いとく天皇佐伎都比古阿流知命さきつひこあるちのみこと神社 養父朝来市和田山町寺内(但記 養父郡坂本花岡山)佐伎都比古命・阿流知命
〃33年6月亀谷宮(久麻神社)城崎兵庫県豊岡市福田味饒田命(小田井県主)
第5代孝昭天皇80年4月与佐伎神社豊岡市下鶴井主祭神 依羅宿禰命、配祀神 保食命(但記 小田井県主 与佐伎命)
第6代孝安天皇67年9月布久比神社豊岡市栃江岩衡別命(但記 小田井県主 布久比命)
第7代孝霊天皇40年9月伊豆志坐神社(出石いずし神社)出石兵庫県豊岡市出石町宮内伊豆志八前大神

天日槍命

〃62年7月耳井神社城崎豊岡市宮井御井神(但記 小田井県主 耳井命)
第8代孝元天皇32年10月諸杉もろすぎ神社〃 内町多遲摩母呂須玖神(但記 天諸杉命、亦の名 多遲摩母呂須玖神、但馬諸助)
 〃56年6月小江おえ神社城崎 兵庫県豊岡市江野豊玉彦命但記 大巳貴命・小田井県主 小江命)
第10代崇神天皇10年9月粟鹿あわが神社朝来朝来市山東町粟鹿日子坐王(但記 彦坐命・息長水依姫命)
赤渕神社朝来市和田山町枚田赤渕足尼命 配祀神 大海龍王神 表来大神(但記 赤渕宿祢命)
鷹貫たかぬき神社気多豊岡市日高町竹貫鷹野姫命(但記 当芸利彦命)
久流比くるい神社城崎豊岡市城崎町来日闇御津羽神(但記 来日足尼命)
〃28年4月美伊神社美含美方郡香美町香住区三川主祭神 美伊毘売命、配祀神 美伊毘彦命(但記 八千矛神、美伊比咩命、美伊県主 武饒穂命)
第11代垂仁天皇11年11月和奈美神社養父養父市八鹿町下網場主祭神 大己貴命、配祀神 天温河板誉命(但記 天湯河板挙命)
第14代仲哀天皇2年須義神社出石兵庫県豊岡市出石町荒木由良度美神(但記 須義芳男命)
気比けい神社城崎豊岡市気比 主祭神 五十狭沙別命、配祀神 神功皇后 仲哀天皇
神功皇后元年5月水谷神社養父養父市奥米地天照皇大神(但記 丹波道主命)
〃8年6月二方ふたかた神社(古社地)二方美方郡新温泉町清富但記 美尼布命
第15代応神天皇元年7月宇留波神社(宇留破神社)養父養父市口米地不詳(但記 養父県主 宇留波命)
第16代仁徳天皇2年3月葦田神社気多豊岡市中郷天麻比止都祢命(但記 天目一箇命)同神
楯縫神社豊岡市鶴岡彦狭知命
井田神社主祭神 倉稲魂命、配祀神 誉田別命 気長足姫命(但記 石凝姥命)
日置神社豊岡市日高町日置天櫛耳命(但記 櫛玉命)
陶谷神社(須谷神社豊岡市日高町藤井句々迺智命(但記 野見宿禰命・武碗根命)
〃6年4月日出神社出石兵庫県豊岡市但東町畑山多遲摩比泥神(但記 日足命)
〃15年4月多他神社七美美方郡香美町小代区忠宮主祭神 素盞鳴尊、配祀神 大田多根子命 埴安命(但記 多他毘古命)
第17代反正天皇2年3月志都美しつみ神社(黒野神社へ合祀)七美板仕野丘(美方郡香美町村岡区村岡)(但記 志津美彦命)
第18代履中天皇海神社(絹巻神社)城崎豊岡市気比字絹巻主祭神 天火明命、配祀神 海部直命 天衣織女命(但記 海部直命。のち上座 海童神、中座 住吉神、下座 海部直命・海部姫命)
第20代安康天皇2年6月志都美神社(黒野神社へ合祀)七美萩山丘(美方郡香美町村岡区村岡)但記 志都美若彦命
第21代雄略天皇2年8月石部いそべ神社出石兵庫県豊岡市出石町下谷奇日方命(但記 石部臣命)
西刀せと神社城崎豊岡市瀬戸西刀宿祢、配祀神 稲背脛命
〃4年9月三野みの神社気多豊岡市日高町野々庄師木津日子命(但記 天湯河板拳命)
神門かんと神社気多豊岡市日高町荒川主祭神 大国主命、配祀神 武夷鳥命 大山咋命(但記 鵜濡渟命)
第22代清寧天皇5年6月桑原神社美含豊岡市竹野町桑野本保食神仁布命(但記 久邇布命)
第25代武烈天皇3年5月多麻良木神社(玉良木たまらぎ神社)気多豊岡市日高町猪爪彦火々出見尊(但記 大荒木命、亦名 玉荒木命、建荒木命)
〃7年5月桃嶋神社(桃島神社)城崎豊岡市城崎町桃島主祭神 大加牟豆美命、配祀神 桃島宿祢命 雨槻天物部命(但記 桃嶋宿祢命・両槻天物部命)
第26代継体天皇11年3月桐野神社出石豊岡市出石町桐野倉稲魂命(但記 鴨県主命)
第29代欽明天皇25年10月物部神社(韓國神社)城崎豊岡市城崎町飯谷物部韓国連命
〃33年3月佐受さうけ神社美含美方郡香美町香住区米地主祭神 佐受主命、配祀神 佐受姫命(但記 佐自努命)
第30代敏達天皇3年7月高阪神社(高坂神社)七美美方郡香美町村岡区高坂高皇産霊尊(但記 彦狭島命)
〃14年5月名草神社養父養父市八鹿町石原主祭神 名草彦命、配祀神 日本武尊 天御中主神 御祖神 高皇産靈神 比売神 神皇産霊神
第31代用明天皇2年4月朝来石部神社(石部いそべ神社)朝来朝来市山東町滝田大己貴命(但記 櫛日方命)
第33代推古天皇15年10月大与比神社養父養父市三宅主祭神 葺不合尊、配祀神 彦火々出見尊 玉依姫命 木花開耶姫命(但記 大与比命)
〃34年10月中嶋神社出石兵庫県豊岡市三宅田道間守命
第34代舒明天皇3年8月山ノ神社(山神社)豊岡市日高町山宮主祭神 句々廼馳命、配祀神 大山祇神 埴山姫神 倉稲魂命 保食神 奥津彦神 奥津姫神 櫛稲田姫神 品陀和気命 速素盞鳴命(但記 五十日帯彦命)
第36代孝徳天皇大化3年3月兵主ひょうず神社朝来朝来市山東町柿坪大己貴神(但記 素盞嗚命・天砺目命)
佐嚢さの神社朝来市佐嚢須佐之男命(但記 道臣命・大伴宿祢)
伊由神社朝来市伊由市場少彦名命(但記 伊由富彦命、亦名 伊福部宿祢命)
足鹿あしか神社朝来市八代道中貴命(但記 伊香色男命)
〃7月黒野神社七美美方郡香美町村岡区村岡主祭神 天御中主命、配祀神 天津彦々瓊々杵尊 志津美下大神(但記 天帯彦国押人命)
大家神社二方美方郡新温泉町二日市大己貴命(但記 彦真倭命)
第40代天武天皇白鳳2年8月椋橋むくばし神社七美美方郡香美町香住区小原伊香色手命(但記 伊香色男命)
〃白鳳3年3月深坂神社城崎 兵庫県豊岡市三坂武身主命(またの名、水先主命・建日方命)
〃白鳳3年5月酒垂さかだれ神社兵庫県豊岡市法花寺酒解子神・大解子神・小解子神
   〃御贄みにえ神社(御食津神社)兵庫県豊岡市三江豊受姫命(但記 保食神)
 〃白鳳3年6月久々比神社城崎 兵庫県豊岡市下宮久々比命(城崎郡司)
重浪しぎなみ神社豊岡市畑上物部韓国連神津主命(但記 城崎郡司 物部韓国連神津主)
佐野神社 兵庫県豊岡市佐野狭野命(小田井県主)
女代めじろ神社 〃豊岡市九日市上町主祭神 天御中主神、配祀神 神産巣日神 高皇産霊神(但記 大売布命)
穴目杵あなめき神社豊岡市大篠岡船帆足尼命(但記 黄沼前県主 穴目杵命)
〃7月刀我石部とがいそべ神社(石部神社)朝来朝来市和田山町宮主祭神 姫蹈咩五十鈴姫命、配祀神 天日方奇日方命 五十鈴姫命(但記 誉屋別命)
〃白鳳12年4月兵主神社城崎豊岡市赤石速須佐之男命
大生部大兵主おおいくべだいひょうず神社(大生部兵主神社)出石豊岡市但東町薬王寺主祭神 武速素盞鳴命、配祀神 武雷命(但記 素盞鳴命、武雷命、斎主命、甘美真手命、天忍日命)
〃10月屋岡神社養父養父市八鹿町八鹿主祭神 天照大日留女命、配祀神 誉田別命(但記 武内宿禰命)
保奈麻神社(春日神社?)養父市八鹿町大江主祭神 彦火瓊々杵命、配祀神 天津児屋根命(但記 紀臣命)
〃白鳳14年8月[木蜀]椒はじかみ神社気多豊岡市竹野町椒咩椒大神(但記 大山守命)
〃9月鷹野神社美含豊岡市竹野町竹野主祭神 武甕槌命、配祀神 天穂日命 天満大自在天神 須佐之男命 建御雷命 伊波比主命 五男三女神(但記 当芸志毘古命・竹野別命)
第41代持統天皇3年7月久刀寸兵主くとすひょうず神社気多豊岡市日高町久斗大国主尊 配祀神 素盞鳴尊(但記 素盞鳴尊
高負たこう神社豊岡市日高町夏栗白山比売命 配祀神 菊々理比売命(但記 大毅矢集連高負命)
ノ神社(戸神社)豊岡市日高町十戸主祭神 大戸比売命 配祀神 奥津彦命 品陀和気命 火結命(但記 田道公)
売布めふ神社豊岡市日高町国分寺大売布命
〃8月桐原神社養父朝来市和田山町室尾主祭神 応神天皇、配祀神 経津主命(但記 経津主命)
更杵さらきね村大兵主神社(更杵神社)朝来市和田山町寺内但記 武速素盞嗚神 武甕槌神 経津主神
第42代文武天皇庚子4年3月伊智神社気多豊岡市日高町府市場神大市姫命(但記 大使主命 商長首宗麿命)
〃10月手谷神社出石豊岡市但東町河本主祭神 埴安神、配祀神 倉稲魂命 大彦命(但記 大彦命)
〃大宝元年9月春木神社(春来神社)七美美方郡新温泉町春来主祭神 天照皇大神、配祀神 少彦名神 伊弉諾命 大己貴神 伊弉冊命(但記 大山守命)
〃慶雲3年7月伊伎佐神社美方郡香美町香住区余部伊弉諾尊(但記 彦坐命 五十狭沙別命 出雲色男命)
いかづち神社気多豊岡市佐野主祭神 大雷神、配祀神 須佐之男命 菅原道真(但記 火雷神、亦名 別雷神)
〃慶雲4年6月法庭のりば神社七美美方郡香美町香住区下浜武甕槌命(但記 大新川命)
第43代元明天皇和銅5年7月倭文しどり・しずり神社朝来市生野町円山天羽槌命(但記 天羽槌雄命)
第44代元正天皇養老3年10月伊久刀神社養父豊岡市日高町赤崎主祭神 瀬織津姫神、配祀神 大直毘神(但記 雷大臣命)
兵主神社豊岡市日高町浅倉大己貴命(但記 
〃養老7年3月盈岡みつおか神社養父朝来市和田山町宮内主祭神 誉田別命、配祀神 息長足姫命 武内宿禰(但記 波多八代宿祢命)
第45代聖武天皇天平2年3月夜伎坐山神社(山神神社)養父市八鹿町八木主祭神 伊弉冊尊、配祀神 忍穂耳尊 瓊々杵之尊 速玉男命 事解男命(但記 五十日足彦命)
杜内もりうち神社養父市森杜内大明神(但記 大確命)
井上神社養父市吉井主祭神 素盞鳴命、配祀神 稲田姫命(但記 麻弖臣命・吉井宿祢命)
〃天平18年12月兵主神社城崎豊岡市山本主祭神 速須佐男命、配祀神 高於加美神(但記 素盞嗚神 武甕槌神)(赤石から遷す)
〃天平19年4月小坂神社出石豊岡市出石町三木

豊岡市出石町森井

小坂神(但記 天火明命)
〃天平59年3月須流神社出石豊岡市但東町赤花主祭神 伊弉諾命、配祀神 伊弉冊尊(但記 慎近王)
第46代孝謙天皇天平勝宝元年6月大炊山代神社(思往おもいやり神社)気多豊岡市日高町中思兼命(但記 天砺目命)
坂蓋神社(坂益さかます神社)養父市大屋町上山正勝山祇命(但記 大彦命)
〃天平宝字2年3月色来いろく神社美含豊岡市竹野町林国狹槌命(但記 大入杵命 亦名 大色来命)
第47代淳仁天皇天平宝字5年8月男坂おさか神社養父養父市大屋町宮垣男坂大神(但記 天火明命)
第49代柏原天皇延暦3年6月比遅ひじ神社出石豊岡市但東町口藤多遲摩比泥神(但記 味散君)
佐々伎神社豊岡市但東町佐々木少彦名命(但記 佐々貴山公)
第52代淳和天皇天長5年4月等餘とよ神社(等余神社)七美美方郡香美町村岡区市原主祭神 豊玉姫命、配祀神 天太玉命 月讀命(但記 等餘日命)
第53代深草天皇承和12年8月小野神社出石豊岡市出石町口小野天押帯日手命(但記 天帯彦国押人命)同神
〃承和16年8月安牟加あむか神社出石豊岡市但東町虫生天穂日神(但記 物部大連十千根命)
第55代文徳天皇仁寿2年7月阿古谷あこや神社(森神社)美含豊岡市竹野町轟主祭神 大山祇命 配祀神 八幡大神(但記 彦湯支命)
第56代陽成天皇3年4月丹生にゅう神社美方郡香美町香住区浦上主祭神 丹生津彦命、配祀神 丹生津姫命 吉備津彦命(但記 建額明命 吉備津彦命 高野姫命)
   

但馬西部の神社と歴史を調べ中

但馬たじまの大川である円山まるやま川流域にある朝来市・養父市・豊岡市に比べて、但馬の西部は、郷土に半世紀生きてきて、知らないことがまだまだ多い。円山川流域以外の地域は、それぞれの川と地形による個々のはじまりと文化がある。なかでも新温泉町と美方郡香美町村岡区・小代区(養父市の鉢伏高原もかつては七美郡)は、山陰と山陽を分ける中国山地の東端にあたる。

現在の新温泉町は、市町村合併で海岸部の浜坂町と山間部の温泉町が合併し新温泉町となった。それは、かつて縄文時代よりももっともっと何万年も前に、朝鮮半島やシナ大陸と比べてももっと古い時代から人は暮らしていたことが分かり始めている。もっと温暖だった。

やがて、日本列島にクニが誕生する過程で、二方国として、但馬国に加えられるまで独立した国だったエリアであり、のち但馬国二方郡となる。とくに冬は豪雪に見舞われる山間地域の旧温泉町と、旧浜坂町の海岸部は日本海のリアス式海岸による漁村で、狭い平地を峠道が結ぶ。東隣の香美町村岡区とともに、雪に閉ざされ、冬は灘や全国に出稼ぎとして酒造りに従事する但馬杜氏のメッカで、年々高齢化や酒造業界の変化により減少しているが、その人数は全国四大杜氏といわれるほど多い。また神戸牛、松阪牛などの高級和牛の素牛、但馬牛の産地である。つまり但馬が誇る二大産業を中心的に担ってきたのが但馬西部の山間地なのである。

さて、クニが誕生し、しばらくの間、因幡・但馬とは別になぜ小さな二方国が存在したのだろうか。ここが知りたいから新温泉町に惹かれるのだ。

二方国(のち二方郡、今の新温泉町)は、但馬の他の旧7郡とは異なる成り立ちの歴史を持っている。全国を統一し地方行政区分にした律令国が誕生したのは、奈良時代の大化の改新(645)または本格的には大宝律令(701)とされているが、日本の古代には、令制国が成立する前に、土着の豪族である国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)が並立した段階があった。

『国司文書・但馬故事記』には、「人皇1代神武天皇5年8月(推定BC656) 若山咋命の子、穂須田大彦名を以て、布多県国造(のち二方と改める)と為す」とあり、奈良時代より1200年遡る弥生時代には二方国をはじめ但馬には国や県が成立していた。そして村に神社が祀られていたのである。ではなぜ、このエリアだけが因幡と但馬ではなく、小さいのに二方国として独立していたのか。それは、人々の往来を阻む幾つもの山々に囲まれていることがその要因であることは、誰もが頷けることである。

主要国道の国道9号線は、京都市堀川五条で国道1号線から分岐し、山口県下関市までを結ぶ旧山陰道であるが、兵庫県の区間は70.1 kmと最も短いのに最大の交通の難所であったことは、明治に旧山陰道である山陰本線敷設で最後までこの区間が残っていたことでわかる。兵庫県養父市から鳥取県との県境の新温泉町までは、最長の蒲生トンネル・春来トンネル・但馬トンネルなどいくつもの長いトンネルで結ばれている。

国道を通過していると気づかないのが、神社(村社)を捜すと分るのである。国道から谷やかなり高地に入ると、地元に住んでいてもまったく未踏の高地にたくさんの集落があり、田が広がる世界が目に飛び込んでくることに驚くのである。そこはまたかつての旧山陰道であったものもある。車でもくねくねと細い山道で時間が掛かるのに、昔の人々はもちろん獣道のような山谷を歩いて、山林を切り開き、道を作り、田畑を開いて定住していったことに只々敬意を抱くのである。開拓者(パイオニア)といえばアメリカ大陸を想像するかも知れないが、我々のルーツである人々は、但馬の山間部を並々ならぬ苦労をして切り開き、新天地を夢見た偉大なる開拓者だったのだ。

よくそうした集落は平家の落人集落だといい、香美町余部の御崎や竹野町など、丹後半島にも平家の落人伝承が残る。中にはそういた歴史もあったかもしれないが、しかし、例えば但馬の高地や山間集落において、御崎でも平家の落人による以前から切り開かれていたことは、『国司文書・但馬故事記』の年代を見れば崇神天皇10年(推定BC91)に伊岐佐山(香美町香住区余部の伊岐佐神社)が記されており明らかだ。

新温泉町の神社の特徴

数年前に式内社と兵主神社を主に巡ったが、二方郡は式内社が但馬の他の旧7郡と比較して極端に少ない。
気多21、朝来9、養父30、出石23、城崎21、美含12、七美10、二方5(祭神の座数による)『国司文書別記 但馬郷名記抄 解説 吾郷清彦』
式内社では最下位であるが、ところが式外社では52社、式内社との合計57社と、旧8郡の中で最も多く、神社総数では第三位に上っている。これは国府のある気多郡(今の豊岡市日高町)から遠隔であったためと思われる。吾郷氏は「かつて二方郡が但馬国府より僻遠の地に在り、朝廷に対しあまり功献を示さなかったという事由によるものであろうか。これに対し式外社が圧倒的に多い。したがって郡としては、それだけ神社分布の密度が高いわけである」としている。
お隣の旧七美郡は、式内社8、式外社11(合計19)、美含郡式内社10、式外社30(合計40)であり、つまり、新温泉町(二方郡)の合計57社は、但馬で最も神社の数が多い。神社信仰の深い土地柄だったといえるのである。それは二方国の祖が他の7郡が丹後(当時は但馬・丹後も丹波に含まれた)の天火明命にはじまるのに対し、出雲国の素盞鳴尊が開いたとあることからはじまることからも、出雲国国家連合というべき出雲系の最東端のクニであったのだ。

私が神社を巡る目的は、神社そのもの以外の目的があるからである。その神社の由来を調べることで、その地域の歴史を調べたいからである。神社の外見や建築、鳥居、狛犬、拝殿・本殿など今の様式が造られるようになったのは、そもそもそこにある神社のルーツから言えばだいぶ後のことで、今の神社建築は、せいぜい寺社建築が発達した鎌倉期以降の神社の姿なのである。それとして研究するとして、その神社は何のために建てられたのかは、まったく別の意義があり、本題なのだ。神体山や磐など自然神や祖神・国主・郡主などの古墳のそばに祀られた神どころなのであり、各集落の起こりが見えてくるランドマークが神社なのだ。長い但馬トンネル・春来トンネルや人が定住し村が生まれてそこに氏神が祀られる。100年、1000年で物事を見ては間違う。数千年から何万年前の縄文・弥生時代というと、原始的なイメージを持ってしまうが、クニや村が生まれ、神社の原型である神籬、神場は、すでに村に祀られていたのであり、約2600年もの間、何も変わらず現在も守られてきたことが、日本の歴史を語り継いでいるランドマークなのだ。

新温泉町の『国司文書・但馬故事記』記載の神社

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韓國神社と城崎郡司・物部韓国連

但馬には式内社が『延喜式』神名帳では、大社18座10社(いずれも名神大社)・小社113座106社の計131座116社を記載と5番目と大変多い。都の置かれた大和286座や神道のメッカ伊勢253座、出雲187座、都が置かれ交通の重要拠点である近江155座はわかるが、その次に丹波71、丹後65に比べてみても但馬が多いのは不思議であり異様である。

結論から先に言えば、都(大和)から朝鮮半島へ通じる最短地点であったからだと考えている。式内社や重要な神社は、歴史(郷土史)のランドマークだと益々感じる。よく地元の方々のご尽力により残ってきたと思う。

朝鮮渡来人を祀った神社ではなく、韓国を警戒した職務を任ぜられ結論を先に述べれば、韓国神社は『国司文書 但馬但馬神社系譜伝』には物部神社とあり、城崎郡司物部韓国連からくにのむらじ(真鳥)

半島と関わりのありそうな名前の神社が、豊岡市飯谷はんだにの韓國神社にある。「からくにじんじゃ」と読むが、元々は延喜式に式内物部神社だが、俗に韓国神社ともいう。神社の社号標(社標ともいい神社の社号を刻んだ石柱)も韓国神社となっている。由緒を知らないでこの社号を見れば、韓国神社だから、韓国や朝鮮渡来人を祀る神社だと思う人もいるだろう。私もかつてはそう思っていたのである。

なぜそう考える人が但馬内にも多い理由にまず挙げられるのが初代多遅麻国造となった天日槍(あめのひぼこ)の関係性であろう。新羅の王子・天日槍とともに、旧出石郡の安良やすら、旧気多郡賀陽郷の豊岡市加陽かやなどの地名(区)があり、加陽には大師山古墳群がある。竪穴系横口式石室という特殊な石室の群は日本の石室には見られず、朝鮮半島南部の伽耶などとよばれていた地方にみられ、 半島にあったクニと似た伽耶かや安羅あらなどに似た但馬には朝鮮渡来人が住み着いたり、関わりが深いのだと考えられている。

日本海を挟み日本海側と朝鮮半島や渤海といわれた今のロシア東南端などが交流があったのは確かだ。しかし、縄文から弥生にかけて、まだ日本や大陸沿岸部も統一した国家だったわけではないので、今日の国家の概念で同一視するのはよくない。縄文時代から海流民族でもあった縄文人はモンゴロイド系の一グループで、自由に海流を利用して、太平洋の島々、オーストラリア、ニュージーランド、また日本列島や北方諸島、遠くはアラスカからアメリカ大陸に住み着いていった。そのなかに魏志で倭人といわれた人たちは、九州北部や半島南部に文化圏を形成していた。天日槍については記紀には、新羅の王子で帰化したとあり、その他の貴重な史料は『但馬故事記』だ。

「天日槍は稲飯命の五世孫なり。小舟に乗り、漂流し新羅に上り、国王となった」と書かれていること、つまり天日槍は天皇家であり倭人であり、もともと倭国成立当時には半島南部にクニはまだなく、倭人が任那から新羅という集合国家成立に関わっていたことはすでに別記したので、そちらを参照いただき、この韓国神社の謎についてもいろいろ調べてきた結果を記したいと思う。

結論を先に述べれば、韓国神社は『国司文書 但馬但馬神社系譜伝』には物部神社とあり、城崎郡司物部韓国連からくにのむらじ(真鳥)を、その子・次の城崎郡司・榛麿が墾谷村(今の豊岡市飯谷)に祀った神社である。人皇30代欽明天皇25年、気多・城崎県主、大売布命の末裔、物部多遅麻連真鳥が武烈天皇の勅により韓国(半島南部)に遣わされ、平定した功により、物部韓国連からくにのむらじを賜ったことによる。

城崎郡司・榛麿は飯谷(古名は墾谷、針谷、榛谷)を住処とし、父物部韓国連名を祀り、物部神社とした(韓国神社とも)。連(むらじ)はヤマト王権で使われていた姓(かばね)の一つで、家臣の中では最高位に位置していた姓の一つである。

榛麿以降、しばらく世襲で城崎郡司となった。榛麿の子が神津主(畑上の重浪神社)。その子が久々比(鵠)(久々比神社)。同じく榛麿の子で多遅麻の校尉に格麿がいる。その子が三原麿で城崎郡の大領(城崎郡の軍団大将)を務めた。(鏡神社・豊岡市三原)

神津主の弟、格麿は大石宿祢を賜り、以後大石とする。物部韓国連三原麿は大石宿祢と称し、その子大石宿祢正躬まさみは城崎郡司。(大磯神社)

【城崎郡司系譜】

1代          2代 3代 4代
大売布命…物部韓国連からくにのむらじ(真鳥命)ー榛麿-神津主-久々比

物部韓国連の足跡

大売布命(前102-176)
  • 景行天皇三十二年、摂津の川奈辺(川辺郡*1)・気多・黄沼前きぬさきの三県を賜う
  • 味饒田命うましにぎたのみことの弟 彦湯支命の五世孫伊香色男命の子
  • 多遅麻物部氏の祖
物部多遅麻連公武
  • 大売布の子
  • 神功皇后二年、多遅麻国造
  • 府を気立県高田邑に置く
  • 四十五年、新羅朝貢せず。将軍荒田別命・鹿我別命は往きてこれを破る。
物部多遅麻毘古
  • 公武の子
  • 仁徳天皇元年、多遅麻国造
  • 府を日置郷に遷す
物部連多遅麻公(-499)

多遅麻毘古の子

反正天皇三年、多遅麻国造

城崎郡

物部韓国連命(真鳥)

物部韓国連榛麿(564-)
欽明天皇25年 城崎郡司となす。
大売布命の末裔・物部韓国連命の子・城崎郡司
針谷を開き住処となす(今の飯谷)父物部韓国連命を榛谷に祀り、物部神社と云う(また韓国神社とも云う)
式内 物部韓国神社 祭神:物部韓国連命(物部韓国連の祖) 神人みわひと 物部韓国連穀麿かじまろ 豊岡市飯谷250-1

神津主命

推古天皇35年(617) 城崎郡司となす。
榛麿の子
物部韓国連榛麿を榛谷丘に葬る。

久々比命

天武天皇白凰3年 城崎郡司となす。
神津主の子
神津主命を敷浪丘に葬る。
式内 重浪神社 祭神:物部韓国連神津主命 神人 物部韓国連正世 豊岡市畑上843

文武天皇大宝元年 物部韓国連久々比卒す。
三江村に葬り、その霊を三江村に祀り、久々比神社と称しまつる。(久々比は鵠の和名)

式内 久々比神社 祭神:久々遅命(久々比命の別命) 豊岡市下宮318-2
※鵠とは「くぐい」と読み、ハクチョウの古称。

格麿

校尉物部韓国連格麿 奉行

聖武天皇は、金銅の盧舎那仏を鋳造せんがため、金工・泥工(左官)・石工を諸国に募り、かつ大力の者を集め、その工事を助けしめ給う。(東大寺大仏)当国の校尉物部韓国連格麿もまた募に応じ、皇都に上り、而してよく大石を運び、工速やかに成る。天皇これを喜び、天平17年、姓大石宿祢を給う。

榛麿の子

三原麿

城崎郡大領 正八位下 格麿の子

孝謙天皇勝宝元年、物部韓国連三原麿は、姓を大石宿祢と称す。

大石宿祢正躬まさみ

城崎郡司。三原麿を葬り、祠をその傍らに建てこれを祀り、これを三原神社と申し祀る。

豊岡市三原 今の鏡神社

また主帳に命じ、神社の格例を定め、式典を挙げ、左社を以て式典の例に入る。

大石宿祢正名

(大石宿祢正躬が主帳に命じた神社の格例の神社に、神人みわひとに大石宿祢正名という名があり、兵主神社(赤石)・久々比神社・三原神社・清明森神社の神人を兼務している。正躬と同時に神人に任じられて、特に役職の記載がないので、神官職が主だったのかも知れない。)


*1 摂津国川辺郡  今の川西市の全域・伊丹市・尼崎市・宝塚市の大部分(武庫川以北)・三田市と大阪府豊能町の一部

式内売布神社 宝塚市売布山手町1-1 今の祭神は下照姫神
式内 〃   豊岡市日高町国分寺797 大売布命
式内 女代神社 豊岡市九日市上町460-1 今の祭神は天御中主神 神産巣日神 高皇産霊神
『但馬故事記』 祭神 大売布命(亦名大売代命 物部連の祖、気多・黄沼前県主)

天日槍と糸井の阿流知命神社は無関係


式内糸井神社(奈良県磯城郡川西町結崎)

糸井造と池田古墳長持型石棺の主 (宿南保氏『但馬史研究』第31号 平成20年3月)での内容である。

歴史は史実の新発見において語るべきもの

さて、宿南保先生は、但馬史研究の第一人者で尊敬していることを、まず最初に述べておきたい。

本稿の「【考察】糸井造と池田古墳長持型石棺の主」で宿南氏は、

まず、糸井という地名についての疑問点である。糸井とは、一般的に(奈良県磯城郡川西町の)結崎やその付近一円を総称した郷名と解釈されることが多い。しかし、10世紀後半の『和名抄』の城下しきのしも郡の郷名には見当たらない。平安時代の延久二年(1070)の「雑役免帳」には「糸井南庄」と「糸井北庄」という二つの荘園があるが、現在の地名に当てはめると、田原本町の東部付近になってしまい、現在の結崎付近とはかなり離れた場所となる。したがって糸井庄にあった糸井神社とはいえないのである。つまり現時点では、「糸井」という地域名が古代から今の結崎付近を指すとする直接的な史料が見つからない。

次に現在の糸井神社そのものについての問題点である。まず現在の糸井神社はいつごろからそう呼ばれていたかである。今の神社は中世には「結崎明神」や「結崎宮」と呼ばれ、今も境内に残る石灯籠にも「大和結崎大明神」と刻まれている。江戸時代には春日大社の古い社殿を移建したことに依るのか、「春日大社」とも称されていたようである。

(中略)

糸井神社社務所が出しているパンフレットでも「ご祭神については豊鋤入姫命と言われるが、また一説には、綾羽呉羽の機織りの神を祀ったとも言われている」と微妙な表現をしている。糸井神社という名称に確定されたと思われる明治初期の「神社明細取調帳」(明治13年)には、まず「祭神不詳」とあり、但し書きに「地元の昔からの言い伝えでは豊鋤入姫命としているが、「天日槍命」とする考証もあるとしている。

(中略)

『川西町史』が渡来人として特に注目する天日槍は、渡来後、出石に定着した人として知られているから但馬には日槍にまつわる式内社は多い。『出石町史』第1巻には「天日槍にまつわる式内社」では、その数14社、うち出石郡9社、気多郡に3社、城崎郡2社である。このほか養父郡糸井村にも確実な1社があるから15社となる。*1

(中略)

但馬には兵主神社が7社もあるといわれているが、その中で「大」が冠せられているのは更杵村兵主神だけである。*2

(中略)

式内社で寺内区に鎮座する神社は延喜式に佐伎都比古阿流知命神社と更杵村大兵主神社二座と記されている*3。この神社の祭神がヤマトへ渡って糸井造になった人と関係があるように解するのは、『校補但馬考』著者の桜井勉氏である。「日槍命の子孫、糸井と姓とせしもの漸次繁殖し、その大和に移りしものは、大和城下郡に糸井神社を建立し、但馬に留まりしものは、本郡(養父郡)にありて本社(佐伎都比古阿流知命神社)を建立し、外家の祖先を祭りしものならんか」実のところよくわからないというのが本音といってよかろう。ただし日槍伝承をもつ集団の子孫たちが大和と但馬に分かれ、大和へ渡った者たちが寺内に佐伎都比古阿流知命神社を建立したとは考えられるところである。

 

宿南氏は本稿で、『出石町史』の「天日槍にまつわる式内社」で、「養父郡糸井村にも確実な1社がある」と『出石町史』の「天日槍にまつわる式内社」をそのまま引用されているが、『川西町史』では「糸井庄にあった糸井神社とはいえないのである。」としている。

そもそもの天日槍=糸井郷と関わりがあるいうきっかけはどうして生まれたのか?

桜井勉氏は、『校補但馬考』で、「日槍命の子孫、糸井と姓とせしもの漸次繁殖し、その大和に移りしものは、大和城下郡に糸井神社を建立し、但馬に留まりしものは、本郡(養父郡)にありて本社(佐伎都比古阿流知命神社)を建立し、外家の祖先を祭りしものならんか」についてである。

宿南氏も実のところよくわからないとされているが、桜井勉氏はどうやら天日槍の妻となった阿加流比売命(アカルヒメ)と佐伎都比古阿流知命神社の阿流知命を混同しているようである。

『国司文書 但馬故事記』をまったく否定する同氏にとって、日槍よりずっと後世に佐伎都比古とその子阿流知命が養父郡司であったことなど無視していたのか、阿流知命=阿加流比売命であるとする桜井氏のまったくの思い違いと時代の読み違いを知るのである。

桜井勉氏『校補但馬考』は、但馬の歴史を記そうとした貴重な書である。まだ誰も考古学や日本史・郷土史などに脚光を浴びなかった時代に誰もなし得なかった先見の労作である。しかし、近年新しい歴史的発見や検証によって、新たな事実がわかってきた。それをすべてそのまままだ正しいと信じ込み、ヒボコは新羅(朝鮮人)で但馬はそこに影響しているとした固定観念を改めなければ、真実を見落とすことになる。それは否定ではなく、桜井勉氏も新しいことを付け加えることを喜んでくれるだろうと考えるのだ。

ヒボコと糸井神社の関連性

あくまでも拙者の考察によるものだが、結論から先に言うと、ヒボコと奈良の糸井神社は結びつかないと思う。彼らはこの地の但馬という地名に、ヒボコと神社と養父郡糸井郷を強引に結びつけようとしているのだ。ヤマト建国に但馬の人々もこの地の集積されたのは、地名の通りかも知れないが、ヒボコはもっと古い時代だ。

言うまでもなく『市町村史』の多くは、地元郷土史家の並々ならぬ研究成果も参考に編纂されていて、元々歴史学者でもない桜井勉氏の『校補但馬考』も、引退後に郷土史家として著したもので、大いに参考になる労作ではあるが、記述の中には誤りや、編者の歴史的事実に基づかない憶測や、その後の発掘や史料等、歴史的事実の発見によって正しくはないものも含まれている。また、その桜井勉氏『校補但馬考』は、「但馬故事記」等を偽書と決めつけたり、その努力は敬意を評しながらも、元々から想像や憶測で編纂された郷土史同士を重ねて引用していくと嘘が本当のことのようにおかしな方向へ向かうとんでもないことが日本史や歴史学会ではまかり通ってしまうのだ。史実に乏しい時代にはやむを得ないことも考慮しつつ、誤った記述もあるのである。

当時の私は、まだ式内社について現地調査もままならない時期であり、同投稿文を読んで、朝来市和田山町糸井と大和(奈良県川西町)に残る糸井神社や三宅町にある上但馬・但馬の地名、三宅と豊岡市三宅に、天日槍氏集団の全体像を描き出す考察を読んで、天日槍と糸井は関係があるらしいと関心を抱いていた。

朝来市和田山町糸井(郷)は元は養父郡だったが、その養父郡でも端に当たる糸井地区に、佐伎都比古阿流知命神社(寺内)と更杵村大兵主神社、桐原神社と狭いエリアに3つも式内社があるのが不思議なこと、佐伎都比古阿流知神社を天日槍の裔とゆかりのある神社だといわれている。


佐伎都比古阿流知命神社

6年前の2009年に糸井地区の佐伎都比古阿流知神社(寺内)と更杵村大兵主神社、桐原神社等を回ってみた。2013年には奈良の糸井神社や奈良県磯城郡三宅町但馬に行ってみた。中学の頃から地理や地図好きだったので、なぜ奈良に普通は読めない国名である但馬という地名があるのかがずっと不思議に思っていた記憶の中にあってその頃から行ってみたかった所である。それから半世紀近くも過ぎた。田島や田嶋なら分かるけど、国名である但馬というのは普通は読めない。田原本町・三宅町・川西町周辺は大和盆地の平野部に田園が広がり、三宅町の中に但馬・三河・石見集落が点在する。この周辺はそうした国々特有の土器が持ち込まれていたことが発掘調査で分かっている。これは平城京建設後、氾濫が多い大和川支流域の治水・田園開発に諸国から労役して駆り出され住み着いたという、もっと現実的に残っている記録である。

延喜式式内社で糸井郷に鎮座していた社は、更杵村大兵主神社と桐原神社、楯縫神社3社である。

このような解釈が、数少ない但馬の資料として桜井勉『校補但馬考』に記されているから史実だと思い込んだ但馬が新羅の王子天日槍ら半島渡来人が文化をもたらしたものだという誤解を多くの人々はもちろん、歴史学者においても与えていることを最後に付け加えておきたい。桜井勉は当時として調べたことを記しているが、彼は但馬を兵庫県に組み入れるように進言したり、天気予報創設など偉大な方ではあるが、歴史では専門家ではない。多くの思い込みや私見が入り込んでいるのだ。

但馬が記紀にある新羅の王子天日槍から、大陸や朝鮮半島とのつながりの中で文化的な影響を受けたのは事実であるが、天日槍だけをピンポイントに捕まえて但馬=朝鮮渡来人の文化=大和朝廷という狭い歴史感はもう止めなければならない。その半島南部にあった伽耶なども、同じ倭国人が築いていったクニであって、『但馬故事記』などによると、半島の国家も倭国であり天日槍は皇族の子孫である。新羅が建国されたのは356年で天日槍よりずっと以後である。

『但馬故事記』(第五巻・出石郡故事記)には天日槍についてこう記されている。

人皇6代孝安天皇53年、新羅王子天日槍帰化す。

天日槍は鵜草葺不合命の御子。稲飯命五世の孫なり。(中略)海路より紀の国に出でんとし、強く激しい風に逢い給う。稲飯命と豊御食沼命とは小舟に乗り、漂流し給い、稲飯命は新羅に上り、国王となり、その国にとどまり給う。

つまり「天の」とある通り、天皇ゆかりの一族であるので、新羅王子=新羅人ではない。朝鮮半島南部を稲作や開拓したのは、九州北部と同じ倭人であって、その後新羅が半島を統一するに及び百済や伽耶は滅亡した残る倭人もいれば、多くは引き上げざるを得なくなったのではないだろうかと思う。半島南部にある前方後円墳や土器類は、縄文弥生式土器で日本列島と同じものである。

[筆者註]

*1 後世に祭神を天日槍の末裔やゆかりの神にかえられたことで、祭神変更は村々の諸事情によるものであり、それ自体は問題ではない。しかし、歴史は事実を探ることである。

まず天日槍系の神社が出石郡9社であるが、出石神社(天日槍)、諸杉神社(日槍の子)、須義神社、中嶋神社、日出神社の5社であり、あとの4社には、比遅神社、多遲摩比泥神、御出石神社とあと1社は不明だが、気多郡に3社、城崎郡2社についても祭神を後世に天日槍の末裔や関係者に変更したものだ。「養父郡糸井村にも確実な1社がある」は*3を参照のこと。

*2 大兵主は他に出石郡 大生部大兵主神社がある。ともに陣法博士・大生部了等が兵庫の側に勧請したもので、糸井だけが特別な兵主神社とはいえない。

*3 「寺内区に鎮座する神社は延喜式に佐伎都比古阿流知命神社と更杵村大兵主神社二座と記されている」とあるが、佐伎都比古阿流知命神社は『但馬故事記』『但馬神社系譜伝』では、養父郡坂本花岡山鎮座。なぜその後糸井に遷座されたか、または勧請されたかは不明である。佐伎都比古命とその子阿流知命は、ともに屋岡県主(養父郡司の前進)である。佐伎都比古命(彦命)は、佐々前県主佐伎津彦命の子。天日槍とはまったく無関係であるが、阿流知命を『古事記』で天日槍の妻となった阿加流比売と混同したのだろう。阿加流比売がいなくなり、多遅摩之俣尾の娘前津耳さきつみを娶ったとあることから、阿流知命を阿加流比売、前津耳神社・前津彦神社と呼ばれていたこともあったようだ。

小田井県神社と酒垂神社の関係

小田井県と小田井懸神社

小田井県神社の県は旧字で「懸」とは、古代の時代において施行されていた地方行政の制度で、701年(大宝元)に制定された大宝律令で国・郡・里の三段階の行政組織に編成される前は、国・県ムラであった。

『国司文書 但馬故事記』(第四巻・城崎郡故事記)は、「天火明命はこれより西して谿間タヂマに来たり、清明スアカリ宮に駐まり、豊岡原に降り、御田オダを開き、垂樋天物部命たるいのあめのもののべのみことをして、真名井を掘り、御田にがしむ。

すなわちその地、秋穂八握ヤツカ莫々然シナヒヌ。故れその地を名づけて豊岡原と云い、真名井を名づけて御田井オダイと云う。のち小田井と改む。」

 

天火明命はまた南して、佐々前原ささのくまはらに至り、磐船宮いわふねのみやにとどまる。佐久津彦命をして、篠生原しのいはらかしめ、御田を開かせ、御井を掘り、水をそそがしむ。後世その地を名づけて、真田稲飯原と云う(今は佐田伊原)。佐久津彦命は佐久宮にいまし、天磐船命は磐船宮にいますなり。(式内佐久神社:豊岡市日高町佐田、磐舩いわふね神社:豊岡市日高町道場)
天火明命は、また天熊人命を夜父やぶ(のち養父)に遣わし、蚕桑の地を相せしむ。天熊人命は夜父の溪間にき、桑を植え、かいこう。
故れ此の地を名づけて、谿間屋岡原と云う(のちの但馬八鹿)。谿間のこれに始まる。
天火明命はこの時、浅間の西奇霊くしび宮に坐す。天磐船命の子、天船山命、供し奉る(式内浅間神社:養父市八鹿町浅間)。
(中略)
時に国作大己貴命くにつくりおおなむちのみこと少名彦命すくなひこなのみこと蒼倉魂命うかのみたまのみことは、高志こし国(のち越の国・北陸・新潟)より還り、御出石みずし県(のち出石郡)に入りまし、その地を開き、この地に至り、天火明命を召してのたまわく、
汝命いましみこと、この国をうしはき知るべし」と。
天火明命、大いに歓びて曰く、
「あな美うるし。永世なり。青雲弥生国なり」と。故れこの地を名づけて弥生やふと云う。(いま夜父)

国作大己貴命は「蒼倉魂命と天熊人命とともに心をともにし、力を合わせ、国作りの御業を補佐たすせよ」と教え給う。

二神は、天火明命に勧めて、比地の原を開かせ、垂桶天物部命に命じて、比地に就かしめ、真名井を掘り、御田を開き、その水を灌がしむ。垂穂の稲の可美うまし稲、秋の野面に狭し。故れこの地を比地の真名井原と云う(比地県はのちの朝来郡)。

天火明命は、御子稲年饒穂命いきしにぎほのみことを小田井県主(のち黄沼前きのさき県・城崎郡)と為し、
稲年饒穂命の子・長饒穂命たけにぎほのみこと美含みぐみ郡故事記には武饒穂命と書す)を美伊県主(のちの美含郡・美伊は美稲の義、また曰く水霊の義)と為し、
佐久津彦命(両槻天物部命なみつきあめのもののべのみことの子)に命じて、佐々前ささくま県主(のちの気多郡・佐々前は献神の義)と為し、
佐久津彦命の子・佐伎津彦命に命じて、屋岡県主(のちの養父郡・屋岡は弥生の丘の義、のちの八鹿)、伊佐布魂命に命じて、比地ひち県主(のちの朝来郡)と為す。
(中略)
人皇一代神武天皇三年秋八月、天火明命の子瞻杵磯丹杵穂命いきしにぎほのみこと(稲年饒穂命とも記す)を以て、谿間小田井県主と為す。瞻杵磯丹杵穂命は父命の旨を奉じ、国作大己貴命くにつくりおおなむちのみことを豊岡原に斎き祀り、小田井県神社と称え祀り、帆前大前神の子・帆前斎主命を使わして、御食の大前に仕えまつらしむ。

また天照国照彦櫛玉饒速日天火明命を州上原すあがりのはらに斎き祀り清明すが宮と申し祀る。(いま杉宮と云う。当初は円山川下流に点在していた中洲のいずれかにあったのだろうか)

*1 御田(おた、みた、おみた、おんた、おんだ、おでん)は、寺社や皇室等が所有する領田のこと

小田井県から黄沼前県へ

小田井県は、「第10代崇神天皇9年秋7月、(小田井県主)小江命の子穴目杵命アナメキノミコト黄沼前県キノサキアガタ主と為す。」(城崎郡故事記に最初に黄沼前県が登場)とあるので、崇神朝に小田井県は黄沼前県と改名されたようである。同じく城崎郡故事記に「人皇17代仁徳天皇10年(322年)秋8月 水先主命の子、海部直命あまべのあたえのみことを以て、城崎郡司兼海部直と為す」と城崎郡の初見があるので、この古墳時代(4世紀)にはすでに城崎ゴオリと称していたようである。

黄沼前きのさきとは、円山川下流域は黄沼前海きのさきのうみと呼ばれていた入江の湖沼で、旧城崎郡一帯は小田井県から黄沼前県と云われるようになった。

『但馬郷名記抄の第五巻・城崎郡郷名記抄』に、

黄沼前郷はいにしえの黄沼海なり。昔は上は塩津大磯シオツ・オオゾより、下は三島に至る一帯の入江なり。これを黄沼海キノウミという。黄沼は泥の水たまりなり。故に黄沼というなり。

黄沼前島は、黄沼島・赤石島・鴨居島・ユイ浦島・鳥島(今の戸島)・三島・小島・小江・渚浦(今の奈佐)・干磯(ひのそ)・打水浦・大渓島(今の湯島)・茂々島(今の桃島)・戸浦など、その中にあり。

他にも現在の地名に宮島がある。『但馬郷名記抄』が記された平安後期(975)には、海抜が下がり現在の地形とほぼ同じであったと思うが、これらは地名として残っていたものであろう。

この城崎郡は、明治29年(1896年)4月1日、郡制の施行のため、城崎郡・美含ミクミ郡・気多ケタ郡の区域を含め、改めて城崎郡が発足(美含郡・気多郡は消滅)したのとは異なる範囲で、旧豊岡町と旧城崎町にあたる。ここでの城崎郡は、古代から明治29年以前までの城崎郡である。

最初から豊岡だった?!

城崎(郷)が豊岡になったのは、一般には次のようにいわれている。

1580年(天正8)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉による第二次但馬征伐で但馬国の山名氏が一旦滅ぶと、秀吉配下の宮部継潤の支配となった。宮部氏は、城崎を豊岡と改め、城を改築した。このとき城下町も整備され、これが現在の豊岡の町の基礎となった。(城崎城は木崎城とも記す。)

しかし、上記の通り、『国司文書 但馬故事記』(第四巻・城崎郡故事記)の冒頭から、天火明命は豊岡原と名づけて、のちに小田井と改めていたのだ。宮部継潤は、自分の発案で豊岡と改めたのではなく、おそらく寺社の有力者から昔は豊岡原と呼ばれていたことを聞いたり、こうした古文書を読んでのことではなかったろうか。

順番でいうと、豊岡原→御田井(小田井)→黄沼前→城崎→豊岡

となるので、元通りになったとも云える。

御田井と三江(御贄みにえ

次にこれらの地理的要因による地名以外に、城崎郡には、小田井県神社を中心にした神社に関連する地名がある。それが小田井県神社とは円山川対岸に位置する三江(郷)である。

『但馬故事記』には、

人皇40代天武天皇白凰三年(663?)夏六月、物部韓国連神津主の子・久々比命を以て、城崎郡司と為す。久々比命は神津主命を敷浪丘に葬る。(豊岡市畑上 式内重浪神社)

この時大旱たいかん*1に依り、雨を小田井県宮に祈り、戎器を神庫に納め、初めて矛立ホコタテ神事を行う。また水戸上神事を行う。後世これを矛立神事・河内神事と称し、歳時これを行う。

(*1 大旱 大旱魃・大干ばつ)

また、祖先累代の御廟を作り、御幣ごへいを奉り、豊年を祈り、御贄田みにへた神酒所みきとを定め、歳時これを奉る。また海魚の豊獲を海神に祈る。これにより民の飢餓を免れる。(これはあまの神社、今の絹巻神社だろう)

故れ、酒解子神さかとけこのかみ大解子神おおとけこのかみ小解子神こどけこのかみを神酒所に、保食神うけもちのかみを御贄村に斎き祀る。是に於いて各神の鎮坐を定む。
(中略)
酒垂さかたる神社 祭神 酒解子神・大解子神・小解子神
御贄神社(御食津みけつ神社) 祭神 保食神

下ノ宮なら上ノ宮はどこをさすのか

下宮という地名はどこに由来したのであろう。通常神社の上社・下社は同じ祭神である場合は、山中の元社は日常の参拝には不便なため、集落の近くに里宮・下宮が設けられることをいう。例えば富士山を祀る浅間神社の上社は富士山頂だが、下社としては富士山南麓の静岡県富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間大社が総本宮とされている。久々比神社がある場所が、現在豊岡市下宮であるから、下宮は久々比神社であることは間違いない。国道312号線で河梨峠で京都府との府県境あるので、上ノ宮は同じ谷あいにあったのだろうか。酒垂神社と御贄神社、そのどちらかが上宮と呼ばれ、同じ神社の上社(上ノ宮)・下社(下ノ宮)の関係にはないが、御贄が三江の古名であるので、三江郷のどこかに鎮座されていたのだろう。現存する式内社であれば、小田井県神社の御贄と御神酒を司った場所という意味では、御神酒を司った酒垂神社と久久比神社は、上宮・下宮の関係があったかもしれない。酒垂神社は創建以来、遷座の記録がない。式内酒垂神社がある今の法花寺の古名は神酒所と云った。三江郷の二つの式内社の高低差で考えれば上にある酒垂神社が上ノ宮、低所にある久々比神社を下ノ宮と呼んでいたのかも知れない。

現存せず所在不明であり、三江の古名は御贄で、御贄神社が今の三江には唯一梶原の八幡神社のみだ。当社を下社とすれば、三江村がのちに下ノ宮となった所以と考えられなくもない。現存する式内久々比神社が下宮と思われるわけだが、久々比神社創建は次の通り、これより後である。下ノ宮は古名の御贄田、御贄村、三江村である。久々比神社がのちの時代に別記されている。久々比神社創建以前に御贄神社があったようである。

「人皇42代文武天皇大宝元年(701)、物部韓国連久々比卒す。三江村に葬り、その霊を三江村に祀り、久々比神社と称し祀る。
物部韓国連格麿の子・三原麿を以て、城崎郡の大領と為し、正八位下を授く。
佐伯直赤石麿を以て、主政と為し、大初以上を授く。
大蔵宿祢味散鳥を以て、主帳と為し、小初位上を授く。
佐伯直赤石麿はその祖阿良都(またの名は伊自別命)を三江村に祀り、佐伯神社と申し祀る。(また荒都神社という)」とあるので、『但馬故事記』では他の式内社と酒垂神社、御贄神社が併記されている。

ということは下の宮も三江村内であったことになるが、下宮で他に御贄神社の古社地が見当たらない。御贄神社の境内に久々比神社が建てられ、のちに久々比神社の方が残ったとも考えられなくもない。

『但馬郷名記抄』に、

古くは御贄郷といい、小田井県大神御贄みにえの地なり。この故に名づく。
神田かむた(今の鎌田)・神服部かんはたべ神酒所みきと・白雲山・馬地村・殻原村(今の梶原)・火撫(今の日撫)・物部村・白鳥村・金岡森(今の金剛寺)・磐船島(今の船町か?)
※()にあるのは、現存する地名で分かる範囲である。

御贄とは神饌で、神に供する供物のこと。主食の米に加え、酒、海の幸、山の幸、その季節に採れる旬の食物、地域の名産、祭神と所縁のあるものなどが選ばれ、儀式終了後に捧げたものを共に食することにより、神との一体感を持ち、加護と恩恵を得ようする「直会(なおらい)」とよばれる儀式が行われる。神田が鎌田と考えるのが自然であるが、御贄田が三江村であったから、御贄田はのち神田とも考えられる。とすれば今の下宮となる。
御贄郷につながる地名としてあと、神服部かんはたべ神酒所みきとがある。

神酒所は酒垂神社のある今の法花寺であることは間違いないが、神服部はどこだろう。ここでさす神服部の神は当然、小田井県神社だ。その小田井県神社の服部であり、服部は機織部(はたおりべ・はとりべ)で衣食住の衣を司る部である。古代日本において機織りの技能を持つ一族や渡来人、およびその活動地域をいう。「部」(ベ)が黙字化し「服部」になったという。神服部と呼ばれていた別の集落が三江郷のどこかにあったことになる。また、神服部の部は、のちに省略され、神服かむはたが今の鎌田かまたであるとも思えるし、その例が、同じ豊岡市日高町の篠民部しのかきべが篠垣、猪子民部いのこかきべが猪子垣のようにあるので、神服部の部が部民制が廃れると部落といい、省略され神服と云うようになったと想定することは充分にあり得る。

『但馬郷名記抄』の順はほぼ南から列記している。とすれば、現存する殻原村(今の梶原)から磐船島(今の船町か?)まではだんだん北になる。神田が鎌田、神酒所が法花寺、白雲山は愛宕山(今の山本)ではないかと考えたが、『但馬故事記』に「天平18年冬12月、本郡の兵庫を山本村に遷し、城崎。美含二郡の壮丁を招集し、兵士に充て、武事を調練す。」とあるから、すでに山本は存在していたことになる。物部村・白鳥村が赤石・下鶴井だろう。残るは馬地村と神服部だ。現存地名では祥雲寺と庄境が残る。馬地村は馬路村とも書く。その名のとおり、交通の要所とすれば庄境しかない。

神社と田結

豊岡市の日本海に面した場所に田結たい集落がある。明治の市町村再編までの郷村制では、円山川河口から円山川下流域の広大な郷域を城崎郡田結郷といった郷名になった村である。戦国時代から安土桃山時代に、山名氏の重臣に田結庄是義がいる。山名四天王の一人で、愛宕山に鶴城を築いて城崎郡を領した。その田結庄という姓は、『田結庄系図』によれば、桓武天皇の皇子葛原親王の後裔とみえ、七代後の越中次郎兵衛盛継は源平合戦に敗れ、城崎郡気比に隠れ住み、のちに捕えられて暗殺された。しかし、その子の盛長は一命をとりとめて田結庄に住み田結庄氏を称したという。

それはさておき、田結郷はすでに平安後期に編纂された『但馬郷名記抄』にある。
田結郷は古くは伎多由郷といい、[魚昔きたゆ](魚へんに昔)貢進ぐしんの地なり。この故に名づく。小魚・[魚昔きたゆ]の地。[魚昔きたゆ]は古語で伎多由または伎多伊なり。「きたゆ」とはサメのことらしい。「きたゆ(い)」が「たゆ(い)」に転訛し田結と書くようになったたものと思われる。

上記の御贄(三江)が神社にお供えする神饌の米や穀物・酒を、田結は神饌の海産物を納めていた重要な村であった。だからこそ郷名として三江郷・田結郷と名づいたのだろう。

日本の国のおこりから、人々は山や海、風、雨、雷などの自然には神が宿ると信じ、祟りを畏れ敬う。政り、祀り、祭りと漢字がいろいろあるが、すべてまつりごとは神事とつながるものなのである。城崎郡のまつりごとの頂点は、名の通り小田井県神社であり、その御神田が三江の古名御贄田の御贄神社、神酒所の酒垂神社、海の守護神、海神社(今の絹巻神社)という関係になる。

『但馬郷名記抄』の伎多由郷(田結郷)に、大浜・与佐伎村・赤石島・結浦・鳥島・三島・干磯浜打水浦、久流比・気比浦・白神山・[魚昔きたゆ]・大渓島、桃島・小島・西刀(今の瀬戸)
余部郷として墾谷(今の飯谷)・機紙村(今の畑上)・御原村(今の三原)

鳥島(戸島)・打水(二見)の間、磐水を支え、黄沼海きぬまうみ・きぬうみとなり、巌上より滴り滝となって岩を打つ。故にその地を打水浦(二見浦)という。

城崎の古語である黄沼前を、この黄沼海の前(手前)をいうとすれば、小田井県神社あたりをさす。

最後に、黄沼前郷に記されている内容をまとめてみたい。

黄沼前郷は古の黄沼海なり。昔はかみ、塩津大磯より、しも、三島に至るの間一帯の入江なり。

天火明命国開きの時、すでに所々干潟を生じ、浜をなす。あるいは地震・山崩れにて島湧き出て、草木青々の兆しを含む。天火明命 黄沼前を開き、墾田となす。

故に天火明命黄沼前に鎮座す。小田井県神これなり。

降りて、稲年饒穂命・味饒田命・佐努命あいついで西岸を開く。与佐伎命は、浮橋をもって東岸に渡り、鶴居岳を開き墾田となす。(中略)黄沼崎島はいわゆる豊岡原なり。

黄沼前郷と田結郷の混同が見られるが、この黄沼崎島とは円山川西岸の北は奈佐川・大浜川から南は佐野までの川に囲まれた平地を島になぞらえているものだろう。

ちなみに絹巻神社の山は絹巻山といい、山の斜面一帯に上坐・中坐・下坐と分かれており、今の境内は下坐であろう。絹巻山の社が絹巻社、絹巻神社という通称で、古語は名神大海神社である。『但馬故事記』の人皇13代仲哀天皇・神功皇后の記述に、

皇后ついに穴門国(長門)に達し給う。水先主命は征韓に随身し、帰国のあと海童神を黄沼前山に祀り、海上鎮護の神と為す。水先主名の子を以て、海部直となすは、これに依るなり。

絹巻山とは黄沼前山のことであり、黄沼は黄色い泥の意味なので、黄沼前を絹巻の二字の好字に替えたものだ。城崎も絹巻も、黄沼前から転訛した同じ語源である。

神社の由来や地名を調べれば、郷土の成り立ち。歴史が分かる。その点で『国司文書 但馬故事記』『但馬神社系譜伝』『但馬郷名記抄』など関連史料のように、神社や古墳時代の風習等を克明に記したは、全国的にも珍しく貴重な史料である。

この中から、字の変更を拾うと、次のようなものがある。律令制導入により、郷村名や地名を二字の好字(縁起の良い)にすることを奨励しているが、同様に伎多由は田結に、機紙は波多(今の畑上)、墾谷は飯谷、久流比は来日、百島(茂々島)は桃島、西刀は瀬戸、鳥島は戸島、与佐伎は都留井・鶴井、楯野は赤石、(立野も楯野だと思う)、耳井は宮井、島陰は下陰、野田丘は福田、深坂は三坂、鳥迷羅は戸牧、火撫は日撫、穀原は梶原、狭沼は佐努・佐野に、黄沼前郷は城崎郷、渚郷は奈佐郷、新墾田郷は新田郷、御贄郷は三江郷。