09.銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでの空白

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銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでの空白

[/wc_box] 銅鐸はなぜ消えたのか?
森浩一先生の資料(新しい発見数などは修正しています)と石野博信館長(兵庫県立考古博物館)のお話しをまとめますと、

「銅鐸は現在470あまり確認されています。その分布は北部九州から東海地方に及びます。弥生時代前期から後期にかけてつくられています。銅鐸が出土している国単位では、加茂岩倉遺跡の発見により今のところ一番多いのは出雲です。二番目に多いところは阿波の国(徳島県)です。兵庫県のように播磨や但馬や淡路などたくさん国があるところは別です。だから一国一県単位で言うと、出雲の次は阿波の国です。その次が紀伊・近江です。それに対して、大和の国は19個でわずかとしか言いようがないです。

前方後円墳がつくられる時代は、銅鐸というものが地上から姿を消して、少なくとも50年は経っており、銅鐸がなくなってすぐ前方後円墳ではないのです。奈良県がものすごい富と権力の中心になるのは、箸墓古墳とか、西殿塚古墳とか、そういう2百メートル級の大きな前方後円墳が造られた後なのです。それは、3世紀の終わりと言ってもいいです。それ以後に大和が強大になるのです。それ以前は並の土地です。大和にあるぐらいの弥生遺跡ならばどこにでもあります。そういう古墳から銅の鏡が20枚も30枚も出ていますが、しかし、弥生時代の奈良県には銅の鏡があったという証拠はほとんどありません。また銅鐸が古墳から発見された例はありません。それを謎だという人がいますが、いずれにしても、銅鐸は他の遺物と違って、弥生時代の中で生まれて完全に消えていきました。そして宗教改革ともいえる飛鳥時代の仏教伝来です。飛鳥時代になって、崇仏派の推古天皇・聖徳太子や蘇我氏が「もう、こんな神様はいらん!」ということで、仏教が注目されました。仏教を嫌ったとされる物部氏こそ、銅鐸を祀る祭祀氏族であると思えるのです。物部氏の信頼とシンボルの銅鐸が久田谷(兵庫県豊岡市)では叩き割られたり、埋め殺されたりしたんじゃないかという可能性が高いと思います。

銅鐸を拒否した新王権

しかし、銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでには50年以上の空白があります。ヤマト王権が統一する過程で銅鐸はすでに用をなさず自然に忘れられてしまったのかも知れません。いえ、そんなはずはありません。高価なものを再利用もせずに生めてしまうには大きな政治的力が起きたのです。
銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでには50年以上の空白があります。

つまり、古墳を造る際には銅鐸は忘れ去られていたことになります。ヤマト王権が中央集権化をすすめる過程で銅鐸文化を担った地方豪族を組み入れるために、銅鐸を埋設あるいは破壊していったわけではない[*2]のです。

ヤマトを地盤にした新王権は、明らかに銅鐸を拒否したのです。弥生末期、ヤマト及びその周辺で巨大銅鐸が作られていますが、出雲と吉備は青銅器祭祀を止めています。一方、分布から北部九州は銅鉾が主流で、銅鉾圏と銅鐸圏が対立していたとされます。これは祭祀のうえでヤマト王権が起こる直前の時期です。
銅剣と銅鐸が消えた三世紀初め頃の出雲には、四隅突出型方墳という、倭人のものとは思えない奇怪なヒトデみたいな墳墓が安来地方や荒神谷近辺に出現しました。鳥取大山の妻木晩田遺跡から、最も古い形式らしい四隅突出型方墳が発掘されました。この日本最大の妻木晩田遺跡の人々が安来地方などに移動したとも考えられます。

一方、瀬戸内海の吉備(岡山県)では、銅剣時代を経て古墳時代前夜へと入り、墳墓群が出きつつありました。ほぼ同時期、出雲と吉備にそれぞれ王と呼んでもいい首長が現れ、銅剣や銅鐸の祭祀を村落共同体から排除してしまうのです。ということは、その頃さかんに巨大銅鐸を作っていた近畿の文化圏からの離脱を意味します。銅鐸を作らなくなった時点で、出雲は近畿の敵になりました。出雲大社では、スサノオを祀る素鵞社を覆い隠すように巨大な出雲大社本殿が建てられています。スサノオが「すさぶる王=荒ぶる神」として憎しみを込めて追放されているのは、この間の事情を繁栄しているのかも知れません。

また弥生時代の鏡は佐賀県とか福岡県からたくさん出ています。特に福岡県では2百枚は十分出ています。だから、大和(奈良県)は弥生時代は並の土地で、前方後円墳が出来る頃から急にすごさがわいてきます。ただし、それが永久に続くかというとそうではないです。奈良の都の途中からガタガタになって、もう奈良には都を置ける土地ではありませんと言って京都に行ってしまうのです。大和が、交通とか経済とかで本当にすごい所であれば何も平安遷都する必要はありません。だから長い目で見たら、
大和が、勢力の中心であったのは、西暦4世紀から8世紀の終わりまでの、(長い歴史のわずか)4百年間の出来事です。
ヒトデみたいな奇怪な墳墓(四隅突出墓)を造っている祭祀王国-そんな出雲への認識や記憶が近畿人に定着し、祟(たた)る神として恐れられ、『古事記』で多くを「出雲神話」にあてているのも、大和の天皇家をなんとか正統化したいという苦心の原型になったとも考えられます。

銅鐸から考える

キリスタンの踏み絵ではありませんが、荒神谷や加茂岩倉遺跡のように、銅剣や銅鉾、銅鐸をなぜ人目のつかない場所に隠すように埋めたのでしょうか。

蘇我氏=ヤマト朝廷によって埋めさせられたのか。のちの6世紀半ばの欽明天皇期には仏教が伝わり、物部守屋と蘇我馬子が対立。後の仏教推進派の聖徳太子は蘇我氏側につき、神道派の物部氏を滅ぼしました。以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として仏教を権力に政治を握り、記紀の編纂では、藤原不比等によって歴史の解釈がややこしくなってしまいました。

しかし物部氏は、そのあと飛鳥時代までのおおよそ600年間も、武力と祭祀を司る重要な氏族として存続していました。なぜ、神の祭器である銅鐸や銅剣を破棄することを条件にその後も政治や神事に関与することが許されたのでしょうか。物部氏こそ、銅鐸を祀る祭祀氏族であるとするならば、物部氏自らが宝物といえる大切な神具を二度と使えないようになるまで、粉々に砕くことができたでしょうか?それは祖神=ニギハヤヒやウマジマシへの神への冒涜であり、氏族の尊厳を捨てることを意味することだと思えるのです。

ヤマト政権が天皇をいだいて日本を統一していく時代。『播磨風土記』で天日槍(アメノヒボコ)が但馬の養父と気多に葛を落としたという記載と、気多郡で見つかった全国でも珍しい粉々の銅鐸片は、単なる偶然なのか?私なりに想像しますと、それは、養父郡と気多郡の王が最後までヤマト政権に抵抗したのだという史実を語っているのではないかと思います。

[*1]…大和の国は銅鐸出土が19個でわずかとしか言いようがない。
[*2]…前方後円墳の時代は、銅鐸というものが地上から姿を消して、少なくとも50年は経っておりヤマト朝廷の関与は考えにくいこと。大和朝廷が勢力の中心であったのは、400年間。
[*3]…中国・朝鮮半島の小銅鐸小銅鐸と日本の一番古い銅鐸には日本列島人のアイディアというか独創力がものすごく入っている。
[*4]…北部九州起源論
[*5]…銅鐸文化圏と銅剣・銅矛文化圏は古い説
[*6]…原料は全部大陸からのスクラップ説というのは無理がある。銅製品の原料国産説。
[*7]…加茂岩倉の兄弟銅鐸の分布から、銅鐸が山陰地方や近畿地方に配布されたのならば、出雲特有の四隅方形墓が因幡・但馬に出現しない事は、銅鐸を使用した祭祀集団と、四隅方形墓の集団は別の時代の別のルーツを持った集団である。
[*8]…弥生時代の住居から土器とは一緒に見つからないこと。弥生時代末期に集中して山裾などに埋められているか、意図的に破壊されている。

出典: 兵庫県立考古博物館石野館長の公開講座

2009/08/28
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07.銅鐸はどのように埋められたのか

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銅鐸はどのように埋められたのか

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埋納状況

埋納状況については、村を外れた丘陵の麓、或いは頂上の少し下からの出土が大部分であり、深さ数十センチメートルの比較的浅い穴を掘って横たえた物が多いのです(逆さまに埋められた物も二例ある)。一、二個出土する場合が多く、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡(最多の39個)のような十数個同時に出土した例も五、六あります。あまり注目される事がありませんが、頂上からの出土が無いことは銅鐸の用途や信仰的位置を考える上で重要と考えられています。土器や石器と違い、住居跡からの出土はほとんど無く、また銅剣や銅矛など他の銅製品と異なり、墓からの副葬品としての出土例は一度もないため(墳丘墓の周濠部からの出土は一例ある)、個人の持ち物ではなく、村落共同体全体の所有物であったとされています。なお、埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中しています。 銅鐸を埋納したことの理由については以下のように諸説あります。

調査を経て記録された銅鐸の多くは、銅鐸よりもわずかに大きな穴を掘り、そこに鰭を上下として銅鐸を横たえて埋納しています。この方法は最古段階の菱環鈕式銅鐸から新段階の突線鈕式銅鐸まで一貫しており、銅鐸埋納には一定の法則があったことがわかります。しかし、少数ながら天地を逆転して埋めたものなどもあります。

銅鐸は単独で埋められるほかに、多数の銅鐸を一度に埋める場合、一定の範囲に分散して埋める場合があります。島根県の加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が、神戸市桜ヶ丘では銅鐸14個と銅戈7本がともに埋納され、野洲市大岩山からは、14個と9個と1個の銅鐸が近接する3つの地点からみつかっています。また、静岡県浜松市(旧引佐郡細江町)の都田川流域・浜名湖北岸の三方原台地ではこれまで14地点から16個もの銅鐸がみつかっています。

多数が一度に埋納される際には、大小を「入れ子」としたり、鈕を向かいあわせとするなど小さく埋納しようとする意図がみられます。なぜ銅鐸を埋納したかについては、土中保管説、隠匿(いんとく)説、廃棄説などの諸説がありますが、複数出土した銅鐸をみると型式的に相前後する銅鐸で構成されており、それらは突線鈕1式までのものと、突線鈕2式以降のものに分離できることができます。このことから銅鐸埋納は、大きく弥生時代中期後半と後期後半の2回の埋納時期があったと考えられます。

埋納した理由の推測

米や穀物の豊穣を祈って拝んだのではないかと言う説
しかし、これには反論があり「祭るための宝物ならそれなりの扱いを受けるはずで、そのような施しは見受けられない」ということであります。だが、この場合の「施し」というものが具体的にどのような痕跡を指すのかが問題であります。
平時は地中に埋納し、祭儀等の必要な時に掘り出して使用したが、祭儀方式や信仰の変化により使われなくなり、やがて埋納されたまま忘れ去られたとする説(松本清張等)

特に「聞く銅鐸」の紋様の不鮮明さは埋納時から発掘までの土中での経年劣化ではなく、磨く等の行為によるものとされており(佐原真)、祭りの度に繰り返し掘り出し磨かれたためといいます。かつての東南アジア方面(ベトナム等、しかし現在は不明)の銅鼓も日ごろ地中に埋めてあり、祭りの時や葬儀の時取り出して使用していたといいます。

大変事にあたり神に奉納したのではないかという説

十数個同時に出土する例は「大変事」の規模にあわせたために大量に埋納したのか、全国各地で出土するのは全国規模で弥生時代を通して「大変事」が頻発したのか、等を埋納状況などを踏まえた上で考える必要があります。

地霊を鎮めるために銅器を埋納した風習という説

古代華南にそのような風習が見られた。

文字の未だ定まっていない時代に、任命書に代えて鏡ではなく銅鐸を授与したという説

そもそも鏡を任命書として与えるような権力者、集団が当時日本列島に存在したかがまず問題である(古墳時代には銅剣、銅鏡のように、同盟集団に配布したと思しき例が少なからずあるようである)。

銅鐸を祭る当時の列島の信仰的背景とは著しく異なる文化を持った外敵が攻めて来た等の社会的な変動が起きた時に、銅鐸の所有者が土中に隠匿して退散したという説(古田武彦等)です。

この「外敵」を後世の有力集団の祖先に擬する説もあります。
しかし、全国的に似たような埋納のされ方なので、慌てて隠したのであればいろいろな埋め方があるはず、という反論があります。また、その外敵が銅鐸祭祀を否定する集団で、支配下に置いた地域の住民に銅鐸祭祀を放棄させたと考えれば、銅鐸が壊れた状態で出土することや、三世紀に急速に銅鐸祭祀が廃れたこと、銅鐸の用途が全く伝わっていないことなどに説明がつくという説もある。
政治的な社会変動により、不要なものとして(多数の場合は一括して)埋納したという説(三品影映・小林行雄等)
つまり、弥生時代の個々の村落を統合する新しい支配者が現れるとして、人々がより大きな集団を構成する際に、それまでのそれぞれの共同体の祭儀から専制的権力者の祭儀への変化が起き、各々の村落で使われていた銅鐸を埋納したというものであります。その際、集落によっては銅鐸を壊す等の行為もあったと思われ、一部の破壊銅鐸の出土はこのような理由によるとします。また、この社会・祭儀の変化とは次の古墳時代への変化のことと関連付けられる事が多い。

しかし、遺跡ごとに用途・保管方法や埋納の事情は異なっていたと考えられるため、すべての銅鐸を一律に論じる事は危険であります。[catlist id=96]

06.銅鐸は何に使われたか

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銅鐸は何に使われたか

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現在のところ用途は未だ定かではありませんが、第一に、銅鐸は日常の物ではないのです。つまり家庭用品ではありません。銅鐸は特殊なものであるということがまず大前提です。2番目は、銅鐸を鏡のように副葬品として故人の墓には入れません。銅鐸の中で現在確実に墓に入った例は小銅鐸以外ありません。

初期の小型の物は鈕(チュウ=つまみ)の内側に紐(ひも)などを通して吊るし、舞上面に開けられた穴から木や石、鹿角製の「舌(ぜつ)」を垂らして胴体部分か、あるいは「舌」そのものを揺らし、内部で胴体部分の内面突帯と接触させる事で鳴らされたと考えられています。

本来、中国の銅鈴が起源とされているので家畜牛の首に付けられていたカウベルではないかとも言われていますが、日本では祭祀に用いられる小国の威厳を誇示する特別な神楽器となったのではという説では、1世紀末頃には大型化が進み、鈕が薄手の装飾的な物への変化が見られることから、(後述のように異論はありますが、)音を出して「聞く銅鐸」目的から地面か祭殿の床に置かれて「見せる銅鐸」目的へと変化したのではないかと言われています。
しかし、森 浩一氏はこう書いています。

「古い小型の銅鐸ほどいい音がします。ただし1メートルくらいの銅鐸が全くいい音がしないというのではありません。実は1メートルくらいの大きい銅鐸ほど実験をすると釣鐘で言うと余韻が残るのです。だから古い小型の銅鐸はいい音がするけれども、ボワンと消えてしまいます。1メートルくらいの銅鐸は叩くと釣鐘の余韻のようにウーウーと残っています。橿原考古学研究所の紀要にその実験データが載っています。だから大きい銅鐸は見るだけだと強弁している学者がいますが、それは違うと思います。銅鐸には最初から最後まで見る要素と聞く要素の両方あるのです。

音の要素についていえば、単に鳴るだけではなくて、大きくなって余韻が響くようになったのです。考古学者榧本亀次郎さんの解釈では、銅鐸というのは毎日ぶら下げているのではなくて、お祭りの時だけとかあるいは10年に1回の重要な時とかに、しかも粗紐ではなくておそらく柔らかい幅のある布のような物でV字型にそっとぶら下げたのではないかと思われます。だから、そんなにひどい擦り目というのは出ないと言うわけです(森 浩一)。」

銅鐸は、銅鐸そのものがもつ意味もさることながら、銅鐸にかかわる祈りが存在していたと考えられます。弥生時代の最大関心事は、米づくりに代表される生産基盤の安定とムラの存続と維持発展にあったと考えられます。耕地の確保といった土木事業を展開するためには人々が心をひとつにする必要があり、ここに共同体の祭器として銅鐸のまつりが最もふさわしいと考えられるのです。ベルは古くから神々を招き、願いを聞き届けるために重要な役割を果たす儀器であり、シャーマン(司祭者)が銅鐸を用いて豊穣と祖霊を崇め、ムラムラの発展を祈願する祭祀がとり行われたのでしょう。

弥生の社会が必要としたのは、王のリーダーシップだけではなく、むしろ重要視されたのが、人間の及ばない自然をコントロールすることです。

どれだけ優れたリーダーのもと、完璧な計画を立てて灌漑や作付けを行っても、収穫前に来る台風ひとつですべてが台無しになりかねない。彼らが自然を神に見立てて祈りに力を入れたのは、その自然だったのです。

展示されている青銅器は青っぽく錆びていますが、当時は黄金に輝いていました。金や銀はまだ使われていなかったため、初めて見る金属の輝きは現代人にとってのダイヤモンド以上にまぶしかったはずです。

三品彰英氏は佐原氏の地中保管説を受けて、銅鐸は地霊や穀霊の依代(よりしろ)であり、大地に納めておくことが大切なことであり、銅鐸を掘り出すことは地霊・穀霊を地上に迎えまつること(地的宗儀)で、まつりが終わると再び大地へ埋め戻すもので、やがて古墳時代を迎えると鏡に代表される天の神、日の神のまつり(天的宗儀)にかわり、銅鐸は土中に放置されたと説明されています。
扁平鈕式古段階までの銅鐸は、近畿地方の中でも摂津北部、大和、河内、山城といった畿内を中心に製作され、その分布地から主に近畿以西の西日本に広がっています。弥生時代中期の段階は、畿内の勢力がより西の地域との連合を意図して銅鐸祭祀を普及させたと考えられます。これが扁平鈕式

そして突線鈕式銅鐸の段階になると銅鐸は「近畿式銅鐸」と「三遠式銅鐸」という二つの大形銅鐸にまとまり、分布は畿内周辺部と東海地方へ移っていきます。弥生時代後期、畿内勢力は新しく大きな近畿式銅鐸によって、周辺地域と東海地方への連携施策を講じたものと推定されます。

実際に荒神谷や兵庫県立考古博物館のレプリカをたたいてきました。「コ~~ン」と響くいい音でした。

銅の特長

青銅(せいどう、bronze)は、銅Cu を主成分とし錫(スズ)Sn を含む合金のことで、銅と錫の鉱石は混在することから、メソポタミアでは紀元前3500年頃から銅に錫が混ざった青銅で道具を作るようになりました。青銅器はエジプト、中国(殷王朝)などでも使われるようになり、世界各地で青銅器文明が花ひらきました。加工しやすく表面にできる保護被膜が腐食の進行を防ぎ耐食性の高さなどから 古来貨幣の材料としても利用されてきました。

本来の青銅は黄金色や白銀色の金属光沢を持ち、その見た目から古代において金銀に準じる金属として利用された面があると考えられています。添加する錫の量が少なければ日本の十円硬貨にみられるように純銅に近い赤銅色に、多くなると次第に黄色味を増して黄金色となり、ある一定量以上の添加では白銀色となります。しかし、青銅は大気中で徐々に酸化されて表面に炭酸塩を生じ緑青となります。そのため、年月を経た青銅器はくすんだ青緑色、つまり前述の青銅色になるので、青銅器といいます。青銅には、適度な展延性と、鋳造に適した融点の低さや流動性があり、鉄が、銅よりも安価かつ大量に供給されて普及する以前には、もっとも広く利用されていた金属でした(青銅器時代)。

かつて緑青は、教科書や百科事典にも有毒や有害と記載され、間違って教育されてきた経緯があります。東京大学医学部衛生学教室の元教授・豊川行平氏は、「緑青のグリーンが毒々しく見えたから、いつのまにか毒だと信じ込んでしまったのではないでしょうか」と語っています。その長い歴史のなかで、緑青によって生命がおびやかされたことはありません。いたずらに恐れたり、心配する必要はないのです。人と銅との長い歴史がそれを証明しています。しかし、銅は生物の代謝が正常に行われるうえで必須の元素でヒト一人当たり100から150 mgの銅が含まれ主に骨や肝臓に存在しますが、同時に過剰供給されると、足尾銅山鉱毒事件に見られるように毒性を示します。

銅は他の金属に比べ抜群の導電率を持ちます。この特性からコードや電子機器に欠かせない部品として活躍しています。また熱伝導性にすぐれています。この特性は鍋などの調理道具やマグカップなどに生かされています。
銅管は、すぐれた抗菌力を発揮するので給水、給湯をはじめとして水道管にも利用されています。
たとえば、神於(こうの)銅鐸(大阪府岸和田市 弥生中期)を分析すると、銅68.96% 錫15.45% 鉛5.63%です。
これは合金を人為的に行ったのではなく、前出の通り自然界に銅と錫の鉱石は混在することから、そのまま鋳造したのでしょう。
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05.銅鐸の形状と紋様

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銅鐸の形状と紋様

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銅鐸のかたち

野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館) によりますと、銅鐸は、つり手「鈕」(ちゅう)とバケツをひっくり返したような「身」(み)、つり手から身にかけて張り出した「鰭」(ひれ)から成り立っています。

銅鐸は本来、内面に振り子「舌」を下げたベルです。銅鐸内面の末端付近には、断面形が台形や蒲鉾形(かまぼこがた)の突帯(とったい)がめぐっています。内面に舌を取り付け、つり手を揺することで舌がこの突帯部分に触れあい共鳴します。古い銅鐸には、青銅製や石製の舌を伴って出土したものがあり、内面上部に舌を下げるため「環」(かん)を取り付けた銅鐸(有環銅鐸)もあります。また、内面突帯(ないめんとったい)が舌との摩擦によって磨り減った銅鐸も認められます。

鈕(ちゅう)は、銅鐸をつり下げる部分で、本来は断面形が菱形をした半環状のものでしたが、後に装飾が加わり兜形(かぶとがた)から小判形(こぱんがた)に変化します。古い銅鐸には鈕と結んだ紐とが摩擦した痕跡をとどめるものがあり、木の枝などに銅鐸を紐(ひも)でつり下げて使用していたと考えられます。

身(み)は、扁平(へんぺい)な筒形を呈しています。身の上面と上半・末端の左右には各々両面に孔があります。この孔は銅鐸を鋳造する際に、二枚の外型と内型を固定するために生じるもので「型持孔」(かたもちあな)と呼んでいます。銅鐸が大形化すると身も裾(すそ)開きの円筒形のものへと変化します。  鰭(ひれ)は、鈕から身の末端付近まで連なる板状の装飾部分で、銅鐸を鋳造する際、二枚の鋳型からはみ出した甲張(こうばり)が装飾化したものと考えられます。

佐原真氏の型式分類(佐原編年)によると、現在主として鈕の形態の変化により編年され、全部で4形式に分類されています。
菱環鈕式(最古式、I式)、外縁付鈕式(古式、II式)、扁平鈕式(中式、III式)、突線鈕式(新式、IV式)です。この他に福田型銅鐸と呼ばれる銅鐸があります。

紋様の種類

・横帯紋銅鐸
・袈裟襷紋銅鐸(6区以外)
・6区袈裟襷紋銅鐸
・流水紋銅鐸

に分けられます。加茂岩倉銅鐸を紋様の種類によって分類すると、石の鋳型で造られた古い段階の銅鐸群は、四区袈裟襷紋と二区及び三区流水紋のグループに分けられます。これに対して、土の鋳型で造られた新しい段階の銅鐸群は、四区袈裟襷紋と六区袈裟襷紋のグループに分かれます。さらにこの四区袈裟襷紋銅鐸には、区画内に絵画を持つものと持たないものがあります。

古い段階の銅鐸群のうち、流水紋銅鐸は全て横型流水紋と呼ばれるものに属します。この横型流水紋は、畿内南部(河内南部・大和・和泉)の弥生時代中期初頭の土器に施紋されていた横型流水紋様の影響を受けたものと見られ、この時期の銅鐸群のほとんどは畿内南部の工房で製作されたと考えられています。ただ、四区袈裟襷紋の加茂岩倉12号鐸には、畿内南部で造られた銅鐸には見られないいくつかの特徴があります。こうした特徴を持つ銅鐸の鋳型が大阪府東大阪市の鬼虎川遺跡から出土していることから、この段階の銅鐸群の中には、河内北部の工房で造られた銅鐸もあることがわかってきましました。

新しい段階の銅鐸群で特に注目されるのは、袈裟襷紋の上の区画内にトンボ・シカ・イノシシなどの絵画を配し、下区に四頭渦紋が鋳出された18号鐸・23号鐸・35号鐸です。描かれた図像に違いはありますが、鈕や鐸身の紋様構成は極めて似通っています。例えば、一般的な袈裟襷紋銅鐸は縦帯に対し横帯が優先して施紋されますが、これらの銅鐸は袈裟襷紋の縦・横帯が切り合っており、袈裟襷紋の中に施紋された斜格子紋様の充填方法を見ても横帯優先となっていません。また、縦帯の幅が身の上部では狭く、下部へ向かうほど広くなっており、これに対応するように、充填された斜格子紋が上部ほど密で下部ほど粗となっています。こうした特徴は、同じ時期の畿内系銅鐸にはあまり見られないもので、これらの銅鐸が出雲で造られたとされる理由のひとつに挙げられています。

これらの銅鐸に描かれた絵画にも、これまで各地で出土した絵画銅鐸にはない特徴が見られます。そのひとつは、18号鐸・35号鐸に鋳出されたトンボが、複線で写実的に描かれていることです。これまで知られている絵画銅鐸のトンボは単線で描かれており、抽象的な表現に留まっていますが、これらの銅鐸の場合は、頭部・胸部・腹部の境がくびれ、各部位が明瞭に区別されています。翅は4本線で描かれ、前翅・後翅の縁が表現されています。さらに18号鐸B面上右区のトンボには、眼を表現したと見られる小さな点も2つ認められ、工人の細かな観察力と表現力が感じられます。

このほかにも鈕にカメを描いた10号鐸、同じく鈕の頂部に人面を描いた29号鐸など、特色のある絵画を持つ銅鐸があります。これらはいずれも六区袈裟襷紋銅鐸で、袈裟襷紋の区画内・鈕や鰭の鋸歯紋帯の無紋部分に研磨の痕跡が認められます。8号鐸・20号鐸も六区袈裟襷紋銅鐸ですが、10号鐸・29号鐸と同様の研磨が施されており、こうした研磨は、いわゆる「見る銅鐸」としての効果を狙った技法と考えられます。また10号鐸には表面に水銀朱が塗布されていることも確認されています。これらの銅鐸からは「見る銅鐸」に込めた弥生びとの想いが伝わってくるようです。
2009/08/28
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04.銅鐸とはいったいなんだろうか

銅鐸(どうたく)とはいったいなんだろうか

気比銅鐸

銅鐸は神を招くカネといわれていますが、本来は楽器ではないかといわれ、上からぶら下げ、内部に吊した舌(ゼツ)と呼ばれる青銅製の棒で鳴らします。

銅鐸の起源は3500年前の中国・殷(イン)の時代。世界に先駆けて使われたベルです。当時もカウベルのように牛の区部に小型のものがつけられていたのではないかといわれています。次第に五穀豊穣を祈る農耕祭祀に用いられた祭器となって装飾が施されるようになった。大きさは10センチ前後のものから、日本最大のものでは約130センチを超える大形のものまで見つかっています。
中国の銅鈴が起源とされていますが、日本で出土する形状に類似するものはまだ見つかっていません。また、朝鮮半島には、朝鮮銅鐸と言われる文字も絵もない小型のものが出土します。それらの影響は考えられるが、その後日本の銅鐸は日本で独自に発達しました。

青銅器から鉄器へと移行するのですが、日本へは、紀元前4世紀頃、青銅器は鉄とともにほぼ同時期に九州に伝わりました。青銅も鉄も最初は輸入されていた。

紀元前1世紀頃、国内での生産が始まったといわれています。ちなみに鉄の国内での生産(製鉄)は紀元後5世紀頃だと思われています。  2世紀には大型銅鐸が作られ、技術は東アジアでもかなり高い水準に達していた。

気比銅鐸(レプリカ)銅鐸展 但馬国府・国分寺館

1世紀末ごろを境にして急に大型化します。この大型化した銅鐸には、近畿式と三遠式の二種があります。大きな違いは、近畿式は双頭渦紋と呼ばれる飾り耳を鈕の部分に持つことぐらいです。いずれも些細なことで、実際にはよく似た銅鐸です。近畿式は摂津・河内で生産され、三遠式は濃尾平野で生産されたものであろうと推定されています。近畿式は、近畿一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地域に、三遠式は、東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界とし、例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・京都府北部の日本海岸にそれぞれ分布します。

それぞれの銅鐸は2世紀代に盛んに創られました。2世紀末葉になると近畿式のみとなります。銅鐸はさらに大型化しますが、3世紀になると突然造られなくなります。しかし、それらは混在しており、明確に位置を区別できるようでもありません。分布的には三遠式と近畿式が対峙しているというような事実はなく、近畿式のみの地域と近畿式+三遠式の地域があるというのが現状です。

弥生時代初期とされる青銅器の鉛同位体を測定すると、殷(商)・周(西周)時代の青銅器と鉛同位体の比率などがほぼ一致しており、この鉛は他の地域時代にて青銅器として見られることがないため、中国大陸や朝鮮半島から流入した青銅器等を鋳直して作成されたとする説があります。なお、日本での銅の史料上の記述は和銅元年(708年)が初見とされます。銅鐸が発見された記録は、『扶桑略記』の天智天皇7年、近江国志賀郡に崇福寺を建立するのに際して発見された記述が最古であろうといいます。ただし、天智期の記事を詳細に記しているはずの記紀は、この出来事について全く触れていません。『続日本紀』には、和銅6年、大和宇波郷のひとが長岡野において発見した記事があり、『日本記略』には、弘仁12年、播磨国で掘り出され、「阿育王塔鐸」とよばれたとあります。

銅鐸の製作年代は弥生時代中期から後期にわたります。出土品の一部には近畿地方で製作されたと推定されるものもありますが、絵画表現の独自性や荒神谷遺跡出土銅剣の線刻との類似から、大半は出雲地方で製作されたと考えられており、一部は他地域との同はん関係(兄弟銅鐸)も認められています。なお、埋納された時期については、現在のところ荒神谷遺跡同様特定できていません。

注:三遠式…濃尾平野(三河・遠江)で生産されたものであろうと推定。

青銅器の種類

弥生時代の青銅器には、銅剣(どうけん)、銅鐸(どうたく)、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)があります。

「荒神谷博物館」レプリカ 左から銅剣、銅鐸、銅矛

銅鐸(どうたく)とは、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器のこと。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって作り用いられた祭器。これまでに出土した銅鐸は約470個で、主に近畿地方の遺跡から出土しています。

大きさについては12センチから1メートルを越すものまであります。1世紀頃には高さが60センチに達し、さらに大型化が進み、2世紀には1メートルを超え、最終的には134センチに達します。しかし、その直後鋳造が止まります。現存する最大は、144センチ、45キログラムに達します(滋賀県野洲市野洲町大岩山1881年出土1号銅鐸)。

近畿地方で生産されたものは表面に必ず文様がつけられています。文様で一番多いのが、袈裟襷文(けさだすきもん)で、縦の文様帯と横の文様帯とを交差させています。その前は流水文でした。最古級の銅鐸は、縦文様帯と横文様帯を持つ四区袈裟襷文で飾っています。 また、吊り下げる鈕の断面形が菱形となっています(菱環鈕式[りょうかんちゅうしき])。しかし、大阪府東奈良遺跡から出土した小銅鐸の鈕の断面形が円形である。その後、外縁付鈕式、扁平鈕式、突線鈕式と変遷する。その後鐸自身が大型化し、表面に飾りが加わります。

紀元前2世紀後半頃40センチを超す大型銅鐸が現れ、流水文が採用されています。この文様は紀元前1世紀頃に衰退します。 当時の家屋など弥生時代の習俗の様子を描いた原始的な絵画が鋳出されているものもあります。

銅矛(どうほこ)は銅剣、銅鐸とともにマツリのための道具として使われました。
銅剣(どうけん)は、実用の武器として弥生時代のはじめ頃に大陸から伝わり、日本で作られるようになってから、祭器へと変わりました。

銅鐸が神を呼ぶカネであったのに対し、銅剣や銅矛は悪霊をはらうものであったと考えられています。銅矛もまた銅剣と同じように、弥生時代前期には、根元の袋部分に柄をつきさす「細形」の武器でしたが、しかし中期以降は大型化して実用的でない「中細形」「中広形」「広形」へと変化していきます。荒神谷で発見された全ての銅矛の袋部には鋳型の土が残されたままでした。このことは、銅矛を武器として使用するより、祭器として使用する目的があったと考えられます。

銅戈は、「ほこ」の和訓を与えられている字には同じ「矛」もあるが、「矛」では金属製の穂先を槍と同様に柄と水平に取り付けるのに対し、「戈」では穂先を柄の先端に垂直に横向きに取り付け、前後に刃を備える。日本語文献史料で「ほこ」とある場合、通常は「戈」ではなく「矛」。そのため、歴史学用語としては訓読みするより音読みの「カ」で読まれることが多い。
しかし銅鐸は、まず、銅鏡、銅剣、銅矛に比べ出土の状態からしてまず謎です。銅鐸の時期は3世紀から4世紀にかけての弥生時代末期に集中しているといいます。

専門家によれば、銅鐸はそのほとんどが人目につかない山の中腹などで発見されるといいます。まるで、誰かの手で意図的に隠されたかのように。なかには、兵庫県豊岡市日高町久田谷(地元)の全国でも稀な粉々にされた銅鐸破片など、故意の加熱や打撃により破壊されて出土する例さえあります。古墳時代になるとなぜか銅鐸は急速に廃れてしまします。

2009/08/28

03.常識を覆す日本最多の銅鐸 加茂岩倉遺跡

日本最多の銅鐸 加茂岩倉遺跡


2009年2月15日、出雲大社、島根県立出雲歴史博物館、西谷古墳群、荒神谷遺跡などとともに加茂岩倉遺跡を訪ねた。

平成8(1996)年10月14日、加茂町(現雲南市)岩倉で農道の法面工事のためパワーショベルで山の斜面を削っていたところ、大量の銅鐸の出土により加茂岩倉遺跡は発見された。突然、異様な音がしたため、運転者は直ちに重機を止め、「どこの誰がポリバケツをこんなところに埋めたのか」と考えつつそばに行くと、ポリバケツならぬ「銅鐸」だったのである。

当時、加茂町長であった速水雄一氏(後に雲南市長となる)が学問と教育の里というテーマで町おこしを行っていたことから、町役場にはただちに遺跡発見の連絡が入り、1996年より1997年の2年間にわたり、加茂町教育委員会と島根県教育委員会により発掘調査が行われた。

遺跡は狭くて細長い谷の最奥部手前の丘陵に位置し、南向きの丘陵斜面中腹にあたる標高138m、谷底から18mと見上げるような高い場所に39個の銅鐸が埋納されていた。一カ所から出土した銅鐸の数は日本最多で、大変注目を集めたのである。

出土品は国(文化庁)が所有し、島根県立古代出雲歴史博物館に保管されている。1999年に遺跡は国の史跡に指定され、出土した銅鐸は国の重要文化財に指定された。2008年7月には、出土した39口の銅鐸は国宝に指定。

 

銅鐸は南向きの丘陵斜面中腹から出土[/caption]

発見当初に建設重機を停止したことが幸いし、埋納の痕跡も良く残っており、どのように配置されたのかといった詳細な学術情報が研究者にもたらされた。また、1997年度の調査では、銅鐸が埋められていた坑から3メートル離れた場所に別の坑も発見されたが、こちらからは遺物が全く出土していない。

そのうち13組26口は中型鐸の中に小型鐸が納められた「入れ子」状態で出土したことが確認されている。銅鐸がこのような入れ子状態で出土した例は極めて少なく、内部は中空であった可能性も考えられているが、CTスキャンによる内部調査に拠れば、埋納坑埋内と内部を塞いでいる土砂が異なることが指摘されている。表面からは朱が検出され、線刻で文様が表現され、袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸が30口、流水文銅鐸が9口ある。絵画の描かれた銅鐸は7口あり、シカやカメ(ウミガメ)、トンボや四足獣などの動物が描かれている。そのうちの数点が豊岡市気比銅鐸(流水文)と兄弟銅鐸とされている。

尾根の左が荒神谷、光っている場所が加茂岩倉

遺跡は先に発見され大量の銅剣が出土した荒神谷遺跡と山を隔てて南東に僅か3.4kmしか離れておらず、両遺跡から出土の銅鐸に「×」印の刻印があることから、両遺跡は関係あることが分かり、古代出雲を研究する上で大きな手がかりとなっている。これらの二つの発見から、またさらに後に発見された「出雲大社境内遺跡」との関連から、古代イズモには王国、あるいは文化圏が存在した、とする研究者が増えてきている。

『倭の古王国と邪馬台国問題 上』 著者: 中島一憲

空前絶後の青銅器大量埋納は、荒神谷、加茂岩倉ともに一世紀半ば、つまり第一次倭国大乱が一段落し、倭奴国が後漢に朝貢したころに、時期を合わせたように行われていることが分かった。鴨居湧くの銅鐸の中に紀元前三~同二世紀前半に製造された「最古段階」の銅鐸が含まれていることが加茂町教育委員会の分析でわかった。「最古段階」の銅鐸は、加茂岩倉遺跡から直線距離で北西約4kmの荒神谷遺跡からも1個が出土。加茂岩倉の最古段階のものと同じく菱環紐式で、加茂岩倉のその銅鐸は高さ21.7cmの小型だった。

同笵銅鐸(兄弟銅鐸)

加茂岩倉遺跡の同笵銅鐸(兄弟銅鐸)は、越前(伝)(大石)銅鐸が気比4・伝陶器山、但馬気比銅鐸2個、岩美郡岩美町新井上屋敷と1個が加茂岩倉銅鐸と兄弟銅鐸であることが分かった。銅鐸の同一性からのみで判断することはできないものの、少なくとも丹後・若狭地方からは出土していない。弥生時代中期頃に丹後・若狭を避けたのは、すでに違う勢力が存在していたのかも知れない。弥生時代後期(200年ごろ)にはガラス製の釧(くしろ:腕輪)が見つかり、コバルトブルーに輝く全国で初めての完成品です。西谷3号墓(島根県出雲市)でも同じ材質の巴型勾玉がみつかり、出雲と丹後の交易が有力視される。

『倭の古王国と邪馬台国問題 上』 著者: 中島一憲

海上交通のネットワークが古くから発達している日本列島では、産業・技術・文化にほとんど地域格差がみられず、広範にかつ均質に発達していると考えている私は、青銅原料の産地がどこであるかに関心をもっている。

まさに驚嘆の大発見となった加茂倉遺跡の銅鐸発掘は、一か所で39個という全国一のその圧倒的な量と特異な埋納状況、一部の銅鐸に刻まれた特殊な「×」サインや絵画の意味、そして何よりも荒神谷と関連する埋納時期や出雲という地域性から、この遺跡の評価をめぐって多くの学者・専門家が多様な説を展開しはじめている。

私もこの遺跡が荒神谷とともにヤマトの古代国家成立上きわめて重要な意義をもつことを予感しているが、以下に新聞が特集したシンポジウムや座談会に紹介された学者たちの見解を若干紹介したい。

森浩一氏は、「(加茂岩倉の)4、7、19,22号銅鐸は兄弟で和歌山市の太田黒田銅鐸と一緒。この兄弟のうち4つが出雲から見つかった。近畿から出雲をみるのか。それとも出雲から近畿を見るのか。私は多い場所から見ようと思う」と出雲説を展開。
佐原真氏は、古い段階(紀元前三世紀~同一世紀頃)の銅鐸の石の鋳型が10近くも近畿や香川県などで出土していることをあげ「現状ではいくら兄弟が出雲でたくさん出ていても(この段階のものは)近畿でつくったものをもってきたと考えるべきではないか」と主張。ただ、加茂岩倉の18,23同銅鐸などは近畿の銅鐸と違う特徴をもつことから「土の鋳型で銅鐸をつくりだした段階では、出雲に『銅鐸の会社』があった可能性がある」(としている)。

上田正昭氏は、各地で一つ、二つと出土したものと、40個近くが出土したものと「同列に論じてよいものか」
門脇禎二氏は、「私は加茂の岩倉が神が宿る磐座(いわくら)に通じ、一帯が神原(かんばら)、荒神谷が神庭(かんば)と呼ばれるのが気になります。…『旧辞本紀』の中の『国造本紀』から、七世紀の国造の祖先伝承などが伺えますが、そこから祖先を同じくする「同祖関係」を拾い出すことができます。それでたとえば出雲を見ると、隣り合った国ではなく、但馬のような日本海側のほかに、伊勢や美濃といった大きく離れた地域が出てきます。このあたりに加茂岩倉の兄弟銅鐸が存在する可能性が十分あるわけです(実際に但馬気比銅鐸は兄弟銅鐸であることが判明)。

気比銅鐸 但馬国府・国分寺館 銅鐸展

難波洋三氏は、『扁平紐式新段階』の時代になって出雲、あるいはその周辺でも銅鐸が製作されるようになった可能性があります。加茂岩倉の38個は、各形式とも比較的限られた工房の製品で構成されているようです。たとえば外縁付き紐二式の流水紋銅鐸8個は、すべて大和か河内の工人の製品。『扁平紐式新段階』のものも飾りなどに共通の特徴があり、多くの工人集団の製品がランダムに集められたとは考えにくいと思います」。

同遺跡の兄弟銅鐸は、計13組、22個、「兄弟」の出土地は西日本の8府県にまたがっていることが明らかとなり、広範な地域間交流が想定される。また36号銅鐸から「×」印が見つかった(荒神谷の銅鐸は「×」印が付けられていた)。

【国宝】考古資料の部

弥生時代の指定は次の6件(2008年(平成20年)まで)。
金印(漢倭奴国王印) (福岡市博物館)
桜ヶ丘町出土銅鐸・銅戈 (神戸市立博物館)
福岡県平原方形周溝墓出土品 (文化庁、伊都国歴史博物館保管 弥生時代~古墳時代)
袈裟襷文銅鐸〈伝讃岐国出土〉(東京国立博物館)
島根県荒神谷遺跡出土品 (文化庁、島根県立古代出雲歴史博物館保管)
島根県加茂岩倉遺跡出土銅鐸 39口 (文化庁、島根県立古代出雲歴史博物館保管)

全国の銅鐸出土数
国別出土数
菱環鈕式
Ⅱ外縁付鈕式Ⅲ偏平鈕式[聞く銅鐸] Ⅰ+Ⅱ+Ⅲ[見る銅鐸] Ⅳ突線鈕式
出雲501371048
近江3632522
摂津(東)1257
摂津(西)21714
摂津(計)331221267
阿波42322258
紀伊383131614
遠江291127
三河2811211
河内18111124
大和1976135
讃岐2047111
淡路1515281
尾張15246
伊勢1512257
和泉123473
備前151674
播磨111564
土佐11337
伯耆9246
備中8332
因幡84153
丹後7113
丹波3123
山城64151
但馬6442
越前51341
若狭51231
美濃42131
石見41231
信濃32
伊賀32
美作31122
備後2112
その他135232387243

・国別で出土数の多い地域(≧3)のみを示した。うち型式の判明分をⅠ~Ⅳ式に分類。
・Ⅰ~Ⅲ式およびⅣ-1式:「聞く銅鐸」、Ⅳ-2~Ⅳ-5:「見る銅鐸」
[佐古和枝氏作成の分布図よりまとめた]

銅鐸出土数箇所
1位兵庫県56点40
2位島根県54点9
3位静岡県46点26
4位徳島県42点29
5位滋賀県41点14
6位和歌山県38点38
7位愛知県33点36
全国約500点

2009/02/15

02.世紀の大発見!! 荒神谷遺跡

世紀の大発見!! 荒神谷遺跡

  
島根県出雲市斐川町神庭

昭和58(1983)年、広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い遺跡調査が行われた。調査員が田んぼのあぜ道で一片の土器(古墳時代の須恵器)をひろった事がきっかけとなり発見されました。遺跡の南側に『三宝荒神』が祭られている事から荒神谷遺跡と命名され、翌昭和59年谷あいの斜面を発掘調査したところ358本の銅剣(どうけん)が出土しました。

  

銅剣は昭和60(1985)年、銅鐸・銅矛は1987年に国の重要文化財に指定されていましたが、1998年に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されています。出土品は現在、文化庁が所蔵し、島根県立古代出雲歴史博物館などに保管されています。遺跡自体は1987年に国の史跡に指定されました。斐川町が中心となり1995年に遺跡一帯に「荒神谷史跡公園」が整備されました。2005年には公園内に「荒神谷博物館」が開館し、出土品の期間展示などが行われています。

銅剣は、実用の武器として弥生時代のはじめ頃に大陸から伝わり、日本で作られるようになってから、祭器へと変わりました。出土した358本の銅剣は、いずれも50cm前後の中細形といわれる型式で、「出雲型銅剣」といわれるようになりました。
358本のうち344本のなかご部分に「×」印が刻まれていました。その印がある例は荒神谷遺跡と隣在する加茂岩倉遺跡から出土したものだけです。「×」印の意味はいまだに謎ですが、「神霊をここに結び鎮める」すなわち埋納した剣のもつ威力が逃げないようにする為の手段などとも考えられています。

テレビ「ケンミンショー」を観ていると、仏教大学民俗学教授が、神社にお宮参りに行く時に京都では「昔は赤ちゃんの額に朱の墨で「×」は魔よけとして書いたいたものが、×は縁起が悪いから平安時代から男の子は「大」、女の子は「小」と書くようになった」と言っていた。(2010.3.7)

現在までのところこれらと加茂岩倉遺跡出土銅鐸でしか確認されておらず、両遺跡の関連性がうかがえます。 当時の大和朝廷が「イズモ」を特別な地域であると認識していた事が、記紀の記述にもあり、また神話のなかの三分の一を出雲神話で占める、といったことからも証明される形となっています。更に、時代が下って編纂された「式内宮」として認められた神社の、出雲地方での総数と出土した銅剣の本数との奇妙な一致があげられます。 当初は、農道を造るために、神庭と呼ばれる場所であることから、とりあえず調査発掘をすることになり、最初に掘ったトレンチから銅剣が土中から出てきました。次々に出土し、最終的に358本という数に達しました。それまでに全国で発掘された銅剣の総数を超える数の銅剣が発掘された事は当時のマスコミを興奮のるつぼに放り込んだ形となりました。


県立古代出雲歴史博物館展示品(HPより)

銅剣、銅鐸、銅矛の複製展示

銅矛は銅剣、銅鐸とともにマツリのための道具として使われました。
銅鐸が神を呼ぶカネであったのに対し、銅剣や銅矛は悪霊をはらうものであったと考えられています。銅矛もまた銅剣と同じように、弥生時代前期には、根元の袋部分に柄をつきさす「細形」の武器でしたが。しかし中期以降は大型化して実用的でない「中細形」「中広形」「広形」へと変化していきます。荒神谷で発見された全ての銅矛の袋部には鋳型の土が残されたままでした。このことは、銅矛を武器として使用するより、祭器として使用する目的があったと考えられます。
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【もう一つの日本】 物部氏4/4 物部氏ゆかりの神社と日本統一へ

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注連縄(しめなわ)

出雲大社 拝殿

神社の拝殿の軒や御神体には注連縄が張ってあります。神代の時代、天照大神が天の岩戸からお出になった後、岩戸に縄を張り再び中に入れぬようにした。この縄は「尻久米縄」と云われたと古事記に記され、しめなわの始まりとされている。

「社(やしろ)」・神域と現世を隔てる結界の役割を意味する。また神社の周り、あるいは神体を縄で囲い、その中を神域としたり、厄や禍を祓う結界の意味もある。御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)として神がここに宿っているという印ともされる。古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印ともなっている。

しかしこれは、朝廷が出雲系の物部氏などの神社を封じ込めるためにあるという説があります。神楽殿のしめ縄は長さ13m、太さ8メートルで、重量は5トンで、もちろん日本一日本では向かって右側が上位であり尊いとされてきました。

しめ縄を正面から見た場合には、しめ始めは右からということ一般の神社でも同様にこの慣わしが存在しています。

しかし、唯一この慣わしに逆行している神社はここ出雲大社です。向かって左側から綯い始め右側で終わっているのです。

その理由について

”出雲大社は大怨霊オオクニヌシノカミを封じ込めた神殿である”といった説もありますが定かではありません。

大神(おおみわ)神社

奈良県桜井市三輪1422
式内社 大和國城上郡 大神大物主神社 名神大
大和國一宮 旧官幣大社
御祭神:大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
配祀 大己貴神(おおなむちのかみ) 少彦名神(すくなひこなのかみ)

由緒

遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)=大国主神が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ)の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられており、我が国最古の神社であります。

大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと申し上げ、神様の中の大神様として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最 高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれます。

石上神宮(いそのかみじんぐう)

【国宝】
石上坐布都御魂神社 名神大 旧官幣大社
奈良県天理市布留町384
御祭神 「布都御魂大神」
配祀 布留御魂大神 布都斯魂大神 宇麻志麻治命 五十瓊敷命 白河天皇 市川臣命

西暦686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみし)が本宗家の地位を得ました。同氏は守屋の兄の子孫であると称しています。

雄略朝の大連・物部目の後裔を称する石上朝臣麻呂には朝臣の姓が与えられて、西暦708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位を贈られた。息子の石上朝臣乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上朝臣宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は、日本初の公開図書館・芸亭の創設者としても歴史に名を残しています。

石上神宮は、飛鳥時代の豪族、物部氏の総氏神として、又大神神社(おおみわじんじゃ)と同じく日本最古の神社として有名です。元々は古来朝廷の武器庫として物部氏が守っていたようです。境内に入ると多くの鶏が放し飼いにされていました。野生化していて強そうな鶏なので、猫が目の前を通っても微動もしない不思議な光景が見れます。

元々は20年ほど前に誰かが捨てて行ったものだったそうですが 、次第にその数が増え現在に至り、神の使いとして飼われているようです。さて楼門をくぐり奥に進むと拝殿が見えます。さらにこの後ろに本殿があるのですが、禁足地であり一般に立ち入ることはできません。もともとは大神神社のように本殿はなく、拝殿からその背後の禁足地を遙拝し、禁足地には主祭神である神剣布都御魂が安置されていると伝えられてきました。明治時代に禁足地を発掘し、剣一振(素鐶頭太刀そかんとうのたち)が出土したのを期に、これを布都御魂(ふつのみたま)として、本殿が造営されました。

大神山神社(おおがみやまじんじ ゃ)

式内社 伯耆國會見郡 大神山神社
旧國幣小社
本社 鳥取県米子市尾高1025 祭神 大穴牟遅神(おおなむぢのみこと)
奥宮 鳥取県西伯郡大山町大山 祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
いずれも大国主命の別名
奥宮末社・下山神社(しもやまじんじゃ) 渡辺昭政(わたなべてるまさ)命

自然石を敷きつめた七百mの参道の長さ、国内最大の権現造りの社殿、幣殿の白檀の漆塗りの荘麗さと、大神山神社奥宮には三つの「日本一」があり、西日本最大級の神輿がある。

大山(だいせん)は古より神おわす山として、よって大神岳とも称され、中国地方一の霊峰とも言われ修験道を始め多くの人々の信仰を集めてきた。神体山としての大山には主神として「大己貴命(おおなむちのみこと・大国主命の別名)」が鎮座し給うとされたが、仏教の隆盛による神仏習合思想の広まりとともに、大己貴命に地蔵菩薩を祀り「大智明権現」の称号を当てて神仏混淆の神社として奉仕されるようになり、平安鎌倉期には三院百八十坊僧兵三千名とまで数えられるようになった。一方この地は冬期積雪が多く、祭事の遂行が困難なため麓に冬宮を設けて冬期にはこの冬宮で奉仕を行うようになった。明治時代になると神仏分離令により尾高の冬宮を本社とし、大山の宮から地蔵菩薩を除いて大神山神社奥宮とし、現在のような形となった。

物部神社(もののべじんじゃ)

島根県大田市川合町川合
式内社 石見国一宮  旧社格は国幣小社
御祭神 「宇摩志麻遅命」(物部氏初代)
相殿右座 饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照大神

物部氏初代の宇摩志麻遅命を主祭神とし、相殿に物部氏祖神の饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照皇大神を祀る。 宮中でも行われる鎮魂祭を行うことで、石上神宮、弥彦神社と共に有名である。なぜか、11月22日でなく、11月24日に行われる。

石上神宮と表裏一体を為す神社。物部神社の御祭神「宇摩志麻遅命」はこの石東の地を平和な豊かな地域とするため、鶴に乗って御降臨されました。

その山を鶴降山といい、山頂には今も国見をされた場所と伝えられる遺跡が保存されています。
この国見をされたおり、平和な穏やかな里「安濃郡(旧 大田地方)」と名づけられました。

この鶴に乗って勝運を運んできた神にちなんで真っ赤な太陽を背負った鶴を全国で唯一この物部神社の御神紋と定められました。
当地の海辺には須佐之男命、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命らが半島から帰国の上陸の地との伝えがある。

須佐之男命は韓神新羅神社、五十猛命は五十猛神社に鎮座し、神別れ坂で大屋津姫命、抓津姫命と親子は別れたと云う。 大屋都比売命は大田市大屋町の大屋姫命神社に鎮座、抓津姫命が見あたらないと思っていたら、物部神社の客神としておさまっていたようです。

社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて尾張、美濃、越国を平定した後に石見国で歿したという。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。

物部神社門前から、三瓶山は、よく見える。石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、「出雲国風土記」が伝える「国引神話」に登場する。 国引神話では、「佐比売山(さひめやま)」(三瓶山)は鳥取県の「火神岳」(ほのかみだけ)大山)とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされています。

新羅の岬→去豆の折絶から八穂爾支豆支の御埼(やほにきづきのみさき。杵築崎)
北門(きたど)の佐伎(さき)の国→多久の折絶から狭田(さだ)の国
北門の良波(よなみ)の国→宇波の折絶から闇見(くらみ)の国
越国の都都(珠洲)の岬→三穂埼

延喜式神名帳では小社に列し、石見国一宮として歴代領主の崇敬を受けた。かつての社家の金子氏は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。戦前は、出雲大社の千家・北島両家や、日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。 宇摩志麻遅命が石見国に鶴に乗って降臨したとも伝えることから、当社の神紋は赤い太陽を背景に鶴の「日負い鶴」である。

但馬国総社気多神社:「大己貴命」(豊岡市日高町上郷)
越前国総社大神宮:「大己貴命」  福井県越前市(武生市)京町1-4-35
越中国総社気多神社:「大己貴命」富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063
能登国一宮 気多大社:「大己貴命」石川県羽咋市寺家町ク1
越中国総社跡 気多神社:「大己貴命と奴奈加波比売命」富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063

天照御魂神(あまてるみたまのかみ)

ニギハヤヒは、記紀が書かれるまでは皇祖神・天照御魂大神だったことが、多くの史料や古代からの神社の祭神・縁起・伝承が証明しています。延喜式神名帳には、「天照」を名乗る神社が、山城、大和、摂津、丹波、播磨、筑紫、対馬などに記載され、記紀編纂以前の創建で古い神社です。

女神・アマテラス(天照大御神)は、日本書紀の編者の都合により、その称号を与えられたにすぎず、実状は全然違っていたのでしょう。なぜなら、全国の天照を名のる古神社は、皆一様にその主祭神を天火明命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊としているからなのです。

たとえば、京都府宮津市に天火明命を主祭神とする元伊勢籠神社があります。

同社の説明によると、主祭神は彦火明命(ホアカリノミコト)、亦名(またの名は)天火明命(ホアカリノミコト)・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
とあり、相殿に豊受大神、天照大神が祀られています。伊勢神宮の内宮・外宮の祭神です。

同社の説明に、「極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神(上賀茂神社)と異名同神であり・・・。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられます。古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い・・・。」と(ほんとはね…と遠慮ぎみに)あります。
元伊勢籠神社については後ほどくわしく説明します。

出雲大社の創建は、奈良時代初頭の霊亀二(716)年だったことがわかっています。別の神様(スサノヲ・須佐社)を祀っていたらしいのですが、ちょうど、古事記(712年)と日本書紀(720年)の成立の中間に大神社として創建されたことになります。明治までは杵築(キヅキ)大社と呼ばれていました。

大己貴命こと、大国主が亡くなってから500年も経った後のことです。大国主命の別名として、古事記では、大穴牟遲神、葦原色許男、八千矛神、宇都志国玉神。日本書紀では、大物主神、国作大己貴命、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顕国玉神とあり、それぞれの神名から多様な性格が連想され、一つの神ではなく、複数の神々を統合したものとみられています。ともあれ、出雲大社は記紀神話に合わせて大和朝廷によって創建されたことは間違いないようです。そして、スサノオやニギハヤヒをはじめ、出雲系の神々とその偉業を一括りにして傀儡の大国主を創作し、出雲に流竄したのだともみられています。

記紀の記述に邪魔な神々を出雲に葬り、その代償として出雲大社が建てられたとみられ、当時は50mもある国内最大の建築物として、出雲大社は万の神が集まる今でも壮大なものです。

日本統一へ

出雲大社・物部神社(石見)・但馬(古丹波)気多神社・丹後(古丹波)元伊勢籠神社・越前気比神宮・越中気多神社など…わかるだけでも日本海沿岸を治めていた物部海洋王国は、大和政権によって平定され日本は統一されていきます。四道将軍や各地に残る桃太郎・大江山鬼退治伝説など。銅鐸は消え去り、朝廷から与えられた銅鏡と前方後円墳。しかし、神社は残りました。注連縄を張られ封じ込める形で。時代は各地方の祖先神かた天皇家を軸とする天つ神の神道に変わり、聖徳太子から仏教によって神社信仰を仏教を広めることで国をまとめようとしたのです。そのあとには聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に国分寺と国分尼寺建立を命じ、神仏はともに共存していきます。

物部氏ゆかりの神社が多い旧國

【筑前国】19
【筑後国】11【石見国】20【但馬国】12
【丹後国】11【丹波国】9【越後国】68
【伊予国】27【河内国】41【紀伊国】26
【摂津国】22【和泉国】11【伊勢国】35
【山城国】12【近江国】23【尾張国】28
【大和国】36

2009/08/28

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物部氏4/4 物部氏ゆかりの神社と日本統一へ

注連縄(しめなわ)


出雲大社 拝殿

神社の拝殿の軒や御神体には注連縄が張ってあります。神代の時代、天照大神が天の岩戸からお出になった後、岩戸に縄を張り再び中に入れぬようにした。この縄は「尻久米縄」と云われたと古事記に記され、しめなわの始まりとされている。

「社(やしろ)」・神域と現世を隔てる結界の役割を意味する。また神社の周り、あるいは神体を縄で囲い、その中を神域としたり、厄や禍を祓う結界の意味もある。御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)として神がここに宿っているという印ともされる。古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印ともなっている。

しかしこれは、朝廷が出雲系の物部氏などの神社を封じ込めるためにあるという説があります。神楽殿のしめ縄は長さ13m、太さ8メートルで、重量は5トンで、もちろん日本一日本では向かって右側が上位であり尊いとされてきました。

しめ縄を正面から見た場合には、しめ始めは右からということ一般の神社でも同様にこの慣わしが存在しています。
しかし、唯一この慣わしに逆行している神社はここ出雲大社です。向かって左側から綯い始め右側で終わっているのです。

その理由について

”出雲大社は大怨霊オオクニヌシノカミを封じ込めた神殿である”といった説もありますが定かではありません。

大神(おおみわ)神社

奈良県桜井市三輪1422
式内社 大和國城上郡 大神大物主神社 名神大
大和國一宮 旧官幣大社
御祭神:大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
配祀 大己貴神(おおなむちのかみ) 少彦名神(すくなひこなのかみ)

由緒

遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)=大国主神が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ)の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられており、我が国最古の神社であります。

大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと申し上げ、神様の中の大神様として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最 高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれます。

石上神宮(いそのかみじんぐう)

【国宝】
石上坐布都御魂神社 名神大 旧官幣大社
奈良県天理市布留町384
御祭神 「布都御魂大神」
配祀 布留御魂大神 布都斯魂大神 宇麻志麻治命 五十瓊敷命 白河天皇 市川臣命

西暦686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみし)が本宗家の地位を得ました。同氏は守屋の兄の子孫であると称しています。

雄略朝の大連・物部目の後裔を称する石上朝臣麻呂には朝臣の姓が与えられて、西暦708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位を贈られた。息子の石上朝臣乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上朝臣宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は、日本初の公開図書館・芸亭の創設者としても歴史に名を残しています。

石上神宮は、飛鳥時代の豪族、物部氏の総氏神として、又大神神社(おおみわじんじゃ)と同じく日本最古の神社として有名です。元々は古来朝廷の武器庫として物部氏が守っていたようです。境内に入ると多くの鶏が放し飼いにされていました。野生化していて強そうな鶏なので、猫が目の前を通っても微動もしない不思議な光景が見れます。

元々は20年ほど前に誰かが捨てて行ったものだったそうですが 、次第にその数が増え現在に至り、神の使いとして飼われているようです。さて楼門をくぐり奥に進むと拝殿が見えます。さらにこの後ろに本殿があるのですが、禁足地であり一般に立ち入ることはできません。もともとは大神神社のように本殿はなく、拝殿からその背後の禁足地を遙拝し、禁足地には主祭神である神剣布都御魂が安置されていると伝えられてきました。明治時代に禁足地を発掘し、剣一振(素鐶頭太刀そかんとうのたち)が出土したのを期に、これを布都御魂(ふつのみたま)として、本殿が造営されました。

大神山神社(おおがみやまじんじ ゃ)

式内社 伯耆國會見郡 大神山神社
旧國幣小社
本社 鳥取県米子市尾高1025 祭神 大穴牟遅神(おおなむぢのみこと)
奥宮 鳥取県西伯郡大山町大山 祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
いずれも大国主命の別名
奥宮末社・下山神社(しもやまじんじゃ) 渡辺昭政(わたなべてるまさ)命

自然石を敷きつめた七百mの参道の長さ、国内最大の権現造りの社殿、幣殿の白檀の漆塗りの荘麗さと、大神山神社奥宮には三つの「日本一」があり、西日本最大級の神輿がある。

大山(だいせん)は古より神おわす山として、よって大神岳とも称され、中国地方一の霊峰とも言われ修験道を始め多くの人々の信仰を集めてきた。神体山としての大山には主神として「大己貴命(おおなむちのみこと・大国主命の別名)」が鎮座し給うとされたが、仏教の隆盛による神仏習合思想の広まりとともに、大己貴命に地蔵菩薩を祀り「大智明権現」の称号を当てて神仏混淆の神社として奉仕されるようになり、平安鎌倉期には三院百八十坊僧兵三千名とまで数えられるようになった。一方この地は冬期積雪が多く、祭事の遂行が困難なため麓に冬宮を設けて冬期にはこの冬宮で奉仕を行うようになった。明治時代になると神仏分離令により尾高の冬宮を本社とし、大山の宮から地蔵菩薩を除いて大神山神社奥宮とし、現在のような形となった。

物部神社(もののべじんじゃ)

島根県大田市川合町川合
式内社 石見国一宮  旧社格は国幣小社
御祭神 「宇摩志麻遅命」(物部氏初代)
相殿右座 饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照大神

物部氏初代の宇摩志麻遅命を主祭神とし、相殿に物部氏祖神の饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照皇大神を祀る。 宮中でも行われる鎮魂祭を行うことで、石上神宮、弥彦神社と共に有名である。なぜか、11月22日でなく、11月24日に行われる。

石上神宮と表裏一体を為す神社。物部神社の御祭神「宇摩志麻遅命」はこの石東の地を平和な豊かな地域とするため、鶴に乗って御降臨されました。

その山を鶴降山といい、山頂には今も国見をされた場所と伝えられる遺跡が保存されています。
この国見をされたおり、平和な穏やかな里「安濃郡(旧 大田地方)」と名づけられました。

この鶴に乗って勝運を運んできた神にちなんで真っ赤な太陽を背負った鶴を全国で唯一この物部神社の御神紋と定められました。
当地の海辺には須佐之男命、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命らが半島から帰国の上陸の地との伝えがある。

須佐之男命は韓神新羅神社、五十猛命は五十猛神社に鎮座し、神別れ坂で大屋津姫命、抓津姫命と親子は別れたと云う。 大屋都比売命は大田市大屋町の大屋姫命神社に鎮座、抓津姫命が見あたらないと思っていたら、物部神社の客神としておさまっていたようです。

社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて尾張、美濃、越国を平定した後に石見国で歿したという。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。

物部神社門前から、三瓶山は、よく見える。石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、「出雲国風土記」が伝える「国引神話」に登場する。 国引神話では、「佐比売山(さひめやま)」(三瓶山)は鳥取県の「火神岳」(ほのかみだけ)大山)とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされています。

新羅の岬→去豆の折絶から八穂爾支豆支の御埼(やほにきづきのみさき。杵築崎)
北門(きたど)の佐伎(さき)の国→多久の折絶から狭田(さだ)の国
北門の良波(よなみ)の国→宇波の折絶から闇見(くらみ)の国
越国の都都(珠洲)の岬→三穂埼
延喜式神名帳では小社に列し、石見国一宮として歴代領主の崇敬を受けた。かつての社家の金子氏は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。戦前は、出雲大社の千家・北島両家や、日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。 宇摩志麻遅命が石見国に鶴に乗って降臨したとも伝えることから、当社の神紋は赤い太陽を背景に鶴の「日負い鶴」である。

但馬国総社気多神社:「大己貴命」(豊岡市日高町上郷)
越前国総社大神宮:「大己貴命」  福井県越前市(武生市)京町1-4-35
越中国総社気多神社:「大己貴命」富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063
能登国一宮 気多大社:「大己貴命」石川県羽咋市寺家町ク1
越中国総社跡 気多神社:「大己貴命と奴奈加波比売命」富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063

天照御魂神(あまてるみたまのかみ)

ニギハヤヒは、記紀が書かれるまでは皇祖神・天照御魂大神だったことが、多くの史料や古代からの神社の祭神・縁起・伝承が証明しています。延喜式神名帳には、「天照」を名乗る神社が、山城、大和、摂津、丹波、播磨、筑紫、対馬などに記載され、記紀編纂以前の創建で古い神社です。

女神・アマテラス(天照大御神)は、日本書紀の編者の都合により、その称号を与えられたにすぎず、実状は全然違っていたのでしょう。なぜなら、全国の天照を名のる古神社は、皆一様にその主祭神を天火明命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊としているからなのです。
たとえば、京都府宮津市に天火明命を主祭神とする元伊勢籠神社があります。

同社の説明によると、主祭神は彦火明命(ホアカリノミコト)、亦名(またの名は)天火明命(ホアカリノミコト)・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
とあり、相殿に豊受大神、天照大神が祀られています。伊勢神宮の内宮・外宮の祭神です。

同社の説明に、「極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神(上賀茂神社)と異名同神であり・・・。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられます。古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い・・・。」と(ほんとはね…と遠慮ぎみに)あります。
元伊勢籠神社については後ほどくわしく説明します。

出雲大社の創建は、奈良時代初頭の霊亀二(716)年だったことがわかっています。別の神様(スサノヲ・須佐社)を祀っていたらしいのですが、ちょうど、古事記(712年)と日本書紀(720年)の成立の中間に大神社として創建されたことになります。明治までは杵築(キヅキ)大社と呼ばれていました。

大己貴命こと、大国主が亡くなってから500年も経った後のことです。大国主命の別名として、古事記では、大穴牟遲神、葦原色許男、八千矛神、宇都志国玉神。日本書紀では、大物主神、国作大己貴命、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顕国玉神とあり、それぞれの神名から多様な性格が連想され、一つの神ではなく、複数の神々を統合したものとみられています。ともあれ、出雲大社は記紀神話に合わせて大和朝廷によって創建されたことは間違いないようです。そして、スサノオやニギハヤヒをはじめ、出雲系の神々とその偉業を一括りにして傀儡の大国主を創作し、出雲に流竄したのだともみられています。

記紀の記述に邪魔な神々を出雲に葬り、その代償として出雲大社が建てられたとみられ、当時は50mもある国内最大の建築物として、出雲大社は万の神が集まる今でも壮大なものです。

日本統一へ

出雲大社・物部神社(石見)・但馬(古丹波)気多神社・丹後(古丹波)元伊勢籠神社・越前気比神宮・越中気多神社など…わかるだけでも日本海沿岸を治めていた物部海洋王国は、大和政権によって平定され日本は統一されていきます。四道将軍や各地に残る桃太郎・大江山鬼退治伝説など。銅鐸は消え去り、朝廷から与えられた銅鏡と前方後円墳。しかし、神社は残りました。注連縄を張られ封じ込める形で。時代は神道に変わり聖徳太子は蘇我氏と仏教によって国をまとめようとしてのです。

物部氏ゆかりの神社が多い旧國

【筑前国】19
【筑後国】11【石見国】20【但馬国】12
【丹後国】11【丹波国】9【越後国】68
【伊予国】27【河内国】41【紀伊国】26
【摂津国】22【和泉国】11【伊勢国】35
【山城国】12【近江国】23【尾張国】28
【大和国】36

2009/08/28
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