奈良時代の律令制からにおける地方行政組織である国司・郡司などは、平安時代末期の平治政権から、武家政権(幕府)である鎌倉時代には無実化し、地頭が設置された。平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。
守護は、国司に代わり国ごとに国内の治安維持などのために任命した武士。当初は、国内の兵粮徴発や兵士動員などを主な任務として有力な在地武士を国守護人に任命したのが守護の起源と考えられている。
日下部一族の武士化
10世紀になると、日下部一族は郡司のほか但馬国衙のさまざまの官衙に進出…朝来郡・養父郡
但馬介・但馬大目・但馬目など。また但馬検非違使・健児所判官代・執官兼行判官代などの在庁官人
11世紀・12世紀
日下部系図 分立する家系が増加する…在地名を姓として郡司から在地領主に成長し武士化していった
室町時代
足利尊氏・直義兄弟が大軍を率いて上洛を開始。京都の室町に幕府が置かれていたので室町幕府とよばれている。
狭義では建武新政を含む最初の約60年間を南北朝時代、応仁の乱(1467年)または明応の政変(1493年)以後の時代を戦国時代と区分している。
山名氏までの但馬守護
1336年 – 今川頼貞
今川頼貞 但馬の天皇方掃討作戦を進める。
建武三年(1336)3月 播磨に入り、4月には但馬に進む
1336年~1338年 – 桃井盛義
桃井氏は下野の足利氏の支族で、上野国群馬郡桃井(現在の群馬県榛東村)を苗字の地とする。
桃井盛義の軍勢が各地に転戦して討伐に乗り出したものの、南党勢力の拠点的存在であった三開山城、進美寺山城は依然として健在。
このため、北朝軍はさらに応援の軍勢を但馬へ差し向けた
守護として足利直義が小俣来全を派遣
小俣来全はまもなく帰京し、代わって桃井盛義
(この間の先に但馬入りしていた桃井盛義との関係は明らかではない)
進美寺山城が南党勢力奪回後、強固な補強を行う
守護に交代があり、守護不在のまま進美寺山城攻撃が行われていたとみられる
養父郡小佐郷地頭伊達義綱などが当たっていた
1338年~? – 吉良貞家
建武5年・南朝延元3年 11月15日 幕府奉行所へ義綱の窮状を取り次いでいる
この吹挙状によって、但馬守護が桃井盛義から吉良貞家に代わっていることがわかるが、この時点に貞家はまだ京都にいたことがわかる。
『日高町史』資料編の『垣谷文書』
守護代左衛門尉家則とは誰なのか?
1340年~1351年 – 今川頼貞
1349年4月11日 正式に但馬守護に補任(『今川家古文書』
但馬南党の拠点、進美寺山城は陥落したが、もう一つの三開山城が残っていた
宿南保氏はこれを「新田義宗は建武4年(1337)以来、三開山城主であったとされるが、これは疑わしい。(中略)
山名氏は上野国緑野郡山名荘(群馬県高崎市)を本貫地とする新田氏庶流の武士である。山名氏は足利氏・新田氏の一門ではあるが、山名荘時代は農民的な小領主に過ぎなかった。時氏の代になって一代で頭角を現す。
(中略)
時氏は、尊氏の九州下向にも随従し、建武4年(南朝延元2年=1337)7月までには尊氏から伯耆守護に任じられた。その後、丹波・若狭お守護職も与えられ、貞和元年(1345)には幕府侍所所司にも任じられた。この間に但馬守護も僭称していた。
武家方二分裂の時代(観応の騒乱)
足利武家政権にまもなく動揺が起こる。その最初ともいうべき事件は、出雲・隠岐の守護塩冶判官高貞(佐々木近江守)の出奔であった。暦応4年(南朝興国2年、1341)3月、越前国で南朝方の動きが活発化してきた。これを討つため北朝方では高師春を大将に、六角(佐々木)氏頼、その一族塩冶高貞らを加えて越前へ攻め入る手はずを整え、それぞれ兵を領国から徴していた。その矢先、塩冶高貞が京都から出奔したのだ。
本国出雲へ逃げ帰った高貞の追討を命じられたのは、伯耆守山名時氏と若狭守桃井直常であった。高貞は自害し事件は落着した。この功によって時氏は出雲守護に補任された。武家政権内でひとかどの大将が仲間討ちされたことは事実である。
それから二年後の康永2年(1343)12月、丹波守護代荻野彦六朝忠が高山寺城(氷上市氷上)で反乱。伯耆ほうき守護山名時氏、丹波守護に任じられる)
高山寺城攻略の余勢を駆って時氏は但馬に攻め入り、南党と所々で戦った。
「此の年、山名時氏武家方となり、但州の所々において合戦、官軍(山名時氏方)、(但馬国衆の)長なが・太田・八木・三宅・田結庄ら武家に降りる。」(『南朝編年記略』)
三開山城は時氏によって陥落。以後、時氏はこの城を居所にしたと考えられる。
宿南保氏は、「進美寺山城に手こずり、その攻略後も手出ししていなかった三開山城を、時氏はあっけなく征服してしまった。そんな印象すら抱かせられる経過である。以後、時氏は三開山城を居所に但馬守護を僭称した*といわれる。これは但馬国衆ががおしなべて時氏に圧倒された結果によるといえよう。」と記している。この時期の但馬守護は今川頼貞である。頼貞は京都にいて、実権は守護代であっただろうが、その守護代は不明である。丹波守護同様に南北朝期、幕府の守護として機能していなかったようだ。
*僭称…称号を勝手に名乗ること
正平8年(北朝文和2年、1353)、南朝軍の巻き返しは積極的になった。尼崎方面から楠木正儀、伊勢からは北畠顕房が上洛を狙い、本国伯耆にあった山名時氏・師義父子が南朝に帰順し、京都進撃を企てた。時氏は5月6日伯耆を出発し、6月2日、但馬三開山城に着く。ついで丹波路の須知(京都府船井郡京丹波町須知)を経て、京都西郊の嵯峨に達した。(山陰道=今の国道9号)この軍に「但馬・丹後ノ勢ヲ印具シテ」と『太平記』にあるように、但馬勢もこれに加わっていた。
6月9日、南朝軍は一挙に洛中へ攻め入った。大使は権中納言四条隆俊、大将は山名時氏であった。これから一ヶ月余に渡り京都を占領し、正平の年号が用いられたのであるが、この間の南朝軍の狼藉は未曾有のものであったという。やがて美濃へ走っていた足利義詮が巻き返しをはかって、後光厳天皇を奉じて上洛する。同天皇が鎌倉にいる尊氏に上洛を命じた、加えて西からは赤松勢が進軍してくる、などの情報が飛び交い、狼藉に対する不人気に、兵糧不足が重なって士気が衰え、南朝軍は浮足立ち、四条隆俊は吉野へ、山名時氏父子は丹波に逃走した。入れ替わりに義詮が7月26日に入京し、年号もまた文和に復した。
丹波に逃れた時氏はついで但馬に入り、ここで但馬国衆の再掌握につとめたようだ。彼はしばらく但馬にとどまり、彼に従って京都へ上洛した者たちへ感謝の状を発給して伯耆へ帰っただろう。しかし、南但馬(養父・朝来)の国人たちの信頼を取り戻し、再び時氏党になびかせることは容易ではなかったようだ。
正平9年(1354)12月13日、山名時氏は、ふたたび京都進攻。足利直冬を擁して伯耆を出発した。伯耆を出るときには5,000人であった直冬軍は、但馬で先遣隊の石塔頼房軍や但馬国衆を加えて7,600人となっていた。『太平記』には、そのときに、越中の桃井直常、越前の斯波高経から、尊氏を離反し直冬軍に呼応して上洛の軍を起こし、同時入京をしめし合わす旨の密使を送ってきたとある。
朝来郡に入り、与布土谷から黒川街道を分け上がって黒川に達し、三国峠を越す。そして山寄上(多可郡多可町)に達し、舟坂峠を越えて三方(丹波市氷上町)に達し、高見城下(丹波市柏原町)へと進んだと推定する。この城は尊氏方の丹波守護仁木頼章が拠っていたからであろう。
仁木氏 足利氏嫡流の義氏が承久の乱の功で三河国の守護に任ぜられると、義清の孫実国は三河国額田郡仁木郷(現在の愛知県岡崎市仁木町周辺)に移り住み、仁木太郎を称した。仁木頼勝は室町幕府初代将軍足利尊氏の執事で丹波守護 後醍醐天皇の建武の新政に反旗を翻した尊氏が敗れて九州へ落ちると、頼章は丹波国に留まり、久下、長沢、荻野、波々伯部など丹波の諸豪族を統率、更に播磨、美作、備前、備中の与党らも糾合し、追撃してくる南朝勢に対する防波堤となった。
尊氏が室町幕府を開くと、頼章は弟義長らとともに北朝・武家方の武将として越前金ヶ崎城攻めや河内四条畷の戦いなど各地を転戦し、また丹波の守護に任ぜられた。
尊氏の執事(後の管領)高師直と尊氏の弟直義の確執が尊氏派・直義派の抗争に発展すると(観応の擾乱)、頼章は一貫して尊氏派に属して直義派との戦いに活躍し、侍所頭人に任ぜられている。観応2年(南朝:正平6年、1351年)正月には尊氏の子の義詮とともに京を脱出している。同年2月に師直は直義派の上杉能憲に謀殺される。その後、同年10月に頼章が執事に任ぜられ翌年の尊氏と直義の和睦の際には尊氏側の使者を務めている。この間、丹波・丹後・武蔵・下野の守護職を兼帯し、義長と合わせて仁木氏は一時9ヶ国を帯有し、室町幕府草創期の基盤固めに貢献した。
仁木頼勝(1361年~1365年)
仁木頼章・義長の弟
1349年「観応の擾乱」に尊氏派。1353~1360年丹後守護。1359年足利義詮に従い南朝方攻撃、摂津出陣。1362~1365年但馬守護。
長九郎左衛門ら南党勢 三開山城奪回作戦開始
唯一の但馬国人守護 長氏
1366年~1372年 – 長氏(ちょうし)
能登の国人領主長氏(ながうじ、おさうじ)とは無関係。長氏については不明。長(ちょう)弥次郎 但馬山名氏家臣。長信行の男。官途は越前守。但馬美方郡林甫城主(美方郡香美町香住区訓谷)。
高校時代に垣谷先生、長先生がおられ、垣谷先生は垣屋氏の子孫と自らおっしゃておられたのだが、長先生は自ら何も聞いていないのであるが、長で「ちょう」と音読みで読むのが珍しいと思ったと記憶している。長氏の子孫だと思われるが、長氏(ちょうし)は、資料が乏しく、謎だらけの二方郡の豪族である。能登の国人領主長氏のように「なが・おさ」と読むべきなのに、中国からの渡来人のように一文字で音読みである。もともと浜坂の村主などで、長「おさ」が「ちょう」と呼ばれるようになったようなものなのか、とにかく地名を二文字に改めた令にそぐわず、中世まで一文字のまま、しかも音読みのまま続いている。
宿南保氏『但馬の中世史』には、こう記されている。
長氏が但馬守護に任じられた背景には、長氏と山名時氏とが強い関係で結ばれていたことが考えられる。その仲介者としての役割を果たしたのは楞厳寺りょうごんじ(新温泉町田井)とみられる。楞厳寺は正平15年(北朝延文5年=1360)に、南溟禅師昌運(春屋和尚)が小庵(常楽院)を開いたのに始まる。この前々年11月に三開山城が陥落して、北但馬の南党は拠点城を失うが、城主だったとみられる長九郎左衛門は二方郡に退いて、奪回の機会到来を待っていたものと思われる。長氏が支配していたとみられる浜坂の地に、楞厳寺は開創されたのであった。
翌年の正平16年(1361)7月、山名時氏は三たび上洛の軍を起こして美作へ攻め入った。そして守護赤松世貞を追い出し、播磨進出をはかった。赤松軍から寝返り者の安保信善が現れ、但馬に走ってきた。これに勢いづいた長九郎左衛門は、安保とともに北但馬の三開山城奪回の軍を起こす。8月には奪回に成功しているようである。
このような但馬の情勢変化に驚いた南朝軍は、守護不在であった但馬の守護に仁木頼勝が任じられ、彼は三開山城に近い安良十郎左衛門が拠る安良城に入る。厳寒期を前に、美作にいた時氏軍はひとまず伯耆へ引き上げる。
翌正平17年(1361)6月、山名勢は再び軍を起こして備前・備中へと兵を進めた。これに呼応して、但馬から生野越えに播磨へ攻め入るよう但馬の南党国人衆に進軍を促すが、安良城に籠もる仁木頼勝を置いたまま出征することはできないとこれを拒んだ。楞厳寺が開創されて、山名時氏は南溟禅師昌運に帰依するところがあったのだろう。同寺には同寺宛に時氏が発した書状四通と、開創当初の十数点の文書が残されていた。北但馬国人衆らが時氏といかに関わりあっていたかがわかる。楞厳寺がこれほどの働きができたのは、浜坂の領主、長氏の後ろ盾があったからだと思う。(中略)
正平17年には長九郎左衛門の息子で、のちの駿河守道全は、但馬守護二木頼勝が籠もる安良城を攻めている。これは山名時氏の命によって起こされている。
山名時氏は足利直冬を見限って貞治2年(南朝正平18年=1363)9月、将軍家に帰参した。帰参にあたって時氏は、実力で切り従えた国々の守護職を要望し、因幡・伯耆のほか丹波・丹後・美作を加えて五カ国が宛行われた。しかし但馬の拝領は阻まれた。まだ但馬の南半分は反山名の国人らによって固められている。
但馬の守護はもとのまま仁木頼勝に安堵された。しかし貞治5年12月14日、将軍家御教書は、長駿河守道全に、それから4年後の応安3年10月10日付の同書には、長伊豆守入道に宛てて施行されている。
但馬守護が仁木氏から長氏に替わったことにより、その被官となっていた国人領主らに影響を与えた。但馬守護に長氏が任じられたということは、その時点で実質的には山名時氏がそれに任じられたものとみてよいだろう。
織豊しょくほう(安土桃山)時代まで続いた山名氏
1372年~1376年 山名師義もろよし 山名時氏の嫡男。丹後・伯耆・但馬守護
1376年~1389年 山名時義 時氏の五男。美作・伯耆・但馬・備後守護
1389年~1390年 山名時熙ときひろ 時義の長男。但馬・備後・安芸・伊賀守護
1390年~1391年 山名氏清 時氏の四男。丹波・和泉・山城・但馬守護
1392年~1433年 山名時熙 時義の長男。但馬・備後・安芸・伊賀守護
1433年~1454年 山名持豊(宗全) 時熙の三男。但馬・備後・安芸・伊賀守護。室町幕府の四職。幕府侍所頭人兼山城守護
1454年~1458年 山名教豊 宗全(持豊)の嫡男。但馬・播磨・備後・安芸守護
1458年~1472年 山名持豊 但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。応仁の乱の西軍の総大将。宗全は出家後の法名。
1472年~1499年 山名政豊 教豊または宗全の子で教豊の養子ともされる。山城・安芸・但馬・備後守護
1499年~1536年 山名致豊 政豊の子。但馬・備後守護。
山名誠豊 但馬守護。致豊の弟。
山名祐豊 但馬守護。誠豊の養子、致豊の次男。1580年秀吉率いる織田軍に包囲される中、死去。
山名堯熙 但馬・備後守護。祐豊の三男。のち秀吉に所領を与えられ豊臣家の家臣となり秀吉に仕える。