10.銅鐸・鰐口・神社の鈴

身近な祭式に用いられたかも知れない銅鐸は、地中に埋められ人々の前から姿を消してしまう。
寺院などの軒先にある風鐸、鰐口、鈴は残った。本来鈴の清らかな澄んだ音色には、悪いものを祓う力があると信じられてきた。
神社で拝殿前に吊るされた鈴も、お参りする人が鳴らすことで祓い清めるという意味を持っている。しかし神社で鈴を鳴らして拝むのは、戦後に広く行われるようになったもので、出雲大社などでは昔も現在も拝殿に鈴はないし、地域の社や祠などにももともと鈴はさげられていなかった。
「鈴」とは、音を出す道具の一つである。土器や金属、陶器などでできた中空の外身の中に小さな玉が入っており、全体を振り動かすことで音を出すものである。銅鐸も鈴の原型であったと考えられる。似たものに鐘がある。英語ではbell。鈴は内部に玉や鐸は舌という棒状のものを吊るし音を出すが、鐘の場合、舌や撞木は人間が触れることができ、紐やワイヤーで鐘の外身あるいは鐘の置かれた建造物とつながれている。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』-長浜浩明氏は、

古事記は、わが国を「豊葦原の瑞穂の国」と記しているが、どのような意味なのだろうか。
(中略)
実は、古代日本は製鉄原料に事欠かなかった。火山地帯の河川や湖沼は鉄分が豊富で、水中バクテリアの働きで葦の根からは褐鉄鉱が鈴なりに生ったからだ。
では何故、鈴なり=鈴というのか。
(中略)この褐鉄鉱は時に内部の根が枯れて消滅し、内部の鉄材の一部が剥離し、振ると音が出ることがある。鈴石などと呼ばれる。褐鉄鉱=スズが密生した状態が「すずなり=五十鈴」の原義であった。(中略)どこか銅鐸に似ているように思えないか。
(中略)
ここに至り、「豊葦原」の意味がわかった、といっていいだろう。わが国では神代の昔から鉄が作られ、人びとは製鉄職人を崇め、最初の原料はスズ=褐鉄鉱であった。
当時の人々は、「葦原」はスズを生み出す源でることを知っていた。従って、「豊葦原」とは、「貴重な褐鉄鉱を生む母なる葦原」という意味なのだ。
(中略)
高知県西部の四万十川上流、窪川町の高岡神社には五本の広峰銅矛があり、それを担いで村々を回る祭りがある。(中略)その本義は、葦の玉葉が生い茂るのを祈り、葉が茂ればその根にスズがたくさん生み出される、それを願って行われたに違いない。

また鐸とは「大鈴なり」とあるように、鈴石の象徴。これを打ち鳴らすことで葦の根にスズが鈴なりに産み出されることを祈ったのだろう。そして、祭器としての矛や鐸は、古くは神話にあるように鉄が使われていたが、青銅器を知るに及んで、加工しやすく、実用価値の低い青銅器を用いるようになっていった。このような考えに逢着したのである。

[catlist id=96]

08.銅鐸はなぜ消えたのか

[wc_box color=”warning” text_align=”left”]

銅鐸はなぜ消えたのか

[/wc_box]

砕かれた銅鐸見つかる!


久田谷銅鐸片 豊岡市立歴史博物館(但馬国府・国分寺館)蔵(許可を得て拙者撮影)

久田谷遺跡で発見された銅鐸は、すべて5~10センチ前後に砕かれ、復元が困難であるため高さ、幅、重量については明確にすることは困難である。しかし、銅鐸の破片が117片あり、これらの割口は古く、工事中に壊されたものではなく、壊された状態で廃棄、あるいは埋められた。弥生時代末期。遺跡の確認調査で出土した土器は、弥生後期から古墳時代であり、工事中に出土した土器は、弥生前期から古墳時代前期に至ることがわかった。また、銅鐸片の出土が発掘調査により、遺構内から出土したものではない。
-『日高町史』資料編-

兵庫県立考古博物館(兵庫県加古郡播磨町大中500)で銅鐸の破壊実験があるというのでめったにない機会に行って来た。兵庫県立考古博物館 館長 石野博信先生らが4つのパターンで金属工場が製作したレプリカ銅鐸を破壊する。

Ⅰ:カケヤで叩く
Ⅱ:焚き火で加熱(10分)後、水をかける
Ⅲ::焚き火で加熱(10分)後、カケヤで叩く
以下パターンⅢを繰り返す
いろいろ試した結果、ついに割れました。しかし、今の知識をもってしても久田谷銅鐸のようにきれいに細かくは砕けないことが分かった。

大己貴神おおなむちは素盞鳴尊すさのおおのみことの子であるあるとも、数代後の子孫であるとも、また娘婿であるともされており、系譜は不明瞭である。また、別名、大国主神、国作大己貴命、葦原志許男命など複数の別名がある。

天火明命あめのほあかりのみことは大巳貴命おおなむちの子とされる。大巳貴命は大穴牟遅とも書くように、製鉄・青銅器に関わる。その原料の砂鉄のある山を鉄穴山かなやま、働く人々を鉄穴師かなし、穴師という。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏は、“「銅鐸」と「豊葦原」の謎を解く”で、
かつて和辻哲郎は、九州を銅剣・銅矛文化圏、近畿を銅鐸文化圏と呼び、弥生時代はこの2つ文化圏が対立してきたように思われてきた。(中略)その後、奈良の唐古・鍵遺跡から銅鐸・銅剣・銅戈の鋳型が同時発掘され、「銅矛圏が銅鐸圏を滅ぼした」や「殺し尽くした」なる推定が「誤り」であることを裏付けた。

荒神谷遺跡 6個の銅鐸と16本の銅矛が同時に発見された場所に複製品が再現展示されている。実物は出雲大社の東横手にある島根県立古代出雲歴史博物館に展示保存されている(拙者撮影)

(中略)昭和60年、島根県の荒神谷遺跡で6個の銅鐸と16本の銅矛が同時に発見された。長野県中野市柳沢遺跡からは、紀元前2世紀頃の銅鐸4個分の破片と7点の銅戈が刃先を千曲川に向けて埋納されていた。
この考古事実は、近畿を中心とする銅鐸文化圏と北部九州を中心とする銅剣
・銅戈文化圏なる見方を否定した。両者が「相容れざる祭祀圏」なら、同時埋納はあり得ないからだ。
[catlist id=96]

01.破壊されたミステリー

謎だらけの日本古代史にあって、とびきりミステリアスな歴史区分として、「銅鐸(どうたく)」を取り上げたいと思います。

砕かれた銅鐸見つかる!

わが町日高町は、全国でも稀な打撃により粉々に破壊されて出土した「久田谷銅鐸」があります。

歴史研究家 谷川健一氏は、

謎だらけの日本古代史にあって、とびきりミステリアスな出土品、それが銅鐸だ。
まず、出土の状態からしてわからない。専門家によれば、銅鐸はそのほとんどが人目につかない山の中腹などで発見される。

まるで、誰かの手で意図的に隠されたかのように。
なかには、兵庫県豊岡市日高町久田谷の銅鐸破片など、故意の加熱や打撃により破壊されて出土する例さえあり、それらの時期は弥生時代中期から末期に集中しているという。
一方で「古事記」「日本書紀」の記述---。

記紀には、銅剣や銅鉾が姿を見せるにもかかわらず、銅鐸に関してはただの1文字すら記されていない点も大きな疑問だ。こうした事実はいずれも、古く畿内を中心に存在した銅鐸の文化と4世紀以降の古墳文化(ヤマト王権)の間に、大いなる断絶、戦争などの破局的事態があったことを物語はしないだろうか?歴史の記憶から抹消された銅鐸のミステリー、その背後には、「日本(ヒノモト)」という国名の誕生にまつわる、壮大な「アナザー・ヒストリー」が浮かび上がってくる。

何々・・・?破壊された銅鐸がみつかったってそんなに珍しいものなんか?!

ここから「気多(けた)とは何か?日高町の先住者、気多人はどこから来たのか?」という、以前から知ってはいたけど。興味のあったテーマにようやくとりかかることになってしまいました。

久田谷(クタダニ)銅鐸

銅鐸発見場所の付近(豊岡市日高町久田谷)

出土地は、神鍋に通じる旧道沿いと思われる付近で、昭和53年(1977)5月、県営ほ場整備の工事中、発見された。
当時発見された銅鐸破片についてくわしく調査された結果が日高町史(資料編)に記載されています。

久田谷遺跡で発見された銅鐸は、すべて5~10センチ前後に砕かれ、復元が困難であるため高さ、幅、重量については明確にすることは困難である。しかし、銅鐸の破片が117片あり、

—これらの割口は古く、工事中に壊されたものではなく、壊された状態で廃棄、あるいは埋められた

—-形式は弥生終末期—–遺跡の確認調査で出土した土器は、弥生後期から古墳時代であり、最近工事中に出土した土器は、弥生前期から古墳時代前期に至ることがわかった。

また、銅鐸片の出土が発掘調査により、遺構内から出土したものではない—–


但馬国府国分寺館銅鐸展示展(ピンぼけしていてすいません。)
破壊銅鐸
銅鐸は現在470口あまり確認され、その分布は北部九州から東海地方に及びます。なかでも、粉々に破壊された事例が見られます。破壊銅鐸は、この久田谷銅鐸を含め、兵庫県内4例をはじめ、大阪・岡山・鳥取・香川・奈良・滋賀・愛知・静岡・長野など30例あまり確認されています。
兵庫県内4例
久田谷銅鐸(豊岡市日高町久田谷)突線紐5式鐸身3分の1程度117片
女代銅鐸(豊岡市九日市上町女代)とっせん紐2式片側鰭(ひれ)部下端断片
岩野辺銅鐸(宍粟市岩野辺)
姫路市大井川第6地点
日高町久田谷遺跡で見つかった粉々に破壊された銅鐸片は、気比銅鐸よりも後の弥生後期のものとされ、組み立てれば120cmにもなる巨大な銅鐸だそうです。
ではなぜ、久田谷銅鐸はバラバラだったのでしょうか。その理由には、
・砕いて別の銅製品の原料にした
・砕くことで銅鐸を祀る「カミ」が否定された
などの説があります。
但馬国府・国分寺が置かれていた兵庫・日高町…
但馬でも発掘される古墳の数や遺跡の多さ、
社寺の数等では、但馬古代史の宝庫といわれています。
そこでずっと興味があったこと…改めて「気多(ケタ)」という地名及びエリアの誕生にまで遡って考えてみることにしました。ここでは地元の豊富な遺跡や遺構をもとに、日高町という名称以前の地名であった「気多(ケタ)」という郡名、そしてこの土地をそう名付けた愛すべき我々の祖、古代人を、「気多人(ケタジン)」と呼ばせてさせていただき、史料を紐解き、素人だからこそ、独断と偏見?!で大胆かつ自由な仮説が展開できるのかも知れないと思います。
但馬地方ではこの他に2か所で発見されています。

<table class=” aligncenter” style=”width: 500px;”>
<tbody>
<tr>
<td style=”width: 500px;”>[catlist id=446]</td>
</tr>
</tbody>
</table>

11.実験『銅鐸を壊す』

[wc_box color=”warning” text_align=”left”]

実験『銅鐸を壊す』

[/wc_box]


兵庫県加古郡播磨町大中
銅鐸破壊実験見学のため、かねてから一度訪ねてみたいと思っていた兵庫県立考古博物館に行って来ました。
豊岡市から播磨町へは兵庫県(本州)の北端から南端です。播但連絡道から加古川バイパスで行くのが正統ですが、節減のため時間的に余裕もあったので豊岡自動車道の氷上までの無料区間から国道175号線で行きました。
加古川バイパスがすでに無料になっているのを忘れていたのですが・・・。
いつ行っても加古川平野は周囲が平坦な丘陵で道路がゆっくりとカーブし方向がつかめません。
兵庫県の考古学の拠点として2007年10月13日に開設され、兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所も 神戸市兵庫区荒田町から兵庫県立考古博物館へ移転しました。


下に伸びる手をイメージしたシンボルマークがいいです。

県指定重要文化財の深田遺跡出土品(豊岡市日高町)の木簡や「但馬」と記された墨書土器が保存してあり、実物を見たかったのですが、訪ねてみると定期的に常設展示ではないようで特別公開があるそうです。
国指定史跡大中遺跡の隣接地にあり、この史跡を整備して「播磨大中古代の村」として公開・管理する役割を担うとともに、従来の展示物を観てもらうという展示物主体の博物館ではなく、来館者に参加し体験してもらう新しいスタイルの参加体験型博物館として設置運営されており、常時体験学習を実施してされています。

昨日何げに兵庫県立考古博物館のHPを見ていたところ、2月8日(日)にこの実験が行われるというので、兵庫県立考古博物館(兵庫県加古郡播磨町大中500)に行って来ました。豊岡市久田谷遺跡は当住処からすぐのところで、全国でも珍しい破壊銅鐸片が見つかった場所です。どのようにして上手に正方形に切り刻んだのかは謎です。
-体験-『銅鐸を壊す』
弥生時代のナゾ、壊された銅鐸に迫る!
講演と破壊実験:
兵庫県立考古博物館 館長 石野博信先生
銅鐸(どうたく)はナゾに包まれた弥生時代の祭器です。兵庫県の豊岡市の久田谷遺跡では粉々に破壊された銅鐸が出土しました。このような祭器の破壊行為は銅鐸を祀る“宗教的な行為”が否定されたと考えられます。しかし、どうやって破壊したのか実態がよくわかっていません。今回は復元した銅鐸をつかって破壊方法を検証してみます。
破壊実験に用いるレプリカ銅鐸
1 朝日銅鐸(愛知県:弥生時代中期末から後期初期)
レプリカ成分:神於(こうの)銅鐸(大阪岸和田 弥生時代中期)
(銅68.96% 錫15.45% 鉛5.63%)
4つのパターンでレプリカ銅鐸を破壊する。
Ⅰ:カケヤで叩く
Ⅱ:焚き火で加熱(10分)後、水をかける
Ⅲ::焚き火で加熱(10分)後、カケヤで叩く
以下パターンⅢを繰り返す

  

  

現在470点あまり確認され、その分布は北部九州から東海地方に及ぶ。弥生時代前期から後期にかけて出現。
破壊銅鐸:兵庫の豊岡市久田谷遺跡(県内4例:宍粟市岩野辺・豊岡市九日市・姫路市大井川第6地点)をはじめ大阪・岡山・鳥取・香川・奈良・滋賀・愛知・静岡・長野など30例あまり確認されている。

 

いろいろ試した結果、Ⅱ:焚き火で加熱(10分)後、水をかける
Ⅲ::焚き火で加熱(10分)後、カケヤで叩く、
でついに割れました。しかし、久田谷銅鐸のようにきれいに細かくは砕けませんでした。
ますます謎です。

2009/02/08
[catlist id=96]

09.銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでの空白

[wc_box color=”warning” text_align=”left”]

銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでの空白

[/wc_box] 銅鐸はなぜ消えたのか?
森浩一先生の資料(新しい発見数などは修正しています)と石野博信館長(兵庫県立考古博物館)のお話しをまとめますと、

「銅鐸は現在470あまり確認されています。その分布は北部九州から東海地方に及びます。弥生時代前期から後期にかけてつくられています。銅鐸が出土している国単位では、加茂岩倉遺跡の発見により今のところ一番多いのは出雲です。二番目に多いところは阿波の国(徳島県)です。兵庫県のように播磨や但馬や淡路などたくさん国があるところは別です。だから一国一県単位で言うと、出雲の次は阿波の国です。その次が紀伊・近江です。それに対して、大和の国は19個でわずかとしか言いようがないです。

前方後円墳がつくられる時代は、銅鐸というものが地上から姿を消して、少なくとも50年は経っており、銅鐸がなくなってすぐ前方後円墳ではないのです。奈良県がものすごい富と権力の中心になるのは、箸墓古墳とか、西殿塚古墳とか、そういう2百メートル級の大きな前方後円墳が造られた後なのです。それは、3世紀の終わりと言ってもいいです。それ以後に大和が強大になるのです。それ以前は並の土地です。大和にあるぐらいの弥生遺跡ならばどこにでもあります。そういう古墳から銅の鏡が20枚も30枚も出ていますが、しかし、弥生時代の奈良県には銅の鏡があったという証拠はほとんどありません。また銅鐸が古墳から発見された例はありません。それを謎だという人がいますが、いずれにしても、銅鐸は他の遺物と違って、弥生時代の中で生まれて完全に消えていきました。そして宗教改革ともいえる飛鳥時代の仏教伝来です。飛鳥時代になって、崇仏派の推古天皇・聖徳太子や蘇我氏が「もう、こんな神様はいらん!」ということで、仏教が注目されました。仏教を嫌ったとされる物部氏こそ、銅鐸を祀る祭祀氏族であると思えるのです。物部氏の信頼とシンボルの銅鐸が久田谷(兵庫県豊岡市)では叩き割られたり、埋め殺されたりしたんじゃないかという可能性が高いと思います。

銅鐸を拒否した新王権

しかし、銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでには50年以上の空白があります。ヤマト王権が統一する過程で銅鐸はすでに用をなさず自然に忘れられてしまったのかも知れません。いえ、そんなはずはありません。高価なものを再利用もせずに生めてしまうには大きな政治的力が起きたのです。
銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでには50年以上の空白があります。

つまり、古墳を造る際には銅鐸は忘れ去られていたことになります。ヤマト王権が中央集権化をすすめる過程で銅鐸文化を担った地方豪族を組み入れるために、銅鐸を埋設あるいは破壊していったわけではない[*2]のです。

ヤマトを地盤にした新王権は、明らかに銅鐸を拒否したのです。弥生末期、ヤマト及びその周辺で巨大銅鐸が作られていますが、出雲と吉備は青銅器祭祀を止めています。一方、分布から北部九州は銅鉾が主流で、銅鉾圏と銅鐸圏が対立していたとされます。これは祭祀のうえでヤマト王権が起こる直前の時期です。
銅剣と銅鐸が消えた三世紀初め頃の出雲には、四隅突出型方墳という、倭人のものとは思えない奇怪なヒトデみたいな墳墓が安来地方や荒神谷近辺に出現しました。鳥取大山の妻木晩田遺跡から、最も古い形式らしい四隅突出型方墳が発掘されました。この日本最大の妻木晩田遺跡の人々が安来地方などに移動したとも考えられます。

一方、瀬戸内海の吉備(岡山県)では、銅剣時代を経て古墳時代前夜へと入り、墳墓群が出きつつありました。ほぼ同時期、出雲と吉備にそれぞれ王と呼んでもいい首長が現れ、銅剣や銅鐸の祭祀を村落共同体から排除してしまうのです。ということは、その頃さかんに巨大銅鐸を作っていた近畿の文化圏からの離脱を意味します。銅鐸を作らなくなった時点で、出雲は近畿の敵になりました。出雲大社では、スサノオを祀る素鵞社を覆い隠すように巨大な出雲大社本殿が建てられています。スサノオが「すさぶる王=荒ぶる神」として憎しみを込めて追放されているのは、この間の事情を繁栄しているのかも知れません。

また弥生時代の鏡は佐賀県とか福岡県からたくさん出ています。特に福岡県では2百枚は十分出ています。だから、大和(奈良県)は弥生時代は並の土地で、前方後円墳が出来る頃から急にすごさがわいてきます。ただし、それが永久に続くかというとそうではないです。奈良の都の途中からガタガタになって、もう奈良には都を置ける土地ではありませんと言って京都に行ってしまうのです。大和が、交通とか経済とかで本当にすごい所であれば何も平安遷都する必要はありません。だから長い目で見たら、
大和が、勢力の中心であったのは、西暦4世紀から8世紀の終わりまでの、(長い歴史のわずか)4百年間の出来事です。
ヒトデみたいな奇怪な墳墓(四隅突出墓)を造っている祭祀王国-そんな出雲への認識や記憶が近畿人に定着し、祟(たた)る神として恐れられ、『古事記』で多くを「出雲神話」にあてているのも、大和の天皇家をなんとか正統化したいという苦心の原型になったとも考えられます。

銅鐸から考える

キリスタンの踏み絵ではありませんが、荒神谷や加茂岩倉遺跡のように、銅剣や銅鉾、銅鐸をなぜ人目のつかない場所に隠すように埋めたのでしょうか。

蘇我氏=ヤマト朝廷によって埋めさせられたのか。のちの6世紀半ばの欽明天皇期には仏教が伝わり、物部守屋と蘇我馬子が対立。後の仏教推進派の聖徳太子は蘇我氏側につき、神道派の物部氏を滅ぼしました。以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として仏教を権力に政治を握り、記紀の編纂では、藤原不比等によって歴史の解釈がややこしくなってしまいました。

しかし物部氏は、そのあと飛鳥時代までのおおよそ600年間も、武力と祭祀を司る重要な氏族として存続していました。なぜ、神の祭器である銅鐸や銅剣を破棄することを条件にその後も政治や神事に関与することが許されたのでしょうか。物部氏こそ、銅鐸を祀る祭祀氏族であるとするならば、物部氏自らが宝物といえる大切な神具を二度と使えないようになるまで、粉々に砕くことができたでしょうか?それは祖神=ニギハヤヒやウマジマシへの神への冒涜であり、氏族の尊厳を捨てることを意味することだと思えるのです。

ヤマト政権が天皇をいだいて日本を統一していく時代。『播磨風土記』で天日槍(アメノヒボコ)が但馬の養父と気多に葛を落としたという記載と、気多郡で見つかった全国でも珍しい粉々の銅鐸片は、単なる偶然なのか?私なりに想像しますと、それは、養父郡と気多郡の王が最後までヤマト政権に抵抗したのだという史実を語っているのではないかと思います。

[*1]…大和の国は銅鐸出土が19個でわずかとしか言いようがない。
[*2]…前方後円墳の時代は、銅鐸というものが地上から姿を消して、少なくとも50年は経っておりヤマト朝廷の関与は考えにくいこと。大和朝廷が勢力の中心であったのは、400年間。
[*3]…中国・朝鮮半島の小銅鐸小銅鐸と日本の一番古い銅鐸には日本列島人のアイディアというか独創力がものすごく入っている。
[*4]…北部九州起源論
[*5]…銅鐸文化圏と銅剣・銅矛文化圏は古い説
[*6]…原料は全部大陸からのスクラップ説というのは無理がある。銅製品の原料国産説。
[*7]…加茂岩倉の兄弟銅鐸の分布から、銅鐸が山陰地方や近畿地方に配布されたのならば、出雲特有の四隅方形墓が因幡・但馬に出現しない事は、銅鐸を使用した祭祀集団と、四隅方形墓の集団は別の時代の別のルーツを持った集団である。
[*8]…弥生時代の住居から土器とは一緒に見つからないこと。弥生時代末期に集中して山裾などに埋められているか、意図的に破壊されている。

出典: 兵庫県立考古博物館石野館長の公開講座

2009/08/28
[catlist id=96]

07.銅鐸はどのように埋められたのか

[wc_box color=”warning” text_align=”left”]

銅鐸はどのように埋められたのか

[/wc_box]
埋納状況

埋納状況については、村を外れた丘陵の麓、或いは頂上の少し下からの出土が大部分であり、深さ数十センチメートルの比較的浅い穴を掘って横たえた物が多いのです(逆さまに埋められた物も二例ある)。一、二個出土する場合が多く、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡(最多の39個)のような十数個同時に出土した例も五、六あります。あまり注目される事がありませんが、頂上からの出土が無いことは銅鐸の用途や信仰的位置を考える上で重要と考えられています。土器や石器と違い、住居跡からの出土はほとんど無く、また銅剣や銅矛など他の銅製品と異なり、墓からの副葬品としての出土例は一度もないため(墳丘墓の周濠部からの出土は一例ある)、個人の持ち物ではなく、村落共同体全体の所有物であったとされています。なお、埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中しています。 銅鐸を埋納したことの理由については以下のように諸説あります。

調査を経て記録された銅鐸の多くは、銅鐸よりもわずかに大きな穴を掘り、そこに鰭を上下として銅鐸を横たえて埋納しています。この方法は最古段階の菱環鈕式銅鐸から新段階の突線鈕式銅鐸まで一貫しており、銅鐸埋納には一定の法則があったことがわかります。しかし、少数ながら天地を逆転して埋めたものなどもあります。

銅鐸は単独で埋められるほかに、多数の銅鐸を一度に埋める場合、一定の範囲に分散して埋める場合があります。島根県の加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が、神戸市桜ヶ丘では銅鐸14個と銅戈7本がともに埋納され、野洲市大岩山からは、14個と9個と1個の銅鐸が近接する3つの地点からみつかっています。また、静岡県浜松市(旧引佐郡細江町)の都田川流域・浜名湖北岸の三方原台地ではこれまで14地点から16個もの銅鐸がみつかっています。

多数が一度に埋納される際には、大小を「入れ子」としたり、鈕を向かいあわせとするなど小さく埋納しようとする意図がみられます。なぜ銅鐸を埋納したかについては、土中保管説、隠匿(いんとく)説、廃棄説などの諸説がありますが、複数出土した銅鐸をみると型式的に相前後する銅鐸で構成されており、それらは突線鈕1式までのものと、突線鈕2式以降のものに分離できることができます。このことから銅鐸埋納は、大きく弥生時代中期後半と後期後半の2回の埋納時期があったと考えられます。

埋納した理由の推測

米や穀物の豊穣を祈って拝んだのではないかと言う説
しかし、これには反論があり「祭るための宝物ならそれなりの扱いを受けるはずで、そのような施しは見受けられない」ということであります。だが、この場合の「施し」というものが具体的にどのような痕跡を指すのかが問題であります。
平時は地中に埋納し、祭儀等の必要な時に掘り出して使用したが、祭儀方式や信仰の変化により使われなくなり、やがて埋納されたまま忘れ去られたとする説(松本清張等)

特に「聞く銅鐸」の紋様の不鮮明さは埋納時から発掘までの土中での経年劣化ではなく、磨く等の行為によるものとされており(佐原真)、祭りの度に繰り返し掘り出し磨かれたためといいます。かつての東南アジア方面(ベトナム等、しかし現在は不明)の銅鼓も日ごろ地中に埋めてあり、祭りの時や葬儀の時取り出して使用していたといいます。

大変事にあたり神に奉納したのではないかという説

十数個同時に出土する例は「大変事」の規模にあわせたために大量に埋納したのか、全国各地で出土するのは全国規模で弥生時代を通して「大変事」が頻発したのか、等を埋納状況などを踏まえた上で考える必要があります。

地霊を鎮めるために銅器を埋納した風習という説

古代華南にそのような風習が見られた。

文字の未だ定まっていない時代に、任命書に代えて鏡ではなく銅鐸を授与したという説

そもそも鏡を任命書として与えるような権力者、集団が当時日本列島に存在したかがまず問題である(古墳時代には銅剣、銅鏡のように、同盟集団に配布したと思しき例が少なからずあるようである)。

銅鐸を祭る当時の列島の信仰的背景とは著しく異なる文化を持った外敵が攻めて来た等の社会的な変動が起きた時に、銅鐸の所有者が土中に隠匿して退散したという説(古田武彦等)です。

この「外敵」を後世の有力集団の祖先に擬する説もあります。
しかし、全国的に似たような埋納のされ方なので、慌てて隠したのであればいろいろな埋め方があるはず、という反論があります。また、その外敵が銅鐸祭祀を否定する集団で、支配下に置いた地域の住民に銅鐸祭祀を放棄させたと考えれば、銅鐸が壊れた状態で出土することや、三世紀に急速に銅鐸祭祀が廃れたこと、銅鐸の用途が全く伝わっていないことなどに説明がつくという説もある。
政治的な社会変動により、不要なものとして(多数の場合は一括して)埋納したという説(三品影映・小林行雄等)
つまり、弥生時代の個々の村落を統合する新しい支配者が現れるとして、人々がより大きな集団を構成する際に、それまでのそれぞれの共同体の祭儀から専制的権力者の祭儀への変化が起き、各々の村落で使われていた銅鐸を埋納したというものであります。その際、集落によっては銅鐸を壊す等の行為もあったと思われ、一部の破壊銅鐸の出土はこのような理由によるとします。また、この社会・祭儀の変化とは次の古墳時代への変化のことと関連付けられる事が多い。

しかし、遺跡ごとに用途・保管方法や埋納の事情は異なっていたと考えられるため、すべての銅鐸を一律に論じる事は危険であります。[catlist id=96]

06.銅鐸は何に使われたか

[wc_box color=”warning” text_align=”left”]

銅鐸は何に使われたか

[/wc_box]

現在のところ用途は未だ定かではありませんが、第一に、銅鐸は日常の物ではないのです。つまり家庭用品ではありません。銅鐸は特殊なものであるということがまず大前提です。2番目は、銅鐸を鏡のように副葬品として故人の墓には入れません。銅鐸の中で現在確実に墓に入った例は小銅鐸以外ありません。

初期の小型の物は鈕(チュウ=つまみ)の内側に紐(ひも)などを通して吊るし、舞上面に開けられた穴から木や石、鹿角製の「舌(ぜつ)」を垂らして胴体部分か、あるいは「舌」そのものを揺らし、内部で胴体部分の内面突帯と接触させる事で鳴らされたと考えられています。

本来、中国の銅鈴が起源とされているので家畜牛の首に付けられていたカウベルではないかとも言われていますが、日本では祭祀に用いられる小国の威厳を誇示する特別な神楽器となったのではという説では、1世紀末頃には大型化が進み、鈕が薄手の装飾的な物への変化が見られることから、(後述のように異論はありますが、)音を出して「聞く銅鐸」目的から地面か祭殿の床に置かれて「見せる銅鐸」目的へと変化したのではないかと言われています。
しかし、森 浩一氏はこう書いています。

「古い小型の銅鐸ほどいい音がします。ただし1メートルくらいの銅鐸が全くいい音がしないというのではありません。実は1メートルくらいの大きい銅鐸ほど実験をすると釣鐘で言うと余韻が残るのです。だから古い小型の銅鐸はいい音がするけれども、ボワンと消えてしまいます。1メートルくらいの銅鐸は叩くと釣鐘の余韻のようにウーウーと残っています。橿原考古学研究所の紀要にその実験データが載っています。だから大きい銅鐸は見るだけだと強弁している学者がいますが、それは違うと思います。銅鐸には最初から最後まで見る要素と聞く要素の両方あるのです。

音の要素についていえば、単に鳴るだけではなくて、大きくなって余韻が響くようになったのです。考古学者榧本亀次郎さんの解釈では、銅鐸というのは毎日ぶら下げているのではなくて、お祭りの時だけとかあるいは10年に1回の重要な時とかに、しかも粗紐ではなくておそらく柔らかい幅のある布のような物でV字型にそっとぶら下げたのではないかと思われます。だから、そんなにひどい擦り目というのは出ないと言うわけです(森 浩一)。」

銅鐸は、銅鐸そのものがもつ意味もさることながら、銅鐸にかかわる祈りが存在していたと考えられます。弥生時代の最大関心事は、米づくりに代表される生産基盤の安定とムラの存続と維持発展にあったと考えられます。耕地の確保といった土木事業を展開するためには人々が心をひとつにする必要があり、ここに共同体の祭器として銅鐸のまつりが最もふさわしいと考えられるのです。ベルは古くから神々を招き、願いを聞き届けるために重要な役割を果たす儀器であり、シャーマン(司祭者)が銅鐸を用いて豊穣と祖霊を崇め、ムラムラの発展を祈願する祭祀がとり行われたのでしょう。

弥生の社会が必要としたのは、王のリーダーシップだけではなく、むしろ重要視されたのが、人間の及ばない自然をコントロールすることです。

どれだけ優れたリーダーのもと、完璧な計画を立てて灌漑や作付けを行っても、収穫前に来る台風ひとつですべてが台無しになりかねない。彼らが自然を神に見立てて祈りに力を入れたのは、その自然だったのです。

展示されている青銅器は青っぽく錆びていますが、当時は黄金に輝いていました。金や銀はまだ使われていなかったため、初めて見る金属の輝きは現代人にとってのダイヤモンド以上にまぶしかったはずです。

三品彰英氏は佐原氏の地中保管説を受けて、銅鐸は地霊や穀霊の依代(よりしろ)であり、大地に納めておくことが大切なことであり、銅鐸を掘り出すことは地霊・穀霊を地上に迎えまつること(地的宗儀)で、まつりが終わると再び大地へ埋め戻すもので、やがて古墳時代を迎えると鏡に代表される天の神、日の神のまつり(天的宗儀)にかわり、銅鐸は土中に放置されたと説明されています。
扁平鈕式古段階までの銅鐸は、近畿地方の中でも摂津北部、大和、河内、山城といった畿内を中心に製作され、その分布地から主に近畿以西の西日本に広がっています。弥生時代中期の段階は、畿内の勢力がより西の地域との連合を意図して銅鐸祭祀を普及させたと考えられます。これが扁平鈕式

そして突線鈕式銅鐸の段階になると銅鐸は「近畿式銅鐸」と「三遠式銅鐸」という二つの大形銅鐸にまとまり、分布は畿内周辺部と東海地方へ移っていきます。弥生時代後期、畿内勢力は新しく大きな近畿式銅鐸によって、周辺地域と東海地方への連携施策を講じたものと推定されます。

実際に荒神谷や兵庫県立考古博物館のレプリカをたたいてきました。「コ~~ン」と響くいい音でした。

銅の特長

青銅(せいどう、bronze)は、銅Cu を主成分とし錫(スズ)Sn を含む合金のことで、銅と錫の鉱石は混在することから、メソポタミアでは紀元前3500年頃から銅に錫が混ざった青銅で道具を作るようになりました。青銅器はエジプト、中国(殷王朝)などでも使われるようになり、世界各地で青銅器文明が花ひらきました。加工しやすく表面にできる保護被膜が腐食の進行を防ぎ耐食性の高さなどから 古来貨幣の材料としても利用されてきました。

本来の青銅は黄金色や白銀色の金属光沢を持ち、その見た目から古代において金銀に準じる金属として利用された面があると考えられています。添加する錫の量が少なければ日本の十円硬貨にみられるように純銅に近い赤銅色に、多くなると次第に黄色味を増して黄金色となり、ある一定量以上の添加では白銀色となります。しかし、青銅は大気中で徐々に酸化されて表面に炭酸塩を生じ緑青となります。そのため、年月を経た青銅器はくすんだ青緑色、つまり前述の青銅色になるので、青銅器といいます。青銅には、適度な展延性と、鋳造に適した融点の低さや流動性があり、鉄が、銅よりも安価かつ大量に供給されて普及する以前には、もっとも広く利用されていた金属でした(青銅器時代)。

かつて緑青は、教科書や百科事典にも有毒や有害と記載され、間違って教育されてきた経緯があります。東京大学医学部衛生学教室の元教授・豊川行平氏は、「緑青のグリーンが毒々しく見えたから、いつのまにか毒だと信じ込んでしまったのではないでしょうか」と語っています。その長い歴史のなかで、緑青によって生命がおびやかされたことはありません。いたずらに恐れたり、心配する必要はないのです。人と銅との長い歴史がそれを証明しています。しかし、銅は生物の代謝が正常に行われるうえで必須の元素でヒト一人当たり100から150 mgの銅が含まれ主に骨や肝臓に存在しますが、同時に過剰供給されると、足尾銅山鉱毒事件に見られるように毒性を示します。

銅は他の金属に比べ抜群の導電率を持ちます。この特性からコードや電子機器に欠かせない部品として活躍しています。また熱伝導性にすぐれています。この特性は鍋などの調理道具やマグカップなどに生かされています。
銅管は、すぐれた抗菌力を発揮するので給水、給湯をはじめとして水道管にも利用されています。
たとえば、神於(こうの)銅鐸(大阪府岸和田市 弥生中期)を分析すると、銅68.96% 錫15.45% 鉛5.63%です。
これは合金を人為的に行ったのではなく、前出の通り自然界に銅と錫の鉱石は混在することから、そのまま鋳造したのでしょう。
[catlist id=96]

05.銅鐸の形状と紋様

[wc_box color=”warning” text_align=”left”]

銅鐸の形状と紋様

[/wc_box]
銅鐸のかたち

野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館) によりますと、銅鐸は、つり手「鈕」(ちゅう)とバケツをひっくり返したような「身」(み)、つり手から身にかけて張り出した「鰭」(ひれ)から成り立っています。

銅鐸は本来、内面に振り子「舌」を下げたベルです。銅鐸内面の末端付近には、断面形が台形や蒲鉾形(かまぼこがた)の突帯(とったい)がめぐっています。内面に舌を取り付け、つり手を揺することで舌がこの突帯部分に触れあい共鳴します。古い銅鐸には、青銅製や石製の舌を伴って出土したものがあり、内面上部に舌を下げるため「環」(かん)を取り付けた銅鐸(有環銅鐸)もあります。また、内面突帯(ないめんとったい)が舌との摩擦によって磨り減った銅鐸も認められます。

鈕(ちゅう)は、銅鐸をつり下げる部分で、本来は断面形が菱形をした半環状のものでしたが、後に装飾が加わり兜形(かぶとがた)から小判形(こぱんがた)に変化します。古い銅鐸には鈕と結んだ紐とが摩擦した痕跡をとどめるものがあり、木の枝などに銅鐸を紐(ひも)でつり下げて使用していたと考えられます。

身(み)は、扁平(へんぺい)な筒形を呈しています。身の上面と上半・末端の左右には各々両面に孔があります。この孔は銅鐸を鋳造する際に、二枚の外型と内型を固定するために生じるもので「型持孔」(かたもちあな)と呼んでいます。銅鐸が大形化すると身も裾(すそ)開きの円筒形のものへと変化します。  鰭(ひれ)は、鈕から身の末端付近まで連なる板状の装飾部分で、銅鐸を鋳造する際、二枚の鋳型からはみ出した甲張(こうばり)が装飾化したものと考えられます。

佐原真氏の型式分類(佐原編年)によると、現在主として鈕の形態の変化により編年され、全部で4形式に分類されています。
菱環鈕式(最古式、I式)、外縁付鈕式(古式、II式)、扁平鈕式(中式、III式)、突線鈕式(新式、IV式)です。この他に福田型銅鐸と呼ばれる銅鐸があります。

紋様の種類

・横帯紋銅鐸
・袈裟襷紋銅鐸(6区以外)
・6区袈裟襷紋銅鐸
・流水紋銅鐸

に分けられます。加茂岩倉銅鐸を紋様の種類によって分類すると、石の鋳型で造られた古い段階の銅鐸群は、四区袈裟襷紋と二区及び三区流水紋のグループに分けられます。これに対して、土の鋳型で造られた新しい段階の銅鐸群は、四区袈裟襷紋と六区袈裟襷紋のグループに分かれます。さらにこの四区袈裟襷紋銅鐸には、区画内に絵画を持つものと持たないものがあります。

古い段階の銅鐸群のうち、流水紋銅鐸は全て横型流水紋と呼ばれるものに属します。この横型流水紋は、畿内南部(河内南部・大和・和泉)の弥生時代中期初頭の土器に施紋されていた横型流水紋様の影響を受けたものと見られ、この時期の銅鐸群のほとんどは畿内南部の工房で製作されたと考えられています。ただ、四区袈裟襷紋の加茂岩倉12号鐸には、畿内南部で造られた銅鐸には見られないいくつかの特徴があります。こうした特徴を持つ銅鐸の鋳型が大阪府東大阪市の鬼虎川遺跡から出土していることから、この段階の銅鐸群の中には、河内北部の工房で造られた銅鐸もあることがわかってきましました。

新しい段階の銅鐸群で特に注目されるのは、袈裟襷紋の上の区画内にトンボ・シカ・イノシシなどの絵画を配し、下区に四頭渦紋が鋳出された18号鐸・23号鐸・35号鐸です。描かれた図像に違いはありますが、鈕や鐸身の紋様構成は極めて似通っています。例えば、一般的な袈裟襷紋銅鐸は縦帯に対し横帯が優先して施紋されますが、これらの銅鐸は袈裟襷紋の縦・横帯が切り合っており、袈裟襷紋の中に施紋された斜格子紋様の充填方法を見ても横帯優先となっていません。また、縦帯の幅が身の上部では狭く、下部へ向かうほど広くなっており、これに対応するように、充填された斜格子紋が上部ほど密で下部ほど粗となっています。こうした特徴は、同じ時期の畿内系銅鐸にはあまり見られないもので、これらの銅鐸が出雲で造られたとされる理由のひとつに挙げられています。

これらの銅鐸に描かれた絵画にも、これまで各地で出土した絵画銅鐸にはない特徴が見られます。そのひとつは、18号鐸・35号鐸に鋳出されたトンボが、複線で写実的に描かれていることです。これまで知られている絵画銅鐸のトンボは単線で描かれており、抽象的な表現に留まっていますが、これらの銅鐸の場合は、頭部・胸部・腹部の境がくびれ、各部位が明瞭に区別されています。翅は4本線で描かれ、前翅・後翅の縁が表現されています。さらに18号鐸B面上右区のトンボには、眼を表現したと見られる小さな点も2つ認められ、工人の細かな観察力と表現力が感じられます。

このほかにも鈕にカメを描いた10号鐸、同じく鈕の頂部に人面を描いた29号鐸など、特色のある絵画を持つ銅鐸があります。これらはいずれも六区袈裟襷紋銅鐸で、袈裟襷紋の区画内・鈕や鰭の鋸歯紋帯の無紋部分に研磨の痕跡が認められます。8号鐸・20号鐸も六区袈裟襷紋銅鐸ですが、10号鐸・29号鐸と同様の研磨が施されており、こうした研磨は、いわゆる「見る銅鐸」としての効果を狙った技法と考えられます。また10号鐸には表面に水銀朱が塗布されていることも確認されています。これらの銅鐸からは「見る銅鐸」に込めた弥生びとの想いが伝わってくるようです。
2009/08/28
[catlist id=96]

04.銅鐸とはいったいなんだろうか

銅鐸(どうたく)とはいったいなんだろうか

気比銅鐸

銅鐸は神を招くカネといわれていますが、本来は楽器ではないかといわれ、上からぶら下げ、内部に吊した舌(ゼツ)と呼ばれる青銅製の棒で鳴らします。

銅鐸の起源は3500年前の中国・殷(イン)の時代。世界に先駆けて使われたベルです。当時もカウベルのように牛の区部に小型のものがつけられていたのではないかといわれています。次第に五穀豊穣を祈る農耕祭祀に用いられた祭器となって装飾が施されるようになった。大きさは10センチ前後のものから、日本最大のものでは約130センチを超える大形のものまで見つかっています。
中国の銅鈴が起源とされていますが、日本で出土する形状に類似するものはまだ見つかっていません。また、朝鮮半島には、朝鮮銅鐸と言われる文字も絵もない小型のものが出土します。それらの影響は考えられるが、その後日本の銅鐸は日本で独自に発達しました。

青銅器から鉄器へと移行するのですが、日本へは、紀元前4世紀頃、青銅器は鉄とともにほぼ同時期に九州に伝わりました。青銅も鉄も最初は輸入されていた。

紀元前1世紀頃、国内での生産が始まったといわれています。ちなみに鉄の国内での生産(製鉄)は紀元後5世紀頃だと思われています。  2世紀には大型銅鐸が作られ、技術は東アジアでもかなり高い水準に達していた。

気比銅鐸(レプリカ)銅鐸展 但馬国府・国分寺館

1世紀末ごろを境にして急に大型化します。この大型化した銅鐸には、近畿式と三遠式の二種があります。大きな違いは、近畿式は双頭渦紋と呼ばれる飾り耳を鈕の部分に持つことぐらいです。いずれも些細なことで、実際にはよく似た銅鐸です。近畿式は摂津・河内で生産され、三遠式は濃尾平野で生産されたものであろうと推定されています。近畿式は、近畿一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地域に、三遠式は、東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界とし、例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・京都府北部の日本海岸にそれぞれ分布します。

それぞれの銅鐸は2世紀代に盛んに創られました。2世紀末葉になると近畿式のみとなります。銅鐸はさらに大型化しますが、3世紀になると突然造られなくなります。しかし、それらは混在しており、明確に位置を区別できるようでもありません。分布的には三遠式と近畿式が対峙しているというような事実はなく、近畿式のみの地域と近畿式+三遠式の地域があるというのが現状です。

弥生時代初期とされる青銅器の鉛同位体を測定すると、殷(商)・周(西周)時代の青銅器と鉛同位体の比率などがほぼ一致しており、この鉛は他の地域時代にて青銅器として見られることがないため、中国大陸や朝鮮半島から流入した青銅器等を鋳直して作成されたとする説があります。なお、日本での銅の史料上の記述は和銅元年(708年)が初見とされます。銅鐸が発見された記録は、『扶桑略記』の天智天皇7年、近江国志賀郡に崇福寺を建立するのに際して発見された記述が最古であろうといいます。ただし、天智期の記事を詳細に記しているはずの記紀は、この出来事について全く触れていません。『続日本紀』には、和銅6年、大和宇波郷のひとが長岡野において発見した記事があり、『日本記略』には、弘仁12年、播磨国で掘り出され、「阿育王塔鐸」とよばれたとあります。

銅鐸の製作年代は弥生時代中期から後期にわたります。出土品の一部には近畿地方で製作されたと推定されるものもありますが、絵画表現の独自性や荒神谷遺跡出土銅剣の線刻との類似から、大半は出雲地方で製作されたと考えられており、一部は他地域との同はん関係(兄弟銅鐸)も認められています。なお、埋納された時期については、現在のところ荒神谷遺跡同様特定できていません。

注:三遠式…濃尾平野(三河・遠江)で生産されたものであろうと推定。

青銅器の種類

弥生時代の青銅器には、銅剣(どうけん)、銅鐸(どうたく)、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)があります。

「荒神谷博物館」レプリカ 左から銅剣、銅鐸、銅矛

銅鐸(どうたく)とは、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器のこと。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって作り用いられた祭器。これまでに出土した銅鐸は約470個で、主に近畿地方の遺跡から出土しています。

大きさについては12センチから1メートルを越すものまであります。1世紀頃には高さが60センチに達し、さらに大型化が進み、2世紀には1メートルを超え、最終的には134センチに達します。しかし、その直後鋳造が止まります。現存する最大は、144センチ、45キログラムに達します(滋賀県野洲市野洲町大岩山1881年出土1号銅鐸)。

近畿地方で生産されたものは表面に必ず文様がつけられています。文様で一番多いのが、袈裟襷文(けさだすきもん)で、縦の文様帯と横の文様帯とを交差させています。その前は流水文でした。最古級の銅鐸は、縦文様帯と横文様帯を持つ四区袈裟襷文で飾っています。 また、吊り下げる鈕の断面形が菱形となっています(菱環鈕式[りょうかんちゅうしき])。しかし、大阪府東奈良遺跡から出土した小銅鐸の鈕の断面形が円形である。その後、外縁付鈕式、扁平鈕式、突線鈕式と変遷する。その後鐸自身が大型化し、表面に飾りが加わります。

紀元前2世紀後半頃40センチを超す大型銅鐸が現れ、流水文が採用されています。この文様は紀元前1世紀頃に衰退します。 当時の家屋など弥生時代の習俗の様子を描いた原始的な絵画が鋳出されているものもあります。

銅矛(どうほこ)は銅剣、銅鐸とともにマツリのための道具として使われました。
銅剣(どうけん)は、実用の武器として弥生時代のはじめ頃に大陸から伝わり、日本で作られるようになってから、祭器へと変わりました。

銅鐸が神を呼ぶカネであったのに対し、銅剣や銅矛は悪霊をはらうものであったと考えられています。銅矛もまた銅剣と同じように、弥生時代前期には、根元の袋部分に柄をつきさす「細形」の武器でしたが、しかし中期以降は大型化して実用的でない「中細形」「中広形」「広形」へと変化していきます。荒神谷で発見された全ての銅矛の袋部には鋳型の土が残されたままでした。このことは、銅矛を武器として使用するより、祭器として使用する目的があったと考えられます。

銅戈は、「ほこ」の和訓を与えられている字には同じ「矛」もあるが、「矛」では金属製の穂先を槍と同様に柄と水平に取り付けるのに対し、「戈」では穂先を柄の先端に垂直に横向きに取り付け、前後に刃を備える。日本語文献史料で「ほこ」とある場合、通常は「戈」ではなく「矛」。そのため、歴史学用語としては訓読みするより音読みの「カ」で読まれることが多い。
しかし銅鐸は、まず、銅鏡、銅剣、銅矛に比べ出土の状態からしてまず謎です。銅鐸の時期は3世紀から4世紀にかけての弥生時代末期に集中しているといいます。

専門家によれば、銅鐸はそのほとんどが人目につかない山の中腹などで発見されるといいます。まるで、誰かの手で意図的に隠されたかのように。なかには、兵庫県豊岡市日高町久田谷(地元)の全国でも稀な粉々にされた銅鐸破片など、故意の加熱や打撃により破壊されて出土する例さえあります。古墳時代になるとなぜか銅鐸は急速に廃れてしまします。

2009/08/28