『記紀』には、有名な「イザナギとイザナミ」「スサノオ」「ヤマタノオロチ」「国造り」「国譲り」「因幡の白うさぎ」など、出雲神話が多く占めています。
スサノオ(スサノヲ、スサノオノミコト)は、日本神話に登場する一柱の神です。『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記されています。
2.日本神話のスサノオ
『古事記』では三貴子の末子に当たります。また、日本においてはインドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)と素戔嗚尊(以下スサノオ)と習合し同一視されることもあります。しかしながら、スサノオの与えられた役割は、太陽を神格化した天照大神(あまてらすおおみかみ)、月を神格化した月夜見尊(つくよみのにこと)とは少々異なっており、議論の的となっています。
『古事記』によれば、神産みにおいてイザナギが黄泉の国(よみのくに)から帰還し、日向橘小門阿波岐原(ひむかのたちばなのをどのあはきはら)で禊(みそぎ)を行った際、鼻を濯いだ時に産まれたとする。『日本書紀』ではイザナギとイザナミの間に産まれたとしている。
天照大神は高天原を、月夜見尊は滄海原(あおのうなばら)または夜を、スサノオには夜の食国(よるのおすくに)または海原を治めるように言われたとあり、それぞれ異なる。『古事記』によれば、スサノオはそれを断り、母神イザナミのいる根の国に行きたいと願い、イザナギの怒りを買って追放されてしまう。そこでスサノオは根の国へ向う前に姉の天照大神に別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、天照大神はスサノオが高天原に攻め入って来たのではと考えて武装してスサノオに応対し、スサノオは疑いを解くために誓約を行う。誓約によって潔白であることが証明されたとしてスサノオは高天原に滞在するが、そこで粗暴な行為をしたので、天照大神は天の岩屋に隠れてしまった。そのため、スサノオは高天原を追放されて葦原中国へ降った。
3.スサノオの神社 |
■スサノオ系図 伊邪那美命〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓伊邪那岐命●両神で (いざなみのみこと) ┃ (いざなきのみこと)伊弉諾神宮 ┃ [三貴神] ┃ 多賀神社/白山比咩神社 ┃ ┏━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━┓ 綿津見大神 大山津見神 須佐之男命 月読命 天照大御神 (わたつみのおおかみ)(おおやまつみのかみ)(すさのおのみこと)(つくよみのみこと)(あまてらすおおみかみ) 海を支配 月の神、夜を支配 日の神、高天原を支配 ●須佐神社/八重垣神社 ●伊勢神宮(皇大神宮) 氷川神社/八坂神社/日御碕神社など ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 須佐之男命=誓約=天照大御神 ┗━宗像三神(田心姫神・湍津姫神・市杵島姫命)●宗像神社/厳島神社 別名:多紀理毘売命・多岐都比売命・狭依毘売 足名椎=手名椎 『古事記』 須佐之男命===┳==櫛名田比売(クシナダヒメ) ┃ 八島士奴美神 大山津見神 ┃ ===┳==神大市比売命┫ ┣大歳神 ┃ ┗宇迦之御魂神 ┃ ┃ 木花知流比売命===┳=八島士奴美神 ┃ 布波母遅久須奴神==日河比売命 ┃ 深淵之水夜礼花神 大国主命(記)=┳=八上比売命(因幡国) ┃ 木股神 ===沼河比売命(高志国) =┳=多紀理毘売命 ┗━アヂスキタカヒコネ(賀茂大神)・タカヒメ(シタテルヒメ) =┳=カムヤタテヒメ ┗━事代主命●美保神社 =┳=鳥取比売(トトリヒメ) ┗━トリナルミ 『日本書紀』 須佐之男命 [紀三神]●伊太祁曽神社 ┣大屋津姫命(オオヤツヒメ)三神●大屋津媛神社 ┣五十猛神(紀) ┗抓津姫命(ツマツヒメ)(紀) ┣━ ━天之冬衣命━ = 須勢理毘売命(記) ┃ 大己貴命┃●三島神社/長田神社 大物主命 ┃ ┗━大己貴命(紀) ●出雲大社/大神神社/氷川神社 日吉神社/気多大社/伊和神社 大洗磯前神社/低鹿神社 等 [伝承] 大国主命=┳=沼河比売命(高志国) ┗建御名方命●諏訪神社 雲国一の宮熊野大社 熊野大神櫛御気野命の御神名は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別神名である。 須佐神社(すさじんじゃ) 通称 須佐大宮 御祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)稲田比売命(いなたひめのみこと)、足摩槌命(あしなづちのみこと)、手摩槌命(てなづちのみこと) 須我神社(すがじんじゃ) 通称 日本初宮(にほんはつのみや) 簸の川上に於いて八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した須佐之男命(すさのおのみこと)は、稲田姫と共にこの須賀の地に至り、美しい雲の立ち昇るのを見て、「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる この八重垣を」と歌い、日本で始めての宮殿を作り、鎮った。 天照大神の弟神。簸の川上にて八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、 日御碕神社(ひのみさきじんじゃ) 神の宮(かみのみや) 素盞嗚尊(すさのおのみこと) 出雲の国造りをなされた素盞嗚尊は、根の国にわたり熊成の峰に登ると「吾の神魂はこの柏葉の止る所に住まん」と仰せられ、柏の葉を投げ、占いをされた。すると柏の葉は風に舞い、やがて日御碕の現社地背後の「隠ヶ丘」に止った。これにより素盞嗚尊の五世の孫、天葺根命(あめのふきねのみこと)はここを素盞嗚尊の神魂の鎮まる処として斎き祀ったといわれています。日御碕神社の神紋、三ツ柏もこれに由来し、神域の付近からは柏の葉を印した「神紋石(ごもんせき)」と称される化石も出土しています。 3.イザナギとイザナミ世界の最初に高天原[*1]で、別天津神・神世七代という神々が生まれた。 これにおののいたイザナギは逃げた。イザナギは、黄泉のケガレを嫌って、禊をした。この時も、様々な神々が生まれた。左目を洗った時に生まれた神がアマテラス(日の神、高天原を支配)[*3]・右目を洗った時にツクヨミ(月の神、夜を支配)[*4]・鼻を洗った時にスサノオ(海原を支配)が成り、この三柱の神は三貴子(みはしらのうずのみこ)[*5]と呼ばれ、イザナギによって世界の支配を命じられた。 4.アマテラスとスサノオスサノオ[*6]は、イザナミのいる根の国へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。そして、アマテラスの治める高天原へと登っていく。アマテラスは、スサノオが高天原を奪いに来たのかと勘違いし、弓矢を携えて、スサノオを迎えた。スサノオは、アマテラスの疑いを解くために、各の身につけている物などで子(神)を産みその性別によりスサノオは身の潔白を証明した。これによりアマテラスはスサノオを許したが、スサノオが高天原で乱暴を働いたため、アマテラスは、天岩戸に隠れた。日の神であるアマテラスが隠れてしまったために、太陽が出なくなってしまい、神々は困った。そこで、計略でアマテラスを天岩戸から出した。スサノオは、下界(葦原中国)に追放された。 5.ヤマタノオロチスサノオは、出雲の国の肥河(斐伊川)の上流の鳥髪(とりかみ、現奥出雲町鳥上)に降り立った。川上から箸が流れてきたので、川上に人がいると思って川を上ってみると老夫婦が泣いていた。その夫婦はオオヤマツミの子のアシナヅチとテナヅチであった。夫婦には8人の娘がいたが、毎年古志[*7]からヤマタノオロチ[*8]がやって来て娘を食べてしまった。今年もオロチのやって来る時期が近付き、このままでは最後に残った末娘のクシナダヒメ(櫛名田比売、奇稲田姫)も食べられてしまうので、泣いているのであった。スサノオは、クシナダヒメを妻として貰い受けることを条件に、ヤマタノオロチ退治を請け負った。 オロチは8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。オロチが酔ってその場で寝てしまうと、スサノオは十拳剣(とつかのつるぎ)[*9]を抜いてオロチを切り刻んだ。尾を切り刻んだとき、剣の刃が欠けた。剣で尾を裂いてみると大刀が出てきた。これは不思議なものだと思い、アマテラス(天照大神)にこの大刀を献上した。これが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)[*10]のちの草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。 スサノオは、八岐大蛇に食われることになっていた国津神の娘クシナダヒメ(櫛名田比売、奇稲田姫)を助け妻とする。宮殿を作る地を探して出雲の須賀(すが)の地へ行きそこに留まった。そこで 「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」[*11]と詠んだ。その地で大国主命(『日本書紀』では大已貴神(おおあなむちのかみ)、『古事記』では大国主命はスサノオの6代後の子孫としている)などを産ませ、その後、根の国へ向かったと言う。 『日本書紀』における八岐大蛇の記述がある一書では、天から追放されたスサノオは、新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降り、この地吾居ること欲さず「乃興言曰 此地吾不欲居」と言い息子の五十猛神(イソタケル)と共に土船で東に渡り出雲国斐伊川上の鳥上の峰へ到った。八岐大蛇を退治した。そのとき五十猛神が天から持ち帰った木々の種を、韓(から、朝鮮)の地には植えず、大八洲(おおやしま、本州のこと)に植えたので、大八州は山の地になったと言う。 アマテラスら高天原にいた神々(天津神)は、葦原中国を統治するべきなのは、天津神、とりわけアマテラスの子孫だとした。そのため、何人かの神を出雲に使わした。大国主の子である事代主・タケミナカタが天津神に降ると、大国主も大国主の為の宮殿建設と引き換えに、天津神に国を譲ることを約束する。この宮殿は後の出雲大社である。 6.ヤマタノオロチの解明オロチ[*8]は水を支配する竜神を、クシナダヒメは稲田を表しているとみられています。すなわち、毎年娘をさらうのは河川の氾濫の象徴であり、それが退治されたことは、治水を表しているとする。また大蛇が毎年娘をさらって行ったということは、神に対して一人の処女が生贄としてささげられていたということであり、その野蛮な風習を廃しえたことも表しています。あるいはこの当時、出雲国は実際に越国(高志・北陸地方)[*7]との交戦状態にあり、『出雲国風土記』には意宇(オウ)郡母里(モリ)郷(現在の島根県安来市)の地名説話において「越の八口」を平定したと記されており、これがこの神話の原型ではないかという説もある。高志=越とみる向きには、福井県に『高志(こし)』『九頭竜(くずりゅう)』という名称や地名が残っていることが挙げられる(例:高志高校、九頭竜川など)。 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)[*10]は、出雲国の古代製鉄文化を象徴するとされています。してみると天叢雲剣は鉄製であり、十拳剣(とつかのつるぎ)が天叢雲剣に当たって欠けたということは、対する十拳剣は青銅製であったことを類推させる。十束剣は日本神話に登場する剣。「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」など様々に表記されます。 様々な場面で登場していることや、「10束(束は長さの単位で、拳1つ分の幅)の長さの剣」という意味の名前であることから、一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、それぞれ別の剣であるとされます。当時としては最先端の技術であった製鉄、またはその結晶である鉄剣を「アマテラスに献上した」というのは、その頃の出雲と大和の関係を推し量る上で興味深いエピソードであると言える。 また、オロチの腹が血でただれているのは、砂鉄(あるいは鉱毒)で川が濁った様子を表しているとする説もある。また、たたら吹きには大量の木炭を必要とするため、川の上流の木が伐採しつくされた結果洪水が起きたことを象徴しているともされます。 古志が越国(北陸地方)であるとする説は、この当時、出雲国は実際に越国(北陸地方)との交戦状態にあり、越国を平定しています。 『出雲風土記』の大原郡神原郷に、「神原郷 郡家正北九里。古老傳云「所造天下大神之 御財 積置給 處」。則、可レ謂「神財郷」。而、今人 猶 誤 云「神原郷」耳」とあります。 これを、「神原の郷は、郡家の正北九里。古老の伝えに云うには、天の下 造らしし大神(スサノオ)の御財を積置き給いし処なり。即ち神財郷(かむたからのさと)と云うべし。今の人は誤って聞き神原郷(かむはらのさと)と云う」と。本来は神財郷(かむたからのさと)と呼んでいたことになります。 長男・八島野尊や部下の豪族らは、スサノオの遺骸を熊野山に埋葬し、建国の偉業を偲んで祭祀を始めた(須我神社・雲南市大東町須賀)とみられ、近くの加茂岩倉遺跡(島根県雲南市加茂町)や荒神谷遺跡(島根県簸川郡斐川町)から出土した紀元前2世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣・銅矛は、まさにスサノオ祭祀の遺物とも考えられます。荒神谷遺跡の小字名は神庭(カンバ)。荒神谷とは荒ぶる神、すなわちスサノオのことで、字神庭というのもスサノオを祭祀する場所をさしているものではないでしょうか。 天平五(733)年に撰録された出雲風土記は、すでに荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになります。 [註]
2.高句麗(こうくり)と「越」高句麗(こうくり、紀元前37年頃 – 668年)は扶余系民族による国家であり、最盛期は中国大陸東北部(満州南部)から朝鮮半島の大部分を領土としていました。半島南西部の百済、南東部の新羅とともに朝鮮半島における三国時代を形成。唐と新羅の連合軍により滅ぼされました。『三国史記』高句麗本紀・始祖東明王紀には、高句麗の王族の姓を「高」(こう/コ)としています。「高志」と書いたのもつながりが読みとれます。後期には土塚即ち横穴式石室をもつ封土墳に移行した。高句麗墓の特徴として華麗な古墳壁画が挙げられます。起源は中国の古墳壁画に求められますが、すでに前期古墳にもみられるものであり、高句麗独自の風俗や文化を後世に伝えるものとして重要視されています。百済、新羅の「くだら」「しらぎ」に対応する高句麗の日本語での古名は「こま」です。 『記紀』には、「越」の中心地である能登半島に、「高句麗国」の使節が、いつも到着するところであったとも記しています。この頃の「高句麗国」は、建国後約70年経過しており、国力も充分で時の勢いもありました。「高句麗」は、「こうくり」と発音されますが、実際には、「コーリ」であり、「やっぱり」が、「やっぱし」になるように、「り」は、簡単に「し」と音韻変化することから、ヤマタノオロチの「オロチ」とは「高句麗」の人・高句麗族のことをさすという説もあります。 もともと、スサノオ族は、牛頭山を聖山として、「高木の神」を崇めていた「伽耶」の製鉄集団の支配階級でした。これに関しては、後述しますが、朝鮮半島を南下してくる高句麗族の勢力に押され、日本列島に亡命して来たのですが、高句麗族は、既に、日本列島まで達していたのです。 しかも、すでに「越」から「出雲」に至る地方を支配していたのです。 つまり、「越」(新潟県)からきた高句麗族が、「出雲」の斐伊川の水利のよい平野で、稲作に従事していた人々から、毎年、収穫されたばかりの稲を、奪っていく暴挙が、七年もの間続いていたと言うのです。 朴氏は、稲作に従事していた人々を「伽耶」の人であると述べていますが、もしそうであれば、スサノオ族とほとんど同じ時期に朝鮮半島から来た渡来者の別集団であるとも考えられます。 スサノオ族は、南下する高句麗族の迫害から逃れるための日本列島への亡命であったでしょうが、出雲地方にも同民族が、同じ理由で亡命していたと考えることもできます。スサノオの「出雲」進出も、鉄資源の確保とともに増加する「統一奴国」の人口に対応するため、肥沃な耕作地帯を開拓する目的があったと思われます。結局は、戦争をしかけていったのでしょう。 毎年、「越」の高句麗族に悩まされ、支配され続けてきた、「出雲」の人々にとってみれば、「物部」の大軍を率いて九州北部からやってきた若きスサノオの姿に、怖れを抱きながらも、ついには、高句麗族追放のためにともに戦う決心をしたのではないでしょうか。 「出雲」の人々は、航海術に長け「統一奴国」を成し遂げたスサノオの敵にまわることはせず、スサノオと「出雲」は、同化されていったのではないでしょうか。ここで、両者は取引に応じました。スサノオに「出雲」の統治権を約束する代わりに、高句麗族を討つことです。取引に応じたスサノオは、その年の秋、何も知らない高志の高句麗族を迎え撃ち、西出雲を支配下に治めたのです。それがヤマタノオロチ退治で、草薙剣(くさなぎのつるぎ)こと天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、高句麗族からの戦利品ではないでしょうか。 スサノオの讃え名は「神祖熊野大神奇御食野尊」(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと) と言い、現在は、島根県八雲村の「熊野神社」に祀られています。「出雲」の神と言えば、出雲大社の「大国主命」(おおくにぬしのみこと、以下、オオクニヌシ)を連想しますが、「出雲国」で、もっとも尊い神と言えば、「大穴持命」(おおなむちのみこと、以下、オオナムチ)と「熊野加武呂乃命」(くまのかむろぎのみこと)なのです。 物部氏は、河内国の哮峰(現・大阪府交野市)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒ・ウマシマジを祖先と伝えられる氏族とされます。邪馬台国が九州か大和、どちらにあっても、その主催者と言われる程、日本の古代を席巻していた氏族とされいます。 『古事記』では、ウマシマジノミコト(可美真手命)は、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場します。ナガスネヒコの妹のミカシギヤヒメ(三炊屋媛)・トミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命・可美真手命)をもうけました。ウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としています。 『日本書紀』にはこの人物について多くを語りませんが、物部系の文書『先代旧事本紀』によれば、神武天皇が即位した直後、ウマシマジノミコトは、朝廷の儀礼など、諸事を定めたといい、ヤマトの基礎を築いた人物として描かれています。 たとえば、天皇家の儀礼や宗教観には、物部の強い影響が残されているという指摘があります。 ニギハヤヒの死後、末娘・御歳(伊須気依)姫は日向から婿養子として磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)を迎え、磐余彦尊は初代・神武天皇として即位しました。 神武のヤマト入りを助けたことも謎めきますが、その後のウマシマジノミコトの動きも、また不可解なのです。 なぜ、石見なのかというと、近くの三瓶(さんべ)山が、ニゴハヤヒノミコトの出身地だったからといい、また、出雲を監視するためだという。物部神社のある大田市は、元々旧出雲国と石見国の境目に位置します。 神武と同一人物とされる崇神天皇と垂仁天皇の時代、ヤマト朝廷がさかんに出雲いじめをしていたと 『日本書紀』が記録していることです。考古学的にも、ヤマト建国の直後、出雲が実際に衰弱していることが確かめられています。そして、出雲いじめの主役が、物部系の人物だったと記されているのだから、ウマシマジノミコトの石見入りも、信憑性を帯びてきます。 問題は、なぜヤマト建国の功労者が、出雲いじめに走ったのかということで、神話の出雲の国譲りも、単なる神話と無視できなくなってくるのです。 継体天皇の時代に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられたのが物部氏でした。また、後述の蘇我馬子(ソガノウマコ)と物部守屋(モノノベノモリヤ)の戦いで大きく登場します。 ニギハヤヒは、記紀が書かれるまでは皇祖神・天照御魂大神だったことが、多くの史料や古代からの神社の祭神・縁起・伝承が証明しています。延喜式神名帳には、「天照」を名乗る神社が、山城、大和、摂津、丹波、播磨、筑紫、対馬などに記載され、記紀編纂以前の創建で古い神社です。 たとえば、京都府宮津市に天火明命を主祭神とする元伊勢籠神社があります。同社の説明によると、 出雲大社の創建は、奈良時代初頭の霊亀二(716)年だったことがわかっています。明治までは杵築大社と呼ばれて別の神様(スサノヲ・須佐社)を祀っていたらしいのですが、ちょうど、古事記(712年)と日本書紀(720年)の成立の中間に大神社として創建されたことになります。大己貴命こと、大国主が亡くなってから500年も経った後のことです。大国主命の別名として、古事記では、大穴牟遲神、葦原色許男、八千矛神、宇都志国玉神。日本書紀では、大物主神、国作大己貴命、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顕国玉神とあり、それぞれの神名から多様な性格が連想され、一つの神ではなく、複数の神々を統合したものとみられています。ともあれ、出雲大社は記紀神話に合わせて大和朝廷によって創建されたことは間違いないようです。そして、スサノヲやニギハヤヒはじめ、出雲系の神々とその偉業を一括りにして傀儡の大国主を創作し、出雲に流竄したのだともみられています。 記紀の記述に邪魔な神々を出雲に葬り、その代償として出雲大社が建てられたとみられ、当時は50mもある国内最大の建築物として、出雲大社は万の神が集まる今でも壮大なものです。 大阪府東大阪市東石切町「石切劔箭神社」の「先代旧事本紀」のご説明によりますと、 ナガスネヒコ(長髄彦)の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)と結婚され、可美真手命がお生まれになりました。その後年月を経て神武天皇の東遷に際し、尊と神武天皇はお互いに御所持の天羽々矢を示し合い、共に天照大神の子孫であることがわかり、尊は長髄彦に帰服をお諭しになり、ここに大和建国は成功しました。神武天皇はその功績を称え「素より饒速日尊は天より降れる者なるを聞けり而るに今果して殊功を樹てたり」と、劔をお授けになりました。饒速日尊という御神名は「徳が高く広く活発で勇猛であらせられた」という意義をもつ御尊名です。また、可美真手命は、大和地方の治政に尽力されたのはもちろん、物部一族を率いて神武天皇の親衛を勤められ、十種の神宝によるまじないの神法で多くの人々を救いました。可美真手命とは「ご立派な御徳を有されたお方」という意味です。「はるか昔、河内と大和の一帯は鳥見(登美)の里と呼ばれ、穏やかな自然と、海や山の幸に恵まれた豊かな土地でした。 この地方を治めていた豪族、鳥見一族は、稲作や製鉄の技術はないものの、狩や漁がうまく、生活用具や住居づくりに 優れていました。また、長身の恵まれた体格は戦闘に秀で、「長髄の者」と恐れられていました。さて、神々の住む高天原では、天照大神が、孫の饒速日尊に大和の建国を命じ、『十種の瑞宝』を授けていました。 『十種の瑞宝』は、人々を治め、身や心の病を癒す霊力をそなえた瑞宝です。 饒速日尊は『フツノミタマの劔』を持ち、日の御子の証である『天羽羽矢』も携えて天磐船に乗り、船団を組んで高天原から船出しました。船団が豊前(大分県)の宇佐につくと、尊は息子の天香山命に『フツノミタマの劔』を授け、船団の半分をあずけます。 そして自らは、瀬戸内海を通って大和に向かいました。こうして饒速日尊の乗る天磐船は、鳥見の里を見渡す 哮ヶ峰(生駒山)に着きました。 その頃の鳥見の長、長髄彦は、外敵を全て討ち滅ぼす猛々しい族長でした。しかし饒速日尊の徳の高さに打たれ、 尊のもたらした稲作や織物、鉄製の道具・武具に文化の差をみると、争う事の無益さを悟り、一族こぞって饒速日尊に従った のです。このとき二人の間を取り持ったのが、長髄彦の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)でした。こうして鳥見の里を治めるようになった饒速日尊は、水が豊かで稲作に適したこの地に水田を拓き、大きな実りをもたらします。 これが近畿地方の稲作文化の初めといわれています。饒速日尊はやがて、登美夜毘売と結婚して可美真手命をもうけ、一層 国の発展につくされました。 鳥見の里が繁栄をきわめていた頃、神武天皇は日向の高千穂から東へ進攻を続けていました。 神武天皇は、「自らが日の御子であるのに、日が昇る東の方角に弓を引いたのが誤りであった」と考え、 熊野から大和へと、日を背にして入ることにしました。 ところが、熊野の女王、丹敷戸畔の軍から毒矢が放たれ、皇軍は一人残らず気を失い全滅の危機にさらされます。 そこへ馳せ参じたのが、かつて豊前の宇佐で饒速日尊と別れて熊野に入り、高倉下命と名を変えた天香山命でした。 高倉下命がフツノミタマの劔を献上すると、不思議にも熊野の荒ぶる神々はことごとく倒れ、それまで倒れ伏していた皇軍も 皆生気を取り戻しました。こうして再び、大和への行軍がはじまります。 またも現れた皇軍に驚き、兵を集めた長髄彦は、「我らの主君こそ日の御子である。神武は偽り者だ」と疑います。 この頃、既に饒速日尊は亡くなり、鳥見の長となっていたのは可美真手命でした。 可美真手命は「天羽羽矢」と歩靱を、日の御子である証として神武天皇に差し出しました。すると神武天皇からも 同じものが示されたので、ようやく互いに天照大神の子孫であることが明らかになったのです。 そこで、可美真手命は長髄彦に天皇への帰順をさとし、自らも一族を率いて天皇に忠誠を誓い、広大な稲作地や所領の すべてを捧げました。こうして大和の統一が成し遂げられたのです。 その後、可美真手命には忠誠の象徴としてフツノミタマの劔と、河内の美田が改めて授けられ、その功績は永く讃えられ ることとなります。以来、一族は物部氏として天皇の側で忠誠に励んだのです。 神武天皇が即位した翌年、出雲地方の平定に向かう可美真手命は、生まれ育った宮山に饒速日尊をお祀りしました。 これが石切劔箭神社の発祥と伝えられております。 」 安本 美典氏は、 「『先代旧事本紀』には、神武天皇よりもまえに、物部氏の祖・饒速日尊が、畿内大和へ東遷降臨した。」 この伝承は、どこまで信用できるのか。 饒速日尊と皇室の祖、瓊瓊杵(ニニギ)の尊とは、兄弟なのか。 『先代旧事本紀』は、「饒速日の尊が、河内の国の哮峰(いかるがのみね)に天下ったという。この哮峰は、どこなのか。 また、『先代旧事本紀』は、饒速日尊を、登美の白庭の邑に埋葬したという。 物部氏(もののべうじ)は、大阪堺に上陸、生駒の西の日下(くさか)から大和川流域に展開した。須波摩神社や石切劔箭神社のある日下は先土器時代から縄文弥生の遺跡の多い所です。 弓削神社など饒速日命を祀る神社が大和川流域に多く分布しています。また、摂津の三島に落ち着いたとの説もあります。 [*2]…アメノオシホミミ(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)は、日本神話に登場する神。古事記では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、日本書紀では天忍穂耳命、先代旧事本紀では正哉吾勝々速日天押穂耳尊と表記する。 奈良県桜井市三輪1422 御祭神:大物主大神(おおものぬしのおおかみ)配祀 大己貴神(おおなむちのかみ) 少彦名神(すくなひこなのかみ)由緒遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)=大国主神が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ)の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられており、我が国最古の神社であります。大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと申し上げ、神様の中の大神様として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最 高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれます。「神社拾遺」大神神社 【国宝】 石上坐布都御魂神社 名神大 旧官幣大社 奈良県天理市布留町384 御祭神 「布都御魂大神」 配祀 布留御魂大神 布都斯魂大神 雄略朝の大連・物部目の後裔を称する石上朝臣麻呂には朝臣の姓が与えられて、西暦708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位を贈られた。息子の石上朝臣乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上朝臣宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は、日本初の公開図書館・芸亭の創設者としても歴史に名を残しています。 石上神宮は、飛鳥時代の豪族、物部氏の総氏神として、又大神神社(おおみわじんじゃ)と同じく日本最古の神社として有名です。元々は古来朝廷の武器庫として物部氏が守っていたようです。境内に入ると多くの鶏が放し飼いにされていました。野生化していて強そうな鶏なので、猫が目の前を通っても微動もしない不思議な光景が見れます。 島根県大田市川合町川合 式内社 石見国一宮 旧社格は国幣小社 御祭神 「宇摩志麻遅命」(物部氏初代) 物部氏初代の宇摩志麻遅命を主祭神とし、相殿に物部氏祖神の饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照皇大神を祀る。 石上神宮と表裏一体を為す神社。物部神社の御祭神「宇摩志麻遅命」はこの石東の地を平和な豊かな地域とするため、鶴に乗って御降臨されました。 この国見をされたおり、平和な穏やかな里「安濃郡(旧 大田地方)」と名づけられました。 社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて尾張、美濃、越国を平定した後に石見国で歿したという。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。 |
6.物部氏ゆかりの神社が多い旧國 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
-出典: 『日本の思想』清水 正之 東京理科大学享受 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』- |