開国攘夷に傾く
蛤御門の変(禁門の変)が起きる2年前の文久2年(1862年)、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、これまで通り練兵館塾頭をこなしつつも、常に時代の最先端を吸収していくことを心掛ける。
兵学家で幕府代官江川太郎左衛門から西洋兵学・小銃術・砲台築造術を学ぶ
浦賀奉行支配組与力の中島三郎助から造船術を学ぶ
江戸幕府海防掛本多越中守の家来高崎伝蔵からスクネール式洋式帆船造船術を学ぶ
長州藩士手塚律蔵から英語を学ぶ
文久2年(1862年)、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、周布政之助、久坂玄瑞(義助)たちと共に、吉田松陰の航海雄略論を採用し、長州藩大目付長井雅楽の幕府にのみ都合のよい航海遠略策を退ける。このため、長州藩要路の藩論は開国攘夷に決定付けられる。同時に、異勅屈服開港しながらの鎖港鎖国攘夷という幕府の路線は論外として退けられる。
欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行という基本方針が長州藩開明派上層部において文久2年から文久3年の春にかけて定着し、文久3年(1863年)5月8日、長州藩から英国への秘密留学生五名が横浜から出帆する(日付は、山尾庸三の日記による)。
この長州五傑と呼ばれる秘密留学生5名、すなわち、井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)。山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の留学が藩の公費で可能となったのは、周布政之助が留学希望の小五郎を藩中枢に引き上げ、オランダ語や英語に通じている村田蔵六(大村益次郎)を小五郎が藩中枢に引き上げ、開明派で藩中枢が形成されていたことによる。この時点で小五郎は、長州藩急進派の尊皇攘夷派とは一線をかして西洋に学び開国しても同時に富国しなければならないと思っていたところが、龍馬などと世界観が合致していたのだろう。
八月十八日の政変
江戸時代末期の文久3年八月十八日(1863年9月30日)に中川宮朝彦親王や薩摩藩・会津藩などの公武合体派が長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都における政治の中枢から追放した政変である。
尊攘派の長州藩と公家は、大和行幸の機会に攘夷の実行を幕府将軍及び諸大名に命ずる事を孝明天皇に献策しようとした。徳川幕府がこれに従わなければ長州藩は錦の御旗を関東に進めて徳川政権を一挙に葬ることも視野に入れたものだった。しかし、事前に薩摩藩(当時は長州藩と対立)に察知され、薩摩藩や藩主松平容保が京都守護職を務める会津藩、尊攘派の振る舞いを快く思っていなかった孝明天皇や公武合体派の公家は連帯してこの計画を潰し、朝廷における尊攘派一掃を画策した。
文久3(1863)年8月18日、会津・薩摩などの藩兵が御所九門の警護を行う中、公武合体派の中川宮朝彦親王や近衛忠熙・近衛忠房父子らを参内させ、尊攘派公家や長州藩主毛利敬親・定広父子の処罰等を決議。長州藩兵は、堺町御門の警備を免ぜられ京都を追われた。またこの時、朝廷を追放された攘夷派の三条実美・沢宣嘉ら公家7人も長州藩兵と共に落ち延びた(七卿落ち)。
これによってこれまで京都政界を掌握してきた長州などの尊攘派が京都政界から追放された。後に池田屋事件や禁門の変が起こるきっかけにもなった出来事であった。
蛤御門の変(禁門の変)
光村推古書院
八月十八日の政変の不当性が認められない上、池田屋事件まで起こされた長州藩は、小五郎や周布政之助・高杉晋作たちの反対にもかかわらず、先発隊約300名が率兵上洛し、蛤御門の変(禁門の変)を敢行するが、結局失敗に終わる。
このとき小五郎は、幕府寄りの因州藩を説得し長州陣営に引き込もうと目論み、因州藩が警護に当たっていた猿が辻の有栖川宮邸に赴いて、同藩の尊攘派有力者である河田景与と談判する。しかし河田は時期尚早として応じず、説得を断念した小五郎は一人で孝明天皇が御所から避難する所を直訴に及ぼうと待った。
しかしこれもかなわず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りながら、潜伏生活に入る。会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくると、但馬出石に潜伏する。
桂小五郎、最大の危機 久畑関所
元治元(1864)年八月二十日の蛤御門の変(禁門の変)で危険を感じた小五郎は、幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りながら、潜伏生活に入る。しかし、会津藩など幕府方による長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくるから逃れるため、桂小五郎(木戸孝允)が懇意にしていた対馬藩邸出入りで知っていた但馬出石出身の商人・広戸甚助に彼の生国但馬へ逃れ、時の到るのを待つことを告げたところ、甚助は快く受け、その夜直ちに幕府方から逃れるために変装して、船頭姿となり甚助と共にひそかに京の都を出を脱出した。
京街道(山陰道)の諸藩の関所をくくり抜けながら、福知山から出石に抜ける京街道(現在の国道426号線)を通り、もう少しで但馬出石城下に入る高橋村(但東町)久畑にある出石藩久畑関所で、船頭を名乗る男(小五郎)が厳しい取り調べを受けた。小五郎、最大の危機である。
しかし、出石藩は幕府寄りの藩であり、長州人逮捕の命令が出ていたほどで、調べに当たったのは出石藩の役人、長岡市兵衛と高岡十左衛門。同藩は蛤御門の変でも出陣しており、その知らせを受け、都からの脱出者を警戒していた。都の方向から来た船頭は、居組村(現在の浜坂町)生まれの卯右衛門と名乗りった。だが、言葉に但馬なまりが少しもない。「大坂に長くいたからだ」と言うが、上方なまりもない。疑うほどに、船頭の顔が武士のように見えてくる。
そこへ「はぐれたと思ったら先に来ていたのか」と、一人の男が駆け込んできた。広戸甚助である。甚助は「卯右衛門は自分が雇っている船頭で、上方から連れてきた。まさか自分のような道楽者に謀反人の知人などいるわけがないでしょう」とおどけて答えた。甚助と顔見知りだった長岡らはこの言葉を信じ、船頭を解放したのである。
後に木戸の子孫もこの関所跡を訪れ、感慨に浸ったというほど、人生最大の危機だった。もし甚助の助けがなかったら…。ここで維新の歴史が“変わった”かもしれない。
但馬潜伏期間
桂小五郎潜居跡(豊岡市出石町魚屋)
桂は但馬出石(兵庫県)に潜伏していた。しかし、長州討つべしとの命が下り、幕府寄りの出石藩・豊岡藩は、長州人逮捕の警戒を強めていたので出石の城下に滞在するには危険な場所でした。潜伏を始めて2ヵ月後、とうとう会津藩の追っ手が出石にやって来たのです。「さあ、逃げろ!」と出石より北にある広戸家の菩提寺でもある兵庫県養父郡の西念寺という寺に潜伏場所を移した。城崎温泉の旅館にも住み込みで働いたり場所を幾度も変更したそうである。
更に今度は「寺に隠れるなど、あまりにも一般的。もっと見つかりにくい場所を」 ということで、一般の町家に潜伏先を移しました。そのひとつが豊岡藩の城崎温泉(きのさきおんせん)でした。大勢の湯治客の中に紛れ込めるので安全と考えたのでしょう。小五郎はその年の9月に城崎を訪れ、広戸甚助の顔がきく『松本屋』に逗留しました。ここには当時“たき”という一人娘がおり、桂の境遇を憐れんで親身に世話をしたといいます。
小五郎は城崎温泉に入って心身を休めましたが、当時の城崎には各旅館に内湯はなく、「御所の湯」「まんだら湯」「一の湯」の3つの外湯があるに過ぎませんでした。城崎最古の源泉地「鴻の湯」は当時浴場としては使用されていなかったといいますうから、小五郎が入ったのも3つのうちのどれかでしょう。ちなみに、現在は全部で7つの外湯がありますが、温泉街全体で源泉を集中管理し供給しているため、泉質はすべて同じものだそうです。
10月、小五郎は一旦出石に戻り、荒物商(雑貨屋)になりすまして再起の時を待ったといいます。明けて慶応元年(1865)3月、再び城崎を訪れました。泊まったのはやはり『松本屋』で、長州再興し幕府と戦うに当り、桂を探し長州藩の大勢を告げ帰藩を望みました。愛人幾松も長州より城崎湯島の里へ尋ねて来ました。共に泊って入浴し1ヶ月ほど滞在したのちに大坂へ出て海路長州へ戻りました。長州に帰り木戸孝允と改名します。当時桂は33才でした。一人娘“たき”は小五郎の身のまわりの世話をしているうちに身重となったが、流産したといいます。その心境はいかばかりであったでしょうか。
小五郎が滞在した部屋には「朝霧の 晴れ間はさらに 富士の山」と墨で落書きされた板戸が残されていましたが、大正14年の北但大震災で温泉街もろとも焼失してしまいました。現在、館内に展示されている掛け軸や書状は広戸氏の関係者等から譲り受けたものといわれています。建物は震災で焼けた後の昭和初期に再建されたものですが、小五郎が使った2階の部屋は「桂の間」として再現されています。昭和41年春、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』の取材と執筆のために訪れ、この部屋に泊まっています。
温泉街の西側、外湯のひとつ御所の湯の向かいに「維新史跡・木戸松菊公遺蹟」と刻まれた1本の碑が立っています。“木戸松菊”とは桂小五郎の変名です。
ここが幕末に桂小五郎が身を隠していた宿『松本屋』で、現在は『つたや』兵庫県豊岡市城崎町湯島485と名を変えて営業されいます。
城崎での潜伏は短く、再び出石に戻ってきます。しかし、出石藩は禁門の変で兵を出したとおり幕府方で長州人逮捕の命令が出ていたほどで、出石の城下に滞在するには危険な場所でした。幕吏の追手が出石にまで伸びてきたため何度か潜伏場所を変えました。まずは広戸の両親の家に世話になり、次に番頭も丁稚もいない荒物屋を開業しました。 つまり商人に成りすまして潜伏したわけです。
出石潜伏期間の約10ヶ月の間に出石だけで7箇所以上潜伏先を移り変わりました。荒物屋にはひとりの女性がおり、前述の出石藩広戸甚助の妹で“八重”と言いました。桂は商売が出来るわけでなく、商売自身は八重が行いました。当然、桂の身の回りの世話もです。こういった、広戸一家の献身的な世話で、毎日を過ごしたようです。潜伏の毎日で、桂はやりきれない思いだったのかというと、案外そうではなかったようです。潜伏中の桂は、子供の手習いや、好きな碁を打ったり、また賭博にもはまり、結構借金を作ったとも言われています。
慶応元年(1865年)2月、広戸が京都から幾松を連れて出石へ帰ってきました。幾松からエネルギーをもらい、またそのころ長州藩でも奇兵隊が立ち上がって尊王攘夷派が盛り返すというニュースも入ってきたため、再び気合が入った桂は、幾松を連れて出石を離れ長州へ帰っていったのです。
広戸の妹八重は、桂の帰郷をさぞ悲しく思ったことでしょう。小五郎が京都から逃れ潜んでいたといわれる出石の住居跡に現在は記念碑が残されています。
しかし、どこにいても女性の話がついてまわります。かなりの男前でモテ男だったようだ。
その後、小五郎は薩摩の西郷隆盛と薩長同盟を結び倒幕へと奔走します。
維新後は木戸孝允と名を改め、五箇条の誓文の原案を作成。版籍奉還、廃藩置県など、明治の時代の基礎を固め新しい時代をつくっていきました。倒幕を果たし、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれるようになりました。
戊辰戦争終了の明治2年(1868年)、腹心の大村益次郎と共に東京招魂社(靖国神社の前身)の建立に尽力し、近代国家建設のための戦いに命を捧げた同志たちを改めて追悼・顕彰しました。
なぜ但馬に逃れたのか
しかし、ここで不思議に思うことは、小五郎はなぜ但馬に逃れようと思ったのかである。出石藩・豊岡藩は幕府寄りの藩であり、丹波も幕府よりの藩ばかりで禁門の変では幕府方で禁裏警護の配備図を見ても、長州藩邸の周囲には東海道入口に篠山藩、大原口に出石藩、鞍馬口に因州(因幡)藩、鳥羽伏見には園部藩が山崎には宮津藩、丹波街道には亀山(亀岡)藩が配備についている。丹波や但馬・因幡の諸国を通過するのは火の中に飛び込むようなものだ。というか朝敵とみなされた長州以外はすべて敵で長州人逮捕の命令が出ていたからである。当然小五郎が幕府寄りの出石へ逃亡するなどわざわざ捕まりにいくようなものだ。
小五郎はひとまず、長州へ帰り藩の意志を固めようとしたのではないだろうか。往来が盛んで取締りが厳しい瀬戸内海や山陽道を避けて、山陰道を選んだのではないか。そこで知り合いの但馬出石出身の商人・広戸甚助に彼の生国但馬へ逃れ、時の到るのを待って長州へ帰ろうと考えたのではないか。
但東町の京街道
武知憲男氏が『但東町の京街道』と題して『但馬史研究 第24号』に投稿されているので参考にする。
兵庫県豊岡市但東町は、兵庫県は地図でタコのように見えますが、ちょうど口の様に見える場所が但東町です。出石川の上流に位置し、下流以外は山に囲まれ、西以外の三方は京都府と接している。従って、丹波街道・成相道(巡礼道)・丹後道などと呼んでいる峠道が幾つもあり、その一つが出石より福知山・京都へ通じる京街道である。また明石の真北に位置するため東経135度の子午線(日本標準時)が通過している。
江戸時代、出石藩参勤交代の重要な街道であり、現在も国道426号線として、但馬の経済・文化の交流に大きな役割を果たしている。
京街道は、江戸時代では最も新しい文化十二年(1815)以降のことが記されている『出石藩御用部屋日記』によると京街道は、福知山(上川口)から登尾峠-久畑関所-小谷-出合-矢根-寺坂-鯵山峠(県道253)-谷山-(出石高校)-出石城下への旧道だろうと思われる。久畑関所跡横には村の鎮守一宮神社がある。但馬一宮は出石神社で一宮ではないのになぜ一宮神社なのか不思議に思っていたが、登尾峠の反対側の京都府佐々木の次に一の宮集落があるので久畑の村人が分社されたのではないだろうか。
武知憲男氏によると京街道を記す道標が残っているそうだ。小谷には「左たんご、くみはま道」と石仏の道標があり、右は判別できないが「右京道」であろう。小谷も「茶屋地」の小字名が残り、矢根や南尾、久畑同様に宿屋・茶屋の屋号が残る。登尾橋の手前に「右京都。左志ゅん連い道(巡礼道・宮津成相山)」の道標が立つ。左は薬王寺で大生部兵主神社があり、交通の要所であっただろうが、かつては旧道で難所だったに違いない。また機会があったら探してみたい。
参考:神戸新聞・城崎温泉観光協会・松本屋
参考資料:『京都時代MAP 幕末・維新編』 光村推古書院
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