山名氏と九日市城・正法寺城

宿南保氏『但馬の中世史』「山名氏にとって九日市ここのかいち城とは」の項で、九日市の居館を九日市城と呼んでいる。豊岡盆地の中心部の近い場所だけでも城といわれるものは正法寺城・木崎きのさき(城崎、のち豊岡)城・妙楽寺城・九日市城がある。

正法寺城は山王山で、今は日吉神社となっている。文献に初めて登場するのは、『伊達文書』で、延元元年(1366)六月、北朝方の伊達真信らが南朝方のひとつの拠点「木崎性法寺」を攻撃している。この性法寺は正法寺のことであろうとされる。

また『蔭涼軒日録』によると、長享二年(1489)九月、「但馬のこと、一国ことごとく垣屋に依る」とありながら、「垣屋衆およそ三千員ばかりあり、総衆は又次郎(山名俊豊)をもって主となす、垣屋孫四郎(続成つぐなり)いまだ定まらず」、また「朝来郡(太田垣)衆は又四郎殿を主と為すを欲する也。垣屋いまだこれに与せず」とある。
播磨攻めに失敗した山名政豊が居住していた所が「正法寺」であり、木崎城から18町余り隔たるところに所在するという(木崎城から18町というが、実際は日吉神社から神武山山頂までは約600m。1町は109.09091メートルなので×18町は1,963mだから合わないが、神武山で間違ってはいないだろう)。

寛永年間(1624~44)に著されたと思われる『豊岡細見抄』には、、山王権現宮(日吉神社)について、「今、領主京極家の産宮とす。往古はこの山真言宗性法寺という小寺あり。天正年間、社領没収の後、寺坊荒廃して退転せり。寛文年中、京極家丹後田辺(今の西舞鶴)より御入国の後、この寺跡の鎮守を尊敬ありて(中略)、今豊岡町の本居神とす。」と記されている。

拙者は、山王権現宮を祀ったとされる京極氏が治めていた丹後の宮津にも日吉山王宮があり、京極氏が日吉神社を信奉していたのは間違いないと思うし、天正年間に正法寺は消滅したので、寺跡のあとに日吉神社を建立し京極氏も守護神として大切に祀ったのだが、日本は長い間神仏習合であったから、それ以前の山名氏の頃からすでに正法寺の境内に、現在より小規模で山王権現宮も祀られていたとしても考えられなくもないと思っている。現在地名として残っている正法寺区はこの神武山にあった正法寺の寺領であろう。

但馬山名氏は、本州の6分の1を領する六分一殿と称された。その中心は山名宗全であり、出石であった。その権力はのちに京都を焼き尽くす応仁の乱の西方大将になってしまう。

因幡山名氏が鳥取城へ移るまでの本城があった鳥取市布施の布勢天神山城にも日吉神社(布勢の山王さん)があり、時氏が近江(日枝神社)から勧請したとされる。政豊は時氏の未子で但馬・伯耆守護時義から4代あと、持豊(宗全)の孫であるが、山名氏も守護である各国の城に日吉神社(山王権現)を祀っていたのではないだろうか。京極氏が丹後から豊岡へ入国するよりも以前から正法寺と共に祀られていたのではないかと思うし、今はJR山陰線で分断されているが線路以西も正法寺であり、かつてはこの寺領は広大であったように思われる。

京極氏入国以前の山名氏の頃から正法寺に現在より小規模で山王権現宮も祀られていたのではないかと思っていたら、宿南保氏『但馬の中世史』にこのように記されている。

「木崎性法寺」は、現在の日吉神社鎮座の丘である。同神社はもと山王権現と称され、その地にあった正法寺の寺域内鎮守であった。承応年中(1652~55)に同寺が退転したことにより、跡地全域が社地となったものである。

(中略)

標高40m余のこの丘には、南北朝期の特色を示す尾根郭跡が残っている。それは神社本殿の裏側、豊岡駅方向に面する斜面である。(中略)

当時から正法寺伽藍は城郭を兼ねていたものであったことがわかろう。この位置は(奈佐方面から)九日市へ通じる道を抑えるに重要な場所である。

天正8年(1580)、豊臣秀吉の家臣、宮部継潤が山名氏討伐後に城主として入城し、木崎(城崎きのさき)(城)を豊岡(城)と改めた。木崎城はのちの豊岡城で神武山にあった。しかし神武山と呼ばれるようになったのはまだ新しく、明治五年(1873)に神武天皇遥拝所が設置されたことに由来する。明治五年までは神武山は豊岡と呼ばれていたのか、天正8年以降は豊岡城となり、豊岡は町名であると同時に城山も豊岡なのか分からないが、城崎から豊岡という町名となり、その城は豊岡城となったのである。木崎という地名は往古も存在しない。古語は黄沼前キノサキと書いたが城崎きのさきとは読めないので城崎と書かず、間違ってか故意か木崎とも書いたのだろう。

『豊岡市史』によると、山名氏は「戦時には此隅山このすみやま城を本城としつつ、平時には九日市の居館を守護の在所と定めて政務の中心とした」としている。九日市の詰城は妙楽寺城なのか、木崎城なのか、三開山城なのか、あるいは此隅山城なのか?また、正法寺城は単独の城だったのか?

西尾孝昌氏『豊岡市の城郭形成Ⅰ』には、こう記されている。
この城崎庄域に木崎城がいつごろ築城されたのかは明らかではない。「木崎城」の文献的初見は、長享二年(1489)九月の『蔭涼軒日録』に、但馬守護山名政豊が播磨攻めに失敗して帰但した際、あくまで播磨進攻を主張する垣屋氏を筆頭とする26人の国人らが政豊を廃し、備後守俊豊を擁立しようとして、政豊・田公たぎみ肥後守の立てこもる木崎城を包囲している。また「木崎城は田公新左衛門が築城した」とも記されている。木崎城の所在については不明とされてきたが、『豊岡市史・上巻』では「神武山から正法寺のあった山王山一帯」に所在したといい、『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』では豊岡城と木崎城を別扱いしている。

西尾孝昌氏『豊岡市の城郭形成Ⅰ』でも、山王山の正法寺城跡と神武山の豊岡(木崎)城跡は別々に記されている。今では山王山と神武山の間に道が通り分断されているが、ゆるい坂が上下しており、両山は同じ丘陵地の西と東にある同じ城域だったのではないか?と考えられるのである。

妙楽寺城は標高70mの見手山丘陵で妙楽寺から但馬文教府にかけて、東西約400m、南北約600mの大規模な城郭であった。

さて、最後の九日市城は、城というよりは山名氏の在所で、守護所と考えられている。所在地は不明確であるが、九日市上ノ町に「御屋敷」「丁崎」という字名がある。円山川左岸の堤防上を通る国道312号線から豊岡駅へ通じる交差点から九日市中ノ町にかかるあたりで、「御屋敷」は山名時義の居所と伝え、「丁崎」は「庁先」のことで但馬守護が事務を執った居館跡に関係する場所ではないかとされている。

しかし、宿南保氏は『但馬の中世史』で、「筆者は、あくまで山名氏の本拠地は此隅山城であったと考えている。(中略)『大乗院寺社雑事記』に、政豊の動静について、「九日市ト云在所ニ在之」と記している。「在所」とは城下町に対して村部を指す対比語である。この表現から当時本城ではないところに居住していたことを表現していると解釈しているのである。

山名持豊(宗全)は、室町幕府の四職のひとりとしてほとんどが京都に居住していたので但馬守護代に垣屋氏、太田垣氏らが任ぜられているため、実際に木崎城の城主は垣屋氏であった。木崎(豊岡)城と旧円山川に挟まれた街道を南北に宵田町・京町という。京町いうのは何であろう?京極氏から京町と呼ばれるようになったのだろうが、ひょっとして四職として幕府の侍所頭人を任じられた持豊(宗全)は幕府のある京都に住んでいたから、京殿などと呼ばれていたのではなかろうか?!但馬に引責後、京から家来や文化を連れて京風にしたからなのか?宵田町は山名家の筆頭家老、遠江入道(熙忠ひろただ)(豊岡市の「垣屋系図」では隆国)の次男で宵田城主となった垣屋越中守熙知ひろともが但馬守護代として実質的に但馬を掌握していたのだろう。宵田殿の居館があったことによるものだろうし、応仁の乱以降、山名氏は出石へ追いやられ(権威はあった)、但馬の中央部である木崎城(豊岡城)周辺を制圧して但馬の戦国大名となったのである。

これまでの資料からは、明徳二年の山梨の内紛において時熈らが妙楽寺城に立て籠もっている。また長享二年には政豊が木崎城に立て籠もっていることを考えると、木崎城もその候補となろう。また九日市の対岸であるが、かつて南北朝期に立て籠もった三開山城も詰城かもしれない。出石の此隅山城は、垣屋氏が山名氏との対立で楽々前城から垣屋氏起源の鶴ヶ峰城へ移したように、但馬山名氏の起源の本城であり、出石神社の祭祀権を掌握して地域支配を図るためには不可欠の城であろう。

とにかく、祇園祭が台風の影響で心配されたが、小雨の中無事に巡行が行われた。かつて祇園祭が最初に中止となったのは応仁の乱だというからすごい話であるが、ふと西の総大将で西陣の地名ともなった山名宗全について思い出してみた。

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【但馬の歴史】(27) 山名四天王 田結庄氏(1)


津居山

田結庄氏は、但馬国城崎郡田結郷田結庄(豊岡市田結)を本貫とする中世豪族でした。田結(たい)は、円山川が日本海の注ぐ河口で、海水浴で知られる気比ノ浜の東に位置する漁村です。わかめ漁などがさかんです。


田結庄氏家紋 違い鷹の羽

田結庄は「たいのしょう」と読み、出自は桓武平氏であったといわれますが、その世系については詳らかではないようです。

『田結庄系図』によれば、桓武天皇の子で桓武平氏の祖、皇子葛原親王(かずらわらしんのう)の後裔とみえ、七代後の平 盛嗣(盛継 たいら の もりつぐ 生年不詳 – 建久5年(1194年))、通称は越中次郎兵衛盛嗣がいました。平安時代末期の平家方の武将です。父・平盛俊(たいらのもりとし)同様平家の郎党として勇名を馳せました。

『平家物語』では「越中次郎兵衛盛嗣」の通称で呼ばれ、平家においてその豪勇を称えられる名将でした。源氏との数々の戦に参戦し、屋島の戦いでは源義経の郎党である伊勢三郎義盛(さぶろうよしもり)との詞戦(簡単に言えば嘲笑合戦)の逸話を残しています。

能登守教経(のとのかみのりつね)が、越中次郎兵衛盛嗣を引き連れて小船に乗り込み、焼き払った総門前の渚に陣取りました。侍大将である盛嗣が、船の上に立って大声で言うには、「さきほどお名乗りになったのは耳にしたが、遠く離れた海の上であったのではっきりと分からなかった。今日の源氏の大将はどなたでおはしますか」。そこで、伊勢三郎義盛さまが馬を歩ませ、「言わずと知れた清和天皇(せいわてんのう)(平安前期の天皇、源氏の先祖)十代の御子孫、鎌倉殿(かまくらどの=源頼朝)の御弟、九郎太夫判官殿(源義経)であるぞ」とおっしゃいました。

すると敵が
「そう言えば思い出した。平治の合戦で父を討たれて孤児になったが、鞍馬(くらま:京都)の稚児(ちご)になって、その後はこがね商人の家来になり、食べ物を背負って奥州へ落ちぶれ去ったという若ぞうのことか」
と失礼なことを申します。

そこで義盛さまが「軽口をたたいて、わが君のことをあれこれ申すな。そういうお前らは、砥波山(となみやま)の戦いに追い落とされ、あやうい命を助かって北陸道をさまよい、乞食をして泣く泣く京へ上がった者か」。

すると敵が重ねて言うには、「そういうお前たちこそ、伊勢の鈴鹿山で山賊をして妻子を養い、暮らしてきたと聞いておるぞ」と。

そこで、金子十郎家忠(いえただ)さまが、
「お互いに悪口を言い合っても勝負はつかぬ。去年の春、一の谷での戦いぶりは見たであろう」

と、おっしゃる横から、弟の親範(ちかのり)さまが敵に向かって矢を放ちました。その矢は、盛嗣の鎧(よろい)の胸板に、裏まで通すほどに突き刺さったのでした。

寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで、残党狩りの結果、平家の子孫は絶えたと思われましたが、彼は自害を快く思わず、平盛久らと共に京の都に落ち延びます。都では平家の残党狩りが厳しく行われていたため、但馬の国に落ち延びます。その後但馬国で潜伏生活へ入りました。盛嗣は城崎郡田結郷気比庄を本拠とする日下部道弘(気比道弘)に身分を偽り、馬飼いとして仕えたと言われています。

その後盛嗣は道弘の娘婿となり、平穏な落人生活を送っていました。道弘は婿が越中次郎だとは知らなかった。けれども、錐(キリ)を袋の中に隠してもその先が自然と外へ突き出てしまうように、夜になると舅の馬を引き出して、馬を走らせながら弓を引いたり、海の中を十四、五町から二十町(1町=約109メートル)も馬で泳ぎ渡ったりしているので、地頭・守護は怪しんでいました。そのうちどこからかこの事が漏れたのだろう、鎌倉殿から文書が下されました。

源氏側は盛嗣の行方を厳しく追及しており、源頼朝は「越中次郎兵衛盛嗣、搦め(縛る)ても誅して(殺して)もまいらせたる者には勧賞あるべし」と皆に披露したとされる記述が『平家物語』(延慶本)にもあります。

諸説あるものの、そのころ盛嗣は、忍んで度々京に上り、旧知の女の許へ通っていました。やがて女に気を許した盛嗣は、女に自分の居所を教えてしまいます。ところが、この女には他にも情夫がおり、女は情夫が「盛嗣を捕らえて勧賞をもらいたいものだ」と言ったのを聞き、「わらわこそ知りたれ」と洩らしてしまったのです。

「但馬国の住人、朝倉太郎大夫高清、平家の侍である越中次郎兵衛盛次が但馬国に居住していると聞く。捕らえて身柄を引き渡せ」との命を受けました。気比四郎は朝倉太郎の婿であったので、朝倉は気比四郎を呼び寄せて、どのようにして捕まえるかと相談した結果、「浴室で捕まえよう」という事になりました。

越中次郎を湯に入れて、ぬかりのない者五、六人を一度に突入させて捕まえようとしたところが、取り付けば投げ倒され、起き上がれば蹴倒される。互いに体は濡れているし、取り押さえる事もできない。けれども、大人数の力にはどれほどの力持ちでも敵わないものなので、二、三十人がばっと寄って、太刀の背や長刀の柄で打ちのめして捕まえ、すぐに関東へ連れて行きました。鎌倉殿は越中次郎を前に引き据えて、事の子細を尋ねました。

「どうしてお前は同じ平家の侍であるだけではなく、古くから親しくしていた者であるというのに、死ななかったのか」

「それは、余りに平家があっという間に滅びてしまいましたので、もしや鎌倉殿を討ち取る事ができるかもしれないと、狙っていたのでございます。切れ味のいい太刀も、良質の鉄で作られた矢も、鎌倉殿を討つためにと思って用意したのでございますが、これ程までに運命が尽き果てています上は、あれこれ言っても仕方ありません」

「その気構えの程は立派なものだ。頼朝を主人として頼むのならば、命を助けてやるがどうか」
「勇士というものは、二人の主人に仕える事はありません。この盛嗣ほどの者にお心を許されては、必ず後で後悔なされるでしょう。慈悲をかけてくださるのなら、さっさと首をお取りください」

と言ったので、
「それならば切れ」と、
由井ヶ浜(神奈川県鎌倉市)に引き出して首を切ってしまいました。越中次郎の忠義の振る舞いを誉めない者はいなかったといいます。

赤間神宮(山口県下関市)にある壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の合祀墓七盛塚は、江戸時代までは安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていました。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、「耳なし芳一」の舞台でもあります。

墓は、左近衛少将有盛、左近衛中将清経、右近衛中将資盛、副将能登守教経、参議修理大夫経盛、大将中納言知盛、参議中納言教盛、伊賀平内左衛門家長、上総五郎兵衛忠光、飛騨三郎左衛門景経、飛騨四郎兵衛景俊、越中次郎兵衛盛継、丹後守侍従忠房、従二位尼時子の一門が並んでいます。

平家落人伝説は、但馬でも約40ヶ所に残されていますが、唯一確かといえるのが、この越中次郎兵衛盛嗣にまつわる話です。豊岡市気比と城崎町湯島に残る2基の宝篋(ほうきょう)印塔がその供養塔と伝わっています。

さて、竹野町には宇日(ウヒ)があり、香美町香住区御崎地区は余部(あまるべ)鉄橋で知られる余部からさらに岬にあり、日本一高い所にある灯台で知られ、1185年の壇ノ浦の戦いで敗れた平家の武将門脇宰相教盛(清盛の弟)らがこの地に逃れてきたと伝えられる平家落人伝説の地です。鎧(よろい)、丹後半島には平などもゆかりがありそうな地名です。いずれも田結同様に陸の孤島というべき魚村です。

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日下部氏流(4)太田垣氏

太田垣(おおたがき)氏


家紋:木 瓜
(但馬国造日下部氏後裔) *家紋を九枚笹とする説もある。
武家家伝さん

太田垣氏も、八木氏同様、但馬国造彦座王から日下部連の後裔を称する古来からの但馬の名族です。

『日下部系図』によると、第37代孝徳天皇-有馬皇子-日下部表米王---建屋太郎光村─石和田光忠─太田垣光保とあって、建屋(たきのや)・石和田・太田垣を同族としています。

『但馬国太田文』には尊勝寺領養父郡建屋荘の下司建屋五郎大夫女子も、同新荘の地頭石和田又太郎光時も、ともに御家人(鎌倉幕府家臣)として見えるから、大田垣氏もこの辺りを本拠とした建屋氏の庶流といえます。

日下部氏の一族である八木・朝倉・奈佐など皆、粟鹿神社を祖神として崇敬し、朝倉氏などはのちに越前に移ってその居城中に越前に粟鹿神社を勧請しています。

山名氏の但馬制圧に協力したことから、朝倉宗家を凌いで強大となり、ついには垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名氏の四天王と呼ばれる隠然たる勢力にまで成長し、丹波・播磨への通路を扼する要衝、朝来郡竹田城を本拠とするに至りました。

延文三年(1358)、祐徳寺に建屋新荘のうち田一段を寄進した太田垣光善、正平十八年(1363)に建屋下司職内の田一段を寄進した実阿(光善の法号かも知れない)などの名がみえ、嘉吉三年(1443)以後竹田城を預かったという太田垣光景、応仁元年(1467)の竹田城主太田垣土佐守、その嫡子新左衛門宗朝、二男新兵衛尉、備前守護代として山名俊豊を擁した太田垣美作入道、その舎弟三河守、同新右衛門大尉、同左京亮らの名が諸書に散見されます。

■太田垣氏の台頭

明徳の乱で、但馬国衆は山名氏清方と山名時熈方に相分かれて戦いました。有力国衆の多くは氏清方に味方し、土屋氏、長氏、奈佐氏らが勢力を失いました。なかでも土屋氏は一族五十三人が討死するという惨澹な有様で、山名氏は多大な人的損害を被りました。時熈は山名氏を掌握したものの、国衆の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていきました。いきおい、優秀な人材に対する時熈の期待は高くなりました。

このような状況にあって、急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏でした。とくに、「応永の乱(1399)」における両氏の活躍が、その台頭に拍車をかけました。

明徳の乱・応永の乱に活躍して、太田垣氏興隆のもとを築いたのは通泰でした。通泰は太田垣光善の子で、光成の弟と推定される人物です。太田垣氏は明徳の乱に、一族を挙げて山名時熈方に味方して戦りました。乱の過程で通泰が一族を率い活躍したことで、応永七年(1400)、但馬守護代に任ぜられたのでした。このとき、土屋(垣屋)遠江入道も但馬守護代に任ぜられ、二人は管轄地域を分けてその任を遂行したようです。ちなみに、土屋(垣屋)氏は気多郡(今の日高町と旧豊岡市と竹野町の南部分)を管轄し、太田垣通泰は朝来郡と養父郡の南半分を管轄していました。さらに、通泰は翌八年三月、備後守護代にも任ぜられています。

嘉吉元年(1441)、「嘉吉の乱」で赤松氏討伐に功のあった山名氏は播磨守護に補せられ、太田垣誠朝が播磨守護代に任ぜられました。そして備後守護代には一族の者を据え置いたようです。それは美作守宗応でした。宗応は光成系太田垣氏の人物と思われ、いわば太田垣氏の本家筋にあたり、宗応の家は、惣領家となった通泰の子孫が備後へ赴いている間、但馬における太田垣一族の中心となって、その留守を守っていたのでしょう。宗応のあとの備後守護代は、美作守宗収がなっています。

美作守宗収は美作入道と同一人物と考えられ、『翠竹真如集』にみえる法諱を宗収、徳叟と号した人物のようです。若年には山名時熙に可愛がられ、中年には持豊に仕え、晩年には政豊に重用されました。そして、政豊は嫡子俊豊を備後守護に任じたとき、山名俊豊が若年であったため、宗収を守護代に任じて俊豊を補佐させました。宗収はこれに応え、よく山名俊豊を補佐しました。宗収の死後、備後守護代は惣領家から派遣された宗朝の子俊朝が受け継いでいます。

宗収には子宗幸、そして甥に光久がいたと伝えています。また、『日光院文書』にも光朝・時久・氏定・隆定・三河入道浄□・紹悦らの名が見えるが、一般に知られている『太田垣系図』には光朝を除いてその名を欠き、太田垣氏には不明な点が多いようです。

引用:「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会・武家列伝他
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日下部氏流(4)太田垣氏

太田垣(おおたがき)氏
家紋:木 瓜
(但馬国造日下部氏後裔) *家紋を九枚笹とする説もある。
武家家伝さん

 太田垣氏も、八木氏同様、但馬国造彦座王から日下部連の後裔を称する古来からの但馬の名族です。

 『日下部系図』によると、第37代孝徳天皇-有馬皇子-日下部表米王---建屋太郎光村─石和田光忠─太田垣光保とあって、建屋(たきのや)・石和田・太田垣を同族としています。

 『但馬国太田文』には尊勝寺領養父郡建屋荘の下司建屋五郎大夫女子も、同新荘の地頭石和田又太郎光時も、ともに御家人(鎌倉幕府家臣)として見えるから、大田垣氏もこの辺りを本拠とした建屋氏の庶流といえます。

 日下部氏の一族である八木・朝倉・奈佐など皆、粟鹿神社を祖神として崇敬し、朝倉氏などはのちに越前に移ってその居城中に越前に粟鹿神社を勧請しています。

 山名氏の但馬制圧に協力したことから、朝倉宗家を凌いで強大となり、ついには垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名氏の四天王と呼ばれる隠然たる勢力にまで成長し、丹波・播磨への通路を扼する要衝、朝来郡竹田城を本拠とするに至りました。

 延文三年(1358)、祐徳寺に建屋新荘のうち田一段を寄進した太田垣光善、正平十八年(1363)に建屋下司職内の田一段を寄進した実阿(光善の法号かも知れない)などの名がみえ、嘉吉三年(1443)以後竹田城を預かったという太田垣光景、応仁元年(1467)の竹田城主太田垣土佐守、その嫡子新左衛門宗朝、二男新兵衛尉、備前守護代として山名俊豊を擁した太田垣美作入道、その舎弟三河守、同新右衛門大尉、同左京亮らの名が諸書に散見されます。

■太田垣氏の台頭

 明徳の乱で、但馬国衆は山名氏清方と山名時熈方に相分かれて戦いました。有力国衆の多くは氏清方に味方し、土屋氏、長氏、奈佐氏らが勢力を失いました。なかでも土屋氏は一族五十三人が討死するという惨澹な有様で、山名氏は多大な人的損害を被りました。時熈は山名氏を掌握したものの、国衆の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていきました。いきおい、優秀な人材に対する時熈の期待は高くなりました。

 このような状況にあって、急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏でした。とくに、「応永の乱(1399)」における両氏の活躍が、その台頭に拍車をかけました。

 明徳の乱・応永の乱に活躍して、太田垣氏興隆のもとを築いたのは通泰でした。通泰は太田垣光善の子で、光成の弟と推定される人物です。太田垣氏は明徳の乱に、一族を挙げて山名時熈方に味方して戦りました。乱の過程で通泰が一族を率い活躍したことで、応永七年(1400)、但馬守護代に任ぜられたのでした。このとき、土屋(垣屋)遠江入道も但馬守護代に任ぜられ、二人は管轄地域を分けてその任を遂行したようです。ちなみに、土屋(垣屋)氏は気多郡(今の日高町と旧豊岡市と竹野町の南部分)を管轄し、太田垣通泰は朝来郡と養父郡の南半分を管轄していました。さらに、通泰は翌八年三月、備後守護代にも任ぜられています。

 嘉吉元年(1441)、「嘉吉の乱」で赤松氏討伐に功のあった山名氏は播磨守護に補せられ、太田垣誠朝が播磨守護代に任ぜられました。そして備後守護代には一族の者を据え置いたようです。それは美作守宗応でした。宗応は光成系太田垣氏の人物と思われ、いわば太田垣氏の本家筋にあたり、宗応の家は、惣領家となった通泰の子孫が備後へ赴いている間、但馬における太田垣一族の中心となって、その留守を守っていたのでしょう。宗応のあとの備後守護代は、美作守宗収がなっています。

 美作守宗収は美作入道と同一人物と考えられ、『翠竹真如集』にみえる法諱を宗収、徳叟と号した人物のようです。若年には山名時熙に可愛がられ、中年には持豊に仕え、晩年には政豊に重用されました。そして、政豊は嫡子俊豊を備後守護に任じたとき、山名俊豊が若年であったため、宗収を守護代に任じて俊豊を補佐させました。宗収はこれに応え、よく山名俊豊を補佐しました。宗収の死後、備後守護代は惣領家から派遣された宗朝の子俊朝が受け継いでいます。

 宗収には子宗幸、そして甥に光久がいたと伝えています。また、『日光院文書』にも光朝・時久・氏定・隆定・三河入道浄□・紹悦らの名が見えるが、一般に知られている『太田垣系図』には光朝を除いてその名を欠き、太田垣氏には不明な点が多いようです。

引用:「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会・武家列伝他
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【但馬の歴史】(19) 垣屋氏(5) 垣屋氏と山名氏の対立

轟・垣屋氏と楽々前・垣屋氏

垣屋氏は板東から山名時氏に従って、但馬に移り住んだのが垣屋家が山名氏に仕えた始まりで、以後代々山名氏の家老となる。 山名氏から気多郡の西気谷の三方郷に所領を与えられたようであるが、弾正の孫の代になると、所領は西気谷から竹野谷へと拡げられ、垣屋氏勢力扶植の基盤を確立したようだ。義遠の息子ら三兄弟のうち、長子熙続、二子熙知はともに主君山名時熙の偏諱を受けたもので、垣屋氏に対する時熙の信頼がいかに篤かったかを示すものである。 明徳2年(1391年)明徳の乱にあたって、大部分は山名氏清・山名満幸に属したのに対し、山名時熙方に属したのは垣屋氏だけだったことが発端である。その結果、明徳の乱を契機として垣屋氏は躍進を遂げることになった。 このとき、垣屋家は10万石以上を手にしたとされており、これを垣屋氏の最盛期であると判定する。

明徳の乱で但馬国衆は山名氏清方と山名時熈方に相分かれて戦った。その結果、執事の小林氏をはじめとして、山名氏家中の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていた。山名氏の建て直しを急務とする時熈にすれば、優秀な人材を求める気持は強かった。さらに、氏清方に味方した土屋氏、長氏、奈佐氏らは勢力を失い、山名氏家中に大きな逆転現象が起こった。そのような状況にあって、急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏であった。とくに、「応永の乱(1399)」における両氏の活躍が、その台頭に拍車をかけた。

応永の乱とは大内義弘が将軍義満に起こした叛乱で、これに関東公方らが加担して一大争乱となったものである。さらに、明徳の乱で没落した氏清らの一族も丹波で義弘に呼応した。時熙は丹波を平定、堺の合戦において被官の大田垣式部入道が目覚ましい活躍をみせ、乱後、但馬守護代に抜擢された。その後、時熙が備後守護に補任されると大田垣氏が守護代に任じられ、但馬守護代には垣屋氏が任じられた。こうして、垣屋氏・大田垣氏が山名氏の家中に重きをなし、さらに八木氏、田結庄氏を加えて山名四天王と称されるようになるのである。

明徳の乱以来着々と力を蓄えていた垣屋氏は山名家の筆頭家老の座につき、以後山名氏を陰で支えることとなる。

明徳の乱で活躍した垣屋弾正の孫の代になると所領は西気谷から竹野谷へと拡げられ、垣屋氏勢力扶植の基盤を確立した。 嘉吉の乱の恩賞で山名宗全が播磨守護職を賜ったとき、その代官として播磨守護代に任命されたのは垣屋越前守熙続であった。熙続の名は『但馬大岡寺文書』にもみえている。『校補但馬考』がもっとも整然としているとする『因幡垣屋系図』には越中守豊春も越前守熙続もその名を欠いている。おそらく、垣屋氏は多くの庶子家を抱える巨大な武士団を構成していたようだ。

このころから垣屋氏は 越前守熙続(長男)・ 越中守熙知(次男)・ 駿河守豊茂(三男)に別れ、それぞれ越前守家は三方郷の楽々前城、高田郷の越中守家は宵田城、駿河守家は竹野谷の轟(とどろき)城を受け持った。なお彼らは 垣屋弾正の孫、すなわち遠江入道の子である。

日高(高生・たこう)平野の南、円山川支流の稲葉川が大きく南に流れを変える岩中佐田連山の東端にある山城で、場所に永享二年(1430)、築城された。北に祢布城(にょうじょう)・国分寺城、北北西に水生(みずのお)城、北西に伊福(ゆう)城、日高・高生田が一面に見渡せ、岩山の急斜面があり、ふもとを流れる円山川の支流稲葉川が自然の堀となって、最高の条件に恵まれていました。稲葉川が東向きから急に南方に向きを変えるところにつくられており、気多郡の要として重要な位置にあります。楽々前城からのなだらかな稜線が続く形から南龍城とも呼ばれました。

幸福丸は播磨守隆国と名を改め、応永年間(1394~1427)に佐田知見連山の高峰に楽々前(ささのくま)城を築き、自らはここに移り住み、宵田城には隆国の次男垣屋隠岐守国重を城主にしました。  本丸の跡は300mの頂上にありましたが、今は車で登れる道が整備され城跡は区が整備する公園になっています(ただし一般通交禁止)。ここから本拠の楽々前(ささのくま)城まで尾根づたいにつながっていたといわれています。

応仁の乱(1467年-1477年)以降、山名氏に付き従っていた垣屋氏は没落し、戦国時代後期には垣屋続成が田結庄是義に殺される。

かくして、天正三年の秋、野田合戦が起こった。田結庄是義が他出した隙を狙った垣屋続成の子の轟・垣屋豊続(光成)が鶴城を攻撃したのである。急をきいてかけ戻った是義と豊続軍は野田一帯で対戦、敗れた是義は自害した。垣屋豊続は続成の仇をとったことになった。そして轟城から鶴城に本居を移した。この戦いに際して、楽々前城の垣屋播磨守らは田結庄氏を支援したようで、垣屋氏は毛利方と織田方に分かれて一族の対立は深刻化していた。
着々と力を蓄えていた垣屋氏は山名家の筆頭家老の座につき、以後山名氏を陰で支えることとなります。このころから垣屋氏は 垣屋弾正(重教)・時忠・隆国の三代百年に渡る間に、発展の基礎を打ち立てました。

嘉吉の乱と山名氏の衰退

山名氏は嘉吉の乱で守護領国となっていた播磨や備前では、応仁の乱を期に回復した赤松政則が占拠している状況にあいました。山名氏と赤松氏はいわば犬猿の仲です。山名政豊は、旧領回復のため、文明15年(1483年)に赤松家の内紛に乗じて播磨に出兵します。当初は真弓峠の戦いで大勝したものの、文明17年(1485年)以降は劣勢となり、長享2年(1488年)には政則に敗れて(坂本の戦い)、播磨における影響力を失うに至りました。

赤松氏は六千、山名氏は三万の軍隊を投入していました。圧倒的な大軍にかかわらず、山名が負けたのは、布陣を誤り、垣屋の陣所、森岡城が攻撃を受けている時に、山名政豊は遠く離れた書写坂本城(姫路市)にいて、援軍を出すすべも及ばなかったためです。その後も播磨で山名と赤松との間に一進一退の戦いを展開するが、文明十八年(1486)、英賀の戦いには、山名勢は敗北、垣屋越中守、惣右衛門など数十人が討ち死にしてしまいました。

つまり、前年の戦いに次いで良国のみが一人残されました。先に文明8・9・12年にわたって、隆国の三子が相次いで他界しました。

さらに同年四月、書写坂本の戦いにも敗北した山名政豊は、書写坂本城を保持するばかりに追い詰められました。長享二年(1488)、坂本城下で激戦が行われ、敗れた山名方は結束を失っていきました。

窮地に陥った政豊は但馬への帰還を願いましたが、垣屋氏をはじめ但馬の国衆らはあくまで播磨での戦い継続を求めました。さらに嫡男の俊豊も撤収に反対したため、追い詰められた政豊は、ついに坂本城を脱出して但馬に奔りました。かくして山名勢は総退却となり、赤松勢の追尾によって散々な敗走となりました。但馬国衆まもとより俊豊を擁する備後国衆らは背を向けました。

なかでも一連の敗北で、多くの犠牲を払った山名氏の有力被官で播磨守護代の垣屋氏と政豊の間には深刻な対立が生じていました。備後守護代であった大田垣氏や備後衆は俊豊を擁する動きをみせ、俊豊が政豊に代わって家督として振舞っていたようです。ところが、明応の政変によって将軍足利義材が失脚、義材に従って河内に出陣していた俊豊は窮地に陥りました。ただちに但馬に帰った俊豊でしたが、与党であったはずの垣屋・太田垣氏らが政豊方に転じたため、但馬は俊豊の意のままにはならない所となっていました。  垣屋続成は明応二年(1493)、山名俊豊と対立、政豊・致豊の重臣として実質的に山名領国の経営を担うようになる。

永正九年(1512)居城を楽々前城から鶴ケ峰城(日高町観音寺)に移し、ここを垣屋本流の拠点としました。楽々前城よりも標高が高く、山名氏の本城をはじめ四方が見渡せるからでしょう。こうした中、轟城主系の垣屋には戦死者が出なかったのが、せめてもの救いでした。
天正になると、山名氏の衰退とともに、西に毛利氏、東に織田氏が台頭すると、四天王たちは独立色を強め、二派に分かれ抗争を繰り広げ、山名氏の衰退をさらに加速させました。
垣屋続成の子が播磨守光成で、光成は八木・田公・田結庄ら但馬の有力国人衆と謀って主君である山名致豊に離叛し、山名誠豊を擁立して但馬の領国経営の実権を握ります。以後、垣屋光成(気多郡)・太田垣輝延(朝来郡)・八木豊信(養父郡)・田結庄是義(城崎郡)等四頭が割拠し但馬を四分割した。
この後、田結庄との「野田合戦」が起きた。

垣屋氏と山名氏の対立

本拠地を九日市から直轄領である出石郡西部の此隅山へ退転し、さらに現在の出石城がある有子山に城を移した。出石への移転の背景には、被官垣屋氏との相克がある。特に将軍位継承にからんで、義稙派の垣屋氏と義澄派の山名氏との勢力バランスが微妙に関わり合ったと見られる。山名氏は応仁の乱・播州放棄・山名政豊が死去し、子・俊豊や国人の背反など、政豊によって辛うじて維持されていた山名氏の勢いがなくなり、大きく傾いた。
さらに播州放棄・山名政豊が死去し、子・俊豊や国人の背反など、政豊によって辛うじて維持されていた山名氏の勢いがなくなり、大きく傾いた。

永正元(1503)年夏、軍勢乱入により出石神社が焼失した(沙門某勧進帳)。近くの此隅山山下の山名致豊勢を垣屋氏が襲ったと見られるが、一宮出石神社の所在地としても、直轄領の重要拠点であったから、城や在所の有無に関わらず、この地で両者が衝突することはあり得たと思われる。

永正2(1505)年6月、垣屋氏との争い後、将軍義澄は山名致豊に命じて垣屋氏と和睦させたが、内書では「先年和与を申しつけておいたのに実を挙げていない」と叱責する。
問題は、この和与調停にある。和世の条件等は不明であるが、山名氏の出石への退去の要因・動機であり得た可能性は極めて高い。義澄の調停の意図は、復権を目指す前将軍義稙の上洛に対抗して「腐っても鯛」である山名氏国衆の統一と団結とその和解に期待したものといえる。

結局、義稙は復権し(永正5年)、義稙派の垣屋光成は行粧諸道具使用を許されて将軍直参の資格を得、永正9年、山名致豊引退とともに本拠を宵田城(日高町)から城崎城(今の神武山豊岡城)に移した。後に豊岡に残した宵田の地名(現・中央町)は邸があった場所である。

この時点で、垣屋氏は山名政権下の国人筆頭の地位を脱して名実ともに、但馬の支配者としての地歩を固めた。

田結庄是義の父・右近将監は垣屋氏の出であり、太田垣氏・田公氏を始めとするかつての山名氏の有力被官にも養子を送り込まれている。

野田合戦後、田結庄氏の居城鶴城(愛宕山城)に入った轟・垣屋豊継は城崎城の但馬山名氏が衰えたあと、垣屋豊継は宵田城から城崎(木崎)城に入った垣屋氏と組んで「但馬一円を知行」したとされ、天正8(1580)年、但馬を征服した豊臣方の宮部善祥房がまず鶴城に入ったのは、但馬支配者の城だったからと説く向きもあります。

天正二(1574)年に山名祐豊が有子山城に復帰したとき、垣屋氏を含めて旧被官が傘下に列したのは、但馬を制圧した織田氏が、但馬の新秩序を固めるために強制した体制であったが、天正三(1575)年の田結庄氏滅亡といった傘下被官同士の争乱に見られるように、山名氏にその統制力はなかった。

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【但馬の歴史】(5) 大岡山と進美寺

大岡山と進美寺

南北朝のころ、気多郡(豊岡市日高町)の南東にそびえる須留岐山は、その名の通り剣のような男らしい山ですが、気多郡の西に位置する大岡山は、なだらかな稜線をした女性らしい山です。

『三大実録』(868)に正六位上大岡神は左長神・七美神・菅神と共に神階が進んで、従五位下となっている事から知られるように、古くから大岡山は山そのものが神様だと信じられています。

古代の日本人は、風雪や雨や雷など頭上に生起する自然現象に、すべて畏敬の眼で接し、そこに神の存在を信じていました。とりわけ米作りの生活が展開すると、秋の実りを保証してくれるのも神のなせる技との思いが強められます。神が天井から降臨し給う聖域は、集落の近くにあり、樹木が生い茂ったうっそうとした高い山だとか、あるいはなだらかな山容をした美しい山だと信じられていました。大岡山は、まさに大きな丘のような山として、そのまるっぽい姿は、神が天降り給うと信じるのにうってつけの山であったわけだし、つるぎ(剣)の尖りにも似た須留岐山は、神が降り来る山の目印とも感じられていたことだろう。このような神の山は「カンナビヤマ」とも呼ばれていました。神鍋山も「カンナビヤマ」のひとつであったものと思います。

日高町の南東に位置する須留岐山は、山の尾根を西へ行くと進美寺山(シンメイジヤマ)は、円山川と支流浅間川の分水嶺であったと同時に古代律令制時代に制定された養父郡と気多郡の郡界線でもあった。進美寺は、705年、行基が開き738(天平十年)、十三間四面の伽藍と四十二坊の別院が建立されたものと伝えられています。

山中のわずかばかりの平地にそのような伽藍が造営されていたとは、そのまま信じることはできないが、但馬に仏教が伝播してくる一つの契機であるとすれば、進美寺の開創が但馬のどこよりも古いものと考えたとき、但馬国分寺が政府によって造営された官寺であったのに対し、全くこれと異なった基準で政府ではなく川人部広井や日置部是雄のような地方在住の有力豪族によって造営されています私寺だったのであります。

『但馬国太田文』によると、但馬八郡で寺の多い郡でもせいぜい六ヵ寺なのに対し、気多郡には十七ヵ寺と、ずば抜けて多い。当時の農民の生活の場を避けるように、平野部に建立されないで人里離れて奥まった山間いに建立されていました。『但馬国太田文』が記された1285年(弘安八年)においては、伽藍があり、堂塔の美を競っていたようです。

大岡山は大岡神として神社が建てられていましたが、757(天平元年)に寺院が建てられました。開基は気多郷の住人、忍海公永の子、賢者仙人だとされています。忍海部広庭と同じ人物だろうといわれています。その際に地主神である大岡神を慰めるために大岡社を建てています。客人神として加賀白山神社から白山神社があるが、天台宗の寺院では必ずといってよい程、客人神として祀られています。現在こそ真言宗だが、当初は天台宗でした。進美寺も同じく天台宗です。
山名時氏が守護となった頃の気多郡の武士はどのような人たちだったのだろう。

大岡寺文書によると、観応二年(1351)山城守光氏が太多荘内に得久名と名付ける田地を所持しています。他には、太田彦次郎…太田荘の太田を姓にしていますから太田荘の有力者でしょう。太田垣通泰、垣屋修理進。太田垣は、但馬生え抜きの氏族、日下部氏の名が流れで、朝来郡で優勢な人で、応仁の乱の功によって、山名時熙が備後守を復した時、最初に送り込んだ守護代です。朝来郡だけでなく気多郡にも領有権を保持していました。垣屋修理進は、垣屋系図には見えないが、おそらく垣屋の主流につながる人でしょう。

進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより、全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文であります。

但馬国の守護所はどこに置かれていたのだろうか。出石町付近だとの考えもあります。それは但東町太田荘の地頭は、越前々司後室だが、この人は北条時広の未亡人だと考えられる地位の高い人だから、在京者で、その実務を執り行うのは、守護関係の人ではないかと推定されます。また、太田氏の所領が出石郡に集中していますからです。

しかし、国衙がある気多郡に守護所が設置されてもいいはずです。但馬国の場合、国衙の機能は鎌倉時代を通して活発に発揮されていました。国衙に国司が赴任していなくても、留守所が置かれ、京都の指令を忠実に行政面に施行しようとしていました。公式的には目代と在庁官人で構成されていました。この在庁官人の中に、ある時期には進美寺の僧が関係していたらしい。このころ御家人といっても、文字について教養のないものが多くいた時代であります。ましてや農民層に至っては文化的な教養などは無縁であったからです。

大将野荘(現在の野々庄)57町二反余は『但馬国太田文』によると、畠荘宇治安楽院領、領家円満院宮とあります。円満院は、京都岡崎にあり、相次いで皇族が入院される寺格の高い寺で、国衙近辺の地に荘園があり、その中に守護所が設置されていた可能性も推定できます。
引用:『日高町史』

南北朝時代

内乱の中で、足利尊氏ら武士勢力にとっても、「天皇制は必要」でした。幕府の重職の中には、天皇をないがしろにする行動が見られました。たとえば、美濃国の守護、土岐頼遠は京都で光厳上皇の行列に行き会って、「院のお車であるぞ、下馬せよ」と注意を受けると、「なに、院というか、犬というか、犬ならば射ておけ」と、上皇の牛車を取り囲み、なんと犬追物をするがごとくに矢を放ちました。牛車は転倒したといいますから、まかり間違えば上皇の命に関わる所行でした。

近江国を掌握する京極導誉は、光厳上皇の兄弟で、天台座主を務めた妙法院宮亮性法親王の邸宅に焼き討ちをかけ、重宝を奪い取りました。激怒した比叡山が導誉の処刑を申し入れると、出羽国への流罪が決定しました。しかし、三百騎を率いて京都を出発した導誉は諸処で宴会を催し、適当なところから帰京してきました。あたかも物見遊山です。

将軍の執事、高師直(こうのもろなお)に至っては、「京都には王という一がいらっしゃって、多くの所領を持っている。内裏とか院の御所とかがあって、いちいち馬を下りねばならぬ面倒くささよ。もし王がどうしても必要だという道理があるのなら、木で造るか、金で鋳るかして、生きている院や国王(天皇)はみな流し捨て奉れ」。また配下の武士たちに、「土地が欲しければ貴族様の庄園だろうと、由緒ある寺院の所領だろうと、構うものか。好きなだけ奪い取れ。あとは私が、庄園領主のみなさまに適当にいい繕っておいてやるから」とも指示していました。

しかし、こうした風潮の中で、それでも天皇制は生き延びました。必要とされたのです。それはいうまでもなく、京に居住する天皇・貴族・大寺社を名目的にせよ上位者と仰ぐ、平安時代以来の土地所有の方法であったからです。幕府は「職の体系」を越える理論を用意することができなかったのです。

足利尊氏と直義の兄弟は、一致協力して室町幕府の発展に努めていました。尊氏は将軍として全国の武士を束ね、所領の安堵を行うとともに、軍事活動の指揮を執っていました。直義は鎌倉時代に進展した統治行為を継承し、さらに展開して、行政・司法を司っていました。二人は互いの活動と権限を重ね合わせ、新たな将軍権力を創出したのです。

南北朝時代、以後六十年にわたって天皇家が分裂します。争乱といっても両者がまともに戦えたのはわずか一、二年でした。1338(暦応元)年五月、北畠顕家が率いる奥州勢が、和泉国堺で壊滅しました。壊滅は「中央集権はもはや機能しない。地方を重視し、委譲せよ」等、建武新政を痛烈に批判した後に戦死を遂げました。閏七年には越前で新田義貞が敗死しました。これをもって南朝の組織的な抵抗は頓挫します。あとは各地で小規模な局地戦が継続していきます。

新田義貞を中心に南朝に参加した新田一族と異なり、山名時氏は縁戚の足利尊氏に従いましました。尊氏の世がくると時氏も運気を掴み、守護大名として山陰地方に大勢力を張り、足利三代将軍義満の時代、幕府には、最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいました。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(トップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていました。

その後の観応の擾乱では、南朝側に与して足利直冬に従いましたが、足利義詮時代には幕府側に帰参しました。

足利氏の姻族である上杉氏との縁戚関係などから、新田一族の惣領である新田義貞には従わずに、足利尊氏の後醍醐天皇からの離反、湊川の戦いなどに参加。南朝(吉野朝廷)との戦いで名和氏掃討を行い、伯耆の守護となります。

その後は山陰において、幕政の混乱にも乗じて影響力を拡大して播磨の赤松氏とも戦います。幕府では1367年に細川頼之が管領に任じられ、南朝との戦いも小康状態になると、大内氏や山名氏に対して帰順工作が行われ、時氏は領国の安堵を条件に直冬から離反、1363年(貞和2)8月には上洛し、大内氏に続いて室町幕府に帰順します。幕府では、義詮正室の渋川幸子や、同じく幕府に帰順した斯波義将、大内弘世らとともに反頼之派の武将でした。73歳で死去。

山名氏の築城に功績のあった人として山名師義がいます。師義は、氏清の弟、兄弟に義理、氏冬、氏清、時義。観応の擾乱では直義方・南朝方に属した父の時氏に従い、兄弟たちと共に尊氏方・北朝方の赤松氏と争い、中国地方における勢力拡大に務めます。

貞和8年(1363年)に山名一族が北朝に帰順すると、丹後国(京都府)・伯耆国(鳥取県)の守護職を引き継ぎました。幕政においては三管領の細川頼之らと派閥抗争を繰り広げました。1371年に時氏が死去すると惣領となります。

伯耆国に打吹山城(鳥取県倉吉市・伯耆国の守護所)を築き、時氏統治時代の居城田内城(たうちじょう)から移転しています。文中年間(1372~74)出石神社の西側の此隅山(このすみやま)に、此隅山城を築きました。此隅山城は長らく山名氏の本拠でした。まもなく師義も49歳で死去し、山名一族内紛の一因となります。

三開山城(みひらきさんじょう)

豊岡市駄坂  国道312号佐野付近から北方に見える

城史にまつわる話は、あくまでも伝承であって、客観的な資料に裏付けされた史実ばかりではありませんが、意味もなく伝わったわけではなく面白いものです。 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会による話です。

豊岡盆地中央部東縁の三開山(標高201.6m)にあります。豊岡市街から見ると、六方田んぼの東側に、202mの低いけれど富士山に似たきれいな山が見えます。三開山は、見開山とも書かれたように、眺望の良い立地で、豊岡盆地を制する戦略的位置を占めます。山頂部に二曲輪(くるわ)、尾根にも数曲輪を残ります。

室町時代の初め-南北朝時代(1333~1392)に、後醍醐天皇を中心とする天皇親政派(南軍)と、足利尊氏を中心とする武家政治派(北軍)とが、激しく争って、日本の各地で戦争が絶えなかった時代です。

延元元年(1336)、南軍の楠木正成が湊川の合戦で敗れて、南軍の勢力が弱まる前後から、但馬の武士の多くは北軍に味方しましたが、それでもまだ南軍に味方するものもあって、津居山城や、気比の高城(いずれも豊岡市)には、北軍の今川頼貞が攻めてきて、これを落としています。

その翌年の延元二年に、南軍の総大将、新田義貞は、越前(福井県)に潜んでいましたが、とくに弟の秋田義宗を但馬の三開山に派遣して、但馬の南軍の全体の指揮に当たらせ、山陰地方の南軍と連絡を取るようにさせて、越前と但馬の両方から、京都に攻め入る作戦を立てていました。ところが、足利尊氏は、そうさせては一大事と、弟の直義にこれを討つように命じました。直義は家来の小俣来金を但馬に攻め入らせました。

秋田義宗は、進美(しんめいじ)山城(豊岡市日高町)や妙見山城(養父市八鹿町)と連絡を取りながら戦いましたが、あてにしていた因幡や伯耆(いずれも鳥取県)の南軍の応援もなく、小俣来金の激しい攻撃の前にあえなく落城し、義宗は越前に逃れました。

このあと、一時、山名時氏、師義の父子がこの城に入り、自分で但馬の守護だと称していたといわれていますが、その山名が足利方に追われる身となって、因幡に逃げている間の延文三年(1358)に再び、三開山城の麓の篠岡で、南北両軍が戦っています。

この時の城主はよく分かりませんが、攻めたのは北軍の伊達三郎という武将です。四月から七月にかけて篠岡の里をはじめ、六方田んぼで血みどろの戦いが行われています。七月のある時には、大洪水の六方田んぼに、南軍の数百そうの船が攻め寄せ、追いつめられた北軍は山の中へ逃げ込み、大将の伊達三郎も矢傷を受けるほどの大激戦でした。

しかし、結局、南軍が敗れ、三開山城は落城してしまいました。
一部に野面積みの石垣があり、南北両斜面に18本の堅堀を刻むなど、戦国時代の特徴を表すことから、時代的には1580年(天正8年)、羽柴勢の但馬攻めの時に落城したという地元の伝承を史実として肯定的に見直すこととなった。1337年(建武4年)、新田義貞の子・義宗を迎えて、但馬南朝勢力の拠点化を図ったと伝えるが、史実ではない。頂上には落城時の焦米(こげまい)が出るという。

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