四道将軍 彦坐王は、『古事記』では「日子坐王」、『日本書紀』では「彦坐王」と書く。
『日本書紀』開化天皇紀によれば、第9代開化天皇と、和珥臣の遠祖の姥津命の妹の姥津媛命との間に生まれた皇子とする。『古事記』では、開化天皇と丸邇臣(和珥臣に同じ)祖の日子国意祁都命の妹の意祁都比売命との間に生まれた第三皇子とする。
四道将軍と丹波道
『古事記』崇神天皇の条に、四道将軍(古訓:よつのみちのいくさのきみ)が各地に派遣されたとある。いずれも皇族(王族)の将軍で、大彦命、武渟川別命、吉備津彦命、丹波道主命の4人を指す。『古事記』では一括して取り扱ってはおらず、断片的のそれぞれの将軍を扱い、四道将軍の呼称も記載されていない。『日本書紀』では事績に関する記載はなく、子の丹波道主命が丹波に派遣されたとしている。この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国、丹後国、但馬国を指す。
また、西道(山陽道)に派遣された吉備津彦命は、『日本書紀』『古事記』とも、「キビツヒコ」は亦の名とし、本来の名は「ヒコイサセリヒコ」(紀)彦五十狭芹彦命、(記)比古伊佐勢理毘古命とする。『古事記』によると、崇神天皇10年(西暦217年)にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。北陸は大彦命、東海は武渟川別命、西道(山陽道)は吉備津彦命、そして丹波には、丹波道主命が派遣されたのである。
四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル(日本武尊)伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている。
四道とは北陸、東海、西道、丹波の四つの地方であり、地理的に丹波道は狭いが、図のように幹線道路としては離れざるを得ない立地にある。山陰道から別れて丹後半島今でも東海道などは使われているようにこの時期の「丹波国」は、後の令制国の丹波国、丹後国、但馬国を指し、五畿七道の山陰道に含まれる。山陰道の篠山あたりから別れて円のようにまわり、但馬国府の置かれた気多郡(今の豊岡市日高町)で山陰道に合流する支線を丹波路としている。北陸、東海、西道が細長い広大なエリアなのに対し、この時代の分立するまでの3国を含めた丹波を、近年、丹波王国、大丹波、北近畿などと名付けられていたりする。日子坐王のの子が丹波道主命ということから、丹波道主は丹波道の主(首長)ということを意味する名前なのだ。当時の丹波、丹後、但馬をまとめて総称するなら「丹波道」がふさわしいと思う。
北陸、東海、西道は現在でもほぼ同じエリアであるが、日本海側を山陰道のような表記では表さず、丹波道としているのは、丹後の三大大前方後円墳や但馬の池田古墳規模の大規模な前方後円墳が鳥取・島根で少ないことも因幡以西の出雲王国までにヤマト王権による支配権が当時は及ばなかった証拠でだろう。
玖賀耳之御笠(陸耳御笠)
日子坐王は天皇の命によって旦波国(丹波国)に遣わされ、土蜘蛛の玖賀耳之御笠(陸耳御笠とも)を討ったという。彦坐王が丹波に派遣されたとあるが、丹波道主命は彦坐王の子で、実際に遣わされたのが丹波道主命とも読めるし、一緒に派遣されたとも読める。
『国司文書 但馬故事記』に詳細に記されている。第10代崇神天皇10年(前88年)秋9月 丹波青葉山の賊 陸耳の御笠、土蜘蛛匹女ら、群盗を集め、民の物品を略奪した。
タヂマノクルヒ(多遅麻狂・豊岡市来日)の土蜘蛛がこれに応じて非常に悪事を極め、気立県主櫛竜命を殺し、瑞宝を奪った。
崇神天皇は、第9代開化天皇の皇子であるヒコイマス(彦坐命)に詔を出して、討つようにいわれた。ヒコイマスは、子の将軍 丹波道主命とともに、
多遅麻朝来直の上祖 アメノトメ(天刀米命)、
〃 若倭部連の上祖 タケヌカガ(武額明命)、
〃 竹野別の上祖 トゲリヒコ(当芸利彦命)、
丹波六人部連の上祖 タケノトメ(武刀米命)、
丹波国造 ヤマトノエタマ(倭得玉命)、
大伴宿祢の上祖 アメノユゲノベ(天靭負部命)、
佐伯宿祢の上祖 クニノユゲノベ(国靭負部命)、
多遅麻黄沼前県主 アナメキ(穴目杵命)の子クルヒノスクネ(来日足尼命)、等
丹波に向かい、ツチグモノヒキメを蟻道川で殺し、クガミミを追い、白糸浜に至った。
クガミミは船に乗り、多遅麻の黄沼前の海に逃げた。
『丹後風土記残欠』にも、
(志楽郷)甲岩。甲岩ハ古老伝テ曰ク、御間城入彦五十瓊殖天皇ノ御代ニ、当国ノ青葉山中ニ陸耳御笠ト曰フ土蜘ノ者有リ。其ノ状人民ヲ賊フ。故日子坐王、勅ヲ奉テ来テ之ヲ伐ツ。即チ丹後国若狭国ノ境ニ到ニ、鳴動シテ光燿ヲ顕シ忽チニシテ巌岩有リ。形貌ハ甚ダ金甲ニ似タリ。因テ之ヲ将軍ノ甲岩ト名ツク也。亦其地ヲ鳴生(今の舞鶴市成生)ト号ク。
福知山のニュース両丹日日新聞WEB両丹に玖賀耳之御笠(陸耳の御笠)は、
ところで、大江町と舞鶴市は、かつて加佐郡に属していました。「丹後風土記残欠」にも、加佐郡のルーツは「笠郡」とのべています。
この「笠」に関連して、興味深い伝承が青葉山に伝わっています。ご承知のように、青葉山は山頂が2つの峰に分かれていますが、その東側の峰には若狭彦、西峰には笠津彦がまつられているというものです。笠のルーツは、この笠津彦ではないのか、そんなふうに考えていたところ、先年、大浦半島で関西電力の発電所建設工事中、「笠氏」の刻印のある9世紀頃の製塩土器が発見されました。笠氏と呼ばれる古代豪族が、ここに存在していたことが証明されたわけです。また、ここから、大陸との交流を裏づける大型の縄文の丸木舟が出土し話題となりました。
陸耳御笠。何故、土蜘蛛という賊称で呼ばれながら、「御」という尊称がついているのか。ヤマト王権の国家統一前、ここに笠王国ともいうべき小国家があったのかもしれない。陸耳御笠と笠津彦がダブってみえてきます。
記紀は、土蜘蛛と蔑みながら、陸耳の笠でよいのに御を加えて尊称もしているのは、あまりに無礼であると感じていたのか。「クガミミ」とは国神の事で、クガミミノミカサとは国神クニガミノミカサという意味だとすると、笠国をつくった主とは先住の王であった。土蜘蛛、(つちぐも)は、上古の日本において朝廷・天皇に恭順しなかった土豪たちを示す名称である。各地に存在しており、単一の勢力の名ではない。土雲とも表記される。史書は、勧善懲悪となるのが常で、勝者が美化され、敗者は悪党に描かれる。織田信長VS明智光秀、浅野内匠頭VS吉良上野介、、、本当のところはよく分からないのだ。
『地形で読み解く古代史』関 裕二 氏は、
『日本書紀』に狭穂姫がなくなったあとの垂仁天皇の后妃の記述が残り、垂仁15年春2月10日の条に、「丹波の五人の女性を召し入れた」とあり、その中から日葉酢媛命がのちの皇后に立てられたとある。さらに垂仁34年春3月の条には、垂仁天皇が山背(山城)に行幸し、評判の美女を娶ったとある。
(中略)
なぜタニハの謀反のあと、垂仁天皇はタニハ系の女人ばかりを選んだのだろう。
これには伏線があったと『日本書紀』はいう。狭穂姫が天皇に別れを告げたとき、後添えのことに言及していた。
「私の後宮は、よき女性たちに授けてください。丹波国に五人の貞潔な女性がおります。彼女たちは、丹波道主命(日子坐王の子)の娘です。」
この最後の要望を、垂仁天皇は聞き入れたのである。
どうにもよくわからない。タニハ系の彦坐王の人脈が謀反を起こしたにも関わらず、その上で、次の后妃もタニハからとっている。こうしてタニハの女人で埋まっていく。ヤマト黎明期のヤマトで、いったいなにが起きていたのだろう。タニハ(+山背)が、なぜ後宮を席巻できたのか。
(中略)
やはり、地形と地政学で、この謎は解けるのではないかと思えてくる。たしかにヤマトは国の中心にふさわしい土地だったが、日本全土を視野に入れて流通を考える場合、西国に通づる河内、若狭、丹波三国、さらに東海、北陸に通づる山城、近江のラインが最も大切で、そこを支配する「タニハ連合」と手を組まなければ、政局運営はままならなかったからだろう。
ちなみに東に向かった二人の将軍は、太平洋側と日本海側から東北南部に進み、福島県南部(二人が会ったから、「相津」(会津)の地名ができたという)で落ちあったという。早い段階の前方後円墳の北限は、ほぼこのあたりで、ヤマト建国時の様子を『日本書紀』編者がよく承知していて、その上で、「各地から多くの首長がヤマトを建国したのに、『日本書紀』の文面では、ヤマトから将軍が四方に散らばり、和平したことにしてしまった」のだ。
ヤマト建国の中心に立っていたのは吉備だされる。前方後円墳などにみられる円筒形埴輪が吉備がルーツとされており、吉備にも吉備津彦命が派遣され、その末裔が吉備を支配するようになったとあるが、これは全く逆で、吉備がヤマトに進出しヤマト建国の中心に立ったのだというのだ。『日本書紀』はこの事実を裏返して示している。
10代崇神天皇は、四道将軍を派遣して支配領域を広げ、課税を始めてヤマト政権の国家体制を整えたことから、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。もしそれがタニハ連合(のち分国した但馬・丹後を含む丹波、若狭)+山城、近江、尾張が手を組み、ヤマトに進出し、あわてた吉備と出雲がヤマト建国の流れに乗ったのだ。
としている。
たしかに、ヤマト建国は、タニハなどの連合国家だったならば、ヤマト建国の主役はヤマトではなくなってしまう。これでは国家の史書として都合が悪い。『日本書紀』編者らは、その経過を知っていたので、四道将軍を創作し、朝廷が平定したのだと都合のいいように史実をひっくりかえして朝廷主導に書いたという氏の考察も、あながちそうではないと言い切れない。
しかし、地方豪族ではなかったことは、『日本書紀』に「四道将軍はいずれも皇族(王族)」と記述していることだ。そして、「彦坐王はタニハからヤマトにやってきたとみなすべきだ。」とはどういう根拠なのかだ。彦坐王の子・狭穂彦王と狭穂姫がヤマトにやってきたし、その後も彦坐王の子丹波道主命の娘5人が后・妃になっているが、彦坐王・丹波道主命がタニハからヤマトにやってきた形跡はないし、『日本書紀』に皇族(王族)で開化天皇の皇子としているが、地方豪族出身ということになってしまう。記紀編者らが朝廷に都合が悪い出来事は朝廷優位に改変することがあったろうとは当然思えるにしても、開花天皇の皇子などと捏造したとしたら、皇族に不敬となる話を記紀編者らが創作するはずもない。
彦坐王の墓は但馬か美濃か?
墓は、宮内庁により岐阜県岐阜市岩田西にある日子坐命墓(ひこいますのみことのはか)に治定されている。宮内庁上の形式は自然石。
墓には隣接して伊波乃西神社が鎮座し、日子坐命(彦坐王)に関する由緒を伝える。。美濃を領地として、子の八瓜入日子(やついりひこ-神大根王)とともに治山治水開発に努めたとも伝えられる。この地で亡くなり、この地に埋葬されたという。八瓜入日子は三野国造、本巣国造の祖とされている(本巣国は美濃国中西部)。
これと異なる記述が『但馬故事記』に詳細に記されている。
『但馬故事記』では、陸耳(玖賀耳)之御笠との戦いについて、気多郡・朝来郡・城崎郡では実に詳しく記している。そのうち第二巻・朝来郡故事記では、
第10代崇神天皇天皇十年秋九月、丹波国青葉山の賊・陸耳ノ御笠が群盗を集め、民の物を略奪し、天皇は彦坐命に命じて、これを討たせた。
その功を賞し、彦座命に丹波・多遅摩・二方の三国を与える。
十二月七日、彦坐命は、諸将を率いて、多遅摩粟鹿県に下り、刀我禾鹿(とがのあわが)*1の宮に居した(多遅摩粟鹿県は但馬国朝来郡)。
天皇は彦坐命に日下部足泥(宿祢)という姓を与え、諸国に日下部を定めた。諸将を各地に置き、鎮護とした。
丹波国造 倭得玉命
多遅麻国造 天日楢杵命
二方国造 宇津野真若命、その下知に従う。
人皇11代垂仁天皇84年9月、丹波・多遅麻・二方、三国の大国主、日下部宿祢の遠祖・彦坐命は禾鹿宮で死去。禾鹿の鴨ノ端ノ丘に葬る。(兆域東28間、西11間、北9間、高直3間余、周囲57間、後人記して、これに入れるなり)守部二烟を置き、これを守る。
但馬国二宮 粟鹿神社の御祭神は、彦火々出見命、日子坐王、阿米美佐利命の三柱である書かれる場合が多いが、『国司文書 但馬神社系譜伝』では、
彦坐命・息長水依姫命・遠祁都毘売命(亦名は瀛津姫命・うみつひめ)。
しかし、兵庫県神社庁では次の通り、日子坐王の1柱のみとある。
当社は但馬国最古の社として国土開発の神と称す。国内はもちろん、付近の数国にわたって住民の崇敬が集まる大社であり、神徳高く延喜の制では名神大社に列せられた。
人皇第10代崇神天皇の時、第9代開化天皇の第三皇子日子坐王が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、丹波一円を征定して大いに皇威を振るい、天皇の綸旨にこたえた。
粟鹿山麓粟鹿郷は、王薨去終焉の地で、粟鹿神社裏二重湟堀、現存する本殿後方の円墳は王埋処の史跡である。旧県社。
-「兵庫県神社庁」-
彦坐命の墓は、美濃(岐阜県岐阜市岩田西)と但馬(兵庫朝来市山東町粟鹿)の2箇所にあることになる。但記では、彦坐王は、粟鹿宮で薨去し、粟鹿の鴨ノ端ノ丘に葬るとある。その後は何も記されていない。
ところが伊波乃西神社の由来には、
祭神日子坐王は、人皇第九代開化天皇の皇子で、伊奈波神社の祭神、丹波道主命の父君にあたらせられる。古事記中巻、水垣宮の段(崇神天皇の御代)によれば「日子坐王をば、旦波の国につかわして、玖賀耳の御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめ給いき」とある。史上に表れた御勲功のはじめである。なお、クガミミとは、国神の義であって、旦波の国に国神ミカサが住んでいたのである。王は、その後、勅命により東日本統治の大任をおび、美濃国各務郡岩田に下り、治山治水に着手され且農耕の業をすすめられ、殖産興業につくされた。八瓜入日子王(ヤツリイリヒコノミコ)は、日子坐王の皇子である。神大根王(カムオオネノミコ)と申し上げ、父君の後をつがれて、この地方の開発に功が多かった。日子坐王薨去の後、御陵を清水山の中腹に築かれた。当社の西に隣接している。明治8年12月に至り、日子坐王陵と確認されたので、宮内省陵墓寮の所管に移された。
但馬にある2つの前方後円墳は誰の墓なのか
但馬(兵庫県北部)にある前方後円墳は、朝来市和田山町平野の池田古墳と朝来市物部の船宮古墳のみである。これ以外に前方後円墳は見つかっていないが、但馬は平地の少ない地形から他にも大規模な前方後円墳は築造されてはいないだろう。埴輪・葺石・周濠を備えた古墳は但馬地方では池田古墳と船宮古墳(朝来市桑市)のみである。朝来市域では古墳時代前期の南但馬地方の王墓として若水古墳・城ノ山古墳の築造が知られるが、それらに後続する池田古墳は南北但馬地方を統合する最初の王墓に位置づけられ、その地位は茶すり山古墳(朝来市和田山町筒江)・船宮古墳へと継承される。(朝来市教育委員会)
前方部は祭祀場で、後円部は被葬者が埋葬される。池田古墳は前方部を北東に向ける。池田古墳より南にある船宮古墳は、北北東を向いており、その方向には丹後の旧与謝、加佐がある。但馬史上で彦坐命と丹波道主命は、丹波・多遅麻・二方、三国の大国主(大王)である。単なる国造以上の位であり、この二人以外にいない。丹波三国を眺めるようにかも知れない。大和政権に近いタニハの王は、日子坐王と丹波道主の二人以外にいない。先に初代多遅麻国造となった天日槍はいたが、時代がもっと古いので当てはまらない。
池田古墳も船宮古墳も、被葬者は明らかでないが、国造級の豪族の首長墓と想定され、船宮古墳は当地を治めた但遅麻国造の船穂足尼一族との関連を指摘する説がある。船宮の船が船穂足尼と重なるからだろうが、但記の朝来記には、「第13代成務天皇5年、大多牟阪命の子、(彦坐命の五世孫)船穂足尼命をもって多遅麻国造と定む。船穂足尼命は大夜父宮(今の養父神社)に還る。
(中略)
神功皇后元年、但遅麻国造船穂足尼命薨ず。大夜父船丘山に葬る。(中略)船穂足尼命を夜父宮下座(養父神社)に斎き祀り、また将軍丹波道主命を水谷丘に祀り、これを水谷神社と称す。(現在の水谷神社所在地ではなく、養父神社後方の山中と考える)」とあるから、朝来郡ではなく養父郡で国造の職務を行っており、朝来市物部の船宮古墳と逆方向。大藪古墳群のいずれかだと思う。
*1 禾鹿 禾は本来イネと読むべきだが、禾鹿神を粟鹿神と同一神の如く記す記載が多いので、禾をアハと読むべき。
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