特別地方公共団体:特別区、地方公共団体の組合、財産区、地方開発事業団。単位 一般的に、国家の行政組織を階層別に分けると、「基礎自治体(市町村役場など)<広域自治体(県庁、州政府、地方王国政府など)<中央政府(連邦政府)」の順で大きくなる。底辺ほど数が多く、広域になるに連れて少なくなる。
基礎自治体 都市や村落、即ち「点」「コミュニティー」を範囲とする地方公共団体を基礎自治体といいます。単位系では、都市を市、村落を村として分ける場合もあるが、「○○市」「○○村」を区別しない場合もあります。尚、「○○市」「○○村」を区別せずに一括する国家は、ヨーロッパに多く見られる。
広域自治体 県や道(州)など、広い範囲を治める地方公共団体や、複数の基礎自治体が集まって構成される地方公共団体を、広域自治体といいます。「面」「エリア」の概念となる。
単位の種類には、郡、県、道などがあります。規模は「郡<県<道」の順に広くなり、県は小さな広がりを、道は大きな広がりを指す。規模が大きく異なる為、県規模と道規模の行政区画を区別する事が多い。
尚、県や道などとは別に、基礎自治体同士の広域連合体が結成される事もあります。この場合は、「○○広域連合」のような一部事務組合の形式を採って、一部の案件を広域連合体に移して実施する事例が見られる。
「特別地方公共団体」には、特別区の他に「組合」や「財産区」、「地方開発事業団」があります。消防組合や清掃組合がその例としてあげられます。たとえば、現在、日本には1800の自治体がありますが、各自治体がすべて清掃工場を持つことは不可能なので、近隣の自治体同士で連携して一つの清掃組合を持ち、広域で清掃事業を運営するというやり方をとるのです。また、財産区というのは財産ないし公の施設の管理や処分、廃止のために設けられ、地方開発事業団は地方公共団体の間の公共開発事業の実施主体として設けられています。
2.地方自治の理念地方自治の理念は、二つの原則から成り立っており、その相対する原則によって地方自治が直面する重要な問題が生じています。
一つ目の原則は「自治の原則」であり、これが本来の地方自治の考え方です。つまり、自治の原則により、地域的なサービスは地域の自己決定と自己負担の原則に基づいて供給されるべきものであると考えられます。これは第二次世界大戦後に日本に入ってきた考え方で、それ以前の時代では地方自治はなかったといっても過言ではないのです。たとえば戦前の知事の決め方は民選ではなくて官選でした。
もう一つの原則は、「均衡の原則」です。国民はどこに居住していようとも、同一水準の税負担で同一水準の行政サービスを享受できるようにしようと言う考え方です。たとえば、公教育は1学級最低40人ということが、均衡の原則によって守られてきましたが、最近では義務教育に対する国庫負担の削減に伴い、自治体の裁量権が増え、財政的に余裕のある自治体は少人数学級で教育を行ったりしていますが、一方で、財政的に苦しい自治体でも自力では行政サービスを行うことができない自治体があるため、国がその財源を補助する仕組みになっています。
このように自治の原則と均衡の原則はどちらも立派な考え方といえますが、理念的に両者は矛盾しているメンがあります。つまり、自治の原則に従えば、当然自治体が独自性を発揮することが期待されます。しかし、均衡の原則に従えば、そうした独自性よりも画一性、均質性が重視されます。そうした対立する二つの原則の間でこれまで日本の地方自治は運営されてきたわけです。
3.日本の「村」の歴史ここで日本の集落や基礎自治体である村 (むら、そん)の歴史をさかのぼって考えてみたいと思います。村は、集落や基礎自治体の一種で、第一次産業(農林漁業)に従事する者が多く、家の数と密集度が少ない地域を指す名称です。邑 や邨 とも書きました。社会学や地理学では村落といいます。
町(ちょう)は城下町などの第二次産業(商工業)が密集した地域。または市(都市)。 近代化以前の「村」は自然村 (しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位であり、複数の集落の統合体であることが多かったのです。惣村 (そうそん)は、中世日本における百姓の自治的・地縁的結合による共同組織(村落形態)を指す。惣 (そう)ともいいます。惣村の指導者には、乙名 (おとな)・沙汰人 (さたにん)などがありました。また、惣村の構成員のうち、乙名になる前の若年者を若衆 (わかしゅ)といいました。中世初期の領主が荘園公領とその下部単位である名田(みょうでん)を領地の単位としていたのに対し、戦国時代や江戸時代の領主の領地は村や町を単位としてきました。中世初期(平安時代後期~鎌倉時代中期)までの荘園公領制においては、郡司、郷司、保司などの資格を持つ公領領主、公領領主ともしばしば重複する荘官、一部の有力な名主百姓(むしろ初期においては彼らこそが正式な百姓身分保持者)が管理する名 (みょう)がモザイク状に混在し、百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らはそれぞれの領主、名主(みょうしゅ)に家人、下人などとして従属してきました。百姓らの生活・経済活動はモザイク状の名を中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態は出現していなかった。
しかし、鎌倉後期ごろになると、地頭が荘園・公領支配へ進出していったことにより、名を中心とした生活経済は急速に姿を消していき、従来の荘園公領制が変質し始めた。そうした中で、百姓らは、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強め、まず畿内・近畿周辺において、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村落が次第に形成されていいました。このような村落は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員により形成されていたことから、惣村 または惣 と呼ばれるようになった。(中世当時も惣村・惣という用語が使用されてきました。)
南北朝時代の全国的な動乱を経て、畿内に発生した村落という新たな結合形態は各地へ拡大していいました。支配単位である荘園や公領(郷・保など)の範囲で、複数の惣村がさらに結合する惣荘 (そうしょう)・惣郷 (そうごう)が形成されることもありました。惣荘や惣郷は、百姓の団結・自立の傾向が強く、かつ最も惣村が発達していた畿内に多く出現した。また、畿内から遠い東北・関東・九州では、惣村よりも広い範囲(荘園・公領単位)で、ゆるやかな村落結合が形成されたが、これを郷村 (ごうそん)といいます。なお、関東においては、惣荘や惣郷の存在について確認されていないが、特殊な事例であるが、香取文書 には、下総国佐原において、それに近いものが存在していたことが書かれている。
室町時代には、守護の権限が強化され、守護による荘園・公領支配への介入が増加した。惣村は自治権を確保するために、荘園領主・公領領主ではなく、守護や国人と関係を結ぶ傾向を強めていいました。そして、惣村の有力者の中には、守護や国人と主従関係を結んで武士となる者も現れました。これを地侍(じざむらい)といいます。惣村が最盛期を迎えたのは室町時代中期(15世紀)ごろであり、応仁の乱などの戦乱に対応するため、自治能力が非常に高まったとされる。
戦国時代に入ると、戦国大名による一円支配が強まり、惣村の自治権が次第に奪われていいました。中には戦国大名の承認の下で制限された自治を維持する惣村もありました。最終的には、豊臣秀吉による兵農分離(刀狩)と土地所有確認(太閤検地)の結果、惣村という結合形態は消滅し、江戸時代に続く近世村落が形成していったとされるが、惣村の持っていた自治的性格は、祭祀面や水利面などを中心に近世村落へも幾分か継承され、村請制度や分郷下における村の統一維持に大きな役割を果たしたと考えられている。
惣村が支配者や近隣の対立する惣村へ要求活動を行うときは、強い連帯、すなわち一揆 を結成した。一揆(連合、同盟)は元々、心を一つにするという意味を持っており、参加者が同一の目的のもとで、相互に対等の立場に立って、強く連帯することが一揆でありました。
惣村による一揆を土一揆 (つちいっき)というが、土一揆は15世紀前期に始まり15世紀中期~後期に多発した。土一揆は、惣村の生活が困窮したために発生したというよりも、自治意識の高まった惣村が、主張すべき権利を要求したために発生したと考えた方がよい。ほとんどの土一揆は、徳政令の発布を要求する徳政一揆の性格を帯びてきました。当時の社会通念からして、天皇や将軍の代替わりには土地・物品が元の所有者へ返るべきとする思想が広く浸透しており、これを徳政と呼んできました。そのため、天皇や将軍の代替わり時には徳政を要求した土一揆が頻繁に発生した(正長の土一揆、嘉吉の徳政一揆など)。また、支配者である守護の家臣の国外退去を要求した土一揆も見られた(播磨の国一揆)。その他、不作により年貢の減免を荘園領主へ要求する一揆もありました。これらは、惣村から見れば、自らの正当な権利を要求する行為でありました。戦国時代に入り、戦国大名による一円支配が強化されるに従って、惣村の自治的性格が薄まっていき、土一揆の発生も次第に減少していいました。
江戸時代には百姓身分の自治結集の単位であり、中世の惣村を継承してきました。また、江戸時代の百姓身分とは、主たる生業が農業・手工業・商業のいずれかであるかを問わず、村に石高を持ち、領主に年貢を納める形で権利義務を承認された身分階層を指した。都市部の自治的共同体の単位である町 (ちょう)に相当しますが、村か町かの認定はしばしば領主層の恣意により、実質的に都市的な共同体でも、「村」とされている箇所も多かったようです。
明治に入ると、中央集権化のため、自然村の合併が推進されました。
こうして、かつての村がいくつか集まって新たな「村」ができましたが、これを「自然村」と対比して行政村(ぎょうせいそん)ともいいます。
4.最小公共団体の自治惣村の内部は、平等意識と連帯意識により結合してきました。惣村の結合は、村の神社での各種行事(年中行事や無尽講・頼母子講など)を取り仕切る宮座を中核としてきました。惣村で問題や決定すべき事項が生じたときは、惣村の構成員が出席する寄合 (よりあい)という会議を開いて、独自の決定を行っていいました。 惣村の結合を維持するため、寄合などで惣掟 (そうおきて)という独自の規約を定め、惣掟に違反した場合は惣村自らが追放刑・財産没収・身体刑・死刑などを執行する自検断 (じけんだん)が行われることもありました。追放刑や財産没収は、一定年限が経過した後に解除されることもあったが、窃盗や傷害に対する検断は非常に厳しく、死刑となることも少なくなかった。なお、中世の法慣習では、支配権を有する領主や地頭などが検断権を持つこととされていたが、支配される側の惣村が検断権を持っていた点に大きな特徴があります。(検断沙汰も参照。)
荘園領主や地頭などへの年貢 は、元々、領主・地頭側が徴収することとされていたが、惣村が成立した後は、惣村が一括して年貢納入を請け負う地下請 (じげうけ)が広く行われるようになった。地下請の実施は、領主側が惣村を信頼していることを意味するだけでなく、年貢納入が履行されなければ惣村の責任が強く問われることも意味してきました。地下請の伝統は、惣村が消滅し、近世村落が成立した江戸時代以降も承継されていいました。
惣村は、生産に必要な森・林・山を惣有財産とし、惣村民が利用できる入会地 に設定した。惣村の精神的な中心である神社(鎮守)を維持するために神田を設定し、共同耕作することも広く見られました。また、農業用水の配分調整や水路・道路の普請(修築)、大川での渡し船の運営など、日常生活に必要な事柄も主体的に取り組んでいいました。
近現代の大字(おおあざ)といわれる行政区域は、ほぼかつての自然村を継承しており、現在でも地方自治法の第七章「執行機関」第四節「地域自治区」(第202条の4~第202条の9)として旧自然村に相当する単位での自治が法律上認められています。また、自治会(地区会・町内会)や消防団の地域分団の編成単位として、地域自治の最小単位としての命脈を保っている面があります。
5.明治の大合併明治維新後も江戸時代からの自然発生的な地縁共同体としての町村が存在し、生活の基本となっていました。当初、明治政府はこれと無関係に大区小区制を敷きましたが、住民の反発が大きかったことから、1878年(明治11年)に郡区町村編制法 を制定し、町村を基本単位として認め、郡制及び5町村程度を管轄する戸長役場を置きました。しかし、府県、郡役所、戸長役場、町村という複雑な4層構造になってしまったため、行政執行に適した規模の町村の再編が必要となりました。 やがて明治政府は、1888年(明治21年)に市制及び町村制 を公布するとともに、内務大臣訓令で、各地方長官に町村合併の推進を指示しました。これに基づき強力に町村合併が進められた結果、町村数は、1888年(明治 21年)末の71,314から1889年(明治22年)末には15,820となり、約5分の1に減少しました。このときは、おおむね小学校1校の区域となる、約300戸から500戸が町村の標準規模とされました。
明治の大合併を経て、地縁共同体だった町村は、近代的な意味で地域を行政統治するための地方公共団体 に変貌することとなりました。しかし、大きな合併を経ていない小規模町村においては、現代に至るまで江戸時代からの地縁性が残っており、欧米と比較したとき、その地方公共団体と江戸時代からの自然村的な集合体との二重性が日本の町村の特長となっています。
6.戦前までの合併1889年(明治22年)以降も町村合併は進められ、1898年(明治41年)までにさらに2,849減少した。 1898年(明治41年)以降は漸減傾向で推移し、1918年(大正7年)までには267が減少したのみだった。 1923年(大正12年)には郡制 が廃止されたが、これをきっかけに町村合併等の機運が盛り上がり、1918年(大正7年)から1930年(昭和5年)までの12年間に、町村数は約500減少した。 その後、1940年(昭和15年)紀元2600年を記念して合併が進められた時期などがあり、1943年(昭和18年)には市数200、町村数10,476となりました。 1945年(昭和20年)、第二次世界大戦終戦直後には、市数205、町数1,797、村数8,818となっていました。▲ページTOPへ 7.昭和の大合併第二次世界大戦終戦後、1953年(昭和28年)10月頃から1961年(昭和36年)6月頃にかけて、昭和の大合併と呼ばれる大規模な市町村合併が実施されました。 戦後、新制中学校の設置管理、市町村消防、自治体警察の創設、社会福祉、保健衛生関係などが、新たに市町村の事務とされ、増大した行政執行の財政確保のために、市町村を適正規模に拡大することが必要となりました。
このため、1953年(昭和28年)に町村合併促進法 が施行され、新制中学1校を管理するのに必要な規模としておおむね8,000人以上の住民を有することが標準とされました。さらに「町村数を約3分の1に減少することを目途」とする町村合併促進基本計画(昭28年10月30日閣議決定)の達成のため、1956年(昭和31年)に新市町村建設促進法が施行され、全国的に市町村合併が推進されました。
1953年(昭和28年)の町村合併促進法施行から、新市町村建設促進法を経て、1953年(昭和28年)10月に9,868あった基礎自治体が1961年(昭和36年)には3,472になり、約3分の1に減少しました。
8.高度経済成長期の合併1965年(昭和40年)に「市町村の合併の特例に関する法律」(合併特例法) が制定されたが、この時期にも合併ブームが起こりました。 高度経済成長期には、「大きいことは良いことだ」が流行語となり、首都たる東京都区部への人口の流出も重なって、地方の市町村では、岡山市・倉敷市・富士市などの地域拠点になることを目指した合併や、新産業都市 の指定を目指して平市・磐城市など14もの市町村がいわき市になるなどの大規模な合併も行われました。
また、高度経済成長期には、山間部の過疎が進行したため、隣接する都市が山間部を取り込むという動きもありました。静岡市などがそれに該当します。
また、市制施行のための人口要件が緩和され、鴨川市・備前市・東予市など、人口3万人以上での市制施行を目指した合併も行われました。
-出典: 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司 放送大学准教授 山岡 龍一
日本の政治との比較 1.国と地方の統治関係(官治と自治)地域社会(いわゆる「ムラ」)の統治については古代より、国家の成立以前から行われているところであるが、これは現代の国家においても国家全体の統治構造の基礎となっている。
国が地方を統治する方法としては官治(国が国の機関において直接運営すること)及び自治(意味合いは既述)のふたつの方法があり、中央集権型国家においては官治、地方分権型国家においては自治に重点が置かれた統治がなされます。
しかしながら、個別具体的かつ複雑な地方の統治、運営を全国的な視点をも踏まえつつどちらか一方の方法によりのみ行うことには限界があり、それぞれの国においては官治、自治をそれぞれの国の実情に応じてバランスを保ちながら統治構造を構築している。日本国憲法
日本の地方自治については日本国憲法第8章において定められている。
ヨーロッパの地方分権 1.イギリスの概要グレートブリテン及び北アイルランド連合王国首都:ロンドン 7,172,091人 面積:総計 244,820km2(76位) 人口:総計(2006年) 60,270,708人(21位) 人口密度:246人/km2 GDP(MER) 合計(2007年) 2兆7,773億ドル(5位) GDP(PPP) 合計(2007年) 2兆1,374億ドル(6位) 1人当り:35,134ドル
建国 1801年グレート・ブリテンおよびアイルランド連合王国建国。1927年に現在の名称に変更。 イギリスは四つの非独立国 ― イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドよりなる。これらの非独立国は一般に「国」(あるいは country) と言われる (但し北アイルランドにも用いるかどうかは論争がある)。この構成はかつての主権国家であるイングランド王国 (征服されたウェールズ公国を含む) とスコットランド王国との1707年の連合法によるグレートブリテン王国 (1707年-1800年)の形成と、それに続くグレートブリテン王国とアイルランド王国との1800年の連合法に基づくグレートブリテンおよびアイルランド連合王国の形成という政治的連合によって構築された。1922年のアイルランド自由国の独立ならびにアイルランド分割により、現在のグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国となりました。
イングランドおよびウェールズは様々な目的で、特に法律を共有しているという点から一体のものとして扱われるが、スコットランドと北アイルランドは独自の法体系を有している (スコットランド法を参照)。
2.イギリスの政治イギリスの政治(Politics of the United Kingdom)は単一国家と立憲君主制を基本としています。ウエストミンスター・システムとも呼ばれるこの統治形態は、カナダ・インド・オーストラリア・ニュージーランド・シンガポール・ジャマイカなどでも取り入れられています。 憲法は1つの成典にはなっておらず、制定法と判例法及び慣習法など様々な要素を合わせて憲法とみなされています。
イギリス議会は王国の立法機関です。議会を構成するのは国王、上院(貴族院)、下院(庶民院)です。王国の4つの地域であるイングランド、ウェールズ、北アイルランド、スコットランドはいずれも議会に代表を持つ。
国家元首はイギリス国王であるが、権力は首相と内閣とによって行使される。憲法を構成する慣習法の一つに、国王について、「君臨すれど、統治せず」とあり、伝統の中に築かれた民主主義が見て取れる。憲法を構成する法律は、他の法律と同様、議会で修正が可能なため軟性憲法と呼ばれる。
イギリスの議会は、上院(貴族院)と下院(庶民院)の二院制です。明治新政府における日本なども採用する政治形態の議院内閣制が発祥、発達した国であり、行政の長である首相は通常慣例に従って下院第一党党首を国王が任命、閣僚は議会上下両院の議員から選出される。下院は単純小選挙区制による直接選挙で選ばれるが、上院はその正式名称の通り貴族が議員となっているので直接選挙は無い。近年、従来右派の保守党と左派の労働党による二大政党制化して来ましたが、近年では第三勢力の自由民主党(旧自由党の継承政党)の勢力も拡大しています。
2007年3月7日、貴族院に選挙制導入を求める決議案が庶民院で可決され、数年のうちに全議員もしくは大半の議員が、選挙で選ばれた者によって構成される見通しが出てきた。この決議案に基づき政府が貴族院改革法案を提出して成立すれば、貴族のみで構成されていた貴族院は700年の歴史に幕を閉じる可能性があります。ただし、トニー・ブレア首相、デービッド・キャメロン保守党党首はともに可決された決議案には反対しており、また貴族院では全員任命案以外は否決されたため、改革の行方がどうなるかはまだ不透明です。
イギリスの地方行政区画 (subdihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifisions of the United Kingdom) は複雑、重層的、不均質で、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドのそれぞれで異なる。現在の構造に到達するの数百年かかっています。
最近は、伝統的に最も重要な層であるカウンティ (county) とパリッシュ (parish)、スコットランドの場合はカウンティとバラ (en:burgh) からシティ、ディストリクト、あるいは欧州連合の影響を受けたリージョンといった他の行政区画への移行が顕著です。 さらに、英連邦王国は、自国の国王として英国王を戴く国家形式、また該当するオーストラリア、ニュージーランド、カナダ、バハマ、ジャマイカなどの16の国家があります。いずれも国家共同体(英連邦)に属します。英国以外の英連邦王国は、かつて英国の植民地であったが、今日では英国に従属しない独立国です。
3.第三の道第二次世界大戦直後、労働党のクレメント・アトリー政権が「ゆりかごから墓場まで」をスローガンにいち早く福祉国家を作り上げましたが、階級社会の伝統が根強いこともあって経済の停滞を招き、1960年代以降は「イギリス病」とまで呼ばれる不景気に苦しみました。
1980年代にマーガレット・サッチャー首相が経済再建のために急進的な構造改革(民営化・行政改革・規制緩和)を実施し、大量の失業者を出した。地方経済は不振を極めたが、ロンドンを中心に金融産業などが成長した。1990年代、政権は保守党から労働党のトニー・ブレアに交代し、イギリスは市場化一辺倒の政策を修正した第三の道への路線に進むことになりました。このころからイギリスは久しぶりの好況に沸き、「老大国」のイメージを払拭すべくクール・ブリタニアと言われるイメージ戦略、文化政策に力が入れられるようになりました。第三の道(だいさんのみち、英語:The Third Way)とは、新自由主義的な経済路線の保守党政権に対抗するために、新自由主義的な経済路線を大幅に取り入れた、旧来の社民主義の「大きな政府」路線でも、サッチャー流の市場原理主義路線でもないもう一つの道を目指すべきとして、イギリスの社会学者ギデンズなどによって主張され、主にヨーロッパの社会民主主義勢力が取り入れた政治路線の総称。イギリス労働党のブレア政権(1997年5月2日 – 2007年6月27日)が最も有名です。
サッチャーとその後継メージャーの保守党政権による新自由主義政策の下で、政府による富の集権的再配分によって積極的な福祉政策と弱者救済を行うという福祉国家のモデルは次第に解体されつつあった。保守党政権は市場原理を最重要視し、経済政策への政府による介入は減らされ、民営化と規制緩和が盛んに行われた。結果として、長く続いた「イギリス病」は概ね克服され、イギリスの経済構造は大きく改革・改善された。一方で、経済格差が広がり、公共サービスを受けられない層が増大していた。しかし、労働党は従来の産業国有化方針を脱却できず、グローバリゼーションによる市場化の波には対応できないままであった。ブレア労働党は、保守党の市場化一辺倒、労働党の市場化への適応不足という袋小路に陥った状況を乗り越える路線として、市場の効率性を重視しつつも国家の補完による公正の確保を指向するという、従来の保守-労働の二元論とは異なるもう一つの新しい路線を目指すと主張した。これが、イギリスにおける「第三の道」です。
この第三の道における公正は、伝統的社民主義の哲学が提示する結果の平等ではなく、教育の充実などの政策に立脚した上での、機会の平等に重きを置いています。これにより、移民政策にも通じる多様な文化的「差異」を前提としてグローバリゼーションへの対応を指向します。
具体的に行われた政策としては、保守党が重視してきた所得税や法人税の軽減などを継承する一方で、より社会の下層に配慮し公正を目指す就労支援や公立校改革などを展開すること、また、弱者を手当て(ネガティブウェルフェア,依存型福祉)するのではなく、家族形成や就労を含めて「社会参加」の動機づけを持つ者を支援(ポジティブウェルフェア,自立型福祉)すること、そして、公共サービスでのPPP(Public-Prihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifate Partnership)による官民連携、さらに、サッチャーによる中央集権政策への反省から地方の自治・自立を促す地方分権(スコットランド・ウェールズ・北アイルランド各地方へ地方議会の設置)などがあります。また、1999年には、英国では初となる最低賃金法を導入した。
ブレア政権の成功はヨーロッパ各国の社会民主主義政党に影響を与え、90年代末のヨーロッパ主要国では中道左派-第三の道路線の政権が相次いで誕生した。2005年まで続いたドイツ社会民主党のシュレーダー政権の政策も旧来福祉国家からの改革を唱えるなど第三の道の影響を受け「新たな中道(die neue Mitte)」を唱えるようになりました。英国では既に保守党時代に徹底した福祉国家の解体を終えていたことから公正の面がより強調されたが、他の国の第三の道では効率にまず重点が置かれる傾向があった。このためリベラル(自由主義)や社会自由主義との差異は小さいものとなり、むしろ中道左派として共通することとなりました。
否定的な見解
「第三の道」は新自由主義でも旧来の社民主義でもない新たな思想・新たな政治路線であると一般的に考えられているが、この考え方に対しては新保守主義・新自由主義を肯定する右派からは「小さな政府」の仮面をかぶった「大きな政府」路線と揶揄され、左派からも「労働組合の切り捨て」「社民主義への裏切り」などの批判も根強く、先駆者のブレア政権でも実際バッシングは多かった。例えば、ビル・エモットは、現在の英国(およびその影響を受けたドイツ)では、誰もこの思想を話題にはしておらず、ブレア自身も政権の途中からこの言葉を使わなくなった、理由はそんな思想など元々存在しなかったからだ、と主張しています。彼によれば、「第三の道」は左派政党が支持者に対して「右派の政策を採択することによって左派を裏切ろうとしているのではない」ことを説得する方便にすぎないからだとしています。
ブレア政権は確かに福祉・教育予算を拡充し、サッチャー政権下で荒廃した病院や教育を立て直すことを目指したが、充分に成功したとは評価されていない。理念として提示した社会的公正の実現もさほど成功しなかったと分析しています。
政策を実行する上では有権者の強い支持を得ることができ、政権運営の役に立ったが、保守政権の政策を基本的に踏襲した政策の実情はブッシュ政権の唱えた「思いやりのある保守主義」と呼ぶべきものであり、また、「第三の道」が新たな政治路線ではなく、「思いやりのある保守主義」であることに有権者が気づいたことも、2度連続して総選挙に大勝したブレアが辞任に追い込まれた理由の一つである、と主張しています。
4.ドイツ連邦単位系:ゲマインデ <クライス <州 <連邦政府:三層制 面積:総計 357,021km^(2)(61位) 人口:総計(2004年) 82,424,609人(14位) 人口密度:231人/km2 GDP(MER) 合計(2007年):3兆3,222億ドル(3位) GDP(PPP) 合計(2007年):2兆8,097億ドル(5位) 1人当り:34,181ドル 形成 843年 統一(ドイツ帝国) 1871年 連邦共和国成立 1949年5月23日 東西統一 1990年10月3日
ドイツ連邦共和国という名称にもあるように、十六の州(ラント)が強い自治権を持った連邦制であり、地方分権の進んだ国家といえます。州は独自の憲法と法体系を持ち、独自の行政権を持ち、司法権も州の権限が強い。 また、地方制度に関する統一法典はなく、地方自治体の組織や運営については、各州が制定する法律によって、それぞれ異なる制度が設けられています。 なお、バイエルン州などに見られるように、州都への一極集中が起こっている州も存在します。
ゲマインデ(基礎自治体)は独自性も比較的強いが、(小さな)基礎自治体同士の広域連合体として、クライス(郡)が結成されている所もあります。また、州政府の出張所(下部行政区画)をクライス(県)と呼ぶ州も存在します。 歴史的に見ると、ドイツは小国家(バイエルン王国、ハノーファー王国など)が分立していた期間が長く、ドイツ帝国時代も地方分権の気運が強かったのです。ヴァイマル共和政時代も地方分権制だったが、ナチ政権の時代になると州議会は解散させられ、州の行政権も中央に移されて強力な中央集権・中央主権体制が敷かれ、アドルフ・ヒトラーの独裁政権を作りました。 戦後のドイツ連邦共和国で地方分権が進んだのは、ナチ政権の再来を防ぐ意味と、ドイツの大国化を避けたい連合国の思惑もありました。
5.イタリア単位系:コムーネ <レジオーネ <州 <連邦政府:三層制 面積:総計 301,230km^(2)(69位) 人口:総計(2004年) 58,057,477人(23位) 人口密度:193人/km2 GDP(MER) 合計(2007年:2兆1,047億ドル(7位) GDP(PPP) 合計(2007年):1兆7,864億ドル(10位) 1人当り:30,448ドル
伝説では紀元前753年にローマ建国 エトルリア人も12の都市国家による都市連合の王政を築いていた。 伝承に、紀元前509年にローマ人パトリキ(貴族)がエトルリア人の王を追放し共和制開始。サムニウム戦争(紀元前343年 – 紀元前290年)などにより紀元前272年にイタリア半島を制圧。
1861年2月、イタリア王国を建国(イタリア統一1861年3月17日)
正式名はイタリア共和国(Repubblica Italiana)。大戦終結後に共和制に移行。イタリアは現在20の州(Regione)から構成される。 通常の州に先がけて設置された、5つの特別自治州(autonoma a statuto speciale)は通常の州より大きな地方自治権を有します。そのうち、シチリア、サルデーニャ、トレンティーノ=アルト・アディジェ、ヴァッレ・ダオスタ、が1948年に、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州は1963年に制定された。通常州は、1972年に制定された。各州はそれぞれ県 (Prohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifincia) に分割(州よりも歴史が古いため、州が県の集まりともいえる)され、県はコムーネ(自治体)の集合体から構成されています。最も人口が多いのはロンバルディア州(州都ミラノ:1,299,633人[2位])で、9,032,554人、面積:23,861 km2、次いでカンパニア州(州都ナポリ:973,132人[3位])で、5,701,931人、面積:13,595 km2、3番目はラツィオ州(州都ローマ:2,718,768人[1位])5,112,403人、面積:17,203 km2、ヴェネト州(州都ヴェネツィア)4,527,694人、面積:18,264 km2、ピエモンテ州(州都トリノ:908,263人[4位])で、4,214,677人、面積:25,400 km2の順。最も少ないのは、ヴァッレ・ダオスタ州(州都アオスタ)で、119,548人、面積 :3,262 km2。
イタリア全土で110の県(アオスタ県を含む)があり、最も狭い県であるトリエステ県は、面積順で100位のコムーネよりも狭い。3ッの県が2009年に分離の実施が予定されているなど増殖傾向にあります。2001年時点のイタリアのコムーネの数はイタリア国立統計研究所によると8,101です。
イタリアは1861年に統一に成功しイタリア王国を建国しました。大戦終結後に行なわれた共和制移行を問う国民投票の結果を受け、1946年にウンベルト2世が退位し、サヴォイア家による王政が廃止され、大統領制によるイタリア共和国となりました。両議院の選挙制度は、上下院ともに完全比例代表制で、イタリア国民の選挙に対する関心は高く、2006年、2008年にそれぞれ行われた総選挙では投票率は80%を超えています。
しかし、イタリアは伝統的に中央集権の流れが強く、ファシスト政権時代には徹底的に地方分権が押さえ込まれました。戦後もシチリアなど本土から離れていたり、南チロルなど多民族が共生する地域に設置された特別州を除けば、(周辺国であるドイツやスペインに比べて)地方分権には否定的でした。1972年の改革により漸く州政府の設置が認められますが、財政面や法律運用など重要な部分は中央政府の統制化に置かれています。各州はそれぞれ県 (Prohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifincia) に分割(州よりも歴史が古いため、州が県の集まりともいえる)され、県はコムーネ(自治体)の集合体から構成されています。各県に独自の議会、評議会、知事 (presidente) が存在し、政府に任命された役職の官選知事 (prefetto) もいます。県は日本語に訳される際しばしば、「市]と訳されることがあります。
こうした中央集権の強い現状への批判から自治運動が盛んな北イタリアを中心にロンバルディア同盟などの地方議会の権限強化を望む地域政党が成長し、1991年には他の州の地域政党が連合して北部同盟が結成されました。彼らは「連邦制か、さもなくば独立か」をスローガンに、移民者排斥などの過激主張や中央政府の南部優遇政策への批判を展開、タンジェントポリにより既存政党が衰退していた事もあって飛躍的に党勢を伸ばしました。 その後は独立騒動による支持者の離反によって低迷しますが、不法移民への反感の高まりを背景にイタリア中部・南部の左派票を獲得して復活を果たしました。現在、南部でも「自治という選択」などの地域政党が成長しており、中央政府がこの動きにどう対応するかが注視されています。 全土で110の県(アオスタ県を含む)があり、増殖傾向にあること、最も狭い県であるトリエステ県は、面積順で100位のコムーネ(最小自治体)よりも狭く増加傾向にあります。
7.中華人民共和国中華人民共和国はチベット(西蔵自治区、青海省など)や内モンゴル(内蒙古自治区)、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)、満州(遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内蒙古自治区の東部など)などを中華民国から継承しましたが、これらの地域は法制(中華人民共和国憲法の民族自治規定等)上は完全に他の中華人民共和国省区、内地と同格であり、法制度の上では植民地とは言えないものです。
これらの地域では現在問題となっているような民族元来の文化、宗教、思想の弾圧が行われており、特に東トルキスタン、チベット、内モンゴルにはその傾向が強いです。さらにチベット民族の政治的・労働的劣位が明かであることがにされています(米国務省「世界の人権状況」2002年次報告)。もともと、1950年に中国共産党軍がチベットを武力侵略した狙いは、チベットの豊富な鉱物資源だったといわれ、実際に鉱物資源を輸送する青蔵鉄道の建設、大規模な採掘事業など、チベット鉱物の開拓は中国の国策として着実に進められています。また中国政府が推進する「チベット地域支援政策」によって、大量の漢民族が社会的・経済的優位が保障されるチベット自治区に流入し、現在の自治区人口比では漢民族がチベット民族を凌駕しています。さらに前述の政治的・労働的優位性のもとに、漢民族がチベット民族を低廉な賃金で就労させている現状が米国務省報告に記載されており、資源の搾取、原住民族の労働力化などが行なわれており、東トルキスタン亡命政府、チベット亡命政府、内モンゴル人民党などの独立や自治を目指す諸団体は「中華人民共和国の植民地支配」という表現を使用することが多いようです。
日本 面積:総計 377,835km2(60位) 人口:総計(2008年) 127,288,419人(10位) 人口密度:337人/km2 GDP(MER) 合計(2007年) 4兆3,459億ドル(2位) GDP(PPP) 合計(2007年) 4兆3,460億ドル(3位) 1人当り:34,023ドル 建国 紀元前660年2月11日
フランス 面積:総計 675,417km2(47位) 人口:総計(2008年) 64,473,140人(20位) 人口密度:114人/km2 GDP(MER) 合計(2008年) 2兆8431億ドル(5位) GDP(PPP) 合計(2008年) 2兆4,858億ドル(8位) 1人当り:33,188ドル 形成 843年
中華人民共和国(中国) 面積:総計 9,596,960km2(3位) 人口:総計(2008年) 1,324,424,000人(1位) 人口密度:140人/km2 GDP(MER) 合計(2007年) 2兆4662億ドル(4位) GDP(PPP) 合計(2008年) 12兆9,886億ドル(2位) 1人当り:5,869ドル 建国 統一王朝 紀元前221年 民国成立 1911年10月10日 人民共和国成立 1949年10月1日
註1: 香港、マカオを含まない。 註2: 中華人民共和国と面積順位第3位とされるアメリカ合衆国の面積は非常に近く、それぞれの国土の定義によっては、順位が入れ替わることがあります。
インド共和国 面積:総計 3,287,590km2(7位) 人口:総計(2005年) 1,131,043,000人(2007年)人(2位) 人口密度:324人/km2 GDP(MER) 合計(2005年) 7,719億ドル(11位) GDP(PPP) 合計(2005年) 3兆6330億ドル(4位) 1人当り:3,100ドル 独立 イギリスより 1947年8月15日
順位 国 2007年推計人口 1 中華人民共和国 1,336,317,000 2 インド 1,169,016,000 3 アメリカ合衆国 310,252,000 4 インドネシア 231,627,000 5 ブラジル 191,791,000 6 パキスタン 163,902,000 7 バングラデシュ 158,665,000 8 ナイジェリア 148,093,000 9 ロシア 142,499,000 出典:ウィキペディアなど
アメリカの地方分権 概 要 1776年に独立した世界史的に見て比較的新しい人造国家(非自然発生的国家)の1つである。市民革命により1783年に独立したアメリカ合衆国や、1789年のフランス革命によって生まれたフランスの共和国が、近代的な共和制のモデルとなり、19世紀以後、世界中に広まった。
1.アメリカの地方分権アメリカ合衆国 単位系:シティ・タウン・ヴィレッジ <郡(カウンティ)・独立市 <州 <連邦政府:三層制 面積:総計 9,372,615km2(4位) 人口:総計(2006年) 300,007,997人(3位) 人口密度:31人/km2 GDP(MER) 合計(2007年):13兆8,438億ドル(1位) GDP(PPP) 合計(2007年):13兆8,438億ドル(1位) 1人当り:45,845ドル
独立 イギリスより 宣言 1776年7月4日 承認 1783年9月3日
アメリカ合衆国は、連邦政府の力が弱く、州が大きい自治権を持つ地方分権国家である。二度の世界大戦と、戦間期の不況やニューディール政策期を経て、連邦政府の権限と影響力は大幅に拡大したものの、なお州が独自の立法権を持ち、それぞれ憲法や軍を所持しており、連邦政府の管轄は合衆国憲法で定められた分野に限定され、合衆国憲法の改正に州議会の承認が必要になるなど、各州が高い独自性と決定権を持つことに変わりはない。また、地方制度の構築に関する権限は、基本的に州に与えられており、具体的にどのような種類の地方団体が設けられるかは州およびその地域ごとに異なっている。独立市は日本の都道府県から独立した政令指定都市と同様だが、州の下位行政区分として郡と同等に扱われる。
2.連邦制度と地方制度アメリカ合衆国は、50の州 (state)、1の地区 (district)で構成されるが、その他に、プエルトリコなどの海外領土(事実上の植民地)を有する。 独立当時、13の植民地にそれぞれ州が置かれた。1959年にハワイ州が州に昇格されるまでの間、各地方の割譲、侵略、買収、併合を経て、現在は50州を持つ。なお、星条旗の帯は独立当時の13州を、星は現在の50州を示している。また、連邦政府直轄地としてワシントンD.C.(正式名称はワシントン・コロンビア特別区)がある。
アメリカでは連邦制度と地方制度がある。本来的な主権は州にある。連邦政府の有する権限は非常に強大である。広大な国土に画一的・統一的な地方制度を確立することは不可能であったと思われる。合衆国憲法は地方自治について一切触れていない。各州が独自の立法機関を設置し独自の憲法と州法を有する。
連邦法は全州にわたって効力を有するものとして上位に位置するものではあるが、各州の自治が歴史的に尊重されていたこともあり、日本における地方自治体の条例に比べると、各州法の地位はかなり高く、「United States」の名のとおり、独立国にも比する強大な自治権を認められている。
合衆国憲法により、連邦法を制定することができる分野は、国家としての対外的な規律に関わる問題や、州をまたぐ通商に関連する事項等に限定されていることから、会社法や刑法などの一般的法律も州法において規定されている。これらの影響により現在も禁酒法がところにより残っている。
アメリカ合衆国の50の州(state) は連邦政府とは主権を共有しながらも独立した準国家統治体である。州は連邦政府の設置によるものではなく自立的に作られた統治体で、その自律性は非常に高い。(アメリカ合衆国の州を地方行政区画、あるいは地方自治体に準じた見方をするのは誤りである。詳しくは「アメリカ合衆国の州」を参照。)個別の州毎に憲法を持ち、州内の自治体設立も州の権限でおこなっている。
各州の地方行政体系・自治構成単位の構成・構造はかならずしも同一ではないが、基本的に州憲法で地域で分割した行政単位として郡(county、ルイジアナ州はparish、アラスカ州はborough)が設置されている。郡は日本の都道府県庁に似た機能をもつ実体的な地方行政組織である。デラウェア州が3郡、テキサス州が254郡を有するといった幅があるが50州で計3,100ほどの郡がある。郡の行政機関は郡政府と日本語訳される。
3.アメリカの自治体通常自治体 通常自治体(Municipal Gohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifernment)は、州法下で自治体法人として結成される自治体で、20,000ほどある。日本の市町村に近い形態で、市(city)、区(borough)、町(town)、村(http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifillage)、ハムレット(hamlet)に分けられることが多い。 通常は郡内に市が存在する「郡、市」の形となるが、市が発展し「郡=市」となったり、極端な例では複数の郡が市に取り込まれた。日本のように、市になれば郡に属さないのは例外で、郡から独立し、どの郡にも属していないのは、43ある独立市(independent city)だけである。
タウン/タウンシップ Town Gohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifernmentやTownship Gohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifernmentは、15,000ほどある。これらは通常自治体と重なり合って存在する場合もある。 コネチカット、メイン、マサチューセッツ、ニューハンプシャー、ロードアイランド、バーモント、ニューヨーク、ウィスコンシンの各州ではタウン、そのほかの州ではタウンシップと呼ばれることが多い。また、メイン州ではPlantation、ニューハンプシャー州ではLocation Gohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifernmentと呼ばれることもある。
インディアン居留地 Indian Reserhttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifation、アメリカ合衆国内務省BIA(インディアン管理局)の管理下にある、インディアン(アメリカ州の先住民族)部族の領有する土地。リザベーションという呼び名が一般的だが、有力な民族のものは自治権が強く1つの国家にも等しい力を持つとされ、ネイション(国家)とも呼ばれる。同様にインディアンやエスキモーが先住するカナダにも同種の領域が存在する。
4.アメリカの自治体の特徴 アメリカの地方自治を参考させていただくと、各州には郡とは別の地方行政区画として各種の自治体があり、これらは日本における市町村レベルの機能とほぼ同等で、合衆国全体で計84,400ほどある。しかし、アメリカ合衆国の自治体は州によって区画されて成立したものでなく、住民によって結成され州憲法に定める手続きによって承認されるものであり、自治体が設置されていない地域(未編入地、未組織地域)が国土面積の大半を占めている。連邦政府は地方団体の確立に関する権限は有さず、それは各州の基本的な留保権限である。また、アメリカで地方団体というとき、その中に州は含まれない。各州は地方団体の「創造主」であり、地方団体そのものではないのである。日本の県がアメリカの州と姉妹州県を結ぶことがよくあるが、そもそも県と違って州は地方団体ではないのである。各州はいかなる地方団体制度を確立しようと自由であり、連邦政府が制限を加えることはない。従って、地方制度は各州により千差万別であって、日本のように地方自治法により全国画一的に規定されているのとは全く異なる。市町村といってもその性格は州によって大きく異なり、市町村とも存在する州もあれば、市と町、市と村、あるいは市しかない州もある。
アメリカの地方団体数は、現在、総数で約8万で減少傾向にあるが、これは、学校区の合併によるものである。郡の数は変化がない。タウン(タウンシップ含む)は古い自治形態で減少傾向にある。日本の市町村に相当する「自治体」は約2万で微増している。特別行政区の数は激増している。日本の郡は、今や町村を含む地理的な名称に過ぎないが、アメリカの郡は、地方行政機関として実際に広範な機能を有している。郡は町・村ばかりでなく、市をも含む。例えば、ジョージア州には159の郡がある。これはテキサス州の254に次ぐ多さである。平均面積は943km2(富山県の約4分の1、新川地方とほぼ同面積)で、ケンタッキー州と並んで全米で最も小さい。州憲法は郡政府の数を159までに限定している(このような規制は郡に対してのみであり、市政府に対してはない)。平均人口は45,000人で、最大はアトランタ市を含むフルトン郡の70万人から、最小はタリアフェロ郡の 1,800人まで、かなりのばらつきがある。45の郡で人口が1万人に満たない。アメリカには県はないので郡が相当する。
アメリカの地方自治体の特徴 アメリカの地方自治で日本と最も異なる点は、地方自治体というものは、国から与えられ又は国の出先機関として存在するのではなく、住民自らの意思により創出されたものであるということである。すなわち、一定地域での人口集中があり、州や郡(州の出先機関)が提供する以上の公共サービスが必要になったとき、住民自らの要求があってはじめて州議会を経て自治体が設立(法人化)されるのである。従って、アメリカには自治体のない地域(非法人化地域)も相当あり、アメリカ国民の2割がどこの自治体にも属していない。「法人化」されてはじめて設立される自治体は、反対に廃止することも可能である。
自治体を設立するには、「自治憲章」を制定し、州政府がこれを承認し、「法人格」が与えられなければならない。自治憲章とは、日本の地方自治法に当たるような自治体の権限や職制を規定した自治体の基本法であり、各自治体自らが有している。これは、行政形態、公務員の名称・資格及び選出方法、財政、行政サービスの内容、各部局の編成などに関する規定が盛り込まれた行政運営の基礎である。
また、アメリカの自治体には、「地域のことは、地域において決定し、実行する」という「ホーム・ルール」の思想がある。すなわち自治憲章の制定に際しては、州政府の規定した一般的な範囲内であれば、住民が自由に規定できる。また、具体的な個別の政策に関しても州政府が禁止していない範囲内で裁量が認められるべきであるという考え方である。
以上のように、アメリカの地方自治体は正に「地方の住民が自ら治める団体」なのであって、日本の地方公共団体とは歴史的にも性質を異にするのである。
シティー「市」 市とは、一定の地域に一定の人口の集中があり、その結果、従来タウンの住民だった人がタウンが提供する一般的な行政サービス以上のサービスを求めるとき、自ら自治憲章を制定し州がそれを承認したときに、タウンの一部又はタウンの境界を超えて組織される強力な権限を持った地方自治体である。市が組織された場合、市はタウンの管轄から離れる。現在州内には62の市(人口は2,800人~700万人)が存在する。
市になれば、起債が認められるほか、他の地方団体に認められている固定資産税以外に所得税、消費税及び物品税を課すこともできる。所掌事務は警察、消防、上下水道、図書館、公営住宅、公園、都市計画、廃棄物処理など住民生活に密着したものが多い。ニューヨーク市に限っては、これに加えてカウンティーの全ての事務も行う。
市の機構は、各々の市の自治憲章により様々な形態があるが、大半の市が公選の議会を持ち、また市長は公選されるか議会によって任命され、裁判組織も独自に保有し、明確な三権分立が確保されている。代表的な市の機構は次に記述するとおりである。
①支配人型(Manager System) 任命された専門の行政職が行政のトップになる。議会が政策の決定機関であり、市長は儀礼的な存在。支配人は行政部局の長の任命権を持ち、予算の編成権を有するが、議会の決定を覆す権限はない。州内19市がこの形態を採っている。
②強力市長型(Strong Mayor System) 公選市長が行政部門の長であり、議会は政策決定機関である。市長は部局の長の任命権と予算の編成権を持ち、しかも広範な拒否権を有する。日本の市町村長は形式的にはこの形態に一番近いと思われる。
③非力市長型(Weak Mayor System) 市長は儀礼的な存在である。議会は政策の決定に加え、委員会形式で行政も行う。また、議会は行政部局の長の任命権を持ち、予算の編成権も有する。市長には拒否権はない。②③併せて州内40市がこの形態を採っている。
④委員会型(Commission) 委員は個別行政部門の責任者として公選され、各委員からなる委員会が政策を決定する。委員のうち1人が儀礼的な市長役を務めることがある。州内3市がこの形態を採っている。
近年の傾向 州の下部組織として設置されたカウンティーとタウンは、近年では、自治憲章の採択により、市や村同様の自治権を持つ地方自治体としての権限を州から与えられ、州の業務に加えて、従来市や村が行ってきたような独自の住民サービスを提供するようになってきた。従って、特にカウンティーと域内市町村の間でしばしば提供されるサービスに重複が見られ、行政コストや責任の不明確化といった問題が起こっている。 出典:ウィキペディアなど ▲ページTOPへ
歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
高麗の建国と文化 高麗の建国朝鮮半島を統一した新羅の勢力が衰えた九世紀末以降、朝鮮半島各地には、「城主」や「将軍」を自称する武装した豪族が多数出現しました。さらに、それらの豪族を糾合して、中部以北に弓裔の後高句麗、西南部に後百済が相次いで成立しました。戦乱が続くなか、頭角を表した王建は、918年に弓裔を倒して高麗 を建国し、開京(現開城・ケソン)に都を置きました。さらに935年に新羅を吸収し、翌年には後百済を滅ぼして、後三国を統一しました。 高麗は中国五代王朝との外交を開始し、各王朝からは「高麗国王」に柵封されました。その後も宋・金・元・明との間に柵封関係を結びました。一方日本へも二度使者を派遣しましたが、いずれも日本側から拒否されました。以後、両国の間には民間の交流はみられましたが、正式な国交が開かれることはありませんでした。建国初期の高麗にとって、契丹との関係は大きな問題となりました。高麗は当初、契丹と国交を保ちましたが、926年に契丹が渤海を滅ぼすと警戒心を強め、渤海から数万人にのぼる亡命者を受け入れる一方、まもなく断交に踏み切りました。これに対し、中国進出に力を注いでいた契丹は、高麗が宋に冊封されると徐々に高麗を威圧するようになり、993年、ついに高麗への軍事侵攻を開始しました。契丹の侵攻は三度に及び、1011年には開京が焼き払われる惨禍を被りました。▲ページTOPへ
2.中央行政機構の整備 契丹の脅威は、高麗に対して国王を頂点とする中央集権的な官僚国家の建設を促しました。主として宋の制度をもとに整備されました。 こうした行政機構を運営する官僚組織は東班(文臣)と西班(武臣)に分かれ、両班 (ヤンバン)と総称されました。国政の運営はおもに文臣に委ねられ、彼らの多くは選抜試験である科挙 によって登用されました(958~)。武臣は科挙によらず、おもに中央の正規軍である二軍・六兵のなかから抜擢されました。また官僚の官位で九品まであるなかの五品以上の文武高官の場合、子弟の一人については科挙を受験せずとも自動的に官僚に登用される制度もおこなわれました。 両班や軍人、それに末端の行政実務担当者であるしょ吏などには、官職。位階に応じて一定額の土地が国家から支給されました。また、この土地以外にも功績によって土地が支給されました。これは上級官僚の貴族的性格を示すもので、後世まで韓国の身分制度に影響を残します。
3.郡県制と地方支配 地方に割拠する豪族勢力を統制し、安定した全国支配を実現するために、豪族集団の根拠地である邑(ユウ)を州・府・郡・県などの行政区画に編成し直し、豪族たちを邑の末端行政実務担当者である郷吏とすることで、邑の政治機構である邑司(ユウシ)へと改編しました。また、一部の邑には中央から地方官を派遣して駐在させ、周辺のいくつかの邑をその管轄下において統治させました。こうして、11世紀初めまでに高麗の支配体制に組み入れられていきました。邑になかには多種多様の小行政区画(雑所)が存在しました。 郡県制の施行と並行して、姓氏と本貫(本拠地)の制度も導入されました。10世紀末ごろまでに朴(パク・ぼく)・金(キム)・李(イ)などの中国風の姓氏が各村落単位に設定され、郷司層や一般民は、すべて特定の行政区画を本貫とする姓氏集団として国家から把握されるようになりました。やがてそれは、金海朴氏のように、本貫と姓氏を一体化して一族を表現する概念を生み出す契機となりました。 邑の上位行政区画として、朝鮮半島中部以南には五つの道が置かれ、北部の辺境地帯には東界(トンゲ)と北界(プクケ)の二つの界が設けられました。また、都である開城周辺は京畿という行政区画が設けられました。▲ページTOPへ
4.モンゴルの侵略と高麗の滅亡 13世紀初めに世界帝国へと急成長したモンゴルは、高麗に対しても1231年から本格的な侵略を開始しました。モンゴル軍の侵略は約30年間にわたって執拗にくり返され、六度に及ぶ大規模な侵攻の結果、国土は荒廃し莫大な人命が失われました。 1259年、モンゴルに降伏しました。元のフビライは高麗を服属させたのち、1274年と81年の二度、日本へも遠征を試みました(元寇)。その過程で、高麗には軍船や食料の調達など重い負担が命じられ、また提供した兵員にも多くの死傷者を出しました。 1368年に明が建国するとすぐに外交関係を結びました。一方、高麗には13世紀末から14世紀初めにかけて元から朱子学がもたらされていましたが、やがてこれを学んだいわゆる新興儒学臣層が政界に進出するようになりました。彼らは親明政策を主張して親元派官僚と対立しましたが、王が臣元派に暗殺されたことで改革は一次挫折を余儀なくされました。 高麗末期には、南からの倭寇、北からの紅巾軍など、外部からの侵略にさらされた時期でした。1388年、親元派を追放した親明儒臣が集まり、内政改革が進められました。1392年、474年にわたって朝鮮半島に君臨した高麗王朝はついに滅亡しました。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他 ▲ページTOPへ
平安 京紫(きょうむらさき)#9d5b8b 最初のページ |戻る |次へ Copyright(C)2002.4.29-2009 ketajin21 All Rights Reser E-mail
歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
福 祉 社会保障制度 第二次世界大戦後の日本は、家族や地域社会での相互扶助を重視しつつ、憲法が人権の種類の一つとして定める、国民が健康で文化的な生活をする社会権の実現を目ざした。政府は、国民の生活において最低限の福祉サービスを児童保育、学校教育、職業訓練、雇用保険(1974年(昭和49年)以前の失業保険)、障害者介護・自立支援、生活保護、国民年金といった行政サービスとして提供しつつ、企業年金制度、退職金制度といった企業福祉を充実させる政策をとってきたが、近年は企業福祉から疎外された非正規雇用者が増加する一方、アメリカ合衆国型の低福祉・低負担化が目指され、その結果として健康で文化的な生活をする必要最小限の生活が出来ない貧困層の存在が社会問題になっている。1961年(昭和36年)以降、「国民皆保険」とされ、生活保護の受給者などの一部を除く日本国内に住所を有する全国民(および日本に1年以上在留資格のある外国人)が何らかの形で健康保険に加入するように定められている。近年、所得水準が低く保険料を支払えない人の増加が社会問題になっており、社会保障の一元化などが課題となっている。
健 康 厚生労働省 によれば、日本国民の2006年(平成18年)度の平均寿命は男性79.0歳、女性85.8歳であり、世界保健機関 (WHO) によれば世界一長寿である。また、健康寿命でも男性72.3歳、女性77.7歳(2001年(平成13年))となっており、これも世界一長寿となっている。日本人の死因は、戦後すぐでは結核などの感染症が多かったが、現在では一に悪性新生物(癌)、二に心疾患、三に脳血管疾患と、生活習慣病を中心とした慢性疾患が主である。しかし、今日でも先進工業国の中で日本人の結核死亡率の高さは突出している。
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医 療 世界最低レベルの周産期死亡率・平均余命を達成している一方、WHOの2004年度の統計値によると、人口千人あたりの医療職員数は、医師は1.98、歯科医師は0.71、看護師は7.79、助産師は0.19、薬剤師は1.21であり、経済的に豊かな国(国民一人当たりのGDPが20,000ドル以上)の中でも最低(最低グループ)であり、開発途上国と比較しても日本より上回っている国は多数あることから、人口比の医療職員数の不足が指摘されている。GDPに対する保健支出の比率は7.8%、保健支出に対する政府の負担比率は81.3%で、経済的に豊かな国の中では標準的な水準である。急速に進む出生率の低下・労働世代人口の減少・高齢化社会への対応として、国民健康保険料の増額、医療費自己負担分の増加、後期高齢者医療制度の導入など、国民の負担は増加する傾向にある。国会・政府の医療費抑制の政策により、近年医療サービス水準は低下しており、病院の70%が赤字経営で、産科の廃止や夜間救急医療の廃止など医療サービスの機能停止が各地で問題となっているが、有効な対策が提示されていない。もっとも中小企業の赤字率は2006年(平成18年)の民間推計で71.34%であり、病院経営が他の産業に突出して不振であるということは示さない。これは税制に理由があり、家族経営の中小・零細法人の場合、法人収益を計上して株主配当により分配するより給与分配したほうが税制上有利になるという事情による。日本では大学の医学教育や基礎医学研究の場における感染症や寄生虫症の扱いが、先進工業国の中でも突出して後退しており、麻疹輸出国として以前より非難されている。また海外からの病原体移入や海外旅行者の帰国後の感染症・寄生虫症発症に対する態勢に危惧が抱かれている。
育 児 現在の日本は少子高齢化が進んでいる。 明治以降、日本が近代化する過程で乳児死亡率低下、国力上昇により人口の激増がおこったほか、戦後のベビーブーム(団塊の世代)により若年者ほど多いピラミッド状の人口構成だった。しかし、高度成長期以降は少子化が進み、一人の女性が生涯に産む子供の数は世界でも最少レベルの1.3近くまで低下、人口減少に転じた。その原因として、経済的に豊かになったこと、医学と医療技術の向上により死亡率が減少したこと、教育水準が向上し教育費負担が大きくなったこと、公的な育児支援制度が不足していること、長時間労働により育児の時間が不足するとともに仕事と育児の両立が困難なこと、核家族化によって祖父母の助けが減ったこと、地域社会の助け合いが薄れたことなどが複合的な要因として指摘されている。政府は出生率の低下を深刻な問題と認識し、現在の人口を維持できる2.0?2.1前後まで増加させようと考えているが、政府や社会として有効な対策がなされず、出生率が著しく低い状況を解消できる見通しはたっていない。▲ページTOPへ
介 護 経済的に豊かになったことと、医学と医療技術の向上により、日本は平均寿命と平均健康寿命が世界で最も高い国になったが、それは高齢期の生活に介護が必要な人口の増加をもたらした。日本では要介護者の介護は伝統的には家族が行なっていたが、長時間労働により介護の時間が不足するとともに仕事と介護の両立が困難なこと、祖父母・父母・孫子の複数世代同居家族から父母と子の家庭に変化したこと、高齢者が夫婦二人や一人住まいの状況がよくあること、地域社会の助け合いが薄れたことなどが複合的な要因となって、家族による介護が困難になり、2000年(平成12年)に介護保険制度が創設され、介護を家族と行政と地域社会の協力で行う政策に転換した。しかし、制度や運用の経験が不十分なこと、介護の仕事は激務であるが介護報酬が低額で介護事業者や介護労働者が十分な収入を得られないこと、行政の予算不足により福祉に必要十分な予算が無いことなどの複合的な要因により、要介護者やその家族からの様々な需要に対して、必要で十分なサービスは提供できていない。
自 殺 警察庁の統計によると、1978年(昭和53年)- 2006年(平成18年)の期間で、自殺者数と人口10万人あたりの自殺率の推移を見ると、自殺率が最も高かった年度の(自殺件数と)自殺率は、2003年(平成15年)の(34,427)27.0、男性は(24,963)40.1 女性は(9,464)14.5である。自殺率が最も低かった年度の(自殺件数と)自殺率は、1991年(平成3年)の(21,084)17.0、男性は(13,242)21.7、女性は(7,842)12.4である。2006年(平成18年)は(32,155)25.2、男性は(22,813)36.6、女性は(9,342)14.3である。1978年(昭和53年)- 1997年(平成9年)は(20,788 – 25,202)17.3 – 21.1だったが、1998年(平成10年)- 2006年(平成18年)は(31,042 – 34,427)24.4 – 27.0である。厚生労働省の統計によると、1955年(昭和30年)- 2006年(平成18年)の期間で、自殺者数と人口10万人あたりの自殺率の推移を見ると、自殺率が最も高かった年度の(自殺件数と)自殺率は、1998年(平成10年)の(32,122)25.4である。自殺率が最も低かった年度の(自殺件数と)自殺率は、1967年(昭和42年)の(14,268)14.2である。1961年(昭和36年)- 1974年(昭和49年)は(14,268 – 19,283)14.2 – 17.4だったが、1998年(平成10年)0- 2006年(平成18年)は(29,671 – 32,414)23.3 – 25.4である。WHOの2007年(平成19年)の統計によると、WHOに自殺統計を報告している101か国の中で、日本の自殺率は高い順に11位であり、人口一人当たりのGDPが20,000ドル以上の経済的に豊かな国の中では高い順に1位である。政府は自殺問題を重要な課題と認識し、日本が先進国の中で最も自殺率が高い原因について、宗教的要因・日本人の死生観など様々な原因が仮説として提示されているが、現時点では原因は明確に解明されていない。ただし、諸外国と比較して、社会全体で自殺を包括的に予防する対策の不備が指摘され、包括的予防対策の整備を求められている。2006年(平成18年)に自殺対策基本法[80]が制定されたが、自殺予防に関する基本的な考え方を規定しているが、具体的な政策・制度は規定していないので、自殺率減少は実現できず、政府や社会として有効な対策は実施されていない。出典: 外務省、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他 ▲ページTOPへ
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平安時代 平安時代(へいあんじだい、794年-1185年/1192年頃)とは、794年に桓武(かんむ)天皇が平安京(京都)に都(首都)を移してから、鎌倉幕府の成立までの約390年間を指す日本の歴史の時代区分の一つ。 王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられるが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されています(日本文学史研究においては「中古」という表現も用いられています)。
794年、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上の唯一の中心だったことから平安時代と称します。平氏政権が成立した11世紀後期からは、中世に移行したと考えてよいようです。
平安の初期から中期は、先進文化たる中国の文化政治体制の模倣から、次第に日本の固有なものへの関心が芽生えてくる時代でした。大化改新以来の律令制も、形式的には維持されましたが、土地の私有がさらに進み、徐々に荘園を基盤とする藤原氏など中心とする摂関体制というあらたな政治的枠組みへと組み替えられていきました。なかでも醍醐天皇(在位897~930)・村上天皇(在位946~967)の治世は「延喜・天暦の治」と称される政治上・文化上の画期となり、国風化もすすみました。
また、平仮名・片仮名の発明により、日本語の表記が容易になったことによる、和歌・日記・物語文学の隆盛、官衣束帯の登場(官服の国風化)、寝殿造の登場 などがあります。
王朝国家体制律令制による中央集権国家を形成した大和朝廷ですが、と現実の乖離(かいり)が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換しきました。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制 といいます。
王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられますが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されています。この時代は奈良末期の宝亀元年(770年)の女帝の称徳天皇は、皇太子を生めないまま崩御し、奈良時代を通じて続いてきた天武天皇系の皇統に代わって、継承順で繰り上がっ天智天皇系の孫である白壁王(光仁天皇)が、60歳前後という高齢ながら即位しました。未だ天武系の皇族の影響があるなか、新しい皇統の権威は安定したものではありませんでした。773(宝亀四)年、光仁天皇と渡来系氏族出身の女性高野新笠との間に生まれた山部親王(桓武天皇)が皇太子となりました。
781(天応元)年、病が重くなった光仁天皇は、皇位を皇太子山部親王に譲り、桓武天皇が即位しました。桓武天皇は新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進めていきました。桓武の改革は律令制の再編成を企図したものであり、その一つは新都の造営であり、もう一つは東北の対蝦夷戦争でした。また、母方につながる渡来系氏族の重視や、親近の有力貴族の娘を多く後宮に迎える環として桓武は平城京から長岡京、さらには平安京への遷都(794年)を断行しました。以後、時の権力者となった桓武天皇の影響により、現在まで天武系の皇族は皇位に即いていないのです。奈良時代は天武系の、平安時代は桓武天皇に続く天智系の時代であったといえます。王朝国家体制の下では、国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓(田堵・名主)層の成長が見られ、彼らの統制の必要からこの権限委譲と並行して、国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層もまた、武士として成長していきました。国家権限の委譲とこれによる中央集権の過大な負担の軽減により、中央政界では政治が安定し、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進み、貴族の最上位では摂関家が確立し、中流貴族に固定した階層は中央においては家業の専門技能によって公務を担う技能官人として行政実務を、地方においては受領となって地方行政を担った(平安貴族)。この時期は摂関家による摂関政治が展開し、特定の権門が独占的に徴税権を得る荘園が、時代の節目ごとに段階的に増加し、受領が徴税権を担う公領と勢力を二分していきました。
11世紀後期からは上皇が治天の君(事実上の君主)となって政務に当たる院政が開始された。院政の開始をもって中世の開始とする見解が有力であります。院政期には荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。12世紀中期頃には貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようになり、そのために動員された武士の地位が急速に上昇した。こうした中で最初の武家政権である平氏政権が登場しますが、この時期の社会矛盾を一手に引き受けたため、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱により崩壊してしまいます。平氏政権の崩壊とともに、中央政府である朝廷とは別個に、内乱を収拾して東国の支配権を得た鎌倉幕府が登場し、平安時代は幕を下ろしました。
長岡京遷都784(延暦三)年、桓武天皇は大和国(奈良県)の平城京から淀川に面して水陸交通の恵まれた山背国(京都府)の長岡京へ都を遷しました。奈良時代後期に皇位継承をめぐって起きた政治的混乱を乗り越え、天武系から天智系にかわった新しい皇統の基盤を築くとともに、南都平城京で大きかった寺院の勢力を排除することが大きな理由として挙げられています。また、奈良時代に首都平城京と副都難波京の二つの都を維持してきたこれまでの複都体制を削減して一本化するという意味も認められています。 具体的には、
新王朝創設を中国思想によって位置づける 天武系の皇統の都平城京を拠点とする反桓武天皇勢力を排除する 平城京に根強い仏教勢力を排除する 平城京と難波京の複都制を一本化して緊縮政策をとる 平城京よりも水陸交通の便に恵まれた要衝の地を選択する-平城京は大きな川から離れている為、大量輸送できる大きな船が使えず、食料など効率的に運ぶことが困難であった 山城国の秦氏など渡来系有力氏族の経済力と血縁関係に依存する 光仁天皇の没(781年)による平城京のけがれを忌避するなどのことが挙げられますが、やはりこれまでの天武系皇統の都平城京から移ることによって新王朝の基盤を確立しようとする桓武天皇の目論見と、それを支えた藤原種継ら貴族層の意向という政治的契機といえるでしょう。 平安京遷都しかしそれから僅か10年後の延暦13年(794年)、桓武天皇は改めて山背(やましろ)国北部に遷都し平安京が成立しました。新京はそれまでの都の名称は全てその場所の地名を採っていたのに比べると、「平安京」という名称には桓武天皇の深い想いがこめられているといわなければなりません。天皇のみならず万民にとって、平安京は永遠の平和を願う都であるという願いが込められていました。
また、その様式には強く唐風の物があり、奈良とは異なっていました。平安京は後世においては音読みの「へいあんきょう」と読みますが、当初は「たいらのみやこ」と訓読みしました。「山背(やましろ)」の国名は「山城」の字に改められましました。この再遷都は、長岡京で興った藤原種継暗殺から早良親王廃太子、皇太后(高野新笠)・皇后(藤原乙牟漏)ら一連の騒動を忌避するためや、長岡京の造営がなかなか進まなかったことが影響しているとみられていますが、平安遷都は、前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高め、国家の安定を図ろうとする政治的意図が大きかったと考えられています。平安京は、現在の京都市中心部にあたる、山背国葛野(かどの)・愛宕(あたご)両郡にまたがる地に建設され、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城でした。都の北端中央に大内裏(だいだいり)を設け、そこから市街の中心に朱雀大路(すざくおおじ)を通して左右に左京・右京(東側が左京、西側が右京である)を置くという平面プランは基本的に平城京を踏襲し、隋・唐の長安城に倣うものですが、城壁は存在しませんでした。この地の選定は中国から伝わった風水に基づく北に玄武(げんぶ)(山)、南に朱雀(すざく)(水)、東に青龍(せいりゅう)(河)、西に白虎(びゃっこ)(道)を配するという「四神相応」の考え方を元に行われたといわれています。この四神としては、北の船岡山、南の巨椋池、東の鴨川、西の山陰道が擬せられていたといわれています。都の傍の川沿いには、淀津や大井津などの港を整備しました。これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込びました。運ばれた物資は都の中にある大きな二つの市(東市、西市)に送り、人々に供給されます。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにしました。また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にぞれぞれ、水量の調整ができる人工の「堀川」(現在の堀川と西堀川)をつくり、水の供給を確保しながら洪水を抑えようとしました。そして長岡京で認めなかった仏教寺院の建立を認めます。仏教の知識と能力に優れ、政治権力とは無縁の僧である空海たちを迎え、東寺と西寺の力で災害や疫病から都を守ろうと考えました。
しかし、平安京は、東を鴨川、西を桂川(葛野川(かどのがわ))という二本の大河に挟まれていたため、両者の合流点付近には「鳥羽(とば)の津」が設けられ、平安京の水の玄関口としての役割を果たしていました。一方、この両河川は大雨の際にはしばしば氾濫(はんらん)し、都の人々を悩ませました。
現在の京都御所は、平安宮の内裏(だいり)とはまったく場所が異なっており、鎌倉時代末期の光厳天皇(北朝初代)が里内裏とした土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)(土御門内裏)が、現在の京都御所の前身です。その後、室町時代・戦国時代の天皇は火災などによる一時的な避難を除き、土御門内裏から離れることはなくなりました。やがて、土御門内裏は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちによって拡張され、その周囲には公家町が形成されて、独自の宮廷空間が創出され、近世の京都御所ができあがったのです。平安京の範囲は、現在の京都市街より小さく、朱雀大路は現在の千本通にあたり、JR山陰本線(嵯峨野線)二条駅と梅小路機関車館の南北に通るラインです。北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅のやや南の九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたり、西限の西京極大路の推定地は現在のJR嵯峨野線太秦(うずまさ)駅と阪急京都線西京極駅を南北に結んだ葛野大路ラインです。
京内は東西南北に走る大路・小路によって40丈(約120m)四方の「町」に分けられていました。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていました。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれました。
道路の幅は小路でも4丈(約12m)、大路では8丈(約24m)以上ありました。現存する京都市内の道路は、ほとんどの場所でこれよりずっと狭くなっています。朱雀大路に至っては28丈(約84m)もの幅がありました。また、堀川小路と西堀川小路には並行して川(堀川、西堀川)が流れていました。
摂関政治摂関政治とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、代々摂政や関白あるいは内覧となって、天皇の代理者、又は天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態であります。平安時代初期、礼的な秩序を大切にした嵯峨天皇・太上天皇の時代には、皇位継承をめぐる皇族間の争いやそれと結びついた貴族間の勢力争いは影を潜めて、平和が続き文化の華が開きました。しかし、嵯峨天皇が没するとすぐに承和の変が起こり、菅原道真左遷事件などの出来事、再び皇位継承をめぐる争いとともに藤原北家による他氏排斥時間が相次ぐようになり、藤原良房・元経たちによって、摂関政治への道が開かれていきました。
九世紀の藤原北家台頭への道は、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が、810年、平城天皇の筆頭秘書官(又は官房長官)と言うべき蔵人頭(新設官庁である蔵人所の長官)に就任し、一大法令群である『弘仁格式』『内裏式』『日本後記』などの編纂にあたるなどし、この功績により左大臣にまで昇りました。これで次世代における藤原北家台頭の足がかりができた。その後を受けて藤原北家には藤原良房・基経といった有能な政治家が相次いで輩出し、天皇の外戚としての立場をかてとして摂政あるいは関白となって政治の実権を握り、藤原北家が正解において絶対的な地位を築くことに成功し、摂関政治への道を開いたのです。
冬嗣の子藤原良房は、857年に太政大臣へ、866年には摂政へと、いずれも人臣として初めて就任した。良房の採った政治手法は大きく二つあります。一つは、他の有力貴族を失脚させることで、藤原北家への対抗心を削ぐこと(他氏排斥)。二つ目は、天皇家に娘を嫁がせ子を産ませ、天皇の外祖父として権力を握ることでした。前者の他氏排斥としては、842年の承和の変において伴・橘両氏及び藤原式家を、次いで866年の応天門の変において伴・紀両氏を失脚させている。後者としては、文徳天皇に娘を嫁がせ、その結果清和天皇が誕生し、天皇の外祖父として確固たる政治基盤を築いている。
この、娘を天皇家に嫁がせる手法は、藤原北家の伝統となり、天皇の代理者・補佐者としての地位の源泉ともなっていきました。良房の死後、養子の藤原基経はすぐに摂政へ就任し、884年に急遽年配の光孝天皇が即位した際には、事実上の関白に就任した。それまでは幼少の天皇の代理者たる摂政として権限を行使してきたが、ついに成人の天皇の補佐者(事実上の権限代行者)たる関白の地位も手中にしたことになる。ただし、良房・基経の時代には太政大臣と摂政・関白の間に明確な職掌の差があったわけではなく(藤原良房の摂政就任は清和天皇の成人後である)、基経は関白に相当する権限を太政大臣あるいは摂政の立場で行使していた可能性もあります。藤原基経が没すると、後継者の時平がまだ若かったこともあり、宇多天皇はようやく制約を受けずに政治に取り組めるようになります。やがて左大臣藤原時平と右大臣菅原道真との二頭立てによる政治体制を築きますが、901年に道真は、醍醐天皇によって太宰府へ左遷へ陥れた(昌泰の変)。時平が背後にあって、道真が娘婿のとき世親王の即位を図ったという名目で彼を排斥したと考えられています。
菅原道真は、宇多天皇の信任を得て学者としては異例の昇進を遂げていたから、その出世を快く思わない貴族や学者たちも多く、政治的基盤はそう強くありませんでした。宇多太上天皇はこの左遷を聞いて醍醐天皇を諫めようとしたところ、固く門を閉ざされてしまい、結局道真を救うことはできませんでした。藤原時平は非常に有能な政治家として手腕を発揮していったが、摂政・関白に就任する前に39歳の若さで没し、のちその子孫も多く若死したので、道真の怨霊の仕業とする説話が生まれました。時平の後を継いだ弟の忠平は、政治に優れた手腕を発揮し、924(延長二)年に摂政、936(承平六)年には太政大臣、941(天慶四)年、関白になりました。 こうして外戚化を進める藤原北家に対抗できる氏族はいなくなり、摂関家を中心とした貴族の家格が形成され、平安貴族社会が成熟していきました。冷泉天皇が即位して実頼が関白に就いてからは、恒常的に摂政・関白が置かれるようになり、本格的な摂関政治が実現し、忠平の子孫が摂関家になっていきました。
こうした中央政界における動向の一方で、地方社会においては、各地に土着したもと国司や在地で成長した領主たちの武士化が起こりつつありました。939(天慶二)に起こった平将門の乱では、常陸・下野・上野などの国府を攻め落として関東をほぼ制圧し、新皇と称して東国国家の形成を図り、同時期に、伊予国司であった藤原純友も瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、伊予国府や太宰府を攻め落として大きな衝撃を与えました。承平・天慶の乱とも呼ばれる東西の乱は、中央から派遣された武士や地方武士たちの軍事力で制圧されましたが、武士たちが摂関家とも結びつきながら治安をめぐって政治的・社会的に進出していく方向を示す事件でもあったといえます。
蝦夷(えみし)戦争平安京遷都と並んで、東北の蝦夷(えみし)と呼ばれた東北地方に住む内民化していない人々を服属させるための軍事的な征東政策が進められました。
古代において東北地方は、七世紀半ば以降着々と律令国家の勢力下がすすめられました。出羽では秋田城を中心としながら、太平洋側では、神亀元(724)年、多賀城(宮城県多賀城市)を造営し、陸奥国府が置かれました。各地に行政拠点として城柵を配置して、東国(関東)から移住させた柵戸によって開拓が進められていました。古代国家の蝦夷対策は、決して軍事一辺倒ではなく、一方で帰順した蝦夷に対しては禄を給うなどの優遇策をとりながら、他方で帰順しない蝦夷に対しては軍事的制裁を行うという「アメとムチ」の二面をもっていました。すでに光仁天皇の時代から、東北地方には不穏な状況があり軍勢が派遣されていましたが、多賀城陥落による軍事的制圧など38年間にわたって戦争が続いていました。桓武天皇は、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、延暦21(802)年、立派な胆沢城(岩手県水沢市)を築き、ついに蝦夷の族長 阿弖流為(あてるい)は五百余人を率いて坂上田村麻呂に帰順しました。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他
歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
平安時代 概要 平安時代(へいあんじだい、794年-1185年/1192年頃)とは、794年に桓武(かんむ)天皇が平安京(京都)に都(首都)を移してから、鎌倉幕府の成立までの約390年間を指す日本の歴史の時代区分の一つ。 王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられるが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されています(日本文学史研究においては「中古」という表現も用いられています)。794年、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上の唯一の中心だったことから平安時代と称します。平氏政権が成立した11世紀後期からは、中世に移行したと考えてよいようです。 平安の初期から中期は、先進文化たる中国の文化政治体制の模倣から、次第に日本の固有なものへの関心が芽生えてくる時代でした。大化改新以来の律令制も、形式的には維持されましたが、土地の私有がさらに進み、徐々に荘園を基盤とする藤原氏など中心とする摂関体制というあらたな政治的枠組みへと組み替えられていきました。なかでも醍醐天皇(在位897~930)・村上天皇(在位946~967)の治世は「延喜・天暦の治」と称される政治上・文化上の画期となり、国風化もすすみました。
また、平仮名・片仮名の発明により、日本語の表記が容易になったことによる、和歌・日記・物語文学の隆盛、官衣束帯の登場(官服の国風化)、寝殿造の登場 などがあります。
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王朝国家体制 律令制による中央集権国家を形成した大和朝廷ですが、と現実の乖離(かいり)が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換しきました。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制 といいます。 王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられますが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されています。この時代は奈良末期の宝亀元年(770年)の女帝の称徳天皇は、皇太子を生めないまま崩御し、奈良時代を通じて続いてきた天武天皇系の皇統に代わって、継承順で繰り上がっ天智天皇系の孫である白壁王(光仁天皇)が、60歳前後という高齢ながら即位しました。未だ天武系の皇族の影響があるなか、新しい皇統の権威は安定したものではありませんでした。773(宝亀四)年、光仁天皇と渡来系氏族出身の女性高野新笠との間に生まれた山部親王(桓武天皇)が皇太子となりました。781(天応元)年、病が重くなった光仁天皇は、皇位を皇太子山部親王に譲り、桓武天皇が即位しました。桓武天皇は新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進めていきました。桓武の改革は律令制の再編成を企図したものであり、その一つは新都の造営であり、もう一つは東北の対蝦夷戦争でした。また、母方につながる渡来系氏族の重視や、親近の有力貴族の娘を多く後宮に迎える環として桓武は平城京から長岡京、さらには平安京への遷都(794年)を断行しました。以後、時の権力者となった桓武天皇の影響により、現在まで天武系の皇族は皇位に即いていないのです。奈良時代は天武系の、平安時代は桓武天皇に続く天智系の時代であったといえます。王朝国家体制の下では、国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓(田堵・名主)層の成長が見られ、彼らの統制の必要からこの権限委譲と並行して、国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層もまた、武士として成長していきました。国家権限の委譲とこれによる中央集権の過大な負担の軽減により、中央政界では政治が安定し、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進み、貴族の最上位では摂関家が確立し、中流貴族に固定した階層は中央においては家業の専門技能によって公務を担う技能官人として行政実務を、地方においては受領となって地方行政を担った(平安貴族)。この時期は摂関家による摂関政治が展開し、特定の権門が独占的に徴税権を得る荘園が、時代の節目ごとに段階的に増加し、受領が徴税権を担う公領と勢力を二分していきました。11世紀後期からは上皇が治天の君(事実上の君主)となって政務に当たる院政が開始された。院政の開始をもって中世の開始とする見解が有力であります。院政期には荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。12世紀中期頃には貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようになり、そのために動員された武士の地位が急速に上昇した。こうした中で最初の武家政権である平氏政権が登場しますが、この時期の社会矛盾を一手に引き受けたため、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱により崩壊してしまいます。平氏政権の崩壊とともに、中央政府である朝廷とは別個に、内乱を収拾して東国の支配権を得た鎌倉幕府が登場し、平安時代は幕を下ろしました。
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長岡京遷都 784(延暦三)年、桓武天皇は大和国(奈良県)の平城京から淀川に面して水陸交通の恵まれた山背国(京都府)の長岡京へ都を遷しました。奈良時代後期に皇位継承をめぐって起きた政治的混乱を乗り越え、天武系から天智系にかわった新しい皇統の基盤を築くとともに、南都平城京で大きかった寺院の勢力を排除することが大きな理由として挙げられています。また、奈良時代に首都平城京と副都難波京の二つの都を維持してきたこれまでの複都体制を削減して一本化するという意味も認められています。 具体的には、新王朝創設を中国思想によって位置づける 天武系の皇統の都平城京を拠点とする反桓武天皇勢力を排除する 平城京に根強い仏教勢力を排除する 平城京と難波京の複都制を一本化して緊縮政策をとる 平城京よりも水陸交通の便に恵まれた要衝の地を選択する-平城京は大きな川から離れている為、大量輸送できる大きな船が使えず、食料など効率的に運ぶことが困難であった 山城国の秦氏など渡来系有力氏族の経済力と血縁関係に依存する 光仁天皇の没(781年)による平城京のけがれを忌避するなどのことが挙げられますが、やはりこれまでの天武系皇統の都平城京から移ることによって新王朝の基盤を確立しようとする桓武天皇の目論見と、それを支えた藤原種継ら貴族層の意向という政治的契機といえるでしょう。
平安京遷都 しかしそれから僅か10年後の延暦13年(794年)、桓武天皇は改めて山背(やましろ)国北部に遷都し平安京が成立しました。新京はそれまでの都の名称は全てその場所の地名を採っていたのに比べると、「平安京」という名称には桓武天皇の深い想いがこめられているといわなければなりません。天皇のみならず万民にとって、平安京は永遠の平和を願う都であるという願いが込められていました。 また、その様式には強く唐風の物があり、奈良とは異なっていました。平安京は後世においては音読みの「へいあんきょう」と読みますが、当初は「たいらのみやこ」と訓読みしました。「山背(やましろ)」の国名は「山城」の字に改められましました。この再遷都は、長岡京で興った藤原種継暗殺から早良親王廃太子、皇太后(高野新笠)・皇后(藤原乙牟漏)ら一連の騒動を忌避するためや、長岡京の造営がなかなか進まなかったことが影響しているとみられていますが、平安遷都は、前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高め、国家の安定を図ろうとする政治的意図が大きかったと考えられています。平安京は、現在の京都市中心部にあたる、山背国葛野(かどの)・愛宕(あたご)両郡にまたがる地に建設され、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城でした。都の北端中央に大内裏(だいだいり)を設け、そこから市街の中心に朱雀大路(すざくおおじ)を通して左右に左京・右京(東側が左京、西側が右京である)を置くという平面プランは基本的に平城京を踏襲し、隋・唐の長安城に倣うものですが、城壁は存在しませんでした。この地の選定は中国から伝わった風水に基づく北に玄武(げんぶ)(山)、南に朱雀(すざく)(水)、東に青龍(せいりゅう)(河)、西に白虎(びゃっこ)(道)を配するという「四神相応」の考え方を元に行われたといわれています。この四神としては、北の船岡山、南の巨椋池、東の鴨川、西の山陰道が擬せられていたといわれています。都の傍の川沿いには、淀津や大井津などの港を整備しました。これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込びました。運ばれた物資は都の中にある大きな二つの市(東市、西市)に送り、人々に供給されます。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにしました。また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にぞれぞれ、水量の調整ができる人工の「堀川」(現在の堀川と西堀川)をつくり、水の供給を確保しながら洪水を抑えようとしました。そして長岡京で認めなかった仏教寺院の建立を認めます。仏教の知識と能力に優れ、政治権力とは無縁の僧である空海たちを迎え、東寺と西寺の力で災害や疫病から都を守ろうと考えました。 しかし、平安京は、東を鴨川、西を桂川(葛野川(かどのがわ))という二本の大河に挟まれていたため、両者の合流点付近には「鳥羽(とば)の津」が設けられ、平安京の水の玄関口としての役割を果たしていました。一方、この両河川は大雨の際にはしばしば氾濫(はんらん)し、都の人々を悩ませました。 現在の京都御所は、平安宮の内裏(だいり)とはまったく場所が異なっており、鎌倉時代末期の光厳天皇(北朝初代)が里内裏とした土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)(土御門内裏)が、現在の京都御所の前身です。その後、室町時代・戦国時代の天皇は火災などによる一時的な避難を除き、土御門内裏から離れることはなくなりました。やがて、土御門内裏は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちによって拡張され、その周囲には公家町が形成されて、独自の宮廷空間が創出され、近世の京都御所ができあがったのです。平安京の範囲は、現在の京都市街より小さく、朱雀大路は現在の千本通にあたり、JR山陰本線(嵯峨野線)二条駅と梅小路機関車館の南北に通るラインです。北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅のやや南の九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたり、西限の西京極大路の推定地は現在のJR嵯峨野線太秦(うずまさ)駅と阪急京都線西京極駅を南北に結んだ葛野大路ラインです。京内は東西南北に走る大路・小路によって40丈(約120m)四方の「町」に分けられていました。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていました。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれました。
道路の幅は小路でも4丈(約12m)、大路では8丈(約24m)以上ありました。現存する京都市内の道路は、ほとんどの場所でこれよりずっと狭くなっています。朱雀大路に至っては28丈(約84m)もの幅がありました。また、堀川小路と西堀川小路には並行して川(堀川、西堀川)が流れていました。
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摂関政治 摂関政治とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、代々摂政や関白あるいは内覧となって、天皇の代理者、又は天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態であります。平安時代初期、礼的な秩序を大切にした嵯峨天皇・太上天皇の時代には、皇位継承をめぐる皇族間の争いやそれと結びついた貴族間の勢力争いは影を潜めて、平和が続き文化の華が開きました。しかし、嵯峨天皇が没するとすぐに承和の変が起こり、菅原道真左遷事件などの出来事、再び皇位継承をめぐる争いとともに藤原北家による他氏排斥時間が相次ぐようになり、藤原良房・元経たちによって、摂関政治への道が開かれていきました。 九世紀の藤原北家台頭への道は、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が、810年、平城天皇の筆頭秘書官(又は官房長官)と言うべき蔵人頭(新設官庁である蔵人所の長官)に就任し、一大法令群である『弘仁格式』『内裏式』『日本後記』などの編纂にあたるなどし、この功績により左大臣にまで昇りました。これで次世代における藤原北家台頭の足がかりができた。その後を受けて藤原北家には藤原良房・基経といった有能な政治家が相次いで輩出し、天皇の外戚としての立場をかてとして摂政あるいは関白となって政治の実権を握り、藤原北家が正解において絶対的な地位を築くことに成功し、摂関政治への道を開いたのです。 冬嗣の子藤原良房は、857年に太政大臣へ、866年には摂政へと、いずれも人臣として初めて就任した。良房の採った政治手法は大きく二つあります。一つは、他の有力貴族を失脚させることで、藤原北家への対抗心を削ぐこと(他氏排斥)。二つ目は、天皇家に娘を嫁がせ子を産ませ、天皇の外祖父として権力を握ることでした。前者の他氏排斥としては、842年の承和の変において伴・橘両氏及び藤原式家を、次いで866年の応天門の変において伴・紀両氏を失脚させている。後者としては、文徳天皇に娘を嫁がせ、その結果清和天皇が誕生し、天皇の外祖父として確固たる政治基盤を築いている。 この、娘を天皇家に嫁がせる手法は、藤原北家の伝統となり、天皇の代理者・補佐者としての地位の源泉ともなっていきました。良房の死後、養子の藤原基経はすぐに摂政へ就任し、884年に急遽年配の光孝天皇が即位した際には、事実上の関白に就任した。それまでは幼少の天皇の代理者たる摂政として権限を行使してきたが、ついに成人の天皇の補佐者(事実上の権限代行者)たる関白の地位も手中にしたことになる。ただし、良房・基経の時代には太政大臣と摂政・関白の間に明確な職掌の差があったわけではなく(藤原良房の摂政就任は清和天皇の成人後である)、基経は関白に相当する権限を太政大臣あるいは摂政の立場で行使していた可能性もあります。藤原基経が没すると、後継者の時平がまだ若かったこともあり、宇多天皇はようやく制約を受けずに政治に取り組めるようになります。やがて左大臣藤原時平と右大臣菅原道真との二頭立てによる政治体制を築きますが、901年に道真は、醍醐天皇によって太宰府へ左遷へ陥れた(昌泰の変)。時平が背後にあって、道真が娘婿のとき世親王の即位を図ったという名目で彼を排斥したと考えられています。菅原道真は、宇多天皇の信任を得て学者としては異例の昇進を遂げていたから、その出世を快く思わない貴族や学者たちも多く、政治的基盤はそう強くありませんでした。宇多太上天皇はこの左遷を聞いて醍醐天皇を諫めようとしたところ、固く門を閉ざされてしまい、結局道真を救うことはできませんでした。藤原時平は非常に有能な政治家として手腕を発揮していったが、摂政・関白に就任する前に39歳の若さで没し、のちその子孫も多く若死したので、道真の怨霊の仕業とする説話が生まれました。時平の後を継いだ弟の忠平は、政治に優れた手腕を発揮し、924(延長二)年に摂政、936(承平六)年には太政大臣、941(天慶四)年、関白になりました。 こうして外戚化を進める藤原北家に対抗できる氏族はいなくなり、摂関家を中心とした貴族の家格が形成され、平安貴族社会が成熟していきました。冷泉天皇が即位して実頼が関白に就いてからは、恒常的に摂政・関白が置かれるようになり、本格的な摂関政治が実現し、忠平の子孫が摂関家になっていきました。こうした中央政界における動向の一方で、地方社会においては、各地に土着したもと国司や在地で成長した領主たちの武士化が起こりつつありました。939(天慶二)に起こった平将門の乱では、常陸・下野・上野などの国府を攻め落として関東をほぼ制圧し、新皇と称して東国国家の形成を図り、同時期に、伊予国司であった藤原純友も瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、伊予国府や太宰府を攻め落として大きな衝撃を与えました。承平・天慶の乱とも呼ばれる東西の乱は、中央から派遣された武士や地方武士たちの軍事力で制圧されましたが、武士たちが摂関家とも結びつきながら治安をめぐって政治的・社会的に進出していく方向を示す事件でもあったといえます。
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蝦夷(えみし)戦争 平安京遷都と並んで、東北の蝦夷(えみし)と呼ばれた東北地方に住む内民化していない人々を服属させるための軍事的な征東政策が進められました。 古代において東北地方は、七世紀半ば以降着々と律令国家の勢力下がすすめられました。出羽では秋田城を中心としながら、太平洋側では、神亀元(724)年、多賀城(宮城県多賀城市)を造営し、陸奥国府が置かれました。各地に行政拠点として城柵を配置して、東国(関東)から移住させた柵戸によって開拓が進められていました。古代国家の蝦夷対策は、決して軍事一辺倒ではなく、一方で帰順した蝦夷に対しては禄を給うなどの優遇策をとりながら、他方で帰順しない蝦夷に対しては軍事的制裁を行うという「アメとムチ」の二面をもっていました。すでに光仁天皇の時代から、東北地方には不穏な状況があり軍勢が派遣されていましたが、多賀城陥落による軍事的制圧など38年間にわたって戦争が続いていました。桓武天皇は、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、延暦21(802)年、立派な胆沢城(岩手県水沢市)を築き、ついに蝦夷の族長 阿弖流為(あてるい)は五百余人を率いて坂上田村麻呂に帰順しました。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他 ▲ページTOPへ
平安 京紫(きょうむらさき)#9d5b8b 最初のページ |戻る |次へ Copyright(C)2002.4.29-2009 ketajin21 All Rights Reser E-mail
歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
領土問題 以下は、戦後、日本に復帰した領土。
トカラ列島 1952年(昭和27年)2月10日復帰。 奄美群島 1953年(昭和28年)12月25日復帰。 小笠原諸島 1968年(昭和43年)6月26日復帰。 沖縄県 1972年(昭和47年)5月15日復帰。 北方領土、竹島問題、尖閣諸島においては、国際法によって、日本固有の領土であるにもかかわらず、主張している国とによって解決していない。領土問題は、植民地問題と並んで戦争やテロのきっかけになりやすく、過去に日本を初め世界各国で領土問題を発端に戦争が起きたこともある(ノモンハン事件、印パ戦争など)。これら領土問題を戦争に発展させないために、国連は国際法によって、一国が他国の領土を武力によって占有することを禁じている。 『日本人の歴史教科書』自由社
主にウルップ島以北を北千島、択捉島以南を南千島と呼ぶ。北方領土問題(ほっぽうりょうどもんだい)とは、北海道根室半島の沖合にある島々で現在ロシア連邦が実効支配している、択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞群島(はぼまいぐんとう)に対して、日本が返還を求めている領土問題。この島を、北方四島とも言うことがある。日本政府は、歯舞群島と色丹島は千島列島に属さないとしている。
地理
千島列島は環太平洋火山帯の一部をなす火山列島であり、今でも多くの島が活発に火山活動を起こしている。これらの島々は北アメリカプレートの下に太平洋プレートがもぐりこんだ結果生じた成層火山の頂上にあたる。
プレートのもぐりこみにより、列島の200km東方沖に千島海溝ができている。地震も頻繁に起こり、2006年(平成18年)11月15日、近海でマグニチュード7.9の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2006年))また、2007年(平成19年)1月13日にも、近海でマグニチュード8.2の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2007年))
千島列島の気候は厳しく、風が強く非常に寒い冬が長く続く。夏は短く、霧がしばしば発生し、山には雪が残ることがある。年平均降水量は760mmから1000mmと多めで、ほとんどは雪である。温帯と亜寒帯にまたがる列島内では植生も異なり、北部ではツンドラ様の植生が、南部では深い針葉樹の森が見られる。境目は択捉島と得撫島(うるっぷとう)の間で、宮部金吾が唱えた分布境界線(宮部線)となる。 列島内の最高峰は最北端の島、阿頼度島の阿頼度山(親子場山、または阿頼度富士、ロシア名アライト山)で海抜は 2,339m。列島南部の国後島東端にある爺爺岳も 1,822mの高さを誇る。島々の風景は、砂浜、岩の多い海岸、断崖絶壁、流れの速い渓谷と下流では広くなる川、森林と草原、山頂部の荒野やツンドラ、泥炭地、カルデラ湖などが形成されており、手付かずの自然が残る島が多い。土壌は一般的に肥沃で、火山灰などが周期的に流入することや、海岸部での鳥の糞の堆積などによるものである。しかし険しく不安定な斜面は頻繁に土砂崩れを起こし、新たな火山活動によって裸地が広がっている。 生態系 列島周囲の海水は北太平洋でも最も魚の繁殖に適している。このため、動植物などあらゆる種の海洋生物からなる豊かな生態系が千島列島付近に存在できる。
千島列島の島のほとんどの沖合いは巨大な昆布の森に取り囲まれ、イカなど軟体生物やそれを捕食する魚、それを狙う海鳥など多くの生き物の暮らしの舞台になっている。さらに沖合いにはマス、タラ、カレイ、その他商業的価値の高い魚が多く泳いでいる。明治前後から日本の漁民の活動の場となってきたが、1980年代まではイワシが夏には山のように獲れていた。その後イワシは激減し、1993年を最後に水揚げされておらず、千島列島の漁村に打撃を与えている。またサケ類が千島列島の大きな島々で産卵し、周囲で捕獲される。
魚を求める哺乳類の巨大な生息地もある。アシカ、トド、オットセイがいくつかの小島に集まり、ロシアでも最大の生息地となっている。19世紀に1万頭いたオットセイは19世紀末には絶滅した。これと対照的に、アシカやトドは商業的狩猟の対象とならなかった。1960年代以来これらの狩猟の報告はなく、アシカやトドの生息は順調で、場所によっては増えている。クジラ類も多く、特にイシイルカ、シャチ、アカボウクジラ、ツチクジラ、マッコウクジラ、ミンククジラ、ナガスクジラなどが多く観測されている。ラッコも毛皮貿易のため19世紀に乱獲され、ラッコは急速に減少し、20世紀半ば以降ほとんど狩猟が禁止され、徐々に千島列島内での生息地が復活している。千島列島にはその他、数多くの種の海鳥が生息する。外敵のいない小島では、断崖の上などで多くの鳥が巣をつくり子育てを行っている。歴史 歴史をさかのぼれば、樺太(サハリン)および千島列島はアイヌ民族が住んでいました。 日本政府は、「日本はロシアより早くから北方領土の統治を行っており、ロシアが得撫島より南を支配したことは、太平洋戦争以前は一度もない」と主張しているが、実際には、1760年代にロシア人のイワン・チョールヌイが、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録が残されている。また、最上徳内が和人探検家として最初に択捉島を訪れた1780年代には、択捉島には3名のロシア人が居住し、アイヌの中にロシア正教を信仰する者がいたことが知られており、同時期、既にロシア人の足跡があったことも知られている。
江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷」と呼ばれていた。のちに明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称、日本語に樺太の地名が定着した。 全島をロシア連邦が実効支配しているものの旧ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本は択捉島以南(いわゆる北方領土)の領有権を主張するとともに、他の全島も国際法上領有権は未定と主張している。現在も北方四島はもちろん、得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡についても札幌国税局管内の根室税務署の管轄とされており、法制的には存続している。
1700年(元禄13年) – 松前藩は千島列島に居住するアイヌの戸籍(松前島郷帳)を作成し、幕府に提出 この郷帳には北海道からカムチャツカ半島までが記載されている。 1711年 – ロシアの囚人兵らがカムチャツカ半島から千島列島に侵攻 占守島ではアイヌとの交戦があったが、やがて降伏した。1713年には幌筵島が占領された。 1750年代 – ロシア人が得撫島に度々現れ、さらには北海道・霧多布にまで現れ交易を求める ロシア人の所持していた地図には国後島までがロシアの色で塗られ、これに対し松前藩の役人は抗議している。 1754年(宝暦4年) – 松前藩は国後場所を開き、国後島を直轄した 1766年(明和3年) – ロシア人が得撫島に居住を始め、現地のアイヌを使役しラッコ猟を行うようになる 1770年(明和7年) – 択捉島のアイヌがロシア人の目を避けて得撫島沖でラッコ猟を行っていたところをロシア人に発見され、逃亡したアイヌが襲撃される事件が起きる 1771年(明和8年) – アイヌが得撫島のロシア人を襲撃し、同島から追い出す 同年にはハンガリー人のアウリツィウス・アウグスト・ベニヨフスキーがロシア帝国による千島列島南下(南下政策)を警告、次第に幕府や学者は「北方」に対する国防を唱えるようになる 1786年(天明6年) – 幕府が最上徳内を派遣し、調査を実施 1798年(寛政10年) – 幕府による北方視察が大規模に実施された 1801年(享和元年) – 富山元十郎と深山宇平太を得撫島に派遣し、領有宣言を意味する「天長地久大日本属島」の標柱を建てる 。 この頃、蝦夷地の経営を強化していた日本とロシアの間で、樺太とともに国境画定が問題化してくる。得撫島には既に17人のロシア人が居住していたが、幕府は積極的な退去政策を行わなかった。 1855(安政元)年、日本とロシア帝国は日露和親条約 (下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされた。 1856(安政2)年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるいは、ウルップ島からオネコタン島までの千島列島と交換に樺太をロシア領とすることを建言した。幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、 1867年石川利政・小出秀実をペテルブルグに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太は是迄通りとされた(日露間樺太島仮規則)。 1869(明治2)年、蝦夷地を北海道 と改称。このとき国後島・択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし五郡を置いた。国後島・択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北であるからである。 1874(明治7)年3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりにウルップ島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴いた。榎本とスツレモーホフ(Stremoukhohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gif)ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められた。 1875(明治8)年5月7日に日本とロシア帝国との間で「樺太・千島交換条約」 を結び、国境を確定した。 その結果、樺太での日本の権益を放棄するかわりに、得撫島(ウルップ島)以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた。 1945(昭和20)年2月、ソ連のヤルタで米・英・ソ首脳が会談(ヤルタ会談 )。ここで、戦勝国間で、いずれ敗戦する戦勝権益の分割が話し合われた。日本を早期に敗北に追い込むため、ドイツ降伏の2ないし3か月後にソ連が対日参戦する見返りとして、日本の敗北後、南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡すべきとした。(ヤルタ協定 )。 8月8日、ヤルタ協定通り、ソ連は日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告。8月14日、御前会議にて、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言 )の受諾を決定、連合国にポツダム宣言受諾を通告。9月2日、日本は連合国が作成した降伏文書(ソ連も当然、当事国として署名した)に調印した。同時に一般命令第一号(陸、海軍)では、満洲、北緯38度線以北の朝鮮、南樺太・千島諸島に在る日本国先任指揮官ならびに一切の陸上、海上、航空及補助部隊は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏すべきこととした。 8月11日に国境を侵犯し南樺太に侵攻したソ連第二極東軍部隊は、8月25日に南樺太を占領。すでに、千島列島をソ連が占領することを、トルーマンと合意が取れていたので、8月28日から9月1日までに、北方領土の択捉・国後・色丹島を占領、9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領した。なお、8月18日にカムチャツカ半島方面より千島列島に侵入した第一極東軍部隊は、8月31日までに得撫島以北の北千島を占領している。9月2日に日本が降伏文書に署名し、戦争が正式に終結するまでにソ連軍は満州国(中国東北部)や朝鮮半島北部、南樺太(サハリン南部)や千島列島全域、北方領土を占領した。日本は、この侵攻が日ソ中立条約の残存期間中に行われたと主張した。一方ソ連は、1941年7月7日の関東軍特種演習により日ソ中立条約は事実上失効しており、法的には問題ないと主張した。 1946(昭和21)年1月29日、GHQ指令第677号により、沖縄や小笠原・竹島・南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が中止された。国後、択捉両島は千島の中に含まれるものとして、日本政府の政治上、行政上の権力行使の外におかれることになった。2月2日、ソ連は南樺太・千島を自国領に編入した。 しかし、国後島・択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北である。ソ連は国後島・択捉島など4島も千島列島に含まれると主張している。 北方領土には日本国民は約1万7千人住んでいたが、占領当初は、日本国民の本国帰還は認められなかった。 1946年12月、GHQとソ連との間で日本国民全員の引き上げが合意されると、1949年7月までにほぼ全員の日本国民が帰国した。しかし、GHQ指令によって日本国籍を離脱していた朝鮮人はその後も帰還することができず、多くはサハリン(樺太)に移住した。 1948年に日ソ間の民間貿易協定が結ばれて、ソ連が併合を宣言した樺太(サハリン)や千島(クリル)列島などの日本人島民や、満州や朝鮮半島に取り残された居留民、さらにシベリア抑留をされた日本軍将兵を日本に送還する事業は続けられたが、両国間の継続的な外交関係は築かれないままだった。 政治的混乱が一応収束し、日本と連合国との間の平和条約締結が政治的課題になると、日本国内ではアメリカを中心とする資本主義諸国との単独講和か、ソ連などの社会主義諸国も含んだ全面講和かという論争が起こったが、親米路線の吉田茂首相は単独講和路線を採用した。一方、ソ連は1950年2月14日に、国共内戦に勝利して中国大陸を新たに支配した中華人民共和国との間に中ソ友好同盟相互援助条約を締結したが、この中で日本軍国主義復活への反対を明記した事で、日本政府の対ソ感情はますます悪化した。これは同年6月25日勃発の朝鮮戦争で日本がアメリカ軍(国連軍)の後方支援基地となり、ソ連が中国を通じて間接的に参戦した(全面的な軍事援助、空軍兵士の参戦)事でさらにこじれた。また、ソ連がシベリア抑留者の一部を戦争犯罪者として裁き、ソ連国内で服役させた事や、日本政府とアメリカ占領当局がレッドパージにより日本共産党を弾圧し、事実上非合法化したというそれぞれの国内事情も、関係正常化の阻害要因となった。
1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約が締結され、日本と連合国との戦争状態は正式に終結したが、講和会議に中国の代表として中華人民共和国を招請しなかった事に反発するソ連は、会議には出席したものの、条約調印は拒否した。そのため、1952年4月28日の条約発効とともに対日理事会が消滅した後は、日ソ両国の接点は失われた。 1956年10月12日、鳩山首相は河野農相などの随行団と共にモスクワを訪問し、フルシチョフ第一書記などとの首脳会談が続けられた。焦点の北方領土問題は、まず国交回復を先行させ、平和条約締結後にソ連が歯舞群島と色丹島を引き渡すという前提で、改めて平和条約の交渉を行うという合意がなされた。 同年10月19日に日本とソビエト連邦がモスクワにおいて鳩山首相とソ連のブルガーニン首相が共同宣言に署名し、国会承認をへて、同年12月12日に「日ソ共同宣言」を発効した。外交文書(条約)。これにより両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされた。日ソ国交回復共同宣言ともいわれる。 しかし、平和条約の締結交渉は、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島返還で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、開始が延期された。 1957(昭和32)年、ソ連国境警備隊が貝殻島に上陸。日本は日米安保条約下にあったが、このとき米軍は一切出動しなかった。 1960(昭和35)年、岸信介内閣が日米安全保障条約改定を行った事に対してソビエトが反発。ソ連は、歯舞群島と色丹島の引き渡しは「両国間の友好関係に基づいた、本来ソビエト領である同地域の引き渡し」とし、引き渡しに条件(外国軍隊の日本からの撤退)を付けることを主張する。日本政府は、共同宣言調印時には既に日米安保があったとして反論。 1973(昭和48)年、田中・ブレジネフ会談。日ソ間の諸問題を解決した後、平和条約を締結することが合意された。(日ソ共同声明 )いわゆる北方領土問題では、この条約での「千島列島」の範囲が争点の一つになることがある。1855(安政元)年、日本とロシア帝国は、「日露和親条約(下田条約)」で日本は千島列島を放棄したが、放棄した千島列島に北方四島は含まれないと説明される。その根拠に、のちの1869(明治2)年、「樺太・千島交換条約」第二款では、千島列島(クリル列島)とカムチャッカ半島南のシュムシュ島からウルップ島18島とされていることがあげられる。
フランス語正文では、『現在自ら(ロシア)所有するところのクリル諸島のグループ』と書かれているが、日本語訳文では『現今所領「クリル」群島』と訳されており、『グループ』に対応する語が欠落している。そして、日本語誤訳には、フランス語正文に無い『而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ』の句が挿入されている。これは、条約として効力の無い日本語訳文の誤訳をもとにしており、フランス語正文からはこのような解釈は成り立たないとしている。しかし、千島18島に4島は含まれないのは樺太・千島交換条約で明白である。 現在、日本の国会に議席を持っている政党の中で日本共産党はこの樺太・千島交換条約を根拠にしてウルップ島以北を含めた全千島の返還をソビエト連邦および現在のロシア連邦に要求している。
ロシア(ソ連)側から見れば、大戦当時ソ連・アメリカ・イギリス・中国は連合国であり、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国とは敵対していた。枢軸国のイタリアやドイツが降伏した後、ソ連は連合国の求めに応じて対日参戦した。ヤルタ会談で千島・南樺太の割譲は米英ソの三者で合意されているし、ソ連も参加しているポツダム宣言を日本は無条件で受け入れている。平和条約の締結こそしていないがロシアは占領地区を既に自国へ編入している。そもそもサンフランシスコ条約で日本はクリル列島を放棄しており、クリル列島には、択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島が含まれる(色丹・歯舞を合わせて小クリル列島といい、占守島から国後島までを大クリル列島と言う。小クリル列島と大クリル列島を合わせてクリル列島と言う)。ロシア側が北方領土の日本返還を認めない理由としてはいくつか考えられるが、まず大きなものとして、ロシア側から見た場合、北方領土問題が解決されていない現在でも日ロ間の経済的交流は進んでおり、わざわざ国民の不評を買うであろう領土の引渡しを行ってまで日本サイドに譲歩する必要性を感じていないということが挙げられる。また、地政学的に見れば、宗谷海峡(ラペルーズ海峡)、根室海峡(クナシルスキー海峡)をふくめ、ソ連はオホーツク海への出入り口をすべて監視下に置いており、事実上そこから米軍を締め出すことに成功しているが、国後・択捉両島を返還してしまえば、国後・択捉間の国後水道(エカチェリーナ海峡)の統括権を失い、オホーツク海に米軍を自由に出入りさせられるようになってしまう。国後水道は、ロシア海軍が冬季に安全に太平洋に出る上での極めて重要なルートでもあり、これが米国(の同盟国である日本)の影響下に入ることは安全保障上の大きな損失となる。
2.竹島問題竹島(たけしま)は、北緯37度15分、東経131度52分の日本海にある島。日本領・隠岐と竹島の距離は両島の一番近いところで約157km、韓国領・鬱陵島と竹島の距離は両島の一番近いところで約87kmである。
竹島が発見された正確な年月は不明ですが、遅くとも江戸時代初期には日本人に知られていました。その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)に鬱陵島(当時の竹島)への渡航を禁じましたが、松島(こんにちの竹島・韓国名・独島)については渡航を禁じませんでした。その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)に鬱陵島への渡航を禁じましたが、松島(こんにちの竹島)については渡航を禁じませんでした。天保年間(1836年)に浜田の今津屋八右衛門という人が禁令を破って鬱陵島へ行った廉で処罰されましたが、その裁判記録中には、松島へ行く名目で渡海したとあります。松島の知見は、書物や地図に記録され江戸時代を通じて維持されました。明治時代に入り、日本人による鬱陵島への渡航が再び始まりました。多くの漁民が鬱陵島に行くようになり、その途中竹島に寄港していました。明治20年代の終わりごろからは隠岐の島民たちが竹島でアワビ、アシカ等の漁猟に従事していました。
明治37年(1904年)隠岐島の住人中井養三郎という人が、竹島においてアシカ猟を行うため政府に竹島の領土編入及び貸与を願い出ました。これに対して政府は明治38年(1905年)1月28日の閣議において同島を正式に竹島と命名し、本邦所属、島根県隠岐島司の所管とする旨決定しました。これに基づいて、島根県知事は同年2月22日付けの島根県告示第40号をもってその内容を公示しました。さらに、同年には隠岐国四郡の官有地台帳への登録、漁業取締規則によるアシカ漁業の許可、仮設望楼の設置、知事の視察、また翌39年には島根県第3部長らの現地実態調査が行われ、その後も漁業者への官有地の貸付と使用料の徴収など、行政権の行使が継続して行われました。国際法上領土取得の要件は、国家による当該土地の実効的な占有です。日本は竹島に対して歴史的な権原をもっていましたが、20世紀以降の措置によって近代国際法上の要件も完全に充足されました。
島根県竹島資料室によると、「朝鮮国江御渡」という記述を含む触書は、幕府や諸藩の記録に残っており、韓国メディアが現在の竹島(韓国名・独島)と取り違えて報道するケースがあるという。 竹島は、国際法に照らしてもわが国固有の領土であることは明らかです。
(島根県)
1952年、当時の大韓民国(以下、韓国)大統領李承晩が自国の支配下にあると一方的に宣言し、現在も韓国側が武力による占有をしているため、日本との間で領土問題が起きている。 日本の行政区画は島根県隠岐郡隠岐の島町(郵便番号は685-0000)。韓国、北朝鮮側では独島(獨島、ドクド、Dokdo)と呼称し、その行政区画は、慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑獨島里となっている。現在、韓国海洋警察庁を傘下にもつ大韓民国海洋水産部の管理下にあり、韓国・北朝鮮は自国の最東端の領土であるとしているが、日本は国際法上適法な日本固有の領土であるとしている。
経 緯
3.尖閣諸島尖閣(せんかく)諸島は、1885(明治18)年以降、政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものである。
同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、1895(明治28)年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない。
従って、サン・フランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は、同条約第2条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず、第3条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ、1971(昭和46)年6月17日、署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還された地域の中に含まれている。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明瞭に示すものだ。
なお、中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し従来何等異議を唱えなかったことからも明らかであり、中華人民共和国政府の場合も台湾当局の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至ったものだ。
また、従来中華人民共和国政府及び台湾当局がいわゆる歴史的、地理的ないし地質的根拠等として挙げている諸点はいずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とはいえない。
出典: 外務省、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他
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