小五郎但馬に潜む 学校で教えてくれなかった近現代史(17)

開国攘夷に傾く

蛤御門の変(禁門の変)が起きる2年前の文久2年(1862年)、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、これまで通り練兵館塾頭をこなしつつも、常に時代の最先端を吸収していくことを心掛ける。

兵学家で幕府代官江川太郎左衛門から西洋兵学・小銃術・砲台築造術を学ぶ
浦賀奉行支配組与力の中島三郎助から造船術を学ぶ
江戸幕府海防掛本多越中守の家来高崎伝蔵からスクネール式洋式帆船造船術を学ぶ
長州藩士手塚律蔵から英語を学ぶ
文久2年(1862年)、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、周布政之助、久坂玄瑞(義助)たちと共に、吉田松陰の航海雄略論を採用し、長州藩大目付長井雅楽の幕府にのみ都合のよい航海遠略策を退ける。このため、長州藩要路の藩論は開国攘夷に決定付けられる。同時に、異勅屈服開港しながらの鎖港鎖国攘夷という幕府の路線は論外として退けられる。

欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行という基本方針が長州藩開明派上層部において文久2年から文久3年の春にかけて定着し、文久3年(1863年)5月8日、長州藩から英国への秘密留学生五名が横浜から出帆する(日付は、山尾庸三の日記による)。

この長州五傑と呼ばれる秘密留学生5名、すなわち、井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)。山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の留学が藩の公費で可能となったのは、周布政之助が留学希望の小五郎を藩中枢に引き上げ、オランダ語や英語に通じている村田蔵六(大村益次郎)を小五郎が藩中枢に引き上げ、開明派で藩中枢が形成されていたことによる。この時点で小五郎は、長州藩急進派の尊皇攘夷派とは一線をかして西洋に学び開国しても同時に富国しなければならないと思っていたところが、龍馬などと世界観が合致していたのだろう。

八月十八日の政変

江戸時代末期の文久3年八月十八日(1863年9月30日)に中川宮朝彦親王や薩摩藩・会津藩などの公武合体派が長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都における政治の中枢から追放した政変である。

尊攘派の長州藩と公家は、大和行幸の機会に攘夷の実行を幕府将軍及び諸大名に命ずる事を孝明天皇に献策しようとした。徳川幕府がこれに従わなければ長州藩は錦の御旗を関東に進めて徳川政権を一挙に葬ることも視野に入れたものだった。しかし、事前に薩摩藩(当時は長州藩と対立)に察知され、薩摩藩や藩主松平容保が京都守護職を務める会津藩、尊攘派の振る舞いを快く思っていなかった孝明天皇や公武合体派の公家は連帯してこの計画を潰し、朝廷における尊攘派一掃を画策した。

文久3(1863)年8月18日、会津・薩摩などの藩兵が御所九門の警護を行う中、公武合体派の中川宮朝彦親王や近衛忠熙・近衛忠房父子らを参内させ、尊攘派公家や長州藩主毛利敬親・定広父子の処罰等を決議。長州藩兵は、堺町御門の警備を免ぜられ京都を追われた。またこの時、朝廷を追放された攘夷派の三条実美・沢宣嘉ら公家7人も長州藩兵と共に落ち延びた(七卿落ち)。

これによってこれまで京都政界を掌握してきた長州などの尊攘派が京都政界から追放された。後に池田屋事件や禁門の変が起こるきっかけにもなった出来事であった。
蛤御門の変(禁門の変)


光村推古書院

八月十八日の政変の不当性が認められない上、池田屋事件まで起こされた長州藩は、小五郎や周布政之助・高杉晋作たちの反対にもかかわらず、先発隊約300名が率兵上洛し、蛤御門の変(禁門の変)を敢行するが、結局失敗に終わる。

このとき小五郎は、幕府寄りの因州藩を説得し長州陣営に引き込もうと目論み、因州藩が警護に当たっていた猿が辻の有栖川宮邸に赴いて、同藩の尊攘派有力者である河田景与と談判する。しかし河田は時期尚早として応じず、説得を断念した小五郎は一人で孝明天皇が御所から避難する所を直訴に及ぼうと待った。

しかしこれもかなわず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りながら、潜伏生活に入る。会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくると、但馬出石に潜伏する。

桂小五郎、最大の危機 久畑関所

元治元(1864)年八月二十日の蛤御門の変(禁門の変)で危険を感じた小五郎は、幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りながら、潜伏生活に入る。しかし、会津藩など幕府方による長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくるから逃れるため、桂小五郎(木戸孝允)が懇意にしていた対馬藩邸出入りで知っていた但馬出石出身の商人・広戸甚助に彼の生国但馬へ逃れ、時の到るのを待つことを告げたところ、甚助は快く受け、その夜直ちに幕府方から逃れるために変装して、船頭姿となり甚助と共にひそかに京の都を出を脱出した。

京街道(山陰道)の諸藩の関所をくくり抜けながら、福知山から出石に抜ける京街道(現在の国道426号線)を通り、もう少しで但馬出石城下に入る高橋村(但東町)久畑にある出石藩久畑関所で、船頭を名乗る男(小五郎)が厳しい取り調べを受けた。小五郎、最大の危機である。

しかし、出石藩は幕府寄りの藩であり、長州人逮捕の命令が出ていたほどで、調べに当たったのは出石藩の役人、長岡市兵衛と高岡十左衛門。同藩は蛤御門の変でも出陣しており、その知らせを受け、都からの脱出者を警戒していた。都の方向から来た船頭は、居組村(現在の浜坂町)生まれの卯右衛門と名乗りった。だが、言葉に但馬なまりが少しもない。「大坂に長くいたからだ」と言うが、上方なまりもない。疑うほどに、船頭の顔が武士のように見えてくる。

そこへ「はぐれたと思ったら先に来ていたのか」と、一人の男が駆け込んできた。広戸甚助である。甚助は「卯右衛門は自分が雇っている船頭で、上方から連れてきた。まさか自分のような道楽者に謀反人の知人などいるわけがないでしょう」とおどけて答えた。甚助と顔見知りだった長岡らはこの言葉を信じ、船頭を解放したのである。
後に木戸の子孫もこの関所跡を訪れ、感慨に浸ったというほど、人生最大の危機だった。もし甚助の助けがなかったら…。ここで維新の歴史が“変わった”かもしれない。

但馬潜伏期間

  
桂小五郎潜居跡(豊岡市出石町魚屋)

桂は但馬出石(兵庫県)に潜伏していた。しかし、長州討つべしとの命が下り、幕府寄りの出石藩・豊岡藩は、長州人逮捕の警戒を強めていたので出石の城下に滞在するには危険な場所でした。潜伏を始めて2ヵ月後、とうとう会津藩の追っ手が出石にやって来たのです。「さあ、逃げろ!」と出石より北にある広戸家の菩提寺でもある兵庫県養父郡の西念寺という寺に潜伏場所を移した。城崎温泉の旅館にも住み込みで働いたり場所を幾度も変更したそうである。

更に今度は「寺に隠れるなど、あまりにも一般的。もっと見つかりにくい場所を」 ということで、一般の町家に潜伏先を移しました。そのひとつが豊岡藩の城崎温泉(きのさきおんせん)でした。大勢の湯治客の中に紛れ込めるので安全と考えたのでしょう。小五郎はその年の9月に城崎を訪れ、広戸甚助の顔がきく『松本屋』に逗留しました。ここには当時“たき”という一人娘がおり、桂の境遇を憐れんで親身に世話をしたといいます。

小五郎は城崎温泉に入って心身を休めましたが、当時の城崎には各旅館に内湯はなく、「御所の湯」「まんだら湯」「一の湯」の3つの外湯があるに過ぎませんでした。城崎最古の源泉地「鴻の湯」は当時浴場としては使用されていなかったといいますうから、小五郎が入ったのも3つのうちのどれかでしょう。ちなみに、現在は全部で7つの外湯がありますが、温泉街全体で源泉を集中管理し供給しているため、泉質はすべて同じものだそうです。

10月、小五郎は一旦出石に戻り、荒物商(雑貨屋)になりすまして再起の時を待ったといいます。明けて慶応元年(1865)3月、再び城崎を訪れました。泊まったのはやはり『松本屋』で、長州再興し幕府と戦うに当り、桂を探し長州藩の大勢を告げ帰藩を望みました。愛人幾松も長州より城崎湯島の里へ尋ねて来ました。共に泊って入浴し1ヶ月ほど滞在したのちに大坂へ出て海路長州へ戻りました。長州に帰り木戸孝允と改名します。当時桂は33才でした。一人娘“たき”は小五郎の身のまわりの世話をしているうちに身重となったが、流産したといいます。その心境はいかばかりであったでしょうか。

小五郎が滞在した部屋には「朝霧の 晴れ間はさらに 富士の山」と墨で落書きされた板戸が残されていましたが、大正14年の北但大震災で温泉街もろとも焼失してしまいました。現在、館内に展示されている掛け軸や書状は広戸氏の関係者等から譲り受けたものといわれています。建物は震災で焼けた後の昭和初期に再建されたものですが、小五郎が使った2階の部屋は「桂の間」として再現されています。昭和41年春、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』の取材と執筆のために訪れ、この部屋に泊まっています。

温泉街の西側、外湯のひとつ御所の湯の向かいに「維新史跡・木戸松菊公遺蹟」と刻まれた1本の碑が立っています。“木戸松菊”とは桂小五郎の変名です。
ここが幕末に桂小五郎が身を隠していた宿『松本屋』で、現在は『つたや』兵庫県豊岡市城崎町湯島485と名を変えて営業されいます。

城崎での潜伏は短く、再び出石に戻ってきます。しかし、出石藩は禁門の変で兵を出したとおり幕府方で長州人逮捕の命令が出ていたほどで、出石の城下に滞在するには危険な場所でした。幕吏の追手が出石にまで伸びてきたため何度か潜伏場所を変えました。まずは広戸の両親の家に世話になり、次に番頭も丁稚もいない荒物屋を開業しました。 つまり商人に成りすまして潜伏したわけです。

出石潜伏期間の約10ヶ月の間に出石だけで7箇所以上潜伏先を移り変わりました。荒物屋にはひとりの女性がおり、前述の出石藩広戸甚助の妹で“八重”と言いました。桂は商売が出来るわけでなく、商売自身は八重が行いました。当然、桂の身の回りの世話もです。こういった、広戸一家の献身的な世話で、毎日を過ごしたようです。潜伏の毎日で、桂はやりきれない思いだったのかというと、案外そうではなかったようです。潜伏中の桂は、子供の手習いや、好きな碁を打ったり、また賭博にもはまり、結構借金を作ったとも言われています。

慶応元年(1865年)2月、広戸が京都から幾松を連れて出石へ帰ってきました。幾松からエネルギーをもらい、またそのころ長州藩でも奇兵隊が立ち上がって尊王攘夷派が盛り返すというニュースも入ってきたため、再び気合が入った桂は、幾松を連れて出石を離れ長州へ帰っていったのです。

広戸の妹八重は、桂の帰郷をさぞ悲しく思ったことでしょう。小五郎が京都から逃れ潜んでいたといわれる出石の住居跡に現在は記念碑が残されています。

しかし、どこにいても女性の話がついてまわります。かなりの男前でモテ男だったようだ。
その後、小五郎は薩摩の西郷隆盛と薩長同盟を結び倒幕へと奔走します。

維新後は木戸孝允と名を改め、五箇条の誓文の原案を作成。版籍奉還、廃藩置県など、明治の時代の基礎を固め新しい時代をつくっていきました。倒幕を果たし、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれるようになりました。

戊辰戦争終了の明治2年(1868年)、腹心の大村益次郎と共に東京招魂社(靖国神社の前身)の建立に尽力し、近代国家建設のための戦いに命を捧げた同志たちを改めて追悼・顕彰しました。

なぜ但馬に逃れたのか

しかし、ここで不思議に思うことは、小五郎はなぜ但馬に逃れようと思ったのかである。出石藩・豊岡藩は幕府寄りの藩であり、丹波も幕府よりの藩ばかりで禁門の変では幕府方で禁裏警護の配備図を見ても、長州藩邸の周囲には東海道入口に篠山藩、大原口に出石藩、鞍馬口に因州(因幡)藩、鳥羽伏見には園部藩が山崎には宮津藩、丹波街道には亀山(亀岡)藩が配備についている。丹波や但馬・因幡の諸国を通過するのは火の中に飛び込むようなものだ。というか朝敵とみなされた長州以外はすべて敵で長州人逮捕の命令が出ていたからである。当然小五郎が幕府寄りの出石へ逃亡するなどわざわざ捕まりにいくようなものだ。

小五郎はひとまず、長州へ帰り藩の意志を固めようとしたのではないだろうか。往来が盛んで取締りが厳しい瀬戸内海や山陽道を避けて、山陰道を選んだのではないか。そこで知り合いの但馬出石出身の商人・広戸甚助に彼の生国但馬へ逃れ、時の到るのを待って長州へ帰ろうと考えたのではないか。

但東町の京街道

武知憲男氏が『但東町の京街道』と題して『但馬史研究 第24号』に投稿されているので参考にする。

兵庫県豊岡市但東町は、兵庫県は地図でタコのように見えますが、ちょうど口の様に見える場所が但東町です。出石川の上流に位置し、下流以外は山に囲まれ、西以外の三方は京都府と接している。従って、丹波街道・成相道(巡礼道)・丹後道などと呼んでいる峠道が幾つもあり、その一つが出石より福知山・京都へ通じる京街道である。また明石の真北に位置するため東経135度の子午線(日本標準時)が通過している。

江戸時代、出石藩参勤交代の重要な街道であり、現在も国道426号線として、但馬の経済・文化の交流に大きな役割を果たしている。

京街道は、江戸時代では最も新しい文化十二年(1815)以降のことが記されている『出石藩御用部屋日記』によると京街道は、福知山(上川口)から登尾峠-久畑関所-小谷-出合-矢根-寺坂-鯵山峠(県道253)-谷山-(出石高校)-出石城下への旧道だろうと思われる。久畑関所跡横には村の鎮守一宮神社がある。但馬一宮は出石神社で一宮ではないのになぜ一宮神社なのか不思議に思っていたが、登尾峠の反対側の京都府佐々木の次に一の宮集落があるので久畑の村人が分社されたのではないだろうか。

武知憲男氏によると京街道を記す道標が残っているそうだ。小谷には「左たんご、くみはま道」と石仏の道標があり、右は判別できないが「右京道」であろう。小谷も「茶屋地」の小字名が残り、矢根や南尾、久畑同様に宿屋・茶屋の屋号が残る。登尾橋の手前に「右京都。左志ゅん連い道(巡礼道・宮津成相山)」の道標が立つ。左は薬王寺で大生部兵主神社があり、交通の要所であっただろうが、かつては旧道で難所だったに違いない。また機会があったら探してみたい。

参考:神戸新聞・城崎温泉観光協会・松本屋
参考資料:『京都時代MAP 幕末・維新編』 光村推古書院

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【但馬の歴史】 幕末の但馬(2) 生野の変

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江戸時代後期の文久3年(1863年)10月に但馬国生野(兵庫県生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件が起きました。「生野の乱」、「生野義挙」とも言います。
1716年(享保元)、生野奉行を生野代官と改称します。但馬は石見・佐渡と並ぶ幕府の三大鉱山として栄えた生野銀山を筆頭に、明延、神子畑、中瀬、阿瀬等の金・銀などを産出する鉱山が各所にあったことからも幕府直轄領(天領)が多くありました。

1735年(享保20)、久美浜に代官所が置かれ、丹後西部(京都府北部)・但馬(兵庫県北部)の大半は久美浜代官所の管轄で幕府直轄領(天領)でした。久美浜湾は、船見番所が置かれ諸国の廻船や御城米入津のときの改めなどを行っていました。享保16年(1731)より、湊宮陣屋での仕事が始まり、さらに京や大坂への陸上輸送に便利なところが必要となり、海を生かしながら陸上輸送に便利な久美浜に代官所が移されました。(久美浜小学校付近)。福岡脱藩士 平野国臣は、攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や久留米の勤王志士真木和泉、清河八郎(将軍家茂警護役・浪士隊(のちの新選組)の進言者)ら志士と親交をもち、討幕論を広めました。

文久2年(1862年)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかるが寺田屋事件で失敗し投獄されます。出獄後の文久3年(1863年)に三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と天皇の大和行幸を画策します。大和国での天誅組の制止を命じられますが、その前日、天誅組は大和国五条天領の代官所を襲撃して挙兵。さらに八月十八日の政変で会津藩と薩摩藩が結託して政変を起こし、長州藩を退去させ、三条ら攘夷派公卿を追放してしまったのです。

平野は急ぎ京へ戻りますが、すでに京の攘夷派は壊滅状態になっていました。国臣は未だ大和で戦っている天誅組と呼応すべく画策。長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、但馬に入った平野らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、長州国三田尻へ赴き、長州藩に庇護されていた攘夷派公卿沢宣嘉を主将に迎この時点で天誅組は壊滅しており、国臣は挙兵の中止を主張すますが、天誅組の仇を討つべしとの強硬派に押されて挙兵に踏み切りました。

文久3年(1863年)8月、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石ら尊攘派浪士の天誅組は孝明天皇の大和行幸の魁たらんと欲し、前侍従中山忠光を擁して大和国へ入り、8月17日に五条代官所を襲撃して挙兵した。代官所を占拠した天誅組は「御政府」を称して、五条天領を天朝直轄地と定めました(天誅組の変)。

天誅組の過激な行動を危惧した公卿三条実美は暴発を制止するべく、学習院出仕の平野国臣(福岡脱藩)を五条へ送りました。その直後の8月18日、政局は一変します。会津藩と薩摩藩が結んで孝明天皇を動かし、大和行幸の延期と長州藩の御門警護を解任してしまいます(八月十八日の政変)。情勢が不利になった長州藩は京都を退去し、三条実美ら攘夷派公卿7人も追放されました(七卿落ち)。

変事を知らない平野は19日に五条に到着して、天誅組首脳と会って意気投合しますが、その直後に京で政局が一変してしまったことを知り、平野は巻き返しを図るべく大和国を去りました。天誅組は十津川郷士を募兵して1000人余の兵力になりますが、装備は貧弱なものだった。高取城攻略を図るが失敗し、9月に入って周辺諸藩からの討伐を受け、多勢に無勢で各地で敗退し、9月27日に壊滅しました。

攘夷派による天誅組の変が勃発し、続いて但馬では沢宣嘉(前年京都から追放された七卿の一人)・平野国臣(福岡藩士)らによる生野の変が連鎖的に発生しました。これらの事件は倒幕を目的とした最初の軍事的行動として、後世から見た歴史的な意味は大きいものの、この時点では無残な結末となりました。天誅組の挙兵は失敗しましたが、この事件は明治維新の導火線になったと評価されています。

但馬の国は、小藩の豊岡藩、出石藩以外は天領が多くを占めていました。同国の生野銀山は佐渡、石見とともに当時三大鉱山として有名でした。

しかし、幕末の頃には産出量が減少し、山間部のこの土地の住民は困窮していました。このように全国各地で260年間続いた藩幕体制は崩壊に向かっていきました。明治維新期の日本の人口は、3330万人。

生野天領では豪農の北垣晋太郎(のちの国道)が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱え、生野代官の川上猪太郎がこの動きに好意的なこともあって、攘夷の気風が強かった。薩摩脱藩の美玉三平(寺田屋事件で逃亡)は北垣と連携し、農兵の組織化を図っていました。

平野国臣は長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、生野での挙兵を計画。但馬に入った平野らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、長州三田尻に保護されている攘夷派七卿の誰かを迎え、また武器弾薬を長州から提供させる手はずを決定する。  28日に平野と北垣は長州三田尻に入り、七卿や藩主世子毛利定広を交えた会合を持ち、公卿沢宣嘉を主将に迎え、元奇兵隊総管河上弥市ら30数人の浪士とともに生野に入りました。平野らは更に藩としての挙兵への同調を求めますが、藩首脳部は消極的でした。

10月2日、平野と北垣は沢とともに三田尻を出立して船を用意し、河上弥市(元奇兵隊総管)ら尊攘浪士を加えた37人が出港した。10月8日に一行は播磨国に上陸、生野へ向かいました。一行は11日に生野の手前の延応寺に本陣を置きました。この時点で大和の天誅組は壊滅しており、挙兵中止も議論され、平野は中止を主張しますが、天誅組の復讐をすべしとの河上ら強硬派が勝ち、挙兵は決行されることになりました。播磨口の番所は彼らを穏便に通し、12日未明に生野に入りました。生野代官所は彼らの動きを当然察知していましたが、代官の川上猪太郎が出張中なこともあり、代官所を無抵抗で平野らへ明け渡しました。藩と違い、天領の代官所は広い地域を支配している割には軍備が手薄であり、天誅組の挙兵の際も五条代官所は40人程の浪士に占領されています。

平野、北垣らは「当役所」の名で沢宣嘉の告諭文を発して、天領一帯に募兵を呼びかけ、かねてより北垣が「農兵論」を唱えていたこともあり、その日正午には2000人もの農民が生野の町に群集しました。しかし、天誅組の変の直後とあって、幕府側の動きは早く、代官所留守から通報を受けるや豊岡藩、出石藩、姫路藩が動き、挙兵の翌13日には出石藩兵900人と姫路藩兵1000人が生野へ出動しています。諸藩の素早い動きに対して、浪士たちからは早くも解散説が持ち上がりました。強硬論の平野、河上らに圧されて解散は思いとどまりますが、13日夜に肝心の主将の沢宣嘉が解散派とともに本陣から脱走してしまいました。集まった農民たちは動揺します。<

妙見山(養父市)に布陣していた河上は生野の町で闘死しようとしますますが、騙されたと怒った農民たちが「偽浪士」と罵って彼らに襲いかかりました。河上ら13人の浪士は妙見山に戻って自刃して果ています。美玉三平と中島太郎兵衛は農民に襲撃され射殺されました。平野は兵を解散させると鳥取へ向かったが捕らえられ、京の六角獄舎へ送られます。その他の浪士たちも戦死、逃亡、捕縛されました。

生野での挙兵はあっけなく失敗しましたが、この挙兵は天誅組の挙兵(天誅組の変)とともに明治維新の導火線となったと評価されています。

10月12日に生野代官所は無抵抗で降服。農民に募兵を呼びかけて2000人が集まり意気を挙げました。しかし、幕府の対応は早く、翌日には豊岡藩・姫路藩など周辺諸藩が兵を出動させました。浪士たちは浮足立ち、早くも解散が論ぜられ、13日の夜に主将の沢が逃げ出してしまいました。農民たちは騙されたと怒り、国臣らを「偽浪士」と罵って襲いかかった。国臣は兵を解散して鳥取への脱出を図りますが、豊岡藩兵に捕縛され、京へ護送され六角獄舎に預けられていましたが、禁門の変の際に生じた火災(どんどん焼け)は京都市中に広く延焼。獄舎に火が及び、囚人が脱走して治安を乱すことを恐れた京都所司代配下の役人が囚人の処刑を決断。他の30名以上の囚人とともに斬首されました。享年37。

平野国臣は明治24年(1891年)、正四位を贈られています。福岡市中央区の西公園に銅像が、京都市上京区の竹林寺に墓がある。同じく、京都霊山護国神社にも墓碑および石碑が建立されています<

北垣は、青谿書院で同期の原六郎(初名は進藤俊三郎。但馬国佐曩村(現・兵庫県朝来市)出身)とともに生野の変に参戦するが長州へ亡命。進藤は鳥取に逃れ、名を原六郎と改める。1863年、時代は明治へ入る。

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【但馬の歴史】 幕末の但馬(1) 池田草庵と青谿書院(せいけいしょいん)

池田草庵と青谿書院(せいけいしょいん)


文化10年7月23日、兵庫県養父市八鹿町宿南に生まれる。青谿書院を開き、子弟教育に励む。但馬聖人と呼ばれた。

●生い立ち

但馬の生んだ偉大な儒学者(中国の古典を研究する人)であり、教育者の池田草庵は養父市八鹿町宿南に文化10年(1813)7月23日に生まれました。池田家はもともと旧家で、村三役(庄屋・組頭・百姓代)の組頭の孫左衛門の三男として生まれ、名を禎蔵といいました。
草庵10歳の時、母が亡くなり、兵庫県養父郡広谷十二所の満福寺にあずけ、僧侶としての修行を積ませることにしました。翌年には父も亡くなりました。住職の不虚上人(ふきょしょうにん)の熱心な指導により、草庵は寺一番の高弟と認められるようになりました。  しかし、天保2年草庵19歳の時、たまたま養父町を訪れた儒学者・相馬九方(そうまきゅうほう)の教えを受け、儒学を志す決心をし、不虚上人の許しのないまま寺を出てしまいました。のちにこの不義理な行動を深く反省し、絵師に「満福寺出奔図」を描かせ、掛け軸として生涯部屋にかけて自らの戒めとしたといいます。

京都へ行った草庵は相馬九方に入門。儒学の他、朱子学、陽明学の哲学を勉強し続けました。自信を得た草庵は、京都一条坊に塾を開きました。草庵の学問や人格の立派なことが故郷の人たちにも知られるようになり、そんな立派な先生ならはやく故郷に帰って、但馬の弟子を教育してもらいたいと願う人が多くなってきました。

但馬でも学習熱が高まり、但馬全体でも40くらいの寺子屋があったといわれます。草庵はこわれるままに故郷に帰ってきました。天保14年(1843)、満福寺を逃げ出して以来13年ぶり、草庵は31歳になっていました。

●青谿書院


故郷に帰った草庵は、八鹿町の「立誠舎」(りっせいしゃ)という建物を借り受け、弟子の教育を開始しました。最初の門人たちの中には、北垣国道、原六郎、安積理一郎など、のちに大成する人物がたくさんいました。

弘化4年(1847)、草庵35歳の時、自分の生まれた宿南村に念願の学舎を建て、「青谿書院」(せいけいしょいん)と名づけました。この年、草庵は八鹿町の医師・国屋松軒(くにやしょうけん)の妹・久子と結婚しました。


草庵の門人たちは子弟共々共同生活をし、知識を与えるより人間の生き方、人格の完成をめざすもので、知識と実行を兼ね備えた人間の育成に心を砕きました。門人たちは士族に限らず、農家の後継者としての働き手も多く、農繁期は帰宅して働くなど悪条件での勉学でした。のべ700人に達する但馬内外の子弟を教育しました。  草庵の名声は次第に広がり、遠い宇都宮藩の幼君の教育係としての要請もありましたが、動かず但馬の人材の育成につくしました。


「子は親の鏡という。親を見んとすれば先ずその子弟を見よ」  草庵の門下生からは近代化をめざす明治・大正の日本のリーダーとしての人材を多数輩出しました。まさに草庵は但馬聖人でした。

主な門下生

北垣国道 生野の変、京都府知事、北海道庁長官
原六郎 銀行家、第百国立銀行・東京貯蓄銀行を設立、頭取、横浜正金銀行各頭取、日本、台湾勧業興業各銀行の創立委員を務め、富士製紙・横浜船渠各会社長、山陽・北越両鉄道、東洋汽船、帝国ホテル、汽車製造、猪苗代水田などの各重役を歴任、東武鉄道創立発起人・取締役。往時は渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎・古河市兵衛とともに五人男と並び称されるほどの経済界の大物であった。
森周一郎 浜坂に私塾「味道館」設立者
北村 寛 八鹿に私塾「山陰義塾」を開く。
久保田精一 豊岡に私塾「宝林義塾」を開く。
安積楽之助 和田山に私塾「自成軒」を開く。
藤本市兵衛 生野に私塾「明徳館」を開く。
河本重次郎 日本近代眼科の父
浜尾新 豊岡藩士 文部大臣、東大総長
久保田 譲 広島大初代校長、文部大臣
吉村寅太郎 東北大初代校長

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【但馬の歴史】(39) 秀吉の但馬平定(2) 竹田城落城

高生田城(たこうだじょう)落城

朝来市和田山町糸井の寺内と高生田の境の山に、中世戦国時代の山城の跡があります。この城を高生田城または福富城と呼んでいます。
この城は山名宗全が全盛のころの山城のひとつで、規模は小さいですが、豊臣勢に滅ぼされるまでは、堅固な城として栄えていました。この城に登る道が、南山のすそから大手門道、寺内の前谷というところから登る道、東の方からの道、北の城ヶ谷から登る道の四つがありました。
寺内の前谷というところも狭い谷間ですが、この奥に「奥市のだん」または地元の人々が「市場」というところがあって、昔は商家も建ち並び、城へのまかないも受け持っていたと言い伝えられています。そしてそこから一ノ段、二ノ段、三ノ段があり、その奥に城の館があったといわれていますが、いまはそのあともはっきりとは残っていません。
この城の城主は、出石・桐野の出身である福富甲斐守であるといわれています。弘安のころ(1278~1287)出石の桐野に、土野源太家茂という人があり、その子孫である福富氏は、山名宗全が但馬の守護になったころに、太田垣氏(竹田城主)や八木氏(八木城主)らとともにその家来となり、代々桐野の城にいたのですが、応仁の乱によって天下が乱れ、大名たちが相争うようになると、山名宗全もそれぞれの要地に城を築いて守りを固めたのでした。その中で、八鹿の浅間坂には佐々木近江守を、糸井の坂には福富甲斐守をつけて守らせたのです。
福富甲斐守は武勇の誉れ高く、淡くて元気盛りでしたので、秀吉が但馬を攻撃するにあたり、竹田城を滅ぼす前にこの高生田城を攻め落としたのだといわれています。この時、小さい城ながらなかなか落ちませんでした。そこで秀吉軍は易者に占いをたてさせたところ、「この城には東と西に二つの道があり、あたかも巨人が両足を踏ん張って建っているようだ。つまり、この城は生きている。だから、その片方の足を切れば必ず城は落と落ちるであろう。」ということでした。そこで、一方の道を切り落とさせたところ、占いの通り、さしもの堅城もとうとう落城したといわれています。今もこの地を「片刈り」と呼び、そのいい伝えを残しています。
城主はこの戦いに討ち死にしましたが、その子孫は逃れて糸井の庄で暮らしていました。その後沢庵和尚の知人であった福富紹意という人が、出石の桐野に移り住んで代々庄屋を務めていたといわれています。
城主はこの城の出城として、和田城や土田城(遠見が城または鳶が城ともいう)を併せ持ったといわれます。この遠見が城との間の通信を、弓矢をもってしていたと語り伝えられており、たまたま矢のぶつかりあって落ちた所を今も林垣の「落ち矢」と呼んでいましたが、近年の耕地整理でこの地名もなくなったようで、またひとつ古い伝説が消えていくような基がします。
秀吉軍は、この高生田城を攻め落としたのち、竹田城を攻めるために、竹田城が一目で見える室尾山に本陣を置き、その攻略の策を練ったと伝えられ、そのとき村人たちにふれ札を立てて知らせたといわれますが、その所在がはっきりしていないのは残念です。(記事は昭和48:1972)
一方、藤堂孝虎も小代谷には小代大膳、塩谷(えんや)左衛門、上月悪四郎、富安源内兵衛ら、いわゆる「小代一揆」とよばれる武士とも農民ともとられる勇士百二十騎ばかりがたてこもっていました。彼らはゲリラ戦が得意で、容易に高虎に屈しませんでした。ある日、高虎は「こんな田舎侍、今にいたい目に遭わせてくれようぞ。」と、征伐に向かいました。ところが、反対に小代勢の計略にひっかかって大敗し、命からがらたった一騎で大屋谷へ逃げ帰るという有様でした。
大屋に向かった高虎は、加保村の栃尾加賀守、その子源左衛門を頼って隠れ、体制の立て直しをはかりました。このことを隣の瓜原村瓜原新左衛門が小代へ知らせました。知らせを聞いて一揆の連中は天滝を越え、大屋谷へ攻め込んだのです。自分らの本拠を離れてまで攻めていこうとは、なかなか剛の者たちです。高虎は栃尾親子の助けを借りて蔵垣村にまで出て防戦しました。戦いはなかなか決着がつかず、疲れてきた一揆の連中は横行(よこいき)村に引きこもり、ここに砦を築きました。そして隙をみて攻めてくるゲリラ戦に変えたのです。横行村は平家の落人の伝説で有名な山奥の村です。この間に瓜原新左衛門は一揆の連中と連絡をとり、ある晩、百人余りで栃尾の邸を囲みました。しかし、源左衛門や刈鈷(かりなた)新兵衛らの活躍により、反対に瓜原新左衛門の方が首をうたれてしまいました。
こうしている間に高虎は次の作戦を進めました。夜陰にまぎれて密かに行動を起こし、一挙に、一揆の本拠横行砦を襲ったのです。一揆勢は不意をつかれてびっくり仰天、体制を立て直す暇もなく、散々にうちのめされ、おもな大将のほとんどは討ち取られてしまいました。しかし、高虎もこの夜は、あやうく命を失うところでした。源左衛門が駆けつけてうち払い、九死に一生を得たのでした。 藤堂家はこのときの恩義を忘れず、栃尾家に対して代々厚く報いています。天正八年(1580)、秀吉が再び但馬に攻めてきた時、完全に息の根を止められてしまいました。

竹田城落城

羽柴秀吉による、1569年(永禄12年)および1577年(天正5年)の但馬征伐により天下の山城竹田城はついに落城します。1580年(天正8年)、山名氏の後ろ盾となっていた毛利氏が但馬から撤退し、太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえました。
その後、秀吉の弟羽柴小一郎長秀(秀長)が城代となりますが、のちに秀長は出石の有子山城主になったため、秀長の武将である桑山重晴が竹田城主となりました。その後、桑山重晴は和歌山城に転封となり、替わって秀吉に投降した龍野城主赤松広秀(斎村政広)が城主となりました。嘉吉の乱以降、たびたび山名氏との死闘を繰り返した赤松氏が山名氏が築いた城を任されるということはなんとも皮肉なことです
赤松広秀(斎村政広)は、羽柴秀吉による中国征伐では、はじめ抵抗するも後に降伏。秀吉に従って蜂須賀正勝の配下となりました。その後、小牧・長久手の戦いなどに参戦して武功を挙げ、但馬竹田城2万2000石を与えられました。因縁の宿敵赤松氏が山名氏の築いた竹田城最後の城主となったのは、これも因縁だろうか。
赤松広秀は、関ヶ原合戦では西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めますが、西軍は敗戦しました。広秀は徳川方の亀井茲矩の誘いで鳥取城攻めに加わって落城させましたが、城下の大火の責めを負い家康の命によって、慶長5年10月28日(1600年12月3日)鳥取真教寺にて切腹。竹田城は無城となりました。
竹田城は築城後約150年間存続しましたが、関ヶ原の合戦が終わり世の中が平和になると、江戸幕府の一国一城令により、竹田城は廃城となりました。
現在も頑強な石垣が残る山城の名城です。

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【但馬の歴史】(38) 秀吉の但馬平定(1)

中国地方攻略

織田信長に中国地方攻略を命ぜられた秀吉は、播磨国に進軍し、かつての守護赤松氏の勢力である赤松則房、別所長治、小寺政職らを従えていきます。さらに小寺政織の家臣の小寺孝高(黒田孝高・官兵衛)より姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とします。一部の勢力は秀吉に従いませんでしたが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼします。

天正7年(1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防(上月城の戦い)の末、備前国・美作国の大名宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、摂津国の荒木村重が反旗を翻したことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされます。

天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃、途上において竹中半兵衛や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、降しました(三木合戦)。同年、但馬国の山名堯熙が篭もる有子山城も攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏におきました。

天正9年(1581年)には因幡山名家の家臣団が、山名豊国を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻しましたが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させました(鳥取城の戦い)。その後も中国西地方一帯を支配する毛利輝元との戦いは続きました。同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置きました。

天正10年(1582年)には備中国に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻めに追い込みました(高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請しています。
このように中国攻めでは、三木の干殺し・鳥取城の飢え殺し・高松城の水攻めなど、「城攻めの名手秀吉」の本領を存分に発揮しています。

但馬征伐

秀吉の第一次但馬平定は、天正五年(1577)十一月上旬より播磨を起点として開始されました(ただし、それより先の永禄十二年(1569)、毛利氏からの要請を入れた織田信長が羽柴秀吉を但馬に派遣しています)。但馬征伐ともいいます。

しかし、播磨上月城主木器政範が叛したため秀吉は但馬を撤兵し、上月城攻撃に向かいました。上月城はわずか七日間で鎮圧しますが、戦線が播磨と但馬の両方に拡大することを避けたので、八木豊信はそのまま八木城に留まることができました。しかし、翌六年には、秀吉は竹田城を拠点に、但馬奪取を企画しており、養父郡の八木氏領あたりが織田氏と毛利氏の境界線となりました。

永禄12年(1569年)、山名祐豊(すけとよ)の時、羽柴秀吉に攻められ落城。天正二年(1574)ごろに祐豊は残った勢力を集めて、出石の此隅城から有子(こあり)山に「有子城」を築いて移りました。築城間もない翌年の天正三年十月、隣国の丹波国黒井城主荻野直正が軍を率いて但馬に侵入し、朝来の竹田城と出石の有子城を攻めました。隠居した山名祐豊と城主になった氏政には、これを抑える力はなく、助けを信長に求めました。部下の明智光秀を派遣して荻野直正を討たせました。光秀軍は奪われていた竹田城を取り返し、丹波に敗走して黒井城に入った直正を攻め、山名はやっとこの難から逃れることが出来たのでした。

但馬国は、織田信長が中国平定のために秀吉(実質は弟の秀長)による侵攻を二度受けることになりました。この侵攻を受けて山名祐豊は領国を追われて和泉堺に逃亡しました。しかし、堺の豪商・今井宗久の仲介もあって、祐豊は信長に臣従することで一命を助けられ、元亀元年(1570年)に領地出石に復帰しています。

秀吉→山陽方面・山陰方面
光秀→畿内・丹波・山陰方面
第一次 但馬征伐(平定 1577)
第二次 但馬征伐(平定 1580)
弟の秀長軍…養父・出石・気多・美含・城崎の郡
藤堂孝虎軍…朝来・七美・二方の郡

天正五年(1577)秋、織田信長が中国の毛利氏を攻略するため、その先発隊を家臣の羽柴秀吉に命じました。秀吉は播磨国に兵を進め、姫路に本拠を構えることになるのですが、それには側面の敵でもある山名氏を討伐する必要があるので、北上して但馬国に入って太田垣氏の占領している生野城をはじめ山口の岩州城を落とし、高生田(たこうだ)城を攻め落とし、進んで太田垣朝延の竹田城をおとしいれた時、秀吉は播州一揆の起こったことを聞きました。直ちに、秀長に但馬の各城を攻略するように命じ、自分は播州へ引き上げました。このあと、秀長は勢いに乗って養父郡の多くの城を落とし、有子城(出石城)をめざして進んでいきました。先陣はもう養父郡小田村に着いていました。宿南城を焼き払い、浅倉ほうきから水生城を攻めてくると思いきや、出石城へ向かいました。出石へ攻め込んだ秀長軍は、思わぬ苦戦に悩まされました。有子城は山名氏の本拠だけあって、たやすく落ちません。

そのうちに近くの城主たちの反撃体制が整って、一世に立ち向かってきましたから、秀長は散々に敗北し、米地山(めいじやま)を越え、播磨へ逃げていきました。
記録によれば、秀吉の但馬平定によって但馬の城18が落ち去ったとあり、新しい装備をした秀吉軍のまえに山名勢はその敵ではなかったようです。こうして山名の名城 有子山城も名実ともに消え去りました。

第二次但馬征伐

天正七年(1580)、吉川元春は毛利派の垣屋豊続らの要請で、七月但馬に出陣し、美含郡(みぐみぐん)竹野まで進出しますが、背後で東伯耆の南条氏が織田方に離反したため急遽撤兵しました。これにより、但馬の毛利派は孤立してしまい、八木氏はこれを機に織田方につき、秀吉傘下に入ったものと思われます。

翌年(1580)一月、別所長治の播磨三木城を落とした秀吉は、三月に再び但馬征伐の兵を進めました。但馬の平定は弟の秀長に任せ、自らは因幡に侵攻しました。五月に山名豊国の籠もる鳥取城の攻撃を開始します。この時、八木豊信は秀吉に従って因幡攻めに参戦しています。

秀吉は鳥取城に対する城を築くと、攻撃を宮部継潤(善祥房)に任せて自身は播磨に転戦していきました。この時、豊信は若桜鬼ヶ城の守備に当たり、山名氏政は私部城、岩常城には垣谷光政が入り、但馬出身の武将を登用していることが注目されます。

同年九月、秀吉は再び因幡に入りますが、山名豊国は鳥取籠城を続けていました。秀吉は長期戦を覚悟して、周辺の地盤固めを行っただけで再び撤退しています。この時、豊信は智頭郡の半分を知行することを許され、若桜鬼ヶ城に在城しました。翌年の春ごろ、豊国は鳥取城を追放され、代わって毛利の武将・吉川経家が鳥取城に入城しました。 これとともに吉川軍の巻き返し攻撃があり、八木豊信は城を支えきれずに但馬に退去し、以後、豊信の消息は不明となります。おそらく、因幡に与えられた領地を守ることができなかったため、禄を失ったものと思われています。

のちに、豊信の子で垣屋氏の養子となっていた(異説あり)信貞の子の光政が再び八木姓を名乗っています。そして、光政は関ヶ原の合戦で徳川家康に味方したことで、拝領し徳川旗本となりました。八木守直は二代将軍徳川秀忠の近侍となり、四千石の知行を得て、子孫は徳川旗本家として続きました。

さらに、朝倉氏が但馬から越前に移った際に、行動を共にした八木氏もあり、その後裔が越前に広まっています。また別に、戦国時代の播磨国寺内城主に八木石見守がいました。ことらは代々赤松家の家臣であったといわれています。

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【但馬の城ものがたり】 明智光秀と水生(みずのお)城


豊岡市日高町上石

『但馬の城ものがたり』という書物によれば、昭和50年現在において確認されている但馬の城の数は、215だそうです。この中には徳川時代の陣屋も加えられていますが、まだ未確認の山城もまだあるだろうといわれています。日高町内では20で、但馬の中では数は少ないというものの、但馬史に関係する重要な城がいくつか含まれています。

散り椿で有名な水生山長楽寺の裏から山頂に至る間に、数カ所の平坦地があり、頂上近くや頂上に伸びる尾根に堀割があります。南北朝のころ、長左右衛門尉が居城したと伝え、戦国期には初め榊原式部大輔政忠が居し、ついで西村丹後守の居城となったようです。

水生城は、標高百六十メートルの山頂に至る間に構築された城で、東は険しく、北は切り立つ岩、西の尾根づたいには深い堀割が作られていて、まさに要害の地でした。眼下には広々とした高生平野(たこうへいや)が広がり、その昔、政治の中心地として、但馬一円の政務を執り行った国府の庁や国分寺の当たりもここから一望できます。

円山川の本流は、当時は土居の付近から水生山麓にかけて一直線に北流していた時期があったらしく、北へ流れる円山川のはるか彼方には、山名の本城出石の有子山の城を見ることができ、当時の戦争の仕方から考えて、たいへん大事な城であったことがうかがわれます。

この城は、遠く南北朝のころ造られたもので、南朝に味方した長左衛門尉がいた城として知られています。

その後約二百年あまりは、残念ながら誰の居城であったのか明らかではありません。

ところが、大永年中、丹波福知山の城主、明智日向守光成(後の光秀)が、出石の此隅山(こぬすみやま)の城が虚城(山名氏は有子山城に移っていた)であることを聞いて登尾峠(丹波・但馬境)を経て、有子城(出石城)を攻撃しようと考えました。そこで陣代として大野統康・伊藤次織・伊藤加助の三名を軍勢を添えて出石表へ差し出しました。やがて但馬に進入した彼らは、進美寺山(しんめいじざん・八鹿町側)に「掻上の城(かきあのげじろ)」を築いて居城し陣を布きました。

その頃の出石の山名氏の勢力は日に日に衰えていく有様でした。しかも中央では、織田信長が天下の実権を握り、その上家来の羽柴秀吉が近々に但馬にせめて来るという噂も高くなったので、山名氏の四天王といわれた垣屋等の武将も、さすがに気が気でありませんでした。

一方、進美山掻上の城に陣取った大野・伊藤の両勢は、軍を揃え、出石・気多の郷士たちを競い合わせ準備を整えました。そして、永禄二年(1559)八月二十四日、西村丹後守の居城水生城を攻撃してきました。この城には前後に沼(円山川から満潮時には潮が差す)があって、自然の楯となり、左側は通れないほど険しい天然の構えとなり、攻め落とせそうにもないので、ひとまず善応寺野に陣取って遠攻めの策をとりました。この時伊藤勢の中に河本新八郎正俊(気多郡伊福(鶴岡)の郷士であり、この家は今も続いている)という豪傑がいました。陣頭に出て大声で敵の大将をさそったので、城中からもこれに応え、服部助右衛門という武者が名乗りを上げて出てきました。ふたりは違いに槍を交えてしばらく争っていましたが、新八郎の方が強く、ついに服部を倒し首級(しるし)をあげました。

明けて二十五日、伊藤勢はふたたび城近く攻め寄せていきました。城中にあった兄の服部左右衛門は、弟を無念に思い、攻めてくる敵軍を後目に城中から躍り出て大音声に、「新八郎出てこい。きょうは助右衛門の兄左近右衛門が相手になってやる、ひるむか新八郎!」とののしりました。新八郎は「心得たり。」と、これに応じて出てきました。ふたりは間合いを見計らって、ともに弓に矢をつがえました。新八郎はもともと弓の名人でもあったので、ねらいを定めて「ヒョー」と放つ矢は見事に左近右衛門を射止めました。この三度の戦いの活躍に対して新八郎は明智光成から感状(感謝状)をもらいました。この感状は今も河本家に残っています。

八月二十八日には、丹波勢が攻め寄せましたが、城の正面大手門の方には大きな沼になっていてなかなかの難攻でした。城中はしーんと静まりかえり、沼を渡って攻めてきたならと待ちかまえています。攻めての大野勢の中で伊藤七之助という者は搦め手から攻めようとして竹貫から尾根づたいにわざと小勢を引き連れ迂回作戦に出ました。
ところが城内の武将「宿院・田中」という家来で、竹貫・藤井などから来ている兵士の中に、中野清助という人がいました。清助は伊藤七之助を遠矢で見事に射ました。この怪力に恐れをなした丹波勢は慌てふためき、この日の城攻めは中止にしました。

大野統康・伊藤加助は無念の歯ぎしりをし、城攻めにあせりを見せ総攻撃をはかり、竹や木を切らせ、沼に投げ入れて沼を渡ろうとしました。しかし、城内から見すましていた城兵は「すは、この時ぞ。」とばかりに、木戸を開けて討って出ました。大沼を渡ろうとしている大野・伊藤勢をここぞとばかりに射かけたので進退きわまり、たまたま沼を渡りきった者たちは山が険しくて登ることができず、逆に退こうとしても沼が深くて思うに任せず、城内からはさらに新手を繰り出し寄手をしゃにむに攻め、櫓からは鏑(かぶら)を構えて、射たてているところに「ころはよし。」と、大将西村丹後守みずから討って出たので、寄せ手は這々(ほうほう)の体で敗走してしまいました。

秀吉の第二次但馬平定

水生城の攻防戦は、毛利党の轟城主、垣屋豊続が打った一大決戦でした。秀吉の勢力が延びると共にいくつかの小競り合いが行われました。天正八年(1580)4月18日には、秀吉勢と竹野衆とが水生城で交戦し、この時竹野衆が勝ったといいます。その後、天正八年(1580)、秀吉の武将、宮部善祥房らの強襲を受けて廃城となります。

掻き揚げ城(かきあのげじろ)…掻上げ城とも書く。堀を掘ったとき、その土を盛りあげて土居を築いた堀と土居だけで成る臨時の小規模な城郭。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

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【但馬の歴史】(35) 但馬山名氏 その他の家臣

下津屋新三郎

山名四天王といわれる垣屋・太田垣・田結庄・八木氏などに比べると、一段と格が下がる武将です。しかし、垣屋・八木氏らが自立化を進めようとしている時、山名が本当に信頼していたのは、この下津屋級の武士団だったのではないかと思われる点があります。
下津屋安芸守は、伊巾矢(巾矢で一字)美作守、宮下野守らと共に、泉州堺に亡命していた山名祐豊が、織田信長の了解の下に永禄十三年(1570)の冬、再び但馬入りをしようとした時、居城たる有子山城(出石)を占拠していた垣屋を放遂しようと、有子山城攻めを行った武将です。それだから、気多郡から下流の城崎郡にかけて垣屋の勢力が張り出してくるようになり、垣屋が強勢な姿を見せると、これに対功するために祐豊は、自分の信頼する武将を気多郡に配置させる必要が感じられたものではないでしょうか。その目付役として、伊福城主(但馬気多郷)にし、円山川対岸の垣屋を監視させたであろうことは想像できる話です。
さらにその50年くらい前に、既に下津屋新三郎という山名の武士の名前が記録に残っいます。永正五年(1508)、山名致豊は、下津屋新三郎を、但馬所々知行、清冷寺(豊岡市)分代官及び備後・播磨・伯耆の諸知行所地を安堵しています。

磯部氏と夜久野城

朝来市山東町金浦の西北、城山の上に夜久野城があります。元亀年間(1570~1572)に山名祐豊の遠い親戚にあたる山名上野介豊次の子の豊直がいました。豊直は地名の磯部をとって磯部兵部大輔と名乗りました。上野介豊次がここに城を築いたのは、山東町金浦は国道9号線の丹波と但馬の国境に位置する山陰道の峠で、竹田城とともに丹波の敵に備えるためであり、また生野銀山を守るために大事なところだと思ったからでしょう。また、弟の磯部豊次を此処に封じて野間館(磯部氏館)を建てて館主に据えて依命を果たし
また、別の話では、寛喜年間(1229~1233)に佐々木左衛門という人が築いた城で、のちに山名時義のものとなったともいわれています。
山名氏が滅んだあと、竹田の赤松広秀のものとなり、広秀は家来の泥(なずみ)宗右衛門に守らせていましたが、慶長五年(1600)に竹田城が廃城となると同時に、この城も廃城となり、今は跡形もない有様となっています。

その他の家臣

加陽(かや)国親 但馬山名氏家臣。官途は美濃守。加陽郷(庄)から名乗ったのでしょう。但馬朝来郡物部城に拠る。
西村丹後守 水生(みずのお)城主。秀吉但馬征伐で戦う。
大坪又四郎 国分寺城主。秀吉但馬征伐で戦う。
佐々木近江守 浅倉砦。秀吉但馬征伐で戦う。
三方正秀 但馬の国人。但馬養父郡三方城主。官途は大蔵丞。山名、豊臣に仕える。
奈佐、上山・赤木・三宅・藤井・橋本・家木…

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝
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【但馬の城ものがたり】 篠部氏と志馬比城(美方郡香美町香住区香住)

[catlist categorypage=”yes”] 昭和42年五月二十日の各新聞の但馬地方版は「香住町月岡公園で、有馬(有間)皇子の墓が発見された。」と報じています。

有馬皇子とは、日本書紀に、斉明天皇の四年十一月五日に謀反が発覚し、捕らえられて、同年十五日には紀伊国藤白坂(和歌山県)で処刑されたと書かれておりますが、孝徳天皇第一の宮、有馬皇子のことです。

この事件は、有馬皇子が十九才のとき、大化改新の立て役者であった中大兄皇子ら改新派によって、天皇の位につけられた孝徳天皇のたた一人の遺児、有間皇子が、父天皇と同じように改新派の計略にもてあそばれ、非業の最期をとげられたことに同情してか、香住町には有間皇子の変の後日談を、次のように伝えているのです。

日本書紀では、このとき討たれたことになっているのですが、実は皇子の家来が身代わりとなって処刑され、皇子は追討に向かった者の好意によって、ひそかに丹波まで逃げのびたのです。ところが、皇子の弟宮である表米王[*1]が但馬の国に住んでいるのを聞き、ふたたび舟で但馬をめざしました。

香住に浜に上陸した皇子は、志馬比山(しまひやま:香住駅の裏山)のあたりに隠れ住み、海部の比佐を妻にして、平和な日々を過ごしていたのです。その後も表米王と会う機会もなくこの地で亡くなり、入江大向こうの岡の上(月岡)に手厚く葬られました。

ところで、二人の間に男の子が生まれ、志乃武王と名づけました。やがて成人した志乃武王は、出石小坂の美しい娘を妻にし、天武天皇七年(678)志馬比山の山頂を切り開いて城塞を造りました。

やがて、幾年かの時が流れ、志乃武王の子孫、志乃武有徳が領主のとき、有徳は姓を篠部と改め、山頂にあった屋敷を山のふもと東方の台地に移したのです。そして、対岸の矢谷に川港を開いて、物資交易の設備を整え、中心地としたのです。

そればかりか、篠部氏の菩提寺として長見寺を建立し、要害の地としましたが、交通の便はともかくいろいろと不便なことが多かったので、当時としては前代未聞の大事業である、河川改修や耕地拡張の大工事を計画しました。

二十九年という長い年月を経て、ようやく完成しました。
この大工事によって、一日市の柳池をはじめ湿地は全部埋め立てられ、約70㌶という新しい耕地ができたのです。

このようにして、有間皇子在住以来、約五百年という長い間徳政を施し、領地内の人々から尊敬されてきた篠部氏ですが、延元元年(1336)に、篠部有信公が、祖先の法要のために長見寺に参詣されていたところを、かねてから領地のことで不和であった長井庄の釣鐘尾城主・野石源太が、この時とばかりにあらかじめ示し合わせてあった一日市の塔の尾城に合図し、一手は長見寺に、他の一手は留守で手勢の少ない館へと攻め寄せました。

この不意打ちに驚いた篠部方は、必死になって防いだのですが、何分にも敵は多勢の上に充分な戦備を整えて攻めてきたのですから、そのうち寺に火を放たれたのを見て、もはやこれまでと、有信公をはじめ主従ことごとく火の中に身を投じ、悲痛な最期をとげたのです。

留守館でも寺に火がかかったのを見て、形勢は味方に不利であることを知り、一族の北村七郎は若君を、そして日下部新九郎は姫を連れて兵火の中を脱出したのですが、姫は逃亡の途中、姫路山のふもとで敵の矢に当たって倒れ、若君もまた、乱戦の内に行方不明となり、さすが名門を誇った篠部氏もついにその力を失いました。その後、行方不明であった若君は首尾良く落ちのび、奈佐(豊岡市)宮井城主・篠部伊賀守のところに身を寄せていたのですが、お家再興の望みもうまくいかず、のちに京都に移り住んだと伝えられています。

[*1] 表米王…但馬国の古豪族、日下部氏の祖とされている。

「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

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【但馬の城ものがたり】 長(ちょう)氏と林甫城(美方郡香美町香住区訓谷)

[catlist categorypage=”yes”] むかし、山名右衛門督祐豊(うえもんのかみすけとよ)が但馬国の守護として、出石城にいたとき、古い記録によると、天文九年(1540)、訓谷林甫城(りんぽうじょう)の城主は長越前守信行でした。香住郷の無南垣(むながい)のお城に、塩冶左右衛門尉(やんやさえもんのじょう)がいました。無南垣の殿様はとっても欲が深くて、いつも訓谷のお殿さんと領地のことで争っていたのですが、無南垣のお殿さんは出石のお殿様に、正月の御祝いの挨拶に行ったときに、訓谷のお殿さんは、山名殿に弓を引くようなことをたくらんでいると告げ口したのです。ところが、いっしょにいた太田垣とか田結庄というお殿さんは、無南垣のお殿さんの仲間だったので、祐豊公に

「ただいま、無南垣城主・塩冶左衛門尉殿が申し上げたことは、誠でございます。みな大殿の家来として忠誠を励んでおりますのに、訓谷林甫城主・長越前守信行だけが、何やらよからぬたくらみをいたしております。私どもの手の者を使わしまして探らせましたところ、塩冶殿の申されたとおりでございます。」

と。誠しやかに申したので、祐豊公は、まさかと思ったものの、重臣である太田垣や田結庄までがよもや嘘をつくまいと思い、

「その方までもが申すのなら、間違いあるまいが、越前守にも、言い分があるやも知しれん。まず越前守を呼べ、もし呼んでも来ないようなら、その時は、その方たちが申したように、野心ありと見て、軍兵を使わして討ち取れ。」

と申したのです。

そんなこととは少しも知らない訓谷のお殿さんは、今ごろ急のお呼び出しとは何事だろうと思いながらも、何の備えもせずに出石へと急ぎました。そして、出石城を目の前にした鳥居村まで来たところ、塩冶の軍勢が出迎えだといって現れたので、訓谷のお殿さんが礼を言おうとしたところ、

「越前守殿、上意討ちでござる。覚悟めされ!」

といって、多数の軍勢が斬りかかり、越前守は刀を抜く暇もなく斬り殺されたのです。このとき、お殿さんのそばについていた家臣の宿院雅楽之介(しゅくいんうたのすけ)は、なんとかしてお殿さんを助けようと思い、刀をふりまわし奮戦したのですが、多勢に無勢ではどうすることもできず、力つきて討ち死にしたのです。

ところで、越前守には二人の男の子がいました。兄は亀若(七才)、弟は亀石で五才になっていましたが、不意打ちで越前守を殺した塩冶勢は、その足で林甫城へ攻め寄せ城を奪い取り、二人の若君までも殺してしまったのです。

ところがこの時、越前守の奥方は身ごもっておられたのですが、家臣の滝本三郎兵衛という者が奥方を連れだし力戦し、敵兵四、五人をたたき斬って囲みを破り、奥方を無事因幡の国へ送ったのです。塩冶の手から無事逃げ延びた奥方は、追っ手の心配のない因幡で、やがて元気な男の子を産みました。塩冶の不意打ちによって、一度に二人の若君を亡くされていた奥方は、ようやく喜びを取り戻しこの若君を弥次郎と名づけました。

弥次郎様は、塩冶に見つけられないようにということで、出雲の国(島根県)まで逃げのび、そこで成長したのですが、十三才の時ひそかに但馬に帰って、宵田城(豊岡市日高町)の垣屋筑後守に会い、父の長越前守信行が、塩冶の陰謀によって非業の最期をとげた一部始終を涙ながらに話しました。筑後守は、あまりにもむごい塩冶のやり口にびっくりされ、さっそく弥次郎様を連れて出石城へ行き、祐豊公に事の次第を弥次郎様が話されたとおり申し上げたのです。 ところで、この時すでに塩冶左衛門尉は死んでしまっており、豊岡市奈佐にあった宮井城の城主である篠部伊賀守の弟が左衛門の養子となり、塩冶周防守と名乗って林甫城の城主になっていたのです。やがて、元服を済まされ、今はもうすっかり立派な若武者になられた弥次郎様は、左衛門尉はもうこの世にはいないものの、周防守が父のかたきの養子として林甫城城主であり、なんとかして周防守を討って父の恨みを晴らすとともに、長氏代々の城である林甫城を取り返したいと考えていました。そして、このことを竹野町の轟の城主・垣屋駿河守に話し助けを頼んでみました。

駿河守は塩冶とは領地問題などで、常日頃から腹の立つことが積み重なっていたので、「弥次郎殿のいわれることは、いちいちごもっともでござる。それがしも塩冶の汚いやり方には、腹が煮えくり返る思いでござる。弥次郎殿にお味方いたそう。」と、これ幸いと弥次郎様の味方になってくれたのです。

こうして塩冶を討つ機会をうかがっていたところ、永禄十一年(1568)七月十三日、塩冶周防守がお盆法要を無南垣の長谷寺(ちょうこくじ)で営み、それに参詣するために城を留守にするという知らせが届きました。そこで、弥次郎様はすぐに垣屋のお殿さんにお願いして、富森一本之助という家臣とその軍兵を借りて林甫城へ攻め込みました。

塩冶周防守は、長谷寺で法要の真っ最中でしたが、弥次郎様の急襲を聞くと、わずかの家臣を連れて奈佐谷に逃げ、兄篠部伊賀守に援軍を頼みました。伊賀守は、これは一大事と大軍を率いて林甫城を取り囲みました。しかし、城中に攻め入ろうとすると、城から矢を射かけられ、容易に近づくことができず、伊賀守は、

「弥次郎ごとき小童(こわっぱ)に、何をぐずぐずしているのだ。いっきに攻め落としてしまえ!」

と、鬼のような顔をして兵どもを叱りつけたので、西村丹後守が、

「敵は死にものぐるいで城を守ろうとしていますので、今攻めても味方の軍兵を数多く失うばかりでございます。幸いそれがしは、城のようすについてはよく存じておりますので、それがしの手勢を引き連れて、搦め手から城中に攻め入り、弥次郎殿の首(しるし)を討ってまいりましょうほどに、なにとぞ、それがしにお任せくだされ。」

といったところ、

「ええい!だれでもよい、早よう弥次郎を討ち取れ!」

との伊賀守の下知なので、西村丹後守はさっそく城に攻め入りました。

ところで、西村丹後守は、かねてから伊賀守や今は亡き塩冶左衛門のあくどいやり方にいや気がさし、弥次郎殿に万一の時はお味方すると約束していましたので、やすやすと城内に入り、弥次郎殿に、

「せっかく取り返されたお城ですが、相手は何分にも大軍でございます。このまま戦われましては、味方の全滅は火を見るより明らかでございます。この場はなにとぞ、それがしのいうようにしてくだされ。」

といって、赤絹に物を包み、伊賀守の軍勢に向かって、

「弥次郎が首は、今この西村丹後守が討ち取ったぞ!」

と、赤絹の包みを、高々と差し上げて見せたので、周防守は喜びいさんで城に入ってきました。この時、丹後守と示し合わせて草むらに隠れていた弥次郎殿がおどり出て、

「周防守見参!われこそは、先の長越前守信行の忘れ形見、弥次郎なるぞ。今こそ父のご無念をお晴らし申さん。覚悟めされ!」

と名乗りをあげ、周防守に斬りかかって行きました。弥次郎殿を討ち取ったとばかり信じて、城に入ってきた周防守ですから、刀を抜く間もなく弥次郎殿に討ち取られてしまいました。

「伊賀守、よーく聞け、その方が弟周防守は、このとおり長弥次郎が討ち取ったぞ!」

と大音声で、伊賀守の軍勢めがけて、弥次郎殿が叫んだので、伊賀守の軍勢は、急に浮き足立って戦意を失い、ワァーとばかりに城からおどり出た垣屋の軍勢に蹴散らされ、命からがら宮井の城へと逃げ帰ったのでした。

激しい攻防戦の末、父の仇を討って、林甫城を取り返した弥次郎殿は、父と同じように越前守を名乗り林甫城の城主となりました。

一方篠部伊賀守は、なんとしても弥次郎殿を滅ぼさんものと考え、田結庄の殿さんに援軍を求めたのですが、田結庄は、垣屋駿河守が弥次郎殿の味方をしているのを知って、伊賀守の頼みを断ったため、再び林甫城を攻めることができなかったとのことです。

天正八年(1580)、秀吉が但馬に攻め入ったとき、山名の家臣は、水生城(豊岡市日高町)に集まって軍議を開いたのですが、篠部伊賀守の寝返りによって計略が秀吉方にもれ、山名の家臣の城は次々に攻め落とされ、弥次郎殿もこの戦いで討ち死にされたということです。

長(ちょう)弥次郎 但馬山名氏家臣。長信行の男。官途は越前守。但馬美方郡林甫城主(美方郡香美町香住区訓谷)。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

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