森尾古墳 (兵庫県豊岡市森尾)

県道から森尾地区を望む

豊岡市森尾字市尾

この古墳の発見は、但馬地方でもっとも早く大正年間の工事中に発見されて以来、地元研究者や大学の研究者が何回となく取りあげていました。その時すでにいくつかの遺物が発掘されています。そして但馬地方が考古学的に論及されるのは、ほとんどこの森尾古墳だけであったのが最近までの状況でした。1墳丘3石室となっており、埋葬施設は3基の竪穴式石室です。

また、昭和51年8月~平成6年3月30日に行われた「森尾古墳確認調査概要報告」(豊岡市教育委員会)で、古墳の構成や出土遺品などを考慮すると、この古墳自体が新旧で使われていたものであろうと考えられています。~森尾古墳を但馬最古の古墳と位置づけ、県下でも最古の一群に入れられるものとして考えられてきました。

ところが、近年森浩一氏が消滅したとされる森尾古墳の墳形について、ひとつの可能性として長方形説を打ち出し基底部が残存しているのではないかとの指摘もあわせて行ない、さらに本村豪章氏も「前期古墳の諸様相」を著して森尾古墳の再検討をも行ない、今後の発掘調査等によらなくてはならないとしながらも、大胆に方墳あるいは前方後方墳の可能性を指摘していました。

三角縁神獣鏡の謎


画像:「三角縁神獣鏡」雲南市 神原神社古墳-島根県立古代出雲歴史博物館蔵

※画像:島根県立古代出雲歴史博物館は見学いたしましたが、館内撮影禁止のため、古代出雲歴史博物館HPからお借りしています。

森尾古墳が全国的に有名になったのは、発掘された二面の青銅鏡で、「三角緑神獣鏡」で卑弥呼の鏡ともいわれており、北近畿で最古の鏡であることが分かり、北部九州並みの大陸との関係が指摘されました。

神獣鏡(しんじゅうきょう)とは、古鏡の銅鏡の区分のひとつで神仙界の理想郷を図文化した鏡。鏡の裏の文様が神像と獣像とを半肉彫にしたものを主として組み合わせた文様を持つものがこう呼ばれています。鏡の縁の断面が、平たくなっている平縁(ひらぶち、へいえん)式と、三角形になっている三角縁式(さんかくぶち、さんかくえん)とに大別され、特に三角縁式のものは、魏の明帝が邪馬台国の女王卑弥呼に下賜した銅鏡にあたると言う説があることで知られています。

三角縁神獣鏡の銘文中に紀年が記された銅鏡は四面あります。

島根県雲南市加茂町大字神原・神原神社古墳出土の「景初三年」鏡
群馬県高崎市柴崎町蟹沢・蟹沢古墳
兵庫県豊岡市森尾字市尾・森尾古墳
山口県周南市(旧新南陽市)竹島御家老屋敷古墳

神原神社古墳出土の「景初三年」鏡以外の三古墳から出土したものは同型の「正始元年」鏡です。これらの鏡四面は、すべて文様の神像と獣形像が同じ方向に並ぶ同向式。

また、同時に見つかった鏡の一つが1世紀に中国でつくられた近畿で最古級の「方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)」と同じであることがわかりました。

もう一面は、1917年に出土した「方格規矩四神鏡」は、約二千年前の紀元前後、中国の年号である「正始元年」で始まる文字が刻まれています。

森尾古墳の三角緑神獣鏡は、北近畿最古の鏡で、山口県竹島御家老屋敷古墳で出土した「正始元年銘三角縁階段式神獣鏡」や蟹沢古墳(群馬県高崎市)と同笵鏡(同じ鋳型からできた鏡)であり、正始元年(240)は邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを出し、魏王から銅鏡100枚を贈られた翌年にあたり、出土した鏡はこうした「魏志倭人伝」に記されていることと深くかかわっていると考えられています。それらが遠い距離を隔てて別の地点で出土していることから、ある政治的な意志で1か所から配布されたのではないかとも説明されています。

従来、三角縁神獣鏡=魏の鏡=卑弥呼の鏡というのが定説で、銘文に「景初三年(239)」「正始元年(240)」などの魏の年号や「陳氏」「張氏」「王氏」など中国人の作者名があり、図像文様からみても明らかに中国鏡の特徴を持っています。このため、三角縁神獣鏡は3世紀中葉の魏で作られ、卑弥呼に贈られた「銅鏡百枚」にあたると考えられ邪馬台国畿内大和説の有力な根拠とされてきました。

しかし、三角縁神獣鏡は中国本土ではいまだ1枚も出土していないことや、魏の元号が改元されて存在しなかった「景初四年」銘の鏡が見つかったことから、最近ではこの三角縁神獣鏡は日本製との見方が強まっています。しかも、これまで中国で出土した神獣鏡は、魏が支配した北中国に少なく、呉の領域とした南中国に多いことから、三角縁神獣鏡は神獣鏡をつくる伝統のない魏の製作ではなく、呉の鏡工人が日本に渡来して製作した説を、中国考古学者の王仲殊は唱えたのです。

しかし、卑弥呼が魏に使いを送った景初三年(239)に画文帯神獣鏡をモデルとして三角縁神獣鏡がつくりだされたことは確かであり、「銅鏡百枚」のなかにそれが含まれていたであろうことも容易に推測できます。

三角緑神獣鏡は倭王権の誕生を示すものなのか

したがって、卑弥呼が若い頃に入手した画文帯神獣鏡は、近隣の首長に分配しただけですが、晩年に入手した三角縁神獣鏡は、分配域が九州から関東まで大きく拡大しました。それは邪馬台国を盟主とした倭王権の誕生を意味するものでしょう。

1953年、鉄道工事中に京都府椿井大塚山古墳で32面以上の三角縁神獣鏡が出土しました。調査に関係した小林行雄氏は、4組9面の同笵(どうはん)鏡があることを見つけ、もし鏡は一枚ずつバラバラの状態で入手されたのなら、偶然が重ならない限り起こりえないから、それがセットにまとまった状態でもたらされたと考えました。そして、日本全国の三角縁神獣鏡に42個の同笵(どうはん)鏡であることを確かめ、それが九州から関東まで広がっていること、椿井大塚山古墳を中心に畿内と地方の間で分有され、地方だけの分有関係はほとんどないことを明らかにしました。そこから、三角縁神獣鏡は畿内の倭王のもとに一括保管されたのち、椿井大塚山の首長が各地の首長にたいして分配したと考えました。さらに4つの違う形式ごとに分布の偏りがあることから、数回に分けて配布され、倭王権と地域首長との政治的関係が成り立つことによって各地に古墳が出現したと論じました。

1998年には奈良盆地東南部の黒塚古墳から33面の三角縁神獣鏡が出土しました。7組15面も同笵(どうはん)鏡がみつかり、九州から関東にわたる39古墳と同笵(どうはん)鏡を分有しています。倭の中枢部から多数の同笵(どうはん)鏡が出土したことにより、小林行雄氏の同笵(どうはん)鏡論は揺るぎないものとなりました。

しかし、椿井大塚山の首長が同笵(どうはん)鏡を配布したという考え方は、加茂岩倉から39個の銅鐸に15組26個の同笵(どうはん)関係が確かめられたように、出度数か多くなれば、それだけ同笵(どうはん)関係の中心になるのは当然で、椿井大塚山と黒塚の被葬者は、倭王から相当の数の銅鏡を下賜された有力者であったのでしょう。

神仙と霊獣の図像の外縁に「景初三年」を含む銘文41文字が鋳出されています。邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送り銅鏡100枚を賜ったとされる魏の年号「景初三年(239年)」という銘のある銅鏡は、大阪の和泉黄金塚古墳とともに全国でわずかに二例が知られるのみです。

[googlemaps http://maps.google.co.jp/maps?f=q&source=s_q&hl=ja&geocode=&q=%E8%B1%8A%E5%B2%A1%E5%B8%82&sll=35.535579,135.195694&sspn=0.368222,0.396881&g=%E5%AE%AE%E6%B4%A5%E5%B8%82&ie=UTF8&ll=35.576079,134.836922&spn=0.184006,0.198441&t=p&z=12&iwloc=addr&output=embed&s=AARTsJpQER4K4W-9knGmk4jzeDd6XQpplg&w=425&h=350] 但馬北部(円山川流域)

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大師山古墳 (豊岡市引野)


豊岡市引野


90墓近い円墳が造られています。2008年11月29日に訪ねました。


大師山は標高100mほどの細長い丘陵で、円山川と出石川に挟まれた豊岡平野が見渡せる見晴らしの良い場所で、すぐ近くに葦田神社があります。しかも気多神社や楯縫古墳と出石神社を結ぶ中間にあるのが意味深いです。

竪穴系横口式石室という特殊な石室の群は、半島南部の伽耶(かや)地方にみられ、引野がかつて加陽(カヤ)郷と呼ばれる地であったことと考えあわせて興味深い。
古墳時代に朝鮮半島から渡来した人たちが、ここに墓を造り、故国の基制をまねたと考えると想像がふくらんでいく。

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【たじまる】 JR養父駅・八鹿駅


JR養父駅

JR養父駅は久しぶりに訪れてみた。母が養父出身なので子供の頃ここから歩いて親戚へ行った。
昔と変わらない雰囲気がいい。


古い駅名看板


無人駅なので券売機が置かれている。島式ホームでフェンスを開けてホームに行く。発券窓口にレトロな受け金具がある。


八鹿駅も、養父駅同様に昭和の雰囲気が残ってていい。


八鹿駅ホームの橋梁は、県下でも古いもので、いつも列車内から見ているが、駅側から見る。
この橋脚は明治の駅開設当初からのもので、兵庫県でも最も古いもののひとつ。

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大薮(おおやぶ)古墳群

兵庫県養父市養父地域の円山川に面した南斜面の丘陵地に大薮古墳群があります。兵庫県を代表する、古墳時代後期のに造られた古墳群です。地形は大薮集落を中心として両側に弓形に広がっています。北に山を背負い、南前方には円山川が流れています。そして川の向こうには養父神社をみることができます。兵庫県を代表する、古墳時代後期に造られた古墳群です。


石室

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鹿島神社


兵庫県豊岡市日高町府中新

日本に仏教が伝来してから百年も経つと、仏教の普及はめざましく、日本のあちこちで造寺が行われ、「白鳳寺院」と呼ばれています。但馬の白鳳寺院は、現在のところ豊岡市三宅の薬琳廃寺のみが知られています。


鹿島神社境内には、大きな礎石が安置されています。名神式外社なのでけど、但馬の郡ごとに設置された「郡分寺」ではないかと想定されています。薬琳廃寺の建立に続く時期のものだそうです。

郡分寺とはいえ巨額の費用がかかるので、気多郡の在地有力者が、個人的に独力で建立したものではなく、但馬国司の側から、積極的に造営費の援助、助成が行われていたのでしょう。さらに各郷には「郷寺」がつくられはじめます。寺は鎮護国家の道場であると同時に、教育の場として、律令制度を全面的に実施するために、但馬国衙から郡司や郷司に指令が発せられます。

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コウノトリ保護増殖センター


兵庫県豊岡市野上

初めて訪ねた「附属飼育施設 コウノトリ保護増殖センター」。  というのも、こないだ長浜を訪れた際にシャトルバスの運転手さんが「コウノトリは玄武洞の方ですね?!」と言っていたのはここの記憶ではないか思う。

但馬地域に生息したコウノトリを人工飼育により保護・増殖するために、昭和38年に計画され、昭和40年に「コウノトリ飼育場」として開設した施設。 平成3年には、「コウノトリ保護増殖センター」に改称。 平成11年4月1日から、兵庫県立コウノトリの郷公園(祥雲寺)が完成し、その附属飼育施設となった。飼育・繁殖ケージを、11基備えている。平成11年11月1日から公開はされていない。

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【たじまる】 和田山駅機関庫

朝来市和田山町和田山駅(電車の中から撮影したのでスモークガラス)

1912年(明治45年)に機関庫と給水塔、転写台、引き込み線などが建設された。 1991年(平成3年)まで約80年にわたり蒸気機関車やディーゼル機関車の点検修理のための施設として利用された。現在は、倉庫として利用されている。 但馬の現存する鉄道施設として最古のひとつではあるが、山陰本線施設当初から一緒に歩んできた建物だけに利用されないまま朽ち果てるだけであればかわいそうだといつも思う。

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グンゼ日高工場跡

但馬はかつて養蚕が盛んで、京都府綾部市に本社を置く(現在は大阪市)グンゼ製糸(株)の工場が但馬にも多くありました。
山陰本線沿いに、梁瀬工場、養父工場、八鹿工場、そして日高工場です。それらの工場は梁瀬を除き平成になって閉鎖されました。

最近まで事務所棟が残っていましたが、赤煉瓦の貯水施設のようなものだけ残っています。

日高町商工会館

1935年(昭和10年)頃に旧日高町役場として建設。1982年(昭和57年)まで利用され、新庁舎移転に伴いその役目を終えて、日高町商工会館として使われています。歴史を感じる階段、会議室の照明、昇降エレベーターが今も動いています。グンゼ日高工場の事務所棟もなくなり、たぶん日高町内で最古の近代建築物です。

国道バイパス完成後は旧国道は車の通行量は減りましたが、日高町の中心に位置し、特急バスも前に停車します。商工青年部時代はよく通いました。なつかしい場所です。