日下部氏流(4)太田垣氏

太田垣(おおたがき)氏


家紋:木 瓜
(但馬国造日下部氏後裔) *家紋を九枚笹とする説もある。
武家家伝さん

太田垣氏も、八木氏同様、但馬国造彦座王から日下部連の後裔を称する古来からの但馬の名族です。

『日下部系図』によると、第37代孝徳天皇-有馬皇子-日下部表米王---建屋太郎光村─石和田光忠─太田垣光保とあって、建屋(たきのや)・石和田・太田垣を同族としています。

『但馬国太田文』には尊勝寺領養父郡建屋荘の下司建屋五郎大夫女子も、同新荘の地頭石和田又太郎光時も、ともに御家人(鎌倉幕府家臣)として見えるから、大田垣氏もこの辺りを本拠とした建屋氏の庶流といえます。

日下部氏の一族である八木・朝倉・奈佐など皆、粟鹿神社を祖神として崇敬し、朝倉氏などはのちに越前に移ってその居城中に越前に粟鹿神社を勧請しています。

山名氏の但馬制圧に協力したことから、朝倉宗家を凌いで強大となり、ついには垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名氏の四天王と呼ばれる隠然たる勢力にまで成長し、丹波・播磨への通路を扼する要衝、朝来郡竹田城を本拠とするに至りました。

延文三年(1358)、祐徳寺に建屋新荘のうち田一段を寄進した太田垣光善、正平十八年(1363)に建屋下司職内の田一段を寄進した実阿(光善の法号かも知れない)などの名がみえ、嘉吉三年(1443)以後竹田城を預かったという太田垣光景、応仁元年(1467)の竹田城主太田垣土佐守、その嫡子新左衛門宗朝、二男新兵衛尉、備前守護代として山名俊豊を擁した太田垣美作入道、その舎弟三河守、同新右衛門大尉、同左京亮らの名が諸書に散見されます。

■太田垣氏の台頭

明徳の乱で、但馬国衆は山名氏清方と山名時熈方に相分かれて戦いました。有力国衆の多くは氏清方に味方し、土屋氏、長氏、奈佐氏らが勢力を失いました。なかでも土屋氏は一族五十三人が討死するという惨澹な有様で、山名氏は多大な人的損害を被りました。時熈は山名氏を掌握したものの、国衆の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていきました。いきおい、優秀な人材に対する時熈の期待は高くなりました。

このような状況にあって、急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏でした。とくに、「応永の乱(1399)」における両氏の活躍が、その台頭に拍車をかけました。

明徳の乱・応永の乱に活躍して、太田垣氏興隆のもとを築いたのは通泰でした。通泰は太田垣光善の子で、光成の弟と推定される人物です。太田垣氏は明徳の乱に、一族を挙げて山名時熈方に味方して戦りました。乱の過程で通泰が一族を率い活躍したことで、応永七年(1400)、但馬守護代に任ぜられたのでした。このとき、土屋(垣屋)遠江入道も但馬守護代に任ぜられ、二人は管轄地域を分けてその任を遂行したようです。ちなみに、土屋(垣屋)氏は気多郡(今の日高町と旧豊岡市と竹野町の南部分)を管轄し、太田垣通泰は朝来郡と養父郡の南半分を管轄していました。さらに、通泰は翌八年三月、備後守護代にも任ぜられています。

嘉吉元年(1441)、「嘉吉の乱」で赤松氏討伐に功のあった山名氏は播磨守護に補せられ、太田垣誠朝が播磨守護代に任ぜられました。そして備後守護代には一族の者を据え置いたようです。それは美作守宗応でした。宗応は光成系太田垣氏の人物と思われ、いわば太田垣氏の本家筋にあたり、宗応の家は、惣領家となった通泰の子孫が備後へ赴いている間、但馬における太田垣一族の中心となって、その留守を守っていたのでしょう。宗応のあとの備後守護代は、美作守宗収がなっています。

美作守宗収は美作入道と同一人物と考えられ、『翠竹真如集』にみえる法諱を宗収、徳叟と号した人物のようです。若年には山名時熙に可愛がられ、中年には持豊に仕え、晩年には政豊に重用されました。そして、政豊は嫡子俊豊を備後守護に任じたとき、山名俊豊が若年であったため、宗収を守護代に任じて俊豊を補佐させました。宗収はこれに応え、よく山名俊豊を補佐しました。宗収の死後、備後守護代は惣領家から派遣された宗朝の子俊朝が受け継いでいます。

宗収には子宗幸、そして甥に光久がいたと伝えています。また、『日光院文書』にも光朝・時久・氏定・隆定・三河入道浄□・紹悦らの名が見えるが、一般に知られている『太田垣系図』には光朝を除いてその名を欠き、太田垣氏には不明な点が多いようです。

引用:「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会・武家列伝他
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日下部氏流(4)太田垣氏

太田垣(おおたがき)氏
家紋:木 瓜
(但馬国造日下部氏後裔) *家紋を九枚笹とする説もある。
武家家伝さん

 太田垣氏も、八木氏同様、但馬国造彦座王から日下部連の後裔を称する古来からの但馬の名族です。

 『日下部系図』によると、第37代孝徳天皇-有馬皇子-日下部表米王---建屋太郎光村─石和田光忠─太田垣光保とあって、建屋(たきのや)・石和田・太田垣を同族としています。

 『但馬国太田文』には尊勝寺領養父郡建屋荘の下司建屋五郎大夫女子も、同新荘の地頭石和田又太郎光時も、ともに御家人(鎌倉幕府家臣)として見えるから、大田垣氏もこの辺りを本拠とした建屋氏の庶流といえます。

 日下部氏の一族である八木・朝倉・奈佐など皆、粟鹿神社を祖神として崇敬し、朝倉氏などはのちに越前に移ってその居城中に越前に粟鹿神社を勧請しています。

 山名氏の但馬制圧に協力したことから、朝倉宗家を凌いで強大となり、ついには垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名氏の四天王と呼ばれる隠然たる勢力にまで成長し、丹波・播磨への通路を扼する要衝、朝来郡竹田城を本拠とするに至りました。

 延文三年(1358)、祐徳寺に建屋新荘のうち田一段を寄進した太田垣光善、正平十八年(1363)に建屋下司職内の田一段を寄進した実阿(光善の法号かも知れない)などの名がみえ、嘉吉三年(1443)以後竹田城を預かったという太田垣光景、応仁元年(1467)の竹田城主太田垣土佐守、その嫡子新左衛門宗朝、二男新兵衛尉、備前守護代として山名俊豊を擁した太田垣美作入道、その舎弟三河守、同新右衛門大尉、同左京亮らの名が諸書に散見されます。

■太田垣氏の台頭

 明徳の乱で、但馬国衆は山名氏清方と山名時熈方に相分かれて戦いました。有力国衆の多くは氏清方に味方し、土屋氏、長氏、奈佐氏らが勢力を失いました。なかでも土屋氏は一族五十三人が討死するという惨澹な有様で、山名氏は多大な人的損害を被りました。時熈は山名氏を掌握したものの、国衆の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていきました。いきおい、優秀な人材に対する時熈の期待は高くなりました。

 このような状況にあって、急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏でした。とくに、「応永の乱(1399)」における両氏の活躍が、その台頭に拍車をかけました。

 明徳の乱・応永の乱に活躍して、太田垣氏興隆のもとを築いたのは通泰でした。通泰は太田垣光善の子で、光成の弟と推定される人物です。太田垣氏は明徳の乱に、一族を挙げて山名時熈方に味方して戦りました。乱の過程で通泰が一族を率い活躍したことで、応永七年(1400)、但馬守護代に任ぜられたのでした。このとき、土屋(垣屋)遠江入道も但馬守護代に任ぜられ、二人は管轄地域を分けてその任を遂行したようです。ちなみに、土屋(垣屋)氏は気多郡(今の日高町と旧豊岡市と竹野町の南部分)を管轄し、太田垣通泰は朝来郡と養父郡の南半分を管轄していました。さらに、通泰は翌八年三月、備後守護代にも任ぜられています。

 嘉吉元年(1441)、「嘉吉の乱」で赤松氏討伐に功のあった山名氏は播磨守護に補せられ、太田垣誠朝が播磨守護代に任ぜられました。そして備後守護代には一族の者を据え置いたようです。それは美作守宗応でした。宗応は光成系太田垣氏の人物と思われ、いわば太田垣氏の本家筋にあたり、宗応の家は、惣領家となった通泰の子孫が備後へ赴いている間、但馬における太田垣一族の中心となって、その留守を守っていたのでしょう。宗応のあとの備後守護代は、美作守宗収がなっています。

 美作守宗収は美作入道と同一人物と考えられ、『翠竹真如集』にみえる法諱を宗収、徳叟と号した人物のようです。若年には山名時熙に可愛がられ、中年には持豊に仕え、晩年には政豊に重用されました。そして、政豊は嫡子俊豊を備後守護に任じたとき、山名俊豊が若年であったため、宗収を守護代に任じて俊豊を補佐させました。宗収はこれに応え、よく山名俊豊を補佐しました。宗収の死後、備後守護代は惣領家から派遣された宗朝の子俊朝が受け継いでいます。

 宗収には子宗幸、そして甥に光久がいたと伝えています。また、『日光院文書』にも光朝・時久・氏定・隆定・三河入道浄□・紹悦らの名が見えるが、一般に知られている『太田垣系図』には光朝を除いてその名を欠き、太田垣氏には不明な点が多いようです。

引用:「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会・武家列伝他
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【但馬の歴史】(19) 垣屋氏(5) 垣屋氏と山名氏の対立

轟・垣屋氏と楽々前・垣屋氏

垣屋氏は板東から山名時氏に従って、但馬に移り住んだのが垣屋家が山名氏に仕えた始まりで、以後代々山名氏の家老となる。 山名氏から気多郡の西気谷の三方郷に所領を与えられたようであるが、弾正の孫の代になると、所領は西気谷から竹野谷へと拡げられ、垣屋氏勢力扶植の基盤を確立したようだ。義遠の息子ら三兄弟のうち、長子熙続、二子熙知はともに主君山名時熙の偏諱を受けたもので、垣屋氏に対する時熙の信頼がいかに篤かったかを示すものである。 明徳2年(1391年)明徳の乱にあたって、大部分は山名氏清・山名満幸に属したのに対し、山名時熙方に属したのは垣屋氏だけだったことが発端である。その結果、明徳の乱を契機として垣屋氏は躍進を遂げることになった。 このとき、垣屋家は10万石以上を手にしたとされており、これを垣屋氏の最盛期であると判定する。

明徳の乱で但馬国衆は山名氏清方と山名時熈方に相分かれて戦った。その結果、執事の小林氏をはじめとして、山名氏家中の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていた。山名氏の建て直しを急務とする時熈にすれば、優秀な人材を求める気持は強かった。さらに、氏清方に味方した土屋氏、長氏、奈佐氏らは勢力を失い、山名氏家中に大きな逆転現象が起こった。そのような状況にあって、急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏であった。とくに、「応永の乱(1399)」における両氏の活躍が、その台頭に拍車をかけた。

応永の乱とは大内義弘が将軍義満に起こした叛乱で、これに関東公方らが加担して一大争乱となったものである。さらに、明徳の乱で没落した氏清らの一族も丹波で義弘に呼応した。時熙は丹波を平定、堺の合戦において被官の大田垣式部入道が目覚ましい活躍をみせ、乱後、但馬守護代に抜擢された。その後、時熙が備後守護に補任されると大田垣氏が守護代に任じられ、但馬守護代には垣屋氏が任じられた。こうして、垣屋氏・大田垣氏が山名氏の家中に重きをなし、さらに八木氏、田結庄氏を加えて山名四天王と称されるようになるのである。

明徳の乱以来着々と力を蓄えていた垣屋氏は山名家の筆頭家老の座につき、以後山名氏を陰で支えることとなる。

明徳の乱で活躍した垣屋弾正の孫の代になると所領は西気谷から竹野谷へと拡げられ、垣屋氏勢力扶植の基盤を確立した。 嘉吉の乱の恩賞で山名宗全が播磨守護職を賜ったとき、その代官として播磨守護代に任命されたのは垣屋越前守熙続であった。熙続の名は『但馬大岡寺文書』にもみえている。『校補但馬考』がもっとも整然としているとする『因幡垣屋系図』には越中守豊春も越前守熙続もその名を欠いている。おそらく、垣屋氏は多くの庶子家を抱える巨大な武士団を構成していたようだ。

このころから垣屋氏は 越前守熙続(長男)・ 越中守熙知(次男)・ 駿河守豊茂(三男)に別れ、それぞれ越前守家は三方郷の楽々前城、高田郷の越中守家は宵田城、駿河守家は竹野谷の轟(とどろき)城を受け持った。なお彼らは 垣屋弾正の孫、すなわち遠江入道の子である。

日高(高生・たこう)平野の南、円山川支流の稲葉川が大きく南に流れを変える岩中佐田連山の東端にある山城で、場所に永享二年(1430)、築城された。北に祢布城(にょうじょう)・国分寺城、北北西に水生(みずのお)城、北西に伊福(ゆう)城、日高・高生田が一面に見渡せ、岩山の急斜面があり、ふもとを流れる円山川の支流稲葉川が自然の堀となって、最高の条件に恵まれていました。稲葉川が東向きから急に南方に向きを変えるところにつくられており、気多郡の要として重要な位置にあります。楽々前城からのなだらかな稜線が続く形から南龍城とも呼ばれました。

幸福丸は播磨守隆国と名を改め、応永年間(1394~1427)に佐田知見連山の高峰に楽々前(ささのくま)城を築き、自らはここに移り住み、宵田城には隆国の次男垣屋隠岐守国重を城主にしました。  本丸の跡は300mの頂上にありましたが、今は車で登れる道が整備され城跡は区が整備する公園になっています(ただし一般通交禁止)。ここから本拠の楽々前(ささのくま)城まで尾根づたいにつながっていたといわれています。

応仁の乱(1467年-1477年)以降、山名氏に付き従っていた垣屋氏は没落し、戦国時代後期には垣屋続成が田結庄是義に殺される。

かくして、天正三年の秋、野田合戦が起こった。田結庄是義が他出した隙を狙った垣屋続成の子の轟・垣屋豊続(光成)が鶴城を攻撃したのである。急をきいてかけ戻った是義と豊続軍は野田一帯で対戦、敗れた是義は自害した。垣屋豊続は続成の仇をとったことになった。そして轟城から鶴城に本居を移した。この戦いに際して、楽々前城の垣屋播磨守らは田結庄氏を支援したようで、垣屋氏は毛利方と織田方に分かれて一族の対立は深刻化していた。
着々と力を蓄えていた垣屋氏は山名家の筆頭家老の座につき、以後山名氏を陰で支えることとなります。このころから垣屋氏は 垣屋弾正(重教)・時忠・隆国の三代百年に渡る間に、発展の基礎を打ち立てました。

嘉吉の乱と山名氏の衰退

山名氏は嘉吉の乱で守護領国となっていた播磨や備前では、応仁の乱を期に回復した赤松政則が占拠している状況にあいました。山名氏と赤松氏はいわば犬猿の仲です。山名政豊は、旧領回復のため、文明15年(1483年)に赤松家の内紛に乗じて播磨に出兵します。当初は真弓峠の戦いで大勝したものの、文明17年(1485年)以降は劣勢となり、長享2年(1488年)には政則に敗れて(坂本の戦い)、播磨における影響力を失うに至りました。

赤松氏は六千、山名氏は三万の軍隊を投入していました。圧倒的な大軍にかかわらず、山名が負けたのは、布陣を誤り、垣屋の陣所、森岡城が攻撃を受けている時に、山名政豊は遠く離れた書写坂本城(姫路市)にいて、援軍を出すすべも及ばなかったためです。その後も播磨で山名と赤松との間に一進一退の戦いを展開するが、文明十八年(1486)、英賀の戦いには、山名勢は敗北、垣屋越中守、惣右衛門など数十人が討ち死にしてしまいました。

つまり、前年の戦いに次いで良国のみが一人残されました。先に文明8・9・12年にわたって、隆国の三子が相次いで他界しました。

さらに同年四月、書写坂本の戦いにも敗北した山名政豊は、書写坂本城を保持するばかりに追い詰められました。長享二年(1488)、坂本城下で激戦が行われ、敗れた山名方は結束を失っていきました。

窮地に陥った政豊は但馬への帰還を願いましたが、垣屋氏をはじめ但馬の国衆らはあくまで播磨での戦い継続を求めました。さらに嫡男の俊豊も撤収に反対したため、追い詰められた政豊は、ついに坂本城を脱出して但馬に奔りました。かくして山名勢は総退却となり、赤松勢の追尾によって散々な敗走となりました。但馬国衆まもとより俊豊を擁する備後国衆らは背を向けました。

なかでも一連の敗北で、多くの犠牲を払った山名氏の有力被官で播磨守護代の垣屋氏と政豊の間には深刻な対立が生じていました。備後守護代であった大田垣氏や備後衆は俊豊を擁する動きをみせ、俊豊が政豊に代わって家督として振舞っていたようです。ところが、明応の政変によって将軍足利義材が失脚、義材に従って河内に出陣していた俊豊は窮地に陥りました。ただちに但馬に帰った俊豊でしたが、与党であったはずの垣屋・太田垣氏らが政豊方に転じたため、但馬は俊豊の意のままにはならない所となっていました。  垣屋続成は明応二年(1493)、山名俊豊と対立、政豊・致豊の重臣として実質的に山名領国の経営を担うようになる。

永正九年(1512)居城を楽々前城から鶴ケ峰城(日高町観音寺)に移し、ここを垣屋本流の拠点としました。楽々前城よりも標高が高く、山名氏の本城をはじめ四方が見渡せるからでしょう。こうした中、轟城主系の垣屋には戦死者が出なかったのが、せめてもの救いでした。
天正になると、山名氏の衰退とともに、西に毛利氏、東に織田氏が台頭すると、四天王たちは独立色を強め、二派に分かれ抗争を繰り広げ、山名氏の衰退をさらに加速させました。
垣屋続成の子が播磨守光成で、光成は八木・田公・田結庄ら但馬の有力国人衆と謀って主君である山名致豊に離叛し、山名誠豊を擁立して但馬の領国経営の実権を握ります。以後、垣屋光成(気多郡)・太田垣輝延(朝来郡)・八木豊信(養父郡)・田結庄是義(城崎郡)等四頭が割拠し但馬を四分割した。
この後、田結庄との「野田合戦」が起きた。

垣屋氏と山名氏の対立

本拠地を九日市から直轄領である出石郡西部の此隅山へ退転し、さらに現在の出石城がある有子山に城を移した。出石への移転の背景には、被官垣屋氏との相克がある。特に将軍位継承にからんで、義稙派の垣屋氏と義澄派の山名氏との勢力バランスが微妙に関わり合ったと見られる。山名氏は応仁の乱・播州放棄・山名政豊が死去し、子・俊豊や国人の背反など、政豊によって辛うじて維持されていた山名氏の勢いがなくなり、大きく傾いた。
さらに播州放棄・山名政豊が死去し、子・俊豊や国人の背反など、政豊によって辛うじて維持されていた山名氏の勢いがなくなり、大きく傾いた。

永正元(1503)年夏、軍勢乱入により出石神社が焼失した(沙門某勧進帳)。近くの此隅山山下の山名致豊勢を垣屋氏が襲ったと見られるが、一宮出石神社の所在地としても、直轄領の重要拠点であったから、城や在所の有無に関わらず、この地で両者が衝突することはあり得たと思われる。

永正2(1505)年6月、垣屋氏との争い後、将軍義澄は山名致豊に命じて垣屋氏と和睦させたが、内書では「先年和与を申しつけておいたのに実を挙げていない」と叱責する。
問題は、この和与調停にある。和世の条件等は不明であるが、山名氏の出石への退去の要因・動機であり得た可能性は極めて高い。義澄の調停の意図は、復権を目指す前将軍義稙の上洛に対抗して「腐っても鯛」である山名氏国衆の統一と団結とその和解に期待したものといえる。

結局、義稙は復権し(永正5年)、義稙派の垣屋光成は行粧諸道具使用を許されて将軍直参の資格を得、永正9年、山名致豊引退とともに本拠を宵田城(日高町)から城崎城(今の神武山豊岡城)に移した。後に豊岡に残した宵田の地名(現・中央町)は邸があった場所である。

この時点で、垣屋氏は山名政権下の国人筆頭の地位を脱して名実ともに、但馬の支配者としての地歩を固めた。

田結庄是義の父・右近将監は垣屋氏の出であり、太田垣氏・田公氏を始めとするかつての山名氏の有力被官にも養子を送り込まれている。

野田合戦後、田結庄氏の居城鶴城(愛宕山城)に入った轟・垣屋豊継は城崎城の但馬山名氏が衰えたあと、垣屋豊継は宵田城から城崎(木崎)城に入った垣屋氏と組んで「但馬一円を知行」したとされ、天正8(1580)年、但馬を征服した豊臣方の宮部善祥房がまず鶴城に入ったのは、但馬支配者の城だったからと説く向きもあります。

天正二(1574)年に山名祐豊が有子山城に復帰したとき、垣屋氏を含めて旧被官が傘下に列したのは、但馬を制圧した織田氏が、但馬の新秩序を固めるために強制した体制であったが、天正三(1575)年の田結庄氏滅亡といった傘下被官同士の争乱に見られるように、山名氏にその統制力はなかった。

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【但馬の歴史】(5) 大岡山と進美寺

大岡山と進美寺

南北朝のころ、気多郡(豊岡市日高町)の南東にそびえる須留岐山は、その名の通り剣のような男らしい山ですが、気多郡の西に位置する大岡山は、なだらかな稜線をした女性らしい山です。

『三大実録』(868)に正六位上大岡神は左長神・七美神・菅神と共に神階が進んで、従五位下となっている事から知られるように、古くから大岡山は山そのものが神様だと信じられています。

古代の日本人は、風雪や雨や雷など頭上に生起する自然現象に、すべて畏敬の眼で接し、そこに神の存在を信じていました。とりわけ米作りの生活が展開すると、秋の実りを保証してくれるのも神のなせる技との思いが強められます。神が天井から降臨し給う聖域は、集落の近くにあり、樹木が生い茂ったうっそうとした高い山だとか、あるいはなだらかな山容をした美しい山だと信じられていました。大岡山は、まさに大きな丘のような山として、そのまるっぽい姿は、神が天降り給うと信じるのにうってつけの山であったわけだし、つるぎ(剣)の尖りにも似た須留岐山は、神が降り来る山の目印とも感じられていたことだろう。このような神の山は「カンナビヤマ」とも呼ばれていました。神鍋山も「カンナビヤマ」のひとつであったものと思います。

日高町の南東に位置する須留岐山は、山の尾根を西へ行くと進美寺山(シンメイジヤマ)は、円山川と支流浅間川の分水嶺であったと同時に古代律令制時代に制定された養父郡と気多郡の郡界線でもあった。進美寺は、705年、行基が開き738(天平十年)、十三間四面の伽藍と四十二坊の別院が建立されたものと伝えられています。

山中のわずかばかりの平地にそのような伽藍が造営されていたとは、そのまま信じることはできないが、但馬に仏教が伝播してくる一つの契機であるとすれば、進美寺の開創が但馬のどこよりも古いものと考えたとき、但馬国分寺が政府によって造営された官寺であったのに対し、全くこれと異なった基準で政府ではなく川人部広井や日置部是雄のような地方在住の有力豪族によって造営されています私寺だったのであります。

『但馬国太田文』によると、但馬八郡で寺の多い郡でもせいぜい六ヵ寺なのに対し、気多郡には十七ヵ寺と、ずば抜けて多い。当時の農民の生活の場を避けるように、平野部に建立されないで人里離れて奥まった山間いに建立されていました。『但馬国太田文』が記された1285年(弘安八年)においては、伽藍があり、堂塔の美を競っていたようです。

大岡山は大岡神として神社が建てられていましたが、757(天平元年)に寺院が建てられました。開基は気多郷の住人、忍海公永の子、賢者仙人だとされています。忍海部広庭と同じ人物だろうといわれています。その際に地主神である大岡神を慰めるために大岡社を建てています。客人神として加賀白山神社から白山神社があるが、天台宗の寺院では必ずといってよい程、客人神として祀られています。現在こそ真言宗だが、当初は天台宗でした。進美寺も同じく天台宗です。
山名時氏が守護となった頃の気多郡の武士はどのような人たちだったのだろう。

大岡寺文書によると、観応二年(1351)山城守光氏が太多荘内に得久名と名付ける田地を所持しています。他には、太田彦次郎…太田荘の太田を姓にしていますから太田荘の有力者でしょう。太田垣通泰、垣屋修理進。太田垣は、但馬生え抜きの氏族、日下部氏の名が流れで、朝来郡で優勢な人で、応仁の乱の功によって、山名時熙が備後守を復した時、最初に送り込んだ守護代です。朝来郡だけでなく気多郡にも領有権を保持していました。垣屋修理進は、垣屋系図には見えないが、おそらく垣屋の主流につながる人でしょう。

進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより、全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文であります。

但馬国の守護所はどこに置かれていたのだろうか。出石町付近だとの考えもあります。それは但東町太田荘の地頭は、越前々司後室だが、この人は北条時広の未亡人だと考えられる地位の高い人だから、在京者で、その実務を執り行うのは、守護関係の人ではないかと推定されます。また、太田氏の所領が出石郡に集中していますからです。

しかし、国衙がある気多郡に守護所が設置されてもいいはずです。但馬国の場合、国衙の機能は鎌倉時代を通して活発に発揮されていました。国衙に国司が赴任していなくても、留守所が置かれ、京都の指令を忠実に行政面に施行しようとしていました。公式的には目代と在庁官人で構成されていました。この在庁官人の中に、ある時期には進美寺の僧が関係していたらしい。このころ御家人といっても、文字について教養のないものが多くいた時代であります。ましてや農民層に至っては文化的な教養などは無縁であったからです。

大将野荘(現在の野々庄)57町二反余は『但馬国太田文』によると、畠荘宇治安楽院領、領家円満院宮とあります。円満院は、京都岡崎にあり、相次いで皇族が入院される寺格の高い寺で、国衙近辺の地に荘園があり、その中に守護所が設置されていた可能性も推定できます。
引用:『日高町史』

南北朝時代

内乱の中で、足利尊氏ら武士勢力にとっても、「天皇制は必要」でした。幕府の重職の中には、天皇をないがしろにする行動が見られました。たとえば、美濃国の守護、土岐頼遠は京都で光厳上皇の行列に行き会って、「院のお車であるぞ、下馬せよ」と注意を受けると、「なに、院というか、犬というか、犬ならば射ておけ」と、上皇の牛車を取り囲み、なんと犬追物をするがごとくに矢を放ちました。牛車は転倒したといいますから、まかり間違えば上皇の命に関わる所行でした。

近江国を掌握する京極導誉は、光厳上皇の兄弟で、天台座主を務めた妙法院宮亮性法親王の邸宅に焼き討ちをかけ、重宝を奪い取りました。激怒した比叡山が導誉の処刑を申し入れると、出羽国への流罪が決定しました。しかし、三百騎を率いて京都を出発した導誉は諸処で宴会を催し、適当なところから帰京してきました。あたかも物見遊山です。

将軍の執事、高師直(こうのもろなお)に至っては、「京都には王という一がいらっしゃって、多くの所領を持っている。内裏とか院の御所とかがあって、いちいち馬を下りねばならぬ面倒くささよ。もし王がどうしても必要だという道理があるのなら、木で造るか、金で鋳るかして、生きている院や国王(天皇)はみな流し捨て奉れ」。また配下の武士たちに、「土地が欲しければ貴族様の庄園だろうと、由緒ある寺院の所領だろうと、構うものか。好きなだけ奪い取れ。あとは私が、庄園領主のみなさまに適当にいい繕っておいてやるから」とも指示していました。

しかし、こうした風潮の中で、それでも天皇制は生き延びました。必要とされたのです。それはいうまでもなく、京に居住する天皇・貴族・大寺社を名目的にせよ上位者と仰ぐ、平安時代以来の土地所有の方法であったからです。幕府は「職の体系」を越える理論を用意することができなかったのです。

足利尊氏と直義の兄弟は、一致協力して室町幕府の発展に努めていました。尊氏は将軍として全国の武士を束ね、所領の安堵を行うとともに、軍事活動の指揮を執っていました。直義は鎌倉時代に進展した統治行為を継承し、さらに展開して、行政・司法を司っていました。二人は互いの活動と権限を重ね合わせ、新たな将軍権力を創出したのです。

南北朝時代、以後六十年にわたって天皇家が分裂します。争乱といっても両者がまともに戦えたのはわずか一、二年でした。1338(暦応元)年五月、北畠顕家が率いる奥州勢が、和泉国堺で壊滅しました。壊滅は「中央集権はもはや機能しない。地方を重視し、委譲せよ」等、建武新政を痛烈に批判した後に戦死を遂げました。閏七年には越前で新田義貞が敗死しました。これをもって南朝の組織的な抵抗は頓挫します。あとは各地で小規模な局地戦が継続していきます。

新田義貞を中心に南朝に参加した新田一族と異なり、山名時氏は縁戚の足利尊氏に従いましました。尊氏の世がくると時氏も運気を掴み、守護大名として山陰地方に大勢力を張り、足利三代将軍義満の時代、幕府には、最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいました。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(トップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていました。

その後の観応の擾乱では、南朝側に与して足利直冬に従いましたが、足利義詮時代には幕府側に帰参しました。

足利氏の姻族である上杉氏との縁戚関係などから、新田一族の惣領である新田義貞には従わずに、足利尊氏の後醍醐天皇からの離反、湊川の戦いなどに参加。南朝(吉野朝廷)との戦いで名和氏掃討を行い、伯耆の守護となります。

その後は山陰において、幕政の混乱にも乗じて影響力を拡大して播磨の赤松氏とも戦います。幕府では1367年に細川頼之が管領に任じられ、南朝との戦いも小康状態になると、大内氏や山名氏に対して帰順工作が行われ、時氏は領国の安堵を条件に直冬から離反、1363年(貞和2)8月には上洛し、大内氏に続いて室町幕府に帰順します。幕府では、義詮正室の渋川幸子や、同じく幕府に帰順した斯波義将、大内弘世らとともに反頼之派の武将でした。73歳で死去。

山名氏の築城に功績のあった人として山名師義がいます。師義は、氏清の弟、兄弟に義理、氏冬、氏清、時義。観応の擾乱では直義方・南朝方に属した父の時氏に従い、兄弟たちと共に尊氏方・北朝方の赤松氏と争い、中国地方における勢力拡大に務めます。

貞和8年(1363年)に山名一族が北朝に帰順すると、丹後国(京都府)・伯耆国(鳥取県)の守護職を引き継ぎました。幕政においては三管領の細川頼之らと派閥抗争を繰り広げました。1371年に時氏が死去すると惣領となります。

伯耆国に打吹山城(鳥取県倉吉市・伯耆国の守護所)を築き、時氏統治時代の居城田内城(たうちじょう)から移転しています。文中年間(1372~74)出石神社の西側の此隅山(このすみやま)に、此隅山城を築きました。此隅山城は長らく山名氏の本拠でした。まもなく師義も49歳で死去し、山名一族内紛の一因となります。

三開山城(みひらきさんじょう)

豊岡市駄坂  国道312号佐野付近から北方に見える

城史にまつわる話は、あくまでも伝承であって、客観的な資料に裏付けされた史実ばかりではありませんが、意味もなく伝わったわけではなく面白いものです。 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会による話です。

豊岡盆地中央部東縁の三開山(標高201.6m)にあります。豊岡市街から見ると、六方田んぼの東側に、202mの低いけれど富士山に似たきれいな山が見えます。三開山は、見開山とも書かれたように、眺望の良い立地で、豊岡盆地を制する戦略的位置を占めます。山頂部に二曲輪(くるわ)、尾根にも数曲輪を残ります。

室町時代の初め-南北朝時代(1333~1392)に、後醍醐天皇を中心とする天皇親政派(南軍)と、足利尊氏を中心とする武家政治派(北軍)とが、激しく争って、日本の各地で戦争が絶えなかった時代です。

延元元年(1336)、南軍の楠木正成が湊川の合戦で敗れて、南軍の勢力が弱まる前後から、但馬の武士の多くは北軍に味方しましたが、それでもまだ南軍に味方するものもあって、津居山城や、気比の高城(いずれも豊岡市)には、北軍の今川頼貞が攻めてきて、これを落としています。

その翌年の延元二年に、南軍の総大将、新田義貞は、越前(福井県)に潜んでいましたが、とくに弟の秋田義宗を但馬の三開山に派遣して、但馬の南軍の全体の指揮に当たらせ、山陰地方の南軍と連絡を取るようにさせて、越前と但馬の両方から、京都に攻め入る作戦を立てていました。ところが、足利尊氏は、そうさせては一大事と、弟の直義にこれを討つように命じました。直義は家来の小俣来金を但馬に攻め入らせました。

秋田義宗は、進美(しんめいじ)山城(豊岡市日高町)や妙見山城(養父市八鹿町)と連絡を取りながら戦いましたが、あてにしていた因幡や伯耆(いずれも鳥取県)の南軍の応援もなく、小俣来金の激しい攻撃の前にあえなく落城し、義宗は越前に逃れました。

このあと、一時、山名時氏、師義の父子がこの城に入り、自分で但馬の守護だと称していたといわれていますが、その山名が足利方に追われる身となって、因幡に逃げている間の延文三年(1358)に再び、三開山城の麓の篠岡で、南北両軍が戦っています。

この時の城主はよく分かりませんが、攻めたのは北軍の伊達三郎という武将です。四月から七月にかけて篠岡の里をはじめ、六方田んぼで血みどろの戦いが行われています。七月のある時には、大洪水の六方田んぼに、南軍の数百そうの船が攻め寄せ、追いつめられた北軍は山の中へ逃げ込み、大将の伊達三郎も矢傷を受けるほどの大激戦でした。

しかし、結局、南軍が敗れ、三開山城は落城してしまいました。
一部に野面積みの石垣があり、南北両斜面に18本の堅堀を刻むなど、戦国時代の特徴を表すことから、時代的には1580年(天正8年)、羽柴勢の但馬攻めの時に落城したという地元の伝承を史実として肯定的に見直すこととなった。1337年(建武4年)、新田義貞の子・義宗を迎えて、但馬南朝勢力の拠点化を図ったと伝えるが、史実ではない。頂上には落城時の焦米(こげまい)が出るという。

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歴史の両側(3) 終戦記念日と靖国神社

 八月十五日、終戦記念日。国の公式行事として英霊に対して天皇陛下、首相など国を代表して靖国神社に参拝し、12時のサイレントともに戦没者に黙祷を捧げ、武道館で戦没者追討慰霊式典が行われる。
評論家、西村 幸祐氏は
 
 一部のマスコミがほとんどが安直な戦犯合祀批判と神道の多神教的な柔構造とアミニズム的許容性を無視した形で問題にするのである。国難に殉じ、身を捧げた英霊を顕彰、追悼すべき聖域から、ほど遠い卑小な世界に引きずり出した。

 元来信仰とはイデオロギーではなく、世俗的な風習であり、あえていうならば神道は、聖書や経典「宗教」でもなかった。クリスチャンの大平首相が参拝を行っていたように。

 意外にも、最近の神道研究によれば、アメリカの戦後占領政策が“国家神道”を必要としていたといっても過言ではないようだ。GHQは大東亜戦争の原因を軍国主義的に過激な国家主義によるものだと規定し、再び日本国民が戦争を起こさないように、国家と神道神社の繋がりを解消し、断罪して天皇と神道の存在を認めたくないために利用したのである。神社と国家の間の政教分離を図った。翌1946年に制定された宗教法人法に基づき、靖国神社は同年9月に宗教法人となったことで自ら国家護持体制からの離脱を明確にした。

 経済力を着実に付けてきた中国と1991年に国連加盟を果たした韓国が、靖国参拝を問題視して外交カードに使用してきた背景には、間違いなく日本の反日勢力の動きにリンクしていた。共産主義の末路を目にした日本の左翼勢力が、時代遅れになった仮面を脱ぎ捨て、新たな「反日運動」として「従軍慰安婦」「靖国戦犯合祀問題」「沖縄集団自決」というテーマを捜し出し、自らの存在意義をかろうじて守ろうとしているだけだ。

 私もいつか靖国神社に参拝したいと思っています。靖国神社と全国各県にある護国神社は、国難に殉じ、身を捧げた英霊を顕彰する国家施設でした。神道国家である日本、日本人は神社に参拝することの本質は、もっと素直な気持ちである。政教分離といわれ、キリスト教だけでないアメリカでも大統領就任式に聖書に手を当てて誓う。おかしいではないかと中国・韓国がいうだろうか。政治的に理屈だてて行ってはいない。
 天皇陛下がカナダとハワイの国立墓地を訪問された。訪問された慰霊の施設をご訪問されることは国際的な礼儀です。カナダもアメリカも軍の幹部が随行することは最大の礼です。

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歴史の両側(2) 原爆とルーズベルト

今年も八月六日がやってきた。広島に原子爆弾が投下されてから64年、また終戦記念日とお盆というこの季節は、ふだん忘れている日本人の心を思い出させる。

広島、長崎の平和記念式典に時の総理大臣が参列する。このことに反対する人はいないのに、なぜ英霊を祀る国家を代表する靖国神社に八月十五日に参拝することに反対する人がいるのか不思議です。

原爆を投下された唯一の被爆国、日本はヒロシマ・ナガサキ宣言で世界に核兵器廃絶と平和を訴える。さらに、オバマ米大統領が「核のない世界の実現」を提唱し、アメリカとロシアとの核削減を約束した。

さて、東京裁判が自国の戦争責任は自国で裁判する国際法によって裁かれたものではなく、類のないアメリカの根拠のない不当なものであることは承知のことだが今回は置くとして、前回は東条英機について書きましたが、今回は原爆とアメリカ元大統領フランクリン・ルーズベルトについて話題にしたいと思う。

昨日、チャンネル桜の渡辺昇一先生「桜塾講座-世界偉人伝」で東条英機とルーズベルト(2)を観た。

昭和三十二年生まれの私は、少年の頃、戦争体験者の亡き祖母から、いろいろ戦争や軍歌を聴かされたり、学校で習うことで、軍国主義や多くの尊い人命を失った戦争を起こした日本人は悪いとふつうに思っていた一人だ。

フランクリン・ルーズベルトが大統領になったとき、アメリカは第一次世界大戦でイギリスやフランスを凌ぐ帝国覇権主義国家になっていた。暴力で領土を拡大する国は、逆にどこかに攻撃されないかと絶えず恐れているのだ。

ルーズベルトはオランダ系移民で、アメリカで裕福な資産家の息子に生まれた。海軍を経て民主党から大統領になった。当時白人至上主義で有色人に対する人種差別は激しかったが、オランダはとくに人種差別が激しい。インドネシアの占領政策やアフリカで最後までアパルトヘイト(人種差別政策)を行った南アもオランダ植民地だ。また、戦争を起こした時期は共和党よりタカ派の民主党の大統領である。

ヨーロッパからアメリカ東海岸に上陸し建国したアメリカは、西へ西へと原住民の土地を侵略し、カリフォルニアまで征服した。海洋を制することが国益につながる。イギリス、日本とともに三大海軍国のアメリカは、次はさらに西へ太平洋からアジアに向かうことだった。ハワイはすでに日本人移民が多く、いつ日本がアメリカ大陸に侵攻してくるかと脅威を抱いていたアメリカは、ハワイの王を追い出し占領下においた。

世界恐慌の中で就任したルーズベルトは、ドイツ人やイタリア人に行わなかった有色人である日系人を強制収容した。政権期間を通じて行われたアフリカ系アメリカ人の公民権運動に対する事実上の妨害という、ルーズベルトの人種差別的観点から行われた失政は、その立場を問わず大きな批判の対象となっただけでなく、アメリカにおける人種差別の解消を遅らせる要因の1つとなった。

日本はそのことで国際社会に人権保護を訴えた最初の有色人であるのだ。アジアの自主独立しかないと東條は大東亜共栄圏を構想し世界で初の首脳会議を東京で開いた。これがアジア諸国が不当な差別的植民地から目覚める勇気となり、戦後アジア諸国が独立に向かったことは日本人の精神とアジアで評価されている。

政府による経済への介入として「ニューディール政策」を行ったが、失業率が依然高止まり状態を保つなどなかなか成果が上がらず、やがて労使双方から反発もおきるようになった。しかしながら、1941年の第二次世界大戦参戦による軍需の増大によってアメリカ経済は回復し、失業者も激減した。

東アジアは、すでに北からソ連、満州はソ連(ロシア)を追い出した日本、沿岸部の都市はドイツ、フランス、イギリスが抑えてしまっており、アメリカはフィリピンを占領していたが、大陸でのアメリカ進出の余地はなかった。そこで満州に鉄道の共同建設を日本に申し入れたが日本が断ったことで、進出機会を失ったアメリカは日本への関係を硬直化させることとなった。

当時ヨーロッパ戦線においてアドルフ・ヒトラー率いるドイツ軍に、イギリス本土上陸寸前まで追いつめられていたイギリスのウィンストン・チャーチル首相や、中国蒋介石の夫人でアメリカ留学経験もある宋美齢が、数度にわたり第二次世界大戦への参戦や日中戦争におけるアメリカの支援、参戦をルーズベルトに訴えかけており、大量の軍事物資や退役軍人を派遣した。ソ連もまた日本がいつ侵攻してくるか恐れていた。ドイツとの戦争でアジアに手が回らないことで、毛沢東の中国の共産主義者に武器を与えた。また、当時は敵対関係になかったアメリカに日本に戦争を仕掛けるため、裏には社会主義に傾倒していたルーズベルトの側近にソ連とつながったロシア系共産党員の作戦があった。また、日本の後ろ盾のイギリスとの日英同盟破棄に成功する。ブロック経済を敷いて不当な関税を課せた。世界の4分の1を植民地とするイギリス、自国で石油資源が確保できるアメリカやソ連、また東南アジアに植民地を持つフランス・オランダは自国貿易で困らないからだ。唯一資源を持たない日本の石油ルートを封鎖することで海軍の勢力を弱めることだ。こうして完全に在英米蘭の日本資産凍結、日米通商航海条約の廃棄、日本の石油輸入ルートを遮断した。

日本は何度もアメリカとの交渉に挑んだが決裂した。アメリカは日本と戦争を起こす機会を狙っていたのである。一方的な内容のハルノートを送りつけたことで、戦争回避は不可能になる。さてハルノートといわれる文書は、国務長官ハルが作成したのではなく、側近のヘンリー・モーゲンソー財務長官が示し、更に彼の副官ハリー・ホワイトの作成によるものだった。ソ連系共産党員だったことが知られている。つまりそれがアメリカのいわば最後通牒と受け取った(「極秘、試案にして拘束力なし」との記述があり、ハルノートは試案であることが明記されているのにもかかわらず、なぜ外務省がその箇所を削除して枢密院に提出し、東郷外相が天皇に上奏して「最後通牒」と解釈されるようになったのか、外務省および東郷外相の真意は不明である)。

何度も御前会議を重ねて対英米開戦が決議された。国際法で自国を守るために戦うという行為は正統であり認められている。宣戦布告書とみなした日本は、ハワイの真珠湾の軍事施設を攻撃した。これは戦争においては民間を攻撃しないことを定めた国際法に則った世界で認められた戦争行為である。
なお、ルーズベルト大統領やチャーチル首相のように、戦前の日本では戦争を命ずる権限は総理大臣にはなく、当然、東條英機首相には認められていないことと、東條英機首相は最後まで戦争には反対していたこと、他の海軍・陸軍大臣など罷免する権限はないこと、昭和20年(1945年)のポツダム宣言受諾を決めた御前会議を除き、天皇は通常積極的な発言を行わなかった、ことを明記しなければならない。

アメリカは沖縄から本土に一般住民であろうと構わず無差別爆撃を繰り返した。白人社会秩序を守りたいルーズベルトや連合国の考えは、日本民族の全滅である。このような国際法に背いた非道な戦争をした国はかつてない。

共和党の大物の面々が日本への原爆使用に反対していたこともあって、トルーマンは投下決定を共和党側には伏せたまま、先にスターリンに知らせた。後に共和党大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者の米陸海軍の将軍たち(マッカーサーも含む)は全員が反対意見を具申している。アイゼンハワーに至ってはスティムソン陸軍長官に対し「米国が世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを、私は見たくない」(一九六三年の回想録)と何度も激しく抗議していた。すでの敗戦濃厚な日本にさらに原爆を投下する必要はなかった。10万人規模の無差別大量殺戮を2度行ったことを忘れてはならない。トルーマンは二発目の長崎投下後「さらに10万人も抹殺するのは、あまりにも恐ろしい」として、3発目以降の使用停止命令を出した。一方で、トルーマンは公式的な場では原爆投下を正当化し続けていた。またトルーマンが日本へ計十八発もの原爆投下を承認していた事実がワシントン.ポスト紙にスクープされている。戦後、アメリカ国内の戦争に荷担した共産党員は自殺もしくは暗殺されたり逮捕された。

「戦争を終わらす為に民主主義を守るためにアメリカは原爆を投下した」は、戦勝国が正当化するための後付である。アメリカに罪のない国民を殺害した戦争責任と法的根拠のない東京裁判などで罪のない人を裁き、死刑に追いやった真実を検証することも、忘れてはならないのだ。ルーズベルトやトルーマン、チャーチルこそ、戦争をけしかけた犯罪者として国際裁判で裁かれなくてはならないのである。

一国の憲法を他国が定めることこそ、不当な行為であり例がないのだ。ドイツは連合国の憲法草案を拒否し、戦後自主憲法を定めた。なぜ当時の日本の政府は拒否できなかったのだろう。いずれにしても現憲法は日本の憲法ではない。そのようなものを戦争を仕掛けた社会主義、共産主義でありながら、しかも戦後は護憲といっている政党や政治家は、責任意識もなく頭がおかしいのではないか。

日本だけが唯一の被爆国ではない。ウイグルやシベリア、アメリカで行われた核実験で被害を受けている。しかも自国民がである。なぜ今も行っている国々に反戦団体は中国やロシア、北朝鮮に対して、しかも唯一戦争に原爆を使用したアメリカに対しては抗議と謝罪・弁償を要求しないのか。

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歴史の両側(1) 東條英樹とルーズベルト

日本文かチャンネル桜 桜塾講座-世界偉人伝「東條英樹とルーズベルト(前編)」
講師:渡部昇一(上智大学名誉教授)7.29 水曜日 22:00-23:00

渡部先生の話は、穏やかな口調の中に芯の通った美しい日本の歴史や価値観が聴けて尊敬する先生の一人です。
世界偉人伝は平成16年の再放送ですが、当時はチャンネル桜を観ていなかったので初めてです。
昨夜は、「東條英樹とルーズベルト」でした。

東條英樹といえば東京裁判でA級戦犯とされて死刑になった悪者のように伝えられています。
しかし、ヒトラーやムッソリーニと同様に独裁者と思われていますが、実際は戦後、アメリカの戦勝国によって犯罪者という汚名を着せられてしまったという一方的な事実が知られています。

そのいきさつが話の中でくわしく分かりました。
・すでに近衛首相のときに、アメリカは国内の不況で日本製品に3倍近い関税を課せて、日本製品の輸入を阻んだが、コストを下げて必死にがんばっていたが、ABCD包囲網が敷かれ、米、英、フランス、オランダから石油などの資源の輸入が止まってしまっていたこと。三国同盟を結んだのは近衛首相だったこと。国交や経済封鎖され石油や資源も乏しい中で戦争に踏み切らなくを得なかった。当時の帝国主義は白人主義で黄色人種差別はすごかったのだ。
・近衛首相のあと東條英樹陸相が首相になったときにはアメリカと戦争状態に入っていたこと。東条は凄く真面目な軍人で、絶えず戦争には反対しており、部下思いで平和主義者であったこと。
・御前会議で戦争布告を近衛内閣で決定した後、首相になって再度御前会議を開き天皇の戦争回避を確かめてもう一度アメリカと交渉を行ったこと。
・大東亜共栄会議は東條の構想で、地球初の国際会議となり、独立国タイをはじめ、満州国、清朝、フィリピン、インド、インドネシアの植民地の独立を世界で最初に援助したのは日本であり、それがアジア開放だった。欧米植民地であったトルコやアフリカの独立運動のさきがけとなった。王兆名政権は日本の働きで中国の近代国家化をめざしていたが、欧米、ソ連の武器援助を受けた共産党の毛沢東、蒋介石南京政府は抵抗し、日本が敗戦し、王兆名が処刑されてソ連が支援する毛沢東とアメリカが支援する蒋介石の内戦の末、現在の中共と中華民国(台湾)となった。そのことをタイの王は本に書いている。
敗戦国日本が世界に向けて言っても聴いてくれないし言わないが、何百年も植民地とされてきたアジア諸国は日本がアジアの独立に貢献したことに感謝し世界にもっとアピールしてくれればあと100年もすれば評価が変わるかも知れない。
ルーズベルト、チャーチル、ヒトラー、スターリンなどは絶対権が行使できたが、戦前の日本の内閣は首相が各大臣を罷免する機能がなく、首相が独断で軍や内閣を動かせなかったこと、海軍は陸軍よりも権威があり、東條のことを聞かなかった。
そのようなことを聴くと、国際法上無効な東京裁判で、A級戦犯として不名誉な死刑に処せられた方々に対する事実をせめて日本人なら改めてもっと知っておくべきであると思いました。

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日本海に多い気多という地名と気多神社

拙者が生まれた町は古くは気多(ケタ)郡といわれていた。明治29年(1896年)4月1日、郡制の施行のため、城崎郡・美含郡・気多郡の区域をもって、改めて城崎郡が発足。(2町24村)。平成17年(2005年)4月1日
城崎町・竹野町・日高町が豊岡市・出石郡出石町・但東町と合併し、改めて豊岡市が発足、郡より離脱。香住町が美方郡村岡町・美方町と合併して美方郡香美町が発足。同日城崎郡消滅。以上によって気多郡も城崎郡も消滅したが、ところで、気多ってどういう意味なんだろう?というのがあった。

1.気多という地名

「気多」という郡名、郷名は、日本海に意外に多く、鳥取県(因幡国)気多郡(現鳥取市青谷町・鹿野町)、兵庫県(但馬国)気多郡(現豊岡市日高町)、京都府(丹後国)加佐郡に気多保(現舞鶴市喜多?)、石川県羽咋市能登国一宮気多大社(羽咋市寺家町・延喜式は名神大)、遠江国(静岡県西部)山香郡気多郷にもかつて気多郡があった。

明治29年(1896)、鳥取県の旧気多郡は高草郡と合併して、気高郡となり、現在は鳥取市。伝説で有名な因幡の白兎は、この気多郡に関係がある説話で、「この島より気多の崎という所まで、鰐(ワニ=サメのこと)を集めよ」といい、兎が隠岐から戻る話です。気多の島という名は、『出雲風土記』の出雲郡の条にも出てきます。

気多大社は、石川県羽咋市に能登国一宮、旧国幣大社で、同じ「大己貴命(オオナムチノニコト)」を祭神とする気多大社など北陸にたくさんある。気多大社の社伝によれば、大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされる。崇神天皇のときに社殿が造営された。奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、『万葉集』に越中国司として赴任した大伴家持が参詣したときの歌が載っている。

人名では、奈良時代末期から平安時代初期にかけて、気多君の名が出てくる。

「気多の名前が分布しているのは、出雲、因幡、但馬、能登と太平洋側の遠江の五ヶ所に限られる。但馬の気多神社も、祭神は出雲国と濃い関係にある大己貴命(おおなむちのみこと)だというから、気多という名を負う気多氏は、出雲の国から起こって、その一族の播居地に、気多という名前を残していたとも考えられはしないだろうか。」

と日高町史は記している。

2.気多大社と気多苗裔神びょうえいしん

 

六国史・延喜式比定社備考
国郡旧社名社格現社名主祭神所在地
能登国気多大神宮式内社(名神大社)気多大社大己貴命石川県羽咋市寺家町能登国一宮

六国史や『延喜式』神名帳には、次に示すような気多神の苗裔神(御子神)や分祠が日本海沿いの各地に確認される。(ウィキペディア)

櫻井正範さんから自著『気多祝の源流』気多神は、越中国府に分祀された。越中国一宮気多神社である。さらに越後国が分離されると、国衙の置かれた直江津の五智に気多の神が分祀され、越後国一宮居多神社が創建された。後になって越後の一宮は、弥彦神社となった。同様に国内最後に立国された加賀国には、江沼郡(小松市額見町)に気多神が分祀され、気多御子神社が創設される。また気多神は飛騨国にも足跡を残した。古川盆地に鎮座する気多若宮神社である。この他に但馬国円山川の中流域を支配する気多郡にも、気多神社は鎮座する。

気多苗裔神の一覧

六国史・延喜式比定社備考
国郡旧社名社格現社名主祭神所在地
飛騨国吉城郡気多若宮神気多若宮神社大己貴命

御井神

岐阜県飛騨市古川町上気多国史見在社
加賀国江沼郡気多御子神社式内社気多御子神社天照皇大神 大己貴命 菊理媛神石川県小松市額見町
越中国射水郡気多神社式内社(名神大社)気多神社大己貴命
奴奈加波比売命
富山県高岡市伏木一ノ宮越中国一宮
越後国頸城郡居多こた神社式内社居多神社大己貴命
奴奈川姫命
建御名方命
事代主命
新潟県上越市五智越後国一宮
但馬国気多郡惣社気多大明神式内社気多神社[*1]大己貴命兵庫県豊岡市日高町上郷但馬国総社

*1 『国司文書 但馬故事記』には、人皇一代神武天皇九年冬十月、佐久津彦命の子・佐久田彦命を以って佐々前県主と為す。佐久田彦命は国作大己貴命を気立丘に斎き祀る。これを気立神社と称し祀る(佐々前県はのち気立県となり、さらに気多県)。また。「人皇八代孝元天皇三十二年の条に、当県の西北に気吹戸主命の釜在り。常に物気を噴く。ゆえにその地を名づけて、気立原と云う。その釜は神鍋山なり。よって佐々前県を改めて気立県と云う。」

気多神社は最初は気立神社と云う。気立県は、のちに気多県と字を変え、気多郡と改制される。

これからみると、能登国一宮の気多大社と豊岡市日高町の総社気多神社の関係性以前に、気多は、神鍋山に由来する県名としてすでに存在していたので、気多大社から気多郡になったのではなさそうである。

その神鍋山であるが、すでに何万年も前に死火山となっており、「常に物気を噴く」とは解せない。神が宿っているとされる山を神名備というが、物気とは「もののけ」で、噴火口の痕を見た人々が、「もののけ」が宿っていそうな神名備としたのが、神鍋に訛ったのだろうと筆者は考えている。

気多神社の社伝では、

『播磨国風土記』宍禾郡御方里条では、葦原志許乎命(大己貴命)と天日槍命が黒葛を投げて国占を争ったという伝説が記され、葦原志許乎命の投げた黒葛3本のうち1本は但馬気多郡に落ちたと伝えることから、郡名を冠する当社は早くより鎮座したものと推測される。また社名から、能登国一宮の気多大社(石川県羽咋市)を始め各地の気多神社との関連が指摘される。

同じく『国司文書 但馬故事記』に、「人皇二八代宣化天皇三年夏六月、能登臣気多命を以って、多遅麻国造と為す。能登臣命は、その祖・(垂仁天皇の皇子)大入杵命を気多神社に合わせ祀る。」

多遅麻国造に能登臣の子孫らしき人物が任命されることに不思議に思っていた。能登国造は、成務天皇の御代に垂仁天皇の皇子大入来命(大入杵命)の孫彦狭島命が任じられ、後裔は能登臣である。能登国一宮・気多大社と気多神社の関係性があるとすれば、能登国造ゆかりの能登臣の子孫が多遅麻国造に赴任したのはそうした経緯と思わなくもない。

 

 

気多神社と潟湖

気多という地名・神社の所在地を地図上に確認すると、かつては潟湖であった寄港地に鎮座していることがわかった。ネットでそのことを書いていたことから、櫻井正範さんから自著『気多祝の源流』という作品をいただいた。

能登と丹波

能登半島が丹後半島との関係を深めたのは、ヤマト大王系譜からみるとタケル(日本武尊)の祖・垂仁天皇を仲立ちとしている。今日の天皇系譜につながる大王(天皇)は、六世紀前半の継体天皇からではないかと考えられている。この継体大王は越前三国湊で育ち、母の振姫は羽咋君に連なっている。

丹波と能登は、共に対馬海流が海岸を洗う日本海に突き出た半島国であった。そして能登半島・羽咋はくいは、丹後半島・竹野たかのと同様に「潟湖」が発達した日本海の良港であった。両半島の付け根に位置した潟湖は、弥生時代から水田が開かれていた。今では干拓が進んで一面の水田となり、潟湖の面影はない。潟湖とは、砂州で出口を狭められて出来た汽水湖である。

この両地域の潟湖には、日本海地域王権を象徴する盟主古墳が築かれている。丹後半島の西の付け根の竹野潟を見下ろす丘に、日本海側最大の前方後円墳、神明山古墳が築かれた。神明山古墳は、全長210m、三段築成葺石で覆われ、象形埴輪が伴っている[*2]。古墳の麓には、代々櫻井氏が奉る丹後竹野神社が鎮座する。一方、能登半島の気多大社の背後には、滝大塚山古墳が築かれた。直径90mの帆立貝形古墳で、やはり葺石で墳丘が覆われ、邑知潟おろちがたを見下ろす眉丈丘陵に築造された。埴輪を伴う帆立貝形古墳としては、日本海側最大級のものであった。

両方の古墳は、ヤマトに「イリヒコ」王権が成立した四世紀末から五世紀初頭に築造され、潟湖を見下ろす地域盟主の古墳である。丹後半島の神明山古墳から出土した象形埴輪には、船首が上がるゴンドラと、かいを持つ人物がヘラ描きされており、埋葬者と海との関わりが深いことを物語っていた。森浩一氏によれば、越のヨオド王(継体大王)は、帆船をトレードマークに使用したと言われる。

*2 日本海側最大の前方後円墳は、網野銚子山古墳(墳丘長201m)で、神明山古墳はこれに次ぐ墳丘長190m。

 

たじまる 出雲-5

神話に隠された謎

1.神話に隠された謎

『古代史 秘められた謎と真相』関 裕二氏によると、
「因幡の白ウサギ」「ヤマタノオロチ」はどれもこれも、牧歌的な昔話のようにみえる。
ところが、ここに大きな落とし穴があった。

権力者が歴史書を記す、ということは、実に政治的な行動で、その目的はただ一つ。自らが権力の座を射止めるまでに汚してきた手を洗い流すことにある。そのためには、詭弁、曲解、矮小化、改ざん、捏造と、ありとあらゆる手段を駆使して、政敵を避難し、自らの正義を主張した。
つまり、歴史書とは、権力者の「弁明の書」であり、「正当性(正統性)の証明」の書に他ならなかった。また「神話」は、彼らの「原罪」を振り払うに格好の材料となったわけである。それは神の世界にまでさかのぼり、権力者は正当性の証明にチャレンジしたのだ。

『日本書紀』編纂に政治的圧力を加えた人物は、具体的に特定できる。それが藤原不比等だった。
この人物は、女帝持統に大抜擢され、めきめきと頭角を現した。やがて、誰も逆らえないほどの体制を確立し、また藤原千年の繁栄の基礎を築いたことで知られている。藤原氏がもっと早く没落していれば、本当の歴史は復元されていたかも知れないが、千年はちょっと長すぎた。

伊勢神宮の祭神アマテラス(天照大神)は日本で最も尊い神と信じられているが、ネタばらしをすれば、これは、藤原不比等を重用した女帝持統をそのまま皇祖神に仕立て上げ、祭り上げたものに他ならない。
神話のなかでアマテラスは、子ではなく、孫を地上界に降ろして王にしようと企てたとあるが(天孫降臨)、これは、そっくりそのまま持統の生涯に当てはまってしまう。このアマテラスの天孫降臨を手助けしたのがタカムスヒという神だが、この神の行動も、藤原不比等そっくりで、なんのことはない、神話には、七世紀から八世紀にかけての、持統天皇と藤原不比等が新体制を確立したその様子と、これを正当化するための物語がちりばめられているわけである。
そう考えると、何ともアホらしくなってくるのだが、歴史なんて、所詮そんなものだ。

2.神話に秘められた二重構造

伊勢神宮の祭神アマテラスが持統天皇そのものとしても、この話にはもう一つ裏がある。
伊勢神宮には内宮と外宮があって、それぞれの祭神が、アマテラスとトヨウケ(豊受大神)という。伝承によれば、はじめアマテラスが祀られていたが、「独り身で寂しい」という神託が降って、それならばと、丹後半島からもう一柱の女神トヨウケが連れてこられた、というのだ。
どうにも不審なのは、出来すぎた話ながら、伊勢神宮の二柱の女神は、邪馬台国の二人の女王とそっくりなことなのだ。

なぜそうといえるのかというと、まず重要なのは、アマテラスの別名がヒミコに通じていることだ。『日本書紀』には、大日霎貴(おおひるめのむち)と記されていて、この「日霎」を分解すると「日巫女(ひのみこ)」となり、「ヒノミコ」は「ヒミコ」そのものとなる。一方、外宮のトヨウケも、邪馬台国のヒミコの宗女で、やはり女王として君臨したトヨ(台与)の名を冠していたことになる。こんな偶然、ありうるだろうか。

ヤマト建国と邪馬台国の時代は重なっている。日本を代表する神社に、ヤマト建国前後の女傑が祀られていたとしても、何ら不思議ではない。
逆に不思議なのは、『日本書紀』のほうだ。

アマテラス(ヒミコ)とトヨウケ(トヨ)が伊勢神宮で祀られているほどの古代の有名人だったのであるならば、なぜ「歴史」に二人を登場させなかったのだろう。少なくとも、正式に魏から「倭国王」のお墨付きをもらった二人であるならば、ヤマトの王家の正統性を証明するのにうってつけの人物だったはずなのだ。

ところが『日本書紀』は、ヒミコを神格化してアマテラスとし、かたやトヨ(トヨウケ)にいたっては、まったく無視してしまった。さらに『日本書紀』は、アマテラスに持統天皇の姿もだぶらせ、神話のなかに二重構造をつくり出してしまっている。邪馬台国のヒミコを丁重に祀らねばならないが、その正体を後世に伝えられない、というジレンマが『日本書紀』にはあるかのようだ。

3.出雲は祟る?

つい近年まで、ヤマト建国以前の出雲には、神話にあるような巨大な勢力があったわけではないというのが常識でした。出雲神話は創作されたものであり、ヤマト建国後の話に終始していたものであったからです。

出雲神話があまりにも荒唐無稽だったこと、出雲からめぼしい発掘品がなかったこともその理由でした。

ところが、このような常識を一気に覆してしまったのが、考古学の新たな大発見でした。島根県の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡、鳥取県の青谷上寺地遺跡、妻木晩田遺跡の発見によって、弥生後期(ヤマト朝廷誕生前夜)に、山陰地方に勢力が出現し、しかも鉄の流通を支配していた可能性が出てきたのです。

「実在したのに神話の世界に封印されてしまったのなら、出雲は『日本書紀』を編纂した八世紀の朝廷にとって邪魔だったのではないか?…そうであるなら、なぜ出雲に関する神話が多く取り上げられているんだろう?」

出雲は三世紀のヤマト朝廷建国に一肌脱いでいて、『日本書紀』もこの辺りの事情をしぶしぶ認めている経緯が感じられます。

たとえば、実在した初代天皇とされる崇神(すじん)天皇の時代、ヤマト最大の聖地、三輪山に祀られる出雲神・大物主神を、「倭(ヤマト)を造成した神」と讃えています。
『日本書紀』のなかで、これ以降も出雲神はたびたび登場し、しかもよく祟っています。朝廷はそのたびに、出雲神を丁寧に祀っていました。
いったい、出雲のどこに、秘密が隠されているのでしょう。

4.「神」と「鬼」の二面性

日本では八百万(やおよろず)の神といい、それはキリスト教世界ではありえないのです。神は一人であって、だからこそ絶対的存在とみな信じているのです。「唯一絶対の神がこの世を想像し、その教えが絶対的に正しい…」、これがいわゆる一神教というものです。これに対し、万物に精霊が宿るというアミニズムから発展した多神教で、そこいら中に神がいて、どの神が正しいというはっきりとした基準がありません。

日本人はなんの抵抗もなく、総指揮を仏式で、お盆を日本の土着の風習(先祖の霊を招くというのは仏教ではない)で過ごし、クリスマスはキリスト教と、まったく節操なく数々の宗教行事を行っています。この様子をキリスト教やイスラム教徒からみれば、目を丸くするに違いありません。
しかし、多神教的風土にどっぷり浸かっている日本人にとって、仏陀もキリストも、どれもその他大勢の神々の中の一つに過ぎません。日本人の新し物好きの根源も、このあたりに原因がありそうです。

多神教の神には二つの顔があります。人々に恵みをもたらすありがたい福の神「豊饒(ほうじょう)の神」、そして、祟りのような災難をもたらす神です。これは、良い神と悪い神の二種類いるというわけではなく、一柱の神に、「神」と「鬼」の二面性があるのです。

つまり、神と鬼は表裏一体であり、神は祟るからこそ祀られ、そして、祟る神=鬼は祀られることで、恵みをもたらす豊饒の神へと変身します。このような複雑で原始的な図式が多神教の特色であり、一神教世界は、この混沌から抜け出し発展したと自負しています。また、先進国で多神教を信奉しているのは日本だけです。おそらくこの辺にも、「日本は異質だ」、といわれる原因があるのでしょうか。

しかし、多神教にも長所はあるのです。物事を善悪という単純な物差しで測るのではなく、すべてには二つの側面があるという発想は、自分たちの主張だけが正しい、という一神教的発想とは隔絶しています。また、神が世界を創造し、その神の教えに従う人間がこの世界を支配できるという発想が一神教なのです。これに対し多神教は、宇宙、大自然との共存を考えます。

このようにみてくれば、多神教は野蛮なのではなく、むしろ、これからの世界に必要な考えなのではないかと思えてきます。

神話の多くは荒唐無稽で取るに足らない話ですが、だからといって、すべての話に意味がないというわけではないようです。それどころか、多くの謎かけとカラクリが隠されています。天皇家の祖神が高天原から地上界に舞い降りたという「天孫降臨」がそのいい例です。

だいたい、ヤマトに直接飛び降りてくればいいのに、わざわざ南部九州に舞い降りたこと自体がどうにもうさん臭いのです。皇祖神は日向の地でしばらく過ごし、そしてニニギの末裔の神武天皇がここからヤマトに向かった話が、「神武東征」です。一般に、これら天孫降臨から神武東征にいたるストーリーは、まったくでたらめだ、と考えられています。天皇家の歴史を古く偉大に見せかけたものに過ぎない、というのです。

どうにも腑に落ちないのが、『日本書紀』が天皇家の歴史を誇示しようとしたのなら、なぜ天孫降臨の地を南部九州に決めたのか、ということです。ヤマト朝廷が誕生する以前、日本列島でもっとも繁栄していたのは、なんといっても北部九州でした。朝鮮半島に近いという地の利を生かし、交易によって富を蓄えていました。このため、ヤマト朝廷は北部九州の勢力が東に移って完成したのだろうという考えが強いです。だから、皇祖神が天孫降臨したという話なら、むしろ北部九州や出雲の方がふさわしいのです。

しかも、『日本書紀』は、南部九州に「熊蘇(くまそ)の盤踞する未開の地」というレッテルを貼っています。熊蘇(隼人)はたびたび朝廷に逆らい、討伐される者どもとして描かれています。したがって、皇祖神は的のまっただ中に降臨していたことになります。天皇家は隼人を身辺においていたし、南部九州には、かなり早い段階で、ヤマト朝廷のシンボル・前方後円墳が伝わっています。天皇家と隼人は、同族としても描かれています。史実だからこそ、南部九州が舞台になったのではないでしょうか。