古丹波(丹後・但馬)が大和政権に組み入れられた時代は

古丹波(丹後・但馬)が大和政権に組み入れられた時代は


※この地図は地図作成ソフトを元に古墳を方向を調べて私が作成したものです。上の地図は、前方後円墳は、それぞれのクニのどこに、どの方向に向いているのかを分かる範囲で地図上に記してみたものである。方向はGoogleマップにも組み込まれているので、現在の地図上で古墳の位置を確認することができる。

前方後円墳の方向は朝廷のある大和に関係しているのか、それぞれのクニに自主性を持って決められたのか、分からないが関心があるテーマである。

『前方後円墳』というサイトによくまとめられているので引用させていただくと、

弥生時代は、魏志倭人伝が伝えるように日本列島各地で多くの勢力が「国」として、たがいに対峙していた。卑弥呼の時代(3世紀前半頃)には,邪馬台国を含めておよそ30「国」の存在が魏側で知られていたようである。

前方後円墳の出現の背景には、統合への流れが進行して他とは比肩できないほどの大きな勢力の出現があったと考えられる。この勢力とは大和を本拠とする大和政権(大和朝廷)である.巨大な前方後円墳の築造は、大和朝廷の権威を他の地域へ誇示するねらいがあったとみてよいだろう。奈良県や大阪府に多数遺存する4世紀末以降の巨大前方後円墳が天皇や皇后など皇統に属する人々、もしくは朝廷において有力な地位にあった人々の墳墓であることを考えると、時代をぐんとさかのぼる古い箸墓古墳(奈良県桜井市)も巨大前方後円墳である以上、当然大和朝廷に属する高貴な人の墳墓でなければならない。

邪馬台国が北部九州にあったのか、畿内かはさておき、少なくとも崇神天皇(第10代天皇)以降の大和朝廷が奈良を本拠としてきたことは歴史上明白である。

前方後円墳の各部位の呼称は決まっている.丸い部分を「後円部」、矩形部分を「前方部」,後円部と前方部の接続部を「くびれ部」とよぶ.被葬者が葬られている場所は後円部であって、前期古墳にあっては、前方部上で葬送の祭祀が執り行われたと考えられている。前方後円墳の築造企画は、前期から中期へ、さらに後期へと時間が進行するにしたがって変化するが、とくに前方部が大きく発達していくという明瞭な変化が認められる。くびれ部付近に「造出(つくりだし)」とよばれる小さな突起部をもつ古墳が中期頃から現れる。左右両側,または片側だけにつくられる.造出は祭祀用の施設とみられるが、前方部の巨大化にともなって、前方部上でくり返される祭祀の執行に不便をきたすようになったことが造出出現の理由とも考えられる。

丹後・但馬は大宝律令以前に分国するまでは丹波内であったが、律令以後に3つの国に分国された。中央集権化が強固になるにつれて、大和から遠い丹後にあった丹波の政治の中心は大和に近い現在の亀岡市に移り、丹波・但馬・丹後と3つに分けられる。

これは地形的に比較的に高い山で遮られる丹波・但馬・丹後の特性もあったかも知れない。しかしそれだけで、3つに分けた理由にはならない。分けるにはそれぞれ国府建設や国司など莫大な費用が生じるからである。

何かの理由が生じたと考えるのが普通だろう。

朝鮮半島への最短ルートとしてこの地が大和政権にとって重要だったことで、大和政権に組み入れる必然性があったからだと考えるのである。

日本海側最大の前方後円墳は、丹後の網野銚子山古墳(京都府京丹後市網野町網野)で、墳丘長は201m。それに次ぐ規模が神明山古墳(京都府京丹後市丹後町宮、墳丘長190m)、蛭子山えびすやま1号古墳(京都府与謝郡与謝野町加悦、墳丘長145m)の3つの前方後円墳が、日本海側および京都府では最大規模の古墳で、「日本海三大古墳」と総称される。

「日本海側で最大の前方後円墳が丹後に集中している

なぜ丹後に日本海側で最大の前方後円墳が丹後に集中しているかである。

それでは、大和政権に組み入れられた時代はいつ頃だろうか?少なくとも崇神天皇が四道将軍を派遣し本州を平定していった時期からだろうと思われる。

丹後三大古墳は4世紀末-5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定される。網野銚子山古墳は、墳丘3段築成、築造された順番は、蛭子山1号墳が4世紀中葉、網野銚子山古墳がそれに次いで古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭、神明山古墳が4世紀末-5世紀初頭とされる。

網野銚子山古墳と神明山古墳は、日本海に突き出た丹後半島の北、網野銚子山古墳は浅茂川の河口にできた浅茂川湖、神明山古墳は竹野川の河口の竹野湖という古代の潟湖(ラグーン)に対して墳丘の横面を見せる形式をとっており、前方部を北北東に向けている。当時の丹後地方がこれら潟湖を港として日本海交易を展開した様子が指摘される。それに対して蛭子山古墳は、丹後半島反対側の付け根で、日本三景天橋立を形成した野田川に北北西に開けた加悦谷の東縁部にあり、前方部を北西に向ける。

但馬地方では最大、兵庫県では第4位の規模の前方後円墳は池田古墳(兵庫県朝来市和田山町平野)で、5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定される。

ヤマト王権の宮が置かれた大和と大和川が注ぎ込む大阪湾の摂津・河内・和泉の機内には、大王(天皇)墓である大型の前方後円墳がいくつも造営されている。前方後円墳の最古とされる箸墓古墳(奈良県桜井市箸中)は、3世紀後半以降とされている。

大和政権と大丹波(今の丹後。但馬。丹波)との結びつきが記紀に登場するのは、第11代垂仁天皇の最初の皇后、狭穂姫命である。父は四道将軍のひとりである彦坐王(日子坐王)ひこいますのみこ、母は沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の女)。次の皇后である日葉酢媛命は彦坐王の子である丹波道主王たにはのみちぬしのみこの女であり、狭穂姫命の姪に当たる。第12代景行天皇を生む。日本海三大古墳と総称される蛭子山1号墳、網野銚子山古墳、神明山古墳と、それ以降の池田古墳、船宮古墳が築造された年代は垂仁天皇期であると思われる。


日本史ランキング

四道将軍 彦坐王(日子坐王)の終焉の地は

四道将軍 彦坐王は、『古事記』では「日子坐王」、『日本書紀』では「彦坐王」と書く。

『日本書紀』開化天皇紀によれば、第9代開化天皇と、和珥臣わにのおみの遠祖の姥津命ははつのみことの妹の姥津媛命ははつひめのみこととの間に生まれた皇子とする。『古事記』では、開化天皇と丸邇臣(和珥臣に同じ)祖の日子国意祁都命ひこくにおけつのみことの妹の意祁都比売命おけつひめのみこととの間に生まれた第三皇子とする。

四道将軍と丹波道

『古事記』崇神天皇の条に、四道将軍(古訓:よつのみちのいくさのきみ)が各地に派遣されたとある。いずれも皇族(王族)の将軍で、大彦命おおびこのみこと武渟川別命たけぬなかわわけのみこと吉備津彦命きびつひこのみこと、丹波道主命の4人を指す。『古事記』では一括して取り扱ってはおらず、断片的のそれぞれの将軍を扱い、四道将軍の呼称も記載されていない。『日本書紀』では事績に関する記載はなく、子の丹波道主命たにわのみちぬしのみことが丹波に派遣されたとしている。この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国、丹後国、但馬国を指す。

また、西道(山陽道)に派遣された吉備津彦命は、『日本書紀』『古事記』とも、「キビツヒコ」は亦の名とし、本来の名は「ヒコイサセリヒコ」(紀)彦五十狭芹彦命、(記)比古伊佐勢理毘古命とする。『古事記』によると、崇神天皇10年(西暦217年)にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。北陸は大彦命、東海は武渟川別命、西道(山陽道)は吉備津彦命、そして丹波には、丹波道主命が派遣されたのである。

四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル(日本武尊)伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている。

 

国土交通省

四道とは北陸、東海、西道、丹波の四つの地方であり、地理的に丹波道は狭いが、図のように幹線道路としては離れざるを得ない立地にある。山陰道から別れて丹後半島今でも東海道などは使われているようにこの時期の「丹波国」は、後の令制国の丹波国、丹後国、但馬国を指し、五畿七道の山陰道に含まれる。山陰道の篠山あたりから別れて円のようにまわり、但馬国府の置かれた気多郡(今の豊岡市日高町)で山陰道に合流する支線を丹波路としている。北陸、東海、西道が細長い広大なエリアなのに対し、この時代の分立するまでの3国を含めた丹波を、近年、丹波王国、大丹波、北近畿などと名付けられていたりする。日子坐王のの子が丹波道主命ということから、丹波道主は丹波道の主(首長)ということを意味する名前なのだ。当時の丹波、丹後、但馬をまとめて総称するなら「丹波道」がふさわしいと思う。

北陸、東海、西道は現在でもほぼ同じエリアであるが、日本海側を山陰道のような表記では表さず、丹波道としているのは、丹後の三大大前方後円墳や但馬の池田古墳規模の大規模な前方後円墳が鳥取・島根で少ないことも因幡以西の出雲王国までにヤマト王権による支配権が当時は及ばなかった証拠でだろう。

玖賀耳之御笠(陸耳御笠)くがみみのみかさ

日子坐王は天皇の命によって旦波国(丹波国)に遣わされ、土蜘蛛の玖賀耳之御笠くがみみのみかさ(陸耳御笠とも)を討ったという。彦坐王が丹波に派遣されたとあるが、丹波道主命は彦坐王ひこいますのみこ・-おうの子で、実際に遣わされたのが丹波道主命とも読めるし、一緒に派遣されたとも読める。

『国司文書 但馬故事記』に詳細に記されている。第10代崇神スジン天皇10年(前88年)秋9月 丹波青葉山の賊 陸耳の御笠、土蜘蛛匹女ら、群盗を集め、民の物品を略奪した。
タヂマノクルヒ(多遅麻狂・豊岡市来日)の土蜘蛛がこれに応じて非常に悪事を極め、気立県主櫛竜命を殺し、瑞宝を奪った。

崇神天皇は、第9代開化天皇の皇子であるヒコイマス(彦坐命)にみことのりを出して、討つようにいわれた。ヒコイマスは、子の将軍 丹波道主命とともに、
多遅麻朝来直の上祖 アメノトメ(天刀米命)、
〃 若倭部連の上祖 タケヌカガ(武額明命)、
〃 竹野別の上祖 トゲリヒコ(当芸利彦命)、
丹波六人部連の上祖 タケノトメ(武刀米命)、
丹波国造 ヤマトノエタマ(倭得玉命)、
大伴宿祢の上祖 アメノユゲノベ(天靭負部命)、
佐伯宿祢の上祖 クニノユゲノベ(国靭負部命)、
多遅麻黄沼前県主 アナメキ(穴目杵命)の子クルヒノスクネ(来日足尼命)、等
丹波に向かい、ツチグモノヒキメを蟻道川で殺し、クガミミを追い、白糸浜に至った。
クガミミは船に乗り、多遅麻の黄沼前の海に逃げた。

『丹後風土記残欠』にも、

(志楽郷)甲岩。甲岩ハ古老伝テいわク、御間城入彦五十瓊殖天皇ノ御代ニ、当国ノ青葉山中ニ陸耳御笠トフ土蜘ノ者有リ。其ノ状人民ヲ賊フ。ゆえに日子坐王、勅ヲ奉テ来テ之ヲ伐ツ。即チ丹後国若狭国ノ境ニ到ニ、鳴動シテ光燿ヲあらわたちまチニシテ巌岩有リ。形貌ハ甚ダ金甲ニ似タリ。因テ之ヲ将軍ノ甲岩ト名ツク也。亦其地ヲ鳴生(今の舞鶴市成生)ト号ク。

福知山のニュース両丹日日新聞WEB両丹に玖賀耳之御笠(陸耳の御笠)は、

ところで、大江町と舞鶴市は、かつて加佐郡に属していました。「丹後風土記残欠」にも、加佐郡のルーツは「笠郡」とのべています。
この「笠」に関連して、興味深い伝承が青葉山に伝わっています。ご承知のように、青葉山は山頂が2つの峰に分かれていますが、その東側の峰には若狭彦、西峰には笠津彦がまつられているというものです。笠のルーツは、この笠津彦ではないのか、そんなふうに考えていたところ、先年、大浦半島で関西電力の発電所建設工事中、「笠氏」の刻印のある9世紀頃の製塩土器が発見されました。笠氏と呼ばれる古代豪族が、ここに存在していたことが証明されたわけです。また、ここから、大陸との交流を裏づける大型の縄文の丸木舟が出土し話題となりました。
陸耳御笠。何故、土蜘蛛という賊称で呼ばれながら、「御」という尊称がついているのか。ヤマト王権の国家統一前、ここに笠王国ともいうべき小国家があったのかもしれない。陸耳御笠と笠津彦がダブってみえてきます。

記紀は、土蜘蛛と蔑みながら、陸耳の笠でよいのに御を加えて尊称もしているのは、あまりに無礼であると感じていたのか。「クガミミ」とは国神の事で、クガミミノミカサとは国神クニガミノミカサという意味だとすると、笠国をつくった主とは先住の王であった。土蜘蛛、(つちぐも)は、上古の日本において朝廷・天皇に恭順しなかった土豪たちを示す名称である。各地に存在しており、単一の勢力の名ではない。土雲とも表記される。史書は、勧善懲悪となるのが常で、勝者が美化され、敗者は悪党に描かれる。織田信長VS明智光秀、浅野内匠頭VS吉良上野介、、、本当のところはよく分からないのだ。

『地形で読み解く古代史』関 裕二 氏は、
『日本書紀』に狭穂姫がなくなったあとの垂仁天皇の后妃の記述が残り、垂仁15年春2月10日の条に、「丹波の五人の女性を召し入れた」とあり、その中から日葉酢媛命がのちの皇后に立てられたとある。さらに垂仁34年春3月の条には、垂仁天皇が山背(山城)に行幸し、評判の美女を娶ったとある。
(中略)
なぜタニハの謀反のあと、垂仁天皇はタニハ系の女人ばかりを選んだのだろう。
これには伏線があったと『日本書紀』はいう。狭穂姫が天皇に別れを告げたとき、後添えのことに言及していた。
「私の後宮は、よき女性たちに授けてください。丹波国に五人の貞潔な女性がおります。彼女たちは、丹波道主命(日子坐王の子)の娘です。」
この最後の要望を、垂仁天皇は聞き入れたのである。

どうにもよくわからない。タニハ系の彦坐王の人脈が謀反を起こしたにも関わらず、その上で、次の后妃もタニハからとっている。こうしてタニハの女人で埋まっていく。ヤマト黎明期のヤマトで、いったいなにが起きていたのだろう。タニハ(+山背)が、なぜ後宮を席巻できたのか。

(中略)

やはり、地形と地政学で、この謎は解けるのではないかと思えてくる。たしかにヤマトは国の中心にふさわしい土地だったが、日本全土を視野に入れて流通を考える場合、西国に通づる河内、若狭、丹波三国、さらに東海、北陸に通づる山城、近江のラインが最も大切で、そこを支配する「タニハ連合」と手を組まなければ、政局運営はままならなかったからだろう。

ちなみに東に向かった二人の将軍は、太平洋側と日本海側から東北南部に進み、福島県南部(二人が会ったから、「相津」(会津)の地名ができたという)で落ちあったという。早い段階の前方後円墳の北限は、ほぼこのあたりで、ヤマト建国時の様子を『日本書紀』編者がよく承知していて、その上で、「各地から多くの首長がヤマトを建国したのに、『日本書紀』の文面では、ヤマトから将軍が四方に散らばり、和平したことにしてしまった」のだ。

ヤマト建国の中心に立っていたのは吉備だされる。前方後円墳などにみられる円筒形埴輪が吉備がルーツとされており、吉備にも吉備津彦命が派遣され、その末裔が吉備を支配するようになったとあるが、これは全く逆で、吉備がヤマトに進出しヤマト建国の中心に立ったのだというのだ。『日本書紀』はこの事実を裏返して示している。

10代崇神天皇は、四道将軍を派遣して支配領域を広げ、課税を始めてヤマト政権の国家体制を整えたことから、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。もしそれがタニハ連合(のち分国した但馬・丹後を含む丹波、若狭)+山城、近江、尾張が手を組み、ヤマトに進出し、あわてた吉備と出雲がヤマト建国の流れに乗ったのだ。

としている。

たしかに、ヤマト建国は、タニハなどの連合国家だったならば、ヤマト建国の主役はヤマトではなくなってしまう。これでは国家の史書として都合が悪い。『日本書紀』編者らは、その経過を知っていたので、四道将軍を創作し、朝廷が平定したのだと都合のいいように史実をひっくりかえして朝廷主導に書いたという氏の考察も、あながちそうではないと言い切れない。

しかし、地方豪族ではなかったことは、『日本書紀』に「四道将軍はいずれも皇族(王族)」と記述していることだ。そして、「彦坐王はタニハからヤマトにやってきたとみなすべきだ。」とはどういう根拠なのかだ。彦坐王の子・狭穂彦王と狭穂姫がヤマトにやってきたし、その後も彦坐王の子丹波道主命の娘5人が后・妃になっているが、彦坐王・丹波道主命がタニハからヤマトにやってきた形跡はないし、『日本書紀』に皇族(王族)で開化天皇の皇子としているが、地方豪族出身ということになってしまう。記紀編者らが朝廷に都合が悪い出来事は朝廷優位に改変することがあったろうとは当然思えるにしても、開花天皇の皇子などと捏造したとしたら、皇族に不敬となる話を記紀編者らが創作するはずもない。

彦坐王の墓は但馬か美濃か?

墓は、宮内庁により岐阜県岐阜市岩田西にある日子坐命墓(ひこいますのみことのはか)に治定されている。宮内庁上の形式は自然石。

墓には隣接して伊波乃西神社が鎮座し、日子坐命(彦坐王)に関する由緒を伝える。。美濃を領地として、子の八瓜入日子(やついりひこ-神大根王)とともに治山治水開発に努めたとも伝えられる。この地で亡くなり、この地に埋葬されたという。八瓜入日子は三野国造、本巣国造の祖とされている(本巣国は美濃国中西部)。

これと異なる記述が『但馬故事記』に詳細に記されている。

『但馬故事記』では、陸耳(玖賀耳)之御笠との戦いについて、気多郡・朝来郡・城崎郡では実に詳しく記している。そのうち第二巻・朝来郡故事記では、

第10代崇神天皇天皇十年秋九月、丹波国青葉山の賊・陸耳ノ御笠が群盗を集め、民の物を略奪し、天皇は彦坐命に命じて、これを討たせた。

その功を賞し、彦座命に丹波・多遅摩・二方の三国を与える。
十二月七日、彦坐命は、諸将を率いて、多遅摩粟鹿県に下り、刀我禾鹿(とがのあわが)*1の宮に居した(多遅摩粟鹿県は但馬国朝来郡)。

天皇は彦坐命に日下部足泥(宿祢)くさかべのすくねという姓を与え、諸国に日下部を定めた。諸将を各地に置き、鎮護とした。

丹波国造 倭得玉命
多遅麻国造 天日楢杵命
二方国造 宇津野真若命、その下知に従う。

人皇11代垂仁天皇84年9月、丹波・多遅麻・二方、三国の大国主、日下部宿祢の遠祖・彦坐命は禾鹿宮で死去。禾鹿の鴨ノ端ノ丘に葬る。(兆域東28間、西11間、北9間、高直3間余、周囲57間、後人記して、これに入れるなり)守部二烟を置き、これを守る。

但馬国二宮 粟鹿神社の御祭神は、彦火々出見命ひこほほでみのみこと日子坐王ひこいますのきみ、阿米美佐利命の三柱である書かれる場合が多いが、『国司文書 但馬神社系譜伝』では、
彦坐命・息長水依姫命・遠祁都毘売命(亦名は瀛津姫命・うみつひめ)。

しかし、兵庫県神社庁では次の通り、日子坐王の1柱のみとある。

当社は但馬国最古の社として国土開発の神と称す。国内はもちろん、付近の数国にわたって住民の崇敬が集まる大社であり、神徳高く延喜の制では名神大社に列せられた。

人皇第10代崇神天皇の時、第9代開化天皇の第三皇子日子坐王が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、丹波一円を征定して大いに皇威を振るい、天皇の綸旨にこたえた。

粟鹿山麓粟鹿郷は、王薨去終焉の地で、粟鹿神社裏二重湟堀、現存する本殿後方の円墳は王埋処の史跡である。旧県社。

-「兵庫県神社庁」-

彦坐命の墓は、美濃(岐阜県岐阜市岩田西)と但馬(兵庫朝来市山東町粟鹿)の2箇所にあることになる。但記では、彦坐王は、粟鹿宮で薨去し、粟鹿の鴨ノ端ノ丘に葬るとある。その後は何も記されていない。

ところが伊波乃西神社の由来には、

祭神日子坐王は、人皇第九代開化天皇の皇子で、伊奈波神社の祭神、丹波道主命の父君にあたらせられる。古事記中巻、水垣宮の段(崇神天皇の御代)によれば「日子坐王をば、旦波の国につかわして、玖賀耳の御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめ給いき」とある。史上に表れた御勲功のはじめである。なお、クガミミとは、国神の義であって、旦波の国に国神ミカサが住んでいたのである。王は、その後、勅命により東日本統治の大任をおび、美濃国各務郡岩田に下り、治山治水に着手され且農耕の業をすすめられ、殖産興業につくされた。八瓜入日子王(ヤツリイリヒコノミコ)は、日子坐王の皇子である。神大根王(カムオオネノミコ)と申し上げ、父君の後をつがれて、この地方の開発に功が多かった。日子坐王薨去の後、御陵を清水山の中腹に築かれた。当社の西に隣接している。明治8年12月に至り、日子坐王陵と確認されたので、宮内省陵墓寮の所管に移された。

但馬にある2つの前方後円墳は誰の墓なのか

但馬(兵庫県北部)にある前方後円墳は、朝来市和田山町平野の池田古墳と朝来市物部の船宮古墳のみである。これ以外に前方後円墳は見つかっていないが、但馬は平地の少ない地形から他にも大規模な前方後円墳は築造されてはいないだろう。埴輪・葺石・周濠を備えた古墳は但馬地方では池田古墳と船宮古墳(朝来市桑市)のみである。朝来市域では古墳時代前期の南但馬地方の王墓として若水古墳・城ノ山古墳の築造が知られるが、それらに後続する池田古墳は南北但馬地方を統合する最初の王墓に位置づけられ、その地位は茶すり山古墳(朝来市和田山町筒江)・船宮古墳へと継承される。(朝来市教育委員会)

前方部は祭祀場で、後円部は被葬者が埋葬される。池田古墳は前方部を北東に向ける。池田古墳より南にある船宮古墳は、北北東を向いており、その方向には丹後の旧与謝、加佐がある。但馬史上で彦坐命と丹波道主命は、丹波・多遅麻・二方、三国の大国主(大王)である。単なる国造以上の位であり、この二人以外にいない。丹波三国を眺めるようにかも知れない。大和政権に近いタニハの王は、日子坐王と丹波道主の二人以外にいない。先に初代多遅麻国造となった天日槍はいたが、時代がもっと古いので当てはまらない。

池田古墳も船宮古墳も、被葬者は明らかでないが、国造級の豪族の首長墓と想定され、船宮古墳は当地を治めた但遅麻国造の船穂足尼一族との関連を指摘する説がある。船宮の船が船穂足尼と重なるからだろうが、但記の朝来記には、「第13代成務天皇5年、大多牟阪命の子、(彦坐命の五世孫)船穂足尼命をもって多遅麻国造と定む。船穂足尼命は大夜父宮(今の養父神社)に還る。

(中略)

神功皇后元年、但遅麻国造船穂足尼命薨ず。大夜父船丘山に葬る。(中略)船穂足尼命を夜父宮下座(養父神社)に斎き祀り、また将軍丹波道主命を水谷丘に祀り、これを水谷神社と称す。(現在の水谷神社所在地ではなく、養父神社後方の山中と考える)」とあるから、朝来郡ではなく養父郡で国造の職務を行っており、朝来市物部の船宮古墳と逆方向。大藪古墳群のいずれかだと思う。

*1 禾鹿 禾は本来イネと読むべきだが、禾鹿神を粟鹿神と同一神の如く記す記載が多いので、禾をアハと読むべき。


日本史ランキング

韓國神社と城崎郡司・物部韓国連

但馬には式内社が『延喜式』神名帳では、大社18座10社(いずれも名神大社)・小社113座106社の計131座116社を記載と5番目と大変多い。都の置かれた大和286座や神道のメッカ伊勢253座、出雲187座、都が置かれ交通の重要拠点である近江155座はわかるが、その次に丹波71、丹後65に比べてみても但馬が多いのは不思議であり異様である。

結論から先に言えば、都(大和)から朝鮮半島へ通じる最短地点であったからだと考えている。式内社や重要な神社は、歴史(郷土史)のランドマークだと益々感じる。よく地元の方々のご尽力により残ってきたと思う。

朝鮮渡来人を祀った神社ではなく、韓国を警戒した職務を任ぜられ結論を先に述べれば、韓国神社は『国司文書 但馬但馬神社系譜伝』には物部神社とあり、城崎郡司物部韓国連からくにのむらじ(真鳥)

半島と関わりのありそうな名前の神社が、豊岡市飯谷はんだにの韓國神社にある。「からくにじんじゃ」と読むが、元々は延喜式に式内物部神社だが、俗に韓国神社ともいう。神社の社号標(社標ともいい神社の社号を刻んだ石柱)も韓国神社となっている。由緒を知らないでこの社号を見れば、韓国神社だから、韓国や朝鮮渡来人を祀る神社だと思う人もいるだろう。私もかつてはそう思っていたのである。

なぜそう考える人が但馬内にも多い理由にまず挙げられるのが初代多遅麻国造となった天日槍(あめのひぼこ)の関係性であろう。新羅の王子・天日槍とともに、旧出石郡の安良やすら、旧気多郡賀陽郷の豊岡市加陽かやなどの地名(区)があり、加陽には大師山古墳群がある。竪穴系横口式石室という特殊な石室の群は日本の石室には見られず、朝鮮半島南部の伽耶などとよばれていた地方にみられ、 半島にあったクニと似た伽耶かや安羅あらなどに似た但馬には朝鮮渡来人が住み着いたり、関わりが深いのだと考えられている。

日本海を挟み日本海側と朝鮮半島や渤海といわれた今のロシア東南端などが交流があったのは確かだ。しかし、縄文から弥生にかけて、まだ日本や大陸沿岸部も統一した国家だったわけではないので、今日の国家の概念で同一視するのはよくない。縄文時代から海流民族でもあった縄文人はモンゴロイド系の一グループで、自由に海流を利用して、太平洋の島々、オーストラリア、ニュージーランド、また日本列島や北方諸島、遠くはアラスカからアメリカ大陸に住み着いていった。そのなかに魏志で倭人といわれた人たちは、九州北部や半島南部に文化圏を形成していた。天日槍については記紀には、新羅の王子で帰化したとあり、その他の貴重な史料は『但馬故事記』だ。

「天日槍は稲飯命の五世孫なり。小舟に乗り、漂流し新羅に上り、国王となった」と書かれていること、つまり天日槍は天皇家であり倭人であり、もともと倭国成立当時には半島南部にクニはまだなく、倭人が任那から新羅という集合国家成立に関わっていたことはすでに別記したので、そちらを参照いただき、この韓国神社の謎についてもいろいろ調べてきた結果を記したいと思う。

結論を先に述べれば、韓国神社は『国司文書 但馬但馬神社系譜伝』には物部神社とあり、城崎郡司物部韓国連からくにのむらじ(真鳥)を、その子・次の城崎郡司・榛麿が墾谷村(今の豊岡市飯谷)に祀った神社である。人皇30代欽明天皇25年、気多・城崎県主、大売布命の末裔、物部多遅麻連真鳥が武烈天皇の勅により韓国(半島南部)に遣わされ、平定した功により、物部韓国連からくにのむらじを賜ったことによる。

城崎郡司・榛麿は飯谷(古名は墾谷、針谷、榛谷)を住処とし、父物部韓国連名を祀り、物部神社とした(韓国神社とも)。連(むらじ)はヤマト王権で使われていた姓(かばね)の一つで、家臣の中では最高位に位置していた姓の一つである。

榛麿以降、しばらく世襲で城崎郡司となった。榛麿の子が神津主(畑上の重浪神社)。その子が久々比(鵠)(久々比神社)。同じく榛麿の子で多遅麻の校尉に格麿がいる。その子が三原麿で城崎郡の大領(城崎郡の軍団大将)を務めた。(鏡神社・豊岡市三原)

神津主の弟、格麿は大石宿祢を賜り、以後大石とする。物部韓国連三原麿は大石宿祢と称し、その子大石宿祢正躬まさみは城崎郡司。(大磯神社)

【城崎郡司系譜】

1代          2代 3代 4代
大売布命…物部韓国連からくにのむらじ(真鳥命)ー榛麿-神津主-久々比

物部韓国連の足跡

大売布命(前102-176)
  • 景行天皇三十二年、摂津の川奈辺(川辺郡*1)・気多・黄沼前きぬさきの三県を賜う
  • 味饒田命うましにぎたのみことの弟 彦湯支命の五世孫伊香色男命の子
  • 多遅麻物部氏の祖
物部多遅麻連公武
  • 大売布の子
  • 神功皇后二年、多遅麻国造
  • 府を気立県高田邑に置く
  • 四十五年、新羅朝貢せず。将軍荒田別命・鹿我別命は往きてこれを破る。
物部多遅麻毘古
  • 公武の子
  • 仁徳天皇元年、多遅麻国造
  • 府を日置郷に遷す
物部連多遅麻公(-499)

多遅麻毘古の子

反正天皇三年、多遅麻国造

城崎郡

物部韓国連命(真鳥)

物部韓国連榛麿(564-)
欽明天皇25年 城崎郡司となす。
大売布命の末裔・物部韓国連命の子・城崎郡司
針谷を開き住処となす(今の飯谷)父物部韓国連命を榛谷に祀り、物部神社と云う(また韓国神社とも云う)
式内 物部韓国神社 祭神:物部韓国連命(物部韓国連の祖) 神人みわひと 物部韓国連穀麿かじまろ 豊岡市飯谷250-1

神津主命

推古天皇35年(617) 城崎郡司となす。
榛麿の子
物部韓国連榛麿を榛谷丘に葬る。

久々比命

天武天皇白凰3年 城崎郡司となす。
神津主の子
神津主命を敷浪丘に葬る。
式内 重浪神社 祭神:物部韓国連神津主命 神人 物部韓国連正世 豊岡市畑上843

文武天皇大宝元年 物部韓国連久々比卒す。
三江村に葬り、その霊を三江村に祀り、久々比神社と称しまつる。(久々比は鵠の和名)

式内 久々比神社 祭神:久々遅命(久々比命の別命) 豊岡市下宮318-2
※鵠とは「くぐい」と読み、ハクチョウの古称。

格麿

校尉物部韓国連格麿 奉行

聖武天皇は、金銅の盧舎那仏を鋳造せんがため、金工・泥工(左官)・石工を諸国に募り、かつ大力の者を集め、その工事を助けしめ給う。(東大寺大仏)当国の校尉物部韓国連格麿もまた募に応じ、皇都に上り、而してよく大石を運び、工速やかに成る。天皇これを喜び、天平17年、姓大石宿祢を給う。

榛麿の子

三原麿

城崎郡大領 正八位下 格麿の子

孝謙天皇勝宝元年、物部韓国連三原麿は、姓を大石宿祢と称す。

大石宿祢正躬まさみ

城崎郡司。三原麿を葬り、祠をその傍らに建てこれを祀り、これを三原神社と申し祀る。

豊岡市三原 今の鏡神社

また主帳に命じ、神社の格例を定め、式典を挙げ、左社を以て式典の例に入る。

大石宿祢正名

(大石宿祢正躬が主帳に命じた神社の格例の神社に、神人みわひとに大石宿祢正名という名があり、兵主神社(赤石)・久々比神社・三原神社・清明森神社の神人を兼務している。正躬と同時に神人に任じられて、特に役職の記載がないので、神官職が主だったのかも知れない。)


*1 摂津国川辺郡  今の川西市の全域・伊丹市・尼崎市・宝塚市の大部分(武庫川以北)・三田市と大阪府豊能町の一部

式内売布神社 宝塚市売布山手町1-1 今の祭神は下照姫神
式内 〃   豊岡市日高町国分寺797 大売布命
式内 女代神社 豊岡市九日市上町460-1 今の祭神は天御中主神 神産巣日神 高皇産霊神
『但馬故事記』 祭神 大売布命(亦名大売代命 物部連の祖、気多・黄沼前県主)

天日槍と糸井の阿流知命神社は無関係


式内糸井神社(奈良県磯城郡川西町結崎)

糸井造と池田古墳長持型石棺の主 (宿南保氏『但馬史研究』第31号 平成20年3月)での内容である。

歴史は史実の新発見において語るべきもの

さて、宿南保先生は、但馬史研究の第一人者で尊敬していることを、まず最初に述べておきたい。

本稿の「【考察】糸井造と池田古墳長持型石棺の主」で宿南氏は、

まず、糸井という地名についての疑問点である。糸井とは、一般的に(奈良県磯城郡川西町の)結崎やその付近一円を総称した郷名と解釈されることが多い。しかし、10世紀後半の『和名抄』の城下しきのしも郡の郷名には見当たらない。平安時代の延久二年(1070)の「雑役免帳」には「糸井南庄」と「糸井北庄」という二つの荘園があるが、現在の地名に当てはめると、田原本町の東部付近になってしまい、現在の結崎付近とはかなり離れた場所となる。したがって糸井庄にあった糸井神社とはいえないのである。つまり現時点では、「糸井」という地域名が古代から今の結崎付近を指すとする直接的な史料が見つからない。

次に現在の糸井神社そのものについての問題点である。まず現在の糸井神社はいつごろからそう呼ばれていたかである。今の神社は中世には「結崎明神」や「結崎宮」と呼ばれ、今も境内に残る石灯籠にも「大和結崎大明神」と刻まれている。江戸時代には春日大社の古い社殿を移建したことに依るのか、「春日大社」とも称されていたようである。

(中略)

糸井神社社務所が出しているパンフレットでも「ご祭神については豊鋤入姫命と言われるが、また一説には、綾羽呉羽の機織りの神を祀ったとも言われている」と微妙な表現をしている。糸井神社という名称に確定されたと思われる明治初期の「神社明細取調帳」(明治13年)には、まず「祭神不詳」とあり、但し書きに「地元の昔からの言い伝えでは豊鋤入姫命としているが、「天日槍命」とする考証もあるとしている。

(中略)

『川西町史』が渡来人として特に注目する天日槍は、渡来後、出石に定着した人として知られているから但馬には日槍にまつわる式内社は多い。『出石町史』第1巻には「天日槍にまつわる式内社」では、その数14社、うち出石郡9社、気多郡に3社、城崎郡2社である。このほか養父郡糸井村にも確実な1社があるから15社となる。*1

(中略)

但馬には兵主神社が7社もあるといわれているが、その中で「大」が冠せられているのは更杵村兵主神だけである。*2

(中略)

式内社で寺内区に鎮座する神社は延喜式に佐伎都比古阿流知命神社と更杵村大兵主神社二座と記されている*3。この神社の祭神がヤマトへ渡って糸井造になった人と関係があるように解するのは、『校補但馬考』著者の桜井勉氏である。「日槍命の子孫、糸井と姓とせしもの漸次繁殖し、その大和に移りしものは、大和城下郡に糸井神社を建立し、但馬に留まりしものは、本郡(養父郡)にありて本社(佐伎都比古阿流知命神社)を建立し、外家の祖先を祭りしものならんか」実のところよくわからないというのが本音といってよかろう。ただし日槍伝承をもつ集団の子孫たちが大和と但馬に分かれ、大和へ渡った者たちが寺内に佐伎都比古阿流知命神社を建立したとは考えられるところである。

 

宿南氏は本稿で、『出石町史』の「天日槍にまつわる式内社」で、「養父郡糸井村にも確実な1社がある」と『出石町史』の「天日槍にまつわる式内社」をそのまま引用されているが、『川西町史』では「糸井庄にあった糸井神社とはいえないのである。」としている。

そもそもの天日槍=糸井郷と関わりがあるいうきっかけはどうして生まれたのか?

桜井勉氏は、『校補但馬考』で、「日槍命の子孫、糸井と姓とせしもの漸次繁殖し、その大和に移りしものは、大和城下郡に糸井神社を建立し、但馬に留まりしものは、本郡(養父郡)にありて本社(佐伎都比古阿流知命神社)を建立し、外家の祖先を祭りしものならんか」についてである。

宿南氏も実のところよくわからないとされているが、桜井勉氏はどうやら天日槍の妻となった阿加流比売命(アカルヒメ)と佐伎都比古阿流知命神社の阿流知命を混同しているようである。

『国司文書 但馬故事記』をまったく否定する同氏にとって、日槍よりずっと後世に佐伎都比古とその子阿流知命が養父郡司であったことなど無視していたのか、阿流知命=阿加流比売命であるとする桜井氏のまったくの思い違いと時代の読み違いを知るのである。

桜井勉氏『校補但馬考』は、但馬の歴史を記そうとした貴重な書である。まだ誰も考古学や日本史・郷土史などに脚光を浴びなかった時代に誰もなし得なかった先見の労作である。しかし、近年新しい歴史的発見や検証によって、新たな事実がわかってきた。それをすべてそのまままだ正しいと信じ込み、ヒボコは新羅(朝鮮人)で但馬はそこに影響しているとした固定観念を改めなければ、真実を見落とすことになる。それは否定ではなく、桜井勉氏も新しいことを付け加えることを喜んでくれるだろうと考えるのだ。

ヒボコと糸井神社の関連性

あくまでも拙者の考察によるものだが、結論から先に言うと、ヒボコと奈良の糸井神社は結びつかないと思う。彼らはこの地の但馬という地名に、ヒボコと神社と養父郡糸井郷を強引に結びつけようとしているのだ。ヤマト建国に但馬の人々もこの地の集積されたのは、地名の通りかも知れないが、ヒボコはもっと古い時代だ。

言うまでもなく『市町村史』の多くは、地元郷土史家の並々ならぬ研究成果も参考に編纂されていて、元々歴史学者でもない桜井勉氏の『校補但馬考』も、引退後に郷土史家として著したもので、大いに参考になる労作ではあるが、記述の中には誤りや、編者の歴史的事実に基づかない憶測や、その後の発掘や史料等、歴史的事実の発見によって正しくはないものも含まれている。また、その桜井勉氏『校補但馬考』は、「但馬故事記」等を偽書と決めつけたり、その努力は敬意を評しながらも、元々から想像や憶測で編纂された郷土史同士を重ねて引用していくと嘘が本当のことのようにおかしな方向へ向かうとんでもないことが日本史や歴史学会ではまかり通ってしまうのだ。史実に乏しい時代にはやむを得ないことも考慮しつつ、誤った記述もあるのである。

当時の私は、まだ式内社について現地調査もままならない時期であり、同投稿文を読んで、朝来市和田山町糸井と大和(奈良県川西町)に残る糸井神社や三宅町にある上但馬・但馬の地名、三宅と豊岡市三宅に、天日槍氏集団の全体像を描き出す考察を読んで、天日槍と糸井は関係があるらしいと関心を抱いていた。

朝来市和田山町糸井(郷)は元は養父郡だったが、その養父郡でも端に当たる糸井地区に、佐伎都比古阿流知命神社(寺内)と更杵村大兵主神社、桐原神社と狭いエリアに3つも式内社があるのが不思議なこと、佐伎都比古阿流知神社を天日槍の裔とゆかりのある神社だといわれている。


佐伎都比古阿流知命神社

6年前の2009年に糸井地区の佐伎都比古阿流知神社(寺内)と更杵村大兵主神社、桐原神社等を回ってみた。2013年には奈良の糸井神社や奈良県磯城郡三宅町但馬に行ってみた。中学の頃から地理や地図好きだったので、なぜ奈良に普通は読めない国名である但馬という地名があるのかがずっと不思議に思っていた記憶の中にあってその頃から行ってみたかった所である。それから半世紀近くも過ぎた。田島や田嶋なら分かるけど、国名である但馬というのは普通は読めない。田原本町・三宅町・川西町周辺は大和盆地の平野部に田園が広がり、三宅町の中に但馬・三河・石見集落が点在する。この周辺はそうした国々特有の土器が持ち込まれていたことが発掘調査で分かっている。これは平城京建設後、氾濫が多い大和川支流域の治水・田園開発に諸国から労役して駆り出され住み着いたという、もっと現実的に残っている記録である。

延喜式式内社で糸井郷に鎮座していた社は、更杵村大兵主神社と桐原神社、楯縫神社3社である。

このような解釈が、数少ない但馬の資料として桜井勉『校補但馬考』に記されているから史実だと思い込んだ但馬が新羅の王子天日槍ら半島渡来人が文化をもたらしたものだという誤解を多くの人々はもちろん、歴史学者においても与えていることを最後に付け加えておきたい。桜井勉は当時として調べたことを記しているが、彼は但馬を兵庫県に組み入れるように進言したり、天気予報創設など偉大な方ではあるが、歴史では専門家ではない。多くの思い込みや私見が入り込んでいるのだ。

但馬が記紀にある新羅の王子天日槍から、大陸や朝鮮半島とのつながりの中で文化的な影響を受けたのは事実であるが、天日槍だけをピンポイントに捕まえて但馬=朝鮮渡来人の文化=大和朝廷という狭い歴史感はもう止めなければならない。その半島南部にあった伽耶なども、同じ倭国人が築いていったクニであって、『但馬故事記』などによると、半島の国家も倭国であり天日槍は皇族の子孫である。新羅が建国されたのは356年で天日槍よりずっと以後である。

『但馬故事記』(第五巻・出石郡故事記)には天日槍についてこう記されている。

人皇6代孝安天皇53年、新羅王子天日槍帰化す。

天日槍は鵜草葺不合命の御子。稲飯命五世の孫なり。(中略)海路より紀の国に出でんとし、強く激しい風に逢い給う。稲飯命と豊御食沼命とは小舟に乗り、漂流し給い、稲飯命は新羅に上り、国王となり、その国にとどまり給う。

つまり「天の」とある通り、天皇ゆかりの一族であるので、新羅王子=新羅人ではない。朝鮮半島南部を稲作や開拓したのは、九州北部と同じ倭人であって、その後新羅が半島を統一するに及び百済や伽耶は滅亡した残る倭人もいれば、多くは引き上げざるを得なくなったのではないだろうかと思う。半島南部にある前方後円墳や土器類は、縄文弥生式土器で日本列島と同じものである。

[筆者註]

*1 後世に祭神を天日槍の末裔やゆかりの神にかえられたことで、祭神変更は村々の諸事情によるものであり、それ自体は問題ではない。しかし、歴史は事実を探ることである。

まず天日槍系の神社が出石郡9社であるが、出石神社(天日槍)、諸杉神社(日槍の子)、須義神社、中嶋神社、日出神社の5社であり、あとの4社には、比遅神社、多遲摩比泥神、御出石神社とあと1社は不明だが、気多郡に3社、城崎郡2社についても祭神を後世に天日槍の末裔や関係者に変更したものだ。「養父郡糸井村にも確実な1社がある」は*3を参照のこと。

*2 大兵主は他に出石郡 大生部大兵主神社がある。ともに陣法博士・大生部了等が兵庫の側に勧請したもので、糸井だけが特別な兵主神社とはいえない。

*3 「寺内区に鎮座する神社は延喜式に佐伎都比古阿流知命神社と更杵村大兵主神社二座と記されている」とあるが、佐伎都比古阿流知命神社は『但馬故事記』『但馬神社系譜伝』では、養父郡坂本花岡山鎮座。なぜその後糸井に遷座されたか、または勧請されたかは不明である。佐伎都比古命とその子阿流知命は、ともに屋岡県主(養父郡司の前進)である。佐伎都比古命(彦命)は、佐々前県主佐伎津彦命の子。天日槍とはまったく無関係であるが、阿流知命を『古事記』で天日槍の妻となった阿加流比売と混同したのだろう。阿加流比売がいなくなり、多遅摩之俣尾の娘前津耳さきつみを娶ったとあることから、阿流知命を阿加流比売、前津耳神社・前津彦神社と呼ばれていたこともあったようだ。

神功皇后と朝鮮半島

『但馬故事記』(第五巻・出石郡故事記)に、

第6代孝安天皇の御代、新羅の王子天日槍が但馬出石で帰化し、初代多遅麻国造となった。
突如、よそ者、しかも新羅の渡来人が大丹波では中心から離れた但馬に入っていて、但馬国を分立する。そのようなことが出来るのは、大和朝廷が関与しているからに他ならない。

第10代崇神天皇の御代に丹波青葉山の陸耳の御笠・多遅麻狂(来日)の土蜘蛛を退治した話が詳細にわたって記されている。それは丹後・但馬の地方豪族を平定し、ヤマト王権下に完全に組み入れられたことを記しているのだろう。

それは半島南部との中継地として、但馬が有利であったからではないだろうか。
大和から日本海へ向かうルートとして若狭・丹後が使われていたが、摂津から氷上(本州一低い分水嶺)から日本海へ由良川・瀬戸内海へ加古川が流れる。さらに遠坂峠を越えれば但馬国の粟賀川から円山川で日本海で出られる最短コースが重要視されたのではないだろうか。宮津湾・舞鶴湾に出れば、丹後半島を周ることになるが、それより西の円山川あるいは久美浜湾から出航した方が半島に近いからである。また、大和から大阪湾に出て瀬戸内海から関門海峡を通るルートも考えられる。その方が波の影響もなく安全に思えるが、半島からの侵攻に備えて、北部九州から日本海側を防衛する目的も兼ね備えていたのだろうとも考えられる。

『但馬故事記』(第一巻・気多郡故事記)に、人皇15代神功皇后の2年、大県主・物部連大売布命もののべのむらじおおめふのみことの子・多遅麻国造たぢまのくにのみやつこ・物部多遅麻連公武きみたけ、府を気多県高田邑に置く。(今の久斗・東構境あたり・南構遺跡?)

45年、新羅が朝貢せず。将軍・荒田別命あらたわけのみこと(豊城入彦命4世孫)・鹿我別命しかがわけのみこと(大彦命の末裔)*1

は往きてこれを破る。

比自[火本]ヒシホ南加羅アリシヒノカラ啄国トクノクニ安羅アラ多羅タラ卓淳トクジュ加羅カラの七国を平むける。兵を移して西に回り、古奚津コケツに至る。南蛮アリシヒノカラを屠はふり、もって百済クダラに賜う。

百済王は「もし草を敷いて座れば、おそらく火で焼かれ、木を取って座れば、おそらくは水で流されるであろう。もって、盟を表し、永久に臣を称する信条なり。」

新羅親征(征韓)となり、出石県主・須義芳男命は皇后に従い、新羅を征ち功を上げ、皇后は特に竃遇を加えている。(第五巻・出石郡故事記)

なんとしても日本を守らねばならない国家的危機意識があったのではなろうか?袴狭遺跡の大船団を描いた木版画は、のちの神功皇后の新羅征伐を描いたものかも知れない。

のちの人皇37代孝徳天皇大化3(647)年、多遅麻国気多郡高田邑において、兵庫を造り、郡国の甲冑・弓矢を収集し、もって軍団を置き、出石・気多・城崎・美含を管どる。(同年、朝来郡にも同様の軍団を置いて、朝来・夜父・七美三郡を管どる。)

人皇40代天武天皇4(677)年になると、但馬国などの十二国に勅して、兵政司を置き、諸国の軍団を管せしめ、王(天皇)孫・栗隈王をもって長官と為し、大伴の御行をもってこれに副う。

として、諸国の軍事をさらに強化している。

水田稲作と技術は伝播ではない

稲作と技術の伝播

[catlist id=583] 縄文時代から行われていた稲作

狩猟や自然の恵みを採集していた縄文人と大陸から渡来してきた人々が水田稲作をもたらし人が稲を栽培するようになった。人々の中には農耕や道具作りに長けた人もいたかも知れないが、弥生時代に水田稲作が突如始まったわけでも、大量に弥生人のルーツである渡来人がわたって来たという定説は覆りはじめた。

「日本の酒の歴史」(協和発酵(株)元会長 加藤辨三郎)には、
いろいろな説があるが、今日の学説から次の3つに要約することができる。

(1)華北説(華北→朝鮮半島→北九州)
(2)江南説(江南→東シナ海→南朝鮮・北九州)
(3)「海上の道」説(台湾→沖縄→九州)

第一の華北説は考古学者浜田博士が提唱したものであるが、華北の仰韶(ヤンシャオ)文化・龍山(ロンシャン)文化と日本の弥生文化との間の時間的な落差があまりにも大きすぎるので今日では疑問視されている。また、第三の柳田国男説も偶然性が強く説得力に乏しいとして退けられている。したがって、第二の安東博士の提唱した江南説(江南の稲作が日本と南朝鮮へ同時に伝わったとする学説)が最も有力で、多くの学者の支持を得ている。

江南というのは、今の中国の長江(揚子江)以南地域を指すが、ここから南シナ沿岸地方にかけては、かつては呉・越・ビンなどの名で呼ばれたオーストロ・アジア系の非シナ稲作民族が先住していた。彼らは稲作を行うかたわら航海技術にも長じ、早くから船を操って沿岸交易に従事していた。ちょうどその頃、この地にまず呉・越が台頭し、次に楚(ソ)が勢いを得たが、さらに北からは秦の、続いて漢の国家的統一が進み、漢民族が大挙して江南の地に進出するといった政治的激動が起こった。強大な漢民族の圧迫に耐えかねたこの地の非シナ稲作民族は、やむを得ず海上へ脱出して難を避けた。江南から北九州へ、あるいは南鮮へと稲作文化が移動していったのは、このような民族移動の一つと見られ、紀元前二、三世紀のことであった。たまたま『魏略』逸文に見える倭人の記事の一節に
「其ノ旧語ヲ聞クニ自ヲ太伯ノ後ト謂フ」とある。これは、倭人のなかには呉の太伯の後裔、言い換えれば江南の人を祖先に持つという伝承があるという意である。この伝承は、江南からの稲作文化渡来の有力な裏付けとされている。
しかし、ある日突然稲作文化を携えた多くの人々が、一時に日本へ渡ってきたわけではなくて、これら大陸の農耕文化の波のうち、最も大きなうねりの一つが江南地方からのそれであったと考えてよい。それ故、「日本酒」造りの原型は、この稲作文化を構成する要素のなかから見いだすことができる。

「稲の日本史」 佐藤洋一郎著では、
弥生時代の人びとの中でもっともポピュラーであった植物資源はドングリの仲間であり、イネがこれに続くがそのウェイトは全体の中ではそんなに大きくない。弥生時代の食は、水田稲作が導入された後とはいえまだ採集に依存する部分が相当に大きく、栽培によって得られる資源の中でもイネに依存する割合が高いわけでもない。日本列島では農耕の開始や広まりは実にゆっくりしたものだった。としている。

黄河の下流の肥沃な土地で、約3000年前には稲作が始まったとされる。また緯度が揚子江より高く、温帯性の気候である。
渤海の北側離岸流から対馬海流に乗る。伽耶国あるいは新羅に到着する。伽耶国は鉄の産地なので、このルートで鉄器が伝来した可能性はあるが、稲作については文献資料は残されていない。

東シナ海に出帆し、黒潮の本流に乗ると、秋冬は強い偏西風により、日本列島沖合いを流される可能性が大である。台風に遭遇することが多い。鑑真はこのあたりより出帆し、何度も渡航に失敗している。また元寇の際にも南宋の船団は操船に苦労し、遅延したという記載がある。東シナ海に出帆した漁師の食料の籾が、黒潮に流され、九州に漂着して、自生したという説がある。

朝鮮併合時代に、朝鮮半島は日本総督府によって隅々まで水稲栽培や治水整備がなされた。韓国・朝鮮には農酒(マッコルリ)という濁り酒のような酒はあるが、それ以外に米を用いた紹興酒や清酒のような濾過した酒は今も昔も存在しない。それも半島にあった酒みたいなものに米を混ぜるようになったのは、併合以降である。

ところで、弥生時代の日本の人口は、稲作農耕の普及と国家の形成に伴って、人口はめざましく伸長し、5万9千人くらいになっていたと想定できるようです。

近年、日本海側の山口県から青森県に至る広域で、これまでの歴史学をひっくり返す新たな発見が起きている。

昭和53年(1978)、福岡県の板付遺跡において縄文土器だけが出土する地層から水田遺構が発見された。さらに昭和55年(1980)から翌年にかけて佐賀県唐津市の菜畑遺跡から、より古い時代の縄文土器と共に灌漑施設を伴う水田遺構も出土した。

NHKスペシャル『日本人はるかな旅4』イネ、知られざる一万年の旅(2001)で、「従来、日本列島の水田稲作は弥生時代(2300~1800年前)頃に、朝鮮半島からやって来た渡来人によって始まるというのが定説であったが、菜畑遺跡の発見はその常識を覆すことになった。時代はさらに300年遡り、水田を作った主体も日本列島在来の縄文人であることが分かった。」

『天孫降臨の謎「日本書紀」が封印した真実の歴史』関裕二は、

「めざましい科学の進歩によって、現代の日本列島の住民の遺伝子のなかに、想像以上に渡来系の血が混じっていることが徐々に明らかにされている。その比率は、縄文人を1とすると、弥生時代以降に渡来した人たちは2~3に上っていたと考えれている。この数字を見れば、渡来人が先住民を圧倒したと考えるのは当然である。」

崎山理氏は、「縄文人といっても単一の民族ではなく、北方系のツングース語に、南方系のオーストロネシア語が日本列島のなかで重なって「縄文語」が成立し、これが日本語になった、というのである。縄文期と弥生期の遺伝子の比率を見れば、渡来人の圧倒的な優位を想像しがちだが、渡来人たちは徐々に同化していったのであり、だからこそ、縄文人のつくり上げた「日本語」は、今日に継承されていったと考えられるわけである。」

DNA研究が進み、日本人の遺伝子はなんと16種類ものDNA研究のように2つパターンを持っていたことが分かってきた。少なくとも2つの民族同士の対立という単純な構図ではないので各地から渡ってきた人々によって日本人独自のDNAを持っていることが分かってきた。

紀元前三世紀頃、日本列島は、それまで長く続いていた縄文時代が終わりを告げ、弥生時代が始まる。弥生時代には、出土人骨に大きな変化が急激に表れていることがまずあげられる。これは、大陸から多くの人々の流入があったことを示しているものである。かつて朝鮮半島からというのが考えられていたが、後述のように骨格や血液型の分布から判断して、近年では中国大陸(特に江南地方)からと考える意見が有力になっている。
まず、山口県下関市豊北町の土井ヶ浜遺跡では、

日本列島の弥生人の骨格が朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨と極めてよく似た形質を持っていることが確認されたこと、稲作の導入の点と日本酒の誕生について、どうしても朝鮮半島説は不自然に思う点があるようだ。

紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がりました。初期の水田は、福岡市博多区にある板付遺跡や、佐賀県唐津市の菜畑遺跡など、北部九州地域に集中して発見されており弥生時代のはじまりです。弥生時代の前3~2世紀には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、次いで紀元前2世紀~紀元1世紀には同県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡からも広範囲に整然とした水田区画が見つかっています。水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及したといえます。
また、稲の伝来ルートについても従来は朝鮮ルートが有力視されていましたが、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり畑作米の確認しか取れない点である。

極東アジアにおける温帯ジャポニカ種(水稲)/熱帯ジャポニカ種(陸稲)の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部から当該遺伝子の存在が確認されない
ことなどの複数の証左から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート等)による伝来である学説が有力視されつつあります。従来の説とは逆に水稲は日本から朝鮮半島へ伝わった可能性も考えられています。弥生米のDNA(SSR多型)分析によって、朝鮮半島には存在しない水稲の品種が確認されており、朝鮮半島経由のルートとは異なる、中国中南部から直接渡来したルートが提唱されています。後述の青銅器の伝来も古代中国に起源をもち、日本や朝鮮など東アジアで広く使用されたとされることと重なります。

丹生(にゅう)と日本海水銀ベルト

[wc_skillbar title=”丹生(にゅう)と日本海水銀ベルト” percentage=”100″ color=”#e45e32″] (丹色)
[catlist id=589]

丹波国は、古くは但馬・丹後を含む大きな国だった。

『但馬故事記』は、天照国照彦櫛玉饒速日天火明命が、この国を国作大巳貴命に授かり、妃・天道姫命とともに坂戸天物部命他、11人等の臣を引き連れて、天磐船に乗り、田庭の真名井原に降りるところから始まる。
これより先に豊受姫命は高天原より降り、伊邪那子岳にいて、農耕を営んでいた。(式内比沼麻奈為神社:京都府京丹後市峰山町久次 伊邪那子岳は比沼麻奈為神社後方の山。籠神社奥宮 真名井神社の説もある。)
「永世なり。青雲志楽国」という。故にこの地を名づけて、志楽国と云う。(今の舞鶴市志楽がある)

田庭(たには)と書いて発音は「たにわ」。いつからかは分からないが、早い頃に丹波と書いて「たんば」と読むようになった。丹の字を用いるようになったきっかけに因果関係があるとは聞いいたことがないが、丹生(にゅう)という地名と神社が、近畿地方の奈良県、和歌山県をはじめ、日本海側の若狭から丹後、但馬にかけて多いことは、丹の字を用いる理由に関係があるのではかろうか。丹波の「波」は日本海を連想する。
丹生(にゅう)とは何か。

丹は血の色でもある朱のことで、これは、活力と蘇生、死との対決、死霊封じ、太古の人々は朱を呪術具とした。丹色は日の丸にも使われ日本を代表する赤色。ただし、今の国旗色は、法律では「紅色」となっており、JIS慣用色名ではマンセル色体系で 3R 4/14 であるが、より明色に見える朱色系の金赤(同 9R 5.5/14)が使われることも実際には多い。

葬る遺体に施朱をする風習があった。再生を願い、死霊を封じるこの風習は、北海道南半部から東北北部と九州北部の二ヶ所で、縄文後期に登場した。九州では弥生時代に引き継がれていったが、北部では終焉してしまった。

日本海に多い丹生地名

丹生とは朱(しゅ)のことで赤土と水銀が採れた場所である。
福井県嶺北地方の西部にも丹生(にゅう)郡がある。全国的に朱の原料の辰砂を産出する水銀鉱床群の分布する地域には丹生、丹生川、丹生神社が同じように分布している。

かつて、「日本海側にある似た地名」でくわしく書いたので簡単に述べると、若狭湾一体から但馬北部には丹生に因む地名や天日槍ゆかりの神社などの新羅・加耶系神社が多い。

越前市丹生郷町(ニュウノゴウチョウ)
福井県丹生郡(福井市)
福井県三方郡美浜町丹生 丹生神社
福井県小浜市遠敷(オニュウ)、丹生、丹布 丹生神社
舞鶴市大丹生(オオニュウ)
舞鶴市浦入(『加佐郡誌』には浦丹生(ウラニュウ)(大丹生と隣同士の集落)
浦入遺跡 5世紀の鉄製品が出土する日本海側最古の鍛冶炉(5世紀後半)と奈良~平安時代の製塩炉・鍛冶炉遺跡、杉の丸木舟(5300年前のもの。わが国最古・最大級といわれる外洋舟である。)

また丹生に似た発音の「ニョウ」という地名が多い。
祢布村があった(舞鶴市赤野)
舞鶴市女布(ニョウ)

京丹後市久美浜町女布(ニョウ) 式内賣布神社

(京都府京丹後市網野町木津 式内 売布神社は久美浜町女布 式内 売布神社の山の反対側)

豊岡市日高町祢布(ニョウ) 但馬国府国分寺が置かれていた。式内賣布神社
兵庫県美方郡香美町香住区丹生地(ニウジ) 丹生神社

朱の原料

天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)は縄文早期、同じく辰砂を砕いて得る水銀朱、他に鉛丹等が主な原料である。辰砂は硫化水銀である。常温で液体の水銀は、天然に存在するが、多くは辰砂を製錬して入手する。

朱の意味 日本と西洋

万葉の時代、朱と白が祖先達の愛好する色彩であり、今日の我々の意識にも入っている。国旗の日の丸は言うにおよばず、巫女の装束、祝事の紅白の垂れ幕がその典型であろう。 歌人は、朱・赤の色を〈にほふ〉〈てる〉〈ひかる〉〈はなやか〉と詠い、白〈きよし〉〈さやけし〉〈いちしろく〉と詠じた。

赤という字は,大と火を組み合わせたもので、日本語の〈あか〉は〈あけ〉と同じで (夜明けの〈あけ〉,あかつきの〈あか〉),太陽と結びつく。
一方、赤を意味するヨーロッパ語の多く (red, rot,rouge,……) は,血を語源とする。流石に殺し合いの民を思わす。

人気ブログランキングへ

↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。

大江山の鬼退治~彦坐王と陸耳の御笠は大丹波平定だった

開化天皇の御子・彦坐王と陸耳の御笠の真相

 

『但馬故事記』は、郡ごとに八巻からなるが、ほとんどの巻は人皇十代崇神すじん天皇から、記載がにわかに詳細になるが、二方郡を除き、八郡のどの郡の故事記も「丹波青葉山(通称わかさ富士)の賊で、陸耳ノ御笠くがみみのみかさ、(土蜘蛛つちぐもの匹女ひきめなど)盗賊を集め、民衆の物を略奪して…」についての記述に文面を費やしている。

冒頭に天火明命が丹波国から但馬に入った記述は数ページに及び、それに匹敵するページ数を丹波青葉山の賊、陸耳ノ御笠征伐についてさいていて、再び舞台は古代丹波の中心えあった加佐郡(いまの舞鶴市)へ移るのだ。

『第五巻・出石郡故事記』だけは、何故かこの下りをさらりと書いているのであるが、あらすじとしては分かりやすい。

人皇十代崇神(すじん)天皇十年秋九月、丹波国青葉山の賊・陸耳ノ御笠群盗を集め、良民を害す。その党狂(いまの豊岡市来日くるい)ノ土蜘蛛[*1]、多遅麻(但馬)に入り、略奪を行う。
黄沼前県主きのさきあがたぬし穴目杵命あなめきのみことが使いを馳せて多遅麻国造・天日楢杵命あめのひならきのみことに報告し、天日楢杵命がこの由を開化天皇に伝えた。
天皇はその皇・彦坐命に、これを討てと命じる。
彦座命は丹波に下り、これ等の賊徒を多遅摩伊伎佐碕たぢまいぎさのみさき[*2]の海上において討ち、これを誅す。狂ノ土蜘蛛随したがって平らぐ。

これは単なる賊征伐ではなく、ヤマト朝廷における国家的な出来事が起きたと考えていた。

*1 土蜘蛛とはこの時代の記述に度々登場するが、国家統一に抵抗する元々の豪族を侮蔑した名称

*2 伊伎佐碕…兵庫県美方郡香美町香住区御崎の古名。式内伊伎佐あり。

困難な時代の中興の祖 崇神天皇

その前に少し、第十代崇神天皇の時代背景について触れておきたい。十代崇神天皇はおおよそ三世紀終わり頃の天皇である。和風諡号しごう[*3]は『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)、国家体制を整えたことから御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)、同じく所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)と称えられる。

『日本書紀』における初代神武天皇の称号も、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)で、これを「初めて国を治めた天皇」と解釈するならば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。安本美典氏は、どちらも同じ意味であるならばわざわざ漢字の綴りを変える理由が解らず、また「高天原」などの用語と照応するならば神武の「天下」は「天界の下の地上世界」といったニュアンスと捉えるべきであり、神武の『始馭天下之天皇』とは「はじめてあまのしたしらすすめらみこと」などと読んで、天の下の世界を初めて治めた王朝の創始者と解し、崇神の『御肇國天皇』はその治世にヤマト王権の支配が初めて全国規模にまで広まったことを称讃したものと解釈すれば上手く説明がつくとしている。要するに神武はヤマト建国の祖、崇神は中興の祖と解釈される。崇神天皇と言う諡号は、漢風諡号を持たない神武天皇から元正天皇までの44代(弘文天皇と文武天皇を除く)に対して、奈良時代の文人「淡海三船」が漢風諡号を一括撰進し、多くの社をたてて神をあがめ奉った事から「崇神天皇」の漢風諡号があたえられて以降呼ばれるようになったものである。

『中興の祖 崇神』桂川 光和は、第三章 困難な崇神朝の始まりで、

『日本書紀』によると、崇神朝の始めの頃は、困難な時代であったとする。疫病が多く多くの民が死亡し、また百姓が流亡したり背いたりする多難な幕開けだった。そこで崇神は、災いを鎮めるため神を祀るのである。その神の一つが、ヤマト朝廷の祖先神である天照大神である。

最初、天照大神は宮中に祀られるが、崇神は宮中で祀ることに不安を覚え、宮中以外のところで祀ることにする。そこで皇女の豊鍬入姫とよすきいりひめに天照大神を託し、倭(大和)の笠縫邑に祀る。その後、天照大神を祀る場所は転々と遷し替えられていくが、笠縫邑に続く場所が丹波である。丹波の籠神社、海部氏の『勘注系図』には次のように記されている。

「豊鍬入姫は、天照大神を戴き、大和国笠縫の里から、丹波の余社郡よさのこおり(与佐・与謝)久志比真名井原匏宮くしひのまないはらよさのみやに遷る。天照大神と豊受大神を同殿に祀り、日本得魂命やまとえたまのみこと等が仕える」

豊鍬入姫が天照大神を祀る場所を丹波に求めたのは、丹波は尾張氏[*4]の支配地で、尾張氏の当主、日本得魂命の孫であることによる。

豊鍬入姫は、丹波で天照大神を祀るが、再び大和に戻る。その後天照大神を祀る皇女は、垂仁天皇の時代になって、倭姫に替わる。倭姫は天照大神を祀る場所を求めて各地を巡る。最後は、伊勢に祀られ神宮(伊勢神宮内宮)となる。丹波では天照大神と豊受大神が同殿に祀られるのは、豊受大神は元々、丹波の神であったので一緒に祀ったのである。豊受大神は雄略天皇の時代になって、丹波から伊勢に迎えられ、外宮の主祭神として祀られことになる。

*3 和風諡号 主に帝王などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のこと。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。

*4 尾張氏は、 天火明命を祖とする葛木高尾張に居た豪族で ある。高尾張とは現在の奈良県御所市( ごせ し)あたりの事である。

丹波に派遣された丹波道主

『中興の祖 崇神』桂川 光和は、第三章 困難な崇神朝の始まり(3)陸国(くがこく)との戦いで、上述の「これは単なる賊征伐ではなく、ヤマト朝廷における国家的な出来事が起きたと考えていた。」の謎が解けたのだ。

崇神朝の始めの頃である。

『古事記』は崇神時代の事として、「日子坐王を旦波国に遣わし、陸耳之御笠を殺すを命ず」とする。『日本書紀』には見られない伝承である。

丹波の系図『勘注系図』には、八世孫日本得魂命の注記で次のように記す。

「崇神の時代、当国の青葉山中に土蜘蛛あり。陸耳御笠の者、そのさま人民おおみたからぬすむ。ゆえに日子坐王、勅をたてまつりこれを討つ。余社ノ大山に至り遂にこれを誅す。」

『勘注系図』が記すこの伝承は、「丹後風土記」と同様で、日子坐王と日本得魂命が戦った相手は、陸耳御笠と匹女と呼ばれる一党で、場所は現在の福井県の西部から京都府の北部、若狭と丹後との境でもある。

大和朝廷はここ若狭から東の勢力と対峙していたのである。

陸(くが)というのは今の北陸地方の名前である。したがって陸耳御笠は陸国くがのくにの王である。

この陸(玖賀)国こそ『魏志倭人伝』が伝える、邪馬台国と激しく争っていた狗奴国くなこくに他ならない。卑弥呼の時代から続いていた狗奴国との戦いはおおよそ三世紀後半の半ばに、大和朝廷側の勝利で決着がつくのである。その後丹波には、丹波道主が派遣されることになる(拙者註-日子坐王ではなく、その子丹波道主が派遣されたとする記述もある)。

『第一巻・気多郡故事記』『第ニ巻・朝来郡故事記』『第三巻・養父郡故事記』『第四巻・城崎郡故事記』『第六巻・美含郡故事記』を現代文風に要約すると、以下の通りである。

人皇十代崇神(すじん)天皇の十年秋(紀元前87)九月、
丹波青葉山(通称わかさ富士)の賊で、陸耳ノ御笠(くがみみのみかさ)、土蜘蛛の匹女など盗賊を集め、民衆の物を略奪していた。
その党(やから)で、狂(クルヒ、豊岡市来日)の土蜘蛛に入り、盗みを行う。甚だ猖けつを極め、気多県主・櫛竜命を殺し、瑞宝を奪う。

多遅摩国造・天日楢杵命あめのひならきのみことは、それを崇神天皇にこもごも奏した。天皇は、(9代開化天皇の皇子)彦坐命(ひこいますのみこと)に命じて、これを討つようにと命じられ、

御子の将軍丹波道主命とともに、
多遅麻朝来直あさこのあたえの上祖 天刀米命あめのとめのみこと
〃 若倭部連の上祖 武額明命たけぬかがのみこと
〃 竹野別の上祖 当芸利彦命たぎりひこのみこと
丹波六人部連むとべのむらじの上祖 武刀米命たけのとめのみこと(今の福知山市六人部)
丹波国造 倭得玉命やまとのえたまのみこと
大伴宿祢命の上祖 天靭負部命あめのゆきえべのみこと
佐伯宿祢命の上祖 国靭負部命くにのゆきえべのみこと
多遅麻黄沼前県主きのさきのあがたむし 穴目杵命あなめきのみことの子・来日足尼命くるいのすくねのみことら丹波に降り、土蜘蛛匹女を蟻道ありじ川(福知山市大江町有路)に殺し、陸耳を追い、白糸浜(由良川河口)に至る。陸耳は船に乗り多遅麻の黄沼前きのさきの海(円山川河口)に逃げる。
(中略)
時に狂の土蜘蛛は陸耳に加わり、賊勢再び振るう。時に水前大神教えて曰く、

「天神・地祀の擁護有り。すべからく美保大神・八千矛大神を祀れ」と。

再び王軍勢いを得て、陸耳を御崎に攻撃す。時に彦坐命の甲冑鳴動し、光輝を発す。故にその地を鎧浦と云う。(兵庫県美方郡香美町鎧)

当芸利彦命は進んで陸耳に迫り、これを刺し殺す。故にその地を勢刺いきさしの御崎と云い、また勇割の御崎と云う。

彦坐命は賊の滅ぶのをもって美保大神(美保神社:松江市美保関町)・八千矛大神の加護となし、戦功の賽をなさんと、出雲に至り、二神に詣でる。

大江山の鬼退治

大江山に遺る鬼伝説のうち、最も古いものが、「丹後風土記残欠たんごふどきざんけつ」[*2]に記された陸耳御笠[*3]の伝説である。『但馬故事記』と見事に一致しているのだ。

青葉山中にすむ陸耳御笠(くがみみのみかさ)が、日子坐王(ひこいますのみこ)[*4]の軍勢と由良川筋ではげしく戦い、最後、与謝の大山(現在の大江山)へ逃げこんだ、というものです。

崇神(すじん)天皇の時、青葉山中に陸耳御笠(くがみみのみかさ)・匹女(ひきめ)を首領とする土蜘蛛(つちぐも)[*5]がいて人民を苦しめていました。

日子坐王(ひこいますのみこ)が勅命を受けて討ったというもので、その戦いとかかわり、鳴生(舞鶴市成生・ナリウ)、爾保崎(匂ヶ崎)、志託(舞鶴市志高・シダカ)、血原(福知山市大江町千原・センバラ)、楯原(福知山市大江町蓼原・タデワラ)、川守(福知山市大江町河守・コウモリ)などの地名縁起が語られています。

このなかで、川守郷(福知山市大江町河守)にかかる記述が最も詳しいです。
これによると青葉山から陸耳御笠らを追い落とした日子坐王は、陸耳御笠を追って蟻道郷(福知山市大江町有路・アリジ)の血原(千原)にきてここで匹女を殺した。
この戦いであたり一面が血の原となったので、ここを血原と呼ぶようになりました。
陸耳御笠は降伏しようとしましたが、日本得玉命(やまとえたまのみこと)が下流からやってきたので、陸耳御笠は急に川をこえて逃げてしまいました。そこで日子坐王の軍勢は楯(たて)をならべ川を守りました。これが楯原(蓼原)・川守(河守)の地名の起こりです。

陸耳御笠は由良川を下流へ敗走しました。このとき一艘の舟が川を下ってきたので、その船に乗り陸耳御笠を追い、由良港へ来ましたが、ここで見失ってしましました。そこで石を拾って占ったところ、陸耳御笠は、与謝の大山(大江山)へ逃げ込んだことがわかりました。そこを石占(石浦)といい、この舟は楯原(蓼原)に祀りました。これが船戸神(ふなどのかみ)[*5]です。

[考察]

陸耳御笠(くがみみのみかさ)は、何故、土蜘蛛という賊称で呼ばれながら、「御」という尊称がついているのか。長年の謎が一つ解けたような気がしています。ヤマト王権の国家統一前、ここに笠王国ともいうべき小国家があったのかもしれない。(加佐郡?)陸耳御笠と笠津彦がダブってみえてきます。

陸耳ノ御笠について、興味ある仮説を提示しているのが谷川健一氏で、「神と青銅の間」の中で、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習をもち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」として、福井県から兵庫県・鳥取県の日本海岸に美浜、久美浜、香住、岩美などミのつく海村が多いこと、但馬一帯にも、日子坐王が陸耳御笠を討った伝説が残っていると指摘されています。

一方の日子坐王は、記紀系譜によれば、第九代開化天皇の子で崇神天皇の弟とされ、近江を中心に東は甲斐(山梨)から西は吉備(岡山)までの広い範囲に伝承が残り、「新撰姓氏録」によれば古代十九氏族の祖となっており、大和からみて、北方世界とよぶべき地域をその系譜圏としているといわれます。

「日子」の名が示すとおり、大和国家サイドの存在であることはまちがいない。「日本書紀」に記述のある四道将軍「丹波道主命」の伝承は、大江町をはじめ丹後一円に広く残っているが、記紀系譜の上からみると日子坐王の子である。

土蜘蛛というのは穴居民だとか、先住民であるとかいわれるが、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑などに対する蔑称である。また一説では、神話の時代から朝廷へ戦いを仕掛けたものを朝廷は鬼や土蜘蛛と呼び、朝廷から軽蔑されると共に、朝廷から恐れられていた。四道(北陸、東海、西道、丹波『日本書紀』)以外のまだ平定されていない地方豪族をさすのだろう。

陸耳ノ御笠も大江山の鬼退治の伝承も、同じく朝廷の丹波平定の過程である。陸耳の御笠とは加佐を中心にした丹後・但馬を含む古代丹波国であり、大和に従った戦いを伝説として残しているのだ。

『第ニ巻・朝来郡故事記』が彦座命について詳細だ。

天皇はその功を賞し、彦座命に丹波・多遅摩・二方の三国を与える。
十二月七日、彦坐命は、諸将を率いて、多遅摩粟鹿県に下り、刀我禾鹿(とがのあわが)の宮に居しました。アワビは、塩ケ渕(のり味沢)に放ちました。水がかれたのち、枚田(ひらた)の高山の麓の穴渕に放ちました(のち赤渕神社に祀ると云う)。
のちに彦坐命は(天皇から)勅を奉じて、諸国(三国)を巡察し、平定を奏しました。

天皇は勅して、姓を日下部足泥(宿祢)と賜い、諸国に日下部を定め、これを彦坐命に賜いました。

十一年夏四月、(粟鹿)宮に還り、諸将を各地に置き、鎮護(まもり)としました。
丹波国造 倭得玉命
多遅摩国造 天日楢杵命
二方国造 宇都野真若命
その下に、
当芸利彦命の功を賞し、気多県主と
武額明命をもって、美伊県主としました。
同じく、
比地県主・美保津彦命
夜夫県主・美津玉彦命
黄沼前県主・穴目杵命
伊曾布県主・黒田大彦命
みな、刀我禾鹿宮に朝して、その徳を頒ました。
朝来の名は、ここに始まります。

(中略)

第十一代垂仁天皇八十四年九月、
丹波・多遅摩・二方三国の大国主・日下部宿祢の遠祖・彦坐命は、刀我禾鹿宮に薨ず。寿二百八歳。禾鹿の鴨の端の丘に葬りました。(兆域28間、西11間、北9間、高直3間余、周囲57間、後人記して、これに入れるなり)守部ニ烟(けむり)を置き、これを守る。

息長宿祢の子。大多牟阪(おおたむさか)命をもって、朝来県主としました。大多牟阪命は、墨阪大中津彦命の娘・大中津姫命を娶り、船穂足泥(すくね)命を生みました。
大多牟阪命は、山口宮にあり、彦坐命を禾鹿宮に祀りました。(名神大 粟鹿神社)

第十三代成務天皇五年秋九月、
大多牟阪命の子・船穂足泥命をもって、多遅摩国造と定めました。船穂足泥命は大夜夫宮に還りました。(名神大 養父神社)

船穂足泥命の子・当勝足泥(まさかつすくね)命をもって、朝来県主としました。

[解説]*1
『天日槍』の著者今井啓一郎は、出石の郷土史家桜井勉が『国司文書 但馬故事記』を偽書説などを牙歯にもかけず、人或いは荒唐無稽の徒事なりと笑わば笑えと堂々の論れんを張り、天日槍研究に自信の程を示した。すなわち彼は、桜井とは見解をことにし、この但馬国司文書を大いに活用している。

「この地に朝来山という名所あり。取りて郡の名とせり。」とするならば、その朝来山の由来はどう説明するのだろう。

[*2]…「丹後風土記残欠」とは、奈良時代に国別に編纂された地誌である 8世紀に、国の命令で丹後国が提出した地誌書ともいうべき「丹後風土記」の一部が、京都北白川家に伝わっていたものを、15世紀に、僧智海が筆写したものといわれる。
[*3]…陸耳御笠のことは、「古事記」の崇神天皇の条に、「日子坐王を旦波国へ遣わし玖賀耳之御笠を討った」と記されている。この陸耳御笠の伝説には、在地勢力対大和国家の対立の構図がその背後にひそんでいるように思える。大江町と舞鶴市は、かつて加佐郡に属していました。「丹後風土記残欠」にも、加佐郡のルーツは「笠郡」とのべています。
この「笠」に関連して、興味深い伝承が青葉山に伝わっています。青葉山は山頂が2つの峰に分かれていますが、その東側の峰には若狭彦、西峰には笠津彦がまつられているというものです。笠のルーツは、この笠津彦ではないのか、そんなふうに考えていたところ、先年、大浦半島で関西電力の発電所建設工事中、「笠氏」の刻印のある9世紀頃の製塩土器が発見されました。笠氏と呼ばれる古代豪族が、ここに存在していたことが証明されたわけです。また、ここから、大陸との交流を裏づける大型の縄文の丸木舟が出土し話題となりました。
[*4]…日子坐王とは崇神天皇の弟にあたり、四道将軍として丹波に派遣された丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)の父にあたる。

[*5]…衝立船戸(ツキタツフナト)神。境界の神。民間信仰における道祖神に相当する。「フナト」は「クナト」を古名とする記述から、「来(く)な」の意。「ツキタツ」は、杖を突き立てて「ここから来るな」と告げた意。
引用:福知山市オフィシャルホームページ「日本の鬼の交流博物館」
福知山のニュース両丹日日新聞WEB両丹

以上

天火明命 谿間に来たり

[wc_skillbar title=”天火明命 谿間に来たり” percentage=”100″ color=”#e45e32″] [catlist id=589]

弘仁5年(814)-天延3年(975)にわたり、但馬国府の多数の国学者によって編纂された『国司文書・但馬故事記たじまこじき』は、第一巻・気多郡故事記から第八巻・二方郡の但馬国8郡に分けて編纂されている。
出石いずし郡・七美しつみ郡・二方ふたかた郡を除いて5巻の書き出しは、人皇1代神武天皇より先に、必ず「天照国照彦天火明命あまてるくにてるあめのほあかりのみことは・・・」ではじまる。

実年で神武天皇の在位年について実態は明らかではないものの、上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧

によると、紀元前のBC660年から582年とすれば、少なくともそれより前となる。であれば、弥生前期の紀元前660年以前のこととなる。

あとの2巻の出石郡は、国作大巳貴命くにつくりおおなむちのみことが出雲国から、伯耆ほうき稲葉いなば・二方国を開き、多遅麻たぢまに入り、伊曾布いそう(のち七美)・黄沼前(城崎)きのさき気多けた・津(おそらく津居山あたり)・薮(養父)やぶ水石(御出石)みずしあがたを開きませり。(中略)人皇一代神武天皇は、御出石櫛甕玉命くしかめたまのみことの子・天国知彦あめのくにともひこ命をもって(初代)御出石県主と為し給う。(中略)
人皇6代孝安天皇53年、新羅王天日槍あめのひぼこのみこと帰化す。多遅麻を賜う。61年、天日槍命をもって(初代)多遅摩国造くにのみやつこと為す。
七美郡・二方郡はは素盞鳴尊すさのおおのみことから始まる)

『第一巻・気多郡故事記』 天照国照彦天火明命は国造大巳貴命の勅を奉じ、両槻天物部命なみつきのあめのもののべのみことの子・佐久津彦命をして佐々原を開かしむ。
佐久津彦命は篠生原ささいくはらに御津井を掘り、水をそそぎ、御田おた・みたを作る。後世その地を名づけて、佐田稲生原さたいないはら・いくはらと云う。いま佐田伊原と称す。気多郡佐々前ささくま邑むら是なり。(のち楽々前郷。いまの豊岡市日高町佐田と道場の山沿い・式内佐久神社)

『第二巻・朝来郡故事記』 天火明命は丹波国加佐郡志楽国→この地(朝来郡)に来たり。真名井を掘り、御田を開きて、その水を灌ぎ給いしかば、即ち垂り穂の稲の甘美稲秋かんびとうしゅう野面のづら狭莫々然しないぬ
故れ此の地を名づけて、比地ひち真名井まないと云う。(比地は朝来あさこの古い県名。比地県→朝来郡)

『第三巻・養父郡故事記』 天照国照彦饒速日にぎはやひ天火明命は、その妃天道姫命あめのみちひめのみこととともに坂戸さかへの天物部命・二田ふたたの 〃 ・嶋戸しまへの 〃 ・垂樋たるひの 〃 ・両槻なみつきの 〃 ・天磐船命あめのいわふねのみこと天揖取部命あめのかじとりべのみこと佐岐津彦さきつひこ命を率い、天照大神あまてらすおおみかみの勅を奉じ、天の磐船に乗り、田庭の真名井原に降り・・・(中略)天火明命これより西して谿間たにま・たぢまに来たり。清明すが宮に駐まる。豊岡原に降り、御田を開く。垂樋天物部命をして、真名井を掘り、御田に灌がしむ。即ちその秋垂穂の八握穂やつかほ莫々然しないぬ。故れ其の地を名づけて、豊岡原と云い、真名井を名づけて、御田井おだいと云う(のち小田井・式内小田井県神社)。
天火明命は、また南して佐々前原ささくまはらに至り、磐船いわふね宮に止まる。(日高町道場に磐舩神社あり)
佐久津彦命をして、篠生原に就かしめ御田を開き、御津川を掘り、水を灌がしむ。後世その地を真田さだの稲飯原と云う。いま佐田伊原と称す。気多郡佐々前村これなり。
天火明命は。また天熊人命を夜父に遣わし、蚕桑の地を相せむ。天熊人命夜父の谿間に就き、桑を植え蚕を養う。
故れ此の地を谿間の屋岡県と云う。谿間たにまの号なこれに始まる。

『第四巻・城崎郡故事記』 天照国照彦饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖高皇産霊神より十種とくさの瑞宝みずたからを授かり、妃天道姫命とともに、田庭の真名井に降り、(以下養父郡とほぼ同じ)

『第六巻・美含みくみ郡故事記』 天火明命は妃天道姫命とともに、坂戸さかへの天物部命・両槻 〃 ・二田 〃 ・嶋戸 〃 ・垂井 〃 を率いて、天磐船に乗り、高天原より丹波国に降り給う。(中略)

『第一巻・気多郡故事記』を除き、天火明命は高天原から丹波国に降りて、御田を作ったのち、谿間に入り、佐田稲飯原を開き御田と為すとしている。また天熊人命を夜父(のち養父)に遣わし、蚕桑の地を相せしむ。谿間の名これに始まる。
豊受姫命とようけひめのみことはこれを見て、大いに歓喜びて、田庭たにはに植えたり。この地をのち田庭と云う。丹波のこれに始まる。

文献では主に「丹波」が使われているが、一部には「旦波」(『古事記』の一部)・「但波」(『正倉院文書』)の表記も見られる。藤原宮跡出土木簡では例外を除いて全て「丹波」なので、大宝律令の施行とともに「丹波」に統一されたと考えられている。
『和名抄』では「丹波」を「太迩波(たには)」と訓む。その由来として『和訓栞』では「谷端」、『諸国名義考』では「田庭」すなわち「平らかに広い地」としているが、後者が有力視されている。[ウィキペディア]

丹波を最初は田庭と書かれていたことから、いつごろから田庭の訓読みの「たには・わ」が、丹波を音読みで「たんば」と変化したたのかは分からないが、山陰から北陸に共通する口をはっきりと開けない方言からみても、発音上「たには」→「たんば」と訛り、「たんば」を漢字にするときに丹波と書くようになったのだろうか。丹波国府が平城京・平安京に近い桑田郡(いまの亀岡市)に遷され、丹波の中心が丹波となり、北部は丹後・西部は但馬として分国された。

但馬も『国司文書・但馬故事記』には谿間とあり、「たにま」か、多遅麻と記すので「たぢま」と読んだようだし、のちに但馬と書く。これも音読みでは「たんば」でもある。たにはが訛って「たには」→「たぢま」→「たじま」に変わったのかも知れない。元々同じ大丹波で、丹波(加佐郡がルーツ)は、丹後となり、南部のみ丹波と三国に分国された。

谷間「たにま」と田庭「たには」、丹波「たんば」・但馬「たじま」を音読みすると「たんば」と同じで音が似ていること、『和訓栞』では丹波を「谷端」、丹と但はカナが誕生するまでの万葉仮名であり、深い意味はないとしても、すでに「たんば」と呼ばれていたから丹と但。旦と当てられたのであろう。

『校補但馬考』に但馬は、「但遅麻」(舊事紀)、「多遅摩・麻」(『古事記』)、「田道間」(『日本書紀』)、「谿間」『先代旧事本紀大成経(舊事大成経)』とす。ただ但馬と云うのみぞ、古来定まりたる本名にして、その他は、詞(ことば)の通ずる文字を用いたるなり。
と記している。

このように「たには」→「たにま」が「たんば」へ、多遅麻「たぢま」、但馬(「たじま」と変化したルーツは同じ「たにわ」ではないかと思える例が多い。漢字の文字が伝わる有史以前にあった地名を万葉仮名に当てはめたとすでに述べた。律令制では国名から土地々にあったふさわしい好字二文字を当てて書いているが、『和名抄』では「丹波」の読みを「太迩波(たには)」としているので平安期までは、少なくとも「たんば」ではなく「たには(わ)」と読んでいたことがわかる。但馬は「太知萬」

但馬故事記が云う谿間とは、屋岡(八鹿)辺であることは揺るぎない。
養父市の円山川の山を背に谷間地はさまじがある。国道9号線が通る。谿間はおそらく養父神社や大藪古墳群から養父市八鹿町あたりだろう。

兵庫県養父市堀畑550

*『国史文書 但馬故事記』

但馬国府に任じられた歴代の国司・官人たちが数年の歳月をかけて編纂された公文書なのである。偽書として無視する学者もあるが「但馬故事記序」の書き出しにこう記されている。

其ノ間、年を経ること158、月を積むこと、1896、稿を替えること、79回の多に及ぶ。(中略)
然して夫れ、旧事記、古事記、日本書紀は、帝都の旧史なり。此の書は、但馬の旧史なり。
故に帝都の旧史に欠有れば、即ち此の書を以って補うべく、但馬の旧史に漏れ有れば、即ち帝都の正史を以って補うべし。焉。
然りいえども此の書、神武帝以来、推古帝に至るの記事書く。年月実に怪詭を以って之を書かざれば、即ち窺うべからず。
(そうはいっても、この書は神武帝から推古帝の記事を書くのだから、年月は実に怪しさをもって書いていることを否定出来ない。)
故、暫く古伝旧記に依り之を填(うず)め補い、少しも私意を加えず。また故意に削らず。しかして、編集するのみ。

『国史文書 但馬故事記』註解を執筆した吾郷清彦氏はこう述べている。
「この国史文書は、(現存している)『出雲国風土記』に比し、勝るとも劣らない価値ある古文書だ。この文書は左記三種の古記録、計22巻より成る。
『但馬故事記』(『但記』) 八巻
『古事大観録』       六巻
『但馬神社系譜伝』     八巻
このほかに、『但馬国司文書別記・但馬郷名記抄』八巻、『但馬世継記』八巻、『但馬秘鍵抄』などがある。
地方の上古代史書のうちで『甲斐古蹟考』とともに東西の横綱として高く評価されるべきものだ。」

現代でも歴史を知る姿勢として十分通じるべき範として見習うべきことを、奈良時代国府が置かれ、すでに平安時代初期に記紀にも欠落があり、此の書を以って補うべく、但馬の旧史に漏れ有れば、即ち帝都の正史を以って補うべし。と述べられていることに、日本の役人の賢明さを再認識するのである。記録が乏しい神武帝以来、推古帝に至る記事を書いているのは貴重である。