【たんご昔ばなし】 丹後海人伝説

■海部(アマベ)

丹後にはかつて、航海術に秀でた「海人族」と呼ばれる一族が住んでいたと言われています。彼らは凡海郷海没後、丹後半島へ移住を余儀なくされた。古代この地方は、漁や、塩つくりなど、海にかかわって生活する人びとによって開かれていきました。火(日)の神、「天火明(アメノホアカリ)」を先祖神とするこの人びとを、「海部(アマベ)」といい、大和朝廷によって、海部直(あまべのあたい)として政権内にくみ入れられたのは、5~6世紀、さらに凡海連(おおしあまのむらじ)として、海に面する古代の郷を統治しはじめたのは、6~7世紀ではないかと考えられます。

この若狭から丹後にかけての古代海部と舞鶴の関係は、『丹後風土記』や、地元の伝説に色濃いことはわかっていたのですが、昭和50年代に入って、古代製塩を中心とする考古学的事実があきらかにされたことと、近年、古代学に脚光をあびて登場した、宮津籠(この)神社の国宝「海部氏系図」が、にわかに脚光をあびてきました。

丹後、若狭の古代海人(かいじん)たちの国『アマベ王国』発祥の地は、青葉山を中心とする東地域である可能性がつよくなってきたのです。

■幻の大地「凡海郷(オオシアマ)」

「昔、大穴持(おおなむち)、少彦名(すくなひこな)の二神がこの地にこられ、小さい島を寄せ集めて、大地をこしらえられた。これを凡海郷という。ところが大宝元年(701)3月、大地震が三日つづき、この郷は、一夜のうちに青い海にもどってしまった。高い山の二つの峯が海上にのこり、常世島(とこよじま)となる。俗には、男島女島(おしまめしま)といい、この島に、天火明(あめのほあかり)神、目子郎女(めこいらつめ)神を祭る。海部直(あまべのあたい)と凡海連(おおしあまのむらじ)の祖神である。」(『 丹後風土記』より)

この消え去った大地、凡海郷は、10世紀の百科辞典『和名抄(わみょうしょう)』の中に、かつて丹後國伽佐郡(現在の京都府舞鶴市及び加佐郡大江町あたり)にあったとされる郷名です。「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、大宝元年の項に「丹波国大地震三日続く」と記しています。

■海人の聖地・冠島

丹後風土記によると、若狭湾上の冠島は、大地震(大宝元年=七〇一年)で陥没した幻の大地「凡海郷」の山の頂であり、海部直と凡海連によって天火明命と目子郎女神をまつると伝えています。

天皇家より古いとされる国宝「海部氏系図」(籠神社、宮津市)には、海部氏の始祖として天火明命が記されています。
島内にある老人嶋神社の祭神はこの天火明命と目子郎女神であり、今も「雄島(老人嶋)まいり」として受け継がれ、市内の野原・小橋・三浜地区をはじめ、広く若狭や丹後地域から海上安全や大漁などを祈願する参拝が行われています。
海部と呼ばれた海人たちの聖地・冠島と彼らのクニ・凡海郷は、現在の舞鶴と深く関わっているといえるでしょう。
■古代製塩と海部
昭和51年、大浦半島の三浜ではじめて、古代の土器製塩が、少なくとも奈良時代には存在し、しかもかなり大規模なものだったらしいことが判明しました。このことで、奈良時代には、海岸に、現在に近い砂浜が成立し、一緒に出土した土器には、弥生時代にまでさかのぼるものもあって、凡海郷の存在は、一時遠のいていきました。
ところが、つづいて、瀬崎の白石浜、黒石浜、大丹生、千歳とつぎつぎに古代製塩の遺跡が発見され、昭和58年には、神崎も加わりました。全国の海部研究の成果から、海部と製塩はつよく結びついていることがわかり、凡海郷は舞鶴海岸地帯を製塩と海部でつなぐ郷名である可能性もでてきました。
その後、古代、海が奥深く入りこんでいたと見られる行永(ゆきなが)からも製塩土器がみつかり、行永は、海部の祖神の一つである「天御影命(あめのみかげのみこと)」をまつる「弥加宜(みかげ)神社」の旧地を発祥と伝えることから、近江のミカゲの故郷「息長(おきなが)族」とのつながりが、浮かんできました。
「息長」と「行永」のかかわりが、新羅からの渡来集団とする息長族と新羅の王子、「天日槍(あめのひぼこ)の伝説にある、浪速から、近江へ入り、若狭へぬけ、丹後から、但馬にいたる古代の開拓民伝説の道筋として、丹後海部の息長とのかかわりを示し、さらに尾張海部との関係もにおいます。
■海部系図は、何をかたるのか
宮津籠(この)神社の国宝『海部系図』のはじめの方に記される神々を祀る社として、勘注系図は、倉梯山の天蔵社(、あまくらのやしろ)、祖母谷山口社(そぼたにやまぐちのやしろ)、朝来田口社(あせくたのくちやしろ)、その他、多くは東地域の社をあげ、実在した人物の初出である16世大倉岐命(おおくらきのみこと)は小倉の布留神社にまつり、長谷山大墓に葬ると記し、祖神「天火明神」は別名「オオミカゲシラクワケ」といったと記し、海部の発祥が、古代志楽郷(大浦の内側を含む)と深くかかわることがわかります。また、海部直の弟、凡海連(おおしあまのむらじ)のくだりに、「小橋」「磯嶋」の名があり、小橋の葛島(かつらじま)神社の故地、磯葛島から、昭和60年に、祭祀遺跡としての製塩土器も発見され、凡海連と、小橋、あるいは三浜丸山古墳との関係が、さらに浮びあがってきました。
■海岸古墳と海部
舞鶴の古墳は分布調査の中間発表で、すでに300基をこえますが、この多くの古墳の中で、最大の石室(内璧の長さ9m、玄室巾は2.4m)は、白杉神社境内の、「鬼のやぐら」古墳で、丹後全体でも十指の中には入ると思われます。後背地のない海辺に近いこの古墳は、海部とのかかわりが考えられます。このような海岸部に展開される古墳は、他にも、田井に現存し、土器その他から存在を追認できる所として、瀬崎、佐波賀、野原などがあり、群集墳である三浜丸山古墳とともに海部にかかわるものであると思われ、古代舞鶴の海辺が、海人達の集う場所として賑ったようすがしのばれます。
現在でも久美浜町海部(かいべ)地区には「海士(あま)」という地名が残っています。小見塚古墳(こみづかこふん、兵庫県豊岡市城崎町今津) は、但馬海直(あまのあたえ)一族のものと考えられている。北但馬には5,000基以上の古墳があるが、埴輪が出土したものは少なく、ここでは、現在北但馬で一番古い埴輪が出土している。
今津の円山川対岸に田井と同音の田結(タイ)があり古い漁村である。一帯は田結郡(荘)と呼ばれ中世、山名四天王田結庄氏の領地であった。また韓国(カラクニ)物部神社、飯谷(ハンダニ)、畑上(ハタガミ)など大陸・半島系の地名や神社が多い。
■海と関わる集団の根拠地
遺跡が集中する三浜・小橋、 浦入

三浜・小橋地区は、アンジャ島や磯葛島、沖合いの冠島などの島々とともに、海に関わる伝承や遺跡が集中しています。三浜丸山古墳をはじめ、三浜遺跡(古墳後期~平安時代の製塩遺跡など)、アンジャ島遺跡(丸木舟の製作に使ったと見られる石斧二本など)、小橋古墳(六世紀前半)などがあります。
わが国最古・最大級の丸木舟が出土した浦入遺跡群(千歳)からは、古墳時代後期の鍛冶炉をはじめ、奈良~平安時代の製塩・鍛冶遺構、銅銭(奈良時代)、墨書土器(「政」「与社(謝)と記載」)、さらには「笠氏」刻印の製塩土器などが出土。製鉄・製塩などの最先端の技術を持った集団が存在したことが明らかとなりました。
これらの遺跡は、海沿いの耕地が少ない地域に在ることから、海と関わりのある経済基盤を持った集団で、凡海郷や海部に関連する遺跡であることが推定されます。
■文献に見る凡海・加佐と大海人皇子(天武天皇)
大海人皇子(後の天武天皇)は、尾張(現・愛知県西部)の海部の加勢を受けて「壬申の乱(六七二年)」に勝利し皇位 についたとされています。「日本書紀」(七二〇年)には、「丹波国訶佐郡」(※3)が天武天皇の新嘗祭の主基(すき=神饌としての米)の国に選ばれたと記されています。また、老人嶋神社の祭神・目子郎女は、尾張海人の娘であることから、凡海郷が天武天皇と密接な関係にあったことが想像されます。
■各地の凡海郷
凡海郷の地名は、十世紀の百科辞典『和名類聚抄』に登場します。丹後の熊野郡海部郷と加佐郡凡海郷、隠岐(島根県)の海部郡海部郷(隠岐郡海士町(あまちょう))、越前(福井県東部)の坂井郡海部郷の四か所に、海部の伝承を持った海人の郷があるとしています。
■各地のアマベ
そして、「九州-丹後半島の久美浜-尾張」この三点を結ぶ者として海部氏がおり、彼らは久美浜を本貫地としていたといいます。海部は海人部とも書く。漁業をもって仕えた部民で、船上で漁を行う者、磯で漁を行う者、潜水して漁を行う者に分けられます。海士は男性、海女は女性と区別して記されることがあるが、いずれも「あま」と呼ばれます。海人の最古の記録は『魏志倭人伝』にあり、海中へと潜り好んで魚や鮑を捕るとあります。
他にも輪島市海士町、徳島県海部郡などがある。
引用:舞鶴市HP他
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ポツダム宣言と治安維持法

政権転覆扇動罪で民主活動家に懲役5年 中国
産経IZA 2010/02/09 13:14

香港の人権団体、中国人権民主化運動情報センターによると、四川大地震の校舎倒壊の真相究明活動で知られ、国家政権転覆扇動罪に問われた民主活動家の譚作人氏に対し、四川省成都市の裁判所は懲役5年の判決を言い渡した。

譚氏の罪状の詳細は不明。香港紙は、譚氏が昨年、1989年の天安門事件当時の民主化運動の学生リーダーだった王丹氏にメールを送り、事件20年の記念活動を呼び掛けたことなどから起訴されたと伝えていた。(共同)

四川大地震の校舎倒壊の真相究明活動自体が違法になる方がおかしい。地方の公共事業請負に共産党幹部が汚職にまみれていることはよく知られている。中国共産党=政府であり国家なのだ。国家政権転覆扇動罪とは、正義よりも党の汚職による欠陥工事を隠蔽しなければ国家が危なくなる国とはいかがなものか。

しかし、最近「治安維持法」という法律がなくなっていることは問題ではないかと思えるほど政府の特に小沢が中国共産党に140人も謁見し、帰り際には韓国の大学で天皇陛下訪韓を発言している。その前にも韓国に「外国人地方参政権」実現を約束している。また、中国の副首相習近平氏をルールを破り天皇と強引に引見させたことだ。国益よりも党益・私益を優先しているのではないか。国家の主権・道議を侵す憲法違反である。献金疑惑は過去最大規模のもので、不起訴になったといっても証拠不十分でありシロだといっていない。

そこで「治安維持法」についてフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で引いてみた。

治安維持法(ちあんいじほう)は、国体(天皇制)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。

当初治安維持法制定の背景には、とくにロシア革命後国際的に高まりつつあった共産主義活動を牽制する政府の意図があった。
前身

1920年より、政府は治安警察法に代わる治安立法の制定に着手した。1917年のロシア革命による共産主義思想の拡大を脅威と見て企図されたといわれる。また、1921年4月、近藤栄蔵がコミンテルンから受け取った運動資金6500円で芸者と豪遊し、怪しまれて捕まった事件があった。資金受領は合法であり、近藤は釈放されたが、政府は国際的な資金受領が行われていることを脅威とみて、これを取り締まろうとした。また、米騒動など、従来の共産主義・社会主義者とは無関係の暴動が起き、社会運動の大衆化が進んでいた。特定の「危険人物」を「特別要視察人」として監視すれば事足りるというこれまでの手法を見直そうとしたのである。

1921年8月、司法省は「治安維持ニ関スル件」の法案を完成し、緊急勅令での成立を企図した。しかし内容に緊急性が欠けていると内務省側の反論があり、1922年2月、過激社会運動取締法案として帝国議会に提出された。「無政府主義共産主義其ノ他ニ関シ朝憲ヲ紊乱」する結社や、その宣伝・勧誘を禁止しようというものだった。また、結社の集会に参加することも罪とされ、最高刑は懲役10年とされた。

これらの内容は、平沼騏一郎(元首相・現衆議院議員平沼赳夫氏の養父)などの司法官僚の意向が強く反映されていた。しかし、具体的な犯罪行為が無くては処罰できないのは「刑法の缺陥」(司法省政府委員・宮城長五郎の答弁)といった政府側の趣旨説明は、結社の自由そのものの否定であり、かえって反発を招いた。また、無政府主義や共産主義者の法的定義について、司法省は答弁することができなかった。さらに、「宣伝」の該当する範囲が広いため、濫用が懸念された。その結果、貴族院では法案の対象を「外国人又ハ本法施行区域外ニ在ル者ト連絡」する者に限定し、最高刑を3年にする修正案が可決したが、衆議院で廃案になった。

また、1923年に関東大震災後の混乱(在日朝鮮韓国人等)を受けて公布された緊急勅令 治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件(大正12年勅令第403号)も前身の一つである。これは、治安維持法成立と引き替えに緊急勅令を廃止したことで、政府はその連続性を示している。

法律制定

1925年1月のソビエト連邦との国交樹立(日ソ基本条約)により、共産主義革命運動の激化が懸念されて、1925年4月22日に公布され、同年5月12日に施行[1]。普通選挙法とほぼ同時に制定されたことから飴と鞭の関係にもなぞらえられ、普通選挙実施による政治運動の活発化を抑制する意図など治安維持を理由として制定されたものと見られている。治安維持法は即時に効力を持ったが普通選挙実施は1928年まで延期された。 法案は過激社会運動取締法案の実質的な修正案であったが、過激社会運動取締法案が廃案となったのに治安維持法は可決した。奥平康弘は、治安立法自体への反対は議会では少なく、法案の出来具合への批判が主流であり、その結果修正案として出された治安維持法への批判がしにくくなったからではないかとしている。

1928年(昭和3年)に緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)により、また太平洋戦争を目前にした1941年3月10日にはこれまでの全7条のものを全65条とする全面改正(昭和16年3月10日法律第54号)が行われた。
1925年法の規定では「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」を主な内容とした。過激社会運動取締法案にあった「宣伝」への罰則は削除された。

廃止

1945年の敗戦後も同法の運用は継続され、むしろ迫り来る「共産革命」の危機に対処するため、断固適用する方針を取り続けた。同年9月26日に同法違反で服役していた哲学者の三木清が獄死し、10月3日には東久邇内閣の山崎巌内務大臣は、イギリス人記者に対し「思想取締の秘密警察は現在なほ活動を続けてをり、反皇室的宣伝を行ふ共産主義者は容赦なく逮捕する」と主張した。さらに、岩田宙造司法大臣は政治犯の釈放を否定した。こうしたことなどから同10月4日にはGHQによる人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により廃止と山崎の罷免を要求された。東久邇内閣は両者を拒絶し総辞職、後継の幣原内閣によって10月15日『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安維持法廃止等(昭和20年勅令第575号)』により廃止された。また、特別高等警察も解散を命じられた。

1948年に制定された韓国の国家保安法は治安維持法をモデルにしたと言われている。

中国の言論統制

中国は自国民だけではなく、外国メディアに対してもしばしば統制をはかる。日本のマスコミも実質的に中国の検閲下にあるといわれている。この背景には親中派議員たちが訪中して締結した1964年(昭和39年)の「日中記者交換協定」、さらに1968年(昭和43年)の「日中関係の政治三原則」という両国間の検閲協定がある。これにより「1中国を敵視しない、2二つの中国の立場に立たない、3日中国交正常化を妨げない」が日中記者が記者交換する原則とされた。これは事実上日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどや、今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。日本の憲法に照らすと違憲性が強く推定される協定だったが、日本のメディアはほぼ追随した。現在に至るまで日本の報道機関はこれらの協定に従順であり中国へ不利な報道や対中ODAに関する報道はほぼしない。

文化大革命の際に些細なことで日本の報道各社が次々と中国を追放されていたこともマスコミの上記の記者諸協定への強い順守の原因となっている。文化大革命の際には次々と外国メディアが追放され、日本の報道機関も朝日新聞をのぞいてすべて追放されている。そのため当時唯一中国の情報を報道できた朝日新聞は他の報道機関から羨望のまなざしで見られていた。その後、中国への再入国を許された他の日本の報道各社もこの追放の過去が一種の「トラウマ」になって中国共産党当局から目をつけられないよう諸協定に必要以上に従順となっているのではないかともいわれる。

なお唯一産経新聞だけがこの協定に反発し、傘下のフジテレビを含めて特派員をすべて引き上げた事は有名である。このため産経新聞社の発行する各新聞、雑誌、及びFNS系制作のテレビ番組、ニッポン放送のラジオ番組では、しばしば中華人民共和国に対する挑戦的とも取れる批判的内容が盛り込まれることがある他、台湾(中華民国)に対する友好的な記事・番組が多いことでも知られる。

米国愛国者法

テロリズムの阻止と回避のために必要な適切な手段を提供することによりアメリカを統合し強化する2001年の法 (英: Uniting and Strengthening America by Providing Appropriate Tools Required to Intercept and Obstruct Terrorism Act of 2001 公法律 107-56) は、正式名称の頭文字を取って米国愛国者法[1] (USA PATRIOT Act) あるいは単に「愛国者法」(Patriot Act) とも呼ばれる。2001年10月26日に米国大統領ジョージ・W・ブッシュが署名して発効した連邦議会制定法(en)である。

当法は十章から成り、各章は複数の条に分かたれる。各章は以下のとおり。

第1章 テロリズムに対する国内の安全性の向上 (Title I: Enhancing Domestic Security against Terrorism)(en) テロリズム対策について定める。

第2章 監視手続の改善 (Title II: Enhanced Surveillance Procedures)(en) 政府のさまざまな部局の捜査権限を強化する。二十五条から成り、そのうちの一条 (224条) がサンセット条項(一定期間ごとの見直し規定)を含む。

第3章 国際マネーロンダリングの阻止及びテロリストへの資金供与防止のための2001年法 (Title III: International money laundering abatement and anti-terrorist financing act of 2001)(en)

第4章 国境の保全 (Title IV: Protecting the border)(en)

第5章 テロリズムの捜査に対する障害の除去 (Title V: Removing obstacles to investigating terrorism)(en)

第6章 テロリズムの被害者、公共保安職員及びその家族に対する支援 (Title VI: Providing for victims of terrorism, public safety officers and their families)(en)

第7章 重要基盤の防護のための地域的情報共有の増進 (Title VII: Increased information sharing for critical infrastructure protection)(en)

第8章 テロリズムに対する刑法の強化 (Title VIII: Strengthening the criminal laws against terrorism)(en)

第9章 諜報活動の改善 (Title IX: Improved intelligence)(en)

第10章 雑則 (Title X: Miscellaneous)(en)

つまり、GHQによって憲法はじめ自国民が国家解体を図る売国的政治家や左翼を処分できないのである。
戦えない国、主権を守れない国、スパイ天国。これでも独立国家だろうか。

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19世紀ドイツの地図も竹島は日本領

19世紀ドイツの地図も「竹島は日本領」

産経IZA 2010/01/20 14:36
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/348219/
 竹島(島根県)と朝鮮半島の間に境界線を引き、日本領とした19世紀後期のドイツ製の地図が複数現存していることが20日、島根県竹島資料室の調べで分かった。大阪大付属図書館ではこのうち最も古い1870年製の地図を所蔵。これまでにも竹島を日本領とする19世紀の西洋製地図は見つかっているが、さらに複数の地図が確認されたことで、日本の領有権確立を補強するとともに、韓国側の主張への反論材料になるという。
 竹島資料室によると、大阪大のほか、海外の大学や古書店などへの調査で印刷時期の違うドイツの「シュティーラー地図」の所蔵を確認。1870~1899年の間に作製された約10枚で、竹島が日本領とされていた。
 シュティーラー地図は、日清戦争後の1896年版では、台湾と中国大陸の間に境界線を引くなど、当時の国際情勢を反映。だが、現在は韓国領の鬱陵島を日本側に含むのは、日本人が同島に渡り活動していた影響とみられ、その経緯を詳しく検証する必要があるという。
 韓国側研究者は「1920年代まで西洋地図では独島(竹島の韓国名)を韓国領に属すると分類していた」と主張している。
 竹島資料室の杉原隆竹島研究顧問は「国際的に認められてこの内容で発行が続いたとみられ、さらに分析を進めたい」としている。

よしこれで、実力行使をしなくても国際裁判所へ上告できる。
いっそ台湾も千島列島も連邦制を敷いて日本国の連邦国にしよう。嫌中の台湾の人も喜ぶ人は多いと思います。


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【韓国朝鮮の歴史と社会】(29) 韓国の現代社会と人間関係

[catlist id=8] 1960年代以降、韓国社会は急激な社会変化を経験してきました。都市への人口集中と農村の過疎化、それによる血縁関係の結束の弱体化がある一方で、国民文化として伝統の強調もおこなわれています。

家族関係の変化

伝統的に理想とされてきたのは、三世代同居の家族形態でした。しかし1960年代からの産業化と都市化の進展はアパートでの核家族の居住を一般化させました。地方の小さな町にもアパートが建ち、近隣の村の若い夫婦たちが居住しています。1980年代までは都市に出た人でも祭祀(チェサ)などの際には故郷に帰るのが一般的であり、都市に暮らす人と農村に暮らす人との間の交流がみられ、常に関係が確認されました。

しかし最近では、祭祀の場に参加する人々は減少しており、門中などの親族の結束も弱体化してきています。しかし人間関係自体が希薄化しているかというとそうは言い切れないのです。かえって携帯電話をはじめとする通信機器の発達は、人間関係の維持にも大きな役割を果たしており、世界中のどこにいても身近にいることを確認できます。

核家族化は、家族の人数の減少ももたらしています。1995年には家族の人数は3.3人にまで減少しています。この背景には女性の社会進出があります。また近年では離婚率が高くなっており、さまざまな問題が引き起こされています。

家族観のゆらぎ

韓国では、男性の側により重心をおく構造に変わりはないようにみえました。しかし女性側から要求として出されていた「戸主制」廃止論が力を持つようになってきており、変化がみられます。

「戸主制」は日本の植民地期に日本の家をモデルとして制度化されたもので、数度の改編を経ながら存続してきています。「戸主制」では戸主の地位の景勝が男系優位であること、家族の範囲を戸主の戸籍の範囲内としていること、子供の姓は父親の姓であることなどの特徴がみられます。離婚の急増で問題となっているのは子供は実父の姓を受け継ぎ、犠牲を名乗ることができないため、さまざまな不利益をこうむる点です。子供に実父以外の姓を名乗らせようとする運動は父系主義を真っ向から対立するものです。

「戸主制」廃止については、保守勢力からの反発は強いですが、若い世代を中心に楊ミンする雰囲気があり、近い将来改編される可能性が高いです。廃止されると、朝鮮王朝以来続いてきた父系主義が否定されることになります。その結果多くの問題が引き起こされるのか、逆に社会が変化したために制度が変えられただけのことで大きな問題とならないかは興味深いところです。

ナショナリズムと移民

2002年、日本と韓国とで共催されたサッカーのワールドカップ大会は、韓国チームの活躍もあり韓国では街中に応援の人々があふれました。そこでは「大韓民国(テハーン・ミングック)」が合唱され、熱烈な応援とナショナリズムが世界の人々の関心をよびました。韓国はナショナリズムがよく表明される社会でもあります。また近年の若い世代の反米感情の高まりのなかでは、北朝鮮と一体化した民族というナショナリズムもみられ、2001年末の大統領選挙では、北朝鮮との宥和政策をかかげた盧武鉉(ノ・ムヒョン)を大統領としました。

一方でその同じ世代が国を離れて移民を希望したり、また実際に移民していったりしています。理由は子供の教育問題のためで、韓国内の苛烈な受験競争を避けての移民です。韓国では移民は特別珍しいことではありません。父系血縁意識が強かったので、どこにいても自分自身のアイデンティティは変わらないと思われてきました。しかし、社会の変化とともに薄らぎつつある父系血縁意識は、韓国人のアイデンティティをどう変えていくのか注目されます。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
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【韓国朝鮮の歴史と社会】(28) 韓国の社会関係

[catlist id=8] 伝統的な社会関係

日本人にもっとも近しい国はどこかといえば、地理的にも同じ島国という国民性からも台湾(中華民国)です。

そしてもっとも歴史・文化・交流・言葉が近いのは韓国です。韓国にはこれまで2度行ったことがあります。韓国も台湾もそうですが、世界中でもっとも日本人と近い隣人であることが体験できます。

しかし、唯一異なるのは、過去に二国間で争いがおきましたが、日本列島は第二次世界大戦で米国に占領されたことがありますが、幸いにも言葉や習慣自体を奪われることはありませんでした。したがって、一度も他国から植民地化されたことがないのですが、朝鮮半島は何度も同じ民族同士や他国から侵略を受けてきた歴史だということです。

韓国社会は儒教によって高度に秩序化された社会であり、父系血縁関係を基盤とした家族・親族関係が形成されている点では日本と大きく異なります。これは中華の伝統を受容し、それをもとに朝鮮の社会関係を組み直した結果でもあります。このような伝統的な家族・親族関係は、現在では社会の変化とともに大きく変わってきています。

父系血縁関係

韓国では朝鮮王朝時代に国教とされた儒教(朱子学)によって、父・子関係を基本とする父系血縁関係が社会に浸透していきました。およそ17世紀後半から18世紀にかけて定着したといわれています。

韓国人にとってもっとも基本的なアイデンティティは父系血縁です。そしてその関係は生涯変わることはありません。父系の血を継承したことによって、自分自身の所属が明らかとなります。女性にとっても生涯この父系血縁関係は変わることはありません。

家族

韓国では家族というときに「チップ」という言葉を良く使います。日本語の「家・いえ」という言葉によく似ていて、家族とともに家屋の意味でも使われます。このチップは日常生活の基本単位であり、伝統的には長男夫婦が老後の親を扶養します。三世代同居の姿が理想型とされてきました。ただしチップはより範囲が広く、次三男以下が独立した後やその子孫たちも、同じ血を持つ者として考えられ、同じチップのメンバーとなります。とくに農村部では、近くに住むことが多く、日常的に緊密な繋がりをもっており、また相互に助け合う関係でもあります。日本では家族であっても遠くに離れてしまうと心情的に距離感をもつことが少なくありませんが、韓国では日常的関係がさほど緊密でなくとも、常に関心をもっていて心情的には近いのです。血縁関係を軽視することは、倫理に反するとみなされて批判されることになります。

父親と子どもの関係が基本とされるため、とくに父と息子の関係は厳格で形式的なものとなります。とくに儒教に忠実であろうとする人々の間ではそうです。一方、逆に母親と子供の関係は打ち解けた親しみのあるものです。また祖父母との関係は、子供にとっては何でも許される関係となります。

また四代前までの祖先を祀る忌祭祀(キジェサ)を祀る子孫たち、つまり高祖父を共通の祖先とする八親等の関係をチップの内側という意味でチバンといい、このチバンが親族のなかでも近い関係です。

親族

父系血縁の原理はチバンのように親子兄弟関係をこえて拡大して考えられます。親族組織を門中(ムンジュン)といいます。門中は、ある祖先からの系譜が明確な人々によって構成され、元来はある特定の地域に集中して居住することが多く、村全体が同じ門中というような村落も存在しました。門中は祖先祭祀のために組織化されたので、そのための土地や財産を所有することも多い。門中はその系譜関係を明らかにするためのものとして族譜(チョッポ)を編纂します。

親族

族譜は父系の系譜関係を明示するものとして存在するので、父系の血の概念が浸透し、それにともなって親族組織がつくられるようになってから一般化しました。王朝時代には族譜を編纂し所有することがステータスの証しでもありました。族譜の記述形式は定まっていて、最初に一族の歴史が語られ、始祖からの系譜を親子関係を上下に、兄弟関係を横に並べて記載されます。個人についての記載内容も現在ではほぼ一定で、名、生年月日、官職や事跡、配偶者の父親の姓名と本貫、本人と配偶者の没年月日、墓の位置などです。

現代の韓国でも族譜はステータスと大きく関連していて、族譜を出版する出版社や族譜を集めた図書館などが存在します(日本では考えられない個人情報漏洩だが…)。族譜は一世代(約三十年)ごとに改訂されるのが通常で、死者や新しい成員の情報が付け加えられます。また過去にさかのぼって見直しが行われます。

最近では刊行される族譜に女性の名前が記載されることが多くなり、また漢字を読めない人々が増えてきたためハングルでの表示もなされています。また多くの門中で族譜がインターネットを通じて公開されていることも、伝統と新技術の結合として特徴的なものでしょう(出版同様、日本では考えられない個人情報漏洩だが…)。

姓氏

韓国には姓が270あまりしかありません(ちなみに日本は姓は正式には氏ともいい、名字・苗字ともいう。十数万もの種類の名字がある)。またその内の少数の姓に集中しています。金・李・朴が三大姓といわれ、この三つの姓で全人口の45%を占めます。しかしながら金姓の人々は同じ一族かというとそうではありません。姓に本貫という地名をプラスすることによって区別をします。金姓では本貫の数は300近くあります。本貫は始祖とよばれる祖先と関連する地名である場合が多い(金海金氏・慶州金氏など)です。また始祖は必ずしも実在の人物とは限らず、神話的な存在である場合もあります。このように本貫と姓を同じくする人々を、同姓同本といいます。同姓同本の人々は明確な系譜関係で結ばれているわけではないし、共同で何かをやることは少ないです。

しかし、この同姓同本が明確な区分として使われるのが婚姻の場合です。同姓同本の間での婚姻は、つい最近まで、ある少数の例外は除いて、「同姓不婚」の原則に該当するため法的に禁止されてきました。そのため多くの問題が発生することとなりました。

それは、同姓同本である男女による事実上の婚姻生活です。法的には認められない婚姻のため、生まれてくる子供は法的に男性の子供とは認められず、私生児とならざるを得ませんでした。厳格な父系血縁の社会で父親の存在がないことは多くの不利益を子供にもたらすことになります。そのため例外的に婚姻を認める期間が設けられたことがありましたが、現在では同姓同本の婚姻を禁じた民法の条文は効力停止となっており、同姓同本の婚姻は自由となっています。

民族

朝鮮半島は半島というコンパクトな地域に、王朝交代の少ない比較的に安定した社会を長年にわたって維持してきたため、社会や文化の均質性が高いのが特徴です。もちろん地域差や階層の差による違いがないではありませんが、今日では比較的に小さいものです。そのため民族意識がつくられやすく、近代になると外部からの圧力もあり、自分たちを同じ血をもつ民族としてみなすことがおこなわれました。この民族の血の概念は架空のものでありますが、対外的にも、また自らのアイデンティティを確認するときにも重要な働きをしています。

北朝鮮との関係においても、金泳三大統領以降の政権では、同じ民族としての面を強調し、和解の雰囲気をつくり出してきているようです。このように、同じ血をもつ民族という概念は、政治的なものでもあります。

両班意識

父系血縁観念が広く行き渡り、親族意識を組み直していったのには、朝鮮王朝の支配層であった士大夫(したいふ)層の役割が大きかったのです。士大夫層のことを士族といいます。士族は科挙に合格し官職に就いた人物を指し、一般的に文官と武官を総称して両班(ヤンバン)と称されたのですが、時代をへるにしたがって両班の適応範囲は広がっていきました。その際に必要とされた両班らしさのなかには、儒学の素養や儒教的規範の実践のほか、父系血縁意識による祖先祭祀、族譜の所有、親族意識などがありました。両班の生活様式を実践することによって、自らのステータスを上昇させようという人々が存在し、それがまた父系意識の浸透にも影響したと考えられます。そして現在では、韓国人の多くが自分たちは両班の子孫であると認識しています。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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【韓国朝鮮の歴史と社会】(27) 新世紀の朝鮮半島

[catlist id=8] 2000年に入ると朝鮮半島の事態は一変しました。6月、金大中大統領が平壌を訪問し、北朝鮮の金正日委員長と初の南北首脳会談を実現させました。両首脳は、統一問題の自主的な解決、南北双方の連合、連邦制案の共通性の確認、離散家族訪問団の交換、経済協力や社会・文化などでの協力交流、合意事項実施のための早期の当局間の対話開始、の五項目からなる南北共同宣言に署名しました。宣言には金正日委員長のソウル訪問も明記されました。宣言の内容は、1972年の七・四南北共同声明以来の路線を踏襲するものでしたが、両首脳が直接会談したことは、南北和解の雰囲気を一挙に高めました。とくに、金正日委員長の姿と肉声が世界にテレビで生中継されたことは、北朝鮮のイメージを好転させ、その外交戦略を助けることとなりました。
以後も8月と11月の二回にわたる南北離散家族の相互訪問。9月シドニー・オリンピック開会式における南北の合同入場行進など、和解の動きは続きました。そして、12月には、長年の民主化への尽力に加えて、朝鮮半島の緊張緩和を進めた実績が評価され、金大中大統領にノーベル平和賞が授与されました。2002年6月には、日・韓共同開催のワールドカップ・サッカー大会が実現し、日韓関係の進展がみられました。また、同年12月の第十六代大統領選挙では、与党候補の盧 武鉉(ノ・ムヒョン)が当選しました。03年2月に発足した盧 武鉉政権は、基本的に前政権の政策を継承しながらも、社会の広範囲にわたり民主化の促進につとめました。しかし、金大中系列の議員との対立が深まって与党は分裂し、03年11月、盧 武鉉系列の議員によって、新与党である開かれたウリ党が結成されました。
北朝鮮は、2000年1月、イタリアと国交を樹立したのをはじめ、EU各国やカナダなどと相ついで修交するなど、積極的な外交を進めました。10月、趙明録国防委員会第一副委員長が訪米してクリントン大統領と会談したのに対して、同月オルブライト国務長官が訪朝して金正日委員長と会談するなど、米朝関係は急激な進展を見せました。しかし、01年1月、共和党のブッシュ政権が発足すると、米国は北朝鮮をイラン、イラクと並ぶ「悪の枢軸」であると非難し、関係は悪化しました。これに対して、北朝鮮は米国に現体制の存続を保証する不可侵条約の締結を求める一方で、反米姿勢を強めて核開発の再開を発表する瀬戸際政策を展開しました。
02年9月、日本の小泉純一郎首相が訪朝して、金正日委員長と初の首脳会談をおこない、日朝平壌宣言を発表しました。宣言は、日朝の国交正常化を再開する、北朝鮮のミサイル発射実験の凍結期間を延長する、賠償に変わる経済協力をおこなう、ことなどを謳い、従来の日朝関係を一変させるものでした。しかし、このとき北朝鮮が1970年代に日本人を拉致した事実を公式に認定し謝罪し、五人の拉致被害者が日本に帰国しました。しかし、このことは日本で反北朝鮮の世論を強める結果となりました。これに対して北朝鮮も態度を硬化させ、関係は冷却化の様相をみせました。また、同月北朝鮮は外国資本の誘致をねらい、新義州に香港をモデルとした特別行政区を設置するとの発表をおこないましたが、構想は頓挫しました。
さらに、02年10月、北朝鮮が米国に対して核兵器開発計画があることを認めると、これに反発する米国は、枠組み合意が無効になったとの認識にもとづき、KEDOの事業に対する見直しを表明しました。03年11月、KEDOは事業の中断を発表し、軽水炉の提供は事実上棚上げとなりました。また、8月、北朝鮮の核開発問題をめぐり、南北朝鮮、中国、日本、ロシア、米国が参加した六者協議が北京で開催されましたが、問題解決には至りませんでした。このように国の内外で社会的・経済的困難が続くなか、北朝鮮からの脱出住民は急増し、中国に潜伏する者だけでも数万人におよぶと推測されました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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【韓国朝鮮の歴史と社会】(26) 南北の対話と緊張

[catlist id=8] 中ソ対立と北朝鮮

建国以来、中国、ソ連と密接な関係を維持してきた北朝鮮にとって、中ソ対立は対応が困難な試練でした。反米闘争の堅持をかかげる北朝鮮は、1960年代前半、ソ連を批判して中国を支持しましたが、文化大革命の開始とともに中国との対立が深まり、ソ連との関係が改善されました。1970年、中国との関係も正常化されましたが、一連の事態は、北朝鮮に自主路線貫徹の必要性を痛感させました。
1961年に策定された人民経済発展七カ年計画は、翌年「人民の武装化、国土の要塞化、軍人の幹部化、軍備の現代化」からなる四大軍事路線の採択にともない、国防支出を増大させて、民生関連予算を削減する変更を強いられました。軍事費の突出により経済建設は困難を極め、計画は三年間延長して70年に達成されました。さらに、イデオロギー面でも自立化路線が追求され、1967年5月、解放前祖国光復会の活動を国内で支えた甲山派も粛清されて、「革命の首領」金日成が唱える「主体(チュチュ)思想」[*1]に全国民が従うことを求める「唯一思想体系」が確立されました。

[*1]…主体思想とは、「思想における主体、政治における自主、経済における自立、防衛における自衛」を趣旨とし、自力更生を重視してマルクス主義を朝鮮に適用した思想。

南北の対話と緊張

中ソ対立や米中接近など国際情勢の変化を機に、軍事費の増大がそれぞれの財政を圧迫していた南北の政権は、対話路線に転換しました。極秘の折衝の末、1972年7月、「自主・平和・民族的大同団結」という祖国統一の三大原則をかかげる共同声明(七・四南北共同声明)が発表されました。これは、互いに存在を否定してきた南北の政権が、相手を一つの政権として認めたことを意味し、将来の統一に向けて、今後の対話と交流の拡大を期待する内外の民衆の熱狂的な支持を獲得しました。

南北の強権体制

韓国では、朴正煕(パク・チョンヒ)の長期政権に対する不満も高まり、1971年4月、第七代大統領選挙で野党候補の金大中が善戦しました。政府への支持拡大をねらった南北共同声明でしたが、依然として民間レベルでの南北交流を禁圧する反共体制を維持しようとする政府に対する世論の批判を招きました。支配の安定確保をもとめる朴正煕政権は、1972年10月、非常戒厳令を布告し、12月、大統領の権限を極限まで強化した「維新憲法」を公布して(第四共和国)、個人独裁体制を確立しました。また、1970年11月、青年工員全泰壱が劣悪な労働条件に抗議して焼身自殺した事件を機に高揚した労働者、農民の運動や野党や学生の反政府運動は、大統領緊急処置の発令により徹底的に弾圧されました。1973年8月、金大中がKCIA(中央情報部)の要員によって宿泊中の東京のホテルから拉致され、1974年4月、200余人が反国家団体結成の嫌疑で逮捕される(民生学連事件)など、政治的弾圧事件が続発しました。しかし、市民や学生の独裁批判は止まず、政治家の尹潽善前大統領や金大中、キリスト教会などが1976年3月、朴正煕大統領緊急措置撤廃・朴正熙政権退陣を呼びかけ、民主救国宣言を発表しました。
経済的には、1972年、重化学工業化をめざす第三次五カ年計画が開始されました。日本の技術援助を得た浦項総合製鉄所が完成し、現代(ヒュンデ)、三星(サムソン)などの財閥が輸出を推進して、「漢江の奇跡」とろばれう経済成長を実現しました。他方、解体しつつある農村の再統合をはかり、農民の所得増大と大衆動員をめざすセマウル(新しい村)運動が展開されましたが、離農は阻止できませんでした。1979年夏、第二次石油危機による不況下で労働争議が頻発しましたが、政府は弾圧方針を変えませんでした。争議は大統領退陣要求運動へと発展しました。釜山や馬山で市民と警察の衝突が続くなか、1979年10月、朴正熙が側近の中央情報部長に射殺され、個人独裁体制は崩壊しました。
北朝鮮では、1972年12月、新憲法が制定されました。金日成が新設の国家主席に就任し、党と国家と軍の権力を掌握しました。その理論的基盤は主体思想でしたが、前とは異なり、マルク主義の唯物論を超越した人間の意識の能動性が強調されました。1973年2月、思想革命、技術革命、文化革命をめざす三大革命小組運動が開始され、それとともに金日成の長男 金正日が台頭しました。個人崇拝の徹底につれ、後継者の資格を血統に求める主張が力を得たのです。以後、金正日の資質を賞揚し、社会主義国家における権力世襲を正当化する事業が推進され、1980年10月、朝鮮労働党第四回大会は、金正日が金日成の後継者であることを正式に内外に発表しました。
経済的には、1971年から重工業の発展に重点をおいた六カ年計画が開始され、重労働と軽労働、農業労働と工業労働など各部門間の労働格差解消と、女性の家事労働からの解放を唱える「三大技術革命」が提示されました。しかし、軍事費の圧迫により経済成長は鈍化し、西側から借款の導入がはかられましたが、第一次石油危機を機に対外債務返済の不履行が深刻化しました。

韓国の軍事政権

朴正熙暗殺後、首相崔圭夏が後継大統領になりましたが、1979年12月、全斗煥が「粛軍クーデター」で実権を握りました。全斗煥は、翌年5月戒厳令を全国に拡大し、光州の民主化抗争を武力で弾圧して、第11代大統領に就任しました。1981年3月、新憲法下に第五共和国を出帆させた全斗煥政権は、日米の保守政権と連携を強め、日本から40億ドルの借款を獲得しました。また、強権でインフレを解消した後、1982年からの第五次五カ年計画では民間企業主導の開発戦略を採用しました。しかし、日本に対する累積債務は深刻であり、1982年7月、日本の歴史教科書の記述訂正を求める運動が高揚したように、政府の対日依存の姿勢は野党や学生などに非難されました。80年代後半にはウォン安、原油安、金利安の恩恵で輸出が増大し、1986年貿易収支がはじめて黒字となりました。しかし、権力との癒着を背景に不正蓄財事件が続発し、政府を批判して大統領直接選挙の実施を求める運動に多くの市民が参加しました。
1987年6月、全斗煥の後継者に推挙された盧泰愚(ノ・テウ)が、大統領直接選挙実施のための改憲、民主化、金大中赦免をかかげる特別宣言を発表しました。12月、盧泰愚が第十三代大統領に当選しました。盧泰愚政権は軍事色の払拭につとめ、1990年1月、少数与党という窮地を脱するため与野党を合同し、民主自由党を結党しました。他方、88年9月、ソウル・オリンピック開催を機に、東欧諸国など社会主義国と修交する「北方外交」の延長線上に北朝鮮との関係改善がはかられ、90年9月、第一回南北首相会談の開催をへて、91年9月、韓国の主導下に南北は国連に同時加盟しました。

「われわれ式社会主義」

1980年代の北朝鮮では、革命第二世代の権力機構への進出が顕著となり、人民軍最高司令官、国防委員会委員長に就任して権力の継承を進める金正日に対する賛楊事業が展開されました。そして、東欧、ソ連の社会主義が崩壊するのに対して、「われわれ式(ウリシク)社会主義」をかかげて体制維持をはかりました。その理論的基盤は、国家における首領と党と大衆の一体性を唱える「社会的政治的生命体論」でした。
1992年4月、憲法が改定され、主体思想の脱マルクス主義化と国防重視の方針が明示されました。他方、経済建設は限界に達し、三年の調整期ののち、87年から第三次七カ年計画が開始されましたが、経済事情は好転しませんでした。また、ソ連の解体と中国の市場経済導入は、従来の「友好価格」での石油や食糧の輸入を途絶させ、状況を悪化させました。北朝鮮は合営法の制定や自由貿易地帯設置など、外国資本の誘致につとめましたが、在日朝鮮人企業家を除いて、進出は進みませんでした。韓国に対しては、ラングーン爆弾テロ事件(83年10月)や大韓航空機爆破事件(87年12月)など、諜略工作がおこなわれました。
1992年1月、国際原子力機関(IAEA)との核査察協定に調印しました。しかし翌年、査察を拒んで核不拡散条約(NPT)脱退を表明し、南北会談で戦争を示唆するなど情勢は緊迫しました。これに対して、米朝高官協議がはじまり、94年6月、南北首脳会談の開催が決定しました。7月、金日成が急死して会談は中止されましたが、10月、核兵器開発が可能な黒煙炉を軽水炉に替えることで米国と合意し、95年3月、日本、米国、韓国が朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)を設立し、軽水炉の建設に着手しました。
また、北朝鮮は、1994年以降連続して自然災害に襲われ、食糧危機の陥りました。国連機関や各国政府、NGOが支援しましたが、危機は解消されませんでした。89年以来のマイナス成長に加え、1994年からは経済計画さえ立案できなくなりました。北朝鮮崩壊による極東情勢の激変を憂慮した周辺諸国は、斬新的な開放政策の導入による「軟着陸」をはかり、97年12月、南北朝鮮と米国、中国の四者会談を開始しました。
日本に対しては、90年9月国交交渉を開始し、97年11月、食糧支援と引き換えに北朝鮮帰還者の日本人配偶者の一時帰国が実現しました。しかし、98年8月、テポドン1号発射を契機に再び緊張が高まりました。韓国の文民政権に対しては、食糧支援を求めて和解の姿勢を示す一方で、96年9月の潜水艦侵入事件など、冒険主義的な工作も併用しました。加えて、韓国よりも米国との直接交渉を優先させる姿勢を示すなど、社会主義国家としての生き残りのために複雑な外交戦略を展開しました。

韓国の文民政権

1992年12月の大統領選挙では、地域感情をあらわにした選挙戦の末、与党候補の金泳三(キム・ヨンサム)が当選して文民政権が発足しました。前政権の閣僚や有力者を多数逮捕して、独自色を鮮明にしました。省庁統合を断行するなど改革の姿勢を示しましたが、他方で聖水大橋崩落などの事故や公務員の不正が続発し、急激な成長の陰で社会の矛盾が噴出しました。93年からの新経済五カ年計画は先進国入りをかかげましたが、96年10月、経済開発機構(OECD)への加盟が承認され、宿願が実現しました。
また、金泳三政権は、日本の首脳との会談を通じて植民地支配に対する謝罪発言を引き出し、韓国内でも解体に賛否が分かれていた日帝時代の象徴たる旧朝鮮総督府庁舎を解体しました。さらに、95年10月、秘密政治資金口座の発覚を機に盧泰愚を逮捕し、全斗煥とともに「粛軍クーデター」から光州民主化抗争までの事態に関する軍反乱と内乱の容疑で訴追するなど、「歴史の清算」を実践しました。ところが、97年夏、自動車、製鉄など基幹産業の不振から韓国経済は極度の不況に陥り、これが通貨危機に発展しました。年末には対外債務の不履行が危惧されたため、11月、政府は国際通貨基金(IMF)や日本、欧米に緊急支援を要請し、辛うじて経済の破綻を免れました。
97年12月、第十五代大統領選挙で野党候補の金大中が当選し、与野党間の政権交代が実現しました。金大中政権は、社会・制度の民主化の推進とともに、国際競争力確保のため大企業の構造改革に着手し、国家信用度を短期間に回復しましたが、大量の失業者の出現など犠牲も大きいものでした。対外的には、日本の大衆文化の受け入れなど、未来志向の日韓関係の樹立を進めました。北朝鮮に対しては、「太陽政策」とよばれる協調政策を採用し、北朝鮮領内の金剛山(クムガンンサン)への観光船ツアー実施など、民間の交流を支援しました。しかし、北朝鮮の潜水艦の侵入や黄海上での南北艦艇の交戦など、不安定要因は完全には解消されませんでした。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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【韓国朝鮮の歴史と社会】(25) 南北の国家建設

[catlist id=8] 戦後復興

北朝鮮は1954年、戦後復旧三カ年計画を開始し、ソ連、東欧、中国など社会主義諸国の経済・技術援助を得て、工場再建と都市復興をおきないました。同時に、農業生産力を回復するために農業の協同化がはかられ、58年8月までに完了しました。社会主義への移行の基礎を整備した北朝鮮は、56年12月、「自力更生」をかかげて生産と労働を奨励する「千里馬(チョンリマ)運動」を開始しました。これは、戦争の犠牲や住民の日本や韓国への「越南」による人手不足を労働者の超過労働により克服しようとするものでした。続いて57年から第一次五カ年計画が推進され、予定より早く60年に完了しました。これによって北朝鮮は「工業国」に変身したとされ、農業における「青山里(チョンサルリ)方法」や工業における「大安の事業体系」など、朝鮮労働党の指導下に大衆の自発性を引き出す生産管理運営方式が確立されました。
政治的には戦争中に弱体化した朝鮮労働党を再建する過程で、戦争の指導責任として朴憲永[*1]ら旧南朝鮮労働党系幹部に転嫁され、「米国のスパイ」として処刑されました。他方、戦後復興の方針をめぐり党内が対立し、56年8月、延安派、ソ連派の幹部が金日成の個人崇拝を批判する意見を表明しました。しかし、金日成の反撃により反対勢力は粛正され、権力集中が一段と進みました。
韓国の復興は米国の援助に依存しました。経済協力局(ECA)や国際協力局(ICA)などから総額31億ドルの無償援助がなされ、忠州(チョンジュ)肥料工場などが建設されました。また、米国の余剰農産物援助によって三白工業(製粉・製糖・紡織)が発達しましたが、これは消費財中心で国内農業を抑圧した結果となり、韓国の経済自立にそれほど寄与しませんでした。むしろ農地改革により誕生した零細自作農を没落に導きました。加えて、戦争勃発前後から旧日本人財産の払い下げが本格化し、政権と結託し特恵を獲得した資本家が初期独占財閥として成長しました。さらに、1953年10月、韓米相互防衛条約が締結され、米軍が駐屯することとなりました。1957年に米国の援助が削減され、無償援助が有償援助に変わると、韓国経済は不況に陥りました。

四月革命と軍事クーデター

憲法の改定や政敵であったソウ奉岩の処刑など、長期政権のための工作を進めた李承晩は、1960年3月の第四代大統領選で四選を果たしました。しかし、行政府主導の不正に対して、馬山からはじまった抗議運動は全国に波及し、4月19日、ソウルの学生、市民が決起して大統領官邸を包囲しました。知識人、マスコミの退陣要求に加え、米国や軍部も支持を撤回したため、4月27日、李承晩は退陣し、ハワイに亡命しました(四月革命)。1960年6月、議院内閣制にもとづく新憲法が公布され(第二共和国)、民主党の張勉政権が成立しました。張勉政権下では言論と集会の自由など民主化が進みましたが、与党の内紛で政権は弱体であり、街頭デモが慢性的に発生するなど、社会が混乱しました。新政権の発足に合わせて北朝鮮が南北連邦制を提議すると、民間でも統一論議が高まり、1961年5月20日、板門店で南北学生会談を開催することが決定しました。
1961年5月16日、陸軍少将 朴正煕らの陸軍将校(後に大統領になる全斗煥、盧泰愚が含まれている)による軍事クーデターが勃発し、軍事革命委員会(のち国家再建最高会議)が実権を掌握しました。張勉政権は無力であったことから米国も事実上黙認しました。「反共」を国是に自立経済建設を標榜する軍事政権は、経済開発計画を策定したほか、国家再建非常処置法、反共法の制定や中央情報部(KCIA)の設立など、権力強化のための処置を講じました。また、軍部、政界、財界の粛正を図る社会浄化運動を展開し、南北統一運動を推進してきた労働組合、学生団体の幹部の多くも逮捕されました。さらに、1963年10月、第五代大統領選挙で当選、12月、新憲法が発効して大統領に就任しました(第三共和国)。他方、韓国の軍事政権が対決姿勢を明確にしたのに対して、北朝鮮は、61年7月、ソ連、中国とそれぞれ友好協力相互援助条約を締結しました。

日韓国交正常化とベトナム派兵

1952年2月、国交樹立のために日韓会議が開始されましたが、植民地支配をめぐる日本側代表の発言などが韓国側の反発を招き、交渉は難航しました。しかし、軍政が発足すると、極東の安保体制確立を臨む米国、外資導入を切望する韓国、経済進出をねらう日本の思惑が一致し、交渉が急速に進展しました。1962年11月、金鍾泌KCIA部長と大平正芳外相との会談で、植民地支配にともなう損害の賠償や不利益の弁済に関する対日請求権問題が決着しました。1964年3月以後、韓国では「対日屈辱外交」反対運動が全国に拡大しましたが、政府は非常戒厳令を発して弾圧し、1965年6月、日韓基本条約が締結されました。日本は、韓国を「朝鮮半島唯一の合法政府」として承認し、無償経済協力3億ドル、政府借款2億ドル、民間商業借款3億ドル以上を供与することを約束しました。植民地支配に関しては、合法的支配を唱える日本の解釈の違いは放置されました。
また、韓国政府は米国の要請を受け、1964年10月、南ベトナム政府と韓国軍のベトナム派遣に関する協定に調印しました。その結果、1965年1月から73年1月まで、延べ30万人以上の兵士と要員が派遣されました。派兵の見返りとして、米国は駐韓米軍の維持、対韓軍事援助の増額などを約束しました。一方、韓国からの軍需物資の調達、派遣兵士の本国への送金などは、経済開発に必要な外貨の獲得に貢献しました。それにもとづき、67年から外資導入と輸出指向による工業化をかかげる第二次五カ年計画が実施されました。馬山や裡里に設けられた輸出自由地域には日本企業が進出し、低資金に支えられた労働集約型の繊維産業を中心とする軽工業部門が急激に成長しました。

日本への影響

朝鮮戦争は、第二次世界大戦終結後アメリカやイギリス、フランスなどを中心とした連合国の占領下にあった日本の政治、経済、防衛にも大きな影響を与えました。
政治的、防衛的には北朝鮮を支援した共産主義国に対抗するため、日本の戦犯追及が緩やかになったり、日本を独立させるためのサンフランシスコ平和条約締結が急がれ、1951年9月8日に日米安保条約と共に締結されました。さらに警察予備隊(のちの自衛隊)が創設されたことで事実上軍隊が復活しました。これらの事象をまとめて讀賣新聞は「逆コース」と呼んだ。もっとも、日本の再軍備自体は、アメリカ陸軍長官ケネス・ロイヤルが1948年に答申書を提出しており、朝鮮戦争勃発前からほぼ確定していました。
経済的には、国連軍の中心を担っていたアメリカ軍が武器の修理や弾薬の補給、製造などを依頼したことから、工業生産が急速に伸び好景気となり、戦後の経済復興に弾みがつきました。日本では以後、このような状態をさして特需と呼ぶようになります。また、戦火を逃れるために朝鮮半島から様々な方法で日本に流入した難民は20万から40万人とも言われています。その一部は現在も日本に在留しているとみられています。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

※[*1]朴憲永…(パク・ホニョン・1900~55)。革命運動家。三・一運動後、火曜派社会主義者として活動。解放直後共産党を再建し、南朝鮮の革命運動を指導したが、46年北朝鮮に移り副首相兼外相となった。
※[*2]朴正煕…(パク・チョンヒ・1917~79)。慶尚北道出身。大邱師範学校を卒業し、慶北聞慶国民学校で教員後、満州国軍の新京軍官学校を主席で卒業で学び特に選ばれて日本の陸軍士官学校に留学。3位の成績で卒業(57期)し、終戦時は満州国軍中尉だった。解放後、韓国の陸軍士官学校に再入学。卒業後、大尉に任官。一方で南朝鮮労働党(共産党)に入党し、軍内党細胞の指導者であったことが粛軍運動で発覚して逮捕され、死刑を宣告される。しかし、南朝鮮労働党の内部情報を提供したこと、北朝鮮に通じていることが米軍当局に評価されて釈放された。朝鮮戦争勃発とともに軍役に復帰し、さらに戦闘情報課長から作戦教育局次長へと昇進した。
休戦後の1953年には、アメリカの陸軍砲兵学校に留学した。
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【韓国朝鮮の歴史と社会】(24) 朝鮮戦争

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韓国政府樹立後も、南部では左派の遊撃闘争が継続しましたが、1950年春にはほぼ壊滅しました。他方、米国は西太平洋の防衛線内に韓国が入らないことを言明しました。米軍は、1949年6月までに軍事顧問団500名を残して撤兵しました。中華人民共和国の樹立により社会主義の優勢を確信した北朝鮮は南進を決意し、中国とソ連の同意を得ました。さらに、1950年5月、韓国総選挙での李承晩派の大敗は、北朝鮮に「祖国解放」を楽観視させる根拠となりました。
1950年6月25日、北朝鮮軍が38度線を突破し、戦争が勃発しました。北朝鮮軍は28日ソウルを占領し、南下を続けました。これに対して、韓国政府は釜山に遷都し徹底交戦の姿勢を示しました。また、「内戦不介入」という北朝鮮の予測に反して、米国は国連安保理事会を招集、北朝鮮を「侵略者」と非難し、韓国を支援するため米軍を主力とする国連軍を派遣することを決議しました。
南部を占領した北朝鮮軍は、北部と同様の「民主改革」を実施しましたが、期待した民衆蜂起は起きず、性急な改革に対して反発が強まりました。1950年9月、国連軍が仁川に上陸すると、北朝鮮軍は退却を強いられました。国連軍は、ソウル奪回後、北朝鮮を解体することを決意し、10月、38度線を突破、平壌を占領して、一部は中朝国境にまで達しました。国連軍の北朝鮮進撃が自国の存亡にかかわると判断した中国は、「抗米援朝運動」を展開し、同月、中国人民志願軍(実態は正規軍)を派兵しました。中国軍の参戦で戦況は逆転し、平壌奪回に続いて、1951年1月、ソウルが再占領されました。これに対して国連軍も反撃、3月ソウルを再奪還しました。その後戦況は膠着し、国連軍司令官マッカーサーは中ソ各地への原爆投下を企てましたが、英国などの反対で阻止されました。
1951年7月、ソ連の提案を請け、国連軍と中国軍、北朝鮮軍の間で休戦会談が開始されました。交渉は軍事境界線設定や捕虜交換をめぐり紛糾しましたが、1953年7月、「単独北進」を唱える韓国を除く三者が、休戦協定に調印しました。戦闘は停止し、軍事境界線の南北に非武装地帯が設定されました。
戦争の人的被害は、韓国軍、国連軍側の死傷者や行方不明捕虜が115万人、中国軍側の死者142万人以上、非戦闘員の犠牲者と行方不明者も200万人以上と推定されています。物的被害も著しく、韓国の被害額は、総国民所得の二倍に当たる30億2000万ドルに達しました。また、北朝鮮も国土の大半が荒廃し、戦前に比べて製造業の36%、農業の24%が減退しました。加えて、戦争は南北の分断を固定化し、相互に憎悪し合う異質化を徹底しました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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