日本文学概論 1/2

これは放送大学『日本文学概論』島内裕子 放送大学教授の授業科目をまとめたものです。

まえがき

  • 日本文学は、千三百年以上にわたる長い射程を持つ。
  • 絶え間なく変化するいつの世にも、文学は私達の姿を映す鏡である。
  • 描かれてきた人々の思いは、まことに個性的であるので、すぐれた作品は一回限りの輝きを放ちつつ、時代の流れを貫いて、思いがけぬほど遠い世界まで到達する。
  • 地下深く滲み入り伏流し、一見消滅したかと思われた作品や文学者の存在が、長い時代を隔てて再び地上に現れてくることがある

それゆえ、古代から現代までの、日本文学の全体像を視野に収めることが、必要になってくる。
本書の目的
我が国における文学のあり方 すなわち、何が日本文学の根幹を形成し、何が文学の存続を保証してきたかを、捉え直すこと。

日本文学の特徴といて

  • 繊細な季節感
  • 無常観と鎮魂
  • 諸外国の文学や思想の積極的な摂取

それらを包み込んで
誰がどのようにして新たなスタイルの文学作品を生み出したか
誰がそれらを自らのものとして切実に熟読し、共鳴し、どのようなかたちで次世代に伝えていったのか

着目点として
新ジャンルの誕生、アンソロジー(選集)の出現

文学は閉じられたものではなく、本来、誰に対しても開かれた自由な時空である。
現代に至るまで、文学が日本文化を形成する基盤として機能し続けている。

1 日本文学をどう捉えるか

1.文学はどう捉えられてきたか

一口に文学といっても、その内容は多岐にわたり時代により様々な特徴を持っているので、文学の全体像を把握することは容易ではない。

多くの人びとにとって文学とは
『万葉集』や『源氏物語』、『徒然草』などの具体的な作品名
小野小町・西行・松尾芭蕉・夏目漱石・森鴎外といった文学者の名前
あるいは、物語や紀行文、和歌や俳句、日記や随筆、説話や軍記、能や歌舞伎など、内容や表現様式

近代になってこれらのすべてを包括的に捉え、文学概念の輪郭を明確にする試みを「文学概論」と銘打った著作が出現した。それ以前には、文学はどのような形で意識され、認識されてきたのだろうか。

「目録」と「叢書(そうしょ)」
「目録」…膨大な数の書物の名前を記載したもの
「叢書類」…同一の体裁で多数の書物を集めたもの

『日本国見在書目録』
9世紀終わり寛平三年(891)頃
その頃までにわが国に伝来した中国の書物を、「経・史・子・集」の四部門に分類し、書名・巻数・著者・編者などを記す
掲載数 17,000巻の書物
「経」 儒学の経典、「史」は政治・経済・制度など、「子」は諸子百家のうち「経」に入らないものや、技術書・随筆など。「集」は詩と文で最も部数が多い。

『本朝書籍目録』(鎌倉時代)
わが国最初の和書目録

『日本国見在書目録注稿』狩谷棭斎(1775-1835) 『日本国見在書目録』に記載された書名や巻数などを、中国の図書分類目録と照合し注記したもの。完成には至らなかった。
『慶雲輪菌(草冠はなし)付録』渋江抽斎(狩谷棭斎の弟子)天保六年(1835)時点で現存する漢籍目録と本の所蔵者名も記した

和書の叢書

江戸時代になってから
『扶桑拾葉集』徳川光圀 元禄六年(1693)
和文で書かれた作品そのものを30巻にまとめる
分類は「序・跋・記・日記・辞・紀行・賛・哀悼・雑著・雑」の十項目

『群書類従』塙保己一 安永八年(1779)-文政二年(1819)完成
古代から江戸初期までの1,300点近い文献を、神祇・帝王・官職・装束・和歌・物語・日記・紀行・蹴鞠・合戦など二十五の項目に分けて分類。
それらの本文を校訂して収め出版。
小品や貴重な史料などの散逸を防ぐことができたこと、多くの人々が出版物によって作品を読めるようになった意義は計り知れない。

2.文学史と文学概論

文学史

『日本文学史』 三上参次・高津鍬三郎 明治23年(1890)

それ以前には本居宣長の古代からの文学の系譜を図示した「歌詞展開表」がある。

文学概論

『文学概論』 島村抱月 明治42年度の早稲田大学講義録

『文学評論』 夏目漱石 〃 東京帝国大学で「十八世紀英文学」という講義をもとにしている

どちらも西洋文学論

『文学入門』桑原武夫 昭和25年、『日本の文学』ドナルド・キーン 1953、『日本文学史』小西甚一 昭和28年、『文学入門』伊藤整 昭和29年、『古典と現代文学』山本健吉 昭和30年など

3.日本文学の3つの推進力

蓄積

17世紀初め木版印刷による版行が、文学作品を多くの人々が読み、本を所有することを可能にさせた

さらに遡れば、室町時代末期、戦乱を避けるための文化人の移動が、文化・文学を都から地方へ伝播させる要因となった

両方とも、ある程度の文学的な蓄積があって、それを圧縮して次代に伝える人の出現が、日本文学を現代まで繋いできた

集約的抽出

選集(アンソロジー)や叢書などのスタイル

詩歌の場合は勅撰和歌集に代表される選集(アンソロジー)、散文作品は叢書

また、複数の作品を集めて叢書や集成にしたもの 『古今和歌集』『和漢朗詠集』『小倉百人一首』など
『源氏物語』『徒然草』などは、作品が時代を超えて読み継がれてゆく場合、外界を集約的に封じ込めている
「集約的抽出」は、ある人物、ある作品の出現が必須であり、それ以前の「蓄積」とそれ以後の「浸透」を繋ぐ。

浸透

文学作品の蓄積が人々の中に浸透してゆくことによって、さらなる新しい文学展開が生じる。このようなサイクルが、日本文学の全体像の中で、何度も発見できる。

4.日本文学の水源

紀貫之以前

記紀万葉の時代

日本文学の始発 八世紀前半の『古事記』『日本書紀』

最初の開花  八世紀後半の『万葉集』

『古事記』 元明天皇の和銅5年(712)に撰上、『日本書紀』聖武天皇の養老4年(720)は、神話と歴史を叙述する漢文体

『万葉集』の成立年代は不明だが、淳仁天皇の時代までの歌がおさめられ、八世紀半ば頃の形態の歌を集めている。山上憶良、柿本人麻呂、山部赤人、大伴家持といった現代でも著名な歌人が輩出。

八世紀までに早くも散文と歌の双方の形式が出現した

漢詩文の時代

『懐風藻』 最初の漢詩集 天平勝宝3年(751)から、その後80年足らずの間に、漢詩集が 立て続けに編纂された

勅撰漢詩集『凌雲集』 弘仁5年(814)を嵯峨天皇に撰上、弘仁9年(818)『文華秀麗集』、淳和天皇の天長4年(827)『経国集』が成立

全てに共通する点

  • 序文を備えている 序文を読むと、それぞれの漢詩集の特徴がよくわかるだけでなく文化史を眺望できる
  • 中国の『文選』『玉台新詠』などが活用・引用されたりしている。この時代にとどまらず中国文学・中国文献の摂取・活用は、日本文学の基礎となっている

最澄と空海

仏教の世界では、八世紀後半から九世紀前半 ともに中国への留学体験を持つ最澄(767-822)が天台宗を、空海(774-835)が真言宗を開いた。このように一対の巨匠が同時期に出現する現象も、日本文化の特徴である。一条天皇の時代の清少納言と紫式部、明治時代の森鴎外と夏目漱石

菅原道真とその系譜

菅原道真(845-903) 日本漢詩文を担った。『菅家文草』昌泰3年(900)、『菅家後集』延喜3年(903)

平安時代に花開いた日記文学の中でも、ひっそりと可憐なイメージが香り立つ『更級日記』 菅原道真の五代目、菅原孝標の娘

2 紀貫之 文化基盤としての和歌と散文

紀貫之(868頃-945頃)は、日本文学の輪郭を確定した最初の文学者。『古今和歌集』

「和歌」に対する「散文」の確立者でもあった

『古今和歌集』の仮名序、『大堰川行幸和歌』の仮名序、『土佐日記』

『古今和歌集』の様式美

『古今和歌集』は、最初の勅撰和歌集で、最後の勅撰和歌集である『新続 古今和歌集』にいたるまでずっと踏襲された。「勅撰」とは天皇の下命を意味する。巻頭に和歌の力と効能を高らかに宣言する「仮名序」、以下千百首の和歌が二十巻に収められ、最後に漢文の「真名序」で締めくくる。

第一巻から六巻 四季歌(春上・春下・夏・秋上・秋下・冬)、その後に賀歌・離別歌・羇旅歌・物名

第十一巻から十六巻 恋歌、続いて哀傷歌・雑歌上下・最後の二巻は雑体(長歌・旋頭歌・俳諧歌)と大歌所御歌(儀式で歌われた歌謡の他、神遊歌・東歌を含む)

精緻に時間や心情の変化と対比が考慮されている。

『土佐日記』の画期性

紀貫之が土佐守の任期を終えて、都に帰還する海路の旅日記

和文による日付を持つ日記というスタイルの最初の作品

最大の意義

  • 「散文で、直接自分のことを書く」という大枠を作り上げたことにある ↔ 「和文で、自分以外のことを書く」スタイルを確立した『徒然草』
  • 旅の情景を散文で描きつつ、和歌も織り交ぜて書くスタイルを確立した

3 藤原公任ふじわらのきんとう 傑出したアンソロジスト

藤原公任(966-1041) 通称は四条大納言。歌人・歌学者として、宮廷のしきたりである有職故実ゆうそくこじつの専門家として、何よりも傑出したアンソロジスト(編纂者)として、日本文学史上で非常に大きな存在。

自作の和歌をまとめた家集『公任集』、秀歌選の『拾遺抄』『三十六人撰』、歌論書『新撰髄脳』『和歌九品』、詩歌選集『和漢朗詠集』、有職故実書『北山抄』など。

『和漢朗詠集』とその影響力

上下二巻からなる、和歌と漢詩文のアンソロジー(選集)。上巻は、和歌と漢詩を、春・夏・秋・冬の四季に分類して配列し、下巻は四季以外の雑部。同じ選集の中に、漢詩と和歌を並立させたところに最大の特徴がある。

4 清少納言と紫式部 ライバル誕生

1.『源氏物語』紫式部と『枕草子』清少納言

  • 王朝文学(平安文学)の双璧
  • どちらも平仮名で書かれ、女性による作品
  • 公式ではないスタイルの中に、かえって本音も真実も宿ることを証だてている

『源氏物語』 文学の王道を切り開き、後々の時代には最高の権威となった。大規模で、長期に渡る時間の流れを描きとり、想像し、創作する物語

2.『枕草子』

  • あくまでも私的な身の回りのことを描いた文学作品
  • 最大の新機軸は、和歌から独立した散文世界を切り開いたこと

長大な『源氏物語』が早くも鎌倉時代から研究に継ぐ研究によって、詳細精緻に解読されてきたのに対し、『枕草子』の注釈書はようやく江戸時代初期になって北村季吟の『春曙抄』があるくらいに遅れていた。注釈書が少ないのは、それだけ個性的な文学であり完結していたからであろう。

清少納言は、身の回りで実際に見聞したこと、あるいは書物を通して知ったことを、物語とは違って筋を持たせないで書いている。そのほとんどが自分自身の価値観や、抗悪の感情で書き連ねている。清少納言自身の個人的な意見・考え・感覚が前面に出ているからこそ、何とも言えぬ魅力的で親しみやすい作品となっている。つまり、客観的な註釈研究は不要だった。

日記・紀行文・随筆(エッセイ)・私小説などと呼ばれて、現代に至るまで根強い人気をもって書き継がれてきた作品群は、実生活との関わりが大きく、『枕草子』が切り開いたと言っても過言ではない。

二つの異質な文学世界が、散文の世界に同居しているのである。同時代の宮廷女房である二人の女性が、どちらも達意の散文で、十二分に自らの資質を全開させた作品である。もっとも重要なのは、このような視点を変えればまったく似ていない作品が、同時期に出現したことである。このような文学現象が、わが国では一貫して起きていることに注目することが、日本文学の特質を考える手がかりとなるだろう。

3.『源氏物語』のスタイル

『源氏物語』で使われた言葉、登場する人物たちの性格、ストーリー、そして主題は、それ以前に存在した美しい言葉、魅力的で多彩な人物像、感動的なストーリーと主題を、あたかも百科事典のように集成し、ただし、寄せ集めるのではなく、光源氏という主人公の人生として、一つに融合させることに成功した。

『源氏物語』を学べば、この物語に流れ込んだ和漢の文化のすべてを知ることができる。

ここからその後の日本文化は流れ始めた。この物語は、いつの時代にも、現代と未来の日本文化の土台となってきた。

5 藤原定家 本歌取り文化圏の成立

1.日本文学における藤原定家の位相

藤原定家(ていか・さだいえ。1162-1241) 特に、アンソロジーの編纂に力点を置いて、次代に伝えるべき作品を的確に抽出して、確実に数百年の文学的命脈を与えた功績によって、藤原定家を「歌人」という呼称から解放し、より大きな観点から命名し直すことが必要である。

定家は、当時までに出現した、文学史上最高の批評家であった。

この特権的な位置に立ちえた理由としては、定家が優れた批評精神と文学的な表現力、さらに透徹した文学観を持っていたからである。

定家の多面性

定家ほどオールラウンドな文学者はめったにいない。歌人であるばかりでなく、歌学者であり、物語作家であり、『小倉百人一首』の編者であり、古典の校訂者・書写者、長期間にわたる漢文体日記『明月記』も残している。彼の独特の筆跡は、「定家様」と呼ばれて珍重され、書道だけでなく茶道の世界でも尊ばれた。

歌人としては、八番目の勅撰集『新古今和歌集』(1205)の撰者の一人であり、九番目の『新勅撰和歌集』(1235)では、単独撰者を務めた。また、約3750首余りの自撰家集『拾遺愚草』。父の藤原俊成が撰修した七番目の勅撰集である『千載和歌集』(1188)に初めて選ばれてから、21番目で最後となった勅撰集である『新続古今和歌集』(1439)まで、合計すると勅撰集に463首も入集している。

歌学者としては、『近代秀歌』『詠歌之大概』『毎月抄』などの歌学書は、永く重んじられた。定家が理想とした「有心体」(うしんてい、うしんたい)と呼ばれる深い余情を湛えた和歌の姿は、中世和歌の理念とされた。

物語作者としては、若い頃に『松浦宮物語』という和文の物語を書いている。

彼の「本領」は、「定家をめぐる和歌と散文」という観点によって、つまり、「和歌と定家」、「定家と源氏物語」という二つの窓
1.「定家と和歌」 定家の歌論や、定家が確立した本歌取りの技法、『小倉百人一首』の選定が果たした文学史上の画期性
定家の文化的意義の双璧は、『小倉百人一首』と「青表紙本」と呼ばれる『源氏物語』の本文校訂にあったのではないか。

2.「定家と源氏物語」 定家が『源氏物語』の意義を文学史上初めて確定した。この物語の本文校訂や註釈研究史における役割の大きさ

定家の時代に至るまでのわが国の文学

8世紀半ば 漢詩集『懐風藻』と和歌集『万葉集』、その後勅撰の漢詩集『凌雲集』(814)、『文華秀麗集』(818)、『経国集』(827)

その後、後に「三代集」と総称される初期の勅撰和歌集『古今和歌集』(905)、『後撰和歌集』(951)、『拾遺和歌集』(1005年頃)

これらを集約し、整然たる秩序のもとに配列したのが、藤原公任の『和漢朗詠集』

『和漢朗詠集』は、それまでの和漢にわたる膨大な文学作品群を凝縮・選択して、平安時代のコンパクトな選集(アンソロジー)として完成させ、後世の人々に文学の模範を提供した。この文化的な達成を受けるようにして、11世紀の初めには、その後の散文の二台潮流となる『枕草子』と『源氏物語』が書かれた。

文学の窯変ようへん

この藤原定家に代表される新古今時代、つまり第八番目の勅撰和歌集『新古今和歌集』が編纂された時代が、まさに「文化の変容」の時代だったのだろう。漢詩文から和文の時代を経て、もしここで新しい文学潮流が生み出されなかったとしたら、文学は立ち枯れとなり、立ち消えとなる。しかしここに藤原定家という巨人が出現し、それ以前の文学の全体像を視野に収め、力強く引き寄せ、愛でつつ、もはや後戻りできないほどの新たな変容を施した。定家は日本文学を窯変させた、と言ってよいだろう。定家は、自らが窯を作り上げ、その中にそれ以前の文学を投げ込み、強力な火力を与えた。窯から出てきたのは、それまでのものとは異なる相貌を持ち、魅力的に耀く新しい文学世界だった。

2.本歌取り文化圏の成立

本歌取り

定家が生み出した新しい文学上の新システム。たった三十一音からなる一首の和歌の中に、和歌の伝統や物語文学の世界を圧縮し鋳込んでしまう手法の発見。

大空は梅のにほひに霞みつつ 曇りも果てぬ 春の夜の月   藤原定家

平安時代前期の大江千里の詠んだ、「照りもせず曇りも果てぬ春の夜の朧月夜おぼろづくよに如くものなぞなき」という古歌の本歌取り。大江千里の和歌も、『白氏文集』の「明らかならず暗からず朧々たる月」という漢詩を踏まえている。『源氏物語』花宴巻では、朧月夜という女性が口ずさむ名場面がある。

定家の「大空は」の歌は、この歌の表現それ自体の上に、大江千里の和歌、『白氏文集』の漢詩、『源氏物語』花宴巻を重ねて、三十一音を四層から成る文学空間まで拡大している。ここに「本歌取り」の醍醐味がある。

この本歌取りという手法は、定家ならずともある程度文学世界に習熟している者ならば、誰でも参入できる手法だった。本歌取りは、新しい和歌の世界を不朽のものとするために、普及可能なシステムとして発明されのである。

一首の和歌の中に、文学という広大な天地を凝縮することは、和歌が文学そのものとしての存在感を獲得したことを示している。

定家が文学史上に提出した「本歌取り」という技法は、表現技法のレベルを超えて、古典文化の再利用と窯変という、文化システムとして「中世文化」を進展させるエネルギーとなった。それが「本歌取り文化圏」である。

3.『小倉百人一首』の文化的意義

定家の文化的な業績として、もっとも影響力が大きく、影響範囲も大きかったものは、彼が選んだ『小倉百人一首』である。

成立事情

定家の息子の岳父である宇都宮頼綱(蓮生)の依頼で書かれた。
それはまず、武士たちに和歌を詠むための手本として構成された。

近世には、この『小倉百人一首』の普及が、さらなる歌人層の拡大につながった。

→広く一般庶民の教養として和歌が身近なものとなった。

膨大な和歌の中から、たった百首だけ選ぶというのは、至難の業である。定家のように和歌に通じ、自分自身優れた歌人・歌学者であった文化人が選んだものでなかったら、人々がこれほど『小倉百人一首』を重んじることはなかっただろう。
万葉集以来、鎌倉時代初期までの秀歌が、たった百首だけ選び抜かれた。

  • 百人の歌人のバラエティ
  • 一人から一首だけを選ぶ大胆さ

 

筑紫紀行 巻九より 6 湯島にて

十二日晴。
神社仏閣を尋ねるべく参詣せんとて宿を出て町を西の方に行けば、町幅狭く町並みは悪しき。されど三階造りの大なる宿屋、或いは華好(きれい)なる小間物屋、及び麦わら細工の職人など多し。中の町に至れば四所明神の社あり。これは出石明神をうつし祭るといえり。さて出石神社は、神名帳に但馬国出石郡伊豆志座いずしにます神社八座とあり。今出石いずしという城下に坐(いま)す神社なるべし。


但州城崎里客舎 井筒屋

末代山温泉寺。これは聖武帝の勅号なりとぞ。楼門に仁王あり。燈道を三丁ほど登れば本堂あり。道智上人の開祖にて。本尊は十一面観音。木同仏師の作なりとぞ。また楼門の右に宝塔あり。左に茶師堂あり。堂の前に桜多し。右に羅人という俳人の塚あり。碑は一尺四方ありて高さ六尺ばかりなり。面に

暮行やあしきの人の初桜 羅人横に宝暦八年戌寅正月建之と彫るなり。かうの湯。茶師堂の東の山の手にあり。半径三尺ばかり。窪みざる中小温泉をたたえるなり。昔、鸛のきずを病むがここに来て浴すると癒えて去ったといい伝えなり。

独鈷水。極楽寺のうしろの山の手にあり。その他、愛宕山、弁天山、治郎兵衛塚、日より山、桃島、烏帽子岩、八畳岩、鞍掛山、絹巻島、絹巻大明神、気比けい村、小島、津居山、瀬戸山、猿ヶ島、千石岩、龍ヶ鼻、竹の浜などいう所には北海に出ざる海辺ゆえに、ふねなしでは行くべからず。この地の遊興としては今津の茶屋。または舟あそびのみとなり。北海に乗出て景色よき浦々を見るべし。或いは網舟をやといつれして魚を捕らせなどして楽しむなど。けれど荒海なれば、不意なる風波の恐れありといえり。網舟一人乗り。一日一艘の船賃四匁五分なりとぞ。

十三日晴。この地のそのまえにもいえるごとく。
病患療治のてあてにはよき所なれど、無病の人の遊息には便ならざるなし。湯は誠に天下無双と聞く上に、大酒女色の遊び絶えなけ事をば。病を治する事には必ずよくしてわざわざ遠路を尋ね来るとも必ずそういあるべし。予も年来としごろ聞き及びたるこの温湯なれば、この度幸いに立ち寄りて二三回も浴しつべしとおもいけれど、暑気の時節、ことに蚊の多き地に候。昼も蚊帳ありては居難く、もち家を出しより。

月日久しくなりにければ、僻静の地にただ一人気屈して帰心急切なるにて。おのづと久留もなりに候。明日は立たんとその用意をいたしける。さて、この地より京大坂まで駕籠、荷物、人足等を引き受け弁ずる家は魚屋八郎兵衛という駕籠一挺人足二人。丹後の名所を回りて大坂まで六日に着する賃銭八十ニ匁五分にて。雑用は川を渡る船賃のほか、ここより出す事なり。もし大風雨川留めなどにて日数延びる時は、飯料として人足一人に一日にニ匁づつ与える。もしこれらの便によって日数を延びた時は、定まれる賃銀の格好をもって日数にのびて贈与か。賃銀の内五十匁をここにて先渡しして余りは大坂にて払う。これ定法なりといえり。

*1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
 *変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す
 『筑紫紀行』巻1-10  巻9
 吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張) : 東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより

筑紫紀行 巻九より 5 城崎郡へ

豊岡までは川浅く水はやし。折々舟すわりて動かぬ事あれば。船頭川に立ち入て下へ豊岡。(納屋なや村より是まで一里半)京極甲斐守殿(一万石)の御城下なり。
川舟のみなとなり。出待ちという一箇所に橋あり。ここに茶屋多し。町は通筋二十丁余りもあり。海舟も北海より乗り入れる。出町まで来るも暫く泊まって宿、船宿数多く有りて、湯島へ川舟を出す。

これより陸地を行けば、浜辺または河岸と進みし行くは岩石の難路なるよし事はならば舟に乗りて行く。右の方に愛宕山。宮島村、野上のじょう村。石山などを追い続いてあり。この石山の川岸に臨む一箇所にめずらしき石あり(玄武洞のこと)。奇形の磨磐ひきうすの如く上下平にして周りは三角四角五角八角などありて、石工の切立きりだてし如く、色は青黒し。それを掘り取り跡は洞のごとくになりたるなり。戸島村、楽々浦、左の方には一日ひといち村、二見浦。上山村、日磯ひのそ村、来日くるい村、観音浦、今津村、この村の出口に茶屋あり。樓造ろうつくりの家ありて下には川に臨みてうけ造りすもの涼の床あり。舟中より見るにも、甚だ有り致なり。湯治人遊賞の所なりといえども、かくて二丁ばかりゆけば、城崎郡湯ノ島(豊岡よりここまで三里)

御公領ゆえ久美浜の御代官所に属せり。おいてここは一筋の町にて。町の中に細き溝川あり(大谿川)。上の町、中の町、下の町、合わせて人家二百五、六十軒。宿屋大小合わせて十軒あり。下の町井筒屋六郎兵衛を大家と聞きて尋ね入り、滞留の宿を定む。家の入口より奥まで、樓上ろうじょう樓下合わせてざしきの数三十に余り。さて一室に入り休み居うに。暑気なりして冷然しせり。土地北海に近く、その上山谷の間なればなり。

十一日巳の刻過ぎより曇天になりて、未の刻過ぎより雨ふりいでぬ。ここに諸国より湯治のために来たれる人多けなれど。辺国僻地なれば、遊覧のためにうこつけ来るはまれなり。実病の人のみ多いければ、自らしめようにして華々しき遊び業もあれば、有馬などには様の事なり。湯治人旅宿旅籠の商い一日ニもんめなり。朝と未の刻頃に茶漬けを出し、昼と夕方に本膳を出す。また、座敷を借用の事にて、食べ物を自調したるもあり。室代一泊三匁に候。米・味噌・薪その他の諸物みな宿に出入りする商人通いにて入るなり。また炊き出しと称するあり。それは米を自ら運んで宿に付して日に二回炊き出しする。さすれば宿より一汁一菜と合わせて出す。かくて一回の代金一匁五厘。座敷代に合わせて四文五厘なり。

温泉に浴する事。入り込み湯には湯銭なし。幕湯の商いは一回六文なり。一日に三度つく湯女ゆなに事をしめす。別に切幕というあり。一室限りに浴するなり。一日に二度なり。一回の商い金一歩なり。湯治人初めて宿に着く時、祝儀を贈る事定めなり。この度は主の妻に百匹贈る。下女四人、僕ニ人に百匹、湯女三人に六匁。湯支配菊屋元七に銀一両贈り奥へ。

温泉はすべて五ヶ所。一には新湯、下の町の入口にあり。清潔にして甚だ熱し。一の湯二の湯と二つに隔たりなれど同じ泉なり。効能は気血を運び、胎毒・瘡毒を追い出し、創傷(切傷)など一旦うみてのち癒やすなり。

二つには中の湯ありき。匂いあり。甚だぬるし。腫れ物・切傷の類い、癒やすこと早き。故に癒え湯という。されども毒気を追い込むゆえに程もなく再発するとぞ。

三つには常湯つねゆ。四つには御所湯。五つには曼陀羅湯。この三つ大形あり。湯に同じ。曼陀羅湯はここの温泉の始めなりといえども。ほかに殿の湯は平人が入る。非人湯は非人のみ浴なり。

この地の名物として売り物は、麦わら細工、柳行李、湯の花、海苔等なり。ここでも銀札通用す。十文より一歩まであり。銭は98文を以って一匁とす。
この地は北海(日本海)を隔てる事わずか一里なり。されど魚類多くして商いいとやすし。

*1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
 *変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す
 『筑紫紀行』巻1-10  巻9
 吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張)  東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより

筑紫紀行 巻九より 4 気多郡へ

ニ、三丁行けば(気多けた郡)岩中いわなか村。農家三、四十軒あり。引き続いて宵田よいだ町。(小田村よりここまで一里半)
上中下の三町あり。商家・宿屋・茶屋あり。町の中通に溝川あり。

引き続きて江原えばら村。人家百四、五十軒。茶屋あり。商家多く酒造の家あり。
二丁ばかりゆけば日置ひおき村。農家四、五十軒あり。

さて神名帳に但馬多気郡(※気多郡の誤り)日置の神社とあるは、この村にあらざるなり。二丁ばかり行ば、伊福いふ村(今の鶴岡)。(宵田より是まで半里)農家四五十軒。商家茶屋あり。宿屋なし。

四五丁行ば土居村。村ながら町にて。人家七八十軒。商家多く茶屋なし。町の中通に溝川あり。引き続きて手邊てなべ。(伊福村より是まで半里に近し)人家百軒計あり。商家多し。

十丁計行は水生みずのう村。岩山のすそなり。十四、五軒あり。岩の下より冷なる清水流れ出る。その水にてところてん・索麺(素麺か?)を冷やし売る。其の清水の上の岩に小さき穴ありて。奥底測られず。此の穴を隠れ里といひて。穴の中には白鼠あまた住むといへり。

これより山の尾を廻りて四五丁ゆけば納屋なや村。人家三四十軒。茶屋宿屋あり。

是より湯の島へ向けて川舟に乗らんとて。(若しくは陸地をゆくときは。佐野村、九日村、豊岡と経歴し行んといふ)船宿藍屋勘十郎といふに入て船を出さしむ。船賃の定まりは借切かりきり一人乗り二百八十文。人数五人を限りとす。駕籠かごは二人に準ず。挟箱同じ。屋形賃四十文なり。人数五人に過る時は。其の過ぎたる人数の賃を増す。二人乗りも此格好にて賃を倍するなり。船の形状海船のごとし。かくて打ち乗り行くに。

*1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
 *変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す
 『筑紫紀行』巻1-10  巻9
 吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張) : 東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより

筑紫紀行 巻九より 3 養父郡へ

十日晴れ。卯の刻過ぎに立ち出ず。
二丁行けば堀畑村。農家三十軒ばかりあり。五丁ばかり行けば西は出石領、東は御公領(天領)という領地境の表あり。

これより大川(円山川)の岸を通って二十丁ばかり行けば養父やぶの宿。(高田より是まで二十五丁)人家二百軒ばかり。商家大きなる造酒屋、茶屋、宿屋多し。宿もよき宿多し。町の中通に溝川有り。町を離れれば、道の両側松の並木のあるべき所に、桑をひしと植え並べたり。一丁ばかり行けば左の方に水谷大明神の宮あり。これは神名帳に但馬国養父郡水谷神社とある御社なり。坂を登りて随身門のあるより入りて拝す。
門は草葺かやぶき、拝殿本社は檜皮葺ひはだぶきなり。左の方にお猫さまの社とて小さき宮あり。宮の下なる小石をとり帰って家に置く時は鼠をよく捕らうという。又、しばし行きて五社明神の御社なり。これは神名帳に但馬国養父郡夜父座神社五座とある神社なるべし。今は藪崎大明神と申すなり。また一丁ほど奥の方に山乃口の社といふあり。是は狼を神に祭る御社なりといへり。故にこの神は狼を遣いしやという。社僧の居所は水谷山普賢寺。本尊は薬師如来なる。

さて、大道を帰って五、六丁行けば、薮崎村(養父宿よりここまでニ五丁)。
人家四、五十軒。茶屋、宿屋あり。村のはずれより左へ行けば因州(因幡)道、右へ行けば湯ノ島道なり。一丁ばかり行けば大屋川。幅六、七十間もあるべし。夏秋の間は歩いて渡るも、冬春は舟にて渡すという。(中略)

六、七丁行けば網場なんば村。(薮崎よりここまで半里)人家百軒ばかり。茶屋宿屋あり。一丁ばかりゆけば下れば村。農家ニ、三十軒あり。五丁ばかりゆけば大森川。幅六、七十間あるを歩いて渡る。冬春は舟にて渡るという。川を渡れば大森村。御公領なり。農家ニ、三十軒。この辺り別に蚕飼を多くして家ごとにおびただしく飼う。

十丁ばかり行けば小田村。(網場よりここまで二十丁)人家四、五十軒。茶屋ありて宿屋なし。まっすぐに行けば出石の城下小出家へ。左の方湯ノ島の道にかかって三丁ばかり行く間に人家百軒ばかり立ち続くなり。また行けば下小田村。農家五十軒ばかりあり。これよりいささか上りありの坂を越えて五丁ばかり行けば江の宮(今の寄宮)村。農家ニ、三十軒あり。冬春はここより湯島へ渡る舟あり。夏秋は水浅きによりて渡さずという。二丁ばかり行けば、宿南村。農家三、四十軒。村はずれに茶屋のあるに立ち入り暫し休んで平道五、六丁行けば、左は岩山。右は気多川(円山川の気多郡内流域の名)にゆく。岩山の裾の川岸の上をば小坂を上り下りつつ行く足いと痛し。この間を岩帚いわほうきというとなり。

十丁ばかり行けば浅倉村。農家五、六十軒。茶屋一軒あり。村の出口に滝中(岩中)川となり。幅十間ばかりの川あると歩いて渡る。

*1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
 *変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す
 『筑紫紀行』巻1-10  巻9
 吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張) : 東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより

筑紫紀行 巻九より 2 但馬国朝来郡へ

九日晴、卯の刻頃に立ち出ず。
駅を離れて板橋を渡れば、上粟賀村。人家二百軒ばかり茶屋あり。出口に戸田川渡りて四十間余りの川あるを土橋より渡る。これより山道に入る。

入口はよし殿村。二十丁ばかりの間に一つの小農家まぶたにあり。その先は八百軒余りあるべし。中程に春日大明神の宮を参で、殿川という谷川あり。歩いて渡る。かくてまま十丁行けば一本杉。木の□という茶屋あり。これよりは大山村の内なり。二十余り丁の間に人家七、八十軒あまりにて折には茶屋もあり。出口に小川二つとも土橋より渡る。五、六丁行けば一枚の板を橋にした小川あり。川を渡るにてゆり坂という小坂を登ると猪笹村に至る。(粟賀駅よりこれまで二里)一名、追上という端宿なり。郷町にて人家三、四十軒あり。

ここより山の谷あいに田畑なく田地の跡あり。谷間ゆえに暑気なく冷ややかなり。かくて小坂を十丁ばかり登りて十四、五丁下れば真弓村なり。この間に谷川を渡れどもに歩いて渡る。真弓で宿。追上よりここまで一里)人家四十軒ばかり茶屋、宿屋なし。

一丁ばかり行けば川あり。土橋の長さ十間ばかり川を下れば森のひ町。町家三、四丁にたちつづいて里。ここは生野いくの及び銀山の入口なり。改役所、銅問屋、その他銀山掛□の役所などありて賑わいし。七、八丁登りて行けば峠にて人家十軒ばかりあり。ここは銀山の北の方の入口にて、山代口小番所あり。銀山はここより五十丁奥にありと聞き、さて平道を志し行きて、また坂路に向かえば、路の傍らに松画きうる扇あり。手に取り上げて。

(歌を詠んでいる。中略)

三、四丁登ると峠に至る。ここは播磨と但馬との国境なり。
また一丁ばかり下ればこたた村。人家十軒ばかり茶店多くして茶屋ごとに土用餅という砂糖餅を売る。人々と共に立ち入りて思いもよし土用の節物餅を食うを心得て旅中ながら祝儀を欠かさざるなり。これは今扇を拾いけるにやなどいいたく休むほどに。荷物を持たせる人足いと暑しやとて汗おおしごびつく。(中略)

ここを出て十四、五丁下れば圓山(円山)村。人家二十軒ばかり茶屋なし。十二、三丁行けば岩屋谷村。人家五、六十軒。村中小川あり。土橋より渡る。ここより岩屋の観音へ参る道あり。四、五丁行けば茶屋あり。岩屋谷村の内なり。家続くに上津村、子村。二村すべて人家ニ、三十軒。商家あり、茶屋なし。

二十丁行けば、但馬山口駅。(猪笹村よりここまで二里)御公領(天領)なり。人家四、五十軒、宿屋あり茶屋多し。ここらあたり鮎魚多きにや。この駅にはこの魚を売る家おおしゆ。十丁ばかり行けば濶。三十軒ばかりの川あり。

土橋より渡ってニ、三丁ゆけば荒井村(今の新井)。人家四、五十軒。皆農家なり。二十丁あまりゆけば帯刀村(今の立脇)。人家六、七十軒。茶屋宿屋あり。間の宿なし。ここらあたりは麻を多く種作(つく)るもまた蚕飼を家々に営むなり。五、六丁行けば桑市村。農家三十軒ばかりあり。十丁ばかり行けば物部村。間の宿なし。茶屋宿屋農家をへて五、六十軒。十丁ばかりこの間にあり。

かくてまた十丁余り行けば竹田宿。(山口駅よりここまで二里)御公領なり。瓦葺き板葺き、打雑つまびく町屋十丁あまりに立ち続けるけり。白糸を多く出し、また白絹をおおく織り出す。また竹田椀といって下品の椀を造るも出せリ。宿屋茶屋あり。宿屋は甚だ古くよりあり。西の方の山の上に赤松左兵衛広秀の城跡あり(竹田城)。櫓天守のいしずえ石垣など高く見ゆ。赤松氏は慶長五年10月28日33歳にて逝去なりという。大森村に墓あり。かくて二十丁ばかり行けば平田(今の牧田)村。農家三、四十軒あり。この辺りは大なる川を右の方に見て。

その川岸を行くなり。この川に鮎多しといえども、十五、六丁行けば、和田山の駅。(竹田よりここまで一里)
上組下組と分けるを合わせて五丁ばかりの町続きなり。茶屋宿屋あり。宿屋はいと良きあり。十丁ばかり行けば東谷村。農家ニ、三十軒あり。五、六丁ばかり行けば土田はんだの宿。(和田山よりここまで半里)人家五、六十軒。商家、宿屋、茶屋あり。町の中通りに溝川あり。五、六丁行けば宮田村。人家四、五十軒。多くは農家にて商家もいささかあり。十五、六丁行けば高田宿(土田よりここまで半里八丁)人家百軒ばかり。町の中通に溝川あり。姫路屋宗右衛門という宿に。

*1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
*変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す

『筑紫紀行』巻1-10  巻9
吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張) : 東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより

筑紫紀行 巻九より 1 播但道を粟賀へ

筑紫紀行は、尾張の商人、菱屋平七(別名吉田重房)が、伯父の商家「菱屋」を継ぎ40歳で楽隠居となり江戸から九州まで広く旅を楽しんだ。この紀行は享和2年(1802)3月名古屋を出て京・大坂を経由して九州長崎を旅したときの記録である。当時の旅行記として出版され、明治にも多く読まれていたようである。
巻1から10まであり、巻9は湯島(城崎)温泉と丹後へ紀行文となっている。但馬の江戸享和期の地勢が詳しく記されているので興味深い。

(変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す)

(姫路から)これより大坂に直ちに登るには、加古川に至り高砂を見て明石、須磨の浦、兵庫、西の宮、尼ケ崎を経て大坂に入る。いわゆる播州を廻ること。世人のよくする事なれば珍しきくもなし。

予年来、但馬たじまの温泉に浴をもの志ありしかども、得果さりしに。
この度よきついでなりとおもい立ちて此夜(今宵)荷物書状など取認めて大坂に送って預かり置きて。その用意をしてぞせる(横になって休む)。

八日卯の刻に立ち出て、(姫路)城の西の方を出、堀際を北へ行く。東の裏の方を南へ行けば町家を出るを、東に行く事五丁*1ばかりにして郷町へ出づ。また十丁ばかり行けば茶屋多し。三、四丁行けば白国村の道の傍らへ人家六、七軒あり茶屋なし。

七、八丁行けば砥堀村。人家五、六十軒。出口に茶屋一軒あり。下砥堀村人家三、四十軒あり茶屋なし。一丁ばかり行けば、丹生野にぶの(今の仁豊野?)駅。姫路よりここまで一里半。人家五十軒ばかり茶屋あり。町の中通りに溝川あり。

十丁ばかり行けば小川あり。石橋より渡る。ニ、三丁行けば犬飼村。農家四十軒ばかり茶屋なし。二十丁余り行けば馬橋村。人家十四、五軒。商家酒屋あれど茶屋なし。姫路よりこの辺まで三、四里、四方の平地なり。小石ありて道悪し。十丁ばかり行けば溝口村。人家四、五十軒、茶屋なし。

これより山間いの細道にて、溝口坂といって小さき山を一つ越え行くこの道、甚だ不自由にして、物事を申しいずいとさびし。中国筋の道々さえも東海道などに比べる事は似べくもあらずただ□□ありしにましてこの道は□き道なれば宿駅の内にても食物など心に任ぜず頃、日照り続きぬる暑さゆえ堪えしのんで茶を飲まんとするに。茶屋なきところ多い事は。詮方なく農家に立ち入りて家を守るという老婦に冷茶を乞い得てさわりに喉を潤すの事なり。

一里ばかり行けば新町という間の宿あり。人家五、六十軒。町の中通りを小溝川あり。茶屋、宿屋あり。ここを出て大川の堤の上を二十丁余り行けば、千束。人家二軒あり。これより山の尾を廻れば川へ添いて十五、六丁行けば□まぢ。人家五丁ばかり間に百軒ばかり。果てに茶屋あり。前に細き溝川流る。名草の滝の流れありという。この内にところてんを冷やして売る。二丁ばかり行けば近平村。人家二十軒ばかり茶屋なし。

十丁ばかり行けばちむら村。人家三十軒ばかり茶屋なし。十四、五丁行けば福渡村。人家四、五十軒、茶屋なし。五、六丁行けば大川。かちより渡る。水増されば舟にて渡る時もありという。川を渡れば尾形。(丹生野よりこれまで五里)人家五、六十軒。宿屋茶屋あり。堤道を半里ばかりゆけば谷川あり。歩いて渡る。大内口(おおごち)村、人家二十軒ばかり、茶屋なし。半里行けば谷川あり。歩いて渡る。

一丁ばかり行けば福本町*2。松平伊勢守殿(一万石)の在所なり。郷町四、五丁あり。商家、茶屋、宿屋あれど間の宿なり。二丁ばかり行けば、粟賀あわがの駅。(尾形よりこれまで一里四町)福本領*3なり。人家百四、五十軒。仏霊という銘の茶を出す。茶屋宿屋あり。河内屋傳右衛門という小宿へ。

(続きは2へ)

*1 1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
*2 福本 現在の兵庫県神崎郡神河町福本
*3 福本領 福本藩 播磨国神東郡の福本陣屋(現在の兵庫県神崎郡神河町福本)に藩庁を置いた藩。ただし、藩(大名の所領)であったのは江戸時代初期および明治維新期のごく短期間であり、その間は交代寄合(参勤交代を行う格式の旗本)池田家の知行地であった。

『筑紫紀行』巻1-10  巻9
吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張) : 東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより

4 平野釈放と寺田屋騒動

平野釈放

平野が釈放されたのは文久三年十月のことであった。釈放を延ばしていたのは、平野を釈放したくないのが本心であった、重臣たちはできることなら、その首をはねたいと思っていた。ただ、藩主不在中に実行することにはためらいがあった。黒田公は参勤の帰途上洛参内して天皇より杯を賜ったが、この時改めて平野釈放が決定する。

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