これは放送大学『日本文学概論』島内裕子 放送大学教授の授業科目をまとめたものです。
まえがき
- 日本文学は、千三百年以上にわたる長い射程を持つ。
- 絶え間なく変化するいつの世にも、文学は私達の姿を映す鏡である。
- 描かれてきた人々の思いは、まことに個性的であるので、すぐれた作品は一回限りの輝きを放ちつつ、時代の流れを貫いて、思いがけぬほど遠い世界まで到達する。
- 地下深く滲み入り伏流し、一見消滅したかと思われた作品や文学者の存在が、長い時代を隔てて再び地上に現れてくることがある
それゆえ、古代から現代までの、日本文学の全体像を視野に収めることが、必要になってくる。
本書の目的
我が国における文学のあり方 すなわち、何が日本文学の根幹を形成し、何が文学の存続を保証してきたかを、捉え直すこと。
日本文学の特徴といて
- 繊細な季節感
- 無常観と鎮魂
- 諸外国の文学や思想の積極的な摂取
それらを包み込んで
誰がどのようにして新たなスタイルの文学作品を生み出したか
誰がそれらを自らのものとして切実に熟読し、共鳴し、どのようなかたちで次世代に伝えていったのか
着目点として
新ジャンルの誕生、アンソロジー(選集)の出現
文学は閉じられたものではなく、本来、誰に対しても開かれた自由な時空である。
現代に至るまで、文学が日本文化を形成する基盤として機能し続けている。
1 日本文学をどう捉えるか
1.文学はどう捉えられてきたか
一口に文学といっても、その内容は多岐にわたり時代により様々な特徴を持っているので、文学の全体像を把握することは容易ではない。
多くの人びとにとって文学とは
『万葉集』や『源氏物語』、『徒然草』などの具体的な作品名
小野小町・西行・松尾芭蕉・夏目漱石・森鴎外といった文学者の名前
あるいは、物語や紀行文、和歌や俳句、日記や随筆、説話や軍記、能や歌舞伎など、内容や表現様式
近代になってこれらのすべてを包括的に捉え、文学概念の輪郭を明確にする試みを「文学概論」と銘打った著作が出現した。それ以前には、文学はどのような形で意識され、認識されてきたのだろうか。
「目録」と「叢書(そうしょ)」
「目録」…膨大な数の書物の名前を記載したもの
「叢書類」…同一の体裁で多数の書物を集めたもの
『日本国見在書目録』
9世紀終わり寛平三年(891)頃
その頃までにわが国に伝来した中国の書物を、「経・史・子・集」の四部門に分類し、書名・巻数・著者・編者などを記す
掲載数 17,000巻の書物
「経」 儒学の経典、「史」は政治・経済・制度など、「子」は諸子百家のうち「経」に入らないものや、技術書・随筆など。「集」は詩と文で最も部数が多い。
『本朝書籍目録』(鎌倉時代)
わが国最初の和書目録
『日本国見在書目録注稿』狩谷棭斎(1775-1835) 『日本国見在書目録』に記載された書名や巻数などを、中国の図書分類目録と照合し注記したもの。完成には至らなかった。
『慶雲輪菌(草冠はなし)付録』渋江抽斎(狩谷棭斎の弟子)天保六年(1835)時点で現存する漢籍目録と本の所蔵者名も記した
和書の叢書
江戸時代になってから
『扶桑拾葉集』徳川光圀 元禄六年(1693)
和文で書かれた作品そのものを30巻にまとめる
分類は「序・跋・記・日記・辞・紀行・賛・哀悼・雑著・雑」の十項目
『群書類従』塙保己一 安永八年(1779)-文政二年(1819)完成
古代から江戸初期までの1,300点近い文献を、神祇・帝王・官職・装束・和歌・物語・日記・紀行・蹴鞠・合戦など二十五の項目に分けて分類。
それらの本文を校訂して収め出版。
小品や貴重な史料などの散逸を防ぐことができたこと、多くの人々が出版物によって作品を読めるようになった意義は計り知れない。
2.文学史と文学概論
文学史
『日本文学史』 三上参次・高津鍬三郎 明治23年(1890)
それ以前には本居宣長の古代からの文学の系譜を図示した「歌詞展開表」がある。
文学概論
『文学概論』 島村抱月 明治42年度の早稲田大学講義録
『文学評論』 夏目漱石 〃 東京帝国大学で「十八世紀英文学」という講義をもとにしている
どちらも西洋文学論
『文学入門』桑原武夫 昭和25年、『日本の文学』ドナルド・キーン 1953、『日本文学史』小西甚一 昭和28年、『文学入門』伊藤整 昭和29年、『古典と現代文学』山本健吉 昭和30年など
3.日本文学の3つの推進力
蓄積
17世紀初め木版印刷による版行が、文学作品を多くの人々が読み、本を所有することを可能にさせた
さらに遡れば、室町時代末期、戦乱を避けるための文化人の移動が、文化・文学を都から地方へ伝播させる要因となった
両方とも、ある程度の文学的な蓄積があって、それを圧縮して次代に伝える人の出現が、日本文学を現代まで繋いできた
集約的抽出
選集(アンソロジー)や叢書などのスタイル
詩歌の場合は勅撰和歌集に代表される選集(アンソロジー)、散文作品は叢書
また、複数の作品を集めて叢書や集成にしたもの 『古今和歌集』『和漢朗詠集』『小倉百人一首』など
『源氏物語』『徒然草』などは、作品が時代を超えて読み継がれてゆく場合、外界を集約的に封じ込めている
「集約的抽出」は、ある人物、ある作品の出現が必須であり、それ以前の「蓄積」とそれ以後の「浸透」を繋ぐ。
浸透
文学作品の蓄積が人々の中に浸透してゆくことによって、さらなる新しい文学展開が生じる。このようなサイクルが、日本文学の全体像の中で、何度も発見できる。
4.日本文学の水源
紀貫之以前
記紀万葉の時代
日本文学の始発 八世紀前半の『古事記』『日本書紀』
最初の開花 八世紀後半の『万葉集』
『古事記』 元明天皇の和銅5年(712)に撰上、『日本書紀』聖武天皇の養老4年(720)は、神話と歴史を叙述する漢文体
『万葉集』の成立年代は不明だが、淳仁天皇の時代までの歌がおさめられ、八世紀半ば頃の形態の歌を集めている。山上憶良、柿本人麻呂、山部赤人、大伴家持といった現代でも著名な歌人が輩出。
八世紀までに早くも散文と歌の双方の形式が出現した
漢詩文の時代
『懐風藻』 最初の漢詩集 天平勝宝3年(751)から、その後80年足らずの間に、漢詩集が 立て続けに編纂された
勅撰漢詩集『凌雲集』 弘仁5年(814)を嵯峨天皇に撰上、弘仁9年(818)『文華秀麗集』、淳和天皇の天長4年(827)『経国集』が成立
全てに共通する点
- 序文を備えている 序文を読むと、それぞれの漢詩集の特徴がよくわかるだけでなく文化史を眺望できる
- 中国の『文選』『玉台新詠』などが活用・引用されたりしている。この時代にとどまらず中国文学・中国文献の摂取・活用は、日本文学の基礎となっている
最澄と空海
仏教の世界では、八世紀後半から九世紀前半 ともに中国への留学体験を持つ最澄(767-822)が天台宗を、空海(774-835)が真言宗を開いた。このように一対の巨匠が同時期に出現する現象も、日本文化の特徴である。一条天皇の時代の清少納言と紫式部、明治時代の森鴎外と夏目漱石
菅原道真とその系譜
菅原道真(845-903) 日本漢詩文を担った。『菅家文草』昌泰3年(900)、『菅家後集』延喜3年(903)
平安時代に花開いた日記文学の中でも、ひっそりと可憐なイメージが香り立つ『更級日記』 菅原道真の五代目、菅原孝標の娘
2 紀貫之 文化基盤としての和歌と散文
紀貫之(868頃-945頃)は、日本文学の輪郭を確定した最初の文学者。『古今和歌集』
「和歌」に対する「散文」の確立者でもあった
『古今和歌集』の仮名序、『大堰川行幸和歌』の仮名序、『土佐日記』
『古今和歌集』の様式美
『古今和歌集』は、最初の勅撰和歌集で、最後の勅撰和歌集である『新続 古今和歌集』にいたるまでずっと踏襲された。「勅撰」とは天皇の下命を意味する。巻頭に和歌の力と効能を高らかに宣言する「仮名序」、以下千百首の和歌が二十巻に収められ、最後に漢文の「真名序」で締めくくる。
第一巻から六巻 四季歌(春上・春下・夏・秋上・秋下・冬)、その後に賀歌・離別歌・羇旅歌・物名
第十一巻から十六巻 恋歌、続いて哀傷歌・雑歌上下・最後の二巻は雑体(長歌・旋頭歌・俳諧歌)と大歌所御歌(儀式で歌われた歌謡の他、神遊歌・東歌を含む)
精緻に時間や心情の変化と対比が考慮されている。
『土佐日記』の画期性
紀貫之が土佐守の任期を終えて、都に帰還する海路の旅日記
和文による日付を持つ日記というスタイルの最初の作品
最大の意義
- 「散文で、直接自分のことを書く」という大枠を作り上げたことにある ↔ 「和文で、自分以外のことを書く」スタイルを確立した『徒然草』
- 旅の情景を散文で描きつつ、和歌も織り交ぜて書くスタイルを確立した
3 藤原公任 傑出したアンソロジスト
藤原公任(966-1041) 通称は四条大納言。歌人・歌学者として、宮廷のしきたりである
自作の和歌をまとめた家集『公任集』、秀歌選の『拾遺抄』『三十六人撰』、歌論書『新撰髄脳』『和歌九品』、詩歌選集『和漢朗詠集』、有職故実書『北山抄』など。
『和漢朗詠集』とその影響力
上下二巻からなる、和歌と漢詩文のアンソロジー(選集)。上巻は、和歌と漢詩を、春・夏・秋・冬の四季に分類して配列し、下巻は四季以外の雑部。同じ選集の中に、漢詩と和歌を並立させたところに最大の特徴がある。
4 清少納言と紫式部 ライバル誕生
1.『源氏物語』紫式部と『枕草子』清少納言
- 王朝文学(平安文学)の双璧
- どちらも平仮名で書かれ、女性による作品
- 公式ではないスタイルの中に、かえって本音も真実も宿ることを証だてている
『源氏物語』 文学の王道を切り開き、後々の時代には最高の権威となった。大規模で、長期に渡る時間の流れを描きとり、想像し、創作する物語
2.『枕草子』
- あくまでも私的な身の回りのことを描いた文学作品
- 最大の新機軸は、和歌から独立した散文世界を切り開いたこと
長大な『源氏物語』が早くも鎌倉時代から研究に継ぐ研究によって、詳細精緻に解読されてきたのに対し、『枕草子』の注釈書はようやく江戸時代初期になって北村季吟の『春曙抄』があるくらいに遅れていた。注釈書が少ないのは、それだけ個性的な文学であり完結していたからであろう。
清少納言は、身の回りで実際に見聞したこと、あるいは書物を通して知ったことを、物語とは違って筋を持たせないで書いている。そのほとんどが自分自身の価値観や、抗悪の感情で書き連ねている。清少納言自身の個人的な意見・考え・感覚が前面に出ているからこそ、何とも言えぬ魅力的で親しみやすい作品となっている。つまり、客観的な註釈研究は不要だった。
日記・紀行文・随筆(エッセイ)・私小説などと呼ばれて、現代に至るまで根強い人気をもって書き継がれてきた作品群は、実生活との関わりが大きく、『枕草子』が切り開いたと言っても過言ではない。
二つの異質な文学世界が、散文の世界に同居しているのである。同時代の宮廷女房である二人の女性が、どちらも達意の散文で、十二分に自らの資質を全開させた作品である。もっとも重要なのは、このような視点を変えればまったく似ていない作品が、同時期に出現したことである。このような文学現象が、わが国では一貫して起きていることに注目することが、日本文学の特質を考える手がかりとなるだろう。
3.『源氏物語』のスタイル
『源氏物語』で使われた言葉、登場する人物たちの性格、ストーリー、そして主題は、それ以前に存在した美しい言葉、魅力的で多彩な人物像、感動的なストーリーと主題を、あたかも百科事典のように集成し、ただし、寄せ集めるのではなく、光源氏という主人公の人生として、一つに融合させることに成功した。
『源氏物語』を学べば、この物語に流れ込んだ和漢の文化のすべてを知ることができる。
ここからその後の日本文化は流れ始めた。この物語は、いつの時代にも、現代と未来の日本文化の土台となってきた。
5 藤原定家 本歌取り文化圏の成立
1.日本文学における藤原定家の位相
藤原定家(ていか・さだいえ。1162-1241) 特に、アンソロジーの編纂に力点を置いて、次代に伝えるべき作品を的確に抽出して、確実に数百年の文学的命脈を与えた功績によって、藤原定家を「歌人」という呼称から解放し、より大きな観点から命名し直すことが必要である。
定家は、当時までに出現した、文学史上最高の批評家であった。
この特権的な位置に立ちえた理由としては、定家が優れた批評精神と文学的な表現力、さらに透徹した文学観を持っていたからである。
定家の多面性
定家ほどオールラウンドな文学者はめったにいない。歌人であるばかりでなく、歌学者であり、物語作家であり、『小倉百人一首』の編者であり、古典の校訂者・書写者、長期間にわたる漢文体日記『明月記』も残している。彼の独特の筆跡は、「定家様」と呼ばれて珍重され、書道だけでなく茶道の世界でも尊ばれた。
歌人としては、八番目の勅撰集『新古今和歌集』(1205)の撰者の一人であり、九番目の『新勅撰和歌集』(1235)では、単独撰者を務めた。また、約3750首余りの自撰家集『拾遺愚草』。父の藤原俊成が撰修した七番目の勅撰集である『千載和歌集』(1188)に初めて選ばれてから、21番目で最後となった勅撰集である『新続古今和歌集』(1439)まで、合計すると勅撰集に463首も入集している。
歌学者としては、『近代秀歌』『詠歌之大概』『毎月抄』などの歌学書は、永く重んじられた。定家が理想とした「有心体」(うしんてい、うしんたい)と呼ばれる深い余情を湛えた和歌の姿は、中世和歌の理念とされた。
物語作者としては、若い頃に『松浦宮物語』という和文の物語を書いている。
彼の「本領」は、「定家をめぐる和歌と散文」という観点によって、つまり、「和歌と定家」、「定家と源氏物語」という二つの窓
1.「定家と和歌」 定家の歌論や、定家が確立した本歌取りの技法、『小倉百人一首』の選定が果たした文学史上の画期性
定家の文化的意義の双璧は、『小倉百人一首』と「青表紙本」と呼ばれる『源氏物語』の本文校訂にあったのではないか。
2.「定家と源氏物語」 定家が『源氏物語』の意義を文学史上初めて確定した。この物語の本文校訂や註釈研究史における役割の大きさ
定家の時代に至るまでのわが国の文学
8世紀半ば 漢詩集『懐風藻』と和歌集『万葉集』、その後勅撰の漢詩集『凌雲集』(814)、『文華秀麗集』(818)、『経国集』(827)
その後、後に「三代集」と総称される初期の勅撰和歌集『古今和歌集』(905)、『後撰和歌集』(951)、『拾遺和歌集』(1005年頃)
これらを集約し、整然たる秩序のもとに配列したのが、藤原公任の『和漢朗詠集』
『和漢朗詠集』は、それまでの和漢にわたる膨大な文学作品群を凝縮・選択して、平安時代のコンパクトな選集(アンソロジー)として完成させ、後世の人々に文学の模範を提供した。この文化的な達成を受けるようにして、11世紀の初めには、その後の散文の二台潮流となる『枕草子』と『源氏物語』が書かれた。
文学の窯変
この藤原定家に代表される新古今時代、つまり第八番目の勅撰和歌集『新古今和歌集』が編纂された時代が、まさに「文化の変容」の時代だったのだろう。漢詩文から和文の時代を経て、もしここで新しい文学潮流が生み出されなかったとしたら、文学は立ち枯れとなり、立ち消えとなる。しかしここに藤原定家という巨人が出現し、それ以前の文学の全体像を視野に収め、力強く引き寄せ、愛でつつ、もはや後戻りできないほどの新たな変容を施した。定家は日本文学を窯変させた、と言ってよいだろう。定家は、自らが窯を作り上げ、その中にそれ以前の文学を投げ込み、強力な火力を与えた。窯から出てきたのは、それまでのものとは異なる相貌を持ち、魅力的に耀く新しい文学世界だった。
2.本歌取り文化圏の成立
本歌取り
定家が生み出した新しい文学上の新システム。たった三十一音からなる一首の和歌の中に、和歌の伝統や物語文学の世界を圧縮し鋳込んでしまう手法の発見。
大空は梅の
平安時代前期の大江千里の詠んだ、「照りもせず曇りも果てぬ春の夜の
定家の「大空は」の歌は、この歌の表現それ自体の上に、大江千里の和歌、『白氏文集』の漢詩、『源氏物語』花宴巻を重ねて、三十一音を四層から成る文学空間まで拡大している。ここに「本歌取り」の醍醐味がある。
この本歌取りという手法は、定家ならずともある程度文学世界に習熟している者ならば、誰でも参入できる手法だった。本歌取りは、新しい和歌の世界を不朽のものとするために、普及可能なシステムとして発明されのである。
一首の和歌の中に、文学という広大な天地を凝縮することは、和歌が文学そのものとしての存在感を獲得したことを示している。
定家が文学史上に提出した「本歌取り」という技法は、表現技法のレベルを超えて、古典文化の再利用と窯変という、文化システムとして「中世文化」を進展させるエネルギーとなった。それが「本歌取り文化圏」である。
3.『小倉百人一首』の文化的意義
定家の文化的な業績として、もっとも影響力が大きく、影響範囲も大きかったものは、彼が選んだ『小倉百人一首』である。
成立事情
定家の息子の岳父である宇都宮頼綱(蓮生)の依頼で書かれた。
それはまず、武士たちに和歌を詠むための手本として構成された。
近世には、この『小倉百人一首』の普及が、さらなる歌人層の拡大につながった。
→広く一般庶民の教養として和歌が身近なものとなった。
膨大な和歌の中から、たった百首だけ選ぶというのは、至難の業である。定家のように和歌に通じ、自分自身優れた歌人・歌学者であった文化人が選んだものでなかったら、人々がこれほど『小倉百人一首』を重んじることはなかっただろう。
万葉集以来、鎌倉時代初期までの秀歌が、たった百首だけ選び抜かれた。
- 百人の歌人のバラエティ
- 一人から一首だけを選ぶ大胆さ