1-1 第一巻上の1 気多郡故事記 現代語版

天照国照彦(櫛玉饒速日)天火明命[*1]は、オオナムチ(国造大己貴命)の命令によって、
ナミツキノアメノモノノベ(両槻天物部命)の子であるサクツヒコ(佐久津彦命)に佐々原を開かせた。

(これ以前にニギハヤヒ(天照国照彦天火明命)は、オオナムチ(国造大己貴命)の命令によって、まずタニワ(田庭・丹波)に降りて、但馬へは小田井に入って小田井を開き、次に佐々原を開かせている。)

サクツヒコは、篠生原に井戸を掘り、水をそそぎ、田を作った。
のちに、その地を名づけて、佐田稲生原サタイナイハラという。いま佐田伊原サタイハラと称する。
気多郡佐々前邑ササクマムラはこれである。

サクツヒコは、佐久宮におられる。(式内佐久神社:豊岡市日高町佐田)
ホアカリ(天火明命)のお供の神様、アメノイワフネ(天磐船長命)は、磐船宮におられる。(村社岩舩神社:豊岡市日高町道場山田10-2 白鳥上290)

アメノイワフネは、アメノイワクス(天磐樟船命)の子である。
サクツヒコは、ナルトノアメノモノノベ(鳴戸天物部命)の娘であるササウラヒメ(佐々宇良姫命)を妻にし、サキツヒコ(佐伎津彦命)とサクタヒコ(佐久田彦命)を生んだ。(佐久田は佐田・久田で現在の久田谷の語源か?)
サキツヒコは、佐々前県主アガタヌシである。

第1代神武ジンム天皇の9年(前652年)冬10月、サクツヒコの子 サクタヒコを佐々前県主とする。

サクタヒコは、オオナムチを気立ケダツ・ケタの丘にマツる。これを気立神社と称えしまつる。(郷社 気多神社:豊岡市日高町上郷)
また、サクツヒコ(佐久津彦命)を佐久宮に祀る。(式内佐久神社:豊岡市日高町佐田)
ミイヒメ(御井比咩命)を比遅井ヒジイ丘に斎き祀り(比遅井は霊異井の義で、今の土居。明治までヒジイといった。式内御井神社:豊岡市日高町土居)、水の湧き栄えを祈る。
ミイヒメの祖 イナバノヤガミヒメ(稲葉八上姫)は天珂森宮(天珂森神社:豊岡市日高町山本)にいます。サクタヒコは、ナミツキノアメノモノノベの娘、ツキモヒメ(槻萌姫命)を妻にし、サクタヤマヒコ(佐久山彦命)を生んだ。

第2代綏靖スイゼイ天皇の20年(前562年)秋7月 サクタヒコの子サクタヤマヒコを佐々前県主となす。
サクタヒコは、サタナカヒコ(佐田中彦命)の娘、サオリヒメ(佐折姫命)を妻にし、ササクマヒコ(佐々前彦命)を生んだ。

第4代懿徳イトク天皇の17年(前565年)春3月 サクタヒコの子ササクマヒコを佐々前県主となす。ササクマヒコは、イブノトミヒコ(伊布富彦命)の娘、イブノトミヒメ(伊布富姫)を妻にし、ウメサキヒコ(梅咲彦命)を生んだ。

第5代孝昭天皇の73年(前403年)4月 ササクマヒコの子ウメサキヒコを佐々前県主となす。ウメサキヒコは、大阪彦命の娘大阪姫命を妻にし、オオイワタツ(堅中大磐竜命)を生んだ。

第6代孝安天皇76年(前317年)春3月 ウメサキヒコの子オオイワタツを佐々前県主となす。オオイワタツは、ササズヒコ(佐々津彦命)の娘、若竜姫を妻にし、タケイワタツ(建磐竜命)を生んだ。

第7代孝霊天皇63年(前228年)春3月 オオイワタツの子タケイワタツを佐々前県主となす。タケイワタツは、アビラヒコ(阿毘良彦命)の娘アビラヒメ(阿毘良姫命)を妻にし、クシイワタツ(櫛磐竜命)を生んだ。

第8代孝元天皇の32年(前183年)秋7月 建磐竜命の子 クシイワタツ(櫛磐竜命)を佐々前県主となす。

当県の西北に、イブキドヌシ(気吹戸主命)の釜がある。常に物気(もののけ・物の怪)を噴く。したがって、その地を名づけて、気立原と云う。その釜はカムナベヤマ(神鍋山)をいうなり。
よって、佐々前県を改めて、気立県という。

『国司文書別記 気多郡郷名記抄』に、
気多は古くは気多津県(けたつあがた)1なり。
この郡の西北に気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)の釜あり。常に烟2(を噴く。この故に其の地を名付けて気立原と云う。その釜は『神鍋山』を云うなり。

「常に烟を噴く」とあるので、神鍋山はすでに死火山のはずなので、昔の伝承を書いているのか、どうなのかと思っていたところ、『国司文書 但馬故事記-気多郡故事記・下』には、それが地震であったことが記されている。

第10代崇神スジン天皇10年(前88年)秋9月 丹波青葉山の賊 クガミミノミカサ(陸耳の御笠)、ツチグモノヒキメ(土蜘蛛匹女)ら、群盗を集め、民の物品を略奪した。
タヂマノクルヒ(多遅麻狂・豊岡市来日)のツチグモがこれに応じて非常に悪事を極め、気立県主クシイワタツを殺し、瑞宝を奪った。

崇神天皇は、第9代開化天皇の皇子であるヒコイマス(彦坐命)に詔を出して、討つようにいわれた。ヒコイマスは、子の(四道)将軍 タンバノミチヌシ(丹波道主命)とともに、
多遅麻朝来直の上祖 アメノトメ(天刀米命)、
〃 若倭部連の上祖 タケヌカガ(武額明命)、
〃 竹野別の上祖 トゲリヒコ(当芸利彦命)、
丹波六人部連の上祖 タケノトメ(武刀米命)、
丹波国造 ヤマトノエタマ(倭得玉命)、
大伴宿祢の上祖 アメノユゲノベ(天靭負部命)、
佐伯宿祢の上祖 クニノユゲノベ(国靭負部命)、
多遅麻黄沼前県主 アナメキ(穴目杵命)の子クルヒノスクネ(来日足尼命)、等
丹波に向かい、ツチグモノヒキメを蟻道川で殺し、クガミミを追い、白糸浜に至った。
クガミミは船に乗り、多遅麻の黄沼前の海に逃げた。

ヒコイマス(彦坐王)は、久里船(丸木舟)を取り寄せ、その一艘にヒモロギ(神籬)を立て、船魂神をまつり、水前(水先)主とした。タケヌカガ(武額明命)とクルヒノスクネ(来日足尼命)はお供して先に立って案内した。
ヒコイマス・タンバノミチヌシ・ヤマトノエタマは第二船に乗り、
アメノユゲノベ・クニノユゲノベらは第三船に乗り、
アメノトメ・タケノトメ・トゲリヒコは第四船に乗り、追撃した。

たまたま、強く激しい風が起こり、山のような大波で、三日三晩暗黒のようだった。それでこの海をクルヒウミ(久流比海)またはクラヒウミ(久良比海)という。

その時、狂のツチグモはクガミミに加わり、再び勢いをました。それでこの海をイブリウミ(威振海)という。

ヒコイマスの船が岩の角に衝突し、穴が空いてしまった。それで、この岩角を荒孔岩という。さすがに王軍は士気を失った。
ヒコイマスは、今度はアワナギ神・オモナギ神をまつる。その時、水前主大神が、
「天つ神・地祇(国つ神)の擁護があるので、すぐに美保大神と八千矛大神を祀りなさい」と教えた。
ヒコイマスは教えに従いこれをまつった。
その時、陸地に光明を発した。タケノヌカガは光を見つけ、上陸してこれを堀ると白石を得た。
これを船に迎えてまつった。
その白石は、今安木宮に坐(いま)す。八千矛神の御霊である。
また、沖の方に天浮橋に乗り、船に向かい天下る神様があった。その時、すぐに風が止み、波は静かになった。したがって、アメノトメの船に迎えて祀った。これは美保大神の御霊である。
それでこの地を安木浦という。美保大神を入来大神と称してまつった。また、そのかたわらを恵美海(いま美含という)という。この2神(大国主神・美保大神)を安来浦に斎きまつる。  (村社 国主神社:美方郡香美町香住区安木)

クガミミ(陸耳)・ツチグモ(土蜘蛛)らは、隙きに乗じて逃げ出そうとした。タケノトメとトゲリヒコは遮って止めた。クガミミらは死を覚悟して戦ってきた。
その時、突然大きな波の音がして、無数のアワビが浮かび出て、船の空いた孔をふさいだ。それでこの地を鯨波島(ときしま)今の刀加計)という。

そのアワビが浮き出た地を鮑島(のち青島)という。その舟が生まれた場所を舟生港という。(のち舟を丹になまって丹生港と書す)

その時、天より神剣がひらめいて、タケノヌカガの舟に降りた。タケノヌカガは、これをヒコイマスに献じた。この剣はタケミカヅチ(国鎮武甕布都)の剣である。

したがって、この地を神浦(神浦山)という。またその地を名づけて幸魂谷(佐古谷)といい、剣を献じた場所を剣崎という(いま都留辺の崎)。

ヒコイマスは大いに喜び、トゲリヒコに斎きさせた。その時、クガミミらの勢いは尽きて逃げ去った。それで勢尽イキツキ(伊都伎)という。

クガミミ・ツチグモらは島の影に潜んだ。その地を屈居浦という。
クルヒノスクネ(来日足尼命)はツチグモに迫り、これを刺し殺した。それでタワレノサキ(斃碕)という。

10月3日 王軍はクガミミを御碕で撃退した。その時、ヒコイマスのよろいかぶとが光り輝き、大きな音を立てて動いた。それで鎧浦(よろいうら)という。
トゲリヒコは進んでクガミミに迫り、刺し殺した。それで勢刺(いきさし)の御碕(みさき)といい、または勇割の御碕という。

これによってトゲリヒコ(当芸利彦命)と名づけ、またはタケヌキヒコ(武貫彦命)という。

クガミミ・ツチグモの2つの鬼は、誅伐され、余った衆はしばらくして降参した。

ヒコイマスは、賊が滅んだのをもって、美保大神・八千矛大神(大国主)の加護のおかげとし、戦功のお礼参りをしなければならないとし、出雲に至り、二つの神に詣でた。(美保神社出雲大社

帰るとき、伯耆を過ぎ、因幡の青屋(今の鳥取市青谷町)をまわり、加路カロ港(今の鳥取市賀露)に入り、順風を待って、田尻港(鳥取県岩美郡岩美町田後)を過ぎたときに、暴風に遭い船が大きく揺れた。それで振動フルイ浦という。

二方国の雪白浜に入り、将と兵を休養させたので、その地を諸寄モロヨセという。その後、多遅麻国美伊県の舟生(丹生)港に寄り、順風を待った。その時、磯辺からこの世に比類のなき大アワビがたくさん浮かび出た。

白石島をまわるとき、突然、大アワビたちが神船となり、嚮導(先に立って案内する)し、丹波国与佐郡浦嶋に到着した。

そして陸に上がり、その導いてくれた船を見ると、九穴の大アワビが一個、船の中にいた。

ヒコイマスはこれを拝み、神霊とし、ヒコイマス(彦坐王)の子のイリネ(伊理泥命)を奉じた。

11月3日 皇都に凱旋し、将と兵の戦功と戦(いくさ)の不思議な現象を申し上げた。天皇は喜び、丹波・多遅麻・二方の三国(*2)をヒコイマスに与えた。

12月7日 多遅麻の刀我禾鹿(東河粟鹿)に下り、宮を造営させ在した。のち諸将を率い、三国以外の諸国を視察した。
11年春4月 ヒコイマスは宮に帰り、諸将を各地に配置し鎮守(*3)とした。

丹波国造 ヤマトノエタマ(倭得玉命)、
多遅麻国造 アメノヒナラギ(天日楢杵命)、
二方国造 ウツノマワカ(宇都野真若命)、
その命令に従う。
この時に当り、
比地県主 美穂津彦命、 (のちの朝来郡)
夜父 〃 美津玉彦命、 (のちの養父郡)
黄沼前〃 穴目杵命、  (のちの城崎郡)
伊曾布〃 黒田大彦命  (のちの七美郡) あり
刀我禾鹿宮に朝して、その徳を分け与える。朝来アサコの名はここに始まる。
トゲリヒコ(当芸利彦命・またはタケヌキヒコ・武貫彦命)は鷹貫宮におられる。(豊岡市日高町竹貫)

第11代垂仁天皇の45年(西暦16年)冬10月 トゲリヒコ(当芸利彦命)の子クニシズメツルギヌシ(国鎮剣主命)を気多県主とする。母はイコハヤワケ(伊許波夜別命)の娘イソシヒメ(伊曾志姫命)である。
クニシズメツルギヌシは国鎮御剣クニシズメノミツルギを剣宮に奉安する。鷹貫タカヌキ氏がイツくところの太刀宮タチノミヤ甕布都ミカフツ神をまつる。(式内鷹貫神社:豊岡市日高町竹貫)

第12代景行天皇の32年(102年)夏6月 イカシコオ(伊香色男命)の子・物部大売布モノノベノオオメフ命は、ヤマトタケル(日本武尊)に従い、東夷アズマエビス(*4)を征伐したことを賞し、その功により摂津の川奈辺(川辺郡)(*5)・多遅麻の気多(*6)・黄沼前の三県を与える。

オオメフ(大売布命)は多遅麻に入り、気多の射楯イダテ(*7)宮に在した。多遅麻物部氏の祖である。

53年(123年) 景行天皇は、(奈良より)東のヤマトタケルが平定した国を歴訪された。
孝元天皇の皇子オオヒコ(大彦命)の孫、イワカムツカリ(磐鹿六獦命)・オオメフ(物部大売布命)らが行幸にお供し、伊勢国から東国に入り、上総カズサ安房アワ郡浮嶋宮に至った。
また、相武国(相模)に行幸し、オオメフを伴い、葛飾野クズシカノで狩りをされた。
大后のヤサカイリヒメ(八坂入姫命)は、イワカムツカリ(磐鹿六)を従えて行宮におられる。大后は、イワカムツカリを御前に呼んで問われた。

「この浦に怪鳥の声を聞きました。その鳴き声はカクカクというのでその姿を見てみたい」

イワカムツカリは、船に乗りその鳥のもとへ行くと、すぐ鳥が驚いて、他の浦へ飛び去った。さらに進んだが、ついに捕らえることができなかった。

イワカムツカリ「おお鳥よ。私はその声を慕い、その姿が見たい。ところが他の浦に飛び去り、その形を見せない。これより後、陸に止まることができない。もし大地に下りるなら、すぐに死ぬ。海中を棲家としなさい」といって帰った。

(この鳥は、今は香藻女カモメと名づく。また香許女カゴメという。香許女は香倶女の転訛)

この時、船の後をふり返ると、魚がたくさん集まってきた。イワカムツカリは弓で海面の魚を射った。矢が当りすぐにいっぱい獲れた。それで頑魚カタオ堅魚カツオ・鰹)という。

船は潮が引いて、渚のほとりにいたとき、掘っていると、八尺の白いハマグリがとれた。
イワカムツカリは、この二種類を捧げて大后に献上した。すると大后は誉め喜ばれ、
「たいへん美味しく、すべて食べました。御食をたてまつりなさい。わたしはこれを賞したいと思います」と。
その時イワカムツカリは、謹んで「ムツカリ 仰せの通りこれを献じます」と。
無邪志(武蔵)国造の上祖、オオクニタマ(大国魂命)の末裔 大田萌生メバエ?命、
知々夫(秩父)国造の上祖 八意思兼命の子天下春命の末裔 天上原・天下原命を召し、なます、煮物、焼き物などを作り盛り、河曲山のクチナシ葉でヒラツキ(枚次)(*8)8個を刺し作り、
日陰に並べ、蒲の葉で美津良ミヅラ(*9)に巻き、真竹・葛を採り、ケヤキに掛け、帯となし、緒は足をまとい、
いろいろな物を供え、結い、飾って、
天皇が狩りよりお帰りになられた時に献上した。

天皇「だれが作って献じたのか」
大后「これはイワカムツカリの献ずるものです」
天皇は大いに喜び、「大倭国(大和国)は、ますますその名にふさわしい国である。
イワカムツカリは、われの皇子ら及び、限りない御子が末永く続き、ときわ(永遠)まで天皇の大御食に使えまつれ」と。
すぐにオオメフに命じ、腰に下げる太刀をイワカムツカリに与えられた。

また、このあと、規則を作り、大伴部として、仕えて奉るべき者を設けられた。
東西南北・山陽・山陰の国々の人を割り移し、大伴部と名づけ、イワカムツカリに与えた。

また、諸氏、東国の国造十二氏の優子各ひとりを献じ、ヒラツキの鱗を与える。

『山野海河の物はガマの渡る極み、カエルの通る極み、ウロコの広い物、ウロコの狭い物、毛の荒い物、毛のなごやかな物、さまざまな物を供え、冨真根*取りもって、仕え奉れ』とおっしゃった。(*冨真根 検索してもヒット0。この意味が分からない)
この時、天皇は、上総国安房郡に坐(いま)す安房大神を崇め、御食津神(食物の神)とされ、オオメフの子トヨヒ(豊日連)に火をきらせ忌火イミビとなし、御食を斎き奉らせ(神饌)られた。

また大八州をかたどって八乙女(*10)を定め、神嘗カンナメ大嘗オオナメ(*11)において、初めてお供えを奉らされた。

オオメフ(物部連大売布命)は、長く天皇に仕えていたが、第13代成務天皇の60年(190年・天皇崩御)、多遅麻(気多)に帰る。

 


[註]

*1 天照国照彦櫛玉饒速日天火明命 天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は天照国照彦火明櫛玉饒速日命とも書く。瓊瓊杵尊 の 子・ニギハヤヒ(饒速日命)のことで、天火明命は瓊瓊杵尊の弟にあたる。天火明命とあるから尾張氏・海部氏の祖天火明命と混同するが、同一人物ではないないとする。『先代旧事本紀』では、ニギハヤヒとアメノホアカリは同一神としている。

*2 丹波・多遅麻・二方の三国 ここで多遅麻(但馬)・二方と同時期に丹波とあり、丹後はないことから、但馬はすでに第6代孝安天皇朝に、天日槍が帰化し多遅麻国造となって丹波から分国しているので、まだ丹波は丹後と丹波に分国されていなかったようだ。
*3 鎮守 兵士を駐在させて、その地をしずめ守ること
*4 東夷(あずまえびす) 都からみて東国の人
*5 川奈辺県 のち摂津国川辺郡。古くは河辺郡とも書いた。現在は猪名川町1町のみだが、かつては、猪名川町全域・川西市全域・伊丹市と尼崎市と宝塚市の大部分・三田市の一部。大阪府豊能町の一部を含めた郡
*6  気多(けた) 県、のち郡 古くは佐々前県→気立県。かつての豊岡市日高町と養父郡・豊岡市・竹野町の一部
*7 射楯(いだて) のち石立村。国保村と合併し、豊岡市日高町国分寺
*8 ヒラツキ(枚次) 枚手ともいい、大嘗会 (だいじょうえ) などの際、菜菓などを盛って神に供えた器。数枚の柏 (かしわ) の葉を竹ひごなどで刺しとじて円く作ったもの。後世、この形の土器 (かわらけ) をもいう。
*9 角髪(みずら) 日本の上古における貴族男性の髪型。美豆良(みずら)、総角(あげまき)とも。
*10 神楽(かぐら)などを舞う八人の少女。転じて,神楽の舞姫の意にも
*11 神嘗・大嘗 神嘗祭・大嘗祭の略。宮中祭祀の大祭のひとつ。神嘗祭は五穀豊穣の感謝祭にあたり、宮中および神宮(伊勢神宮)で儀式が行われる。大嘗祭は天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭(収穫祭にあたる)。


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00 はじめに『但馬国司文書 但馬故事記』

「国司文書・但馬故事記・別記」の訳註書「古事大観録」「但馬神社系譜伝」「但馬郷名記抄」「世継記・秘鍵抄ほか」コピーを同じく但馬史や神社に興味を持たれている知人からいただいた。

郷土但馬の成り立ち、神社の由来・縁起を知る手がかりとして、桜井勉『校捕但馬考』などから拾っていたが、どうしても『但馬故事記-但馬国司文書』が読みたくなった。但馬文教府にあると聞いたので行ってみると、閉館していたので、豊岡市図書館にないものかと探しにいったら、コピーした写本があった。翌日また出かけて禁帯出ではないことが分かり、わかりやすい現代文に直された『平文 但馬故事記 全』長岡輝一著とともに借りてきた。

読んでみると、但馬の歴史・風土記・神社等が実に詳しく、但馬国府に任じられた歴代の国司・官人たちが数年の歳月をかけて編纂された公文書なのである。

天平に朝廷が各国のその地の風土・産物・伝説その他を、国ごとに記させた風土記は、わずかに写本として5つが現存し、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残るのみである。『出雲国風土記』は天平5年(733年)に完成し奉呈されたが、但馬国風土記はそれよりも20年早く和銅5年(712年)に奉呈されている。しかし、第56代陽成天皇の在年に火災によって焼失した。この『国司文書 但馬故事記』は、それより260年後に作られたものである。それだけ資料も多く集めたもののようで、風土記としては『出雲国風土記』に勝るとも劣らない、全国でも類のない貴重な書である。

まずこの但馬内の神社に散逸していた巻を収集して注釈本にされた吾郷清彦氏が書中に書いているように、「この中でも神社系譜伝は、神社の由来・縁起をはじめ、祭神のことなど、こと祭祀に関する限り、延喜式の但馬版といってもよいであろう。」
長年捜していた貴重な書を見つけた喜びと同時に、なんとはるか1000年以上前に正確に記されていたのに感激してしまった。

誤っている桜井勉氏を中心においた但馬の郷土史一変道の固定概念

『アメノヒボコ』(瀬戸谷晧・石原由美子・宮本範熙共著)の中で、

『校補但馬考』の刊行は大正時代のことだが、まず出石藩主仙石実相の命を受けて、桜井舟山が宝暦元年(1751)にまとめた著書が『但馬考』。その後、出石藩には弘道館という藩学が設けられ、桜井一族がこの分野で活躍を続ける。子の石門が但馬関係資料を『但馬叢書』としてまとめ、さらにその子の勉(児山)が祖父の業績に大幅な増補を加えて刊行したものが大著『校補但馬考』であった。その引用文献の豊富さや徹底した質・資料批判という点において、但馬史研究の出発点の地位を失っていない。

桜井勉氏は自著『校補但馬考』の巻頭で、「但馬地誌に、但馬記、但馬誌、但馬發元記、但州一覧集の類ありといえども、その書誤り極めて多し。国司文書なるものあり。分けて故事記八巻、古事大観録三巻、神社系譜伝八巻となす。しかして、その書は誠にずさん妄作に属する。したがってこれを引用せず」と明記してその立場を明らかにした。いかがわしい文献は信じられないし、論評することすらしないというわけである。

このことは、梅谷光信氏が正当に評価したように、出石藩以外の藩学や私学では「但馬史の系統的な研究がなされなかったから」できたことではあろうが、その背景に但馬の雄を競う出石藩と豊岡藩の学問的闘争の継続といった側面があるいはあったかもしれない。

ここで桜井 勉氏について少し触れてみたい。

桜井 勉

明治時代の行政官。出石藩の儒官・桜井石門の長男として出石郡出石町伊木(現兵庫県豊岡市)に生まれた。明治新政府では内務に携わった。内務省地理局長時代には全国の気象測候所の創設を働きかけ、気象観測網の基礎を築いた。その後、徳島県知事、山梨県知事、台湾新竹知事、内務省神社局長を歴任、1902年(明治35年)に退官した。

退官後は出石に戻り、『校補但馬考』を著して但馬の郷土史研究の基礎を築いたほか、教育振興などにつとめた。

「天気予報の生みの親」として知られ、今日の兵庫県・京都府の合併に寄与した。東京大学初代綜理のち東京帝国大学総長加藤 弘之氏、三代濱尾新とともに出石の偉大な郷土の偉人である。また晩年、弘道館藩学の一族として、郷土史『校補但馬考』をまとめた功績は大きい。もちろん、桜井勉氏は偉大な郷土の偉人であり、『校捕但馬考』は明治になってよく調べ上げた数少ない郷土史である。

しかし、学者に限らず国史であるから『記紀』は正しい、また偉い学者や先生、Aという大新聞、某公共放送だから間違っていないだろうと考えてしまう傾向が日本人には多い。実際にどこのどういう記述が嘘偽りなのかは触れず、考古学界でそう言われてきたからとか、全くもって真実、史実を求めるのではなく、また自虐史観による戦後教育の申し子のように日本はアジア周辺国に迷惑をかけたのだから(実際はその反対)、それ以外の答えを出すことがタブーであるかのように、定説、通説なるものにもたれ合い、本来の歴史学というアカデミックな探究心から逸脱してそれぞれの立場を守ることの方が大切であるようで愚かだ。

そのためか、桜井勉氏が『但馬故事記』を偽書としているからと、『但馬故事記』が軽んじられてきたようだ。しかし、『国司文書 但馬故事記』を熟読し、神社等を調べ上げた結果、桜井の『校補但馬考』の記述こそ、史実を操作した感があるように思えてならないところがある。

つまりは、桜井勉氏は『校捕但馬考』を編纂するにあたり、あらゆる但馬の歴史文献等を調べ上げことは同書に述べているのではあるが、『国司文書 但馬故事記』を引用するに値しない、「偽書だ、妄作だ」と言い切るならば、具体的にどこの何が異なるのかなど述べなければなるまい。桜井勉氏『校捕但馬考』は、何も理由を述べずに憎悪している。

おそらく出石藩学を担ってきた桜井家の子孫として、どうしても曲げられない桜井家の立場、アメノヒボコ・神社などの研究成果を覆す事が記されているものだったから、出石藩学の中心的立場では、但馬をアメノヒボコ一中心にしないといけないという考えが強かったのかも知れない。

われわれ現代人は、桜井や苦労して集めた資料に比べて、書物やインターネットのおかげで、かなり多くの世界的規模の文献を客観的にみることができる。まずは、「百聞は一見にしかず」というように『国史文書 但馬故事記』をまず読んでみてほしい。全くの想像で具体的な年代、人物、神社名や祭神などを膨大な歳月と人力をかけて集められるだろうか。もちろん神話的部分が事実ではなく想像である部分もあるだろうが、言い伝えや昔ばなしや伝承がまったくの作り話ではなく、事実が隠されていることも多い。

そう思っていたのは実は私だけではなかった。早くから吾郷清彦氏・長岡輝一氏ともに桜井勉やそうした学者を批判しているし、また、感動したのは、国司文書編纂者が、『但馬故事記序』として書いている言葉である。平安後期の役人・国学者は、我々が抱いていたよりはるかに客観的な視野と優れた日本人だったからである。

但馬故事記序

日本根子天高譲弥遠天皇(淳和天皇)の朝*1、但馬風土記を作り、国学寮これを管る。
その記、貞明天皇の朝、火災に遭い焼亡す。遺憾何ぞ堪えんや。

この書は弘仁五年春正月に稿を起し、天延二年冬十二月に至る。其ノ間、年を経ること158、月を積むこと、1,896、稿を替えること、79回の多に及ぶ。(中略)
然してれ、旧事記、古事記、日本書紀は、帝都の旧史なり。此の書は、但馬の旧史なり。
故に帝都の旧史に欠有れば、即ち此の書を以って補うべく、但馬の旧史に漏れ有れば、即ち帝都の正史を以って補うべし。焉。
然りいえども此の書、神武帝以来、推古帝に至るの記事書く。年月実に怪詭を以って之を書かざれば、即ち窺うべからず。
(そうはいっても、この書は神武帝から推古帝の記事を書くのだから、年月は実に怪しさをもって書いていることを否定出来ない。)
故、暫く古伝旧記に依り之を填(うず)め補い、少しも私意を加えず。また故意に削らず。しかして、編集するのみ。

現代でも歴史を知る姿勢として十分通じるべき範として見習うべきことを、すでに平安時代に述べられていることに、日本の先人の偉大さを再認識するのである。

*1  朝 朝廷という名称は、公務を朝行ったことが起源である。

『但馬故事記』について

(原文コピー本)豊岡市図書館蔵

『竹内文書・但馬故事記』吾郷清彦
昭和59年11月16日 発行
定価 3万円 (株)新国民社

(筆者が、)『但馬故事記註解』を『自己維新』に連載した昭和47年10月号より翌48年12月号まで一年と三ヶ月。
ところが昭和54年に、兵庫県の田中成明氏より『古事大観録』・『但馬神社系譜伝』(原本コピー)の寄贈を受けた。
ここにおいて私は、『但馬国司文書』註解の衝動に駆られ、これを執筆、発表する決意を固めた。
そもそも『但馬国司文書』は、副題としてあげた如く、『出雲国風土記』に皮脂、勝るとも劣らない価値ある古文書だ。この文書は左記三種の古記録、計22巻より成る。

『但馬故事記』(但記)   八巻
『古事大観録』(大観録)  三巻
『但馬神社系譜伝』(系譜伝) 八巻

このほかに
『但馬国司文書別記・但馬郷名記』 八巻、
『但馬世継記』八巻、
『但馬秘鍵抄』などがある。

※()は筆者の略称

これらを本著に収録して、注釈を加えれば大冊となり、内容上重複する箇所がすこぶる多くなる。よって、『但記』・『大観録』・『系譜伝』を三本の柱となし、これに『郷名記』を加え、『世継記』と『秘鍵抄』とは概要にとどめ、必要に応じて引用することとした。

(省略)

この国司文書は、地方の上古代史書のうちで『甲斐古蹟考』とともに東西の横綱として高く評価されるべきものだ。

兵庫県(出石)の郷土史家桜井勉は、これらを深く調べもせず、枝葉末節にこだわり、但書を偽作視するが、情けない限りだ。概して学者なるものは、ひとたび自説を発表するや、自説を曲げず、他説をそしることに汲々とする傾向がある。
私は、これまでの狭量な学者的態度をとらず、また科学者が、専門外の史学に没入した際、数式や定説を作り上げて、一つの結論に単略しがちな弊にも陥りたくない。

 

本書の記録範囲と内容

時間的には、天火明命の天降りから人皇62代村上天皇の天暦五年(951)まで、地域上ではもちろん但馬国が主体をなすが、隣接する因幡・丹後・丹波・播磨その他の国々が登場する。

但馬故事記 これは但馬国八郡にわたる歴史編というべきもの
古事大観録 多分に風土記的色彩を帯びており、但馬国の文化編といえよう。
但馬神社系譜伝 これは、延長五年(927)12月に上程された延喜式を見習って作られたものであろうか。各部ごとに、かくも整然と詳しく神社の系譜が伝えられていること、まさに日本全国で唯一無双といってよいであろう。まったく壮観である。

本書の特徴と史的価値

但馬国司文書の特徴

本書を風土記として見る場合、その余りにも広大な構成に驚く。よって私は、本書を歴史篇と産業文化篇・神道篇とに分けて考える。

すなわち歴史編は、『但馬故事記』八巻であり、産業・文化編は、『大観録』『郷名記』、神道編は『系譜伝』に当たる。『郷名記』は、地理篇というほうが、より妥当であろう。それよりも、むしろ世継記・大観録・郷名記の三書は風土記篇と呼ぶのが適当かもしれない。
本書に共通する特徴を左のごとく列挙しよう。

1.但馬地方の諸伝承を忠実に記載する。
2.古典四書(1)などを充分に参照している。
3.神社の祭神をよく調べ、かつて上代(300-1000)に神社信仰時代があったことを、本書は明示する。
4.本書は、古墳時代に関する記録が多い。なかんずく古墳の副葬品の叙述に満ち溢れている。「国司文書 但馬神社系譜伝」の点で考古学・民俗学上見逃せない有力な資料である。
5.諸々の連(むらじ)・公・君(きみ)・臣(おみ)・首(おびと)など、各郡首長たちの系譜を詳細に伝える。
6.天孫-饒速日(天火明)尊-降臨の詳しい伝承を記載する。
7.陸耳(くがみみ)-御笠討伐の記録は、他所に全くない詳伝である。
8.神功皇后の但馬国における足跡を伝える。
9.天日槍一族の事蹟が、ことのほか詳しい。
10.兵庫(やぐら)の設定、軍団の構成、陣法による訓練の諸項に見るべきものが多い。

(1)古典四書…『古事記』・『日本書紀』・『旧事記』を古典三書。この三典に『古語拾遺』を加えて古典四書という。

本書の史的価値

但記序文における編纂方針と執筆者たちの良心的態度

夫(そ)れ旧事紀・古事記・日本書紀は帝都の旧史なり。この書は但馬の旧史なり。故に帝都の旧史に欠有れば、即ちこの書をもって補うべく、但馬の旧史の漏れ有れば、即ち帝都の正史といえども荒唐無稽の事無きにしも有らず。況んや私史家様に於いてをや。

この堂々たる一文、もって私たち古代研究家の大いに範とすべき大文章だ。今日の史家の百家争鳴、史実を曲げることの極端、白を黒に塗って、得意となっている徒輩の氾濫、嘆かわしい限りである。

かと思うと、古典に執着するあまり、地方に秘匿されていた古文献をやたらに偽書呼ばわりする狭量な史学者にも困ったものだ。

『天日槍』の著者、今井啓一郎は、出石の郷土史家桜井勉の偽書説など牙歯にもかけず、「人、あるいは荒誕・不稽の徒事なりと笑わば笑え」と、堂々の論調を張り、天日槍研究に自信のほどで示した。すなわち彼は、桜井とは見解を異にし、高い次元にたち、この但馬国司文書を大いに活用している。

(省略)

桜井勉の著述として採るべきものは多々ある。また神社信仰時代を示す資料としてみる場合、まさに但書は天下一品、とても但馬考などの追随を許さない。(省略)

総合して、但馬考と比較するとき、上古代から中世までに関する限り、但書は但馬考よりはるかに優れており、但馬考以上に高く評価すべきものである。

さて本著の副題に─出雲風土記にまさる古代史料─とつけたごとく、本書は、出雲風土記をはじめ、各国から上進された諸風土記に勝るとも劣らぬ内容を備えている。

この中でも神社系譜伝は、神社の由来・縁起をはじめ、祭神のことなど、こと祭祀に関する限り、延喜式の但馬版といってもよいであろう。

  • 『国司文書・但馬故事記』には、2つの貴重な事実が但記序文に載っている。
    一つは、但馬風土記が、人皇52代陽成天皇の御代火災にかかり焼失したことは、遺憾で堪えられないことだ
  • この書は平安初期、弘仁五年(814)に稿を起こし、天延2年(974)冬12月に至る。
    編纂に従事する者はいずれも中央から派遣された国学寮の学者である(今風に言えば国家公務員)
  • 『旧事記』・『古事記』・『日本書紀』は帝都の旧史なり。この書は但馬の旧史なり。
    ゆえに帝都の旧史に欠有れば、即ちこの書を以って補うべく、但馬の旧史に漏れ有れば、即ち帝都の正史を以って補うべし。
    然りといえどもこの書は、神武帝以来推古帝に至るの記事を書す。年月日に怪訝に似たり。(中略)古伝旧記に依りこれを補填し、少しも私意を加えず。また故意に削らず、編を成すのみ。
  • 正史が国家権力によって記されているのと、地元に縁もゆかりもない派遣された国学者たちが客観的に編纂するこの書と、どちらが信憑性が高いだろう。国府に従事するならむしろ中央に有利に書くだろう。但馬の風土記を脚色しても何の利があるといえるのだろうか?むしろ、客観的に編纂されていると思えるのである。

『平文 但馬故事記 全』 長岡輝一著 発行 平成十年

『但馬故事記』は、我ら昭和3年蚕業学校(現県立八鹿高校)卒業29回生の級友、伊藤三武郎君が、苦心を重ねて再発掘した古書である。

大正時代の史家桜井勉氏は、自著『校捕但馬考』は、但馬史において重要な資料であるが、彼は、『但馬故事記』をその書の中で、後世の偽作と断定して、「附警」の一巻を設け、鋭く論断を加えている。

以後、但馬故事記は黙殺の厄に合い、但馬人はこの書を読まず、学者・史家は言及を避けている感が深い。

『校捕但馬考』の附警を繰り返し読んでみても、『但馬故事記』の「後世偽作」を証明する確証は一項も見当たらない。

また、反面には最近の史家によって、その編纂の頃までに、地元に残っていた伝承が書いてあり、また古事記や日本書紀に、作為的に記載を除外したかと思わせる部分もあり、極めて貴重な文献だとする見解もある。

[以上抜粋引用]
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01 但馬故事記序 現代語版

日本根子天高譲弥遠天皇(第53代淳和天皇)のとき、国司、解状を郡司に下して、その郡の旧記を進ぜさせる。

朝来あさこの小領(*1)  従八位下 和田山守部臣わだやまのもりべのおみ
養父やぶの大領(*1)  従八位上 荒島宿祢利実あらしまのすくねとしみ
出石いずしの大領   正八位上 小野朝臣吉麿おののあそんよしまろ
城崎きのさきの大領    〃   佐伯直弘麿さえきのあたえひろまろ
美含みくみの大領   正八位下 佐自努公近通さじのきみちかみち
七美しつみの大領   従八位上 兎束臣百足うづかのおみむかで
二方ふたかたの大領   正八位上 岸田臣公助きしだのおみきみすけ 等

互いに前後して、これを国衙に書き記して注進した。

その書は実に30余りの多さに至った。
したがって、多くの中から取り上げて正確と認められるもののみを選び編集した。

上は神代の時代から起こし、下は今の時代(天延三年・975)で終わる。
むかし、第17代履中天皇が、史官を諸国に遣わし、政事(まつりごと)の得失を記すように申された。

但馬は、その書が散逸するが、養父郡の兵庫やぐら(*2)にあった。その記録を取り寄せ閲覧した。
その中に但馬県記、国造記があった。記録の最後に大蔵宿祢おおくらのすくねと署名がある。思うに大蔵氏の蔵する書か。

多くの中から旧伝に関係あるものを要点を抜き出して記録した。そうはいっても、誤った言い伝えや違うことがその中に無いとも限らない。

第43代元明天皇のとき、「但馬風土記」を作り、国学寮(*3)が管理する。
その記が第57代陽成天皇のとき、火災に遭い焼失してしまった。何とも堪えられないほど遺憾だ。

本書(国史文書 但馬故事記)は、弘仁5年(814)春正月に書き始め(*4)、天延2年(974)冬12月に至る。
その間、年を経ること、158年、日を積むこと1,896日、稿を替えること79回の多さに及んだ。
(なんと約160年という全く気が遠くなるような長い年月。)

そしてこれに従事する者
国学のカミ(*3) 国博士 文部モンブ吉士キシ(*5)良道、
国学のスケ   菅野朝臣スガノノアソン(*6) 資道モトミチ
国学のジョウ   真神田首マカミダノオビト(*7) 尊良タカナガ
国学のサカン   陽候史ヤコノフビト(*8) 真佐伎マサキ

稿を続けてこれを編成する者
明法博士 得業生トクゴウショウ(*9) 但馬権博士ゴンノハクジ(*10) 讃岐朝臣 永直、
国学頭 国博士 膳臣カシワデ 法経ノリツネ、及び
国学頭 菅野朝臣 資倶モトトモ
国学助 真神田首 光尊ミツタカ
国学允 文部の吉士 経道ツネミチ
国学属 陽候史 真志珂マシカ 等

そしてそれは旧事記・古事記・日本書紀は帝都の旧史である。
この書は、但馬の旧史である。

したがって、帝都の旧史に欠けた箇所があれば、その都度この書をもって補うべく、但馬の旧史に漏れがあれば、その都度、帝都の正史をもって補う。

といっても、これらの書は、神武天皇以来推古天皇に至る記事である。年月は実に怪しい。しかしだからといって書かなければ、国の変遷をうかがえない。したがって、少しは古伝旧記に従い、補填し、少しも私意を加えない。

また、故意に削らず、編集するのみ。

もとより、大昔の記事は、帝都の正史といえども荒唐無稽な事がなきにしもあらず。私史家などはさらにそうである。

これからこの書を見る人は、その使えるところは使い、捨てるべきは捨てて、但馬の旧事を知られれば、言うまでもなく切に願う。この書もまた正史と同じく一覧の価値がある。編集に際し、前書きにて上述のとおり。

天延三年(975・平安時代後期)春正月

国司文書総目録

第 一巻 気多郡故事記
〃 二〃 朝来郡 〃
〃 三〃 養父郡 〃
〃 四〃 城崎郡 〃
〃 五〃 出石郡 〃
〃 六〃 美含郡 〃
〃 七〃 七美郡 〃
〃 八〃 二方郡 〃
〃 九〃 古事大観録上
〃 十〃  〃   中
〃十一〃  〃   下
〃十二〃 気多郡神社系譜伝
〃十三〃 朝来郡  〃
〃十四〃 養父郡  〃
〃十五〃 出石郡  〃
〃十六〃 城崎郡  〃
〃十七〃 美含郡  〃
〃十八〃 七美郡  〃
〃十九〃 二方郡  〃

以上


[註]
律令からの難解な人名漢字にある役職なども、その決まり事を知れば、さらに深まる。
*1 郡司 国司の下で郡を治めた地方官。大領・少領・主政・主帳の四等官からなり、主に国造(くにのみやつこ)などの地方豪族が世襲的に任ぜられた。また、特に長官の大領をいう。
*2 兵庫(やぐら) 軍団は7世紀末か8世紀初めから11世紀までの日本に設けられた軍事組織。国司のもとに最初は但馬の場合、北部の気多軍団・南部の朝来軍団の2つが置かれ、その後郡ごとに置かれるようになる。兵庫はその武器庫かつ軍団の集まる建物
*3 国学寮 寮(つかさ・りょう)は古代日本の令制時代では役所の種類 官人育成のために都に大学寮、各律令国の国府に1校の国学寮の併設が義務付けられた。但馬国の国学寮は、気多郡馬方原(今の豊岡市日高町三方地区、広井周辺)ではないかと思われる。
四等官・四等官制 カミ(長官)、スケ(次官)、ジョウ(判官)、サカン(主典)
*4 本書は、弘仁5年(814年)春正月に書き始め 第53代淳和天皇の在位は、弘仁14年4月27日(823年6月9日)から天長10年2月28日(833年3月22日))まで。淳和天皇の在位に国司の解状を郡司に下して、その郡の旧記を進ぜさせたとあり、そこに国府の気多郡が含まれていないので、気多郡については、淳和天皇在位以前の弘仁5年(814年)春正月から書き始めていたようだ。
*5 吉士(きし) 古代の姓(かばね)の一。朝鮮半島より渡来した官吏に与えられた。
*6 朝臣(あそん) 天武天皇が定めた八色の姓の制度で新たに作られた姓(かばね)で、上から二番目に相当する。一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる。
*7 首(おびと) 八色の姓にはないが、一つは地名を氏とする県主、稲置など領首的性格をもつもの。一つは職名,部曲名を氏とする長、首領
*8 陽候史(やこのふびと) 名の通り暦や気象をする官職だと思われる
*9 得業生(とくごうしょう) 学生から成績優秀のものを選んで与えた身分 今で言えば特待生
*10 権博士(ごんのはくじ) 博士を補佐する


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古事記 上巻「神話編」6 スサノオの追放

伊邪那岐神(いざなぎのかみ)に命じられ、天照大御神(あまてらすおおみかみ)は高天原を、月読命(つくよみのみこと)は夜の世界を治めておりました

しかし建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)だけが、命令を無視して海原を治めようとしませんでした。
顎に鬚が生えて、しかもそれがいくつも塊になって胸に至るまで伸びるくらい長い間、激しく泣いていました。

その激しさはすさまじく、青々と緑に満ちていた山が枯山になり、川や海の水がことごとく枯れてしまうほどでした。
しかも、建速須佐之男命の鳴き声に反応して悪神の騒ぐ声が、まるで田植えの頃の蠅のように辺り一面に満ち溢れ、様々な物の怪達による被害が相次ぎました。

伊邪那岐神は建速須佐之男命に
「どうして言われた通りに海原を治めず、泣いてばかりいるのか。」
と尋ねました。

建速須佐之男命は、
「僕は妣(はは)の国である根之堅洲国(ねのかたすくに)に行きたいと思っているのです。それで、泣いているのです。」
と答えました。

根之堅洲国は地底の片隅の国という意味ですが、これは黄泉の国を現しているという説がありますが、どこなのかは明確に分かってはいません。

建速須佐之男命の言葉を聞いて、伊邪那岐神は大変怒りました。

そして
「それならば、お前はこの国に住むな。」
と言って、建速須佐之男命を即刻追放致しました。

伊邪那岐神はその後、淡海(おうみ)の多賀(たが)に鎮座いたします。

淡海の多賀とは、一説には滋賀県犬上郡多賀町多賀の多賀大社のことだといわれています。
ですが日本書紀には「淡路の幽宮(かくれみや)」に鎮座したとあり、現在では淡海は淡路の誤記ではないかという説が有力です。

実際、兵庫県淡路市多賀には伊弉諾神宮があり、そこには伊邪那岐神の御陵(お墓)が現存しています。

国生み、神生みを終え、妻と別れ、沢山の神々と三柱の尊い神を出現させた後。
伊邪那岐神は最初に生んだ淡路島に鎮まり、そこで最期を迎えられたのだといわれています。

天地初発神々が出現し、沢山の神々が誕生した日本神話の草創期は、こうして終わります。

日本神話はこの後、天照大御神と建速須佐之男命を中心として展開されてゆきます。
建速須佐之男命の子孫にあたる大国主神(おおくにぬしのかみ)による、日本の国作りと国譲り。
そして、初代天皇誕生へと続いていくのです。

古事記 上巻「神話編」5 三貴子の誕生

三貴子の誕生

イザナギは、続いて左の目を洗った。
すると、天にましまして照りたもう、アマテラス(天照大御神・あまてらすおおみかみ)が出現した。

次に右の目を洗った。
すると、ツクヨミ(月読命・つくよみのみこと・つきよみともいう)が出現した。

最後に、鼻を洗った。
すると、スサノオ(建速須佐之男命・たけはやすさのをのみこと)が出現した。

イザナギは、「私は子供を本当に沢山生んできたけれど、最後に三柱の貴い子を得ることができた。」
と、大変喜んだ。

それで、自分の首にかけていた連珠の首飾りを外して、これをゆらした。
珠同士が触れ合って、しゃらしゃらと美しい音が響いた。

イザナギは、この首飾りをアマテラスに授けて、
「お前は、高天原を治めなさい。」
と命じた。

剣と同じくこの首飾りにも名前があって、御倉板拳之神(みくらたなのかみ)という。
こちらは、神聖な倉の棚に宿る神様。

稲を実らせる稲霊の神は、かつて棚の上に祀られていた。
だからこそこのような名前なのだろう。

また、御倉板拳之神もまた穀物の神の1柱といえる。
そのためこのような神が宿る首飾りを身に着けることで、アマテラスもまた、穀霊の性格が加算されることになった。

次に、イザナギはツクヨミに
「お前は、夜の世界を治めなさい。」
と命じた。

最後にスサノオに
「お前は、海原(うなばら)を治めなさい。」
と命じた。

このようにしてイザナギは、三柱に高天原・夜・海の分治を命じた。

中でもアマテラスは、神々が住まう高天原を統治することになったので、とても重要な神様といえる。
この後、アマテラスは、私達が住む地上を自分の孫に治めさせることにした。
アマテラスの孫が、高天原から地上に降りたことを、「天孫降臨」という。

アマテラスの孫であるニニギ(邇邇藝命)の玄孫が、初代天皇である神武天皇です。
その後、万世一系で引き継がれ、現代の第125代今上天皇へと続いています。

父側の家系を辿ると、神武天皇にいきつくことを「男系」と言います。
世界でひとつの男系がずっと続いて、且つ王朝が変わることなく約2000年以上も続いている国は、世界で日本以外どこにもありません。

日本は、現存する世界最古の国なのです。

古事記 上巻「神話編」4 黄泉の国

そしてイザナキは妻のイザナミに会いたいとお思いになって黄泉の国に後を追って行かれた。
そこでイザナミが御殿の閉まった戸から出迎えられたときに、イザナキは「いとしいわが妻よ、私とあなたで作った国はまだ作り終わっていません。だから帰るべきです」と仰せになった。

イザナミはこれに答えて「残念なことです。早く来ていただきたかった。私はすでに黄泉の国の食べ物を食べてしまいました。されどもいとしいあなたが来てくださったことは恐れ多いことです。だから帰りたいと思いますので、しばらく黄泉の国の神と相談してきます。その間私をご覧にならないでください」と仰せになった。

こういってイザナミは御殿の中に帰られたが、大変長いのでイザナキは待ちかねてしまった。
そこで左の御角髪(ミミズラ)に挿していた神聖な櫛の太い歯を一つ折り取って、これに火を点して入って見ると、イザナミの身体には蛆がたかってゴロゴロと鳴き、頭には大雷、胸には火雷、腹には黒雷、女陰には{さく}雷、左の手には若雷、右の手には土雷、左の足には鳴雷がいて、右の足には伏雷がいた。
併せて八つの雷が身体から出現していた。

これを見てイザナキは怖くなり、逃げ帰ろうとしたとき、イザナミは「私に恥をかかせましたね」と言って、すぐに黄泉の国の醜女を遣わしてイザナキを追わせた。
そこでイザナキは黒い鬘を取って投げ捨てると、すぐに山葡萄の実がなった。醜女がこれを拾って食べている間にイザナキは逃げていった。しかし、なお追いかけてきたので右の鬘に刺してあった櫛の歯を折り取って投げると、すぐに筍が生えた。醜女がこれを抜いて食べている間にイザナキは逃げていった。

 

その後、イザナミは八つの雷に大勢の、黄泉の国の軍を付けてイザナキを追わせた。そこでイザナキは佩いていた十拳の剣を抜いて、後ろ手に振りながら逃げていった。

しかし、なお追ってきたので黄泉の国との境の黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)のふもとに至ったとき、そこになっていた桃の実を三つ取り、待ち受けて投げつけると、すべて逃げ帰った。
そこでイザナキは桃の実に「お前が私を助けたように、葦原中国のあらゆる人たちが苦しくなって、憂い悩んでいるときに助けてやって欲しい」と仰せられて、桃にオオカムヅミ(意富加牟豆美命)という名を賜った。

最後にはイザナミ自らが追ってきた。
そこで千人引きの大きな石をその黄泉比良坂に置いて、その石を間に挟んで向き合い、夫婦の離別を言い渡したとき、イザナミは「いとしいあなたがこのようなことをなさるなら、私はあなたの国の人々を一日に千人絞め殺してしまいましょう」といわれた。
そこでイザナキは「いとしいあなたがそうするなら、私は一日に千五百人の産屋を建てるでしょう」と仰せになった。こういうわけで、一日に必ず千人が死に、一日に必ず千五百人が産まれるのである。

そこでイザナミを名付けて黄泉津大神(ヨモツ)という。またその追いついたことで道敷大神(チシキ)ともいう。また黄泉の坂に置いた石を道返之大神(チガヘシ)と名付け、黄泉国の入り口に塞がっている大神とも言う。なおその黄泉比良坂は、いま出雲国の伊賦夜坂(イフヤサカ)である。

このようなことでイザナキは
「私はなんと醜く汚い国に行っていたことであろうか。だから、我が身の禊ぎをしよう」
と仰せになり、筑紫の日向の、橘の小門の阿波岐原(アワキハラ)においでになって、禊ぎをされた。
生まれた12柱の神様は、陸路と海路に関わる神である。

投げ捨てた杖にツキタツフナト(衝立船戸神)
つぎに投げ捨てた帯にミチノナガチハ(道之長乳歯神)
つぎに投げ捨てた袋にトキハカシ(時量師神)
つぎに投げ捨てた衣にワヅラヒノウシノ(和豆良比能宇斯能神)
つぎに投げ捨てた袴にチマタ(道俣神)
つぎに投げ捨てた冠にアキグヒノウシノ(飽咋之宇斯能神)

つぎに投げ捨てた左手の腕輪にオキザカル(奥疎遠神)、つぎにオキツナギサビコ(奥津那芸佐毘古神)、つぎにオキツカヒベラ(奥津甲斐弁羅神)である。
つぎに投げ捨てた右手の腕輪に生まれた神の名は辺疎遠神(ヘザカル)、つぎに辺津那芸佐毘古神(ヘツナギサビコ)、つぎに辺津甲斐弁羅神(ヘツカヒベラ)である。

身に付けていた物を脱いだことによってイザナギはすっかり裸になった。
そして禊祓(みそぎはらえ)をするため、いよいよ水の中へと進んでいった。

「川の上の瀬は流れが速い。下の瀬は流れがおそい」
といって、そこで中流の瀬に沈んで身を清められた時に、ヤソマガツヒ(八十禍津日神)、つぎにオオマガツヒ(大禍津日神)が生まれた。この二柱の神は汚らわしい黄泉の国に行ったときの汚(けが)れから生まれた神である。
ヤソマガツヒは、沢山の災禍の神様
オオマガツヒは、偉大な災禍の神様
2柱は、あらゆる災いについての神様である。

ヤソマガツヒとオオマガツヒという、あまりに恐ろしい神様ができてしまったので、つぎにその禍いを直そうとして神様が生まれた。

カムナホビ(神直毘神)、つぎにオオナオビ(大直毘神)、つぎにイヅノメ(伊豆能売)の3柱である。

カムナホビは、曲がったことを正しく直すことの神様
オオナオビは、正しく直すことの偉大な神様
イヅノメは、厳粛で清浄な女性、という意味である。名前に「神」がつかないので巫女の起源となる存在といわれている。

イザナミがさらに念入りに、川底、川中、水面と三か所で、体をすすいだ。
三か所でそれぞれ2柱ずつ、次の神様が生まれた。

川の底で禊ぎをしたときに、ソコツワタツミ(底津綿津見神)、つぎにソコツツノヲ(底筒之男命)
川の中程で禊ぎをしたときに、ナカツワタツミ(中津綿津見神)、つぎにナカツツノヲ(中筒之男命)
水面で禊ぎをしたときに、ウハツワタツミ(上津綿津見神)、つぎにウハツツノヲ(上筒之男命)

この3柱の綿津見神は、海の神様。
これら3柱の綿津見神は、阿曇連(アズミノムラジ)らの祖先神として祀られている神である。
そして阿曇連らはそのワタツミの子の、宇都志日金析命(ウツシヒカナサク)の子孫である。
日本神話では神々がやがて人になっていったので、日本国民の誰もが何らかの神々の子孫といえるかもしれません。

また三柱の筒之男命は、何を神格化した神様なのか諸説あるが、船の筒柱の神様ではないかといわれていえう。住吉神社に祀られている住吉大神(住吉三神)である。

黄泉比良坂

古事記 上巻「神話編」3 島産みと神産み

この二神は、大八島(おおやしま)を構成する島々を生み出していった。

最初にお生みになった子は、淡路島である。

淡路国一宮  伊弉諾神宮

つぎに、伊予之二名島(四国)をお生みになった。この島は体が一つで顔が四つあり、それぞれの顔に名があった。そこで、伊予の国をエヒメ(愛比売)といい、讃岐の国をイヒヨリヒコ(飯依比古)といい、阿波の国をオオゲツヒメ(大宜都比売)といい、土佐の国をタケヨリワケ(建依別)という。

つぎに三子の隠岐の島をお生みになった。またの名はアメノオシコロワケ(天之忍許呂別)という。

つぎに筑紫島(九州)をお生みになった。この島も体が一つで顔が四つあり、それぞれの顔に名があった。
そこで筑紫の国をシラヒワケ(白日別)といい、豊国をトヨヒワケ(豊日別)といい、肥の国をタケヒムカヒトヨクジヒネワケ(建日向日豊久士比泥別)といい、熊曾の国をタケヒワケ(建日別)という。

つぎに壱岐の島をお生みになった。またの名はアメヒトツバシラ(天比登都柱)という。
つぎに対馬をお生みになった。またの名はアメノサデヨリヒメ(天之狭手依比売)という。
つぎに佐度の島をお生みになった。
つぎにオオヤマトトヨアキツ(大倭豊秋津島・本州)をお生みになった。またの名はアマツミソラトヨアキヅネワケ(天御虚空豊秋津根)という。
そこでこの八つの島を先にお生みになったので大八島国(おおやしま)という。

その後、帰られるときに吉備の児島をお生みになった。またの名はタケヒカタワケ(建日方別)という。
つぎに小豆島をお生みになった。またの名はオオノデヒメ(大野手比売)という。
つぎに大島をお生みになった。またの名はオオタマルワケ(大多麻流別)という。
つぎに女島をお生みになった。またの名はアメノヒトツネ(天一根)という。
つぎに知訶島をお生みになった。またの名はアメノオシヲ(天之忍男)という。
つぎに両児島をお生みになった。またの名はアメフタヤ(天両屋)という。

イザナキとイザナミは国を生み終えて、さらに多くの神をお生みになった。

そして生んだ神の名はオオコトオシヲ(大事忍男神)、つぎにイハツチビコ(石土毘古神)を生み、つぎにイハスヒメ(石巣比売)を生み、つぎにオオトヒワケ(大戸日別神)を生み、つぎにアメノフキヲ(天之吹男神)を生み、つぎにオオヤビコ(大屋毘古神)を生み、つぎにカザモツワケノオシヲ(風木津別之忍男神)を生み、つぎに海の神、名はオオワタツミ(大綿津見神)を生み、つぎに水戸の神、名はハヤアキツヒコ(速秋津日子神)、つぎに女神のハヤアキツヒメ(速秋津比売神)を生んだ。

このハヤアキツヒコ、ハヤアキツヒメの二柱の神が、それぞれ河と海を分担して生んだ神の名はアワナギ(沫那芸神)、つぎにアワナミ(沫那美神)、つぎにツラナギ(頬那芸神)、つぎにツラナミ(頬那美神)、つぎにアメノミクマリ(天之分水神)、つぎにクニノミクマリ(国之水分神)、つぎにアメノクヒザモチ(天之久比箸母智神)、つぎにクニノクヒザモチ(国之久比箸母智神)である。

つぎに風の神、シナツヒコ(志那都比古神)を生み、つぎに木の神、ククノチ(久久能智神)を生み、つぎに山の神、オオヤマツミ(大山津美神)を生み、つぎに野の神、カヤノヒメ(鹿屋野比売神)を生んだ。またの名はノズチ(野椎神)という。

このオオヤマツミ、ノズチの二柱の神が、それぞれ山と野を分担して生んだ神の名は、アメノサズチ(天之狭土神)、つぎにクニノサズチ(国之狭土神)、つぎにアメノサギリ(天之狭霧神)、つぎにクニノサギリ(国之狭霧神)、つぎにアメノクラト(天之闇戸神)、つぎにクニノクラト(国之闇戸神)、つぎにオオトマトヒコ(大戸或子神)、つぎにオオトマトヒメ(大戸或女神)である。

つぎに生んだ神の名はトリノイハクスフネ(鳥之石楠船神)、またの名は天鳥船という。つぎにオオゲツヒメ(大宜津比売神、または大気津比売神)を生んだ。

つぎにヒノヤギハヤヲ(火之夜芸速男神)を生んだ。またの名は火之炫毘古神(ヒノカガビコ)といい、またの名はヒノカグツチ(火之迦具土神)という。

ところが、この子を生んだことで、イザナミは女陰が焼けて病の床に臥(ふ)してしまった。

このとき嘔吐からカナヤマビコ(金山毘古神)が生まれ、つぎにカナヤマビメ(金山毘売神)が生まれた。
つぎに糞からハニヤスビコ(波邇夜須毘古神)が生まれた。つぎに尿からミツハノメ(弥都能売神)が生まれた。つぎにワクムスヒ(和久産巣日神)。この神の子はトヨウケビメ(豊宇気毘売神)という。

イザナキ、イザナミの二柱の神が共に生んだ島は全部で十四島、神は三十五柱である。
そしてイザナミは火の神を生んだことが原因でついにお亡くなりになった。

そこでイザナキは「いとしいわが妻を、ひとりの子に代えようとは思わなかった」と仰せになって、すぐにイザナミの枕元に臥し、足下に臥して泣き悲しまれた。その涙から成り出た神は、香久山の丘の、木の本におられるナキサワメ(泣沢女神)である。

そして亡くなられたイザナミを出雲国と伯伎国の境にある比婆の山に葬り申し上げた。

そしてイザナキは差していた十拳の剣とつかのつるぎを抜いて、ヒノカグツチの首をお斬りになった。
するとその剣先に付いた血が飛び散ってそこから生まれた神の名はイハサク(石拆神)、つぎにネサク(根拆神)、つぎにイハツツノヲ(石筒之男神)である。

つぎに御剣の本に付いた血が飛び散ってそこからミカハヤヒ(甕速日神)が生まれた。つぎにヒハヤヒ(樋速日神)、つぎにタケミカヅチノヲ(建御雷之男神)、またの名はタケフツ(建布都神)、またの名はトヨフツ(豊布都神)である。

つぎに御剣の柄にたまった血が、指の間から漏れ出たなかからクラオカミ(闇淤加美神)、つぎにクラミツハ(闇御津羽神)が生まれた。

以上の石拆神から闇御津羽神まであわせて八柱の神は御剣によって生まれた神である。

また殺されたカグツチの頭からマサカヤマツミ(正鹿山津美神)が生まれた。
つぎに胸からオドヤマツミ(淤縢山津見神)が生まれた。
つぎに腹からオクヤマツミ(奥山津美神)が生まれた。
つぎに陰部からクラヤマツミ(闇山津美神)が生まれた。
つぎに左の手からシギヤマツミ(志芸山津美神)が生まれた。
つぎに右の手からハヤマツミ(羽山津美神)が生まれた。
つぎに左の足からハラヤマツミ(原山津美神)が生まれた。
つぎに右の足からトヤマツミ(戸山津美神)が生まれた。

そしてイザナキがお斬りになった剣の名はアメノヲハバリ(天之尾羽張)といい、またの名はイツノヲハバリ(伊都之尾羽張)という。

『古事記』 はじめに

日本神話『古事記』

いまさらいうまでもないけれど、『日本書紀』とともに日本最古の歴史書。

しかし、これより以前にも実は歴史書はあった。

 

乙巳の変、壬申の乱などにより、天皇家の歴史書『天皇記』『国記』『帝紀』『旧辞』等が焼失してしまった。

天武天皇の命を受けて、奈良時代の和銅5年(712年)に、稗田阿礼(ひえだのあれ)という『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられた暗記力抜群の28歳の天才青年が語る暗誦を、太安万侶(おおのやすまろ)が編纂し、元明天皇に献上された。国内向けに天皇家の神格化のために使われたと考えられている。日本神話をもとにした。

これより8年あと、舎人親王らが天武天皇の命を受けて、『日本書紀』が養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを書いている。『日本書紀』は、日本の正史として、大和朝廷の権威付けのために作られたと考えられている。文章が漢文で書かれてることから、中国への外交上の目的があったと考えられている。『古事記』とは違い、伝説的な要素はなく事実とされるもののみを集め、異聞も併記している。

そのため、『古事記』は物語が一本で比較的分かりやすい、『日本書紀』は脈絡がなく、時代ごとにあちこちの伝承を集めているため、分かりにくい。

『記』と『紀』の字の違い

『古事記』は「記」なのに、なんで『日本書紀』は「紀」なの。実は私もそこまで考えていなかった。調べてみた。

「記」は、文章を書き「しるす」という意味がある。日記,記録,記事といった熟語からもわかるように、出来事やあったことなどをそのまま書き残しているときに使う字。

「紀」は、すじみちを立てて示したものやルール。紀行・世紀・風紀と言った熟語からもわかるように、流れや規則を表す時に使われる字。

そういう意味では、『古事記』は伝説的な事実ではない神話を含んでいるので記はふさわしくありません。しかし作られた目的が「天皇の神格化」ということを考え、「記」を使ったと考えれています。

ここでことわっておくけど、このころまだ「天皇」という言葉は使われていなかった。「天皇」という呼び名が定まったのは、おそらく天武天皇(大海人皇子)の時代か、后がその後を継いで持統天皇となってからである。ここでは便宜上天皇とする。

さて、いちおう予備知識はこれくらいにして、本章からは現代語でショート風に書いてみた。


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日本文学概論 2/2

これは放送大学『日本文学概論』島内裕子 放送大学教授の授業科目をまとめたものです。

6 兼好と頓阿

1.文学の再構築

「誰でも書ける散文」のスタイルを提起した兼好
「誰でも詠める和歌」のスタイルを提起した頓阿

兼好 『徒然草』の著者。この二人は、藤原定家の粗孫に当たる二条為世(1250-1338)門下の「和歌四天王」と呼ばれた同時代の歌人。四天王の残りの二人は、浄弁と慶雲(父子)
兼好は散文を、頓阿は和歌を、それまでにないくらいに大きく進展させた。
兼好と頓阿によって文学概念が、現代まで直接繋がるような変貌を遂げた。

藤原定家が切り開いた本歌取り文化圏は、『小倉百人一首』という誰でも暗誦可能なシステムによって、第一歩が記される。後続する文学者たちは、このシステムを補強・修正しながら、永く機能させ続けた。そのシステムの一人が、頓阿だった。頓阿は、定家の学習システムを応用して、「誰でも詠める和歌の書き方」を創出した。

2.兼好の散文

新しい散文のスタイル

文学を大きく和歌と散文に分けて考えるなら、和歌は五句・三十一音という定型の文学。

和歌にはさまざまな制約があり、むし制約を守ることが、おのずと和歌らしさを生み出す。
和歌の稽古を重ねれば、上達が保証される。

散文にはそのような枠組みがないだけに、「何を、どう書くか」という最初の段階で早くも頓挫しかねない。
ただし、散文の中にも物語というジャンルは、『源氏物語』において、ストーリー・登場人物・場面設定などが集約されている。既に大きな枠組みが完成しているので、『源氏物語』に学べば書きやすい。そのことと、日本文学における隆盛とは、決して無関係ではない。
日記や紀行文学は基本的には自分自身が体験した日々の出来事や、旅のありさまを書くという枠組みがあるので、これもその枠組に則ることによって、筆はおのずと進む。

兼好(1283頃-1352頃)の『徒然草』は、それ以前に書かれた散文とどこが違い、どこが新しいのか。

散文の多様性をまず最初に提示したのは『枕草子』(清少納言)。ごく短い単語の列挙とも言えるような、「もの尽くし」の文体。「山は」「木の花は」「美しきもの」「ただ過ぎに過ぐるもの」など。一つの命題のもとに、それに適合するものがいくつも集められる。

『枕草子』は、清少納言という個性が見聞し、彼女が書くに値すると認定した話題である。清少納言が自由に伸び伸びと書いているが、散文システムとしては誰もが模倣できるものではないという限界が指摘できる。『枕草子』と同様のことは、鴨長明(1155頃-1216)の『方丈記』にも言える。

『徒然草』の画期性と影響力

『徒然草』の画期的だった3つの重要な点

  1. さまざまな話題や内容を、次々と転換しながら、短いサイクルで書き連ねる文学形式を明確化した。
  2. 書かれている内容に応じて、文体も多様であること。王朝的な散文(和文)・和漢混淆文(漢文調)
  3. 真摯なもの、ユーモラスなもの、哀愁に満ちたものなど、表現の幅が大きいこと

この3つの要素から、『徒然草』は散文の手本となった。簡素で分かりやすく、多彩な内容を、ユーモアと鋭い洞察力を発揮しながら、自分の体験を超えて思索を外界に広く及ぼした。『徒然草』を読んだ後世の人々は、散文の極意をおのずと掴みとることができた。簡潔でわかり易い文章を書く方法を手に入れた。

3.歌人・歌学者としての頓阿とんあ

頓阿(1289-1372)は、和歌四天王の筆頭歌人。子孫はずっと歌人の系譜を守り、室町時代には断絶した二条家に替わり、二条派の正統として歌道の第一人者となった。頓阿の和歌の師匠である二条為世は、定家の曾孫で、為世の高弟である和歌四天王たちに『古今和歌集』の伝授を行っている。頓阿の子孫が連続して古今伝授という和歌の最高権威の裏付けを得て、和歌の伝統を室町時代まで繋げた。

頓阿は歌論書『井蛙抄せいあしょう』『愚問賢注ぐもんけんちゅう』を著し、和歌の読み方や本歌取りについて、懇切丁寧に解説している。和歌の正統たる二条派の歌学を、万人に開かれたものとすることにより、和歌の裾野を広げようとした。

『草庵集』の影響力

頓阿の和歌は、『草庵集』と『続草庵集』にまとめられている。『頓阿法師詠』は、延文2年(1357)に頓阿自身が、おそらくは勅撰集である『新千載和歌集』の選集史料として、自作をより直ぐって提出したものと見られ、368首から成る。

恩頼図みたまのふゆのず』は、本居宣長が学恩を受けた人々を図示したもので、宣長の子である本居大平が書いたもの。その中に頓阿の名前が挙げられている。また頓阿の家集『草庵集』に対して『草庵集玉箒たまははき』という注釈書も書いている。

明治時代以前には、頓阿は和歌を学び、和歌を詠もうとする人々にとって、歌人の代名詞のような存在だった。

近世、頓阿の『草庵集』の歌を、歌題別に分類し直して配列した『草案和歌集類題』(1695)が作られた。この時代の和歌は、自由に自分の感情を詠むものではなく、歌の題に沿って詠むものであった。表現・内容にある種の類型性が求められ、その累計性が歌を詠む人と歌を鑑賞する人との「共通理解」を可能としていた。どのような題の場合にどのような和歌を詠むかということを学び、認識しておくことは、和歌の初学者にとって必須のことだった。頓阿の和歌は初学者にとって最適であり、頓阿の和歌を学ぶことが「歌人への道」であった。

近世には、頓阿の『草庵集』に関する注釈書が次々と書かれた。

兼好と頓阿

兼好と頓阿が切り開いた、散文と和歌の普遍化は、すぐには花開かなかったが、近世に入ってから彼らの新機軸が幅広い範囲に浸透し、近世の和歌や散文を作り上げる基盤となった。

7 転換期の文学

1.文学の継承

師承ということ

14世紀頃から、文学的な直接の師弟関係がかなりはっきりとわかるなるようになる。

兼好や頓阿の時代以降、まず、今川了俊いまがわりょうしゅん(1326-1414頃)

九州探題に任じられた武将であるが、歌人としても優れ、冷泉為秀に学んだ。冷泉家は、二条家と同じく藤原定家の血脈を受け継ぐ和歌の名門。

主な著作 歌道教訓書『了俊弁要抄りょうしゅんべんようしょう』、『了俊歌学書りょうしゅんかがくしょ』『落書露顕らくしょろけん

正徹(1381-1459) 了俊に和歌を学び、室町時代を代表する優れた歌人。歌論書『正徹物語』
心敬しんけい(1406-75) 正徹の弟子。
東常縁とうのつねより(1401-84) 〃
宗祇そうぎ(1421-1502) 常縁から古今伝授を受け、心敬からは連歌を学んだ。一条兼良からも、『伊勢物語』や『源氏物語』などの古典学や有職故実などを学んだ。

正徹による中世文学の集約

正徹は、歌論書『正徹物語』の冒頭で、歌道に生きるものの心得として、「この道にて、定家を蔑せむ者は、冥加も有るべからず。罰を蒙るべきことなり」と述べている。歌人は定家一筋に学ばなくてはならず、そうしないと、必ずや罰を受ける事になる、というのである。それくらい強く確信して、藤原定家の歌がすべてだと、正徹は考えている。しかしその直感とも言えるような確信は、膨大な読書体験と永年の試行錯誤の結果でもある。

師承ししょう」とは、過去の偉大な文学者との心の交流が生まれることである。この師承をさらに確実に形にすべく、二人の文学者が師と弟子として向かい合い、「文学の本質」を継承する儀式こそが、「古今伝授」なのだ。

「古今伝授」に連なる中世後期の文化人たちは、揃って『源氏物語』や『伊勢物語』の重要な注釈書を残している。「古今伝授」は、和歌だけでなく王朝物語のエッセンスの伝授をも目指していた。

細川幽斎と古今伝授

その中で、『明星抄みょうじょうしょう』を著した三条西公枝から「古今伝授」を受けたのが、細川幽斎(1534-1610)である。幽斎は、藤原定家から流れ始めた中世の和歌文化と物語文化を、総合して受け継いだ。言い換えれば、幽斎は古典文化全体の体現者だった。幽斎は、足利将軍家・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。戦国時代から徳川時代まで、権力の中枢にあって、戦乱の時代を生き抜き、熊本藩54万石の基礎を築いた武将である。彼は卓越した文化人でもあった。

幽斎の場合は、その時々の権力者との関わりの中で、文学的な教養が大いにプラスに作用した。豊臣秀吉の和歌や古典の師匠として多くの逸話を残している。秀吉の死後、「古今伝授」の存在を天下に知らしめる出来事が起こった。慶長五年(1600)の関が原の合戦の前夜、徳川家康の東軍に属し、居城である田辺城(現。京都府舞鶴市)に籠城する幽斎を、西軍の石田三成の軍勢が包囲した。この時、「古今伝授」を絶やさないため、後陽成天皇の勅命で、和議が結ばれたのである。

これが示すように、文学は政治と密接に結びついていた。文学の力は、政治を動かすまでに大きかった。この時代頃から、貴族以外の人々の中からも、一生を文学に賭ける人々が現れる。

幽斎の教養は測り知れなく、室町時代までに蓄積された古典学(古典文学の註釈研究)は、膨大な量にのぼっていたが、それを整理して集大成して、時代に手渡したのが幽斎である。家集『衆妙集』、紀行文『九州道きゅうしゅうみち』がある。学問の集大成としては、『伊勢物語』の注釈書の金字塔である『伊勢物語闕疑抄けつぎしょう』がある。また中院通勝なかのいんみちかつ(1556-1610)に古今伝授を授け、資料を提供し、助言も与え、中世源氏学の集大成『岷江入楚みんごうにっそ』がある。

3.中世から近世へ

松永貞徳の功績

松永貞徳(1571-1653)は、細川幽斎から古今伝授を受けた文化人。「地下伝授」の水路を開き、古典文学の教えを庶民に広げる役割を果たした。貞徳が書いた『戴恩記』は、彼の学問の師匠たちを回想しているが、その数は50数人にも上る。

北村季吟の歌学拝命と註釈書の刊行

松永貞徳の弟子 野々口立圃(1595-1669) 『源氏物語』のダイジェストである『十帖源氏』『おさな源氏』。貞徳の周囲で、註釈と本文を合体させた『首書源氏物語』、挿絵入りの『絵入源氏物語』

北村季吟(1624-1705) 貞徳の弟子 『源氏物語』を広く一般に解き放った注釈書『源氏物語湖月抄』。幕府の歌学方に抜擢され、66歳で京都から江戸へ出て、82歳で没するまで江戸で暮らす。

北村季吟の文化的業績としては、『増山井』における知識の集約。かなりの頻度で、一条兼良の『公事根源くじこんげん』『世諺問答せげんもんどう』の書名を挙げながら、季語、とくに年中行事の解説を書いている。これを読めば、江戸時代の人々は王朝時代以来の宮廷文化の一端に触れることができる。文化・文学の蓄積が、15世紀の一条兼良によって総合され、季吟の選択眼によって時代を超えて当時の社会に十分に機能する項目が選び取られたので、『公事根源くじこんげん』『世諺問答せげんもんどう』が忘れ去られることはなかった。

文学が大きく変わる時

日本文学の流れ

室町時代、特に後半 それ以前の文学が集大成され、大きく変容した転換期

近世 貴族階級から武士出身者へ、文学の担い手が変わった