概 要 | ||
2.排日運動と中国政府の思惑第二次大戦が終わり、中国共産党が国共内戦に勝利し、中華人民共和国を樹立した初期は、現在の反日、仇日とは違い、かつての中国人はジャパン・バッシングをする必要がなかったのです。むしろ、ジャパン・ナッシングの時代でした。黄文雄氏は「無日時代」と呼んでいます。 革命後の中国は、「世界革命、人類開放」、そして「国家死滅」を目指して、中国人が最も自信に満ち溢れた時代でした。みずから「開放」された人間という自家を持つ、はつらつとした時代だったのです。「15年以内にイギリスに追いつき、二十世紀以内にアメリカに追いつく」と、中国自身が言っていたことからも、自信のほどが分かるでしょう。日本の進歩的文化人や、エリートといわれる人々もこれを信じ、中国をあこがれの国、理想の国として、「蚊もハエもネズミも泥棒もいない地上の楽園」だと思っていました。 しかし実際、この頃の中国は、チベットに対しては「農奴解放」、朝鮮戦争では義勇軍の派遣、ベトナム戦争にもカンボジア内戦にも支援し、世界各国に革命を輸出するために狂奔していた時代でした。こうした自信溢れる時代の中国人は、反日どころか、「搾取されている日本人」に同情し、共通の敵としての米帝や、その走狗たる日本の自民党反動派の打倒に闘志を燃やし、やがて日本の「圧迫された人々を解放する」と意気込んでいました。 しかし、その予想に反して、日本は敗戦の廃墟から這い上がりました。日本は知らず知らずのうちに、いつしか世界有数の経済大国になってしまいました。それは中国人にとっては、想像を超えたことでした。そして、中国にとって日本の成長を脅威と感じるようになっていきました。 3.親日から反日へ急転した中国戦後の中華人民共和国からしばらくは、中国は夢と希望に燃えた時代であり、中華思想が完全燃焼する時代でした。人々は「世界革命、人類開放、国家死滅」の「歴史的使命感」に燃え、「東風が西風を圧倒する」と信じて疑いませんでした。しかし、社会主義、ことに大躍進(1958~毛沢東の高度経済成長政策)は失敗し、文化大革命(1966~1977年)も単なる「十年動乱」でしかなかったという惨めな結果に終わりました。 1970年代末から改革開放路線に転換すると、社会主義のイデオロギーに代わって愛国主義と大中華民族主義の運動が共産党の一党独裁を支えました。これが今日の「反日」の時代的背景です。しかし、胡耀邦総書記によって類例を見ない時代もありました。胡耀邦は中国共産党の指導者のなかではきわめて稀な明るい性格で、陰険にして風見鶏の周恩来とは対照的なもっとも互恵的、真摯で夢に溢れた時代でした。 この頃の中国は「四つの近代化」(農業、工業、国防、科学技術の現代化)を推し進めるため、どうしても日本からの投資や借款などの援助が必要でした。また、1979年1月に日中の国交が樹立され、日中友好は日米友好とアジア太平洋地域における国際関係の機軸の一環として捉えられていました。 1983年、訪日した胡耀邦はNHKテレビで「未来は日中青年の友好にかかっている」として、三千人の日本青年を中国に招待する意向を表明しました。翌年この案は実行に移され、北京では日中青年大交流の儀式が盛大に行われたのでした。 1989年の天安門事件以降の社会主義体制の危機と、江沢民政権の登場によって、中国は「反日」「敵日」「侮日」ムードへと急転直下していきました。天安門事件は、中国の指導者たちにとって改革開放以来最大の危機でした。世界のメディアが注目するなか、無防備な民主派の学生や民衆に対し、あえて人民解放軍を出動させ弾圧させたのも、彼らの危機意識の表れでした。 江沢民は毛沢東や鄧小平などの第一、第二世代とは違い、革命指導者としての権威はありませんでした。 5.日本に対して優越性を主張したい韓国中国人が日本についてよく言うのは、中国人は南から北から、あるいは半島を経由して日本に渡り、にほんを建国したのは徐福だということです。それを裏付けるために、さまざまな古典まで引用して、そう主張する中国人は少なくありません。 文化についても、日本には文化がなかったが、中国が文化を教えてやったといったという話をよく聞きます。 しかし実際はどうでしょうか。中国人だけでなく、韓国人もこの手の話は大好きですが、日本の文化が中国文化やその亜流といわれる韓国文化から、日本が多大な影響を受けたのはたしかです。古代から百済、新羅、高句麗、伽耶などから日本に伝わったものは、半島で熟成されて土着化したものであり、日本はそれでは満足できませんでした。日本人は大陸から受容し、独自の工夫を施しされに独自の文化として発展させてきました。 それは白村江の戦いの時代、百済から日本の救援を受けた頃から、半島はすでに海の向こうに強い倭人がいることは知られていました。 朝鮮半島は中国と日本を脅威に感じてきた「恐日」の歴史であるため、日本を文化的に蔑視する「蔑日」をしなければ、優越感が維持できないのです。 朝鮮の事大主義(小国が礼をもって大国に仕える)がもっとも動揺した時代は、日本の開国維新からです。清国への忠誠心があまりにも強かったがゆえに、時代の変化に乗り遅れてしまい、余計に鎖国と事大主義路線を放棄することができなかったのです。 李光洙は、この漢民族の族性を、「空理空論、阿諛迎合(あゆげいごう)、面従後背(めんじゅうこうげん)、大勢従応」と表現しました。また、朴正煕元大統領も「事大主義」は、後世の子々孫々に至るまで悪影響を及ぼす民族的罪悪史だと指摘したことがあります。 6.韓国が克服すべき問題とは日帝36年以後は、南北がそれぞれ米ソに事大を合わせました。しかし、米ソの支えがなかったら、韓国も北朝鮮も国をつくることができなかったのでしょうか。 朴正煕元大統領は、自著『漢民族の進むべき道』(1970)のなかで、韓国人の「自立精神の欠如」「民族愛の欠如」「開拓精神の欠如」「退廃した国民道徳」を指摘、自己批判をしました。
彼は、今のハングル世代の韓国人が持つ唯我独尊とは違い、リーダーとしての立派な人物です。彼の独裁者に似合わず社会・政治の改革者としての存在は、韓国史上のモデルとなるでしょう。しかし、韓国では売国奴として糾弾されたまま、今日に至っています。事大主義は、韓国人の宿命であり生き方である以上、韓国人はそれをきよく認めるべきだと言っているに過ぎません。一千年の事大という史実を、恫喝によって否定すべきではないということを、論証したいだけです。独善的な史観を、誰彼構わず押しつけて、謝罪や反省を強要するなど、そうした事大主義はもってのほかだからです。 韓国人が「主体(チュチュ)思想」を強調し、いくら古事記や日本書紀に記された半島の記録などから歴史の自律性を新しい史書や教科書などで吹聴しても、せいぜい半島内でしか通用しないのです。 征明(朝鮮征伐)の英雄李舜臣や伊藤博文暗殺での安重根は、朝鮮半島で最も尊敬されている民族英雄といわれますが、彼らの思想は単に「反日」「抵抗」のみで、他律的で朝鮮の創造とはほど遠いのです。歴史を創出するアジアに名を残す英雄が一人くらい語られてもいいものです。 北朝鮮のように「チュチュ」の強調が、独立自尊、主体性を強調すればするほど思想は硬直化し、融通がきかなくなり、結果として国際的に孤立すろのです。中国とロシア・東は日本とアメリカに挟まれた半島は、脅威(コンプレックス)と事大(プライド)から逃れる日こそ、世界に誇れる国家となれる時です。 8.慰安婦問題と南京事件の真実を検証する1927年、蒋介石の北伐軍による南京占領にともなって発生した、外国領事館と居留民に対する暴虐事件。城内に英・米両軍の砲撃事件を誘発した(「南京暴動」、「第一次南京事件(扶桑社発行の教科書)」と記述される)。南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)は、日中戦争(当時は日本側は支那事変と呼んだ)初期の1937年(昭和12年)に日中間で行われた南京攻略戦後、日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間 – 2ヶ月にわたって多数の中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵(民間人に扮したゲリラ兵)及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件。日本では南京攻略戦といいます。 1971年まで、「南京大虐殺」は、東京裁判において日本と世界に大きな衝撃を与えたが、それ以降、日中戦争を取り上げた研究などでは触れられるものの、世間で注目をあびる問題ではなかった。再び注目を集めるきっかけとなったのは、日中国交樹立直前の1971年(昭和46年)8月末より朝日新聞紙上に掲載された本多勝一記者の『中国の旅』という連載記事である。南京を含む中国各地での日本軍の残虐行為が精細に描写された記事であったが、この記事で当時「百人斬り競争」が大々的に報道されていたことが取り上げられた時、“百人斬りは虚構である”という主張から論争は始まった。 虐殺の根拠とする史料には、埋葬記録が水増しされているなど捏造の疑いがある。政治宣伝でしかないものがある。矛盾した被・加害者証言や写真記録などがあり、またその史料解釈が恣意的であるとしている。実際、朝日新聞(S59年8月4日大阪版夕刊)が「南京大虐殺の証拠写真」として掲載した生首写真が、中国軍が馬賊の首を切り落とした写真であることが判明して謝罪記事を書いたり、南京市にある南京大虐殺記念館が南京事件と無関係であると指摘された写真3枚をH20になって撤去するなど、確かに信憑性の疑わしい資料があり、そもそも南京大虐殺が史実であるのならば、なぜ捏造資料が必要なのかという声もある。 否定説は、東中野氏は、南京大虐殺を肯定する立場から記述されている書物等で掲載されている写真が捏造されたものであったと主張する。その上で、”南京大虐殺の証拠写真はすべて捏造である”と主張している。これについては南京大虐殺関連の写真を検証してきた「プロパガンダ写真研究所」も数多くの証拠写真を捏造写真と指摘している。 東京裁判における「ベイツ博士」の証言を見ると良く分かります。ベイツ博士は、1937年12月の南京陥落時は南京大学(金陵大学)歴史学の教授でした。当初から国際安全区委員会の設立に係わり、1938年の3月からはスマイス博士とともに戦争被害調査を行っています。ベイツ教授は1938年に「戦争とはなにか-日本軍の暴虐」という反日宣伝本を作成するのですが、その態度は公平なものではなく「日本叩きを目的」としたものだったようです。同書の編集者である「テインパレー」に対し上海方面での日本軍の行った残虐事件を取材するように指示を出していることからもその思想が判明します。 当時の資料からベイツ博士は「南京事件の規模を約4万」と認識していたことは明らかになっていますが、東京裁判では検察側主張に合わせて少し妙な発言をしています。国民政府が、ティンパーリーやベイツなど外国人に依頼し、大虐殺を捏造したと主張する。その根拠として、台湾で発見したとする『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』(1941年)やアメリカのイェール大学で発見したとする新聞記事の切り抜きを挙げる。「当時南京に進軍した日本軍の武器弾薬の質・量などを検討すると、虐殺を実行するには極めて困難になる」「大虐殺に要する時間、労力。虐殺が市外に及ぶならその範囲を考えると、大虐殺を行う合理性はおろか余力もないし、日本軍の利益になることはない」と主張する。また「30万人もの虐殺があったとして、およそ18,000トンにおよぶ膨大な量の遺体はどこに消えてしまったのか」との疑問にも肯定説は答えていないとする。 肯定説は、南京に進軍した日本軍が総勢20万人近くいること、各兵士が銃剣や銃弾を持っていることを考えるならば、大量の殺害は可能である。また、たとえ計画性が無くても、竹やりや素手でも大量虐殺は可能だと主張している。遺体については、遺体を揚子江に流すという手段を指摘している。東京裁判では遺体15万以上が慈善団体により埋葬されたとなっているので矛盾する。「中国はプロパガンダが巧みであり、欧米の国際世論を味方につけようと暗躍していた」としており、「南京事件は南京陥落後に中国政府が国際連盟で「南京で2万人の虐殺と数千の暴行があった」と演説したのが最初だが国際社会からは真剣に受け止められず非難決議もなかった。それが東京裁判で30万という数字に一気に飛躍したため一時注目を浴びたが、日中友好ムードであった1970 – 1980年代は全く沈静化していた。しかし、六四天安門事件以降の江沢民政権で大々的に再び宣伝活動に利用され、対日批判プロパガンダのネタとして日本政府から外交上譲歩を引き出すカードとして利用され続けている。」と主張している。また、反日愛国教育により一次資料の公開や検証のないまま大々的に南京大虐殺が喧伝されるようになり、現に南京に建設された大屠殺記念館では30万であるが現在では中国の主張する犠牲者数は40万人以上と10万人も増加しており、年を追うごとに増加する事は異常であり、一次資料の未公開や未検証、写真の捏造問題とも相まって南京大虐殺の信憑性を疑問視する傾向にさらに拍車をかけていると主張している。 虐殺否定論というのは、南京で日本軍兵士の犯罪が一件もなかったとか、中国兵の処刑が一件もなかったという主張ではなく、中国側主張の”軍事行動とは無関係に数十万市民を殺害した”という事件の存在を否定しているのです。それが「虐殺か、合法か」という議論があることは否定するものではありません。戦争状態において中国兵に対する処刑が行われたことについては事実ですから、否定派(まぼろし派~中間派・4-5万説)でこれらをまったくなかった、と否定している研究者はいません。東京裁判での弁護側の主張も、犯罪がまったく無かったという主張ではなく、中国側の主張は過大であり、大部分の事件は中国側の敗残兵が行なったものではないか? という主張をしています。 「慰安婦問題と南京事件の真実を検証する会」は、民主党内の保守系議員連盟。2007年3月に設立。 また、慰安婦問題と共に南京事件に関しても真実の検証を呼びかけており、定期的に勉強会を開いている。南京事件(南京大虐殺)に関するドキュメンタリー映画「南京の真実」にもこの会から多くの賛同者が出ている。 8.占領支配が消し去った歴史西尾幹二氏は、私は高校生の頃までに受けた教育で、満州事変以後の日本の暴走という観念を植え付けられてきました。今の子どもたちにも学校の歴史教育でずっと同じ植え付けが行われています。一般読書で読まれている昭和史の類もやはり、戦争の原因を短い時間尺度の中に閉じこめるこの観念で書かれています。 これは明らかに政治的意図がある、と私は考えます。占領政策には日本を二度とアメリカに立ち向かえない国にするという目的がありました。一方的に日本に戦争の罪を着せようとするならば、歴史を短く区切って教えた方がいいに決まっています。なぜならば、遠く長い歴史の繋がりを持ち出すと、欧米諸国が四、五百年前から地球上で起こしてきたさまざまな侵略の考慮に入れなければならくなるからです。 日本においていちばん近い国は、中国・韓国・北朝鮮。同じアジアで漢字を使用し、古来から深く関わりを持ってきた国家ですが、それぞれ歴史感の問題などまだまだ多くの問題があります。 人間は長い歴史の中で、国家や民族の利害の衝突から、絶え間なく戦争を繰り返してきました。そこで、戦争のやり方を国際的に取り決めたルールの制約のもとに置こうとする知恵が生まれました。このルールを戦時国際法といいます。1907年にオランダのハーグで締結されたハーグ陸戦法規は、その代表例です。 戦時国際法では、戦闘員以外の民間人を殺傷したり、捕虜となった敵国の兵士を虐待することは、戦争犯罪として禁止されました。一方、軍服を着ていない者に武器を持たせたり戦闘に参加させることは禁じられ、それを捕らえた側にはスパイやゲリラとして処刑することも認められていました。しかし、二つの世界大戦を通じて、これらのルールはしばしば破られました。実際には、戦争で、非武装の人々だけに対する殺害や虐待を一切しなかった国はありませんでした。日本軍も、戦争中に侵攻した地域で、捕虜となった敵国の兵士や非武装の民間人に対しての不当な殺害や虐待をおこなって多大な惨禍を残しています 国際政治学、国際関係史、文明史の中西輝政氏はこのように書いています。 良く近代史の書き換えということが言われますが、そもそも、まだ本当の意味で「書かれた歴史」というものはないのです。従って「書き換え」ということもあり得ないわけです。少なくとも、二十世紀の戦争や第二次大戦をめぐる歴史は、本当は今ようやく書かれ始めている時期を迎えているのです。 歴史は資料によって書かれるものです。「近現代史」といわれるものについては、その重要な資料は各国の政府が作成した公文書ということになります。しかしどの交戦国の政府も、戦争ではみな当事者ですから、自国に不利になるような文書の公開は可能な限り先に延ばそうとします。先の戦間期のフランスや日本、ドイツのように外国部隊に占領され押収されない限り、容易には自国の国益んい大きなマイナスとなる資料の公開はしないものなのです。 戦勝国というのは、自国に有利な戦後の国際秩序(その中には当然、歴史観も含まれる)を、どれほど必死になって守ろうとするのか、そのためには、いかに手の込んだ工作やトリックを使うものであるか、ということが如実にわかるのです。空爆・原子爆弾投下とシベリア抑留一方、第二次世界大戦末期には、アメリカが東京大空襲をはじめとする日本やドイツの多数の都市への無差別爆撃を行い、広島と長崎には原爆を投下し民間人を無差別に殺しました。また、ソ連は日本の降伏後、日ソ中立条約を破って満州や南樺太および千島列島に侵入し、日本の民間人に対する略奪、暴行、殺害を繰り返しました。そして、日本兵の捕虜を含む約60万人の日本人をシベリアに連行して、苛酷な労働に従事させ、およそ1割を死亡させました。 二つの全体主義の犠牲者 ナチスドイツは、第二次世界大戦中、ユダヤ人の大量虐殺を行いました。これはナチスドイツが国家として計画的に実行した犯罪で、戦争にともなう殺傷ではありません。ナチスはまた、自国の障害者や病人を注射などで薬殺し、ジプシーと呼ばれた移動生活者も大量に殺害しました。しかし、戦前からヨーロッパのどの国でもユダヤ人を迫害していました。日本は日露戦争の際にユダヤ人が高額の戦争資金を調達してくれたこともありますが、ポーランドやシベリアのユダヤ難民を助けています。 共産党の一党独裁体制が確立したスターリン支配下のソ連では、富農撲滅の名のもとに、多数の農民が処刑され、また餓死させられました。共産党の幹部の粛清も繰り返され、多くの政治犯とその家族が強制収容所に送られましたが、ほとんどは生きて戻りませんでした。 二つの世界大戦は各国に大きな被害をもたらしましたが、そればかりでなく、ファシズムと共産主義が、戦争とは異なる国家の犯罪として、膨大な犠牲者を出したことも忘れてはなりません。 高山正之氏(元産経新聞ロサンゼルス支局長など)は、欧米のアジア植民地支配のポイントは愚民化政策だったといいます。知恵は白人のもので植民地の民のものではありませんでした。近代化の目覚めを奪うために、ただ伝統と文化を重んじさせました。インドを支配していたイギリスは、衰退気味だったヒンズー教を復興させ、イスラム系やさらに別シーク派の人たちを同じ政治区分に住まわせることで、四億の民が宗教で対立して争っている限り、団結して宗主国イギリスに抵抗する事態を避けさせました。 しかしヒンズー教の復活はこの宗教が内包するカーストも甦らせてしまいました。李氏朝鮮は両班(ヤンバン)以下四つの身分を据えただけで深刻な停滞を招いた事を考えれば、一口に130といわれるカーストがどれほどインド社会を縛ってきたかは想像に難くありません。同じように地方言語も尊重させた結果、現在の紙幣に16種の言葉が書かれているように、インドは共通の母国語を持つ機会を完全に失ってしまいました。 共通語がなければ国家意識も連帯感も希薄になります。宗教と言語。この二つの分団の結果、イギリスはたった二千人の文官だけで四億人のインドを支配できたのです。オランダが350年支配したインドネシアも共通語を持っていませんでしたが、趣旨は同じです。 しかしインドネシアからオランダを追った日本はジャワ語を共通語に採用し、学校を作ってたった三年で定着させました。共通語が連帯意識と祖国愛を育むことは、終戦後帰ってきた宗主国オランダと四年間も戦い抜き独立を果たした事実によって見事に証明されます。 インドに次いでビルマ(ミャンマー)を支配したイギリスは、単一宗教単一民族の国を国王をインドに追い出して、インド人、華僑を送り込み、山岳民族をキリスト教化して軍、警察など治安機関に据えました。一瞬にして他民族他宗教国に変貌し、この国のビルマ族は農奴にまで落とされました。 フランスの仏領インドシナ(ベトナム)もビルマ式に倣っています。まず皇帝をアルジェリアに流して国民の心の支えを抜き、次ぐに華僑を大量に入れて代理支配させました。イギリスのアヘン貿易をうらやましく感じていたのでアヘン専売公社を設立。ハーグ条約で売買が禁止されても販売を続けました。コーヒーの強制栽培も収益を上げましたが、最大の収入源は徴税でした。人頭税、葬式税、結婚税など思いつく限りの税が課せられ、滞納すれば即刑務所行きでした。そのために「学校よりも多くの刑務所が建てられた」という仏女性記者A・ビオリスの報告書にあります。 アメリカ軍がハワイを占領する際に多くのハワイ国王や原住民を迫害し、日本との戦争が勃発すると強制的に併合しました。アメリカのフィリピン植民地化は経済的搾取を基本とする欧州諸国とは違ってアジア進出の足掛かりという戦略的政治的意図からでした。反対するフィリピン民族軍を徹底的に叩き、拠点であったパタンガスは焼き払われ数万人が餓死しました。米兵が殺された報復にレイテ、サマール両島の住民は皆殺しにされました。イギリスが印度で捕虜でありながら大砲の前に吊して吹き飛ばして見せました。それらは白人に逆らえば残忍な報復があることを植民地の民に刷り込み、恐怖で押さえ込む植民地統治法のひとつです。 そんなアジア諸国の民に大きな衝撃を与えたのが日露戦争だったと、ミャンマーのヤンゴン大タット・タン教授はいいます。 中西輝政氏は、こう記しています。 第二次大戦については戦勝国側の重要資料が、未だ十分に公開されているとはいえません。ソ連崩壊によってこの十年、大戦期のソ連に関する公文書資料がほんの少しですが公開されました。その中からいくつもの驚くべき新事実が明らかになりました。 たとえば1938(昭和13)年の日ソ間で起こった「張鼓峰事件」については明らかにソ連側が仕掛けた戦いで、日本は純然たる被害者だったことが新たに分かったのです。しかし東京裁判では、これも「日本の侵略」として断罪されており関係者の処罰も行われました。また数年前に公開された旧ソ連軍の資料からは、戦後ずっと「日本側の一方的敗北」とされてきたノモンハン事件では、実はソ連側の方がはるかに大きな損害を被っていたことも明らかになりました。 そして言うまでもありませんが、現在の中国はほとんどといってよいほど資料公開をしていません。もし旧ソ連のように中国共産党体制が崩壊したときは、日中戦争についてどれほどの新事実が出てくるか、まだまだ闇の中と言わねばなりません。 情報公開に熱心なはずのアメリカやイギリスについても、ドイツの場合と比べ、なぜか日本が関わる戦争についての資料を、長く秘匿しています。たとえば、1928年の張作霖爆殺事件について、当時のイギリスの資料の中に、ソ連の関与の可能性に触れたものがあるのですが、それさえも2007年まで非公開とされてきました。1979年から90年まで足かけ12年をかけてイギリス政府の特別許可を得て、膨大な非公開文書をもとに書かれた『第二次大戦におけるイギリスの諜報活動』(全五巻)は、ドイツと米英の戦いについては、きわめて多くの新事実を明らかにしていますが、日本に関わるものについてはほとんど触れていません。同書の編集代表であったケンブリッジ大学のヒンズリー教授は、何度も「対日戦については触れてはならない、とアメリカ強く申し入れてきている。アメリカはどうして日本をもっと信用しないのか、私にはわからない」と語っています。 おそらく真珠湾関係の秘密やその他、多くの対日諜報活動が明らかになるのを恐れたのでしょう。しかしなぜ日本に対してだけ、それほど恐れるのか不可解というしかありません。またアメリカ政府は対日占領政策についても未だに大量の文書を非公開扱いにしると言われています。 いずれにしても、今後、日本の近現代史について、戦勝国側の資料公開について日本人はもっと強い関心を向けなければなりません。今ようやく初めて本来の歴史が書かれる時代を迎えており、しかもこの機会を逃すと、永遠に闇に葬られることがずい分多いと思われるからです。 皇国史観とは、日本の歴史を天皇中心に捉え、万世一系の天皇家が日本に君臨することは神勅に基づく永遠の正義であり、天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値であるとする価値判断を伴った歴史観そうした天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値だとする歴史観。 南北朝時代に南朝の北畠親房の『神皇正統記』がその先駆例とされ、江戸時代の水戸学や国学、幕末の尊王攘夷運動によって思想的・政治的影響力が強まり、明治維新後、政治体制によって正統な歴史観として確立した(現実の天皇家は北朝の流れであり、北朝の天皇の祭祀も行っていた)。 しかし、当初祭政一致を掲げていた明治政府は、近代国家を目指して政教分離・信教の自由を建前に学問の自由を尊重する方向に政策転換し、明治十年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。 しかし明治24年(1891年)東京帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。このような変化は、神道内においては伊勢派が出雲派を放逐したことと軌を一にする。その後大正デモクラシーの高まりを受けて歴史学にも再び自由な言論が活発になり、マルクス主義の唯物史観に基づく歴史書も出版されたが、社会主義運動の高まりと共に統制も強化された。世界恐慌を経て軍国主義が台頭するに及び、昭和10年(1935年)、憲法学者美濃部達吉の天皇機関説が学会では主流であったにも拘らず問題視されて発禁処分となり、昭和15年(1940年)には歴史学者津田左右吉の記紀神話への批判が問題となり著作が発禁処分となった。一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となった。19世紀末から1945年の終戦まで、学校で用いる歴史教科書は日本神話に始まり天皇家を中心にした出来事を述べ、歴史上の人物や民衆を、皇室に対する順逆によって賞賛あるいは筆誅を加える史観によって記述していた。(国定教科書)戦後は、思想、信条の自由が保障されると、戦前は取り締まりの対象であったマルクス主義の唯物史観が興隆する。これにより、皇国史観下ではタブー視されていた古代史や考古学の研究が大いに進展した。これら戦後の歴史学は一般的に「戦後史学」と呼ばれ、こうした戦後民主主義の流れの中で、皇国史観も衰退することとなった。 ところが、『産経新聞』紙上で連載された「教科書が教えない歴史」の反響から執筆者達によって作られた新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)は戦後民主主義教育について、近代の戦争と植民地支配への反省を過度に強調する歴史教科書は歴史認識を誤認させ、敗戦を節目として神話時代から続いている日本の伝統ある歴史を貶める「自虐史観」(東京裁判史観)または「暗黒史観」であるとして、つくる会による『新しい歴史教科書』が作られた。2001年に文部科学省の教科用図書検定に合格し、2002年から一部の中学校などで使用されている。これは戦時体制下で過度に利用されたが、皇国史観それ自体は極度に否定されるものではなく、長い日本の歴史の歩みの中で国民に継承されてきた伝統、文化的な価値観として肯定的に評価するものである。 自虐史観(じぎゃくしかん)とは、第二次世界大戦後の日本の歴史学界において主流であった歴史観を「自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価する歴史観」であるとの評価を持たせて表現する場合に用いられる呼称である。自由主義史観研究会を主宰した藤岡信勝によって唱えられた。 第二次世界大戦敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による統制の下で、歴史学界や教育界(学校教育の現場、日本教職員組合(日教組)に入っている教師ほか)などでは「なぜ敗戦に至ったのか」という視点から過去への反省がなされ、戦前の日本国民の価値観は徹底的に覆される事になった。アメリカに比べて日本の近代化の遅れ、民主主義の未成熟などが問題とされることが多かった。また、皇国史観が歴史学研究に影響を及ぼし、その発展が阻害されたという反省からマルクス主義の影響を強く受けた歴史研究が主流となった。 これに対して、自由主義史観は、藤岡信勝・東大教授(当時)の唱えた歴史検証法。歴史を動かす要因として「人物」を重視し、「『偉大な人物』が歴史を切り開く」との歴史観に立っている。 欧米諸国が西から津波のように押し寄せ、アメリカが太平洋を東南から駆け上がってきます。北からはソ連が迫ってきます。そういう直接的な脅威を感じ、断固日本人のサムライの気風が立ち向かったのがわが国の近現代史で、中国大陸との関係も満州事変以後というような短い時間尺度で見るべきではないでしょう。清朝の時代は、中国史の中でも比較的に良い時代なのですが、それでも内乱と疫病、森の消滅と巨大水害、いなごの害など数千万単位の餓死者を出し続けた不幸な国土でした。強盗団がはびこる無法社会で、幕府治世下の法治国家を生きていた日本人が明治になっていきなり接触するにはあまりに放埒すぎました。人類史上最大の内乱といわれる太平天国の乱は十~十五年も続き、人口四億のうち五千万から八千万もの死者が出ました。中華民国になってからも内乱はやみません。中国はそのころまだ国家ではないのです。 中国の内乱に介入すべきではありませんでした。清朝末期から国民党と中国共産党の殺し合いを経て、文化大革命に至るまで内乱の連続で、皇帝や政権が代わるたびに何百万人を虐殺してきた歴史があり、最近でもチベット、ウイグル、内モンゴルなど、統一といって侵略によって民族を抹殺してきた歴史があり、天安門事件や農村での土地問題によって自国民でさえも民主化運動や共産党の意に添わない者は虐殺を繰り返しています。日本の文明とは異質な大陸の長い歴史に、過去のほんの一時期巻き込まれたに過ぎないのです。 ちょうど同時期に、ドイツとの戦争を始めたソ連とイギリスはそれぞれ異なる動機から、大陸に介入した日本の戦火の拡大を期待し、謀略の限りを尽くします。ソ連は日本の北進を防ぐ必要がありました。イギリスは欧州戦線にアメリカを引き込むために、中国に好意と野心を持つアメリカの反日感情を可能な限り刺激する必要がありました。イギリスとアメリカは連合して蒋介石を支援し、ソ連はルーズベルト政権の中枢にコミンテルンのスパイを送り込むことに成功しました。それらに対して日本の政治と外交の受け身の弱さでした。国際政治の修羅場で国益を守るため粘り腰でしたたかに自己主張する強さの欠如です。 満州事変以後、日本が大陸で展開したとされる国家悪など、世界史的に見れば何ほどのことでもありませんが、戦前に「侵略」という文字は欧米にのみ与えられていました。例えば『英国の世界侵略史』『白人の南洋侵略史』『米国東亜侵略史』『露西亜帝国満州侵略史』『米英東亜侵略史』『印度侵略非史』『西洋文化の支那侵略史』など数え切れぬ本がGHQによって没収、廃棄処分(焚書)されてしまいましたが、これらを見れば欧米諸国が「侵略」した側であって、それ以外ではありません。ところがいつのまにか侵略したのは日本だということにされてしまっています。 「侵略」や「天皇制」「皇国史観」も戦前は使われていません。「天皇制」はコミンテルンの指令書に出てくる「君主制」の訳語で、打倒のための革命用語が戦後に流布したものだそうです。戦前の日本人はこんな冷たく無礼な言葉を用いるはずがなく、「皇室」といっていました。戦後の占領支配は戦前まであった日本人の世界史を長い時間で計る目を消し去りました。日露戦争後に日本が取り込まれた英米の金融資本主義の罠、ユダヤ人の暗躍、コミンテルンの陰謀など。これらすべてを歴史として描くべきです。近現代史を、日本の軍部の行動と国内政治だけを描くような歴史なら子どもたちにむしろ教えない方がよいと思います。一方の資料だけを見て、本当の意味が分かるはずはないのです。 アジア圏は欧米諸国に植民地化されていた歴史を持ち、日本がこの体制を解放する立場なのか、それとも新たな支配者として居座ることを目差したものかという、相反する見方があるのは当然です。 たとえば、台湾現総督の馬英九氏は、国民党主席就任後の2005年8月には、「南京大虐殺や尖閣諸島での日本の言動は、大陸、台湾双方の人々の心を逆なでする」、「国民党は将来、尖閣諸島の問題解決に注力する。私は尖閣諸島についての専門的知識を持っている」 と発言し、また、日本の植民地統治にも厳しい態度をとっています。 われわれは、歴史のなかで過去を葬り消すことはできないし、客観的な史実と研究を行いつつ、国家のために政治的に利用するのではなく、学びながら相互の発展につなげていかなければならないと思います。引用:『靖国問題と中国』岡崎久彦引用:『中国・韓国反日歴史教育の暴走』黄文雄(台湾出身。早稲田大学商学部卒、明治大学大学院卒、拓殖大学日本文化研究所客員教授、評論家) 参考:『日本人の歴史教科書』自由社出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 南部の三韓(馬韓、辰韓、弁韓)は、馬韓諸国のなかの伯済が百済に、辰韓諸国の斯盧(しろ、サロ)が新羅(シラギ)となり、弁韓諸国は統一した政権を形作ることなく伽耶諸国となりました。伽耶諸国はその時々の状態から「六伽耶」「浦上八国」「任那十国」などという名でも記され、その領域の所有を巡って百済と新羅とが争いましたが、最終的には6世紀中頃に新羅に吸収されました。(済州島の独立国時代)は、5世紀末に百済に服属し、百済が滅びた後は新羅に服属しました。 日本は飛鳥・奈良時代(7~8世紀)に、「新羅=天敵」、「百済=同盟」、「加羅(任那)=植民地」という史観で『日本書紀』をつくりあげました。その結果、「朝鮮半島南部(加羅)は日本の領土だった」というイメージが形成され、戦前の朝鮮併合の大義名分にもなったうえに、現在でも「飛鳥時代以前、日本は朝鮮南部を支配し続けていた」と思っている人は多いそうです。 しかし、近年、日韓の遺跡から見つかった遺物の研究によって、極めて流動的だったという歴史が明らかにされています。 卑弥呼の時代でもある3世紀を境に、加羅との窓口となる日本側の勢力が、それまでの北部九州から畿内へと変わります。この時点でヤマト王権が外交を掌握したことになります。 371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこともあるが、その後は高句麗の広開土王や長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになりました。 607年、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)」の上表文(国書)を送ります。留学生・留学僧を隋に留学させて隋の文化を大いに取り入れ、国家の政治・文化の向上に努めました。620年(推古二十八年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記しました。 国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていました。国造とは、王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、ヤマト政権の地方官的な性格をもつものです。 660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領しました。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済は滅亡しました。 663年、百済と倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及びました(白村江の戦い)。 668年、唐と連合して百済・高句麗を相次いで滅ぼした新羅が半島の単独政権となりました。 古墳時代にはヤマト王権に仕える技術者集団として朝鮮半島からも人々が渡来しました。大和朝廷に仕えた渡来人としては、秦氏、東漢氏、西文氏が代表的です。 飛鳥時代には百済の滅亡により亡命貴族が日本を頼って渡来しました。 新羅が統との関係を修復するころ、旧高句麗の将軍であった大示乍栄が東牟山(吉林省)に拠点を構え、高句麗民をを結集して震国を興しました。やがて唐から渤海郡王に冊封されると、国名をあらため渤海を称するようになりました。渤海はかつての高句麗領域の大半を治めましたが、その際に在地社会を改編することなく、かつて高句麗の支配下に靺鞨(マッカツ)族をはじめとする諸族の首長を通じてかれらを支配しました。 唐の諸制度に習い中央官制、軍制、地方制度(五京・十五府・六二州)が整備されて国力も充実しました。王都となった上京竜泉府には、中国の都城を模倣した整然とした条坊制がしかれるなど、積極的に唐文化を受容し、九世紀には唐から「海東の盛国」といわれるまでにいたりました。 対外関係では、唐と日本との関係を重視して頻繁に交渉しました。727年にはじまった対日本外交は、九世紀になると定期的にほぼ105人で構成される使節団は日本に派遣され、交易もさかんにおこなわれました。一方で、南に境界を接した新羅との交流は、二百年にわたってほとんどなく、時に敵対することがありました。 渤海の中央集権的な国家体制の成立は、統一後の新羅の国家体制に次ぐものでした。紀元前より、中国東北地方から朝鮮半島にかけては、多様な言語・文化をもち、生業を異にした諸民族が居住していました。そうした諸民族が興亡を経て、中国王朝から受容した漢字・儒教・律令・仏教を通して諸族を統合し、新羅・渤海の領域内に社会的・文化的な共通基盤を生み出していきました。こうした基盤は、これ以後に形成されていく朝鮮文化の基層となっていきました。 新羅・渤海の両国が朝鮮半島の南北で並立する体制は、10世紀に至ると動揺し、まず渤海は北方の契丹族の侵入によって926年に滅亡しました。南の新羅も900年を前後して、後百済と高麗が勢力を増し、後三国とよばれる分裂状況となり、935年に新興の高麗に降伏して滅亡しました。 九世紀を境に日本の外交姿勢は内向きとなり、遣唐使は838年出発の使節を最後に途絶えてしまうし、新羅からの使者は779年、新羅への使者も836年で終わります。そのなかで、727年に始まった渤海との関係はおおむね良好でした。その後、926年までの間に、渤海からの使者が34回、渤海への使者が13回記録されており、とくに前者は滅亡寸前まで途絶えることはありませんでした。九世紀半ばから十世紀にかけて、渤海は日本と国交のあった唯一の国だったのです。 727年、渤海二代目の王、大武芸から聖武天皇に宛てた啓書は、「高麗の旧居を復し、扶余の遺俗を有(たも)つ」と述べて、渤海が高句麗(高麗)を復興したことを強調します。また、使者はテン皮300張を献じました。730年の渤海の遣唐使が献じた海獣皮が8張だったことと比較すれば、渤海の日本に対する期待がいかに大きかったかがわかります。 初期には武官が起用されていましたが、762年の渤海「国王」柵封後は文官中心になります。国際社会での地位が上昇した渤海は、対日関係を対等なものに近づけようとして、高句麗の後継国との解釈をとる日本側との摩擦が生じました。他方、使節団の規模が759年以降の数倍になるなど、貿易の比重が高まります。 日本は811年を最後に使者派遣を停止し、824年には渤海からの使者を12年に1回に制限しました。人員が105名に固定するとともに、構成も地方首長や商人の比重が大きくなりました。右大臣藤原緒嗣は、この傾向を端的に「実に是れ商旅なり、隣客にあらず」と指摘しています(826年)。 渤海使の目的は、八世紀には遣唐使の護送や大陸情勢の伝達など政治的なものが多いですが、しだいに貿易を中心とするようになり、日本側に入京を拒否される例が多くなります。日本からの使節の多くは渤海使を本国に送り届けるのが任務で、出発地や航路は不明な点が多いです。 以下、「福井県史」より 式内社として、白木(シラギ)神社などがみえる。そのうちとくに、「久麻加夫都」はおそらくコマカブトで、冠帽を意味する韓語の(kat)がカブトになったのであろう。このように能登から敦賀にかけて新羅系文化の伝存がみられるわけであるが、それは同時に物資の交流をともなったに違いない。 アメノヒボコは八種の宝を持って渡来したというが、それはヒボコに限ったことではなく、おそらく知識や技術の伝達をともなうものでもあったろう。日本と外国との交渉は八世紀になり、従来の唐・新羅に加えて、渤海との交渉が始まる。迎使や送使を除きほぼ二〇年間隔で遣唐使を派遣するが唐からの使(唐使)は地方官の私的な使も含め、わずか二例のみである。また、新羅とは、八世紀前半は使の往来が活発であったが、入京を許さず大宰府から帰国させる場合もあり、宝亀年間(七七〇~八〇)を境に公的な交流はほとんどなくなる。このように八世紀後半以降、唐・新羅との公的な国家間の交流は減少する傾向にある。そのころ活発となるのは渤海との交流であった。唐・新羅との交流においては大宰府がその窓口となったが、渤海は日本海を隔てていたため、渤海使は例外を除いて北陸道をはじめとする日本海沿岸諸国に来航し、また遣渤海使は越前(加賀)や能登など北陸道から出発した。西域や唐の先進文物は大宰府から山陽道または瀬戸内海を経て平城京に至り、正倉院は「シルクロードの終着点」とよばれるが、公的な使の回数では奈良から平安初期にかけて、渤海との交渉が最も多く、渤海は日本と唐との中継貿易的な役割も果たした。 したがって最近の研究では、日本海ルート、とくに都から比較的近かった北陸道経由で中国大陸の文化が日本にもたらされた場合が注目されている。 このような意味で福井県の県域は、古代において大宰府と並び、外国との「窓口」であったといえよう。渤海と日本との交渉は、七二七年、国書と方物(贈り物)をたずさえた渤海使が日本に来航し、翌年、日本の送使を同行させたことに始まり、九二六年、契丹に渤海が滅ぼされる直前の九一九年までの間、渤海使は約三四回派遣された。一方、日本からは約一三回の遣渤海使が派遣されたが(表36)、ほとんどが送使であり、弘仁二年(八一一)に出発した使を最後に、日本からの使の派遣は途絶える。このほか、遣唐使が渤海経由で入唐および帰国したこともあった。 日本と渤海との交渉は、初期は唐・新羅との対立という東アジア情勢のなかで、渤海側からの政治的な目的で行われた。渤海との公的な交渉で両国の友好関係が保たれるとともに、貿易および文化交流が行われた。渤海使が日本にもたらした物としては、貂や大虫(虎)の毛皮など皮革製品や蜂蜜や人参など自然採集品が中心であり、平安貴族が貂裘(貂の皮ごろも)を愛用していたことは有名である。このほか、貞観元年(八五九)正月ごろ、能登国に来航した渤海使によってもたらされ、貞観三年から貞享元年(一六八四)まで八二四年間も用いられた『宣明暦』(『長慶宣明暦経』)、貞観三年に渤海大使李居正が将来し東寺や石山寺に所蔵された『尊勝咒諸家集』や『佛頂尊勝陀羅尼記』などの仏典に代表されるように、渤海使は大陸の文化・文物ももたらし、日本の文化に少なからぬ影響を与えた。さらに南海産の玳瑁で作られた盃や麝香の将来など、唐と日本との中継貿易的な役割を果たしていた。反対に日本からは、絹・・綿・糸など繊維製品、黄金・水銀・漆・海石榴油・水精念珠・檳榔の扇などが渤海にもたらされた。 渤海使は主に秋から冬にかけて日本に来航したが、若干の例外を除き来航の季節で大きく分けると(以下、すべて陰暦)、弘仁五年を境に、前半は十月中旬から十一月中旬ごろに(出港は九月下旬から十月下旬ごろか)、後半は十二月中旬から三月上旬に(出港は十一月下旬から二月中旬ごろか)、それぞれ集中している。前半の場合、入京後は元日朝賀に参加することが多く、一方、後半の場合は、入京後も元日朝賀に参加することはなく、かわりに五月の節会に参加するという特徴がある。これはおそらく、弘仁年間以前は元日朝賀に、それ以降は五月の節会に参列できるように来航することが義務づけられていたためであろう(田島公「日本の律令国家の『賓礼』」『史林』六八―三)。また、季節風の利用からいえば、前半が北西の季節風の吹き出しを、後半は真北の季節風を利用し一気に日本海を横断したとの説がある(上田雄「渤海使の海事史的研究」『海事史研究』四三)。 今の北朝鮮の清津(チョンジン)かロシア沿海州のポシェト港を出向し、日本海を突っ切る航路をとりました。到着地は、風の具合で対馬から蝦夷地にまで及んでいますが、北陸道の越前・加賀・能登が多いです。能登半島西岸の福浦津(石川県富来町)は、小さいが水深があり風も避けられる良港で、使者の宿泊施設や帰国船の造船所があったといいます。敦賀や羽咋(福浦の少し南)には客館が置かれ、使者到着が報じられると、京都から特使が赴いて接待に当たりました。二つの客館はともに砂州上にあり、砂州の付け根には、それぞれ日本海の海の神として名高い気比社(敦賀・越前国一宮)、気多社(羽咋・能登国一宮)が鎮座します。祭りや祓いを通じて神社と客館が深くつながっていたことを想わせます。また、海流の状況を考慮にいれた最新の研究によれば、北西の季節風とリマン海流を利用し、朝鮮半島沿いに南下したあと、対馬暖流に流され、初期は航海技術の未熟さから、能登半島より東に流されたが、後期はうまく横切ることができるようになり、西の方にたどり着くことができるようになったと考えられている(日下雅義「ラグーンと渤海外交」『謎の王国・渤海』)。また、渤海使の帰国航路についても、これも直接日本海を横断するのではなく、奥田説を逆に考え、対馬海流に乗っていったん東北地方の沿岸を北東に進んだあと、北海道またはサハリンの沖で西に梶をとってリマン海流にのり、沿海州の沿岸を南下するという説も考えられている(稲垣直「美保関から隠岐島まで(再考)」『季刊ぐんしょ』再刊一八)。しかし、当時の航海技術および造船技術からみて、渤海使は季節風を利用したといっても、結局は風波に任せたため、到着地は表35のごとく、東(北)は出羽国から、西(南)は対馬島・長門国まで広範囲に来航している。しかし、来航地は前半から後半にかけて東北から西南に変化しており、前半では出羽国・佐渡国に計八回も到着しているが、後半ではすべて能登国以西となっている。25代継体天皇となる男大迹王(おおどのおおきみ)は、『記紀』によると、応神天皇5世の孫(曾孫の孫)であり、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)。先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江高嶋郷三尾野とも)から迎えられました。継体天皇以降は、大和の勢力と越前や近江など北方の豪族の勢力が一体化し、ヤマト王権の力が国内で強くなりました。 842年8月15日、太宰府の藤原衛から朝廷に上奏文が届きました。その趣旨は「今後は新羅国人の入境をいっさい禁止したい」とうものです。提案理由として次のようなことが記されていました。 新羅はずっと前から日本に朝貢してきた。ところが、聖武皇帝の代から始まって、仁明朝の今に至るまで、旧例に従わず、つねによこしまな心を懐き、贈り物を献上せず、貿易にかこつけてわが国の状況を探っている。もし不慮のことがあったら、どうして凶事を防げばよいだろうか。 これを受けた朝廷では、「天皇の徳が遠方まで及び、外蕃が帰化してきた場合、いっさい入境を禁止してしまうのは不仁ではないか。よろしく流来に準じて、食糧を与えて放還すべきである。商人が飛帆来着した場合は、持ってきた物は民間に自由貿易を許可して、取引が終わればすぐに退去させよ。」という官符を発しました。 中央政府の決定は、「徳の高い天皇が外蕃を従える」という建前から、大宰府の提案に比べて穏便なものに落ち着きました。とはいえそこには重大な対外政策の変更がありました。そのことは、以下の官符との比較で明らかになります。701年施行の大宝令を改訂した養老令(757年施行)の戸令没落外蕃条に、「化外の人が帰化してきたら、余裕のある国に本貫を与えて安置せよ」とあるように、積極的に国内居住を許すことで徳化を誇示するところにありました。また、759年の太宰府に下した勅においては、帰化新羅人が「墳墓の郷」を想うあまり帰還を願った場合の恩恵的特例として、「給ろう放却」という措置が規定されています。 しかし、774年官符は、来着する新羅人を「帰化」と「流来」とに分類します。流来の場合は、彼らの意志に基づいて到来したのではないから、放還して日本の恩情を示すこと、その際には、乗船が破損していれば修理を加え、食糧がなければ給与することが定められています。他方、帰化の場合は、「例により申し上げよ」とあるだけですが、少なくとも従来の原則である国内居住許可を排除していません。これに対して842年官符では、帰化の場合も放還するとしていますから、新羅人の帰化を一切受け入れない方針に転換したことになります。 「小中華帝国」という自己認識を支えてきた徳化思想は、年を追うごとに明らかに破綻を来しています。 「倭の五王」のころ以来、倭は、朝鮮半島の百済・新羅および加耶諸国を朝貢国として従える小帝国として、自己を位置づけることに、外交的努力を注いできました。一方、百済以下の各国には、倭に朝貢することで、朝鮮半島の分立状況において優位を確保しようよいう動機づけが存在しました。 660年代、唐が新羅と連合して百済・高句麗を滅ぼし、さらに唐は朝鮮半島の直接支配を試みますが、新羅がこれに抵抗して、676年に唐の勢力を朝鮮半島から駆逐しました。660年、百済滅亡後、百済王族の亡命先となった倭(やまと)は、百済復興支援を掲げて軍事介入を試みますが、663年に白村江で唐・新羅連合軍に敗北を喫しました。律令体制の本格的導入はこの危機への対応という面があり、このころ「日本」という国号も確立します。 新羅は、統一後しばらくは日本との良好な関係を維持するために朝貢国の立場を変更せず、701年元日の文武天皇に対する朝賀の儀式にも、藤原宮の大極殿に新羅使が「蕃夷の使者」として参列しています。このような新羅の位置づけは、前年に完成した大宝令において法的規定を与えられました。『令集解』に収められた令の本文や注釈によれば、天皇を戴く国家の統治の及ぶ空間を「化内(けない)」、その外の天皇支配の及ばない空間を「化外(けげ)」として区別します。化外は「隣国」である唐、「蕃国」である新羅、蕃と称するに足りない「夷狄(いてき)」としての毛人(えみし・蝦夷)・隼人(はやと)の三カテゴリーからなります。 この後中世にかけて、中国の王朝とは対等、朝鮮半島の諸国よりは一段上という位置づけを、国家関係の理想像とする思想が、日本の支配層を強固に貫いて流れる伝統となります。この自己規定を存続させるには、朝鮮半島に唯一残った新羅を朝貢国として従えることが、必要不可欠でした。 七世紀末、朝鮮半島北部から中国東北地方に書けての地域に渤海が興り、唐の支配から自立して最盛期を迎えた新羅との並立状況が生まれました。渤海は靺鞨(マッカツ)をめぐって唐と対立し、732年には山東半島の登州に奇襲をかけたので、翌年、唐は新羅に命じて渤海の南境を攻めさせました。孤立を恐れた渤海は、727年を皮切りに日本に使者を派遣し、「蕃国」の増加を歓迎する日本との間に親密な関係を築きました。735年、新羅は唐から大同江以南の領有を正式に認められ、日本に朝貢を続ける積極的な意味はほとんど失われました。新羅が日本との関係を対等なものに改めるべく、外交攻勢に出てくるのは必至でした。 その動きは、842年官符が強調するように、聖武朝(724~49年)から明瞭になります。734年、日本に国号を「王城国」と変更する旨を告げる使者を送りますが、翌年日本はこれを追い返しました。この新名称には日本との対等関係の含みがあったらしいです。 「王城国」の一件があった翌736年、日本は新羅に大使 阿倍継麻呂以下の使者を送り、翌年帰国して「新羅は常礼を失し、使の旨を受けず」と伝えました。朝廷は上下の官人を内裏に招して諮問し、これに答えて「使者を遣わして詰問せよ」とか、「兵を発して征伐を加えよ」とかの意見が出ました。また、伊勢神宮、大和の大神(おおみわ)社、筑紫の住吉社・宇佐八幡・香椎宮に奉弊使を遣わして、「新羅無礼の状」を神に告げました。この発想は、神功皇后の三韓征伐伝説とも結びついて、日本の支配層のなかに長期にわたって持続し、事あるたびに露頭するようになります。 752年に使者の往来があり、両国の関係修復が試みられたものの、日本側の高圧的な態度により不調に終わりました。そのうえ、翌年唐の朝廷で遣唐使大伴古麻呂が席次を新羅使より上位に変更させたことが重なって、両国関係は冷え込み、同年新羅に赴いた使者小野田守は、謁見されず追い返されています。こうして日本と渤海が同盟して新羅を挟み撃ちにする構図が生まれました。 これが実現しなかった原因は、恵美押勝(藤原仲麻呂)が国内で政治的孤立を深め、764年に反乱を起こし滅んだことにありますが、国際的には、762年に唐が渤海王を「郡王」から「国王」に格上げするなど、唐・渤海関係が好転し、北東アジアが緊張緩和へ転じたことにありました。 出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男 |