『古事記』『日本書紀』については「奈良時代」 でくわしく書きますが、『古事記』が献上されたのは712(和銅4)年、『日本書紀』がその八年後の720(養老4)年です。大化改新以来の新たな国家建設と大和朝廷の集権化のなかで、国の歴史を残そうとする試みが繰り返されてきました。しかし、『古事記』と『日本書紀』との関係には分からない点が多く、たとえば、『日本書紀』に『古事記』編纂の記録が残っていないなど、多くの謎があります。江戸時代に『古事記』を解明してその功績が今に残る本居宣長は『日本書紀』を漢意の書として中国風の思惟の影響を受けたものとして低く見ています。「日本」という呼称自体が他者(中国大陸)を意識したものであることをその理由の一つとしますが、『古事記』よりも八年も後に編纂されたにも関わらず、時代に逆行するように漢文体の表記であり、明らかに中国の人々が読みやすいように対外的に工夫したねらいが感じ取れます。『記紀』とは違う出雲神話
1.『古事記』それに対して『古事記』は変体漢文(漢字の意味を借りてやまと言葉として分かりやすいように表記する方法)で書かれ、文字を持たない段階で、ことばの意味を残そうとしているとみえます。死のとらえ方や、他界、生と死、いわば人生のとらえ方という問題にも関わっているようです。大らかな日本人の生き方を見るという見方は、自己意識の発生の場面で、大きく異なる二つの書物をもったことはその後の思想史に大きな意味を持つことになったのは確かです。
高天原(たかまがはら)の神の降臨から、突然のように話が飛び、この国土はすでにオオクニヌシ(大国主)のものであり、そうなった経緯が描かれています。高天原のアマテラスはその葦原中国(あしはらのなかつくに)を支配することを望んで、使者を送り、服属を促します。何度かの失敗のあと、オオクニヌシは国を譲ることに同意しますが、同意しない二人の息子と天つ神との戦いのあと、結局は天孫ニニギノミコトが天降り、国土の支配者となります。後の天皇はアマテラスの血縁的な直系であることをしめしています。国土としての葦原中国の安定までの過程が、天上的なものと地上的なものとの二重の起源をもつとされ、津田左右吉は「政治的作為が痕跡として残っている」といっています。
以上のように、冒頭の神話は、この国土の支配者はだれかという神話的説明となっています。このあとは、海彦山彦神話、されに続いてアマテラスの子孫の、海の族との親密な関係が神話として語られます。
『古事記』には、高天原、葦原中国にかぎらず、さまざまな異なる世界が描かれています。そこには多様な対称軸が見られます。高天原、中国(なかつくに)、根の国を上中下の三層構造と見る見方があります。しかし、それ以外の他界も描かれています。『古事記』は、現実を複層的にとらえる神話的思想を根底に、秩序の生成が同時に反秩序によって支えられていることをしめしています。最も奥にある神が何者であるかは明らかにされていません。
なぜか『古事記』は成立直後からほぼ歴史の表面から姿を隠し、一方『日本書紀』は成立直後から官人に読まれ、平安時代に入っても、官人に教養として記憶されています。『古事記』と『日本書紀』とはその叙述の仕方に大きな差がみられます。『古事記』は本文が一つの主題で貫かれていますが、『日本書紀』の神代の部分は、筋をもった本文を掲げてはいますが、それに続き複数の異なる伝承を「一書曰く」として並列して掲げています。そのなかには『古事記』に一致するものもあれば、そうでないものもあります。記紀神話といってもそれぞれの神話は、その叙述態度・様相がかなり異にしています。『古事記』の八年後に複数の異なる伝承を「一書曰く」」として並列しているのは、どうも『古事記』に掲げられた内容には異論や諸説があることが各国に命じた『風土記』の提出によって分かってきて、各地に残された神話の部分を並列することで国同士の言い分に収拾をつけようとしたのではないかと、そう勝手に想像します。そうであれば、大和朝廷の権威は中央集権国家とはいいつつも、絶対君主的なものでもないように思います。 ▲ページTOPへ
2.出雲風土記 天平5年成立時出雲国風土記 上(R)/島根県立古代出雲歴史博物館 『風土記』は、『日本書紀』が編纂される7年前の713年に、元明天皇が各国の国司に命じて、各国の土壌の良し悪しや特産品、地名の由来となった神話などを報告させたもので、おそらくは『日本書紀』編纂の資料とされた日本初の国勢調査というべきものと思われます。国が定めた正式名称ではなく一般的にそう呼ばれています。
『続日本紀』の和銅6年5月甲子(2日)の条が風土記編纂の官命であると見られており、記すべき内容として、
郡郷の名(好字を用いて) 産物 土地の肥沃の状態 地名の起源 伝えられている旧聞異事 が挙げられています。
完全に現存するものはありませんが、出雲国風土記がほぼ完本で残り、播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記が一部欠損して残っています。現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみです。ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在します。
風土記は60の国々にその由来や地名、産物などを朝廷に報告させるために国司に命じて記されたものですが、現存しているわずか5つの風土記の中でも、出雲風土記だけが写本の際に省かれたりせず唯一完全な状態で記録が残っています。現存する写本は70種程ありますが、その中で最も古いと考えられるのは慶長2年(1597年)に細川幽斎が書写したとされるもの(通称:細川本)です。また倉野憲司が所蔵していた写本(通称:倉野本)も、奥付を欠いてはいますがほぼ同時期に書写されたと考えられています。尾張徳川家により寄進されたと伝えられる日御碕神社所蔵の写本(寛永11年(1634年)書写、通称:日御碕本)は島根県の文化財に指定されています。 その中で、すでに出雲が朝鮮半島の百済や北陸の越の国と交易していたと記されています。また、青森県三内丸山遺跡で、富山県の糸魚川で採れるものとされる黒曜石[*1] の飾り物が見つかりました。
[*1]…黒曜石は特定の場所でしかとれず、日本では約60ヶ所が産地として知られているが、良質な産地はさらに限られている。後期旧石器時代や縄文時代の黒曜石の代表的産地としては北海道白滝村、長野県霧ヶ峰周辺や和田峠、静岡県伊豆天城(上多賀や鍛冶屋)、神奈川県箱根(箱塚や畑宿)、東京都伊豆七島の神津島・恩馳島、島根県の隠岐島、大分県姫島、佐賀県伊万里市腰岳、長崎県佐世保市周辺などの山地や島嶼が知られ、太平洋や日本海を丸木舟で渡って原石を求めたのであろう。 ▲ページTOPへ 1.因幡の白うさぎの意味は? ヤマタノオロチを退治して一躍ヒーローになったスサノオノミコトの孫の孫、つまりスサノオノミコトから数えて6代目にオオクニヌシノカミが誕生しました。
たくさんの兄弟の末っ子としてオオクニヌシは出雲に生まれ、出雲に育ちましたが、何かにつけてお兄さんたちからいじわるな仕打ちを受けていました。 しかし、そんな兄たちのいじめにも負けず、オオクニヌシは心やさしき神として成長していきました。-隠岐の島にいた白ウサギは、なんとかして向こう岸に渡りたいと思って、海岸にいたサメに、自分の仲間とサメの仲間とどちらが多いか比べてみようと声をかけ、向こう岸までサメを並ばせました。そして、サメの数を数えるふりをして背中を渡って行ったのです。あと少しで岸に着くというときになって、白ウサギも油断したのでしょう。 サメをだましたことをしゃべってしまいサメにつかまって、全身の皮をすっかりはがされてしまいます。
これは、隠岐の島を治めていた白兎に例えられる豪族が、因幡を攻めようとして失敗し、オオクニヌシが助けて隠岐の島を穏やかに平定したのち、プロポーズした兄たちには見向きもせず、オオクニヌシノカミを夫に選んだ因幡の八上比売(やかみひめ)はウサギが予言したとおりオオクニヌシはヤガミヒメを得ます。これは隠岐の豪族が穏やかに因幡にオオクニヌシと協力せよと伝え、隠岐・因幡を平定したということではないでしょうか。
『出雲国風土記』には、『記紀』とはまったく違う国引き神話があります。 2.『記紀』とはまったく違う国引き神話「八束水臣津野命」(やつかみずおみつぬのみこと、以下、ヤツカミズオミツヌ)が、「新羅」と「北門」や「越」の岬から引っ張ってきた土地によって、小さな「出雲」が大きく縫い広められたといいます。これらの国は高句麗族の支配していた土地なのでした。
この後、さらに東出雲地方から、「越」まで軍を進め、高句麗族を制圧したスサノオ(実は、オオナムチ命を軍師に任命している)は、故郷である南朝鮮の鉄資源を求めて、渡航していったのだと思います。スサノオの武勇は、海を渡り朝鮮半島にまで、伝わっていたことでしょう。
スサノオ族を、日本列島に追いやった、朝鮮半島の高句麗族は、大した抵抗もみせずに分散していったのでしょう。こうして、北九州から「越」にかけてと、朝鮮南部との日本海文化圏を形成していったのだろうと思われます。 国引き神話は、出雲国に伝わる神話の一つです。『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれています。なぜその部分を省いて記されなかったのか分かりませんが、オオクニヌシに国を譲らせたことはしっかりと記します。
出雲の神様、ヤツカミヅオミヅヌノミコト(八束水臣津野命)は 「この国は幅の狭い若い国だ。 初めに小さくつくりすぎた。 縫い合わせてもう少し大きな国にしよう」 と他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうと言いました。 そこで、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、「朝鮮半島の新羅の岬を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。 その土地が小津(こづ)の切れ目からの支豆支の御埼(きづきのみさき)[*1] で、引いてきた綱が薗の長浜、そして綱の杭にしたのが三瓶山です。
次に、「北方の佐伎の国(さきのくに)[*2] を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。 その土地が多久川の切れ目からの狭田の国(さだのくに)です。
その次に、「北方の良波の国(よなみのくに)[*3] を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。その土地が宇波(うなみ)の切れ目からの闇見の国(くらみのくに)です。
最後に、「北陸の都都(つつ)の岬[*4] を見ると土地の余りがある」と、「国よ来い、国よ来い」と言って引いてきてつなぎ合わせました。 その土地が三穂の埼(みほのさき)で、引いてきた綱が弓ヶ浜半島、そして綱の杭にしたのが大山です。
4度の国引きで大事業を終えたヤツカミヅオミヅヌノミコトは、「おゑ」という叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し、意宇(おう)の杜になりました。そのときからこの地を「意宇(おう)」と呼ぶようになりました。
こうしてできたのが現在の島根半島であるといいます。
オオクニヌシノカミは、にぎやかになった出雲で、高天原(たかまがはら)から降りて来たスクナヒコナノミコトとともに、国づくりに励みました。 山に植林したり、堤防をつくったり、橋を架けたりと、人々が住みやすい国にしていったのです。 また、馬や牛も増え、アワもよく実るようになり、出雲は豊かな国へと発展していきました。
[*1]杵築崎(きづきざき)、出雲市大社町日御碕 [*2]佐伎の国(さきのくに)…宍道湖北側平田市付近とされる [*3]東は松江市手角町から、西は 松江市鹿島町東部とされる [*4]北陸の都都(つつ)…能登半島珠洲とされる ▲ページTOPへ
3.大国主と出雲神話 高天原を追放されたスサノヲは流浪の果てに、出雲において大蛇を退治し、須賀の宮におさまって妻を求める歌をうたいます。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」
出雲地方の伝承的な歌謡であったこの歌が、『古事記』の中で最初に掲げられた歌です。 『古事記』上巻には、このスサノヲの物語に続いてオオクニヌシ(大国主神)神話が続きます。オオクニヌシの事跡の出雲との関係や出雲大社との関連から、出雲系神話といわれ、また登場する神々を出雲系の神々とよびます。
この部分は、すでにオオクニヌシの支配していたこの国土が、天下ってきた高天原の神の支配に交替するという劇的な構成から、大和朝廷に拮抗ないし対立する出雲での権力の存在を示す物語であるというような歴史的事実と結びつけた見解などさまざまに論じられる物語となっています。上巻特有のごつごつした違和感に満ちた世界が展開すると同時に、他方で人間の「情」のありように通じるもの、たとえば後世なら「仁」や「愛」あるいは「やさしさ」といったことばで本来表現されるべき事柄が描かれてもいます。オオクニヌシの物語は、前半と後半では趣が異なります。前半は美しい因幡のヤガミヒメを獲得しようと旅立つ兄たちのあとに荷を背負って追うさえない神でした。白ウサギにやさしさを施すとウサギの予言通り姫を得ることになります。しかし、兄弟神の怒りを買い、試練にたたされ死に追いやられます。そのたびに彼は母神やカミムスビや貝の女神たちなどの力で復活しますが、最後には迫害を避けるため、母神の配慮で根の国のスサノヲのもとにおくられます。そこでもスサノヲに試練を与えられますが、恋仲となったスサノヲの娘スセリビメの助けを得て脱出し、スベリビメと手を携え呪術能力を得てこの世に帰還します。迫害した兄弟神たちを退治し、支配者となります。
支配者としてのオオクニヌシは、国作りを単独では行えず、スクナビコナ(小彦名神)という海の向こうから渡ってきた小身の神の協力を得て、支配します。後にスクナビコナは海の向こうに去り、、オオクニヌシは国土の未完であることを嘆きます。
さて、このオオクニヌシは多くの神話的神の重ね絵とされます。事実、物語の展開のなかでその呼称を何度か変えます。『日本書紀』では、人々に「恩頼(みたまのふゆ)」を与えたと簡潔に書かれています。他方『古事記』では、複雑ですが民衆的なレベルでの神、あるいは支配者の理想像という古層をとくによく伝えているといえるでしょう。
しかし、オオクニヌシ神話は国土の完成のあとは一転して、色好みのこの神の女性遍歴と、妻であるスセリビメの嫉妬と、二人の和解の物語となります。
このように、出雲系の神話は、その政治性とは別に、その叙情性において、『風土記』にも登場するオオクニヌシの姿には、民衆に「恩頼(みたまのふゆ)」をほどこした神として、支配ないし支配者によせる集団的な願望のようなものが込められているともいえます。出雲系とくに、オオクニヌシ神話は、その後高天原の神に国の支配を譲るという形で書かれ、天皇の物語のなかで、重要な位置を占めます。政治神話と異なる側面をみせるのが、この神話の後半の愛の遍歴の部分です。そこでは濃厚に歌謡が情の世界と関わり、神の世界から、人間の情の描写へとの橋渡しの意味を持った部分を形成しています。
4.大国主(オオクニヌシ)大国主の神話では、スサノオの子孫であるオオナムヂが、根の国のスサノオの家までやって来ると、スサノオの娘であるスセリビメに一目惚れするが、スサノオはオオナムヂに様々な試練を与える。オオナムヂはそれを克服し、スサノオはオオナムヂがスセリビメを妻とすることを認め、オオナムヂに大国主 という名を贈った。
『古事記』ではヌナカワヒメへの妻問いの話とされている。正妻であるスサノオの娘のスセリビメについては、記述がない。オオナムヂは、スサノオの後にスクナビコナ(スクナヒコナとも。須久那美迦微、少彦名、少日子根など、一寸法師のモデルとも、他多数。)と協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させます。国土を天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に譲って杵築(きづき)の地に隠退、後に出雲大社の祭神となります。『古事記』によれば、オホクニヌシの国土造成に際し、アメノカガミノフネに乗って波間より来訪したスクナビコナが、オホナムヂの命によって葦原中国の国づくりに参加しました。『古事記』では、「越八口(オロチ)」を退治したのはスサノヲとなっていますが、『出雲国風土記』の意宇郡母里郷(現;島根県安来市)の地名起源説話には「越八口(オロチ)」をオホナムヂ(大国主)命が退治し、その帰りに国譲りの宣言をしたとあります。大国主(オオクニヌシ・オオナムヂ)は日本神話の中で、出雲神話に登場する神です。天の象徴である天照大神に対し、大地を象徴する地神格です。また、多くの別名を持っています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。
大国主神(オオクニヌシノカミ)=大國主 – 大国を治める帝王の意、あるいは、意宇国主。すなわち意宇(オウ=旧出雲国東部の地名)の国の主という説もあります。 大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命(オオナムチノミコト) -大国主の若い頃の名前 大汝命(オオナムチノミコト)-『播磨国風土記』での呼称 大名持神(オオナムチノミコト) 八千矛神(ヤチホコノカミ) – 矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す 葦原醜男・葦原色許男神(アシハラシコノヲ) – 「シコノヲ」は強い男の意で、武神としての性格を表す 大物主神(オオモノヌシ) 大國魂大神(オホクニタマ) 顕国玉神・宇都志国玉神(ウツシクニタマノカミ) 国作大己貴命(クニツクリオオナムチノミコト)・伊和大神(イワオホカミ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称 所造天下大神(アメノシタツクラシシオホカミ) - 出雲国風土記における尊称国造りの神、農業神、商業神、医療神などとして信仰されている また、「大国」はダイコクとも読めることから、同じ音である大黒天(大黒様)と習合して民間信仰に浸透している。子の事代主がえびすに習合していることから、大黒様とえびすは親子と言われるようになりました。大国主を祀る神社の代表は出雲大社(島根県出雲市)で、他に大神神社(奈良県桜井市)、気多大社(石川県羽咋市)、気多本宮(同七尾市)、大國魂神社(東京都府中市)のほか、全国の出雲神社で祀られています。大嘗祭(天皇が即位後、最初に行う新嘗祭)の時、物部氏が宮門の威儀に立ち、大楯を楯、弓の弦を鳴らして鳴弦の呪術を行い、悪霊を追放する役目を務めました。この呪術にたけ、部門の棟梁であった物部氏が、のちの“モノノフ=武士”の原型でもあるといいます。スサノオの後に少彦名神と協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させます。国土を天孫・瓊瓊杵尊に譲って杵築(きづき)の地に隠退、後に出雲大社の祭神となります。因幡の白兎の話、根の国訪問の話、ヌナカワヒメへの妻問いの話が『古事記』に、国作り、国譲り等の神話が『古事記』・『日本書紀』に大きく記載されています。『出雲国風土記』の意宇郡母里郷(現;島根県安来市)の地名起源説話には「越八口(オロチ)」を大穴持(大国主)命が退治し、その帰りに国譲りの宣言をしたとある。
山陰はもともと出雲の大国主命が開いた国でありました。
大国主は多くの別名を持っています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。 ▲ページTOPへ
5.「大国主」となった「大己貴命」『出雲国風土記』では、国引き神話のヤツカミズオミツヌこそ、出雲国の名付け神になっている。それは、ヤツカミズオミツヌが、この地を「八雲立つ出雲」と呼んだから、というものであるが、和歌こそ詠んでないものの『古事記』に記されたスサノオのそれと、まったく同じ内容である。ヤツカミズオミツヌは『古事記』こそ、スサノオの四世孫としているが、案外、スサノオの別名ではなかろうか。
それはスサノオの「出雲」における呼称なのかも知れない。 『古事記』によれば、オオナムチはスサノオから、生大刀、生弓矢、玉飾りのついた琴を奪って逃げ、スサノオは、それを許している。これは、オオナムチを、軍師に命じたことに他ならない。この時スサノオは、50歳にさしかかってしたと思う。オオナムチが軍師になれたのは、スサノオの娘である「須勢理姫」(すせりひめ)が、オオナムチに惚れてしまったという、『古事記』の記述を信用するしかないが、以外にも、本当なのかも知れない。いずれにしても、スサノオの後押しがなければ、不可能な話であろう。
軍師であるからには、スサノオの率いて来た、「物部」の大軍を自由に使ってもいいわけだ。オオナムチは、「越」の八口を討ったと、『出雲国風土記』は記している。この記述が、「越」の高句麗族の最後の時だ。 これにより「出雲」・「越」とも平定され、スサノオは、その後、南朝鮮に渡り、先に述べたとおり、南朝鮮を含めた日本海文化圏を、形成していくのである。
この文化圏は、鉄資源を元手にした通商連合であった。貿易を生業としていたのである。
通商を生業とした、早い話が商売人は、江戸時代の堺衆がそうであったように、何者にも屈しない、強い結束力を備えていたのであるが、一度、メリットが無くなれば簡単に崩壊してしまう。
オオナムチは、スサノオの後押しもあって、最大の貿易相手である「少彦名命」(すくなひこなのみこと、おそらく朝鮮半島の「昔」《すく》姓の一族。以下、スクナヒコナ)と、共同して貿易に携わり、国土経営をしていたのであるが、そのスクナヒコナは、常世の国に行ってしまう。すなわち、死んだのである。
この結果、オオナムチは、スポンサーを失ってしまうこととなった。
オオナムチは、『古事記』によれば様々な地方の女性を妻にしている。
スサノオの娘である「須勢理姫」(すせりひめ)を始め、「因幡」の「八上姫」(やがみひめ)、「越」の「沼川姫」(ぬまかわひめ)、「宗像」の「多紀理姫」(たぎりひめ)、「鳥取」の「鳥取神」(ととりかみ)、「神屋楯姫」(かむやたてひめ)がそうである。
これらの女性出身地からみても、海を通じた交流の様子が窺い知れる。
「神屋楯姫」の出身地は明記されていないが、オオナムチの地元、「意宇国」であろうか。
この頃の、オオナムチの勢力範囲は、「大和」までに拡大していたらしい。
『古事記』には、「出雲」から「大和」(倭国)にオオクニヌシが、出張していく様子が記されている。このことは、「須勢理姫」との歌のやりとりとともに記されているのだが、「須整理姫」が、オオクニヌシに対して「八千矛神」と呼びかけているので、「大和」を勢力範囲にしたのは、スサノオだったのかも知れない。「八千矛神」とは、神社伝承学によれば、スサノオのことであった。
「昔」姓の「少彦名命」が亡くなることにより、スポンサーを失ってしまったオオナムチは、南朝鮮の資金源(鉄資源)を、絶たれてしまう可能性があった。もともと、南朝鮮の鉄資源は、スサノオ族が押さえていたのだが、その後、高句麗族に奪われた。スサノオは、「統一奴国」を成し遂げ、高句麗族を追放することにより、再び南朝鮮の鉄資源を奪取した、と推測している。その地盤をオオナムチが受け継いでいたのであるが、「昔」族は、スサノオ族と同郷であろう。「昔」族もスサノオ族もともに、「高皇産霊尊」(たかみむすびのみこと、以下、タカミムスビ)を、崇める一族であったのである。 ▲ページTOPへ