若狭(福井県嶺南部)の秦氏系神社(1)

気比神社(越前国一宮)

当地には、実在された最初の天皇といわれている応神天皇(四世紀後半)ゆかりの神社がある。

気比(けひ)神宮といわれ、「新羅神社」と呼ばれてはいないが、 『記紀』に記載の最古の新羅系渡来人「天日槍」の伝承がある神社である。敦賀市曙町の「気比の松原」の近くにある延喜式の式内社である。

祭神は伊奢沙別命(いざさわけ)・仲哀天皇 ・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉姫尊・武内宿禰の七神。 境内には式内社「角鹿(つぬが)神社」がある。 『福井県神社誌』によれば、祭神は仲哀天皇・大山祇命・神功皇后・日本武尊・素佐之男尊の五神である。 境内社に神明宮・常宮社・稲荷神社・金比羅社等がある。 垂仁天皇(三世紀後半頃)三年に渡来した「新羅の王子・ 天日槍(あめのひぼこ)を 伊奢(いざ)さわけのみこと沙別命として祭った」といわれている。

『書紀』によれば、応神天皇は角鹿の笥飯大神と名前を交換し、 大神を去来沙別(いざさわけ)の神とし、 応神は誉田別(ほむだわけ)尊としたとあ る。すると、応神の元の名前は去来沙別であり、天日槍ということになる。 即ち、新羅・加羅系の人であったということになるのである。
気比神宮寺にある「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」の伝承は、 頭に角をもつ神が一族と共に角鹿湊へ渡来、角鹿神社の祭神となったという。 阿羅斯等とは、新羅・加羅では「貴」の敬称であったといわれ、 都怒我阿羅斯等も角鹿へ貴人が相次いだことを意味しているものであろう。 更に、額に角有(お)ひたる人は武人を形象化したものであるという説もある。

祭神である伊奢沙別命は、新羅の王子天日槍であり、 都怒我阿羅斯等でもあると共に、応神天皇もこの一族を神として崇めていたことが知られる。 気比神社の御田植祭や寅神祭は、農耕技術の伝来や海上安全の神を祭ったものである。

敦賀市の気比神社

敦賀市は日本列島のほぼ中央に位置するが、敦賀湾に面した静かな天然の良港として栄えた。 南は近江や畿内に接し、東は鉢伏山、栃の木峠、木の芽峠、大黒山などを境に今庄町に接している。 敦賀の名称は渡来人都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の渡来伝承によるものである。

「上古敦賀の港は三韓(古代朝鮮)交通の要地にして、三韓・任那人等の多く此地に渡来し、 敦賀付近の地に移住土着したる者少なからず。其族祖神を新羅神社として祭祀せるもの多く、 信露貴神社亦共一に属す」(『今庄の歴史探訪』)

また、敦賀付近には新羅(シラギ)の宛字と思われる土地名や神社名が多く、 例えば敦賀市の白木、神社名では信露貴彦(しろきひこ)神社 ・白城(しらき)神社・白鬚神社などがある(『今庄の歴史探訪』)。

古来敦賀は北陸道や西近江路の入口に位置し、『延喜式』には「越前国……海路。漕二敦賀津一。……至二大津一……。」とある。 従って、越前地方は敦賀を介し近江地方と密接なつながりをもち、日本海の産物を琵琶湖経由で、 畿内の京都や奈良などの都に送っていたことがわかる。
出羽弘明氏(東京リース株式会社・常務取締役)

福井県美浜町菅浜に鎮座する「須可麻(すかま)神社」
敦賀半島の西側にも、新羅系の有名な神社がある。菅浜(すがはま)は、元々は須可麻神社の須可麻であったものが菅窯→菅浜と変わったようである。スカとは古代朝鮮語で「村」を意味するという。
丹後街道から敦賀半島に入り車で十分位。先へ進めば丹生や白木の集落である。敦賀半島の西海岸は若狭湾に面している。
当社は式内社で、祭神は正五位「菅竈由良度美(すがかまゆらどみ)」天之日槍七世の孫、即ち菅竈明神といわれる。
「新羅からの帰化人である由良度美は叔父の比多可と夫婦になって菅浜に住んだとの記録があり、其の子孫になるのが息長帯比売命(後の神功皇后)である。それ以前にも垂仁天皇の三年に新羅の皇子『天之日矛』が菅浜に上陸して矛や小刀、胆狭浅(いささ)の太刀などを日本へもってきた」(『美浜ひろいある記』)といわれている。
社伝によれば式内社の古社といわれ、『若狭国神階記』に「菅竈明神」とある。明治四十一年世永神社、素盞鳴命を祀る広嶺社・志波荒神を祀る塩竈社の三社を合併。金達寿『日本の中の朝鮮文化』には「若狭文化財散歩」の文章が引用されている。「・・・・・・菅浜の南の砂浜は神功皇后の子・応神天皇が太子のとき、こゝの浜でみそぎをされ敦賀へ移られたと伝えられ新羅人が漂流して土着したとも伝える。菅竈が菅浜に転じ、焼窯の神様で須恵器などを造った帰化人の集団が丘陵に住み着いたところでもあるという。・・・・・・」

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丹後(京都府北部)の秦氏系神社 1/2

[catlist categorypage=”yes”] 京都府の新羅神社(1)

京都府には北部から南部まで新羅の神々が祭られている。北部では丹後地方、南部は山城地方の宇治市である。南部の京都盆地には「新羅牛頭(ごず)山に座す素盞鳴尊」を祀る八坂神社や新羅系渡来人秦氏とつながりの深い上賀茂神社・下鴨神社がある。

丹後地方は古来、大陸や半島との往来が頻繁にあり、弥生時代には王国があったといわれている。特に弥栄(やさか)町の新羅明神(溝谷神社)は渡来の人々(特に新羅系、或いは秦氏系の氏族)が祭ったといわれる。丹後地方は但馬の出石郡に隣接しているが、出石郡は地理的には丹後の一部であり、新羅の渡来人、天日槍(あめのひぼこ)と縁の深い土地である。また、京都府の太秦や園部町から続く丹波地方も新羅系渡来人の痕跡が非常に濃い。

一、古代の丹後地方

丹後地方は但馬の出石郡(現豊岡市)に隣接しているが、出石郡は地理的には丹後の一部であり、新羅の渡来人、天日槍(あめのひぼこ)と縁の深い土地である。また、京都府の太秦や園部町から続く丹波地方も新羅系渡来人の痕跡が非常に濃い。

丹後地方の東側には舞鶴市や宮津市があり、それらの街を包み込むように若狭湾が広がっている。若狭湾に沿った地域は新羅系渡来人である天日槍や都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)など伝承と共に、伊奨諾(いざなぎ)、伊奨冊(いざなみ)神話から始まり、山幸彦(天火明命(あめほあかり))の天降り伝承をもつ冠島や海人(あまべ)族の系図をもつ籠(この)神社(丹後一宮・元伊勢)などがある。

丹後半島は京都府の中で唯一、日本海に面している。縄文から弥生時代にかけての丹後地方は、朝鮮半島と一帯となった連合国家を形成していたと考えられる。当地方の海岸には今でもハングル文字のビンや缶などがたくさん漂着している。半島から流れる海流に乗れば、容易に日本海沿岸に到達できる。

丹後は元々は丹波国であったが、和銅六年(七一三)に分離し、丹波後国、丹後国となった。『和名抄』に、タニハノミチシノリ(田庭道後)とあり、南の大和からみて北側の奥にあるという表現であり、蝦夷に対するような意味であったのかも知れない。

丹波は中国産地の東端にあり、山陰地方の玄関口に当る。平均六百mの高地である。丹波は“たには”といわれ、豊受大神(穀物神)が初めてこの国に鎮座して神饌米を供したことから田庭と書かれたという。また、丹波・谷端とも書かれていたようである。古代の「たには」国は、丹後、丹波、若狭、但馬を含む大国であり、日本海を往来した海人族が大陸文明を取り入れた先進地域を形成していた。古代の「たには」は大和の国より古く、また出雲に匹敵する王国であった(拙者註:むしろ丹波の中心地は丹後(日本海側)だった)。

丹後半島は古代の伝承や説話が多く残っており、古代遺跡も多い。特に天孫降臨と類を同じくする渡来人の漂着神話や伝承は多い。そして、数多く存在する神社は、弥生時代から古墳時代にかけての古代祭祀遺跡や古墳をその境内にもっているものも多い。伝説で有名な神社には、秦の始皇帝の命で不老不死の薬を探しに来た徐福を祭る新井崎神社(与謝郡伊根町)、浦島と乙姫伝説(『日本書紀』雄略天皇二十二年)が伝わる宇良(浦島)神社(与謝郡伊根町)、更に、羽衣伝説で有名な乙女神社(中郡峰山町)や、矢田、波弥、名木、枳(からたち)の各神社(中郡峰山町)がある。

更に、彦火火出見尊(山幸彦)を祭神とする元伊勢の籠(この)神社(宮津市大垣―雄略天皇が天照大神を伊勢に祀る前には当地に祭られていたという)。天の橋立は当神社の参道である。元伊勢といわれる籠神社の参道は天の橋立であるが、神代の昔、天にあった伊奨諾大神が、地上の籠(この)宮の磐座(いわくら)(太古の斎場)に祭られた女神伊奨冊大神のもとへ通うため、天から大きな長い梯子(はしご)を地上に立てて通われたが、或る夜梯子が倒れてしまい天の橋立となったといわれている。伊奨諾のイザは磯の男、即ち磯(海岸)へ辿り着いた男ということである。アイヌ語では露岩の意味である。渡来伝承の一つと考えられる。

大国主命が沼河姫と共に当地に住んだ時、姫が病に罹った時、少名彦命が治したという伝説に基づく小虫神社、大虫神社(与謝野町加悦(かや)町)。この加悦町は伽耶を意味し、朝鮮半島の人(高天原といわれる)の渡来してきた町である。

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大生部兵主神社(奥野・市場)

郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造と池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。

天日槍ゆかりの神社は円山川とその支流域である出石郡・城崎郡・気多郡・養父郡に集中しており、また兵主神社という兵団もしくは武器庫を意味する神社が全国的に多くはないのに式内兵主神社がこの4郡に7社もある。

その中で大が冠せられているのは式内更杵村大兵主神社(養父郡糸井村寺内字更杵=現朝来市寺内)だけだが、更杵神社以外にも村が分離して近世にいたり、更杵集落が衰退し当社は取り残されて荒廃していた。幕末の頃、当社の再建と移宮をめぐって寺内と林垣の対立があったが、結局、現在地に遷座された。室尾(字更杵)には式内桐原神社がある。古社地は不明だが、かつての更杵集落は、現在の和田山町室尾あたりであったという。

また同じ更杵村(寺内)には、佐伎都比古阿流知命神社という式内社がある。この神社は、中世には山王権現を祭神とし、山王社と呼ばれていたが、主祭神は、社号の通り、佐伎都比古阿流知命。『日本書記』垂仁天皇八十八年紀に以下の一文がある。「新羅の国の王子、名を天日槍という」と答えた。その後、但馬国に留まり、但馬国の前津耳の娘・麻挓能烏を娶り但馬諸助を産んだ。この前津耳が、佐伎都比古命であり佐伎都比古阿流知命は、その妻であるという。一説には、佐伎都比古命は前津耳の祖であり、佐伎都比古阿流知命は、佐伎都比古命の御子であるという。いずれにしろ、延喜当時の祭神は、佐伎都比古命と阿流知命の二柱だったのだろう。

豊岡市神美地区(旧出石郡神美村)と朝来市寺内(旧養父郡糸井村寺内字更杵)はとくに天日槍ならびに兵主神社があり、また渡来人にゆかりがある地名・神社・遺跡が多い。

  
右側の低い丘が森尾古墳地

2000(平成12)年、神美地区に近い豊岡市出石町袴狭(はかざ)遺跡から出土した木製品の保存処理作業中に、船団線刻画のある木製品(板材)が見つかった。

中嶋神社の穴見川をはさんで東に隣接する森尾地区の北端に位置する小山で但馬で最も早く大正時代に発見された森尾古墳は謎の多い古墳で、そこから中国の年号である「正始元年」で始まる文字が刻まれている「三角緑神獣鏡」と、また、同時に見つかった鏡の一つが1世紀に中国でつくられた近畿で最古級の「方格規矩四神鏡」であることがわかって大きな話題になった。

出石に落ち着いてからヤマトへ移ったとみられる天日槍伝承をもつ氏族の中から、名前の現れている者に糸井造と三宅連がある。9世紀初めに撰集された氏族の系譜書である『新撰姓氏録』の大和国諸藩(特に朝鮮半島から渡来してきた氏族)新羅の項の中に「糸井造 新羅人三宅連同祖天日槍命の後なり」とある。また三宅連については右京諸藩と摂津国諸藩の項に、「三宅連 新羅国王子天日鉾(木へん)の後なり」とある。両氏族とも天日槍命を同祖とする新羅系渡来人である。

三宅氏の姓が倭の三宅に由来するのか、但馬国出石郡神美村三宅(豊岡市三宅)のミヤケ地名に由来するのかについては断定できないけれども(中略)、「糸井造」も同様に但馬の糸井(旧養父郡糸井村・現朝来市)に由来すると但馬の人たちは考えているだろう。
三宅地区のすぐ北に隣接する出石郡穴見郷には、奥野の大生部兵主神社は有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの有庫神社を祀るようになった。

また三宅地区に鎮座する穴見郷戸主大生部兵主神社(出石郡穴見市場村=現豊岡市三宅)がある。
いずれも中古からいくたびか分離のたびに遷座もしくは並立されており、それだけ由緒がある証しだ。

奈良県田原本町には鏡作りに関係する神社として、『延喜式』では鏡作伊多神社(祭神の石凝姥命は鏡製作に関する守護神)、鏡作麻気神社(祭神の天糠戸命は鏡作氏の祖神)がある。鏡作りは、弥生時代後期後半から唐古・鍵遺跡にいた銅鐸鋳造の技術者集団が、五世紀初めに新羅から伝えられた鋳造・鍛造技術を吸収していったとされ、その技術集団は倭鍛冶(やまとかぬち)と称し、この集団が鏡作氏につながる(『田原本町史』)。

また工芸品の製作技術だけでなく、大規模な土木工事に生かす技術も渡来人によってもたらされ、その技術によって造営されたと考えられる池についての伝承もある。

穴見川、奥野には土師口という字がついたバス停もあり、他の兵主神社とは異なり大生部兵主神社とわざわざ大生部と冠しているのは何か意味がありそうだ。大生部(おおうべ)とは品部(王権に特定の職業で仕える集団)のひとつではないかと想定できる。生部は生産、製造する品部とすれば穴見は鉄資源に関係する穴師、土師は須恵器(陶器)の陶部、謎の多い森尾古墳の造営と銅鏡などは、須恵器焼き上げに必要な高温生成の技術は、鉄鉱石や砂鉄の溶解を可能にするから製鉄技術集団でもあるとみなすことができると、歴史学者の上田正昭氏はいう。一連の三宅氏による、大生部は陶器、鉄器、土木などの広範囲な偉大さを誇るのかも知れない。

土師器

土師器(はじき)とは、弥生式土器の流れを汲み、古墳時代~奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のかわらけ(土師器本来の製法を汲む手づくね式の土器で、主として祭祀用として用いられた)に取って代わられるまで生産された素焼きの土器である。須恵器と同じ時代に並行して作られたが、実用品としてみた場合、土師器のほうが品質的に下であった。埴輪も一種の土師器である。古墳時代に入ってからは、弥生土器に代わって土師器が用いられるようになった。

多く生産されたのは甕等の貯蔵用具だが、9世紀中頃までは坏や皿などの供膳具もそれなりに生産されていた。炊飯のための道具としては、甑がある。

小さな焼成坑を地面に掘って焼成するので、密閉性はなく酸素の供給がされる酸化焔焼成によって焼き上げる。そのため、焼成温度は須恵器に劣る600~750度で焼成されることになり、橙色ないし赤褐色を呈し、須恵器にくらべ軟質である。

須恵器

高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島に伝えられた。『日本書紀』には、百済などからの渡来人が製作したの記述がある一方、垂仁天皇(垂仁3年)の時代に新羅王子天日矛とその従者として須恵器の工人がやってきたとも記されている。そのため新羅系須恵器(若しくは陶質土器)が伝播していた可能性が否定しきれないが、現在のところ、この記述と関係が深いと思われる滋賀県竜王町の鏡谷窯跡群や天日矛が住んだといわれる旧但馬地方でも初期の須恵器は確認されていない。結局、この技術は百済から伽耶を経て日本列島に伝えられたと考えられている。

天日槍という渡来技術集団が出石神社を中核として天日槍系の神社と集中する兵主神社、出石郡全域と城崎郡、気多郡、養父郡に基盤を固めていた事が、崇神、垂仁天皇のころには大和(奈良県)へ拠点を移す三宅氏や糸井氏の一族といい、ヤマト王権と深く結びついていた所作であるように思える。

兵主神社
兵主とは、「つわものぬし」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。大己貴命(おほなむち)も大国主の別名で、他には素盞嗚尊・速須佐之男命(スサノオ)を祭神としている。
兵庫(ひょうご)とは、古代の武器庫である兵庫(つわものぐら)に由来する言葉。
このことから転じて、歴史的には武器を管理する役職名として使用されていた。兵庫県も神戸市内の地名で大輪田泊(兵庫港)から。
兵主神ゆかりの神社は延喜式に19社ある。
大和 城上(桜井市) 穴師坐兵主神社 「兵主神、若御魂神、大兵主神」
大和 城上 穴師大兵主神社※
穴師坐兵主神社は、穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(式内小社)の3社で、室町時代に合祀された。現鎮座地は穴師大兵主神社のあった場所である。
和泉 和泉 兵主神社
参河 賀茂 兵主神社
近江 野洲 兵主神社 「国作大己貴神」
近江 伊香 兵主神社
丹波 氷上 兵主神社 「大己貴神、少彦名神、蛭子神、天香山神」
因幡 巨濃 佐弥之兵主神社
因幡 巨濃 許野之兵主神社 「大国主命、素戔嗚命」
播磨 餝磨 射楯兵主神社二座
播磨 多可 兵主神社 「大己貴命」
壱岐 壱岐 兵主神社
延喜式に19社のうち但馬の式内兵主神社
但馬國朝來郡 朝来市山東町柿坪 兵主神社 大己貴命 旧村社 一説には、持統天皇4年(690)
但馬國養父郡 朝来市和田山町寺内 更杵村大兵主神社 祭神不詳・十二柱神社
但馬國養父郡 豊岡市日高町浅倉 兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國氣多郡 豊岡市日高町久斗 久刀寸兵主神社 素盞嗚尊、大己貴命 旧村社
但馬國出石郡 豊岡市奥野 大生部兵主神社 大己貴命 旧村社
但馬國城崎郡 豊岡市山本字鶴ヶ城 兵主神社 速須佐男神 旧村社 天平18年(746)
但馬國城崎郡 豊岡市赤石 兵主神社二座 速須佐之男命 旧村社 年代は不詳
また、薬王寺に近い但東町虫生(ムシュウ)にも式内社・阿牟加(アムカ)神社の論社安牟加神社があるが、全国で3か所「正始元年」三角縁神獣鏡がみつかっている森尾古墳の森尾にも阿牟加(アムカ)神社があるがここも奥野に近く、この二か所が似ている。
大生部兵主(おおうべひょうず)神社
但馬の式内兵主神社巡りもいよいよ最後になった。
分かりにくい場所にあって数回通っているが、対岸にあるため気づかなかった。
県道703号線(永留豊岡線)と160号線が合流する地点から穴見川を越えて南へ渡った場所に境内がある。
豊岡市奥野1
旧村社
御祭神 大己貴命
いつもお世話になっている「玄松子」さんのページによると、
創祀年代は不詳。
一説に、弘仁元年(810)、当地に兵庫を建て在庫の里と呼ばれて兵主の神を祀り、兵主神社と称したという。
後に、有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの有庫神社を祀るようになった。
延暦二年(1674)本殿を改築、
寛政三年(1791)火災により焼失したため再建された。
式内社・大生部兵主神社の論社の一つ。
祭神は大己貴命だが、異説として素盞嗚尊を祀るという。
また、常陸国鹿島からの勧請とする説もある。
社殿の左右に境内社の祠が二つ。
それぞれに三社が合祀されているようだ。
社殿左の祠には、愛宕神社、秋葉神社、金刀比羅神社。
社殿右には、稲荷神社、皇大神宮、有庫神社。
ただし、大生部兵主神社として有力な論社は二つある。
豊岡市(旧出石郡)但東町薬王寺にある同名社と、この奥野にある同名社。
しかし、薬王寺の大生部兵主神社は延喜式式内社にはないから、奥野の方が古いのではないか。
薬王寺の読み方は「おおいくべひょうすじんじゃ」だが、それは時代によって変化したものだろう。
祭神として素盞嗚命を祀り、用明天皇の皇子麻呂子親王勅を奉 じて牛頭天王も祀っている。
薬王寺は但東町から丹後へ抜ける国境の峠の一つで、東側には京街道だった。

  
鳥居                   木造りの鳥居と参道

  
社殿                   拝殿

境内の西側に舞殿があり、舞殿に向かい合う形で社殿がある。
拝殿は瓦葺・入母屋造、後方の本殿は瓦葺・流造。

有庫神社

兵庫県豊岡市市場85
祭神は、武甕槌神・奧津彦神・奧津姫神・軻遇槌神・菅原道眞。
有庫神社としての祭神は、武甕槌神。
つまり鹿島からの勧請ということになる。
菅原道真公は、天神社を、
その他の神々は、荒神社を合祀したもの。
社格は、旧村社。

  
鳥居                   神門

  
社殿

穴見郷 戸主 式内 大生部兵主神社(あなみごう へぬしおおうべひょうず)
兵庫県豊岡市三宅字大森47

 
鳥居とと神門

  
本殿覆屋

式内社
田道間守を祀る式内社中嶋神社に近いところにあるが、古くて小さな社。上記の大生部兵主神社や有子神社は村の氏子の方によって手入れが行き届いているが、この社はあまり参拝者が多くないように見える。
大生部兵主神社として有力な論社は薬王寺にある同名社と、奥野にある同名社。

郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造と池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。

糸井造と三宅連

天日槍ゆかりの神社は円山川とその支流域である出石郡・城崎郡・気多郡・養父郡に集中しており、また兵主神社という兵団もしくは武器庫を意味する神社が全国的に多くはないのに式内兵主神社がこの4郡に7社もある。その中で大が冠せられているのは式内更杵村大兵主神社(養父郡糸井村寺内字更杵=現朝来市寺内)だけだが、更杵神社以外にも村が分離して近世にいたり、更杵集落が衰退し当社は取り残されて荒廃していた。幕末の頃、当社の再建と移宮をめぐって寺内と林垣の対立があったが、結局、現在地に遷座された。室尾(字更杵)には式内桐原神社がある。古社地は不明だが、かつての更杵集落は、現在の和田山町室尾あたりであったという。

出石に落ち着いてからヤマトへ移ったとみられる天日槍伝承をもつ氏族の中から、名前の現れている者に糸井造と三宅連がある。9世紀初めに撰集された氏族の系譜書である『新撰姓氏録』の大和国諸藩(特に朝鮮半島から渡来してきた氏族)新羅の項の中に「糸井造 新羅人三宅連同祖天日槍命の後なり」とある。また三宅連については右京諸藩と摂津国諸藩の項に、「三宅連 新羅国王子天日鉾(木へん)の後なり」とある。両氏族とも天日槍命を同祖とする新羅系渡来人である。『川西町史』は、この姓(カバネ)を与えられた氏族は五世紀末におかれた新しい型の品部(王権に特定の職業で仕える集団)を掌握する伴造であり、より古い型の品部を掌握する連姓氏族より概して地位は低かった。以上から三宅氏の「三宅」が前述の倭のミヤケを指し、そのミヤケの管理を担当した有力な氏族であるとすれば、糸井氏と三宅氏の関係は、三宅氏が天日槍の直系の子孫に当たる氏族で、その三宅氏から分かれた一分族が糸井氏であると推測できる。

三宅氏の姓が倭の三宅に由来するのか、但馬国出石郡(豊岡市)三宅のミヤケ地名に由来するのかについては断定できないけれども(中略)、「糸井造」も同様に但馬の糸井(旧養父郡糸井村・現朝来市)に由来すると但馬の人たちは考えているだろう。

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八幡神について

[catlist categorypage=”yes”] 八幡神とは?

ちなみに、同じく武神である八幡神(はちまんしん、やはたのかみ、やわたのかみ)は、日本独自で信仰される神です。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも言います。

八幡神を祀る神社は八幡神社(八幡社・八幡宮・若宮神社)と呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国2位です。一方、岡田荘司氏らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるといいます。

祭神は、現在では、応神天皇を主神として、神功皇后、比売神(ひめのかみ)を合わせて八幡神(八幡三神)ともしています。神功皇后は応神天皇の母親であり、親子神(母子神)信仰に基づくものだといわれます。比売神(ひめのかみ)[*1]は八幡神の妃神と説明されることも多いですが、その出自はよく分かっていないそうです。 八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)です。元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神であったと考えられています。農耕神あるいは海の神とされますが、柳田國男氏は鍛冶(かじ)の神ではないかと考察しています。

宇佐神宮は全国の八幡神社の総本社で八幡大神を祭っている。周辺の神社がほとんどスサノオやオオトシを祭っているのにその中心にある神社が別の人物を祭っているのはどうも解せない。八幡大神はスサノオのことであると考えられる。宇佐の地は瀬戸内から九州への足がかりとなりうる地であり,スサノオ一族はこの地を拠点にして北九州地方を統一したものと考えられる。 諏訪の八剣神社を始め方々の神社にスサノオの別称であると記されている。  東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(749年)、宇佐八幡の禰宜の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかります。天応元年(781年)には仏教保護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号が与えられました。これにより、全国の寺の守護神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなりました。後に、本地垂迹においては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされました。

また、応神天皇が八幡神であるとされていることから皇室の祖神ともされ、皇室から分かれた源氏も八幡神を氏神としました。源頼義は、河内国壷井(大阪府羽曳野市壷井)に勧請し、壷井八幡宮を河内源氏の氏神とし、その子の源義家は石清水八幡宮で元服したことから、八幡太郎義家と呼ばれました。

源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の主護神として自分の領内に勧請しました。それ以降も、武神として多くの武将が崇敬しました。

とくに関東・東北地方に多く、兵主神とは対照的に関西では多くありません。
-出典: 「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学教授 佐藤 信
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2009/08/28

靖国神社宮司に豊岡ゆかりの京極高晴氏就任

靖国神社で以下の記事をみつけた。

産経 2009/06/12 22:42

靖国神社は12日、総代会を開き、1月に急逝した南部利昭前宮司の後任に、京極高晴氏(71)を決めた。就任は15日付。南部氏に続き、2代続けて旧華族で神職経験のない民間企業出身者の宮司となる。

京極氏は旧但馬豊岡藩(兵庫県)の藩主だった京極家15代当主。東大法学部卒業後、日本郵船事業部長、氷川丸マリンタワー社長、関東曳船社長などを歴任した。

第10代宮司就任に当たって京極氏は、「御創立140年にあたるこの年に、宮司の大役を仰せつかることとなり、身の引き締まる思いでいっぱいです」とのコメントを出した。

前宮司の南部氏は1月7日、虚血性心不全のため急逝。後任人事は難航し、宮司は5カ月間、空席となっていた。

日本海に多い気多という地名と気多神社

拙者が生まれた町は古くは気多(ケタ)郡といわれていた。明治29年(1896年)4月1日、郡制の施行のため、城崎郡・美含郡・気多郡の区域をもって、改めて城崎郡が発足。(2町24村)。平成17年(2005年)4月1日
城崎町・竹野町・日高町が豊岡市・出石郡出石町・但東町と合併し、改めて豊岡市が発足、郡より離脱。香住町が美方郡村岡町・美方町と合併して美方郡香美町が発足。同日城崎郡消滅。以上によって気多郡も城崎郡も消滅したが、ところで、気多ってどういう意味なんだろう?というのがあった。

1.気多という地名

「気多」という郡名、郷名は、日本海に意外に多く、鳥取県(因幡国)気多郡(現鳥取市青谷町・鹿野町)、兵庫県(但馬国)気多郡(現豊岡市日高町)、京都府(丹後国)加佐郡に気多保(現舞鶴市喜多?)、石川県羽咋市能登国一宮気多大社(羽咋市寺家町・延喜式は名神大)、遠江国(静岡県西部)山香郡気多郷にもかつて気多郡があった。

明治29年(1896)、鳥取県の旧気多郡は高草郡と合併して、気高郡となり、現在は鳥取市。伝説で有名な因幡の白兎は、この気多郡に関係がある説話で、「この島より気多の崎という所まで、鰐(ワニ=サメのこと)を集めよ」といい、兎が隠岐から戻る話です。気多の島という名は、『出雲風土記』の出雲郡の条にも出てきます。

気多大社は、石川県羽咋市に能登国一宮、旧国幣大社で、同じ「大己貴命(オオナムチノニコト)」を祭神とする気多大社など北陸にたくさんある。気多大社の社伝によれば、大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされる。崇神天皇のときに社殿が造営された。奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、『万葉集』に越中国司として赴任した大伴家持が参詣したときの歌が載っている。

人名では、奈良時代末期から平安時代初期にかけて、気多君の名が出てくる。

「気多の名前が分布しているのは、出雲、因幡、但馬、能登と太平洋側の遠江の五ヶ所に限られる。但馬の気多神社も、祭神は出雲国と濃い関係にある大己貴命(おおなむちのみこと)だというから、気多という名を負う気多氏は、出雲の国から起こって、その一族の播居地に、気多という名前を残していたとも考えられはしないだろうか。」

と日高町史は記している。

2.気多大社と気多苗裔神びょうえいしん

 

六国史・延喜式比定社備考
国郡旧社名社格現社名主祭神所在地
能登国気多大神宮式内社(名神大社)気多大社大己貴命石川県羽咋市寺家町能登国一宮

六国史や『延喜式』神名帳には、次に示すような気多神の苗裔神(御子神)や分祠が日本海沿いの各地に確認される。(ウィキペディア)

櫻井正範さんから自著『気多祝の源流』気多神は、越中国府に分祀された。越中国一宮気多神社である。さらに越後国が分離されると、国衙の置かれた直江津の五智に気多の神が分祀され、越後国一宮居多神社が創建された。後になって越後の一宮は、弥彦神社となった。同様に国内最後に立国された加賀国には、江沼郡(小松市額見町)に気多神が分祀され、気多御子神社が創設される。また気多神は飛騨国にも足跡を残した。古川盆地に鎮座する気多若宮神社である。この他に但馬国円山川の中流域を支配する気多郡にも、気多神社は鎮座する。

気多苗裔神の一覧

六国史・延喜式比定社備考
国郡旧社名社格現社名主祭神所在地
飛騨国吉城郡気多若宮神気多若宮神社大己貴命

御井神

岐阜県飛騨市古川町上気多国史見在社
加賀国江沼郡気多御子神社式内社気多御子神社天照皇大神 大己貴命 菊理媛神石川県小松市額見町
越中国射水郡気多神社式内社(名神大社)気多神社大己貴命
奴奈加波比売命
富山県高岡市伏木一ノ宮越中国一宮
越後国頸城郡居多こた神社式内社居多神社大己貴命
奴奈川姫命
建御名方命
事代主命
新潟県上越市五智越後国一宮
但馬国気多郡惣社気多大明神式内社気多神社[*1]大己貴命兵庫県豊岡市日高町上郷但馬国総社

*1 『国司文書 但馬故事記』には、人皇一代神武天皇九年冬十月、佐久津彦命の子・佐久田彦命を以って佐々前県主と為す。佐久田彦命は国作大己貴命を気立丘に斎き祀る。これを気立神社と称し祀る(佐々前県はのち気立県となり、さらに気多県)。また。「人皇八代孝元天皇三十二年の条に、当県の西北に気吹戸主命の釜在り。常に物気を噴く。ゆえにその地を名づけて、気立原と云う。その釜は神鍋山なり。よって佐々前県を改めて気立県と云う。」

気多神社は最初は気立神社と云う。気立県は、のちに気多県と字を変え、気多郡と改制される。

これからみると、能登国一宮の気多大社と豊岡市日高町の総社気多神社の関係性以前に、気多は、神鍋山に由来する県名としてすでに存在していたので、気多大社から気多郡になったのではなさそうである。

その神鍋山であるが、すでに何万年も前に死火山となっており、「常に物気を噴く」とは解せない。神が宿っているとされる山を神名備というが、物気とは「もののけ」で、噴火口の痕を見た人々が、「もののけ」が宿っていそうな神名備としたのが、神鍋に訛ったのだろうと筆者は考えている。

気多神社の社伝では、

『播磨国風土記』宍禾郡御方里条では、葦原志許乎命(大己貴命)と天日槍命が黒葛を投げて国占を争ったという伝説が記され、葦原志許乎命の投げた黒葛3本のうち1本は但馬気多郡に落ちたと伝えることから、郡名を冠する当社は早くより鎮座したものと推測される。また社名から、能登国一宮の気多大社(石川県羽咋市)を始め各地の気多神社との関連が指摘される。

同じく『国司文書 但馬故事記』に、「人皇二八代宣化天皇三年夏六月、能登臣気多命を以って、多遅麻国造と為す。能登臣命は、その祖・(垂仁天皇の皇子)大入杵命を気多神社に合わせ祀る。」

多遅麻国造に能登臣の子孫らしき人物が任命されることに不思議に思っていた。能登国造は、成務天皇の御代に垂仁天皇の皇子大入来命(大入杵命)の孫彦狭島命が任じられ、後裔は能登臣である。能登国一宮・気多大社と気多神社の関係性があるとすれば、能登国造ゆかりの能登臣の子孫が多遅麻国造に赴任したのはそうした経緯と思わなくもない。

 

 

気多神社と潟湖

気多という地名・神社の所在地を地図上に確認すると、かつては潟湖であった寄港地に鎮座していることがわかった。ネットでそのことを書いていたことから、櫻井正範さんから自著『気多祝の源流』という作品をいただいた。

能登と丹波

能登半島が丹後半島との関係を深めたのは、ヤマト大王系譜からみるとタケル(日本武尊)の祖・垂仁天皇を仲立ちとしている。今日の天皇系譜につながる大王(天皇)は、六世紀前半の継体天皇からではないかと考えられている。この継体大王は越前三国湊で育ち、母の振姫は羽咋君に連なっている。

丹波と能登は、共に対馬海流が海岸を洗う日本海に突き出た半島国であった。そして能登半島・羽咋はくいは、丹後半島・竹野たかのと同様に「潟湖」が発達した日本海の良港であった。両半島の付け根に位置した潟湖は、弥生時代から水田が開かれていた。今では干拓が進んで一面の水田となり、潟湖の面影はない。潟湖とは、砂州で出口を狭められて出来た汽水湖である。

この両地域の潟湖には、日本海地域王権を象徴する盟主古墳が築かれている。丹後半島の西の付け根の竹野潟を見下ろす丘に、日本海側最大の前方後円墳、神明山古墳が築かれた。神明山古墳は、全長210m、三段築成葺石で覆われ、象形埴輪が伴っている[*2]。古墳の麓には、代々櫻井氏が奉る丹後竹野神社が鎮座する。一方、能登半島の気多大社の背後には、滝大塚山古墳が築かれた。直径90mの帆立貝形古墳で、やはり葺石で墳丘が覆われ、邑知潟おろちがたを見下ろす眉丈丘陵に築造された。埴輪を伴う帆立貝形古墳としては、日本海側最大級のものであった。

両方の古墳は、ヤマトに「イリヒコ」王権が成立した四世紀末から五世紀初頭に築造され、潟湖を見下ろす地域盟主の古墳である。丹後半島の神明山古墳から出土した象形埴輪には、船首が上がるゴンドラと、かいを持つ人物がヘラ描きされており、埋葬者と海との関わりが深いことを物語っていた。森浩一氏によれば、越のヨオド王(継体大王)は、帆船をトレードマークに使用したと言われる。

*2 日本海側最大の前方後円墳は、網野銚子山古墳(墳丘長201m)で、神明山古墳はこれに次ぐ墳丘長190m。

 

静神社(しずかじんじゃ)・子午線塔


日本標準時 最北端の塔

静神社に向かう途中、最北に子午線塔が建てられています。東経135度 北緯35度41分


京丹後市網野町磯
御祭神 静御前

当地で禅師の娘として生まれたとされる静御前は、父の死後、母とともに京都へ上り白拍子となりました。その後、舞を源義経に見そめられ、側室となりました。しかし義経は兄・頼朝に追われ、子どもも殺されてしまいます。

悲しみにくれ故郷の磯に戻った静御前は、二十余歳の若さでこの世を去りました。義経への愛を貫いた静の気丈さ。それをはぐくんだ故郷・磯には、静御前をまつる静神社が悲恋の面影を残すかのようにひっそりとたたずんでいます。また、周辺には静の庵跡に建つ静御前生誕の地の碑、義経が船を着けたといわれている入艘の浜と沖の飛び岩があります。

[googlemaps http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&gl=jp&ie=UTF8&oe=UTF8&msa=0&msid=201168065864897767226.0004a89f7ae05c06a274e&brcurrent=3,0x5fffbaa7cabd0503:0xb9417724454eab50,0&ll=35.685954,134.991331&spn=0.0244,0.036478&z=14&iwloc=0004a8b3d9adb0ecba6dd&output=embed&w=425&h=350]

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【たじまる】 鹿島神社


兵庫県豊岡市日高町府中新

日本に仏教が伝来してから百年も経つと、仏教の普及はめざましく、日本のあちこちで造寺が行われ、「白鳳寺院」と呼ばれています。但馬の白鳳寺院は、現在のところ豊岡市三宅の薬琳廃寺のみが知られています。

鹿島神社境内には、大きな礎石が安置されています。名神式外社なのでけど、但馬の郡ごとに設置された「郡分寺」ではないかと想定されています。薬琳廃寺の建立に続く時期のものだそうです。

郡分寺とはいえ巨額の費用がかかるので、気多郡の在地有力者が、個人的に独力で建立したものではなく、但馬国司の側から、積極的に造営費の援助、助成が行われていたのでしょう。さらに各郷には「郷寺」がつくられはじめます。寺は鎮護国家の道場であると同時に、教育の場として、律令制度を全面的に実施するために、但馬国衙から郡司や郷司に指令が発せられます。

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出雲大社

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

出雲大社

目 次

  1. 出雲大社
  2. 相撲と埴輪(はにわ)の起源

1.出雲大社(いずもおおやしろ、いずもたいしゃ)

くわしくは出雲大社 http://www.izumooyashiro.or.jp/をご覧ください。


島根県出雲市大社町杵築東195

式内社(名神大) 出雲国一宮 旧社格は官幣大社

近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社でした。

御祭神 「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)」
古来より「国中第一之霊神」として称えられ、その本殿は「天下無双之大廈」と評されました。もともとは杵築大社(きづきたいしゃ)と呼ばれていましたが、明治4年(1871年)に出雲大社と改称しました。延喜式神名帳には「出雲国出雲郡 杵築大社」と記載され、名神大社に列しています。
出雲大社は「天日隅宮(あめのひすみのみや)、天日栖宮(あめのひすのみや)、所造天下大神宮(あめのしたつくらししおおかみのみや)、杵築大社(きずきのおおやしろ)ともいわれています。

祭神大国主命は「大己貴神(おおなむちのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)、葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)」などの別名で呼ばれています。

わが国最古の神社建築を誇り、古来より伊勢神宮と並び称されてきました。神話伝承や過去の記録に残る出雲大社は、歴史上、常に特別の神社として位置づけられ、その時代の為政者(後醍醐天皇、豊臣家、毛利家、松平家等)より社領の寄進や祈願等、加護と信仰を受けてきました。

「古事記」には大国主命の国譲り(神楽の映像)の項に「私の住む所として天子が住まわれるような壮大な宮殿を造ってくれるのなら、国を譲り、世の片隅で静かに暮らしましょう」ということで造営されたと記されています。
「日本書紀」には「汝が祭祀をつかさどらん者は天穂日命(あめのほひのみこと=天照大神の第二子)これなり」とあり、この天穂日命の子孫が出雲国造で、現在まで継承されているといわれています。

巨大な注連縄
オオクニヌシノカミは、生きとし生けるものに生きる力を与える「母なる大地」的な神であるところから「縁結びの神」と讃えられています。
むかしから大地が秘めている生成の力を「ムスビ」という言葉であらわし「産霊」という文字をこれにあてています。この神がこうしたムスビの霊威をあらわされるが故に、生きとし生けるものが栄える「えにし」を結んでいただけるのです。

「オオクニヌシノカミほど多くの苦難を克服された神はない。人生は七転び八起きと言うけれども、この神の御一生は、それに似た受難の連続であったが、常に和議・誠意・愛情・反省によって、神がらを切磋修錬され、その難儀からよみがえられたのである。あの福々しい笑顔は、こうした修行によって得られたところのものなのである。」

縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日~17日)。正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれる。


【国宝】 本殿

陰暦の10月を神無(かんな)月という。全国の神々がみな出雲大社に集まり、国々では神さまが留守になるので、むかしから10月を神無月というのだという。そこで出雲では全国の神々が来られるからこの月を神有(在)月とよんでいる。この言葉は室町時代の辞書『下学集』に見えているので、かなり古くからこういう信仰が人々の間にはあったと思われ、また十月という文字を組みあわせると「有」という字になるというので、大社の古い手箱の散らし紋にも、亀甲紋の中に「有」の字が描かれている。


創建伝承

出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られています。以下はその主なものでありますが、

  • 大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
  • 高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に対して、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命をに祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
  • 所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)
  • 神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)
  • 垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)


古代本殿 島根県立古代出雲歴史博物館展示物

これは豊岡市久々久比(ククヒ)神社や鳥取部の伝承と同じです。

  • 斉明天皇5年、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)
    o 注:熊野大社のことであるとの説もある。伝承の内容や大社の呼び名は様々ですが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえます。


島根県立古代出雲歴史博物館展示物

現在の本殿は延享元年(1744年)に作られました。高さは8丈(およそ24m)で、これも神社としては破格の大きさですが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられています。その伝承より想定される形は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものであった。この想定は東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より巨大であったとされる。平安時代の「口遊」(源為憲著、天禄元年・970成立)には、全国の大きな建物の順として「雲太、和二、京三」と記され、これは出雲太郎、大和二郎、京都三郎のことで「一番出雲大社、二番東大寺大仏、三番京太極殿」を意味し、その巨大性を示す有力な証となっています。

16丈の建築物が古代において建造可能であったのかに疑問を呈する意見もありますが、実際に何度も倒壊したという記録があり、当時の技術レベルを超えて建築された可能性は否定出来ないそうです。上古32丈についても、山の頂上に建てられ、その山の高さであると考えれば、不自然では無いという意見もあります。

平成12年(2000年)、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘されました。古代社殿の柱ではと注目を集めたが、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも宝治2年(1248年)造営の本殿である可能性が高まりました。

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