【出雲神政国家連合】 一宮にみる日本海勢力図

弥生時代に繁栄を支えた潟湖

山陰地方の古代に繁栄したところは、潟湖や湾であること、温泉があることが多いことに関心を持っていた。元同志社大学教授の森浩一氏は、環日本海地方は「潟」を中心として古代文化が栄えた、という説を述べています。

恵美嘉樹氏『全国「一の宮」徹底ガイド』によると、
弥生時代に山陰地方は日本有数の豊かな地だった。それを経済的に支えたのが無数の潟湖だった。いまよりずっと温暖だった縄文時代に深い入り江だったこうした場所は、弥生時代になって気温が下がると海が引いていき、潟湖や自然の港になった。
武光誠氏『古代出雲王国の謎: 邪馬台国以前に存在した“巨大宗教国家”』には、
日本海航路が開けた理由は、次の二点に求められる。第一に日本海沿岸に、自然の地形のままで良港になる潟湖とよばれる砂州が多いことである。第二に対馬海流の存在である。

出雲周辺には、波根潟、神西湖、淀江潟の三つの潟湖がある。しかも、中海と宍道湖の中に安全な港がいくつもできる。そして神戸川、斐伊川、日野川をさかのぼることによって、出雲の海岸部と内陸部との交流がなされる(ちなみに斐伊川と日野川は「肥の川」であり、それは砂鉄が多いことを意味しているという)。
北九州の文化は、間をとばして真っ先に良港の多い出雲に入る。そして、東郷湖、湖山池と久美浜湾・浅茂川湖(離湖)・竹野湖の二か所の中継地を経て能登半島に達する。

(補足すれば、一宮との関連から、因幡と丹後の間の但馬は出石神社と円山川・津居山湾が、籠神社と宮津湾が、若狭彦神社と小浜湾、気比神宮と敦賀湾などもある。)
このような航路を通じて、出雲政権は越までの日本海沿岸をその指導下におくことになった。

航海技術の未発達な古代にあっては、海流に乗ることが効率よく船を進めることにつながった。日本海側の寒流であるリマン海流は海岸から遠いところを流れており、暖流である対馬海流は沿岸部にある。

そのため、日本海航路では南西から北東に行くのは容易であったが、北東から南西に進むのは手間がかかった。その結果、北九州から出雲に多くのものがもたらされ、されに対馬海流を利用して南方の文物も伝わった。

出雲に残る海蛇信仰は、南方の文化への憧れから来るものである。出雲大社には、神官が十月に、沖縄から対馬海流に乗ってきたセグロウミヘビを稲佐浜で捕らえて神前に奉る習慣が見られる。出雲の日御碕神社や佐太神社にも、セグロウミヘビを三方にのせて祀る神事が見られる。佐太神社では「あやしき光、海を照らす」という祝福を行う。

古くは出雲では海蛇だけでなく、南方から海路で伝わった異文化をすべて「あやしき光、海を照らす」と言って重んじた。美保神社には、島根半島に漂着した沖縄の漁具とフィリピンのくり船を収めた倉があるが、そこに「あやしき光、海を照らす」と書かれている。

海流を利用できる出雲には、海流のない瀬戸内海航路上にある吉備や大和より早く、北九州の先進文化が伝わったのだ、と記している。
弥生時代に山陰地方は日本有数の豊かな地だった。それを経済的に支えたのが無数の潟湖だった。いまよりずっと温暖だった縄文時代に深い入り江だったこうした場所は、弥生時代になって気温が下がると海が引いていき、潟湖や自然の港になった。

倭文神社の近くには、弥生人の脳がはじめて見つかった青谷上寺地遺跡がある。今でこそ平野になっているが、弥生時代には内陸まで海が入り込んだ良港だった。渡来人の技術者が様々な工芸品を作り出し、豊かな暮らしの村があったことが考古学の調査でわかっている。羽合温泉がある。

一宮(いちのみや)

一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。通常単に「一宮」といった場合は、令制国の一宮を指すことが多い。準公的な一種の社格として機能した。一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を三宮のように呼ぶ。
1.原則的に令制国1国あたり1社を建前にした。

2.祭神には国津神系統の神が多く、開拓神として土地と深いつながりを持っており、地元民衆の篤い崇敬対象の神社から選定されたことを予測できる。
3.全て『延喜式神名帳』の式内社の中から選定された1社であるが、必ずしも名神大社に限られていない。
必ずしも神位の高きによらないで、小社もこれに預かっている。

一宮の起源

江戸時代後期の国学者である伴信友は、天保8年(1837年)の著書 『神社思考』の中で、一宮を定めた事は信頼できる古書類には見えず、いつの時代に何の理由で定めたか詳しく分からないと前置きした上で次のように考察した。それによれば、『延喜式神名帳』が定められた後の時代に神祇官あるいは国司などより諸国の神社へ移送布告などを伝達する神社を予め各国に1社定め、国内諸社への伝達および諸社からの執達をその神社に行わせたのではないか。また、それらの神社は便宜にまかせ、あるいは時勢によるなどして定められた新式ではないか。以上のように考察しながらも、伴信友は自説に対して「なほよく尋考ふべし」と書き添えた。
現在、一宮の起源は国司が任国内の諸社に巡拝する順番にある、とするのが通説になっている。

一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を三宮のように呼ぶ。
二宮、三宮の起源も国司の神拝順とする説があるが、『時範記』に国内をぐるりと一周してくる国司神拝順路が記述されている因幡国では二宮が不詳である。それとは逆に九宮まである上野国では、地図上で一宮から九宮までを順番に線で結ぶと同じ道を行ったり来たりすることになり、『一宮ノオト』では国司神拝の順路として変ではないかと指摘している。通説では11世紀~12世紀にかけて成立したとされる。

■山陰道

出雲国 「出雲大社」「熊野大社」
出雲大社 島根県出雲市 名神大 官大 勅祭社 別表 主祭神 大国主大神
社家 千家・北島両家
本殿様式:大社造

まず日本海国家連合体を語るなら、ここからはじめなければならない。出雲大社は平安時代の『口遊(ずさみ)』は、巨大な様を「雲太、和二、京三」と形容していた。出雲大社が一番大きく、大和の東大寺大仏殿が二番目、京都へ案教の大極殿が三番目だったと伝えている。さらに本殿の高さは十八丈(約48m)とも、三十二丈(約97m)ともいい、このような巨大建造物が平安時代、しかも出雲にあるはずがないといわれていた。ところが近年、本殿近くから巨大神殿の三本柱が見つかったことで証明されたのである。

出雲大社(杵築大社)は、古代の有力豪族は、おおむね一族の祖神を祀っている。ところが、出雲氏の祖神である「天穂日命」を重んじずに大国主の祭祀を職務とした。
別ページに書いているので、詳細は省くが、出雲の一宮はオオクニヌシの「国譲り」神話にあるように、オオクニヌシが出雲大社(杵築大社)へ鎮まることを約束して出雲は平定したと伝える。ではどこからなのか。それはもう一つの一宮・熊野大社からとなるだろう。

熊野大社 島根県松江市 名神大 国大 別表
主祭神 熊野大神櫛御気野命
本殿様式:大社造

全国に熊野神社は多く、紀伊国の熊野三山が有名だが、この熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。

『出雲国風土記』には熊野大社と記されていた。その後『延喜式神名帳』では熊野坐神社と記された。
祭神名は「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」とし、素戔嗚尊の別名であるとしている。「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」は「イザナギが可愛がる御子」の意、「加夫呂伎(かぶろぎ)」は「神聖な祖神」の意としている。「熊野大神(くまののおおかみ)」は鎮座地名・社名に大神をつけたものであり、実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」ということになる。「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である。
本来、櫛御気野命は素戔嗚尊とは無関係であったものとみられるが、『先代旧事本紀』「神代本紀」には「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあり、かなり古い時代から櫛御気野命が素戔嗚尊と同一視されるようになったと考えられる。明治に入り、本来の形に復するとして祭神名を「神祖熊野大神櫛御気野命」として素戔嗚尊の名を廃したが、後の神社明細帳では「須佐之男命、またの御名を神祖熊野大神櫛御気野命」となり、元に戻っている。

二宮 佐太神社 島根県松江市鹿島町 式内小社、国幣小社、別表
主祭神 正殿:佐太御子大神、北殿:天照大神、南殿:素盞嗚尊

石見国 「物部神社」

物部神社 島根県大田市 名神小社 国小 別表 主祭神 宇摩志麻遅命
社家 金子家
本殿様式:春日造変形
物部氏初代の宇摩志麻遅命を主祭神とし、相殿の右座に物部氏祖神で主祭神の父神である饒速日命と所有していた剣の霊神である布都霊神、左座に天御中主大神と天照皇大神、客座に別天津神と見られる五神と鎮魂八神を祀る。
宇摩志麻遅命が石見国に鶴に乗って降臨したとも伝えることから、当社の神紋は赤い太陽を背景に鶴の「日負い鶴」である。
社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて美濃国・越国を平定した後に石見国で歿したという。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年(514年)、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。
景行天皇の時代に物部竹子連が石見国造に任ぜられ、その子孫は川合長田公を名乗り代々祭祀を行っていたというが、文治4年(1184年)金子家忠が安濃郡の地頭として赴いたときに子の道美が取って代わって当社の神主となり、以降金子氏が代々の祭祀を行うようになったという。戦前に金子氏は出雲大社の千家・北島両家や、日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。
石見銀山(大田市)に近い。石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山(火山)は、『出雲国風土記』が伝える「国引き神話」に登場する。 国引き神話では、三瓶山は鳥取県の大山とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされている。 『出雲国風土記』では、三瓶山は「佐比売山(さひめやま)」の名で記されている。

隠岐国 「水若酢神社」「由良比女神社」

水若酢神社 島根県隠岐郡隠岐の島町 名神 国中 別表
本殿様式:隠岐造茅葺
祭神 水若酢命
由良比女神社 島根県隠岐郡西ノ島町 名神 村社 主祭神 主祭神 由良比女命

名前に残る織物技術 伯耆一宮「倭文(しとり)神社」

倭文神社 鳥取県東伯郡湯梨浜町 名神小社 国小 別表
祭神 タケハズチ

安産の神として有名な倭文神社は、美しい東郷湖を見下ろす山の中にひっそりとある。
祭神のタケハズチは、古代にこの地方の主産業だった「倭文(しずおり)」という織物技術を持っていた一族の祖先神なのだが、むしろ妻の祭神シタテル姫の方が隅々まで浸透している。

伝承によれば、シタテル姫は出雲のオオクニヌシの娘で、海を伝ってこの地に嫁入りした(山陰海岸の孤立集落では、隣の集落から船で行き来することは、つい戦前まで続いていた)。助産婦のような技術を持った女性だったのだろう。そのまま定住して死ぬまで多くの子どもを取り上げた。地場産業の織物は消えて、安産の信仰だけが残ったという。

このことは、倭文の祭神が実は女神であるシタテル姫そのものだった可能性を示している。古代には男系継承だけでなく女系継承する豪族がいたことがわかっている。天皇家の祖先神・アマテラス(天照大神)が女神であったように、始祖が女性であるのは一般的なことだった。何より織物の技術を持つのは女性であることが多い。

二宮 大神山神社 主祭神 大己貴命 名神小社・伯耆国二宮・国幣小社・別表神社
(本社)鳥取県米子市尾高1025
(奥宮)鳥取県西伯郡大山町大山

蘇我氏を鎮める因幡一宮「宇部神社」

宇倍神社 鳥取県鳥取市国府町 名神大 国中 別表
タケノウチスクネ(武内宿祢)を祀る。
本殿様式:三間社流造檜皮吹

神功皇后は、夫の仲哀天皇の喪に服してから、タケノウチスクネを従え住吉の三神を守り神として新羅征伐に行った。この遠征の帰途に生まれたのが応神天皇だ。この苦難を乗り越えた母子をさせた、端午の節句「こどもの日」に掲げる幟には、応神天皇を抱くタケノウチスクネが描かれるのが定番である。それゆえに子どもを守る神でもある。上り昔の五円札には、タケノウチスクネの肖像画と宇部神社の本殿が描かれていたそうである。当時の五円札は家が建つほどの高額紙幣だった。ここから商売繁盛の神としての性格も加わるようになった。

山陰地方の東端である因幡にタケノウチスクネが祀られているのは、じつは大化改新で滅ぼされた蘇我氏の先祖がタケノウチスクネなのだ。蘇我氏が政治の表舞台で活躍するきっかけとなったのは、出雲を制圧した功績とも言われている。

山陰地方の中心には出雲があり、その東には因幡と伯耆が、反対の西には石見(島根県)がある。歴史・考古学的に見ると、どうやら六世紀ころに蘇我氏の勢力が東から、ライバルの物部氏が西から出雲をめざして争っていたことが読みとれる。それを裏付けるように、因幡一の宮の神は蘇我氏であり、一方の石見一の宮は「物部神社」なのである。こうしてみると大化改新の三年後に宇部神社が創建されたのも、蘇我氏を鎮魂するという深い理由がありそうだ。

二つの但馬国一宮 「出石(いずし)神社」「粟鹿(あわが)神社」

出石神社 兵庫県豊岡市出石町 名神大  国中 別表 主祭神 天日槍命(あめのひぼこのもこと)、出石八前大神
本殿様式:三間社流造
社家 長尾家

粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町 名神大  県社 本殿様式:流造
主祭神 彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)あるいは 日子坐王
但馬国一宮は出石神社と当社の二社とされる。粟鹿神社の近くに但馬最大の前方後円墳 池田古墳や円墳など大きな古墳が多い。鎌倉時代の但馬国大田文では当社を二宮としているが、室町時代の大日本国一宮記では当社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていない。出石を本拠とした応仁の乱西軍大将・山名宗全が関係しているのだろうか?)

三宮 水谷神社/養父神社

天皇家よりも古い系図国宝「海部系図」の丹後国 
「元伊勢 籠(この)神社」

丹後国一宮 籠神社 京都府宮津市 名神大 国中 別表 本殿様式:神明造
主祭神 彦火明命(ほあかりのみこと)
社家 海部家

彦火明命(ひこほあかりのみこと、別名:天火明命、天照御魂神、天照国照彦火明命、饒速日命)を主祭神とし、豊受大神(とようけのおおかみ、別名:御饌津神)、天照大神(あまてらすおおかみ)、海神(わたつみのかみ)、天水分神(あめのみくまりのかみ)を相殿に祀る。
祭神には諸説あり、『丹後国式社證実考』などでは伊弉諾尊(いざなぎ)としている。これは、伊弉諾尊が天に登るための梯子が倒れて天橋立になったという伝承があるためである。

社伝によれば、元々真名井原の地(現在の境外摂社・奥宮真名井神社)に豊受大神が鎮座し、匏宮(よさのみや、与佐宮とも)と称されていた。『神道五部書』の一つの「豊受大神御鎮座本紀」によれば、崇神天皇の時代、天照大神が大和笠縫邑から与佐宮(当社と比定)に移り、豊受大神から御饌物を受けていた。4年後、天照大神は伊勢へ移り、後に豊受大神も伊勢神宮へ移った。これによって、当社を「元伊勢」という。したがって、天皇家の菊の御紋が掲げられているのは、山陰では出雲大社と当神社。

二宮 大宮売神社 名神大 府社 京都府京丹後市大宮町
日本海側の丹後国は丹波国の中心であったが、のち丹波国は丹波国・但馬国・丹後国に分立
■北陸道
若狭国 若狭彦神社 福井県小浜市 上社 名神大  国中 別表 本殿様式:三間社流造
二宮 下社 若狭姫神社 名神大 本殿様式:三間社流造
主祭神 (若狭彦神社)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
(若狭姫神社)豊玉姫命(トヨタマヒメノモコト)
越前国 氣比神宮 福井県敦賀市 名神大 官大 別表 主祭神 伊奢沙別命(気比大神)  二宮 劔神社
加賀国 白山比咩神社 石川県白山市 名神小社 国中 別表 主祭神 白山比咩大神(白山比咩神)
伊邪那岐尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ) 二宮 菅生石部神社
能登国 気多大社 石川県羽咋市 名神大 国大 単立 主祭神 大己貴命
二宮 伊須流岐比古神社/天日陰比咩神社
越前国から、のちの加賀国、能登国は分立
引用:恵美嘉樹氏『全国「一の宮」徹底ガイド』、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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