アメノホアカリ(天火明命)は后のアメノミチヒメ(天道姫命)といっしょに、
サカヘノアマツモノノベ(坂戸天物部命)・ナミツキノ 〃 (両槻天物部命)・フタタノ 〃 (二田天物部命)・シマヘノ 〃 (嶋戸天物部命)・タルヒノ 〃 (垂井天物部命)を率いて、
これより先に、トヨウケヒメ(豊受姫命)は高天原より降り、丹波国
天火明命は垂井天物部命に、
天火明命はすぐに
豊受姫命はこれを見て大いに喜び、「大変良い。」と大いに褒め、田庭に植えさせる。この地をのちに
のちに豊受姫命は丹波国与謝郡真名井原に斎きまつり、豊受大神宮と称えまつる。(籠神社奥宮 眞名井神社:京都府宮津市江尻)
そのあと、天火明命、は五穀蚕桑を国中に頒かち、大神におおみたから(蒼生)を幸福にした。
この時、オオナムチ(国作大巳貴命)・スクナビコナ(少彦名命)・ウカノミタマ(蒼魂命)は、諸国を巡って見て高志国(越の国)にとどまり、アメノホアカリを呼んで言った。
「あなたは、この国を治めるのがよい。」
アメノホアカリは、大いに喜び言った。
「永世です。青雲の志楽国」(栄誉です。気高い希望あふれる国と訳してみる)
今の志楽村はこれである。(京都府舞鶴市志楽あり)
アメノホアカリは、のちタニマ(谿間)に入り、佐田稲飯原を開き、
天熊人命は、夜父の谿間に行き、桑を植え、蚕を
また垂井天物部命に、真名井を
また
古老が伝えて云うには、
を率い、
御船は
第1代神武天皇3年(前658年)秋8月 小田井県主、
武饒穂命は大国主命の娘、美伊
郷名は
第2代綏靖天皇25年(前557年)夏5月 武饒穂命の子、武志摩命(または志麻命)を美伊県主とする。
武志摩命は、小田井県主、
第4代懿徳天皇30年(前481年)秋7月 武志摩命の子、武波爾命を美伊県主とする。
武波爾命は、小田井県主、
第5代孝昭天皇76年(前400年)春3月 武波爾命の子、石津来命を美伊県主とする。石津来命は、小田井県主、
第6代孝安天皇65年(前328年)夏5月 石津来命の子、武美努志命を美伊県主とする。
武美努志命は、小田井県主、
第7代孝霊天皇60年(前231年)秋8月 武美努志命の子、大努乃命を美伊県主とする。
大努乃命は、小田井県主、布久比命の娘、耳井姫命を妻にし、宇比智命を生む。
第8代孝元天皇48年(前167年)夏6月 大努乃命の子、宇比智命を美伊県主とする。
宇比智命は、小田井県主、美々井命の娘、
第9代開化天皇40年(前118年)秋9月
武額明命は、小田井県主、小口宿祢命の娘、吉江姫命を妻にし、武波麻命を生む。
第10代崇神天皇10年(前88年)秋9月 丹波国青葉山の賊、
天皇は
(以下、気多郡故事記他と重複するので割愛する)
彦坐命は諸将を指揮して陸耳に迫る。その時彦坐命の甲冑が鳴動して光を発する。その海を名づけて
彦坐命は、諸将とともに出雲国に至り、美保大神・八千矛神(出雲大社)を詣で戦功をお礼をし、伯耆・稲葉(因幡)の海上を経て、二方国を過ぎ、暴風に遭い、辛うじて諸寄の港に入る。それで
暴風が止むと、彦坐命は船を進めて、多遅麻の
彦坐命は船となった大アワビを拝して神霊とし、11月3日皇都に凱旋する。天皇はその功を賞して、丹波道(丹波国・但馬国・二方国)を賜う。
12月 彦坐命は諸将を率いて、多遅麻粟鹿県に下り、諸将を各地に置く。
15年(前83年)秋9月 美伊県主武額明命は、大国主命・
28年(前70年)夏4月 武額明命は、美伊毘古命に命じて、美伊県主武饒穂命・美伊比売命を
武額明命はのち大倭国(大和国)に従う。
冬10月 武額明命の子、武波麻命を美伊県主とする。武波麻命は、天砺目命の娘、佐伊良姫命を妻にし、大佐古命を生む。
第11代垂仁天皇60年(31年)秋7月 武波麻命の子、大佐古命を美伊県主とする。
大佐古命は、
第13代成務天皇5年(135年)秋9月
当芸志毘古命は、河内
第14代仲哀天皇元年(192年)夏4月 先帝の皇子、
2年(193年) 天皇は皇后の
天皇は使いを越前笥飯宮に遣わし、皇后に教えて
皇后は、越前
伊豆志県主、須賀
須義芳男命は、豪勇で腕力があり、
皇后は下って小田井県大神に詣で、水門に帰りお泊りになる。その夜、越前笥飯宮に坐す
「船で海を渡るには、必ず
皇后は教えに従い船魂神を祀る。また御食を五十狭沙別大神にお供えする。
それでこの水門を気比浦という。
皇后の御船がまさに水門を出ようとする時、
建日方命は
御船が伊技佐の海に至ると日が暮れる。この時
御船は綱を陸上の松につなぐ。今その松を柱
神功皇后3年(203年)夏5月 春野命の子、鹿島命を
夏6月 五十狭沙別大神を美伊県の
7年(207年)春正月3日 美伊県主吉備津彦命が亡くなる。舟生山に葬る。
50年(250年)秋8月 鹿島命の子、河原命を竹野別とする。
第16代仁徳天皇元年(313年)夏6月 若倭部命の孫、青島命の子、仁良山命を美伊県主とする。
30年(342年)春 美伊県を美含県とする。
第17代履中天皇4年(403年)秋8月 仁良山命の子、舟生命を美含県主とする。
第19代允恭天皇41年(452年)秋9月 舟生命の子、長井命を美含県主とする。
第21代雄略天皇17年(473年)春4月 出雲国
夏5月 気多郡陶谷甕主は部属を率いてまた来る。
また
出石県
陶谷甕主はその祖、野見宿祢命を陶谷の丘に祀り、陶谷神社と申しまつる。(村社八幡神社:豊岡市竹野町鬼神谷無番地)
小埦甕人はその祖、
埴田陶人はその祖、
第22代
5年夏6月 桑原臣多奇市を美含県主とする。多奇市は崇神天皇の皇子、
第24代
崇神天皇は、紀伊国那珂郡
豊城入彦命は
八綱田命は
大荒田別命は
多奇波世命は、若倭部青島命の娘、
竹努乃命は河会命の娘、狭山姫命を妻にし、多久比命を生む。(豊岡市竹野町に宇日・田久日)
多久比命は、宇津毘古命の娘、宇津比売命を妻にし、久邇布命を生む。
久邇布命は大野命の娘、高比売命を妻にし、多奇市命を生む。
多奇市は雄略天皇8年夏6月 皇后のために桑木を大和の初瀬朝倉広原(今の奈良県桜井市)に作る。それで桑原臣を賜う。
第27代安閑天皇元年(534年)夏4月 桑原臣多奇市の子、
第29代欽明天皇32年(571年)春2月 佐自努公が亡くなる。在任38年、寿68。平田原に葬る。
春3月 佐自努公の子、佐須地公を美含県主とする。佐須地公は祠を建て、佐自努公を祀る。佐受神社はこれである。(式内佐受神社:美方郡香美町香住区米地字宮脇417-2)
第33代推古天皇35年(627年)春2月 佐須地公の子、
香住彦は市場を開き、貨物を交易する。
第39代
12年(683年)夏5月 美含大領・椋椅部連小柄は勅を受け、兵馬器械を備え、武事を講習し、
嶋戸天物部命の末裔、
また
楯縫連彦麿はその祖、
葦田首鞆雄はその祖、天目一箇命を鍛冶の丘に祀り、葦田神社と申しまつる。(村社
13年(684年)秋7月 (美含郡司)大領の
宇摩志麻遅命は、
14年(685年)秋9月 竹野浜成は竹野別命を河島山に祀る。(式内鷹野神社:豊岡市竹野町竹野84-1)
第42代
国府を気多郡
大宝2年(702年)夏4月
安来我孫は大国主神の孫、
昔、
凡海連寿美はその祖、穂高見命を谷の丘に斎きまつり、沖神社と申しまつる。(村社沖浦神社:美方郡香美町香住区訓谷562-1)
慶雲3年(706年)秋7月 諸国に疫病が流行し、多くの人が死ぬ。美含大領の椋椅部連小柄は、
4年(707年)夏6月 矢田部連守柄はその祖、
矢田部連守柄は、
第44代
そうはいっても、三世が尽きれば、すぐに公に返すのが定めなので、これをもって開発をする者は少ない。
第45
神亀4年(727年) 大いに戸数が増える。それで口宣により郷里を置く。佐須・竹野・桑原・美含・香住。
また戸を編成するに満たないものは、特に
5年(728年)夏5月 大領・従八位上・矢田部連守柄は、その同族の
勇山連市牛麿は、その祖、出雲色雄命を伊伎佐社に祀る。出雲色雄命は饒速日命の3世孫である。
また大領・少領・主政・主帳らの子弟・同族は、各所に出向し、部民を督励し荒れ地を開く。
桑原臣善積は、河南谷を開き、その祖、桑原臣多奇市を星ヶ森山に祀り、星神社と申しまつる。(村社星神社:豊岡市竹野町川南谷86)
桑原臣善友は、
杉・桧を杉谷に作り(村社産霊神社:豊岡市竹野町三原178-2)、熊野大隅命を杉山に祀る。(村社熊野神社:豊岡市竹野町須野谷611-1)
また水害を祈るため、瀬織津姫神を大川森に祀る。(村社大川神社:豊岡市竹野町御又80-1)
佐自努公
苗原神社・神原神社・熊野神社・大川神社・佐受神社の初めである。
天平19年(747年)春3月 本郡の兵庫を竹野郷に遷し、武事を練習する。
葦田首鞆麿を兵庫の典りんとする。葦田首鞆麿は兵主神を兵庫の側に祀る。それでその地を芦田村という。(兵主神社:豊岡市竹野町芦谷小155)
美含大領従八位上・矢田部連守柄は、伊多首辰巳(*13)を召し、竹野郷に遣わし、金原の赤金谷鉱石を探させ、これを採掘させる。
伊多首辰巳はその祖、
夏6月 出雲原直
今木連正良は大野を開き、その祖、
久斗首義氏は、久斗山を開き、大山祇神およびその祖、雷大臣命を久斗山に祀り、これを大杉神社と申しまつる。(村社大杉神社:美方郡新温泉町久斗山1279-2)
第46代
矢田部連は大山に祀り、矢田部神社と申しまつる。(村社大山神社:美方郡香美町香住区矢田869-1)
夏5月 安来吾彦を主政に任じ、凡海連国依を主帳に任ずる。
秋8月 美含大領、能登臣道麿は大入杵命を土師の丘に祀る。大入杵命はまたの名を
第50代柏原天皇の延暦10年(791年)夏6月 小山連義川を主政に任じ、道守臣国雄を主帳に任ずる。
小山連義川はその祖、櫛玉命を
道守臣国雄はその祖、
第51代平城天皇の大同元年(806年)春3月 佐自努公を美含大領とし、郡家を佐須郷に置く。(佐須は今の美方郡香美町香住区佐津)
佐自努公は、2年(807年)春正月18日 氏子を率い、佐受神社に詣で、初めて高蔭祭を行う。これ以降、歳時を制して毎年となる。
第53代西院天皇の天長7年(830年)秋7月 大庭造仲雄を主政に任じ、新家首磯主を主帳に任ずる。(大庭は新温泉町浜坂の郷名、新家は香美町香住区上計)
大庭造仲雄はその祖、素盞嗚尊・櫛稲田姫命を釼山に祀り、大庭神社と申しまつる。(村社戸田神社:美方郡新温泉町
新家首磯主はその祖、宇摩志麻遅命を御影の丘に祀り、森本神社と申しまつる。(村社森本神社:美方郡香美町香住区上計175-2。上計を「アゲ」と訓むことから、新家はアラガ・アラゲといいアゲに転訛したとも考えられる)
第55代文徳天皇の仁寿2年(852年)秋7月 外従八位上・日下部良氏を美含権大領(*17)とする。日下部良氏は彦湯支命の末裔である。
3年(853年)秋9月 日下部良氏はその祖、彦湯支命を阿故谷に祀り、阿故谷神社と称えまつる。(村社石原神社(阿故谷神社):豊岡市竹野町阿金谷588-3)
良氏が亡くなる。年35。その妻、日置部小手子は、日下部良氏を影見の丘に斎きまつる。(日下部鏡宮。草飼は日下部の転訛)(村社鏡宮神社:豊岡市竹野町草飼無番地)
第56代水尾天皇の貞観10年(868年)夏6月 道守臣義雄を主政に任じ、小山連百川を主帳に任ずる。
貞観17年(875年)冬10月8日 但馬国の節婦、美含郡の日置部小手子(*18)を位二階に叙する。小手子は年16、美含権大領・従八位上、日下部良に従い、29歳にして夫が亡くなっても節を守り、再婚せず、晩年に至るまでその意志はますます固く、地元の民は褒め称えた。
第57代陽成天皇の元慶2年(878年)9月22日 但馬国美含郡の従七位上・若倭部氏世・貞氏・貞通ら三人に楓朝臣の姓を賜い、氏世を大領に任ずる。
3年4月3日 楓朝臣氏世はその祖、武額明命・吉備津彦命・高野姫命を舟生山に祀り、[舟丹]生神社(*19)と称えまつる。神浦川はその傍らを流れる。(式内丹生神社:美方郡香美町香住区浦上1185-2)
神戸五烟(*20)はその東にあり、神田はその南に並び、神浦山は東にそびえ、舟生港は北西にある。
第60代小野天皇の延喜22年(922年)春3月 佐自努公美主を主政に任じ、坂合部義直を主帳に任ずる。
佐自努公美主はその祖、佐自努公香住彦を香住の丘に祀り、坂合部義直はその祖、山迹子命を坂合の丘に祀る。香住神社・米子神社はこれである。
(村社香住神社:美方郡香美町香住区香住241 米子神社(村社米粉神社):美方郡香美町香住区境368-1)
佐自努公美主は大領の命に依り、美含郡神社神名帳を作り、郷社に納める。
(神社記載一覧は割愛する)
第61代朱雀天皇の承平2年(932年)春3月 佐自努公近麿を美含大領に任ずる。近麿は佐自努公の末裔である。
第62代村上天皇の康保3年(966年)夏6月 佐自努公近道を美含大領に任じ、正八位下を授く。
右 国司の解状により、これを注進する。
美含大領 正八位下 佐自努公近道
安和2年(969年)3月24日
[註]
*1 射狭那子嶽( いさなごだけ) 京丹後市峰山町の比治山。麓に比沼麻奈為神社がある。
*2 黄沼前(きのさき) 黄沼前県で、のちの城崎郡 現在の豊岡市の大部分
*3 河内師木県(しきあがた) のちの河内国志紀郡。今の大阪府藤井寺市の大部分、八尾市・柏原市の一部
*4 三嶋水門 津居山港だが、西刀(瀬戸)水門とは書かず三嶋としているので、当時はそれより上流の楽々浦であったかもしれない。
*5 兵庫 櫓(やぐら)とは日本の古代よりの構造物・建造物、または構造などの呼称。矢倉、矢蔵、兵庫などの字も当てられる。 木材などを高く積み上げた仮設や常設の建築物や構造物。
*6 典鑰(てんやく)とは、律令制において中務省に属した品官(ほんかん)である。和訓は「かぎのつかさ」。
*7 大領・少領・主政・主帳 大宝令により、評が廃止されて郡が置かれ、郡司として大領・少領・主政・主帳の四等官に整備される。郡司は、旧国造などの地方豪族が世襲的に任命され、任期のない終身官。郡司として記す場合は大領または少領のことである。
*8 大初位(だいしょい、だいそい) 律令制の官職の位階における位の一つ。正一位から少初位下までの従八位(または従九位)の下、少初位の上の位階である。
*9 伴造 伴造は中央の豪族で、伴造とされた豪族はそれぞれの職掌を持ち、傘下の部民を率いてヤマト王権の中枢に人的あるいは物的に奉仕した。
*10 国造 国造は古代日本の行政機構において地方を治める最高位の官職で、のちの国司にあたる。大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。
*11 余戸 古代日本の律令制の行政組織として国・郡・里(郷)があったことが知られている。里(郷)は50戸ごとに編成されており、これを満たさない集落を余戸と呼んで保長などに監督させたと言われている。余部は戸数に関わらずそのまま村名として残った例。漢字表記が異なるJR餘部駅は、「余」の旧字体で、同じJR姫新線の余部駅(よべえき)との重複を避けたため。
*12 鏇工 旋は「まわす」で、清器・土器を作る台のロクロを作る部民ではないか。
*13 伊多首辰巳 首(おびと)はその土地の頭またはその一族。伊多は気多郡伊多(井田)で、今の豊岡市日高町鶴岡
*14
*15 郡家(ぐうけ・ぐんげ・こおげ・こおりのみやけ) 郡司の役所。郡内の政務を行う所
*16 「同記」に記載する美含郡神社神名帳の社名に、美伊神社とは別に出雲原神社が記されているので別の社と思われる。
*17 権大領 職制にはないが、文徳期の頃には権大領の職階も置かれたものであろう。
*18 節婦、美含郡の日置部小手子 節婦とは節操をかたく守る女性。つまり貞節な女性。操の固い女性のこと。叙勲を受けるということは、当時としてもまだ29歳という若さで再婚もせず亡き夫を慕うような人は大変珍しかったのだろう。
*19 [舟丹]生神社 延喜式神名帳には式内丹生神社で「丹」の文字であるが、『国司文書 但馬故事記』では
*20 神戸五烟 神戸(かんべ)とは租庸調を納める神社領の民。神殿を耕し神社の雑事に仕える部落を指す。五烟とは戸数が五戸のこと。
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