お菓子の神様-中嶋神社
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お菓子の神様-中嶋神社
朱塗りの大鳥居
【国指定重要文化財】
祭神:主祭神:田道間守命(たじまもりのみこと・多遅麻毛理命) 配祀:天湯河棚神(あまのゆかわたなのかみ)
住所:兵庫県豊岡市三宅1
「菓祖・菓子の神」として製菓業者の崇敬を受け、日本各地に分社がある。
中嶋神社の祭神田道間守は、古事記では、多遅麻毛理(タヂマモリ)、日本書紀では田道間守(タヂマモリ)は、ヒボコの曾孫、多遅摩比那良岐の子。
式内社 旧社格は県社
二間流造(ながれづくり)で、室町時代の典型的な神社建築を伝えています。
中の鳥居
御祭神の田道間守は、韓国、昔の新羅の皇子で、我が国に渡来して帰化し、但馬の国を賜り、これを開発したアメノヒボコ(天之日矛、天日槍)命(アメノヒボコ)の五世の子孫で、日本神話で垂仁天皇の命により常世の国(現在の韓国済州島と言われている)から当時の菓子としては最高のものとして珍重された「非時(ときじく)の香の木の実」(橘…みかんの一種)を、長い歳月をかけ、艱難辛苦の末持ち帰ったところ、垂仁天皇はすでにお亡くなりになり、命は悲嘆の余り、その御陵に非時香菓を献げた上、殉死された。 ときの景行天皇は、命の忠誠心を哀れみ、御陵(山辺道上陵:奈良県天理市渋谷町の渋谷向山古墳(前方後円墳・全長300m)に比定)の池の中に墓を造らせた。田道間守の墳墓が垂仁天皇陵をめぐる池の島にあったことからその名がついました。
また、現鎮座地に居を構えて当地を開墾し、人々に養蚕を奨励したと伝えられることから養蚕の神ともされます。
拝殿
田道間守命が異界に果物や薬草を求めに行く話は、人物を代えて世界各地に伝わるもので、この説話は中国の神仙譚の影響を受けていると考えられています。例えば秦の徐福が蓬莱に不老不死の薬を求めに行く話があります。徐福伝説として各地に伝わっています。全国でも珍しいお菓子の神様として、「菓祖・菓子の神」として製菓業者の崇敬を受け、日本各地に分社があります。中嶋神社の分霊が太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、吉田神社(京都市)など全国に祀られており、菓子業者の信仰を集めている。現在も全国の菓子製造業者などの崇拝を受け広く親しまれいます。
佐賀県伊万里市には、常世の国から帰国したタヂマモリが上陸した地であるという伝承があり、伊万里神社にはタヂマモリを祀る中嶋神社がある。和歌山県海南市の橘本神社の元の鎮座地「六本樹の丘」は、タヂマモリが持ち帰った橘の木がはじめて移植された地と伝えられています。
本殿
天湯河棚神は中古に合祀された安美神社の祭神であります。天湯河棚神(天湯河板挙命)は鳥取造の祖であります。一説には、日本書紀に記される、垂仁天皇の命により天湯河板挙命が鵠を捕えた和那美之水門の近くに天湯河棚神を祀ったものであるといわれています。 創建は非常に古く、国司文書によれば、約千三百年前の推古天皇(在位593~628)の御代、田道間守の七世の子孫である三宅吉士が、祖神として田道間守を祀ったのに始まる。「中嶋」という社名は、田道間守の墓が垂仁天皇の御陵の池の中に島のように浮んでいるからという。
中古、安美郷内の4社(有庫神社・阿牟加神社・安美神社・香住神社)を合祀し「五社大明神」とも称されたが、後に安美神社(天湯河棚神)以外は分離した。
摂社 安美神社
現在の朱塗りの本殿は、応永年間の火災の後、約六百年前の室町中期、正長元年(1428年)に但馬の領主 山名氏により建立されたもので、室町中期の特色をよく示しているものとして重要文化財に指定されて国指定重要文化財に指定されました。 推古天皇の御代になって、七代目の命の孫に当たる、この地三宅に住む「吉士中嶋(キチシナカジマ)の君がこの神社を創立し、命を祭られたと伝えられます。
毎年四月の第三日曜日を「橘菓祭(菓子祭)が行われ、全国より菓子業者の参拝もあり、招福、家業発展を祈願して盛大に行われます。(神社御由緒などより)
地名の三宅について
屯倉(みやけ)とは古墳時代に設けられた土地や人民の支配制度の一つで、大和政権が直接支配した土地のことを指す。「屯倉」は『日本書紀』の表記。『古事記』・『風土記』・木簡では「屯家」「御宅」「三宅」「三家」とも表記されます。
大化の改新で廃止されました。
豊岡市三宅という地名から大和政権が直接支配した土地だったとことが濃厚です。但馬・丹後には養父市関宮町にも三宅、京丹後市丹後町三宅があります。
旧神美村三宅は、森尾古墳群があり、ヤマト朝廷以前から栄えていた豪族がいたのでしょうか。朝廷の支配下にして直轄領にしたということは重要な場所であったに違いないのでしょう。
[註]
- [*1]…この「社伝」は、のち奥丹後震災で焼失した。
- [*2]…「宝物」の数は、[古事記』では「八種」、『日本書紀』では「七種」とされている。
- [*3]…「ひもろぎ」 ヒモロキとも。神の宿る神聖な場所。玉垣で囲ったりした。
兵庫県豊岡市法花寺
祭神:酒弥豆男命、酒弥豆女命
【国指定重要文化財】創祀年代は不詳。境内案内によると、白鳳三年(675)の夏、
当地方を治めていた郡司・物部韓国連久々比命が
贄田の酒所を定め、酒解子神・大解子神・子解子神の酒造神を祀って
醸酒し、これを祖神に供えて五穀豊穣を祈願した。
その斎殿が、当社の発祥であるという。
祭神は、杜氏の祖神、酒造司の守護神である
酒美津男命と酒美津女命。
別名、大倉大明神とも大蔵大明神とも記され、拝殿扁額にも「酒垂神社」と並んで「大蔵大明神」の名が掲げられている。
酒弥豆男命と酒弥豆女命という酒の神をまつる酒垂神社。本殿は2本の柱で一間をつくる一間社流造の構造で、国の重要文化財に指定されている。現在は保護のために上屋で覆われている。永享10年(1438)に斧始め、嘉吉元年(1441)に立柱、文安元年(1444)に遷宮、体裁を完備したのが、宝徳元年(1449)で、前後11年をかけて建てられた建物。
お菓子の神様・中嶋神社やコウノトリの神社・久々比神社と同じ大工の手によってつくられていて、ここはお酒の神様。記録によると大伴久清という宮大工によって建てられており、細部にわたってすぐれた意匠が凝らされています。 大伴久清という大工の苗字・大伴は、今も三江地区に分布している大伴姓と関係があるかも知れません。江戸時代に入って修理を担当した藤原勘右衛門は、明らかに下宮の人でした。その修理技術は優秀で、原型を損なうことなく修復してあります。
こけらぶきの本殿は、鮮やかな朱塗りが修理の跡を物語りますが、すっぽりと覆い家の中に収まり、この囲いがあったからこそ、本殿も数百年の風雪に耐えてきたのかと変に納得させられました。 参道の左右に、狛犬のかわりに垣に囲まれて「甕石」があります。「鶴石」「亀石」といいます。古来は磐座だったものかも知れない。