【環日本海の歴史】(5) 弥生時代のはじまり


[wc_skillbar title=”環日本海の歴史” percentage=”100″ color=”#6adcfa”] [catlist id=8]概 要
弥生時代とは、およそ紀元前10世紀中頃から3世紀中頃までにあたる北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つであり、縄文時代に続く、古墳時代に先行する時代の名称です。
弥生時代の暦年代は、近年、自然科学の年代測定の進歩によって、研究が進んでくると、時代の過渡期の様相は極めて複雑で、時代区分についても多くの見解の相違が出てきています。
弥生時代については、現在もどの段階を始まりと終わりと考えるかについて、いろいろ意見がありますが、国立歴史民俗博物館の研究グループによる炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説がでてきました。
これによると、
弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の三期に分けられていましたが、近年では上記の研究動向をふまえ、
・早期(紀元前1000年頃~紀元前800年頃)
・前期(紀元前800年頃から紀元前400年頃
・中期(紀元前400年頃~紀元50年頃)
・後期(紀元50年頃~三世紀中頃)
の四期区分論が主流になりつつあります。
しかし、一口に弥生時代といっても、1200年間というと、時代区分の平安時代(794~)から現代までをひとまとめにするようなもので、狩猟時代から稲作がはじまり、クニが誕生するまでの、とても長く未知な世界です。
弥生時代の新たな研究
小さな村落からなる国家出現としての日本と日本人というオリジナルな文化を形成するべき、実に重要な歴史区分の一つです。最近では縄文時代からすでに大陸とのつながりがあった形跡が見つかっています。縄文から続く大陸とのつながりは、この時代に加速度を増し、混沌と複雑味を増してくるのです。
弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用によって穀物の備蓄が可能になったことから、余剰作物の生産と蓄積がすすみ、これが富に転化することにより、持てるものと持たざるもの、ひいては貧富の差や上下関係が生まれました。また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行しました。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされています。
このような争いを通じて集団の統合・上下関係の進展の結果、やがて各地に小さなクニが生まれました。1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」が後漢から、3世紀中葉には邪馬台国の女王(卑弥呼)が魏に朝貢し、倭の王であることを意味する金印を授けられました。 なお、この頃以降の日本は、大陸からは倭(ワ・やまと)と呼ばれました。
つい近年まで、ヤマト建国以前の出雲には、神話にあるような巨大な勢力があったわけではないというのが常識でした。出雲神話は創作されたものであり、ヤマト建国後の話に終始していたものであったからです。 出雲神話があまりにも荒唐無稽だったこと、出雲からめぼしい発掘品がなかったこともその理由でした。
ところが、このような常識を一気に覆してしまったのが、考古学の新たな大発見でした。島根県の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡、鳥取県の青谷上寺地遺跡、妻木晩田遺跡の発見によって、弥生後期(ヤマト朝廷誕生前夜)に、山陰地方に勢力が出現し、しかも鉄の流通を支配していた可能性が出てきたのです。
こうした最近の研究成果や遺跡・遺物など文献資料にとどまらず、神社や神話・説話など、境界を越えたさまざまな交流の上に展開した日本列島諸地域の古代史を多元的に明らかにするというテーマで、探ってみたいと思います。
環日本海の古代史…その大きな謎とロマン(そんなたいそうな(;^_^A
近年、青森・三内丸山遺跡、島根加茂岩倉遺跡、荒神谷銅鐸、鳥取・大山町、淀江町にまたがる妻木晩田遺跡など、
新しい発掘によって、古代の人々は、日本海沿岸はもちろんのこと、
朝鮮半島や中国大陸と自由に航海し、交易していたことが実証されてきました。
江戸時代まで続いていた北前船も、古代から続いてきた「いにしえの文化遺産」であったといえるでしょう。
関裕二氏『海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ』には、
稲作民は日本を征服したのか
「騎馬軍団を率いた征服者」の存在を想定することは、あまり現実的ではない。そうではなく、むしろ弥生時代の「武装した渡来稲作民」の存在の方が問題である。
弥生時代の到来は、大量の稲作民族の渡来によってはじまった可能性が高い。少なくとも、北部九州に稲作文化を根付かせる基礎を作っていったのだった。
彼らは半島や大陸の戦乱をくぐり抜けてきた人々で、日本列島にも、防御力の高い環濠集落や、金属製の武器をもたらした。稲作民族と騎馬民族を比較すれば、騎馬民族の方が好戦的に思えるが、実際には稲作民もよく戦う人々なのだ。
温厚そうに見える稲作民族が、なぜ戦いを好むのかというと、「農業」が土地の奪い合いを前提としているからだ。農耕民は貪欲に食べるだけではない。「膨張する農地」も無視できない。
農業は「余剰」を生み出し、その「余剰」が、人口爆発を引き起こす。
人口爆発が、今度は新たな農地(田んぼ)を求める。
新たな農地を獲得すれば、さらに「余剰」が再生産される。
この連鎖が「農業の宿命」であり、しかも周囲の集落でも同じ事をやっているのだから、当然土地をめぐっていさかいが起きる。その紛争が大規模なものになって、強いリーダーが求められる。
また、金属器の登場によって、農作業の効率が上がり、そのため、「競争」は激化し、「もっと広い農地」を求めて、農耕民は戦ったわけである。
このように、稲作や農業という「システム」そのものが、戦乱と強いリーダーを求めたのである。
稲作文化は軋轢と融合を重ねて広まっていったわけで、「農耕そのものが戦争を呼び寄せる」のだkら、弥生時代は混乱のじだいとなったのである。
人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

コメントする

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください