『校補 但馬考』
城崎郡
倭名類聚抄に載する郷6
新田・城崎(キノサキ)・三江・奈佐・田結(タイフ)・餘部
「倭名抄(倭名類聚抄)」地理志料 京大文学部編
城埼郡
岐乃佐支(キノサキ)
承和九年紀に、但馬の城埼郡 海ノ神社が官社を預かる。(中略)
本郡の東は、丹後の熊野郡に至り、南は出石・気多のニ郡に至り、西は美含郡に至り、北は海に至る。郷は5、餘戸1を管す。
弘安(大田文)の中に、新田・福田・城埼・上三江・下三江・鎌田・田結・植爪・大浜・下鶴井・気比の11荘。今は16町、77村を領す。豊岡の本町に郡治(郡役所)在り。城埼と美含郡役所を兼ねる。
新墾田郷(今は新田郷)
穴目杵命またの名は宇麻志宿祢命これを開く。御開(みひらき)の名は山に止める。(今の三開山)
城埼(郷)
支乃左支(キノサキ)
昔者(古い人)は云うに、ここに郡家があることに郡名は起因していると。源平盛衰記に、徳大寺が但馬の木埼ノ荘をもって定める。増鏡に、安嘉門院が丹後の天ノ橋立をご覧になり、但馬の城埼ノ温泉の奥に浴びる(鴻の湯か?)。
古今集の作品に但馬の出(いで)湯。 弘安大田文に、 長講堂領 城埼郡城埼ノ荘 田74町、 山門無動寺領 小田井ノ社田31町。
但馬考には、今の城崎荘。佐野・九日・妙楽寺・戸牧(とべら)・大磯(おおぞ)・小尾埼・豊岡・野田・新屋敷・一日市・下陰・上陰・高屋・六地蔵・の14村。
祀典所 女代神社 九日村、深坂神社 小尾埼村、懸神社 豊岡の小田井町。
按ずるに、承久二年、後鳥羽帝の子 六条宮雅成親王子は敗れて但馬国高屋に御所谷あり。建長二年 薨(こう)ずる。豊岡城 康正期に山名宗全が築くとあり。(漢文が正確にわからないが大要)
『国司文書別記 城崎郡郷名記抄』
黄沼前郷(古語は杵努佐伎、今は城崎郷)
黄沼前郷は古の黄沼海(キノウミ)なり。この故に名づく。昔は上(かみ)、塩津大磯より、下(しも)、三島に至るの間一帯の入江なり。これを黄沼海という。黄沼は泥の水湛*なり。故に?沼というなり。(*湛水は水をたたえること。つまり沼地。)
黄沼前島は、黄沼島・赤石島・鴨居島・結浦島・鳥島・三島・小島・小江・渚浦・干磯・打水浦・大渓島・茂々島・戸浦など、その中にあり。
天火明命(あめのほあかりのみこと)開闢(かいびゃく)の時、すでに所々干潟を生じ、浜をなす。あるいは地震・山崩れにて島湧き出で、草木青々の萠(きざ)しを含む。天火明命 黄沼前を開き、墾田となす。
故に天火明命 黄沼前島に鎮座す。小田井県神これなり。
降りて、稲年饒穂命(いきしにぎほのみこと)・味饒田命(うましにぎたのみこと)・佐努命(さののみこと)あいついで西岸を開く。与佐伎命は、浮橋をもって東岸に渡り、鶴居岳を開き、墾田となす。故に世開神という。
鶴居岳は、また鵠鳴山*と名づく。鴻鳴き集まる故の名なり。黄沼崎島はいわゆる豊岡原なり。(*鵠 くぐい。白鳥の古語)
立野村・女代村(今の九日市)・深坂(みさか)村(小尾崎村、今の三坂)・永井村・鳥迷羅(とりみはり・今の戸牧)・大石村(今の大磯)
大石村は大磯なり。大石宿祢在住の地なり。故に大磯を改めて大石という。物部大石神社はここにあり。物部大石宿祢命を祀る。
これは、多遅麻国造 物部連多遅麻彦命の子 物部連多遅麻が斎く神社の名なり。
物部連大石宿祢は、仁徳天皇の御世、西刀宿祢命が黄沼前郡司 大海部彦命の旨を奉じ、西刀水門の浚渫切開中、事に従い、よく大石を運ぶ。故に朝廷に奉し、これを賞す。天皇詔して、大石宿祢の姓を賜うという。
大石宿祢に二子あり。兄彦(えひこ)・弟彦(おとひこ)という。兄彦の後を大石宿祢といい、弟彦の後を神力直(かんちからのあたひ)*という。その子孫いづれも大力あり。(*神部直が正しい)
文部天皇の御世、大宝元年夏五月、大石宿祢兄彦の裔 国彦は、但馬国司 檪井臣(いちいのおみ)春日麿の召しにより、国府の遷り、池堀りの業に従事す。故にまた上石宿祢(あげしのすくね)という。気多郡上石村は、上石宿祢在住の地なり。
(今の上石・池上・堀)
『校補 但馬考』
今の村数
佐野・九日(ココノカ)・妙楽寺・戸牧(トベラ)・大磯(オホゾ)・小尾崎・豊岡・野田・新屋敷・一日市・下陰・上陰・高屋・六地蔵
豊岡
豊岡は、山の名なり。一に亀城(かめしろ)と云う。今の城地は、一郷の市場なりしを、中世に開かれる。当地は今の新屋敷と云う所なり。(今の神武山。新屋敷は今の宵田町)
御贄郷(三江郷)
御贄郷は小田井県大神御贄の地なり。
渚郷(古語は奈伎佐、今は奈佐郷)
伎多由郷(今は田結郷)
餘戸郷
令状(律令)に定むるところの数(50戸)に余りあり(足りない)。故に余部という。墾谷(今の飯谷)・機紙村(今の畑上)・御原村(三原)
註:別記田結郷に詳しく述べる。