アメノホアカリ(天火明命)[*1]は、丹波国加佐志楽国において、この国をオオナムチ(国作大己貴命)をいただき、
アメノミチヒメ(天道姫命)・サカヘノアメノモノノベ(坂戸天物部命)・フタタ(二田 〃 )・ナミツキ(両槻 〃 )・マナイ(真名井 〃 )・シマヘ(嶋戸 〃 )・アメノイワフネ(天磐船命)・アメノイトリベ(天揖取部命)・アメノクマヒト(天熊人命)・ウカノミタマ(蒼稲魂命)
を率いて、この地にやってきた。
真名井を掘り、田を開いて、その水を引くと、稲穂が垂れるうるわしき秋の稲田の風景になった。
それでこの地を比地の真名井原という。(比地は奇霊地の意味)
アメノホアカリは、奇霊宮(式内浅間神社:養父市浅間)に、后のアメノミチヒメは
第1代神武天皇の8年秋7月 イサフタマ(伊佐布魂命)の子であるイサミタマ(伊佐御魂命)を比地県主とする。
イサミタマはオジミタマ(牛知御魂命)の娘テルタエ(照栲姫)を妻にし、アサフミタマ(麻布御魂命を生んだ。
第3代安寧天皇の10年(BC539年)夏5月 イサミタマの子、アサフミタマを比地県主となる。アサフミタマは、
第5代孝昭天皇の11年(BC465年)夏6月 アサフミタマの子、アメノテルヒを比地県主とする。
アメノテルヒは、小田井県主(のち城崎郡)サノ(佐努命)の娘・オオテルヒメ(大照毘売命)を妻にし、テルワカヒコ(照若彦命)を生んだ。アメノテルヒは照日宮にいます。
第6代孝安天皇の20年(BC373年)7月 アメノテルヒの子、テルワカヒコ(照若彦命)を比地県主とする。
テルワカヒコはハナナシヒコ(花梨彦命)の娘・花梨姫命を妻にし、タママエマワカ(玉前真若命)を生んだ。テルワカヒコは照若宮にいます。
第7代孝霊天皇の4年(BC387年)冬9月 テルワカヒコの子、タママエマワカを比地県主とする。
タママエマワカはクトマワカ(久刀真若命)の娘、タマキヒメ(玉木毘売命)を妻にし、ミホツヒコ(美穂津彦命)を
ミホツヒコはオオイツキ(大斎主命)の娘、ミヤノビメ(宮野毘売命)を妻にし、ミホマワカ(美保真若命)を生んだ。
第10代
丹波青葉山(通称わかさ富士)の賊で、
その
(多遅麻)国造の祖、
(中略 『気多郡故事記』参照)
天皇はその功を賞し、(ヒコイマスに)
12月7日 ヒコイマス(彦坐命)は、諸将を率いて、多遅摩粟鹿県(先の比地県)に下り、刀我禾鹿(今の東河・粟鹿)の宮に居した。
のちに彦坐命は(天皇から)勅を奉じて、諸国(三国)を巡察し、平定を奏した。
天皇は勅して、姓を
11年(BC87年)夏四月、(粟鹿)宮に還り、諸将を各地に置き、鎮護(まもり)とした。
丹波
その下に、
当芸利彦命の功を賞し、
同じく、
比地県主(のちの朝来郡)・美保津彦命
夜夫県主(のちの養父郡)・美津玉彦命
黄沼前県主(のちの城崎郡)・穴目杵命
伊曾布県主(のちの七美郡)・黒田大彦命
みな、刀我禾鹿宮に朝して、その徳を頒した。
ヒコイマスは天御影命の娘、ヲケツビメ(袁祁都毘売命)を妻にし、山代大筒城太真若命を生んだ。弟のイリネ(伊理泥命)の娘、丹波味沢姫命を妻にし、迦邇米雷命を生んだ。迦邇米雷命は丹波遠津臣命の娘、高材毘売命を妻にし、オキナガノスクネ(息長宿祢命)(*2)を生んだ。息長宿祢命は河俟稲依姫命を妻にし、オオタムサカ(大多牟坂命)を生んだ。
第11代垂仁天皇84(55年)年九月 丹波・多遅摩・二方三国の大国主・日下部宿祢の遠祖・ヒコイマス(彦坐命)は、
オキナガノスクネ(息長宿祢命)の子、オオタムサカをもって、朝来県主とした。オオタムサカは、
オオタムサカは、山口宮(朝来市山口)にあり、彦坐命を禾鹿宮に祀った。(名神大 粟鹿神社)
第13代成務天皇5年(135年)秋9月、
オオタムサカの子・フナホノスクネを多遅摩国造と定めました。フナホノスクネは大夜夫宮に帰る。(名神大 養父神社)
フナホノスクネの子・マサカツノスクネ(当勝足泥命)を、朝来県主とする。マサカツノスクネはオキナガミズイヒメ(息長水依姫命・)・ヲケツビメ(袁祁都毘売命)を禾鹿宮に合祀する。
第14代仲哀天皇の2年(193年) オキナガタラシヒメ(皇后の息長宿祢の娘・神功皇后)は禾鹿宮に詣で、(熊襲征伐の)戦功を祈る。
オキナガタラシヒメ(息長帯比売命)は多遅麻国造のアメノヒタカ(天日高命)の娘、カツラギのタカヌカヒメ(葛城高額命)を妻にして生まれる。
8年(199年)秋7月
神功皇后は神教を奉じ、みずから新羅に征する元年(201年)春3月 朝来県主のタケダセを奉幣使とし、新羅の降伏を粟鹿神に祈る。
立朝の3年春2月 神徳が現るのをもって、県主のタケダセに社殿を造営し勅使門を建てらせる。
またタケダセの子、タケミヌシ(武身主命)に命じて、潮涸珠(しふるたま)(*4)を相殿に納め、これを祀らしむ。これを沫[氵和]
(あはなき)神と云う。また住吉大神を祀らせる。
第15代応神天皇元年(270年)8月 県主のタケダセは粟鹿神の
40年(309年)春3月 県主タケダセは、娘のタケダヒメ(武田姫命)をオモテシネワケの妻にし、朝来県主とする。(表米別命は日下部宿祢の上祖) 表米神社:朝来市和田山町竹田)
第17代履中天皇の3年(402年)春2月 オモテシネワケの子、カツシネワケ(賀都米別命)を朝来県主とする。母は夜父県主タケノイナタネコ(武稲種子命)の娘、イカシヒメ(茂志毘売命)。
第21代雄略天皇の12年(468年)春3月 カツシネワケの子、イユノトミヒコ(伊由臣彦命)を朝来県主とする。母は出石の郡司イソベノオミ(石部臣命)の娘イチョウビメ(杏葉毘売命)。
第27代安閑天皇の2年(532年)春正月 尾張連の祖アメノトメ(天砺目命)の末裔、朝来直命を朝来郡司とする。
第31代用明天皇の2年(586年)夏4月 オオモノヌシ(大物主命)の子クシミカタ(櫛日方命)の末裔、朝来石辺公を朝来郡司とする。石辺公はその祖クシヒカタを滝田の丘に祀る。(石部神社・式内朝来石部神社:朝来市山東町滝田559
第36代孝徳天皇の大化3年(647年) 多遅麻国朝来郡朝来村において、兵庫を造り、郡の甲弓矢を収集し、以って軍団(*6)を置き、朝来・夜夫・七美三郡を管どる。
道臣命の末裔、大伴宿祢左中を
イカシコオの末裔、物部連飛鳥を
磯部広麿・石辺公の末裔、石辺金麿を
伊由の賀泥万呂・賀都の与志牟袮・大田牟袮麿・伊由の鹿万呂・賀都の波流与志・大田牟袮与志を
大屋の国万呂・吉井秀津麻・建屋義樹・国屋の多他麿・吉見幸世らを
朝来直智嘉麻呂を主帳とし、兵庫を当らし、朝来郡司石辺公は
(弓一張、
※書が読みづらいのでここのみ気多郡から引用)
5人を伍とし、伍2を火とし、火5を隊とし、隊2を旅とし、
旅10を団とする。
太刀1口、革鼓2面 軍穀これを掌る。
大角2口 校尉これを掌る。
小角4口 旅師これを掌る。
努弓(いしゆみ)2張 隊正これを掌る。
兵を招集し、非常を警備するときは駅鈴(*8)を鳴らす。
駅鈴は鈴蔵に収め、他の兵器は兵庫に納める。出納は適時行い、兵士を訓練する。
主帳、朝来直智嘉麻呂は、兵主の神を兵庫の側に祀り、兵庫守護の霊神と為し、かつ己の祖・天砺目命をその下座に合わせ祀る。(式内 兵主神社:朝来市山東町柿坪)
大毅、大伴宿祢左中は、その祖道臣命を佐嚢の丘に祀り、(式内佐嚢神社:朝来市佐嚢字大宮西山132-2)
少毅、物部連飛鳥は、その祖イカシコオを八代の丘に祀り、(式内足鹿神社:朝来市八代229)
旅師、伊由鹿万呂は、その祖伊由臣彦命を伊由の丘に祀る。(式内伊由神社:朝来市伊由市場字谷口243-1)
大化3年秋8月 朝来石辺公在麿を、朝来郡司とする。
第40代天武天皇の3年(674年)秋7月 仲哀天皇の皇子、誉屋別命の末裔、刀我磯部臣を、朝来郡司とする。
刀我磯部臣は、その祖誉屋別命を刀我の丘に祀る。(石部神社(式内 刀我石部神社:朝来市和田山町宮645)
◻◻◻◻◻◻◻◻◻◻◻◻
正八位下荒島宿祢を、朝来大領に任ず。 在任18年にして卒す。
式内 但馬国朝来郡 兵主神社:朝来市山東町柿坪972)
第43代元明天皇の和銅5年(712年)秋7月 桃文師竹原直吉人、勅を受け、この郡の綾目沢に下り、織工を集め、織綾を教え、
桃文師倭文宿祢正人、勅を受け、この郡の倭文野に下り、織錦を教える。
この郡が錦・綾を織る最初である。
秋8月 竹原直吉人は竹原直の祖、伊佐布魂命を竹原野の丘に祀る。(熊野神社:朝来市生野町小野)
倭文宿祢正人はその祖、天羽槌雄命を倭文野に祀る。(式内倭文(しどり)神社:朝来市生野町円山201)
竹原神社・倭文神社これなり。これより歳時に織工を集め、錦織の精巧を祈る。
第44代元正天皇の霊亀2年(716年)春3月 荒島宿祢の子、乙主(一に磯主)を朝来小領に任じ、養老7年(723年)、大領に任ずる。
若倭部貞良を主政に任じ、
忍阪連仲麿を主帳に任とする。
若倭部貞良は、その祖、武額明命を和賀の丘に祀る。(霧尾岩谷神社:朝来市山東町和賀)
養老3年(719年)冬9月 朝来軍団を廃し、健児所とする。健児所を物部邑に遷し、健児50人を置き、兵庫および鈴蔵を守らせ、伊由武万侶を健児所の判官とする。
第42代文武天皇の慶雲2年(705年)夏4月 国内は酷い日照りとなり五穀が実らず、民が困窮する。
天皇は勅して雨を祈ることを群臣に問うた。
群臣は「但馬国粟鹿神に雨を祈りましょう」と申し上げる。
天皇は勅して、これを許された。
清原朝臣冬満卿を、奉幣使とし、社域内1町5反を、生い茂った雑草を取り、墾田とし御饌米を作り、もって御贄にお供えし、祭祀を行う。
第46代孝謙天皇の天平勝宝8年(756年)春正月 荒島宿祢の孫、荒島安樹を朝来大領に任ずる。安樹は養父郡大領、磯継の子である。
天平宝宇2年(758年)春3月 朝来大領、荒島安樹の孫、親直を、健児所の判官とする。親直は安親の子である。
第50代桓武天皇の延暦19年(800年) 荒島宿祢の玄孫、従八位上、荒島宿祢国守を朝来大領に任じ、殿木連友身を主政に任じ、塩田首早雄を主帳に任ずる。
殿木連友身はその祖、殿諸足尼命を賀都邑に祀り、塩田首早雄はその祖、武恵我前命を磯部邑に祀る。
殿諸足尼神社・仲臣神社これなり。
(殿諸足尼神社は村社加都神社:朝来市和田山町加都1803、仲臣神社は村社熊野神社:朝来市山東町塩田442と思われる)
第53代淳和天皇の天長5年(828年)春正月 アメノホアカリ(天火明命)八世の孫、大御日足尼命の末裔、従八位下・津守宿祢子村を朝来大領に任じ、
磯部首貞任を主政とし、
第54代仁明天皇の承和12年(845年)秋7月 但馬国朝来郡無位粟鹿神に従五位下を、無位佐長神に正六位を授けまつる。
国司等の解状による。但馬守従五位下・紀朝臣綱麿を奉授使とする。
第55代文徳天皇の斉衡2年(855年)秋7月 従八位下・津守宿祢はその祖、大御日足尼命を山口の丘に祀り、津守神社と申しまつる。(村社一宮神社:朝来市羽渕20と想定する)
新良貴臣吉躬はその祖、稲飯命を刀我邑に祀り、新良貴神社と申しまつる。(村社 大森神社:朝来市和田山町白井1045)
第56代清和天皇の貞観10年(868年)冬12月27日 但馬国従五位上・粟鹿神に正五位下を授け、但馬守従五位上・行伴宿祢須賀雄を奉授使とする。
閏12月21日 正六位上・左長神に従五位下を授く。国司の解状による。
貞観16年(874年) 全国に疫病が流行し、民が困窮する。
天皇は勅して粟鹿神に祈られる。
3月14日 勅使の倭朝臣時之卿は下向し、但馬国正五位下・粟鹿神に正五位上を授ける。
第57代陽成天皇の元慶5年(881年)秋8月 正八位上・山口朝臣数雄を朝来大領とする。
山口数雄は応神天皇・武内宿祢命および波多矢代宿祢命を山口の丘に祀る。(村社 山口八幡神社:朝来市山口385)
都夫江首政成を主帳とし、飛鳥直義資を主帳とする。
都夫江首政成はその祖、天津彦根命を賀都邑に祀り、都夫江神社と申しまつる。(村社厳島神社:朝来市和田山町筒江1059)
飛鳥直義資はその祖天事代主命を賀都邑に祀り、飛鳥神社と申しまつる。(村社加都神社:朝来市和田山町加都1803
第62代村上天皇の天暦5年(942年)秋8月 従八位下・和田山守部を朝来小領とする。
和田山守部はその祖、天道根命および大国主彦坐命を賀都邑に祀り、和田山二宮神社と申しまつる。(村社二宮神社:朝来市和田山町和田山493)
右、国司解状により、これを進上する。
朝来小領従八位下 和田山守部
天暦八年(954)甲寅三月二十ニ日
[註]
*1 天火明命とあるが、養父郡故事記、城崎郡-、では「天照国照彦櫛玉饒速日天火明命」となっており、天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は天照国照彦火明櫛玉饒速日命とも書く。瓊瓊杵尊 の 子・ニギハヤヒ(饒速日命)のことで、天火明命は瓊瓊杵尊の弟にあたる。天火明命とあるから尾張氏・海部氏の祖天火明命と混同するが、同一人物ではないとする。『先代旧事本紀』では、ニギハヤヒとアメノホアカリは同一神としている。
*2 息長宿祢(おきながのすくね) 2世紀頃の日本の皇族。第9代開化天皇玄孫で、迦邇米雷王の王子。母は丹波之遠津臣の女・高材比売。河俣稲依毘売との間に大多牟坂王、葛城之高額比売との間に息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、虚空津比売命(そらつひめのみこと)、息長日子王(おきながひこのみこ)を儲ける。息長帯比売命は後に神功皇后と諡される。
*3 寿二百八歳 倍数年暦で104歳か?それにしても当時に104歳は考えられない長生き。
*4 潮涸珠(しふるたま) 潮を引かせる霊力があるという玉。大きさの違う円柱を4段重ねた形をしている。
*5 託宣 神が人にのり移ったり夢に現れたりして意思を告げること。そのお告げ。神託。
*6 軍団
軍団の指揮に当たるのは軍毅であり、大毅(だいき)、小毅(しょうき)、主帳(さかん)がおかれ、その下に校尉(こうい)・旅帥(ろそち)・隊正(たいしょう)らが兵士を統率した。
軍団の規模によって
千人の軍団(大団)は、大毅1名と少毅2名が率いた。
六百人以上の軍団(中団)は、大毅1名と少毅1名が率いた。
五百人以下の軍団(小団)は、毅1名が率いた。
*7 征箭 戦場で使う矢。狩り矢・的矢などに対していう。
*8 駅鈴(えきれい)は、日本の古代律令時代に、官吏の公務出張の際に、朝廷より支給された鈴である。646年(大化2年)1月1日、孝徳天皇によって発せられた改新の詔による、駅馬・伝馬の制度の設置に伴って造られたと考えられており、官吏は駅において、この鈴を鳴らして駅子(人足)と駅馬または駅舟を徴発させた。駅では、官吏1人に対して駅馬1疋を給し駅子2人を従わせ、うち1人が駅鈴を持って馬を引き、もう1人は、官吏と駅馬の警護をした。
『校補 但馬考』で桜井勉は、
この地に朝来山という名所あり。取りて郡の名とせり。俗には、この郡にいます粟鹿の神、国中の一宮ゆえ、諸の神たち、朝ことに来たりまみえ給う。故に、朝来郡と名づけしと云うは、臆説ならん。すべて郡郷名の名は、その地名を取って名づけること、古くからの事実なり。
『校補 但馬考』桜井勉 *1
私は『校補 但馬考』自体も鵜呑みにしていない。
桜井は、地名がすべて古くからの土地の起源というならば、その地名の起源を説明すべきだろう。地球誕生から地名があったというのか?それは桜井の勝手な思い込みか、出石藩学に都合が悪いにすぎないとんでも解釈だ。臆説は桜井の方だろう。史家として歴史に自分に都合の悪いものを否定するような行為は最もやってはならない。校補但馬考のなかにも事実でない勝手な解釈の箇所は多々ある。客観的に『国司文書 但馬故事記』を評価する謙虚さが欠けていると思う。
[解説]
『天日槍』の著者今井啓一郎は、同じ出石の郷土史家桜井勉が『国司文書 但馬故事記』を偽書説などを牙歯にもかけず、人或いは荒唐無稽の徒事なりと笑わば笑えと堂々の論れんを張り、天日槍研究に自信の程を示した。すなわち彼は、桜井とは見解を異にし、この但馬国司文書を大いに活用している。
「この地に朝来山という名所あり。取りて郡の名とせり。」とするならば、その朝来山の由来はどう説明するのだろう。(『国司文書 但馬故事記』注釈本著者 吾郷清彦)
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