1-1 第一巻上の1 気多郡故事記 現代語版

天照国照彦(櫛玉饒速日)天火明命[*1]は、オオナムチ(国造大己貴命)の命令によって、
ナミツキノアメノモノノベ(両槻天物部命)の子であるサクツヒコ(佐久津彦命)に佐々原を開かせた。

(これ以前にニギハヤヒ(天照国照彦天火明命)は、オオナムチ(国造大己貴命)の命令によって、まずタニワ(田庭・丹波)に降りて、但馬へは小田井に入って小田井を開き、次に佐々原を開かせている。)

サクツヒコは、篠生原に井戸を掘り、水をそそぎ、田を作った。
のちに、その地を名づけて、佐田稲生原サタイナイハラという。いま佐田伊原サタイハラと称する。
気多郡佐々前邑ササクマムラはこれである。

サクツヒコは、佐久宮におられる。(式内佐久神社:豊岡市日高町佐田)
ホアカリ(天火明命)のお供の神様、アメノイワフネ(天磐船長命)は、磐船宮におられる。(村社岩舩神社:豊岡市日高町道場山田10-2 白鳥上290)

アメノイワフネは、アメノイワクス(天磐樟船命)の子である。
サクツヒコは、ナルトノアメノモノノベ(鳴戸天物部命)の娘であるササウラヒメ(佐々宇良姫命)を妻にし、サキツヒコ(佐伎津彦命)とサクタヒコ(佐久田彦命)を生んだ。(佐久田は佐田・久田で現在の久田谷の語源か?)
サキツヒコは、佐々前県主アガタヌシである。

第1代神武ジンム天皇の9年(前652年)冬10月、サクツヒコの子 サクタヒコを佐々前県主とする。

サクタヒコは、オオナムチを気立ケダツ・ケタの丘にマツる。これを気立神社と称えしまつる。(郷社 気多神社:豊岡市日高町上郷)
また、サクツヒコ(佐久津彦命)を佐久宮に祀る。(式内佐久神社:豊岡市日高町佐田)
ミイヒメ(御井比咩命)を比遅井ヒジイ丘に斎き祀り(比遅井は霊異井の義で、今の土居。明治までヒジイといった。式内御井神社:豊岡市日高町土居)、水の湧き栄えを祈る。
ミイヒメの祖 イナバノヤガミヒメ(稲葉八上姫)は天珂森宮(天珂森神社:豊岡市日高町山本)にいます。サクタヒコは、ナミツキノアメノモノノベの娘、ツキモヒメ(槻萌姫命)を妻にし、サクタヤマヒコ(佐久山彦命)を生んだ。

第2代綏靖スイゼイ天皇の20年(前562年)秋7月 サクタヒコの子サクタヤマヒコを佐々前県主となす。
サクタヒコは、サタナカヒコ(佐田中彦命)の娘、サオリヒメ(佐折姫命)を妻にし、ササクマヒコ(佐々前彦命)を生んだ。

第4代懿徳イトク天皇の17年(前565年)春3月 サクタヒコの子ササクマヒコを佐々前県主となす。ササクマヒコは、イブノトミヒコ(伊布富彦命)の娘、イブノトミヒメ(伊布富姫)を妻にし、ウメサキヒコ(梅咲彦命)を生んだ。

第5代孝昭天皇の73年(前403年)4月 ササクマヒコの子ウメサキヒコを佐々前県主となす。ウメサキヒコは、大阪彦命の娘大阪姫命を妻にし、オオイワタツ(堅中大磐竜命)を生んだ。

第6代孝安天皇76年(前317年)春3月 ウメサキヒコの子オオイワタツを佐々前県主となす。オオイワタツは、ササズヒコ(佐々津彦命)の娘、若竜姫を妻にし、タケイワタツ(建磐竜命)を生んだ。

第7代孝霊天皇63年(前228年)春3月 オオイワタツの子タケイワタツを佐々前県主となす。タケイワタツは、アビラヒコ(阿毘良彦命)の娘アビラヒメ(阿毘良姫命)を妻にし、クシイワタツ(櫛磐竜命)を生んだ。

第8代孝元天皇の32年(前183年)秋7月 建磐竜命の子 クシイワタツ(櫛磐竜命)を佐々前県主となす。

当県の西北に、イブキドヌシ(気吹戸主命)の釜がある。常に物気(もののけ・物の怪)を噴く。したがって、その地を名づけて、気立原と云う。その釜はカムナベヤマ(神鍋山)をいうなり。
よって、佐々前県を改めて、気立県という。

『国司文書別記 気多郡郷名記抄』に、
気多は古くは気多津県(けたつあがた)1なり。
この郡の西北に気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)の釜あり。常に烟2(を噴く。この故に其の地を名付けて気立原と云う。その釜は『神鍋山』を云うなり。

「常に烟を噴く」とあるので、神鍋山はすでに死火山のはずなので、昔の伝承を書いているのか、どうなのかと思っていたところ、『国司文書 但馬故事記-気多郡故事記・下』には、それが地震であったことが記されている。

第10代崇神スジン天皇10年(前88年)秋9月 丹波青葉山の賊 クガミミノミカサ(陸耳の御笠)、ツチグモノヒキメ(土蜘蛛匹女)ら、群盗を集め、民の物品を略奪した。
タヂマノクルヒ(多遅麻狂・豊岡市来日)のツチグモがこれに応じて非常に悪事を極め、気立県主クシイワタツを殺し、瑞宝を奪った。

崇神天皇は、第9代開化天皇の皇子であるヒコイマス(彦坐命)に詔を出して、討つようにいわれた。ヒコイマスは、子の(四道)将軍 タンバノミチヌシ(丹波道主命)とともに、
多遅麻朝来直の上祖 アメノトメ(天刀米命)、
〃 若倭部連の上祖 タケヌカガ(武額明命)、
〃 竹野別の上祖 トゲリヒコ(当芸利彦命)、
丹波六人部連の上祖 タケノトメ(武刀米命)、
丹波国造 ヤマトノエタマ(倭得玉命)、
大伴宿祢の上祖 アメノユゲノベ(天靭負部命)、
佐伯宿祢の上祖 クニノユゲノベ(国靭負部命)、
多遅麻黄沼前県主 アナメキ(穴目杵命)の子クルヒノスクネ(来日足尼命)、等
丹波に向かい、ツチグモノヒキメを蟻道川で殺し、クガミミを追い、白糸浜に至った。
クガミミは船に乗り、多遅麻の黄沼前の海に逃げた。

ヒコイマス(彦坐王)は、久里船(丸木舟)を取り寄せ、その一艘にヒモロギ(神籬)を立て、船魂神をまつり、水前(水先)主とした。タケヌカガ(武額明命)とクルヒノスクネ(来日足尼命)はお供して先に立って案内した。
ヒコイマス・タンバノミチヌシ・ヤマトノエタマは第二船に乗り、
アメノユゲノベ・クニノユゲノベらは第三船に乗り、
アメノトメ・タケノトメ・トゲリヒコは第四船に乗り、追撃した。

たまたま、強く激しい風が起こり、山のような大波で、三日三晩暗黒のようだった。それでこの海をクルヒウミ(久流比海)またはクラヒウミ(久良比海)という。

その時、狂のツチグモはクガミミに加わり、再び勢いをました。それでこの海をイブリウミ(威振海)という。

ヒコイマスの船が岩の角に衝突し、穴が空いてしまった。それで、この岩角を荒孔岩という。さすがに王軍は士気を失った。
ヒコイマスは、今度はアワナギ神・オモナギ神をまつる。その時、水前主大神が、
「天つ神・地祇(国つ神)の擁護があるので、すぐに美保大神と八千矛大神を祀りなさい」と教えた。
ヒコイマスは教えに従いこれをまつった。
その時、陸地に光明を発した。タケノヌカガは光を見つけ、上陸してこれを堀ると白石を得た。
これを船に迎えてまつった。
その白石は、今安木宮に坐(いま)す。八千矛神の御霊である。
また、沖の方に天浮橋に乗り、船に向かい天下る神様があった。その時、すぐに風が止み、波は静かになった。したがって、アメノトメの船に迎えて祀った。これは美保大神の御霊である。
それでこの地を安木浦という。美保大神を入来大神と称してまつった。また、そのかたわらを恵美海(いま美含という)という。この2神(大国主神・美保大神)を安来浦に斎きまつる。  (村社 国主神社:美方郡香美町香住区安木)

クガミミ(陸耳)・ツチグモ(土蜘蛛)らは、隙きに乗じて逃げ出そうとした。タケノトメとトゲリヒコは遮って止めた。クガミミらは死を覚悟して戦ってきた。
その時、突然大きな波の音がして、無数のアワビが浮かび出て、船の空いた孔をふさいだ。それでこの地を鯨波島(ときしま)今の刀加計)という。

そのアワビが浮き出た地を鮑島(のち青島)という。その舟が生まれた場所を舟生港という。(のち舟を丹になまって丹生港と書す)

その時、天より神剣がひらめいて、タケノヌカガの舟に降りた。タケノヌカガは、これをヒコイマスに献じた。この剣はタケミカヅチ(国鎮武甕布都)の剣である。

したがって、この地を神浦(神浦山)という。またその地を名づけて幸魂谷(佐古谷)といい、剣を献じた場所を剣崎という(いま都留辺の崎)。

ヒコイマスは大いに喜び、トゲリヒコに斎きさせた。その時、クガミミらの勢いは尽きて逃げ去った。それで勢尽イキツキ(伊都伎)という。

クガミミ・ツチグモらは島の影に潜んだ。その地を屈居浦という。
クルヒノスクネ(来日足尼命)はツチグモに迫り、これを刺し殺した。それでタワレノサキ(斃碕)という。

10月3日 王軍はクガミミを御碕で撃退した。その時、ヒコイマスのよろいかぶとが光り輝き、大きな音を立てて動いた。それで鎧浦(よろいうら)という。
トゲリヒコは進んでクガミミに迫り、刺し殺した。それで勢刺(いきさし)の御碕(みさき)といい、または勇割の御碕という。

これによってトゲリヒコ(当芸利彦命)と名づけ、またはタケヌキヒコ(武貫彦命)という。

クガミミ・ツチグモの2つの鬼は、誅伐され、余った衆はしばらくして降参した。

ヒコイマスは、賊が滅んだのをもって、美保大神・八千矛大神(大国主)の加護のおかげとし、戦功のお礼参りをしなければならないとし、出雲に至り、二つの神に詣でた。(美保神社出雲大社

帰るとき、伯耆を過ぎ、因幡の青屋(今の鳥取市青谷町)をまわり、加路カロ港(今の鳥取市賀露)に入り、順風を待って、田尻港(鳥取県岩美郡岩美町田後)を過ぎたときに、暴風に遭い船が大きく揺れた。それで振動フルイ浦という。

二方国の雪白浜に入り、将と兵を休養させたので、その地を諸寄モロヨセという。その後、多遅麻国美伊県の舟生(丹生)港に寄り、順風を待った。その時、磯辺からこの世に比類のなき大アワビがたくさん浮かび出た。

白石島をまわるとき、突然、大アワビたちが神船となり、嚮導(先に立って案内する)し、丹波国与佐郡浦嶋に到着した。

そして陸に上がり、その導いてくれた船を見ると、九穴の大アワビが一個、船の中にいた。

ヒコイマスはこれを拝み、神霊とし、ヒコイマス(彦坐王)の子のイリネ(伊理泥命)を奉じた。

11月3日 皇都に凱旋し、将と兵の戦功と戦(いくさ)の不思議な現象を申し上げた。天皇は喜び、丹波・多遅麻・二方の三国(*2)をヒコイマスに与えた。

12月7日 多遅麻の刀我禾鹿(東河粟鹿)に下り、宮を造営させ在した。のち諸将を率い、三国以外の諸国を視察した。
11年春4月 ヒコイマスは宮に帰り、諸将を各地に配置し鎮守(*3)とした。

丹波国造 ヤマトノエタマ(倭得玉命)、
多遅麻国造 アメノヒナラギ(天日楢杵命)、
二方国造 ウツノマワカ(宇都野真若命)、
その命令に従う。
この時に当り、
比地県主 美穂津彦命、 (のちの朝来郡)
夜父 〃 美津玉彦命、 (のちの養父郡)
黄沼前〃 穴目杵命、  (のちの城崎郡)
伊曾布〃 黒田大彦命  (のちの七美郡) あり
刀我禾鹿宮に朝して、その徳を分け与える。朝来アサコの名はここに始まる。
トゲリヒコ(当芸利彦命・またはタケヌキヒコ・武貫彦命)は鷹貫宮におられる。(豊岡市日高町竹貫)

第11代垂仁天皇の45年(西暦16年)冬10月 トゲリヒコ(当芸利彦命)の子クニシズメツルギヌシ(国鎮剣主命)を気多県主とする。母はイコハヤワケ(伊許波夜別命)の娘イソシヒメ(伊曾志姫命)である。
クニシズメツルギヌシは国鎮御剣クニシズメノミツルギを剣宮に奉安する。鷹貫タカヌキ氏がイツくところの太刀宮タチノミヤ甕布都ミカフツ神をまつる。(式内鷹貫神社:豊岡市日高町竹貫)

第12代景行天皇の32年(102年)夏6月 イカシコオ(伊香色男命)の子・物部大売布モノノベノオオメフ命は、ヤマトタケル(日本武尊)に従い、東夷アズマエビス(*4)を征伐したことを賞し、その功により摂津の川奈辺(川辺郡)(*5)・多遅麻の気多(*6)・黄沼前の三県を与える。

オオメフ(大売布命)は多遅麻に入り、気多の射楯イダテ(*7)宮に在した。多遅麻物部氏の祖である。

53年(123年) 景行天皇は、(奈良より)東のヤマトタケルが平定した国を歴訪された。
孝元天皇の皇子オオヒコ(大彦命)の孫、イワカムツカリ(磐鹿六獦命)・オオメフ(物部大売布命)らが行幸にお供し、伊勢国から東国に入り、上総カズサ安房アワ郡浮嶋宮に至った。
また、相武国(相模)に行幸し、オオメフを伴い、葛飾野クズシカノで狩りをされた。
大后のヤサカイリヒメ(八坂入姫命)は、イワカムツカリ(磐鹿六)を従えて行宮におられる。大后は、イワカムツカリを御前に呼んで問われた。

「この浦に怪鳥の声を聞きました。その鳴き声はカクカクというのでその姿を見てみたい」

イワカムツカリは、船に乗りその鳥のもとへ行くと、すぐ鳥が驚いて、他の浦へ飛び去った。さらに進んだが、ついに捕らえることができなかった。

イワカムツカリ「おお鳥よ。私はその声を慕い、その姿が見たい。ところが他の浦に飛び去り、その形を見せない。これより後、陸に止まることができない。もし大地に下りるなら、すぐに死ぬ。海中を棲家としなさい」といって帰った。

(この鳥は、今は香藻女カモメと名づく。また香許女カゴメという。香許女は香倶女の転訛)

この時、船の後をふり返ると、魚がたくさん集まってきた。イワカムツカリは弓で海面の魚を射った。矢が当りすぐにいっぱい獲れた。それで頑魚カタオ堅魚カツオ・鰹)という。

船は潮が引いて、渚のほとりにいたとき、掘っていると、八尺の白いハマグリがとれた。
イワカムツカリは、この二種類を捧げて大后に献上した。すると大后は誉め喜ばれ、
「たいへん美味しく、すべて食べました。御食をたてまつりなさい。わたしはこれを賞したいと思います」と。
その時イワカムツカリは、謹んで「ムツカリ 仰せの通りこれを献じます」と。
無邪志(武蔵)国造の上祖、オオクニタマ(大国魂命)の末裔 大田萌生メバエ?命、
知々夫(秩父)国造の上祖 八意思兼命の子天下春命の末裔 天上原・天下原命を召し、なます、煮物、焼き物などを作り盛り、河曲山のクチナシ葉でヒラツキ(枚次)(*8)8個を刺し作り、
日陰に並べ、蒲の葉で美津良ミヅラ(*9)に巻き、真竹・葛を採り、ケヤキに掛け、帯となし、緒は足をまとい、
いろいろな物を供え、結い、飾って、
天皇が狩りよりお帰りになられた時に献上した。

天皇「だれが作って献じたのか」
大后「これはイワカムツカリの献ずるものです」
天皇は大いに喜び、「大倭国(大和国)は、ますますその名にふさわしい国である。
イワカムツカリは、われの皇子ら及び、限りない御子が末永く続き、ときわ(永遠)まで天皇の大御食に使えまつれ」と。
すぐにオオメフに命じ、腰に下げる太刀をイワカムツカリに与えられた。

また、このあと、規則を作り、大伴部として、仕えて奉るべき者を設けられた。
東西南北・山陽・山陰の国々の人を割り移し、大伴部と名づけ、イワカムツカリに与えた。

また、諸氏、東国の国造十二氏の優子各ひとりを献じ、ヒラツキの鱗を与える。

『山野海河の物はガマの渡る極み、カエルの通る極み、ウロコの広い物、ウロコの狭い物、毛の荒い物、毛のなごやかな物、さまざまな物を供え、冨真根*取りもって、仕え奉れ』とおっしゃった。(*冨真根 検索してもヒット0。この意味が分からない)
この時、天皇は、上総国安房郡に坐(いま)す安房大神を崇め、御食津神(食物の神)とされ、オオメフの子トヨヒ(豊日連)に火をきらせ忌火イミビとなし、御食を斎き奉らせ(神饌)られた。

また大八州をかたどって八乙女(*10)を定め、神嘗カンナメ大嘗オオナメ(*11)において、初めてお供えを奉らされた。

オオメフ(物部連大売布命)は、長く天皇に仕えていたが、第13代成務天皇の60年(190年・天皇崩御)、多遅麻(気多)に帰る。

 


[註]

*1 天照国照彦櫛玉饒速日天火明命 天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は天照国照彦火明櫛玉饒速日命とも書く。瓊瓊杵尊 の 子・ニギハヤヒ(饒速日命)のことで、天火明命は瓊瓊杵尊の弟にあたる。天火明命とあるから尾張氏・海部氏の祖天火明命と混同するが、同一人物ではないないとする。『先代旧事本紀』では、ニギハヤヒとアメノホアカリは同一神としている。

*2 丹波・多遅麻・二方の三国 ここで多遅麻(但馬)・二方と同時期に丹波とあり、丹後はないことから、但馬はすでに第6代孝安天皇朝に、天日槍が帰化し多遅麻国造となって丹波から分国しているので、まだ丹波は丹後と丹波に分国されていなかったようだ。
*3 鎮守 兵士を駐在させて、その地をしずめ守ること
*4 東夷(あずまえびす) 都からみて東国の人
*5 川奈辺県 のち摂津国川辺郡。古くは河辺郡とも書いた。現在は猪名川町1町のみだが、かつては、猪名川町全域・川西市全域・伊丹市と尼崎市と宝塚市の大部分・三田市の一部。大阪府豊能町の一部を含めた郡
*6  気多(けた) 県、のち郡 古くは佐々前県→気立県。かつての豊岡市日高町と養父郡・豊岡市・竹野町の一部
*7 射楯(いだて) のち石立村。国保村と合併し、豊岡市日高町国分寺
*8 ヒラツキ(枚次) 枚手ともいい、大嘗会 (だいじょうえ) などの際、菜菓などを盛って神に供えた器。数枚の柏 (かしわ) の葉を竹ひごなどで刺しとじて円く作ったもの。後世、この形の土器 (かわらけ) をもいう。
*9 角髪(みずら) 日本の上古における貴族男性の髪型。美豆良(みずら)、総角(あげまき)とも。
*10 神楽(かぐら)などを舞う八人の少女。転じて,神楽の舞姫の意にも
*11 神嘗・大嘗 神嘗祭・大嘗祭の略。宮中祭祀の大祭のひとつ。神嘗祭は五穀豊穣の感謝祭にあたり、宮中および神宮(伊勢神宮)で儀式が行われる。大嘗祭は天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭(収穫祭にあたる)。


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