09.銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでの空白

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銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでの空白

[/wc_box] 銅鐸はなぜ消えたのか?
森浩一先生の資料(新しい発見数などは修正しています)と石野博信館長(兵庫県立考古博物館)のお話しをまとめますと、

「銅鐸は現在470あまり確認されています。その分布は北部九州から東海地方に及びます。弥生時代前期から後期にかけてつくられています。銅鐸が出土している国単位では、加茂岩倉遺跡の発見により今のところ一番多いのは出雲です。二番目に多いところは阿波の国(徳島県)です。兵庫県のように播磨や但馬や淡路などたくさん国があるところは別です。だから一国一県単位で言うと、出雲の次は阿波の国です。その次が紀伊・近江です。それに対して、大和の国は19個でわずかとしか言いようがないです。

前方後円墳がつくられる時代は、銅鐸というものが地上から姿を消して、少なくとも50年は経っており、銅鐸がなくなってすぐ前方後円墳ではないのです。奈良県がものすごい富と権力の中心になるのは、箸墓古墳とか、西殿塚古墳とか、そういう2百メートル級の大きな前方後円墳が造られた後なのです。それは、3世紀の終わりと言ってもいいです。それ以後に大和が強大になるのです。それ以前は並の土地です。大和にあるぐらいの弥生遺跡ならばどこにでもあります。そういう古墳から銅の鏡が20枚も30枚も出ていますが、しかし、弥生時代の奈良県には銅の鏡があったという証拠はほとんどありません。また銅鐸が古墳から発見された例はありません。それを謎だという人がいますが、いずれにしても、銅鐸は他の遺物と違って、弥生時代の中で生まれて完全に消えていきました。そして宗教改革ともいえる飛鳥時代の仏教伝来です。飛鳥時代になって、崇仏派の推古天皇・聖徳太子や蘇我氏が「もう、こんな神様はいらん!」ということで、仏教が注目されました。仏教を嫌ったとされる物部氏こそ、銅鐸を祀る祭祀氏族であると思えるのです。物部氏の信頼とシンボルの銅鐸が久田谷(兵庫県豊岡市)では叩き割られたり、埋め殺されたりしたんじゃないかという可能性が高いと思います。

銅鐸を拒否した新王権

しかし、銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでには50年以上の空白があります。ヤマト王権が統一する過程で銅鐸はすでに用をなさず自然に忘れられてしまったのかも知れません。いえ、そんなはずはありません。高価なものを再利用もせずに生めてしまうには大きな政治的力が起きたのです。
銅鐸が姿を消してから古墳が築かれるまでには50年以上の空白があります。

つまり、古墳を造る際には銅鐸は忘れ去られていたことになります。ヤマト王権が中央集権化をすすめる過程で銅鐸文化を担った地方豪族を組み入れるために、銅鐸を埋設あるいは破壊していったわけではない[*2]のです。

ヤマトを地盤にした新王権は、明らかに銅鐸を拒否したのです。弥生末期、ヤマト及びその周辺で巨大銅鐸が作られていますが、出雲と吉備は青銅器祭祀を止めています。一方、分布から北部九州は銅鉾が主流で、銅鉾圏と銅鐸圏が対立していたとされます。これは祭祀のうえでヤマト王権が起こる直前の時期です。
銅剣と銅鐸が消えた三世紀初め頃の出雲には、四隅突出型方墳という、倭人のものとは思えない奇怪なヒトデみたいな墳墓が安来地方や荒神谷近辺に出現しました。鳥取大山の妻木晩田遺跡から、最も古い形式らしい四隅突出型方墳が発掘されました。この日本最大の妻木晩田遺跡の人々が安来地方などに移動したとも考えられます。

一方、瀬戸内海の吉備(岡山県)では、銅剣時代を経て古墳時代前夜へと入り、墳墓群が出きつつありました。ほぼ同時期、出雲と吉備にそれぞれ王と呼んでもいい首長が現れ、銅剣や銅鐸の祭祀を村落共同体から排除してしまうのです。ということは、その頃さかんに巨大銅鐸を作っていた近畿の文化圏からの離脱を意味します。銅鐸を作らなくなった時点で、出雲は近畿の敵になりました。出雲大社では、スサノオを祀る素鵞社を覆い隠すように巨大な出雲大社本殿が建てられています。スサノオが「すさぶる王=荒ぶる神」として憎しみを込めて追放されているのは、この間の事情を繁栄しているのかも知れません。

また弥生時代の鏡は佐賀県とか福岡県からたくさん出ています。特に福岡県では2百枚は十分出ています。だから、大和(奈良県)は弥生時代は並の土地で、前方後円墳が出来る頃から急にすごさがわいてきます。ただし、それが永久に続くかというとそうではないです。奈良の都の途中からガタガタになって、もう奈良には都を置ける土地ではありませんと言って京都に行ってしまうのです。大和が、交通とか経済とかで本当にすごい所であれば何も平安遷都する必要はありません。だから長い目で見たら、
大和が、勢力の中心であったのは、西暦4世紀から8世紀の終わりまでの、(長い歴史のわずか)4百年間の出来事です。
ヒトデみたいな奇怪な墳墓(四隅突出墓)を造っている祭祀王国-そんな出雲への認識や記憶が近畿人に定着し、祟(たた)る神として恐れられ、『古事記』で多くを「出雲神話」にあてているのも、大和の天皇家をなんとか正統化したいという苦心の原型になったとも考えられます。

銅鐸から考える

キリスタンの踏み絵ではありませんが、荒神谷や加茂岩倉遺跡のように、銅剣や銅鉾、銅鐸をなぜ人目のつかない場所に隠すように埋めたのでしょうか。

蘇我氏=ヤマト朝廷によって埋めさせられたのか。のちの6世紀半ばの欽明天皇期には仏教が伝わり、物部守屋と蘇我馬子が対立。後の仏教推進派の聖徳太子は蘇我氏側につき、神道派の物部氏を滅ぼしました。以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として仏教を権力に政治を握り、記紀の編纂では、藤原不比等によって歴史の解釈がややこしくなってしまいました。

しかし物部氏は、そのあと飛鳥時代までのおおよそ600年間も、武力と祭祀を司る重要な氏族として存続していました。なぜ、神の祭器である銅鐸や銅剣を破棄することを条件にその後も政治や神事に関与することが許されたのでしょうか。物部氏こそ、銅鐸を祀る祭祀氏族であるとするならば、物部氏自らが宝物といえる大切な神具を二度と使えないようになるまで、粉々に砕くことができたでしょうか?それは祖神=ニギハヤヒやウマジマシへの神への冒涜であり、氏族の尊厳を捨てることを意味することだと思えるのです。

ヤマト政権が天皇をいだいて日本を統一していく時代。『播磨風土記』で天日槍(アメノヒボコ)が但馬の養父と気多に葛を落としたという記載と、気多郡で見つかった全国でも珍しい粉々の銅鐸片は、単なる偶然なのか?私なりに想像しますと、それは、養父郡と気多郡の王が最後までヤマト政権に抵抗したのだという史実を語っているのではないかと思います。

[*1]…大和の国は銅鐸出土が19個でわずかとしか言いようがない。
[*2]…前方後円墳の時代は、銅鐸というものが地上から姿を消して、少なくとも50年は経っておりヤマト朝廷の関与は考えにくいこと。大和朝廷が勢力の中心であったのは、400年間。
[*3]…中国・朝鮮半島の小銅鐸小銅鐸と日本の一番古い銅鐸には日本列島人のアイディアというか独創力がものすごく入っている。
[*4]…北部九州起源論
[*5]…銅鐸文化圏と銅剣・銅矛文化圏は古い説
[*6]…原料は全部大陸からのスクラップ説というのは無理がある。銅製品の原料国産説。
[*7]…加茂岩倉の兄弟銅鐸の分布から、銅鐸が山陰地方や近畿地方に配布されたのならば、出雲特有の四隅方形墓が因幡・但馬に出現しない事は、銅鐸を使用した祭祀集団と、四隅方形墓の集団は別の時代の別のルーツを持った集団である。
[*8]…弥生時代の住居から土器とは一緒に見つからないこと。弥生時代末期に集中して山裾などに埋められているか、意図的に破壊されている。

出典: 兵庫県立考古博物館石野館長の公開講座

2009/08/28
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