空襲の被害
戦争末期、国民は直接、戦火にさらされることになりました。1944(昭和19)年7月、日本の委任統治領だったマリアナ諸島の一つサイパン島が陥落し、ここから日本本土を空襲できるようになったアメリカ軍は、年末から爆撃機B-29による無差別爆撃を開始しました。子どもたちは危険を避け親元から離れた地方の寺や親戚の家などに疎開しました(学童疎開)。1945(昭和20)年3月11日には、東京大空襲が行われ、一夜にして約10万人の市民が命を失いました。
4月、アメリカ軍は沖縄本島に上陸し、ついに陸上の戦いも日本の国土に及びました。日本軍の死者約9万4千人、一般住民の死者も約9万4千人を出す戦闘の末、2ヵ月半のちに連合軍は沖縄を占領しました(沖縄戦)。
ヤルタからポツダムまで
ヨーロッパでもアジアでも、戦争の体制は決まりつつありました。1945(昭和20)年2月、ソ連領クリミヤ半島のヤルタに、米・英・ソ3国の首脳が集まり、連合国側の戦後処理を話し合いました(ヤルタ会談)。アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、アメリカの負担を減らすため、ソ連の参戦を求めました。スターリンは、ドイツとの戦争が終わってから3ヶ月後に対日参戦すると回答し、その代償として、日本領の南樺太と「千島列島を要求し両者は合意しました。
4月、ルーズベルトが急死し、副大統領のトルーマンが大統領に昇格しました。連合軍がベルリンに侵攻すると、ヒトラーは自殺し、ドイツ政府は崩壊しました。5月、ドイツ軍は無条件降伏しました。
7月、ベルリン郊外のポツダムに米英ソ3国の首脳が集まり、26日、日本に対する戦争終結の条件を示したポツダム宣言を、米英中3国の名で発表しました。
原爆投下とソ連の侵攻
日本政府内では、沖縄を占領された6月ごろから、戦争終結をめぐる最高指導者の会議が何度となく開かれていました。日本政府は、対日参戦を密かに決めていたソ連に、そうとは知らずに連合国との講和の注解を求めました。
ポツダム宣言が発表されると、鈴木貫太郎首相や主要な閣僚は、条件付の幸福要求であることに着目し、これを受諾する方向に傾きました。しかし、陸軍は反対し、本土決戦を主張して譲りませんでした。政府はしばらくソ連の仲介の返答を待つこととしました。そのあいだに、8月6日、アメリカは世界最初の原子爆弾(原爆)を広島に投下しました。日本政府も終戦を急ぐ他はありませんでした。8日、ソ連は日ソ中立条約を破って日本に宣戦布告し、翌9日、満州に侵攻してきました。また同日、アメリカは長崎にも原爆を投下しました。広島では15万人、長崎では7万5千人が亡くなり、さらに多くの人々が放射能被爆の後遺症で苦しむことになりました。
聖断下る
9日深夜、昭和天皇の臨席のもと御前会議が開かれました。ポツダム宣言の即時受諾について、意見は賛否同数となりました。10日午前2時、鈴木首相が天皇の前に進み出て聖断を仰ぎました。天皇は、ポツダム宣言の即時受諾による日本の降伏を決断しました。8月15日正午、ラジオの玉音放送で、国民は長かった戦争の終わりと、日本の敗戦を知りました。明治以後、日本の国民から初めて体験する敗戦でした。
日本の降伏によって第二次世界大戦は終結しました。大戦全体での死者は数千万人にのぼると推定されています。
引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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