現代-9 地方分権

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

政治と非政治のあいだ

1.グローバリゼーション

「ナショナリズム」といわれる19世紀に始まった標準化された言語・文化による国民国家。それに対して現在、輸送や通信のシステムが世界規模で整い、距離と時間を越えて互いに関連し合う状況が生まれました。「グローバリゼーション」の波である。グローバリゼーションは、二種類の評価が存在する。一種の進歩、チャンスとする見方で、今後の世界が進むべき方向を示唆する現象と考えられます。「世界市民」という理想は古くから存在したし、国家間の相互依存の強化が、平和構築に貢献するという考え方は古くからありました。グローバリゼーションは、民主主義のような価値が、国境を越えて広がり、実現していくチャンスだと考えることもできます。これとは対照的に、グローバリゼーションを偽装したアメリカ化ととらえる見方もあります。グローバルな基準が、結局は現在政治、経済、軍事的な覇権を握っているアメリカに有利なものとなる傾向があります。文化のような個性を重んじるべき領域でさえ、アメリカ的、もしくは物質・商業的価値が侵略していると考える人々も出てきました。それは結局、世界的に広がる資本主義体制の促進(それに伴う不平等の促進)を隠蔽する、イデオロギーにすぎないのではないか、という批判です。

こうした評価とは別に、グローバリゼーションという言葉を、現在の主な現象として四つのことがあげられます。

第一に、大量の人口移動です。大量の人間が国境を越えて移動する時代になっており、例えば難民問題を計算に入れない国家戦略は難しくなってきています。

第二に、人の移動は、文化の変容を巻き起こします。情報産業や娯楽産業の世界規模での発展が加わり、文化の単位としての国家という考えは大きく揺らいでいます。

第三に、経済のグローバル化があります。国民国家の特徴は、国家政府の統治を通じて国民経済を発展・維持させるという点にありました。雇用や金融、貿易量といった問題に、政府は制御を加えていました。市場のグローバル化は、こうした一国政府の統治能力を著しく低下させました。

第四に、リスクのグローバル化があります。経済のグローバル化は、経済危機のグローバル化を伴います。コミュニケーションの国際的促進は、犯罪のグローバル化を生みました。違法な物や犯罪者の移動を、一国の警察だけで監視することは難しくなりました。現在極めて容易に国境を越えて移動しています。

2.政党とは何か

かつて政党はイギリスの政治学者E.パーカーによって「国家と社会の架け橋」と評されました。またアメリカの政治学者E.E.シャットシュナイダーは、政党を「民主主義的な政治のメーカー」であり、「政党は、単に近代政治の付属物ではなく、近代政治の中核であり、そしてそのなかで決定的にして創造的な役割を演じている」と表しました。確かに20世紀の前半までは選挙制度と並んで代表制民主主義を駆動させるエンジンの一つとして、このような政党を賞賛する声が満ちあふれていました。しかし今日においては、政党に対する不信感が世の中に充満しています。日本における近年の世論調査が示す、時には50%を超える無党派層の存在はその象徴です。

我々が考えてきた政治は、民主主義と自由主義の思想に基づいています。しかし、この二つは同一ではありません。民主主義は「統治者と被治者の同一性」という原理を含んでおり、自由主義は、「公と私の分離」という原理を含んでいます。自由民主主義という政治は、この容易には両立しがたい葛藤を抱え込んでいます。この葛藤は、政府をはじめとする公的領域を、すべての私人が選んだ代表者によって制御するという方法で対処されてきました。そしてこの代議政治の諸問題を解決するために、さまざまな方法が試されてきたのです。

つまり、公と私の区別という、自由主義的な政治観の再検討です。これは言い換えるなら「政治的なもの」と「非政治的なもの」の区別を再考することです。この問題こそ、現代の政治のあり方を考える際にしばしば提起される重要なテーマだといえます。

我々は、「政治的なもの」に関する再検討の必要性を確認したいと思います。
我々が政治に無関心である一つの問題点としては、戦後の日本の政党がわかりにくいことです。もともと民主主義の理念による自由党と民主党が合併し自由民主党(以下自民党)が発足しました。政治学の定義では上記のように民主主義と自由主義とは同一ではありませんが、かといって旧社会党を中心に発足した民主党や自由党が合併して今の民主党という政党も自民党に対して違いがわかりにくいものです。また政教分離に反するような政党が与党に参加していることこそ問題であるといえます。しかし、日本以外でも宗教思想と政治が全く関連がないことはないのですが、そうした個人個人の意志ではなく組織的な選挙は危険であります。政治に関心を持とうとしても、とくに国会は国民生活から乖離した議論を繰り返してあまりにも膨大な国家予算と公的な時間を浪費している以外の何者でもありません。
前出のシャットシュナイダーは、1942年にその著書『政党政治論』の中で、「近代民主政治は、政党競争の副産物なのである」と述べています。すなわち今日民主政治は国民自らが選挙において指導者也代表者なりを選べることを最大の特徴とするようになったが、そのような選挙の存在が政党を発展させたというよりは、政党の選挙を通じての権力獲得のための努力が、政党よりも古い歴史を持っている選挙に大きな意味を与えていたとおうのです。

3.政党の機能

政党の第一の機能は、利益の集約による選挙民の組織化であう。そのままではそれぞれ異なった利害関心を有し、個々バラバラのまま、自分自身や社会の未来に関してどのような選択を行えばよいのかわからない選挙民に対して、市民の中から表出されたさまざまな要求を政策という形で具体化された少数の選択肢として提示し、選挙民の選択に関わる負担を軽減するという役割を担います。第二の機能は、政治的リクルートと政治的リーダーの選出です。政党に所属していなくても無所属という形で誰しもが自由に立候補でき、その首長が多くの支持を得て選挙に勝ったならば、代表として議会に臨んだり、大統領といった政治的リーダーになることが可能です。しかし必ずしも彼らが政治家たるに相応しい決断力、責任感、さらには情熱といったものを備えているわけではありません。多様な国民の中から、政治家として相応しい人物を発掘し、国民に提供するという責任を担っているのが政党です。すなわち、政党は所属する個々の政治家の保証人としての役割を果たしているのです。さらには政党は党内におけるリーダーシップ獲得の競争を通じて、国家の舵取りを担うに相応しい指導者を養成し、国民に提示します。

第三の機能は、政治的社会化です。人は生まれてから政治社会に有権者としてデビューするまでに、ある一定の政治的指向や知識を持つことが期待されています。政党は、街頭演説、パンフレット、ビラ、さらには今日ではホームページ等のさまざまな手段を用いて政治問題に関する情報の提供を国民に行っています。そのことは選択に必要な情報の蓄積に役立っています。ただし、今日においては、政治的社会化を担うアクターとして政党以外に、家族、仲間集団、学校、マスメディア等も存在しています。さらにいえば、政治的社会化の担い手は政党というよりはマスメディアとなっています。
かつては、選挙民の第一の目的は選挙で代表を選ぶことであって、選ばれた代表は政策をつくり決定するという政治的分業を市民も受け入れていたといえます。「市民たちはたいていの場合、代表制のコストの一部として容認している」とまで述べたのは、現代民主主義の代表的な研究者として知られるR.A.ダールでした。

しかしそれは、政治についての情報があまり行き渡っていなかった時代で通用したことです。新聞以上に単純化した形で政治のことを伝えるようになったテレビの普及と共に、新たな反政党論がわき起こったのは偶然ではありません。さらに今日においては、インターネットという新たな情報メディアの発展が市民における政治的情報の蓄積に大きな役割を果たすようになってきています。今まで余り知ることのできなかった政治の世界におけるさまざまな出来事を、以前より容易に知ることができるようになりました。テレビに映し出される居眠りをしている国会議員にとどまらず携帯電話をしたり、無用な揚げ足取りをして党利党略を行う議会、その議員の表情を見ればその議員が何を言っても、嘘かどうかが瞬時に伝わってしまいます。議員数削減が急務であるとか、参議院は不要だ、という声が多いのもわかります。何より諸問題が山積みとなっている現代に、相変わらず提案から審議・可決まで、あまりにも時間がかかる現状の国と行政のシステムを改善することこそが、地方自治体以前に行うべき最大の改革ではないでしょうか。

一般市民の基本的な政治参加である選挙において、中心的な役割を果たしている政党に対して、もっぱらその不満の矛先が向けられるのも当然の話です。国民自らが判断し得なかったことのツケを負わされることに、もはや市民は我慢できなくなったのです。
以上のように自らが主体的に考え判断し得るようになった市民を前にして、かつては国家と社会の架け橋といわれた政党が政治的決定を独占することはもはや不可能となりつつあります。そのような時代にふさわしい役割を新たに見つけることが、政党の生き残りを左右することは間違いありません。政党が提案し、国民自らが決定するよいう新たな政治的分業、すなわちイギリスの政治学者I.バッジが提案したような「政党民主政としての直接民主政」、すなわち政党に媒介された直接民主制の構想もその一つでしょう。代表制と直接制とを両立させる半直接民主制の提案です。現在の代表制の下において、政策を提案し洗練させ、市民の投票を指導し組織化するという二つの役割を担わせるかわりに、重要な問題の決定は市民の投票に任せようというのです。政党自らが特権の一部を放棄することが、新たな政党政治の未来を切り開くのです。

4.政治と非政治のあいだ

グローバルなネットワークの形成に国家以外の主体として、NPO(非営利組織)やNGO(非政府組織)があります。こうした公共的な問題に、公共的な仕方で貢献する国会外の組織の重要性が、注目されています。一見私的に見える活動でありながら、その性質上公共的な利益の実現を促進する可能性をもつ、さまざまの自発的な組織や団体を「市民社会」と呼ぶことがあります。それには、NPOやNGOといった言葉が生まれる以前から、各種ボランティア団体、教会、文化サークル、学術団体、労働組合、スポーツ団体、市民運動等といった、さまざまな協同社会が含まれます。

市民社会が注目されるようになった理由の一つとして、1989年の民主革命に結実した東欧の民主化闘争において、教会や労働組合に集う普通の人々のネットワークが、政党に支配された権威主義的な官僚制国家に対抗する、批判的な公共圏として働いたのです。こうした普通の市民が自発的に形成する公共性の可能性が、国家の統治能力の問題性と限界性が指摘されるなかで、再評価されるようになってきています。こうした「市民」論は、代表制によって形骸化した民主主義を再活性化させるものとして期待されています。とはいうものの、市民社会の内部にも権力は存在します。そして市民社会が現実として国家の内部に存在しているがゆえに、活動は間接的に国家の統治を被っています。その限界を考慮に入れつつ、新たな政治の空間として、市民社会の可能性を探っていく必要があるでしょう。

公私の区別に依存する政治は、しばしば現実に存在する対立や抗争を適切な仕方で公的領域に吸い上げず、非政治的な問題として私的領域に封じ込めてしまう危険性があるといわれます。圧力団体や政党、マスコミ等を通じて、議会のような公的空間において論争化されるものだけが「政治的なもの」なのではありません。こうした政治の制度や慣行が無視し隠蔽する問題のなかに、我々が公的に対処するものが潜んでいるのかも知れないのです。公と私の区別は、固定的な基準として考えるべきではない。むしろ、その区別をすることの「政治」に配慮すべきであり、いかなる「政治」を求めているかが問われています。

自由に国境も存在せず環日本海を交易していた古代のアジア。今と比べて文明の進化といったものの以前に、古代の人々がはるかにグローバルな視野を持っていたのではないかと想像すると、この21世紀において「ナショナリズム」と「グローバリゼーション」の対峙は、一種の進歩、チャンスとすると、あまりにも議会や行政の仕組みが波についていけず、時間や財源の浪費以外の何者でもないことにわれわれは癖壁としています。

現在を特に、市民にとって必要なのは、政治に関する想像力、つまり「いまある政治のあり方」以外の「政治」を構想する力である。それは自分たちの生活世界を足掛かりとして、より善い、少なくともよりましな社会をつくろうと、努力することではないでしょうか。

<http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gif align=”right”>出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司放送大学准教授 山岡 龍一
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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