特別地方公共団体:特別区、地方公共団体の組合、財産区、地方開発事業団。
単位
一般的に、国家の行政組織を階層別に分けると、「基礎自治体(市町村役場など)<広域自治体(県庁、州政府、地方王国政府など)<中央政府(連邦政府)」の順で大きくなる。底辺ほど数が多く、広域になるに連れて少なくなる。
基礎自治体
都市や村落、即ち「点」「コミュニティー」を範囲とする地方公共団体を基礎自治体といいます。単位系では、都市を市、村落を村として分ける場合もあるが、「○○市」「○○村」を区別しない場合もあります。尚、「○○市」「○○村」を区別せずに一括する国家は、ヨーロッパに多く見られる。
広域自治体
県や道(州)など、広い範囲を治める地方公共団体や、複数の基礎自治体が集まって構成される地方公共団体を、広域自治体といいます。「面」「エリア」の概念となる。
単位の種類には、郡、県、道などがあります。規模は「郡<県<道」の順に広くなり、県は小さな広がりを、道は大きな広がりを指す。規模が大きく異なる為、県規模と道規模の行政区画を区別する事が多い。
尚、県や道などとは別に、基礎自治体同士の広域連合体が結成される事もあります。この場合は、「○○広域連合」のような一部事務組合の形式を採って、一部の案件を広域連合体に移して実施する事例が見られる。
「特別地方公共団体」には、特別区の他に「組合」や「財産区」、「地方開発事業団」があります。消防組合や清掃組合がその例としてあげられます。たとえば、現在、日本には1800の自治体がありますが、各自治体がすべて清掃工場を持つことは不可能なので、近隣の自治体同士で連携して一つの清掃組合を持ち、広域で清掃事業を運営するというやり方をとるのです。また、財産区というのは財産ないし公の施設の管理や処分、廃止のために設けられ、地方開発事業団は地方公共団体の間の公共開発事業の実施主体として設けられています。
2.地方自治の理念
地方自治の理念は、二つの原則から成り立っており、その相対する原則によって地方自治が直面する重要な問題が生じています。
一つ目の原則は「自治の原則」であり、これが本来の地方自治の考え方です。つまり、自治の原則により、地域的なサービスは地域の自己決定と自己負担の原則に基づいて供給されるべきものであると考えられます。これは第二次世界大戦後に日本に入ってきた考え方で、それ以前の時代では地方自治はなかったといっても過言ではないのです。たとえば戦前の知事の決め方は民選ではなくて官選でした。
もう一つの原則は、「均衡の原則」です。国民はどこに居住していようとも、同一水準の税負担で同一水準の行政サービスを享受できるようにしようと言う考え方です。たとえば、公教育は1学級最低40人ということが、均衡の原則によって守られてきましたが、最近では義務教育に対する国庫負担の削減に伴い、自治体の裁量権が増え、財政的に余裕のある自治体は少人数学級で教育を行ったりしていますが、一方で、財政的に苦しい自治体でも自力では行政サービスを行うことができない自治体があるため、国がその財源を補助する仕組みになっています。
このように自治の原則と均衡の原則はどちらも立派な考え方といえますが、理念的に両者は矛盾しているメンがあります。つまり、自治の原則に従えば、当然自治体が独自性を発揮することが期待されます。しかし、均衡の原則に従えば、そうした独自性よりも画一性、均質性が重視されます。そうした対立する二つの原則の間でこれまで日本の地方自治は運営されてきたわけです。
3.日本の「村」の歴史
ここで日本の集落や基礎自治体である村(むら、そん)の歴史をさかのぼって考えてみたいと思います。村は、集落や基礎自治体の一種で、第一次産業(農林漁業)に従事する者が多く、家の数と密集度が少ない地域を指す名称です。邑や邨とも書きました。社会学や地理学では村落といいます。
町(ちょう)は城下町などの第二次産業(商工業)が密集した地域。または市(都市)。 近代化以前の「村」は自然村(しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位であり、複数の集落の統合体であることが多かったのです。惣村(そうそん)は、中世日本における百姓の自治的・地縁的結合による共同組織(村落形態)を指す。惣(そう)ともいいます。惣村の指導者には、乙名(おとな)・沙汰人(さたにん)などがありました。また、惣村の構成員のうち、乙名になる前の若年者を若衆(わかしゅ)といいました。中世初期の領主が荘園公領とその下部単位である名田(みょうでん)を領地の単位としていたのに対し、戦国時代や江戸時代の領主の領地は村や町を単位としてきました。中世初期(平安時代後期~鎌倉時代中期)までの荘園公領制においては、郡司、郷司、保司などの資格を持つ公領領主、公領領主ともしばしば重複する荘官、一部の有力な名主百姓(むしろ初期においては彼らこそが正式な百姓身分保持者)が管理する名(みょう)がモザイク状に混在し、百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らはそれぞれの領主、名主(みょうしゅ)に家人、下人などとして従属してきました。百姓らの生活・経済活動はモザイク状の名を中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態は出現していなかった。
しかし、鎌倉後期ごろになると、地頭が荘園・公領支配へ進出していったことにより、名を中心とした生活経済は急速に姿を消していき、従来の荘園公領制が変質し始めた。そうした中で、百姓らは、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強め、まず畿内・近畿周辺において、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村落が次第に形成されていいました。このような村落は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員により形成されていたことから、惣村または惣と呼ばれるようになった。(中世当時も惣村・惣という用語が使用されてきました。)
南北朝時代の全国的な動乱を経て、畿内に発生した村落という新たな結合形態は各地へ拡大していいました。支配単位である荘園や公領(郷・保など)の範囲で、複数の惣村がさらに結合する惣荘(そうしょう)・惣郷(そうごう)が形成されることもありました。惣荘や惣郷は、百姓の団結・自立の傾向が強く、かつ最も惣村が発達していた畿内に多く出現した。また、畿内から遠い東北・関東・九州では、惣村よりも広い範囲(荘園・公領単位)で、ゆるやかな村落結合が形成されたが、これを郷村(ごうそん)といいます。なお、関東においては、惣荘や惣郷の存在について確認されていないが、特殊な事例であるが、香取文書には、下総国佐原において、それに近いものが存在していたことが書かれている。
室町時代には、守護の権限が強化され、守護による荘園・公領支配への介入が増加した。惣村は自治権を確保するために、荘園領主・公領領主ではなく、守護や国人と関係を結ぶ傾向を強めていいました。そして、惣村の有力者の中には、守護や国人と主従関係を結んで武士となる者も現れました。これを地侍(じざむらい)といいます。惣村が最盛期を迎えたのは室町時代中期(15世紀)ごろであり、応仁の乱などの戦乱に対応するため、自治能力が非常に高まったとされる。
戦国時代に入ると、戦国大名による一円支配が強まり、惣村の自治権が次第に奪われていいました。中には戦国大名の承認の下で制限された自治を維持する惣村もありました。最終的には、豊臣秀吉による兵農分離(刀狩)と土地所有確認(太閤検地)の結果、惣村という結合形態は消滅し、江戸時代に続く近世村落が形成していったとされるが、惣村の持っていた自治的性格は、祭祀面や水利面などを中心に近世村落へも幾分か継承され、村請制度や分郷下における村の統一維持に大きな役割を果たしたと考えられている。
惣村が支配者や近隣の対立する惣村へ要求活動を行うときは、強い連帯、すなわち一揆を結成した。一揆(連合、同盟)は元々、心を一つにするという意味を持っており、参加者が同一の目的のもとで、相互に対等の立場に立って、強く連帯することが一揆でありました。
惣村による一揆を土一揆(つちいっき)というが、土一揆は15世紀前期に始まり15世紀中期~後期に多発した。土一揆は、惣村の生活が困窮したために発生したというよりも、自治意識の高まった惣村が、主張すべき権利を要求したために発生したと考えた方がよい。ほとんどの土一揆は、徳政令の発布を要求する徳政一揆の性格を帯びてきました。当時の社会通念からして、天皇や将軍の代替わりには土地・物品が元の所有者へ返るべきとする思想が広く浸透しており、これを徳政と呼んできました。そのため、天皇や将軍の代替わり時には徳政を要求した土一揆が頻繁に発生した(正長の土一揆、嘉吉の徳政一揆など)。また、支配者である守護の家臣の国外退去を要求した土一揆も見られた(播磨の国一揆)。その他、不作により年貢の減免を荘園領主へ要求する一揆もありました。これらは、惣村から見れば、自らの正当な権利を要求する行為でありました。戦国時代に入り、戦国大名による一円支配が強化されるに従って、惣村の自治的性格が薄まっていき、土一揆の発生も次第に減少していいました。
江戸時代には百姓身分の自治結集の単位であり、中世の惣村を継承してきました。また、江戸時代の百姓身分とは、主たる生業が農業・手工業・商業のいずれかであるかを問わず、村に石高を持ち、領主に年貢を納める形で権利義務を承認された身分階層を指した。都市部の自治的共同体の単位である町(ちょう)に相当しますが、村か町かの認定はしばしば領主層の恣意により、実質的に都市的な共同体でも、「村」とされている箇所も多かったようです。
明治に入ると、中央集権化のため、自然村の合併が推進されました。
こうして、かつての村がいくつか集まって新たな「村」ができましたが、これを「自然村」と対比して行政村(ぎょうせいそん)ともいいます。
4.最小公共団体の自治
惣村の内部は、平等意識と連帯意識により結合してきました。惣村の結合は、村の神社での各種行事(年中行事や無尽講・頼母子講など)を取り仕切る宮座を中核としてきました。惣村で問題や決定すべき事項が生じたときは、惣村の構成員が出席する寄合(よりあい)という会議を開いて、独自の決定を行っていいました。 惣村の結合を維持するため、寄合などで惣掟(そうおきて)という独自の規約を定め、惣掟に違反した場合は惣村自らが追放刑・財産没収・身体刑・死刑などを執行する自検断(じけんだん)が行われることもありました。追放刑や財産没収は、一定年限が経過した後に解除されることもあったが、窃盗や傷害に対する検断は非常に厳しく、死刑となることも少なくなかった。なお、中世の法慣習では、支配権を有する領主や地頭などが検断権を持つこととされていたが、支配される側の惣村が検断権を持っていた点に大きな特徴があります。(検断沙汰も参照。)
荘園領主や地頭などへの年貢は、元々、領主・地頭側が徴収することとされていたが、惣村が成立した後は、惣村が一括して年貢納入を請け負う地下請(じげうけ)が広く行われるようになった。地下請の実施は、領主側が惣村を信頼していることを意味するだけでなく、年貢納入が履行されなければ惣村の責任が強く問われることも意味してきました。地下請の伝統は、惣村が消滅し、近世村落が成立した江戸時代以降も承継されていいました。
惣村は、生産に必要な森・林・山を惣有財産とし、惣村民が利用できる入会地に設定した。惣村の精神的な中心である神社(鎮守)を維持するために神田を設定し、共同耕作することも広く見られました。また、農業用水の配分調整や水路・道路の普請(修築)、大川での渡し船の運営など、日常生活に必要な事柄も主体的に取り組んでいいました。
近現代の大字(おおあざ)といわれる行政区域は、ほぼかつての自然村を継承しており、現在でも地方自治法の第七章「執行機関」第四節「地域自治区」(第202条の4~第202条の9)として旧自然村に相当する単位での自治が法律上認められています。また、自治会(地区会・町内会)や消防団の地域分団の編成単位として、地域自治の最小単位としての命脈を保っている面があります。
5.明治の大合併
明治維新後も江戸時代からの自然発生的な地縁共同体としての町村が存在し、生活の基本となっていました。当初、明治政府はこれと無関係に大区小区制を敷きましたが、住民の反発が大きかったことから、1878年(明治11年)に郡区町村編制法を制定し、町村を基本単位として認め、郡制及び5町村程度を管轄する戸長役場を置きました。しかし、府県、郡役所、戸長役場、町村という複雑な4層構造になってしまったため、行政執行に適した規模の町村の再編が必要となりました。 やがて明治政府は、1888年(明治21年)に市制及び町村制を公布するとともに、内務大臣訓令で、各地方長官に町村合併の推進を指示しました。これに基づき強力に町村合併が進められた結果、町村数は、1888年(明治 21年)末の71,314から1889年(明治22年)末には15,820となり、約5分の1に減少しました。このときは、おおむね小学校1校の区域となる、約300戸から500戸が町村の標準規模とされました。
明治の大合併を経て、地縁共同体だった町村は、近代的な意味で地域を行政統治するための地方公共団体に変貌することとなりました。しかし、大きな合併を経ていない小規模町村においては、現代に至るまで江戸時代からの地縁性が残っており、欧米と比較したとき、その地方公共団体と江戸時代からの自然村的な集合体との二重性が日本の町村の特長となっています。
6.戦前までの合併
- 1889年(明治22年)以降も町村合併は進められ、1898年(明治41年)までにさらに2,849減少した。
- 1898年(明治41年)以降は漸減傾向で推移し、1918年(大正7年)までには267が減少したのみだった。
- 1923年(大正12年)には郡制が廃止されたが、これをきっかけに町村合併等の機運が盛り上がり、1918年(大正7年)から1930年(昭和5年)までの12年間に、町村数は約500減少した。
- その後、1940年(昭和15年)紀元2600年を記念して合併が進められた時期などがあり、1943年(昭和18年)には市数200、町村数10,476となりました。
- 1945年(昭和20年)、第二次世界大戦終戦直後には、市数205、町数1,797、村数8,818となっていました。▲ページTOPへ
7.昭和の大合併
第二次世界大戦終戦後、1953年(昭和28年)10月頃から1961年(昭和36年)6月頃にかけて、昭和の大合併と呼ばれる大規模な市町村合併が実施されました。 戦後、新制中学校の設置管理、市町村消防、自治体警察の創設、社会福祉、保健衛生関係などが、新たに市町村の事務とされ、増大した行政執行の財政確保のために、市町村を適正規模に拡大することが必要となりました。
このため、1953年(昭和28年)に町村合併促進法が施行され、新制中学1校を管理するのに必要な規模としておおむね8,000人以上の住民を有することが標準とされました。さらに「町村数を約3分の1に減少することを目途」とする町村合併促進基本計画(昭28年10月30日閣議決定)の達成のため、1956年(昭和31年)に新市町村建設促進法が施行され、全国的に市町村合併が推進されました。
1953年(昭和28年)の町村合併促進法施行から、新市町村建設促進法を経て、1953年(昭和28年)10月に9,868あった基礎自治体が1961年(昭和36年)には3,472になり、約3分の1に減少しました。
8.高度経済成長期の合併
1965年(昭和40年)に「市町村の合併の特例に関する法律」(合併特例法)が制定されたが、この時期にも合併ブームが起こりました。 高度経済成長期には、「大きいことは良いことだ」が流行語となり、首都たる東京都区部への人口の流出も重なって、地方の市町村では、岡山市・倉敷市・富士市などの地域拠点になることを目指した合併や、新産業都市の指定を目指して平市・磐城市など14もの市町村がいわき市になるなどの大規模な合併も行われました。
また、高度経済成長期には、山間部の過疎が進行したため、隣接する都市が山間部を取り込むという動きもありました。静岡市などがそれに該当します。
また、市制施行のための人口要件が緩和され、鴨川市・備前市・東予市など、人口3万人以上での市制施行を目指した合併も行われました。
-出典: 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司 放送大学准教授 山岡 龍一