目次
概 要 | ||
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2.排日運動と中国政府の思惑 |
第二次大戦が終わり、中国共産党が国共内戦に勝利し、中華人民共和国を樹立した初期は、現在の反日、仇日とは違い、かつての中国人はジャパン・バッシングをする必要がなかったのです。むしろ、ジャパン・ナッシングの時代でした。黄文雄氏は「無日時代」と呼んでいます。 その「無日」は、韓国人のような「恨(ハン)」から出てきた「日本はない」ものと見なすとは違います。また、李鵬元首相が、オーストラリアの首相に、「日本は二十年後に消えゆく国家であり、取るに足らない国だ」と言ったように、呪いの気持ちから「日本はない」と言っているのでもありません。要するに、中国の「無日」時代は、ただ単に日本が眼中になかっただけです。 革命後の中国は、「世界革命、人類開放」、そして「国家死滅」を目指して、中国人が最も自信に満ち溢れた時代でした。みずから「開放」された人間という自家を持つ、はつらつとした時代だったのです。「15年以内にイギリスに追いつき、二十世紀以内にアメリカに追いつく」と、中国自身が言っていたことからも、自信のほどが分かるでしょう。日本の進歩的文化人や、エリートといわれる人々もこれを信じ、中国をあこがれの国、理想の国として、「蚊もハエもネズミも泥棒もいない地上の楽園」だと思っていました。 しかし実際、この頃の中国は、チベットに対しては「農奴解放」、朝鮮戦争では義勇軍の派遣、ベトナム戦争にもカンボジア内戦にも支援し、世界各国に革命を輸出するために狂奔していた時代でした。こうした自信溢れる時代の中国人は、反日どころか、「搾取されている日本人」に同情し、共通の敵としての米帝や、その走狗たる日本の自民党反動派の打倒に闘志を燃やし、やがて日本の「圧迫された人々を解放する」と意気込んでいました。 しかし、その予想に反して、日本は敗戦の廃墟から這い上がりました。日本は知らず知らずのうちに、いつしか世界有数の経済大国になってしまいました。それは中国人にとっては、想像を超えたことでした。そして、中国にとって日本の成長を脅威と感じるようになっていきました。 |
3.親日から反日へ急転した中国 |
戦後の中華人民共和国からしばらくは、中国は夢と希望に燃えた時代であり、中華思想が完全燃焼する時代でした。人々は「世界革命、人類開放、国家死滅」の「歴史的使命感」に燃え、「東風が西風を圧倒する」と信じて疑いませんでした。しかし、社会主義、ことに大躍進(1958~毛沢東の高度経済成長政策)は失敗し、文化大革命(1966~1977年)も単なる「十年動乱」でしかなかったという惨めな結果に終わりました。 1970年代末から改革開放路線に転換すると、社会主義のイデオロギーに代わって愛国主義と大中華民族主義の運動が共産党の一党独裁を支えました。これが今日の「反日」の時代的背景です。しかし、胡耀邦総書記によって類例を見ない時代もありました。胡耀邦は中国共産党の指導者のなかではきわめて稀な明るい性格で、陰険にして風見鶏の周恩来とは対照的なもっとも互恵的、真摯で夢に溢れた時代でした。 この頃の中国は「四つの近代化」(農業、工業、国防、科学技術の現代化)を推し進めるため、どうしても日本からの投資や借款などの援助が必要でした。また、1979年1月に日中の国交が樹立され、日中友好は日米友好とアジア太平洋地域における国際関係の機軸の一環として捉えられていました。 1983年、訪日した胡耀邦はNHKテレビで「未来は日中青年の友好にかかっている」として、三千人の日本青年を中国に招待する意向を表明しました。翌年この案は実行に移され、北京では日中青年大交流の儀式が盛大に行われたのでした。 そうしたなか、中曽根元首相の靖国参拝問題をめぐって、1985年に中国各地で反日学生デモが起こりました。このときの「親日派」批判は、明らかに胡耀邦へ向けたものでした。 1989年の天安門事件以降の社会主義体制の危機と、江沢民政権の登場によって、中国は「反日」「敵日」「侮日」ムードへと急転直下していきました。天安門事件は、中国の指導者たちにとって改革開放以来最大の危機でした。世界のメディアが注目するなか、無防備な民主派の学生や民衆に対し、あえて人民解放軍を出動させ弾圧させたのも、彼らの危機意識の表れでした。 江沢民は毛沢東や鄧小平などの第一、第二世代とは違い、革命指導者としての権威はありませんでした。 |
5.日本に対して優越性を主張したい韓国 |
中国人が日本についてよく言うのは、中国人は南から北から、あるいは半島を経由して日本に渡り、にほんを建国したのは徐福だということです。それを裏付けるために、さまざまな古典まで引用して、そう主張する中国人は少なくありません。 文化についても、日本には文化がなかったが、中国が文化を教えてやったといったという話をよく聞きます。 それは白村江の戦いの時代、百済から日本の救援を受けた頃から、半島はすでに海の向こうに強い倭人がいることは知られていました。 そのため、半島では日本を恐れ、その恐日の心理から、高麗朝は宗主国のモンゴルに「征日」として日本遠征を勧めたのでしょう。しかし、「元寇」は失敗し、逆に「倭寇」の来襲に恐れおののくこととなりました。なかには日本列島以外のニセ物の倭寇が登場し、彼らは倭寇以上に半島を荒らしまくりました。 朝鮮半島は中国と日本を脅威に感じてきた「恐日」の歴史であるため、日本を文化的に蔑視する「蔑日」をしなければ、優越感が維持できないのです。 朝鮮の事大主義(小国が礼をもって大国に仕える)がもっとも動揺した時代は、日本の開国維新からです。清国への忠誠心があまりにも強かったがゆえに、時代の変化に乗り遅れてしまい、余計に鎖国と事大主義路線を放棄することができなかったのです。 しかし世界の潮流には逆らえず、近代に入ってからは、列強各国の動きと連動しなければなりませんでした。宗主国(中国)の決断に従う以外には何もできず、列強への対応も、親清、親露、親米、親日というように右往左往したものでした。 李光洙は、この漢民族の族性を、「空理空論、阿諛迎合(あゆげいごう)、面従後背(めんじゅうこうげん)、大勢従応」と表現しました。また、朴正煕元大統領も「事大主義」は、後世の子々孫々に至るまで悪影響を及ぼす民族的罪悪史だと指摘したことがあります。 多くの韓国人は、事大主義を踏襲してきたのは両班(ヤンバン)や李成桂一派だけであり、大多数の民衆はそうではないといいます。あるいは、開き直って「韓国人の事大は平和主義を愛好する民族の証明」だとか、「漢民族の素晴らしい知恵」と自画自賛することもあります。▲ページTOPへ |
8.占領支配が消し去った歴史
西尾幹二氏は、私は高校生の頃までに受けた教育で、満州事変以後の日本の暴走という観念を植え付けられてきました。今の子どもたちにも学校の歴史教育でずっと同じ植え付けが行われています。一般読書で読まれている昭和史の類もやはり、戦争の原因を短い時間尺度の中に閉じこめるこの観念で書かれています。
これは明らかに政治的意図がある、と私は考えます。占領政策には日本を二度とアメリカに立ち向かえない国にするという目的がありました。一方的に日本に戦争の罪を着せようとするならば、歴史を短く区切って教えた方がいいに決まっています。なぜならば、遠く長い歴史の繋がりを持ち出すと、欧米諸国が四、五百年前から地球上で起こしてきたさまざまな侵略の考慮に入れなければならくなるからです。
1936年、大東亜戦争が始まる前には、イギリスが支配していた地表面積は27%、ソ連が16%、フランスが9%、アメリカが6.7%で、合わせて58.7%、すなわち地球表面の六割近くもが四ヶ国で占められていました。江戸時代からほとんど変わらない世界情勢が第二次世界大戦まで続いていたのが実態です。