【地名地誌】 幻の地名 気多郡手邊(テナベ・タナベ・テヘン)

気多郡手邊(辺・てなべ・たなべ)

兵庫県豊岡市日高町の府市場・府中新の辺りは、府市場の人に聞くと、昭和30年代までは手辺(てへん)と言っていたそうだ。手辺は現在のどこに当たるのか?

(上)豊岡市日高町府中新・(下)〃府市場

ネットで江戸後期の地名や但馬の村の様子を著した参考になる書物を見つけた。

「筑紫紀行」

尾張の商人菱屋平七(吉田重房)が40歳で楽隠居となり江戸から九州まで広く旅を楽しんだ。この紀行は享和2年(1802)3月名古屋を出て京・大坂を経由して九州長崎を旅したときの記録である。
一から十巻まであり、巻之九は播磨路を姫路から生野より但馬へ入り、湯島(城崎温泉)を旅して十巻では丹後久美浜から天橋立など丹後一円を訪ねて巻は終わっている。帰路姫路から但馬路を旅し、但馬・丹後の名所を廻って名古屋へ帰ったか。

40歳で隠居の身分とは、50過ぎてもバリバリな今と違いすぎるw

『紀行文集 筑紫紀行巻之九』 大橋音羽校貞(1869-1901) 東京博文館蔵版

…五丁計行けば江の宮(寄宮)村。農家二三十軒あり。冬春は此所より湯島へ渡る船あり。夏秋は水浅きによりて渡さずといふ。

二丁行けば宿南村。農家三四十軒。村はづれに茶屋のあるに立ち入りしばし休みて。平道五六丁行ば。左は岩山。右は気多川にて。岩山の裾の川岸の上をば。小坂を登り下りしつつ行く。足いと痛し。此間を岩掃(いははき)といふとなり。十丁計行けば浅倉村。農家五六十軒。茶屋一軒あり。村の出口に瀧中川とて。潤十間計の川あるを歩(かち)より歩る。

二三丁ゆけば岩中村。農家三四十軒あり。引き続きて宵田町。(小田村より是まで一里半)上中下の三町あり。商家宿屋茶屋あり。町の中通に溝川あり。引き続きて江原村。人家百四五十軒。茶屋あり。商家多く酒造の家あり。二丁ばかりゆけば日置村。農家四五十軒あり。さて神帳に但馬多気郡(※気多郡の誤り)日置神社とあるは。此村にあらざるか。二丁計行ば伊福イフ)村(今の鶴岡)。(宵田より是まで半里)農家四五十軒。商家茶屋あり。宿屋なし。

四五丁行ば土居村。村ながら町にて。人家七八十軒。商家多く茶屋なし。町の中通に溝川あり。引き続きて手邊タナベ※。(伊福村より是まで半里に近し)人家百軒計あり。商家多し。十丁計行は水生村。岩山の裾なり。十四五軒あり。

岩ノ下より冷ややかなる清水流れ出る。其の水にてところてん素麺を冷やし売る。其の清水の上の岩に小さき穴ありて。奥底測られず。此の穴を隠れ里といひて。穴の中には白鼠あまた住むといへり。是より山の尾を廻りて四五丁ゆけば納屋村。人家三四十軒。茶屋宿屋あり。

是より湯島へ向けて川船に乗るんとて。(若陸地をゆくときは。佐野村。九日村。豊岡と経歴し行んといふ)船宿藍屋勘十郎といふに入て船を出さしむ。船賃の定まりは借切一人乗り二百八十文。人数五人を限りとす。駕籠は二人に準ず。挟箱同じ。屋形賃四十文なり。人数五人に過る時は。其の過ぎたる人数の賃を増す。二人乗りも此格好にて賃を倍するなり。船の形状海船のごとし。かくて打乗行に。

豊岡までは川浅く水はやし。折々舟すわりて動かぬ事あれば。船頭川に立ち入て下す豊岡。(納屋村より是まで一里半)京極甲斐守殿(一万石)の御城下。…

以上、長くなってしまったが日高町に関する地名を全てそのまま挙げてみた。

倭名抄(倭名類聚抄)は、平安時代中期に作られた国勢資料である。 承平年間(931年 – 938年)、松の岡・土居手邊テナベ國府コフノ市場・堀・野野荘・池上と記されているから、この時代に「かたかな、ひらがな」は発明されているので、万葉仮名のような当て字ではなく読みは正確だろう。

それが、作者菱屋平七(吉田重房)は、かなりの筆まめかつ教養の持ち主で、当時江戸末期には記紀、万葉集、倭妙抄などが一般大衆にも広く親しまれていたことが確認できる。実によく調べている。現在でもこれらの記録に頼っているのだから大したものだ。紀行文集として明治になってもベストセラーとなっている。

さて、この巻で各村々の名前や様子を克明に記し、宿南村から伊福(ユウ・イフ)村(今の鶴岡)、土居(ドヒ・ドヰ)村まで、正確に記しているのに、続いて出版元の校正ミスかも知れないが、手邊を「テナベ」ではなく「タナベ」とカナをふり、水生(ミズノヲ)は書かれている。國府(コフノ)市場(今の府市場・府中新)・堀・池ノ上(池上)が抜けてしまっているのである。さて、宵田町も「ヨヒダ」と振ってあるように現代仮名遣いまでは、発音は「イ」であるが「ヒ」と記しているように、国府も「コクフ」とは読まず、「訓 コフ・音 こう」と読まれていた。江原は町と書かず江原村とあるのは宵田町のようには人家が密集していなかったからだろうか。江原は村外れに荒神社が鎮座し、そこから現在の江原駅(地番は日置)手前までが江原村である。

平安時代中期に作られた日本語辞書である「倭名類聚抄」などを江戸期のものまで集成した『諸本集成 倭名類聚抄(和名抄)』外篇 日本地理志料/京都大学文学部国語学国文学研究室/編に、
「気多郡」…因幡にも気多郡有り、遠江に気多郷有り、本郡には大己貴神(オオナムヂ)を祀る気多神社…、高田、日置、高生、気多、狭沼の五郷、多太、三方、楽前、八代、賀陽、伊福の六荘、今の八十村を領し、出石郡出石町に在し気多郡を治める。…

と記し、 「気多(郷)」が四角い枠で囲まれて気多郡のトップに記されている。

「気多」…「原無、今補、按渉郡名及太多ノ郷、致脱簡(1)也、古者國府在此、後徒治高田郷云、弘安大田文には、気多ノ上郷、気多ノ下郷、但馬考、今府中組、領山本、松ノ岡、土居、手邊(辺)、國府市場、堀、野野荘、池ノ上、ノ九邑、是此域也、…」としつつ、気多の後に、太多(タダ)、三方(美加太ミカタ)、楽前(佐佐乃久萬ササノクマ)、高田(多加多タカダ)、日置(比於岐ヒオキ)、高生(多加布タコフ・たこう)、狭沼(左乃サノ)、賀陽(カヤ)を記してある。

「気多(郷)」…「郷名は現存しない。弘安大田文には、気多ノ上郷、気多ノ下郷、但馬考には今の府中組で、山本、松ノ岡(松岡)、土居、手邊(辺)、國府市場、堀、野野荘(野々庄)、池ノ上(池上)、芝(西場)の九村がその域である。」と記されている。

例えば田邊(田辺)という地名も各地に多いが、漢字は手辺なのに「タナベ」とわざわざ記している。倭妙抄で「手邊(テナベ)」と記されているので、漢和辞典には、「手」は、テ(タ)とも発音するとある。現在のようにタとテのように滑舌がはっきりした話し方はしなかっただろうし、江戸期にはテとタの中間でたなべの発音に聞こえたのではないだろうか。まして但馬人は冬寒い土地柄で、口を大きく開けて話さないし。

土地の人の発音が「テナベ」と言ったのに作者には「タナベ」と聞こえたのかも知れないから、「テナベ」と聞こえたならそのようにカナを振るはずだ。校正ミスの可能性もあるが、他の但馬の地名に同様な誤植はなく、発行所はかなり丁寧に校正しているようだ。

「土居村。人家七八十軒。商家多く茶屋なし。町の中通に溝川あり。引きつづきて手邊(たなべ)。伊福村より是まで半里に近し」

と、手邊に(タナベ)とふりがなをふってある。手邊(辺)は現存しないが、和名抄は記載順が所在地に忠実に記載されているので土居と水生の間に記されていることから、水生までは今のように国府市場・堀・池上・野々庄・上石の人家は街道沿いにはとくになく、手邊は土居と水生の中間にあったと考えられる。ならば手邊は現存せずそれ以外の村はそのまま区名として現存している。

平安後期にすでに手邊(辺)、國府市場とあるのにではなぜ「筑紫紀行」で国府市場を記していないのであろう。国府市場は手邊と言っていて、今の府市場・府中新はのちに人口増加によりそれぞれ分村したものと考えられなくもない。

江戸時代には、様々な里の存在は認めた上で、36町里を標準の里とすると定めた。1町(丁)=約109.09m、1里=約3927.2mとなる。伊福村から手邊までは半里に近し(=約1963.6m)と書いているから、伊福村から手邊までは約2kmないということである。今の府市場・府中新辺りだろうが、これをgoogle Mapで測ると、旧道と国道は並行してほぼ同じルートなので、鶴岡交差点の手前の旧道交差点から、松岡・土居を通り、府市場の府中郵便局あたりがほぼ半里(約1900m)となるが、当時の政治や公民館的な集合場所は神社だから、旧国府村役場や鹿島神社辺りまでの旧道が手邊の中心だろう。また、手邊は人家百軒もあるから、宵田町や江原村(人家百四五十軒)のように当時は大きな町である。

「手邊は人家百軒計あり。商家多し。十丁計行は水生村…」とあるから村ではなく大きな町であることがわかる。国道312号線の旧道湯島街道は、土居から今の国道をしばらく進み府市場から右折して今は府中新の鹿島神社のある旧道で北へ向かい、堀交差点から府中小学校横を今の上石まで通る道だろう。現在でもそのまま細いがまっすぐな道は残っている。池上は八代川が円山川へ注ぐ地点で、水生城があった裾野は湿地帯で池とはその注ぐ辺りが大きな池に見えたのかも知れない。古くは池上をイキノエと読んだようだ。(『国司文書 但馬郷名記抄』)「十丁計行は水生村。岩山の裾なり。十四五軒あり。岩ノ下より冷ややかなる清水流れ出る。其の水にてところてん素麺を冷やし売る。其の清水の上の岩に小さき穴ありて。奥底測られず。此の穴を隠れ里といひて。穴の中には白鼠あまた住むといへり。是より山の尾を廻りて四五丁ゆけば納屋村。」

手邊より水生村までの間に国府市場という町村が残っていれば「土居村、続いて手邊、十丁計行は水生村」と書かず、国府市場を書き漏らすはずはないのである。しかも、手邊だけあえて「手邊」とし、町・村と書いていないところから、「手邊は人家百軒計あり。商家多し。」とあるが、人家が密集しておらず町や村という単位でくくれないのかも知れない。

手邊(辺)とは何か

 

ふと「手邊」検索していると、手邊的珈琲とか漢語手邊書とか、中国語にやたらとひっかかる。「手邊」をexcite翻訳で変換すると、「手元」と出た。

“国府の手元、国府の辺り”が手辺という意味なのではないだろうか。あるいは円山川の土手(堤防)の辺りという意味か?

つまり、国府がある所は、手元だから郷も地名もないというのはどうだろう。国衙をはじめ律令制度は中国を手本としているのだから、条・町・里・郡・郷などとともに、中国語がそのまま使われたとしても不思議はないのである。
邊は元なのだ。音読みはヘン。訓読みでは、あた-り、ほと-り、べ、なべ。邊の新字体は「辺」。てのべ、てべ、てなべ、でも間違いではなく読める。

しかし、江戸期に手邊(たなべ)と読んでいるから、例えば渡邊(渡辺)はワタナベ、田邊(田辺)はタナベである。ワタヘン、タヘンなどとややこしく重箱読みをする人はいない。出石出身で教養あふれ国の気象官となって天気予報を初めて導入した他、但馬の歴史を調べ尽くした桜井勉氏が、わざわざ手邊(テヘン)と読みをふっている。校補但馬考が記された明治期には、手邊を「タナベ・テナベ」と読まず、いつからか「テヘン」と呼ぶように変化したのだろうか。府市場のかなりの識者でも分からないのだから、よその私が分かるはずもないが。

太田文ではすでに気多郡から気多郷は消滅していて、気多郷だった上郷村・中郷村は日置郷に入っているが、気多川(今の円山川)対岸の郷社気多神社にも立ち寄っていない。手邊は細長く、府市場から堀の辺りまでが人家はまばらだっただろうが、従って、江戸時代に国府市場はすでに古名となって廃れて手邊という地区の総称として呼ばれていたのではないかと考えられる。いずれにしても、松岡の次は手辺で、次は水生となっているということは、手辺は現在の府市場から堀までの円山川の土手辺りをさし、手辺=土手辺りと考えると、手辺はその円山川沿いの細長い一帯を指してこの地域の総称のように思われる。

また、堀、野々庄・池上は倭妙抄にも記される古い村だ。現在でもそのまま区名として続いているので当時も存在しただろうが、日吉神社(堀)、三野神社(野々庄)、熊野神社(池上)、須賀神社(西芝)や寺が、街道から外れているので旅人である筆者が通り過ぎても不思議はない。国府地区(旧国府村)の式内社、御井神社・伊智神社・三野神社三社のある位置をトレースすれば、その神社からそう遠い所を街道が通っているとは思えない。ということはすでに江戸時代後期には今の堀から西芝の国道までの府中小学校正門前のまっすぐな旧道が旧道のバイパスとなって新しい湯島街道で、手辺から水生まではまだ人家は少なかったことの証拠ともいえる。

[註] ※脱簡(1)書物の中の一部が抜けていること。章・編の脱落や落丁のあること。

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「【地名地誌】 幻の地名 気多郡手邊(テナベ・タナベ・テヘン)」への2件のフィードバック

  1. 江戸期の古俳書を読んでいて、俳人の出身地に大ヤフ、ヤフ、テヘンと記してあります。ヤフは養父ですが、テヘンが分からず検索していて、ここにたどり着きました。恐らく手辺のことでしょう。江戸期にあった地名が現在は消滅しているようですね。

    • 95さま、はじめまして。コメントいただき有り難うございます。
      地元の人によると、昭和30年代まで手辺(てへん)と読んでいたそうですが、
      行政区は府市場・府中新となったので消滅したのではと思われます。
      市町村合併で国府村が旧日高町になった頃です。

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