00 はじめに『但馬国司文書 但馬故事記』

「国司文書・但馬故事記・別記」の訳註書「古事大観録」「但馬神社系譜伝」「但馬郷名記抄」「世継記・秘鍵抄ほか」コピーを同じく但馬史や神社に興味を持たれている知人からいただいた。

郷土但馬の成り立ち、神社の由来・縁起を知る手がかりとして、桜井勉『校捕但馬考』などから拾っていたが、どうしても『但馬故事記-但馬国司文書』が読みたくなった。但馬文教府にあると聞いたので行ってみると、閉館していたので、豊岡市図書館にないものかと探しにいったら、コピーした写本があった。翌日また出かけて禁帯出ではないことが分かり、わかりやすい現代文に直された『平文 但馬故事記 全』長岡輝一著とともに借りてきた。

読んでみると、但馬の歴史・風土記・神社等が実に詳しく、但馬国府に任じられた歴代の国司・官人たちが数年の歳月をかけて編纂された公文書なのである。

天平に朝廷が各国のその地の風土・産物・伝説その他を、国ごとに記させた風土記は、わずかに写本として5つが現存し、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残るのみである。『出雲国風土記』は天平5年(733年)に完成し奉呈されたが、但馬国風土記はそれよりも20年早く和銅5年(712年)に奉呈されている。しかし、第56代陽成天皇の在年に火災によって焼失した。この『国司文書 但馬故事記』は、それより260年後に作られたものである。それだけ資料も多く集めたもののようで、風土記としては『出雲国風土記』に勝るとも劣らない、全国でも類のない貴重な書である。

まずこの但馬内の神社に散逸していた巻を収集して注釈本にされた吾郷清彦氏が書中に書いているように、「この中でも神社系譜伝は、神社の由来・縁起をはじめ、祭神のことなど、こと祭祀に関する限り、延喜式の但馬版といってもよいであろう。」
長年捜していた貴重な書を見つけた喜びと同時に、なんとはるか1000年以上前に正確に記されていたのに感激してしまった。

誤っている桜井勉氏を中心においた但馬の郷土史一変道の固定概念

『アメノヒボコ』(瀬戸谷晧・石原由美子・宮本範熙共著)の中で、

『校補但馬考』の刊行は大正時代のことだが、まず出石藩主仙石実相の命を受けて、桜井舟山が宝暦元年(1751)にまとめた著書が『但馬考』。その後、出石藩には弘道館という藩学が設けられ、桜井一族がこの分野で活躍を続ける。子の石門が但馬関係資料を『但馬叢書』としてまとめ、さらにその子の勉(児山)が祖父の業績に大幅な増補を加えて刊行したものが大著『校補但馬考』であった。その引用文献の豊富さや徹底した質・資料批判という点において、但馬史研究の出発点の地位を失っていない。

桜井勉氏は自著『校補但馬考』の巻頭で、「但馬地誌に、但馬記、但馬誌、但馬發元記、但州一覧集の類ありといえども、その書誤り極めて多し。国司文書なるものあり。分けて故事記八巻、古事大観録三巻、神社系譜伝八巻となす。しかして、その書は誠にずさん妄作に属する。したがってこれを引用せず」と明記してその立場を明らかにした。いかがわしい文献は信じられないし、論評することすらしないというわけである。

このことは、梅谷光信氏が正当に評価したように、出石藩以外の藩学や私学では「但馬史の系統的な研究がなされなかったから」できたことではあろうが、その背景に但馬の雄を競う出石藩と豊岡藩の学問的闘争の継続といった側面があるいはあったかもしれない。

ここで桜井 勉氏について少し触れてみたい。

桜井 勉

明治時代の行政官。出石藩の儒官・桜井石門の長男として出石郡出石町伊木(現兵庫県豊岡市)に生まれた。明治新政府では内務に携わった。内務省地理局長時代には全国の気象測候所の創設を働きかけ、気象観測網の基礎を築いた。その後、徳島県知事、山梨県知事、台湾新竹知事、内務省神社局長を歴任、1902年(明治35年)に退官した。

退官後は出石に戻り、『校補但馬考』を著して但馬の郷土史研究の基礎を築いたほか、教育振興などにつとめた。

「天気予報の生みの親」として知られ、今日の兵庫県・京都府の合併に寄与した。東京大学初代綜理のち東京帝国大学総長加藤 弘之氏、三代濱尾新とともに出石の偉大な郷土の偉人である。また晩年、弘道館藩学の一族として、郷土史『校補但馬考』をまとめた功績は大きい。もちろん、桜井勉氏は偉大な郷土の偉人であり、『校捕但馬考』は明治になってよく調べ上げた数少ない郷土史である。

しかし、学者に限らず国史であるから『記紀』は正しい、また偉い学者や先生、Aという大新聞、某公共放送だから間違っていないだろうと考えてしまう傾向が日本人には多い。実際にどこのどういう記述が嘘偽りなのかは触れず、考古学界でそう言われてきたからとか、全くもって真実、史実を求めるのではなく、また自虐史観による戦後教育の申し子のように日本はアジア周辺国に迷惑をかけたのだから(実際はその反対)、それ以外の答えを出すことがタブーであるかのように、定説、通説なるものにもたれ合い、本来の歴史学というアカデミックな探究心から逸脱してそれぞれの立場を守ることの方が大切であるようで愚かだ。

そのためか、桜井勉氏が『但馬故事記』を偽書としているからと、『但馬故事記』が軽んじられてきたようだ。しかし、『国司文書 但馬故事記』を熟読し、神社等を調べ上げた結果、桜井の『校補但馬考』の記述こそ、史実を操作した感があるように思えてならないところがある。

つまりは、桜井勉氏は『校捕但馬考』を編纂するにあたり、あらゆる但馬の歴史文献等を調べ上げことは同書に述べているのではあるが、『国司文書 但馬故事記』を引用するに値しない、「偽書だ、妄作だ」と言い切るならば、具体的にどこの何が異なるのかなど述べなければなるまい。桜井勉氏『校捕但馬考』は、何も理由を述べずに憎悪している。

おそらく出石藩学を担ってきた桜井家の子孫として、どうしても曲げられない桜井家の立場、アメノヒボコ・神社などの研究成果を覆す事が記されているものだったから、出石藩学の中心的立場では、但馬をアメノヒボコ一中心にしないといけないという考えが強かったのかも知れない。

われわれ現代人は、桜井や苦労して集めた資料に比べて、書物やインターネットのおかげで、かなり多くの世界的規模の文献を客観的にみることができる。まずは、「百聞は一見にしかず」というように『国史文書 但馬故事記』をまず読んでみてほしい。全くの想像で具体的な年代、人物、神社名や祭神などを膨大な歳月と人力をかけて集められるだろうか。もちろん神話的部分が事実ではなく想像である部分もあるだろうが、言い伝えや昔ばなしや伝承がまったくの作り話ではなく、事実が隠されていることも多い。

そう思っていたのは実は私だけではなかった。早くから吾郷清彦氏・長岡輝一氏ともに桜井勉やそうした学者を批判しているし、また、感動したのは、国司文書編纂者が、『但馬故事記序』として書いている言葉である。平安後期の役人・国学者は、我々が抱いていたよりはるかに客観的な視野と優れた日本人だったからである。

但馬故事記序

日本根子天高譲弥遠天皇(淳和天皇)の朝*1、但馬風土記を作り、国学寮これを管る。
その記、貞明天皇の朝、火災に遭い焼亡す。遺憾何ぞ堪えんや。

この書は弘仁五年春正月に稿を起し、天延二年冬十二月に至る。其ノ間、年を経ること158、月を積むこと、1,896、稿を替えること、79回の多に及ぶ。(中略)
然してれ、旧事記、古事記、日本書紀は、帝都の旧史なり。此の書は、但馬の旧史なり。
故に帝都の旧史に欠有れば、即ち此の書を以って補うべく、但馬の旧史に漏れ有れば、即ち帝都の正史を以って補うべし。焉。
然りいえども此の書、神武帝以来、推古帝に至るの記事書く。年月実に怪詭を以って之を書かざれば、即ち窺うべからず。
(そうはいっても、この書は神武帝から推古帝の記事を書くのだから、年月は実に怪しさをもって書いていることを否定出来ない。)
故、暫く古伝旧記に依り之を填(うず)め補い、少しも私意を加えず。また故意に削らず。しかして、編集するのみ。

現代でも歴史を知る姿勢として十分通じるべき範として見習うべきことを、すでに平安時代に述べられていることに、日本の先人の偉大さを再認識するのである。

*1  朝 朝廷という名称は、公務を朝行ったことが起源である。

『但馬故事記』について

(原文コピー本)豊岡市図書館蔵

『竹内文書・但馬故事記』吾郷清彦
昭和59年11月16日 発行
定価 3万円 (株)新国民社

(筆者が、)『但馬故事記註解』を『自己維新』に連載した昭和47年10月号より翌48年12月号まで一年と三ヶ月。
ところが昭和54年に、兵庫県の田中成明氏より『古事大観録』・『但馬神社系譜伝』(原本コピー)の寄贈を受けた。
ここにおいて私は、『但馬国司文書』註解の衝動に駆られ、これを執筆、発表する決意を固めた。
そもそも『但馬国司文書』は、副題としてあげた如く、『出雲国風土記』に皮脂、勝るとも劣らない価値ある古文書だ。この文書は左記三種の古記録、計22巻より成る。

『但馬故事記』(但記)   八巻
『古事大観録』(大観録)  三巻
『但馬神社系譜伝』(系譜伝) 八巻

このほかに
『但馬国司文書別記・但馬郷名記』 八巻、
『但馬世継記』八巻、
『但馬秘鍵抄』などがある。

※()は筆者の略称

これらを本著に収録して、注釈を加えれば大冊となり、内容上重複する箇所がすこぶる多くなる。よって、『但記』・『大観録』・『系譜伝』を三本の柱となし、これに『郷名記』を加え、『世継記』と『秘鍵抄』とは概要にとどめ、必要に応じて引用することとした。

(省略)

この国司文書は、地方の上古代史書のうちで『甲斐古蹟考』とともに東西の横綱として高く評価されるべきものだ。

兵庫県(出石)の郷土史家桜井勉は、これらを深く調べもせず、枝葉末節にこだわり、但書を偽作視するが、情けない限りだ。概して学者なるものは、ひとたび自説を発表するや、自説を曲げず、他説をそしることに汲々とする傾向がある。
私は、これまでの狭量な学者的態度をとらず、また科学者が、専門外の史学に没入した際、数式や定説を作り上げて、一つの結論に単略しがちな弊にも陥りたくない。

 

本書の記録範囲と内容

時間的には、天火明命の天降りから人皇62代村上天皇の天暦五年(951)まで、地域上ではもちろん但馬国が主体をなすが、隣接する因幡・丹後・丹波・播磨その他の国々が登場する。

但馬故事記 これは但馬国八郡にわたる歴史編というべきもの
古事大観録 多分に風土記的色彩を帯びており、但馬国の文化編といえよう。
但馬神社系譜伝 これは、延長五年(927)12月に上程された延喜式を見習って作られたものであろうか。各部ごとに、かくも整然と詳しく神社の系譜が伝えられていること、まさに日本全国で唯一無双といってよいであろう。まったく壮観である。

本書の特徴と史的価値

但馬国司文書の特徴

本書を風土記として見る場合、その余りにも広大な構成に驚く。よって私は、本書を歴史篇と産業文化篇・神道篇とに分けて考える。

すなわち歴史編は、『但馬故事記』八巻であり、産業・文化編は、『大観録』『郷名記』、神道編は『系譜伝』に当たる。『郷名記』は、地理篇というほうが、より妥当であろう。それよりも、むしろ世継記・大観録・郷名記の三書は風土記篇と呼ぶのが適当かもしれない。
本書に共通する特徴を左のごとく列挙しよう。

1.但馬地方の諸伝承を忠実に記載する。
2.古典四書(1)などを充分に参照している。
3.神社の祭神をよく調べ、かつて上代(300-1000)に神社信仰時代があったことを、本書は明示する。
4.本書は、古墳時代に関する記録が多い。なかんずく古墳の副葬品の叙述に満ち溢れている。「国司文書 但馬神社系譜伝」の点で考古学・民俗学上見逃せない有力な資料である。
5.諸々の連(むらじ)・公・君(きみ)・臣(おみ)・首(おびと)など、各郡首長たちの系譜を詳細に伝える。
6.天孫-饒速日(天火明)尊-降臨の詳しい伝承を記載する。
7.陸耳(くがみみ)-御笠討伐の記録は、他所に全くない詳伝である。
8.神功皇后の但馬国における足跡を伝える。
9.天日槍一族の事蹟が、ことのほか詳しい。
10.兵庫(やぐら)の設定、軍団の構成、陣法による訓練の諸項に見るべきものが多い。

(1)古典四書…『古事記』・『日本書紀』・『旧事記』を古典三書。この三典に『古語拾遺』を加えて古典四書という。

本書の史的価値

但記序文における編纂方針と執筆者たちの良心的態度

夫(そ)れ旧事紀・古事記・日本書紀は帝都の旧史なり。この書は但馬の旧史なり。故に帝都の旧史に欠有れば、即ちこの書をもって補うべく、但馬の旧史の漏れ有れば、即ち帝都の正史といえども荒唐無稽の事無きにしも有らず。況んや私史家様に於いてをや。

この堂々たる一文、もって私たち古代研究家の大いに範とすべき大文章だ。今日の史家の百家争鳴、史実を曲げることの極端、白を黒に塗って、得意となっている徒輩の氾濫、嘆かわしい限りである。

かと思うと、古典に執着するあまり、地方に秘匿されていた古文献をやたらに偽書呼ばわりする狭量な史学者にも困ったものだ。

『天日槍』の著者、今井啓一郎は、出石の郷土史家桜井勉の偽書説など牙歯にもかけず、「人、あるいは荒誕・不稽の徒事なりと笑わば笑え」と、堂々の論調を張り、天日槍研究に自信のほどで示した。すなわち彼は、桜井とは見解を異にし、高い次元にたち、この但馬国司文書を大いに活用している。

(省略)

桜井勉の著述として採るべきものは多々ある。また神社信仰時代を示す資料としてみる場合、まさに但書は天下一品、とても但馬考などの追随を許さない。(省略)

総合して、但馬考と比較するとき、上古代から中世までに関する限り、但書は但馬考よりはるかに優れており、但馬考以上に高く評価すべきものである。

さて本著の副題に─出雲風土記にまさる古代史料─とつけたごとく、本書は、出雲風土記をはじめ、各国から上進された諸風土記に勝るとも劣らぬ内容を備えている。

この中でも神社系譜伝は、神社の由来・縁起をはじめ、祭神のことなど、こと祭祀に関する限り、延喜式の但馬版といってもよいであろう。

  • 『国司文書・但馬故事記』には、2つの貴重な事実が但記序文に載っている。
    一つは、但馬風土記が、人皇52代陽成天皇の御代火災にかかり焼失したことは、遺憾で堪えられないことだ
  • この書は平安初期、弘仁五年(814)に稿を起こし、天延2年(974)冬12月に至る。
    編纂に従事する者はいずれも中央から派遣された国学寮の学者である(今風に言えば国家公務員)
  • 『旧事記』・『古事記』・『日本書紀』は帝都の旧史なり。この書は但馬の旧史なり。
    ゆえに帝都の旧史に欠有れば、即ちこの書を以って補うべく、但馬の旧史に漏れ有れば、即ち帝都の正史を以って補うべし。
    然りといえどもこの書は、神武帝以来推古帝に至るの記事を書す。年月日に怪訝に似たり。(中略)古伝旧記に依りこれを補填し、少しも私意を加えず。また故意に削らず、編を成すのみ。
  • 正史が国家権力によって記されているのと、地元に縁もゆかりもない派遣された国学者たちが客観的に編纂するこの書と、どちらが信憑性が高いだろう。国府に従事するならむしろ中央に有利に書くだろう。但馬の風土記を脚色しても何の利があるといえるのだろうか?むしろ、客観的に編纂されていると思えるのである。

『平文 但馬故事記 全』 長岡輝一著 発行 平成十年

『但馬故事記』は、我ら昭和3年蚕業学校(現県立八鹿高校)卒業29回生の級友、伊藤三武郎君が、苦心を重ねて再発掘した古書である。

大正時代の史家桜井勉氏は、自著『校捕但馬考』は、但馬史において重要な資料であるが、彼は、『但馬故事記』をその書の中で、後世の偽作と断定して、「附警」の一巻を設け、鋭く論断を加えている。

以後、但馬故事記は黙殺の厄に合い、但馬人はこの書を読まず、学者・史家は言及を避けている感が深い。

『校捕但馬考』の附警を繰り返し読んでみても、『但馬故事記』の「後世偽作」を証明する確証は一項も見当たらない。

また、反面には最近の史家によって、その編纂の頃までに、地元に残っていた伝承が書いてあり、また古事記や日本書紀に、作為的に記載を除外したかと思わせる部分もあり、極めて貴重な文献だとする見解もある。

[以上抜粋引用]
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