目次
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1.新憲法における地方自治
明治憲法は、地方自治に関する規定は存在せず、あくまで国の行政の一環として地方行政があるという位置づけでした。しかし、市町村には一定の自治が認められており、大正デモクラシー期には地方自治の拡充という動きもありましたが、それら市町村は、国の地方機関としての都道府県下に置かれるものであって、本来的な意味での地方自治が達成されていたとは言い難いものでした。
これに対して1946(昭和21)年に公布された新しい憲法は、第八章に地方自治の章を設け、国家体制のなかで明示しています。憲法のなかでは「地方自治の本旨」がうたわれ、さらに1947年には「地方自治法」が施行され、府県知事は官選から公選に、また府県の役割自体も広域自治体としての性格を持つようになりました。
その一方で、自治に「不慣れ」な市町村に対する中央省庁の不信感も根強く、いかにして地方をコントロールするかが大きな問題となっていました。こうしたなか、各省は国の事務権限を都道府県から引き上げる方針が明らかにされたことをきっかけに、その妥協の産物として都道府県知事や市町村長などを国の機関と見なして国の事務を行わせる、「機関委任事務」を多用するようになりました。これ以降、1990年代に地方分権改革論議が高まり、機関委任事務が廃止されるまで、機関委任事務は、国の地方に対する重要なコントロールの手段として用いられることとなりました。
1.シャウプ勧告
1949年に提出された「シャウプ勧告」は、地方公共団体の財政的基盤を強化することをめざして以下の三つの原則を示しました。その内容は、国庫補助負担金の大幅整理、税源分離原則、のちの地方交付税の原型というべき「平衡交付金制度」などからなるものでした。
- 責任明確化の原則
- 国、都道府県、市町村の三段階の行政機関事務は明確に区別し、一段階の行政機関には一つの特定の事務が割り当てられ、さらにそれぞれの行政機関はその事務の遂行と一般財源によってこれをまかなうことについて、全責任を負うべきである。
- 能率の原則
- それぞれの事務は、各段階の行政機関がこれを能率的に遂行するために、規模、能力、財源によって準備の整っているレベルの政府(機関)に配分されるべき。
- 市町村優先の原則
- 地方自治のためには、事務の再配分は市町村に第一の優先権が与えられ、第二に都道府県に、そして国は、地方レベルでは有効に処理できないような事務だけを引き受けるべきである。
実際には、シャウプ勧告は、日本の実情に合わないとする中央省庁の強い反発にあい、その内容が反映されるのはごく一部にとどまりました。また市町村優先主義の明示は、戦前に地方行政の機関として機能してきた都道府県の反発をも招きました。
やがて1952(昭和27)年、講和条約により日本の再独立が認められると、こうしたシャウプ勧告に示された方向性は転換されました。そして1956(昭和31)年に改正された「地方自治法」では、都道府県と市町村の指揮監督の関係が明確にされ、終戦直後に目指された市町村を中心とする地方自治を構築しようとする試みは、いったん閉ざされることとなりました。こうした動きが再燃するのは、1990年代の地方分権議論に際してでした。
「政治学・行政学の基礎知識」 著者: 堀江湛・真下英二
1.地方公共団体の財政
膨大な借入金残高を抱えるなど、現在、日本の地方財政はさまざまな問題を抱えていることが指摘されています。そもそも戦後日本の地方財政は、自治体の税収が歳入全体の三割程度にしかならないことから生まれた「三割自治」と言う言葉に象徴されるように、憲法に保証された自治を可能にするための基盤が極めて弱い。シャウプ勧告は市町村財政の基盤強化を唱えましたが、中央省庁や都道府県の反発により頓挫した経緯もあり、地方公共団体の中央への財政的依存度は非常に高いものです。
国や地方公共団体の活動のための歳入の基本となるのが「国税」及び「地方税」です。2001年度の国民が負担する租税のうち約六割にあたる約50兆円は、国の財源となる国税です。これに対し同年度の歳出は、国と地方の歳出純計額約160兆円のうち、地方は約96兆円と、国の約1・5倍になります。つまり、地方は収入が少なく支出が多い状態にあるわけです。地方公共団体が活動するためには、国から相当の財源移転を行わなければならないわけです。
地方公共団体の主な財源は、地方公共団体の税収である「地方税」と、国税として徴収され、一部または全部が一定の基準で地方公共団体に譲与される「地方譲与税」「地方特例交付金」「地方交付税」「国庫支出金」、さらに借金にあたる「地方債」です。
このうち「地方特例交付金」や「地方交付税」は国からの財政移転ですから、地方独自の収入となるのは「地方税」と、実質的に地方税とほぼ同じ性格を持つ「地方譲与税」です。そして地方公共団体の歳入のうち、これら財源が占める割合は、平均で三~四割程度に留まっています。つまり、必要とされる財源のうち六割は、国からの支出や借金に頼らざるを得ないということになります。
「国庫支出金」は、いわゆる補助金で、公共事業や義務教育など、地方公共団体が行う特定の事務や事業に関わる経費について、国がその使途を指定して支給するもので、地方公共団体としては、獲得するために特定の事業を行ったりするために地方行政が硬直化する可能性があります。また、地方行政体制の縦割り化を促進することにもつながります。
「地方交付税」は、富裕団体とそれ以外の団体との格差をなくそうとするもので、使途も限定されていませんが、財源の乏しい地方公共団体ほど多額の交付税を公布されることにつながり、地方が自助努力によって収入を増やそうとする意欲を失わせてしまうとの批判もあります。
これら国からの支出に、歳入の六割を依存している現状では、地方公共団体の活動に一定の裁量権が与えられたとしても、これを自主的に実施できる可能性は大幅に低下します。その結果、地方公共団体の活動は、財政を通じて国のコントロールを受けることにつながっていると考えられています。
1.平成の大合併
明治の大合併や戦後の昭和の大合併は、それぞれ小学校、中学校の運営に必要な規模という、国において明確な行政規模の設計の上での合併推進だったのが特徴的です。これらに対して、高度成長期の合併と平成の大合併については、そのような目標設定がないまま、財政規模の増大、財政破綻の回避に、住民の競争心や危機感をあおる形で行われ、「理念なき市町村合併」という批判があります。
次ぎのような大きな流れを経ています。
- 1999年(平成11年)4月頃から2006年(平成18年)4月頃にかけて起こった合併ブーム。
- 1965年(昭和40年)に十年の時限立法として制定された合併特例法は、1975年(昭和50年)以降も十年毎に延長を繰り返して来たが、1970年代後半からは合併の動きが低調になりました。そのような中、1980年代末頃から、商工会議所などの経済団体や青年会議所を中心として、市町村合併を推進する提言が各地で行われ、これを報道機関が、明治の大合併、昭和の大合併に続く「第三次合併ブーム」と報じた。
- これを受けた形で、1995年(平成7年)に改定された合併特例法では、住民の直接請求により法定合併協議会の設置を発議できる制度や、合併特例債制度の設置などが盛り込まれた他に、政令指定都市への移行や、町村の市への移行のための人口要件の緩和なども、数度の改定で盛り込まれ、合併論議が加速されることになりました。
- 影響が大きかったのは、政府(旧自治省、現総務省)による合併特例債を中心とした行財政面での支援及び三位一体改革の元に行われた地方交付税の削減である。 合併特例債は、法定合併協議会で策定する「合併市町村建設計画」に定めた事業や基金の積立に要する経費について、合併年度後10年度に限り、その財源として借り入れることができる地方債のことで、対象事業費の95%に充当でき、元利償還金の70%を後年度に普通交付税によって措置されるという、破格の有利な条件だった。合併特例債等の特例が2005年(平成17年)3月31日までに合併手続きを完了した場合に限ると定められたことから、駆け込み合併が相次いだ。また、合併直前に施設整備や職員採用を行う市町村や、合併特例債による町おこしとして注目を浴びた兵庫県篠山市がその後急激に財政状況を悪化させるなどの事例が発生し、新聞紙上には「合併バブル」という言葉も現れました。合併特例債がアメと言われたのに対して、ムチと言われたのが、地方交付税の削減です。従来、地方交付税は小規模町村には優遇政策が取られていましたが、三位一体改革の名の下、大幅な削減がなされるようになり、地方交付税への依存度が高い小規模町村を直撃しました。
ただし小規模町村であっても、原発等の電力事業等の交付金等により、地方交付税への依存度が低い町村の合併は進みませんでした。平成の大合併での市区町村数の変化は、東京都が63から61に、神奈川県が37から33市にしか減らず、都市部における合併が進まなかったのに対して、新潟県が112から31、富山県が35から15になる等、地方と呼ばれる地域の合併促進の要因となりました。
市町村合併の動きは2003年(平成15年)から2005年(平成17年)にかけてピークを迎え、平成の大合併の第一弾が終了し、1999年(平成11年)3月末に3,232あった市町村の数は、2006年(平成18年)4月には1,820にまで減少しました。
その後、2005年(平成17年)4月に施行された合併新法(市町村の合併の特例等に関する法律)に基づき、引き続き市町村の合併が進められている。合併新法においては、合併特例債などの財政支援措置がなくなったため、合併の動きは鈍いが、県に合併推進勧告の勧告権があることから、合併新法の期限である2010年(平成22年)3月末に向けて、合併の動きが進むことが予想されます。
日本の市町村数推移 | |
1888年(明治21年)末 | 71,314 |
1889年(明治22年)末 | 15,820 |
1953年(昭和28年)10月 | 9,868 |
1961年(昭和36年) | 3,472 |
2006年(平成18年)4月 | 1,820 |
2008年(平成20年)4月 | 1,788 |
2.平成の市町合併の目的
政府などが掲げる目的は、概ね以下の通りです。
- 地方分権に対応して、基礎自治体の財政力を強化できる。
- 車社会の進展に伴う、生活圏の広域化に対応できる。
- 政令指定都市や中核市・特例市になれば、権限が移譲される。 しかし、政府主導による平成の市町村合併ブームには、以下のような批判も少なくありません。
- 住民発議で合併に誘導する制度はあっても、合併の是非を問う住民投票が法制化されていない。このため、一応は議会の議決はあるものの、住民に歓迎されない合併も行われている(例:大崎市)。
- 合併に関する特例法は存在するが、分割や分立に関する特例法が存在しない。
- 合併後にも、旧市町村の議員が、そのまま新市町村の議員として任期を延長できる「在任期間の特例」に関する問題がある。財政難を理由にして合併をしても、合併後には議員の任期と給与を上げる事例が目立つ。
- 合併後の市町村の名称が、歴史的な地名を軽視した「方角とひらがな」ばかりになっている。(→#合併後の名称問題)
- 「規模を適正にする」という観点を軽視した合併が行われている。このため、県の面積に匹敵する巨大な市が、次々と作られている。
- 財政問題の解決を口実にした合併が目立つため、原発が立地することで国からの支援が降りる小規模自治体、空港などの固定資産税、あるいは大企業・大工場・莫大な収入を持つ個人からの地方税によって裕福な小規模自治体などは、合併による周囲の財政難自治体の債務の肩代わりを嫌って、合併しない例が多かった。そのため、将来の財政難を理由に合併した市町村が、「貧民連合」と侮蔑的に呼ばれた。
- 各市町村の思惑が絡み合い、いびつな飛地が多数発生した(例:津軽半島周辺)。
- 初めに合併ありきで合併したため、生活圏が異なる自治体同士が合併したケースがある(例:大崎市、相模原市など)。
- 財政の健全化が目的なのに、合併特例債(前述)によるバラマキにより却って財政悪化に繋がりかねない。
これらの問題点が挙げられていることから、福島県東白川郡矢祭町や群馬県多野郡上野村などのように、合併を拒絶して、自立・自律や独自性を謳う市町村も現れている。これらの中には、山間部などに位置していて、合併によって一層の過疎化が懸念されている所も少なくない。
反面、住民が合併を望んでいるにも拘らず、「自立」を謳って合併を拒絶したり、合併協議の破談や首長と議会の対立の末に「自立」を謳う市町村もまま見受けられる。
もちろん、住民が分割や分立を望んでいるにも拘らず、議会や首長が拒絶をする市町村もある。
3.市町村合併のメリット・デメリット
以下にメリット・デメリットを記載するが、規模等により大きく異なることがあるので、あくまでも一般的なものである。
メリット
- 住民生活の利便向上
- * 住民の生活行動圏に見合った行政サービスの広域化
- 通勤・通学、通院、買い物等の行動圏域は従来の行政区画を越えている場合が多いが、行政区域が広域化することによって、住民票の写しの交付等の窓口サービスが勤務地や外出先などの近くで利用できるようになる。また、文化会館、図書館、スポーツ施設等の各種公共施設については、それまで利用に制限がある、利用料金に差がある等した隣町の施設についても、同条件で利用が可能となる。
- * 住民サービスの高度化
- 住民の価値観の多様化により市町村行政に求められる機能も高度化・複雑化しているが、専門的知識を備えた職員を確保することにより、専門的かつ高度な行政サービスを提供できるようになる。
地域づくりの進展 - * 地域のイメージアップ
- 「市」への施行、あるいは新しい市町村名とすることにより、地域としての全国的なイメージアップが図られ、地域経済の活性化や若年層の定着、観光交流客の誘致、大型プロジェクトの誘致等へのプラス効果も期待できる。しかし、「市」の数が増えてしまうとせっかく「市」になっても知名度が上がらず意味がないことが多い。むしろ今まで知名度のある市町村名を消すことで知名度が下がることもある。
- * 地域づくりの契機
- 合併の議論を通じて、自らのまちを見直す機会となる。合併後も、まちづくりビジョン実現のため、住民、諸団体の地域づくりへの主体的参画が期待される。
- * 行財政の効率化
- 個々の自治体が行ってきた管理業務を一つに集約することにより、職員数や経費を削減する一方、新たな行政ニーズの発生している部門に充てることができる。職員数も人口当たり少なくなすることができるため、行政サービスの向上を図りつつ、人件費や経費を抑制することができる。ただし、合併で消滅する自治体においても市町村職員の地位は法律で保証されているため、人員抑制・削減効果が期待できるのは合併後数年以上経過してからとなる。また、支所の配置方式によってもその効率化効果はかなり異なってくる。
- * 施設の効果的配置
- 住民の生活行動圏に即した広域的な視点から公共施設を計画的かつ効率的に配置することとなり、隣接した地域での類似施設の重複を避けることができる。ただし、合併前の駆け込みで事業実施する等の弊害も生みがちである。
権限の拡大、行政能力の向上 - * 行政の高度化・専門化
- 長期的には、行政規模拡大により生み出された財源や人員の余裕を、現代においてニーズの高い都市計画、環境政策、情報化、法務等、高度に専門性を要する分野へと振り向けることにより、多様で専門的な人材を長期的に確保し、行政サービスの高度化・専門化を図ることができる。
また、計画的かつ体系的な職員研修プログラムなどを通じて、行政職員の政策形成能力の向上が図られる。 - * 広域的な地域づくり
- 広域的な視点に立った交通基盤や各種公共施設の整備、総合的な土地利用の推進などにより、一体的な地域づくりを効果的に実施することができるようになる。さらに、環境問題や観光交流振興など従来の市町村域の枠を越えた広域的な取組みが求められる領域においても、一体的な対応が可能となる。
さらに、政令指定都市、中核市、特例市や市制への移行等により、自治体としての権限が拡大する効果も期待できる。 - * 大型事業の実現
- 行財政の効率化によって生み出される財源を、選択と集中により、新たな地域づくりや産業振興のために重点的に投資することが可能となる。財政規模の拡大によって、重点的な投資が可能となり、今までの個別自治体の規模では困難だった大型事業を計画的に実施することができる。
デメリット
* 端々の地域が寂れる庁舎の存在する地域は市町村の目も届き、各種事業が実施される。しかし、周辺部においては強く事業実施を要望しても、取り残されることはほぼ確実であり、中心部と周辺部の格差が拡大しがちである。また、それまで行なってきた地域づくり活動が継承されず、その成果が省みられなくなってしまう。例えば、2005年に合併した北海道の(新)石狩市では、南北に細長い地形と住宅密集地が南部の地区に集中していることも相まって、北部の旧厚田村(今の同市厚田区)や旧浜益村(今の同市浜益区)で顕著である。
ひいては、従来の歴史、文化、各種伝統行事といった地域の特徴が失われる恐れがある。地区出身の町村職員が自発的に地域文化を支えてきた面も一部にはあり、これら職員が本庁に吸い上げられることによって、担い手が確保できず消滅することになりかねない。
* 市町村行政と地域住民との距離の拡大行政組織が大きくなって、また議員の数も減少し、地域の住民の意見が市町村行政に届きにくくなる。また、行政の広報委員としての役目の他に、地域と市町村行政との実質的なパイプ役となってきた区長等の地区役員制度も都市部の様式に統一されることによって、機能が削がれる恐れがある。合併により誕生した岐阜県の新・高山市や同県の飛騨市が顕著な例である。
* 行政サービスの低下役所や公共施設への距離が遠くなり、不便になる。効率化によって、行政サービスが高度化するとはいえ、それらは長期的に効果発現するものであり、また直感的には感じられにくいものである。また、分庁舎方式で各旧自治体役場に各部署を分散させる方式を採った場合、申請や手続きの度にその部署を有する遠く離れた分庁に足を運ばなくてはならない。
* 住民・事業所負担の増大町村から市に移行する場合、今まで安かった公共料金が合併で大幅に値上がりしたりなど税等の住民や事業所の負担が増大することがある。例えば、函館市と合併した南茅部町、椴法華村、恵山町、戸井町では水道料金が大幅に値上がりし、ゴミと託児所が有料化された。
* 意見が通らなくなる比較的大きな市と小さな町村が合併した場合、両者の産業の種類に大きな差があると、小さな町村の産業は無視される。また、市長選挙でも大きな市ひとつの人口が他の町村の人口を上回ることがよくある。市議会選挙においても同様で、当選には旧町村議会とは比べものにならない票数を必要とするため、旧町村内で候補者を調整しても、数名の議員しか当選させられず、議会の主導権は完全に旧市側に握られる例が多い。また、選挙日の事務効率化で合併により開票所までの距離が遠いことで繰上げ投票時間を設定する必要が出てくる。
例えば、石狩市は石狩市と厚田村と浜益村が合併して誕生したが、旧石狩市は札幌のベッドタウンと商業港の町だったのに対し、厚田・浜益両村は漁業を中心とした村である。石狩市の人口は両村合わせた数の10倍以上であり、両村の意見はほとんど通らなくなる。
4.地方分権一括法
日本の中央地方関係について、その特徴を「集権的分散システム」と表現することがあります。実際、地方財政は国庫に、つまり中央政府による地方への財政移転に大きく依存しています。これは中央政府よりも地方政府の歳出額の方が圧倒的に大きいことを意味します。それに対して、歳入額は、税制上地方が受け取る金額は少なくなっています。
米国の場合、連邦政府が税財源を持ち、州や市、郡もそれぞれ税財源を持っており、必要な予算を賄う際には、一定の要件を満たせば、税率を変更することができます。これに対して、日本では多くの税財源について国、中央政府が一括して国民からの税金を集めるシステムになっており、国を介さずに地方へ直接納められる税金は限られています。
このように国に一旦税金を集め、それを配分していくシステムはある意味で集権的であるといえるでしょう。
そして、その税収をどう配分するのかは国の判断で決定され、その決定に基づいて地方交付税や国庫支出金という形で、均衡の原則に基づいて全国の自治体へと配分されています。
歳入の自治において、自治体は制約を受けており、各自治体は歳入の規模と内容を自ら決定することができません。つまり、自治体には「課税自主権」がないため、たとえば福祉を充実させるために、あるいは財政的な苦しさを理由に税率を上げたいと考えてもできないことになります。さらに、特別な税を自治体が独自に課そうとしても、中央政府の承諾なしには実施することはできません。
また、自治体からみると、歳入は「自主財源」と「依存財源」の二つに分かれますが、そのうち地方税は自主財源、地方交付税は依存財源にあたります。これらは地方自治体の一般会計に入るので、何にいくら使うかは自治体が決めることになります。これに対して、「国庫支出金」とよばれる補助金があり、これは各省庁が自治体に対して国が指定する業務を行わせるために配分される予算です。この他にも、予算の不足を補うために地方債という債券を自治体は発行しています。このように地方自治体は国の支持を受けることが多くなっているわけです。
地方分権一括法制定前
1990年代半ばから、こうした状況を改善すべく地方分権改革が本格化し、1999年「地方分権一括法」という法律が制定され、翌年4月に施行されました。これは均衡の原則よりも自治の原則を、より重視した内容です。この際に設置された、有識者などからなる地方分権推進委員会は、中央省庁による「縦割り画一的行政システム」をなくして住民主導による行政システムに改めようという結論を出しました。
この法律が施行される前の時代の地方自治制度についてみてみますと、一言でいえば、自治体の仕事の大半が国の仕事を肩代わりすることで占められていました。当時の自治体の事務には、公共事務、団体委任事務、行政事務、機関委任事務がありました。
- 「公共事務」…住民票を発行するなど自治体が本来行うべき事務
- 「団体委任事務」…法令によって自治体に実施が義務づけられた事務
- 「行政事務」…地方公共のための規制や取締りに関する事務 この三つの事務は自治体が当然に行うべき事務として位置づけられていました。そして、自治体のすべての事務の中で多くを占めていたのが、「機関委任事務」でした。それは、本来国が行うべき事務ではあるものの、国(各省庁)が3200市町村(当時)に出先機関を作って、国道や橋の管理を行うのは効率的ではないという考えから、地方自治体が国が決めたことをその通りに行う事務のことであり、所轄大臣が指揮監督して知事が執行し、さらに知事が指揮監督して市町村が執行するという図式になっていました。
そして、この機関委任事務が都道府県の仕事の80%、市町村の仕事の40%を占めていました。つまり、選挙で都道府県知事や議員を選んでも、実際に彼らは住民を向いて仕事をしなくなります。霞ヶ関に対して責任を負い、国から言われた通りにやっているかどうかが問われるからです。そうすれば、国から国庫支出金をもらうことができ、財政的にその自治体は維持されることになります。これが地方自治の問題の一つといわれてきました。自治体に委ねられた仕事の大半が中央省庁に決定権があり、自治体としての仕事と国の下部機関として行う中央省庁の仕事(機関委任事務)が融合しており、これを「集権融合型システム」と呼んでいました。
機関委任事務の廃止と法定受託事務、自治事務
機関委任事務を廃止しようという機運が1990年代になって高まり、やがて地方分権一括法の制定、施行にいたり、機関委任事務の見直しが行われました。
具体的には、機関委任事務の全704項目のうち、事務自体廃止となったのが11項目、国立公園の管理のように国の直接執行事務になったものが20項目、飲食店の営業許可や病院開設許可など、これまで国の事務だった398項目が「自治事務」として自治体、特に都道府県レベルの事務になりました。そして、これまで通り国が責任を負うもの、効率性、利便性を考慮して都道府県に処理を委ねられた事務が275項目あり、これを「法定受託事務」としました。これは以前の機関委任事務と似た性格を持つ項目といえます。公共事務、団体委任事務、行政事務も廃止され、自治事務に統合されました。
法定受託事務は、機関委任事務と似ているものの異なる点は次の三つです。
- 自治体が条例を作れるようになりました。
- 国と地方の間で対立した場合、国地方係争処理委員会が設置され、形式的には国と地方が対等な立場で話し合えるようになりました。
- 国が関与する最良並びに事務が減らされた。 しかし、裁量が広がったかわりに、自治体が国の言うとおりに処理しなければ補助金の支給等に影響が出てくるために、実際には地方が国の意向に反することはなかなか難しいよいう指摘もあります。▲ページTOPへ
5.三位一体改革
このように自治体の自助努力が促されない財政調整制度によって、より大規模な財政移転を迫られている国の財政が圧迫され続けています。そこで、国の負担を軽減するとともに自治の原則をより重視して自治体の財政基盤の強化を図るために、まず、自治体同士の合併が促されることになりました。つまり、財政規模が大きくなればより安定し、さらに首長や議会は一つに統合されるなど自治体経営も効率的になるという考えからです。
それまで100万人前後が目安となっていた「政令指定都市」は、70万人規模でも認められることになり、静岡市がその例として挙げられます。また、人口が30万人以上で面積が100平方キロ以上の自治体になると「中核市」ななることができるとし、旭川市、青森市、宇都宮市などが認められました。人口20万人以上の自治体は「特例市」に指定されることができるとし、盛岡市、福井市、鳥取市などが指定を受けました。
しかし、自治体への権限委譲の内容をめぐっては、地方分権推進委員会とそれに抵抗する霞ヶ関との折衝の末、政令指定都市や中核市、特例市になっても、さほど大きな権限が自治体に与えられませんでした。このように、地方分権一括法や大都市への権限委譲という過渡的処置では限界があったため、小泉内閣になって「三位一体改革」が行われることになりました。これは、国から地方への補助金削減、国から地方への税源移譲、地方交付税の見直しの三つを一度に行おうというものでした。具体的には税源については国税の取り分として入ってきていたものを地方税に切り替え、地方税を充実させて補助金を減らすことで自治体の歳入に占める地方税の割合を引き上げ、その分だけ地方交付税を引き下げることで交付団体を減らそうとしました。このように財源不足を解消して地方財政のプライマリーバランスをとる、つまり公債費を除いた歳入と歳出の収支を黒字にし、国から地方への財政移転を減らそうと考えました。
また、補助金等の削減によって小さな自治体において行政サービスが立ち行かなくなることを回避するため、行財政基盤の強化のために、2005年3月をめどに国は「市町村合併」を強力に推進しました。つまり、大きな自治体が大きな権限を持って効率的に自治体経営を行うことが望まれたわけで、実際3200市町村は1800にまで減りました。
しかし、補助金改革では、補助金の対象となっている事業項目も削減してその権限を自治体に委譲するはずでしたが、現在のところ少なからず項目において補助率の削減にとどまっています。このため、補助率を削減しても、自治体が何かの事業を行う際には所管省庁に申請し、そこで審査を受けるという手続きはそのまま残ることになります。
削減例を見ると、国民健康保険は50%から43%に、児童手当は3分の2から3分の1に、児童扶養手当は4分の3から3分の1に、施設介護給付費は25%から20%に削減されたという状況です。こうして補助率は引き下げられ、財源移譲は進んだものの、権限委譲があまりにも進まなかったことから、自治体の負担は増える一方で、国による関与が続くことになったという批判もあります。
「三位一体改革」による地方分権を進めようとしていますが、地方への財源と権限の保障が曖昧であるため、地方公共団体からは「『地方主権』『自治型社会の実現』からは程遠い」と指摘する声も少なくありません。
出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司
放送大学准教授 山岡 龍一
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