室埴村を調べに国府国分寺館に行き、気多郡地名についても資料をコピー(一部10円)してもらったのでかつてのブログを書き直してみた。
気多郡地図(日高町史より)
気多郡とは、但馬国(兵庫県北部(日本海側))にかつて存在した郡です。
古文漢文得意ではないのでおかしいところはご指摘下さい。
『諸本集成 倭名類聚抄』外篇 日本地理志料/京都大学文学部国語学国文学研究室/編
但馬國氣多郡
郷名 | 万葉仮名 | 読み | 村 | 記述 | 郷社・村社 |
氣多 | (ケタ) | 山本、松ノ岡、土居、手邊(辺)、國府(コフノ)市場、堀、野野荘、池(ノ)上、芝 (上郷・下郷) | 原無、今補、按渉郡名及太多ノ郷、致脱簡(1)也、古者國府、此に在り。後徒治高田郷云、延暦三年紀、但馬國氣多團が此処に在り。神明式、氣多神社。天平十九年紀、氣多(ノ)君十千代、弘安大田文、氣多ノ上郷(ノ)田百十一町、氣多ノ下郷(ノ)田百七十三町、但馬考 今(ノ)府中組領、山本、松ノ岡、土居、手邊(辺)、國府市場、堀、野野荘、池ノ上、芝 (ノ)九邑、是此域也 | 祀典所 伝、伊智神社(國府市場村)、御井神社(土居村)、三野神社(野野荘村) | |
太多 | タダ | 十戸・此垣(コロガキ)・漆垣・山(ノ)宮・石井・太多・栃本・東河内・水口・稲葉・萬却・山田・萬場・名色(ナシキ)・栗栖野・荘境・久田谷・田(ノ)口・羽尻 (ノ)十九邑 | 訓が見当たらないので多陀と云う読みを当てる。出雲に多太郷在り、弘安大田文 伊勢大神宮領太多荘田八十町、地頭楽ノ前 藤内兵衛が神領目録を作る。…但馬考に郡西に太多荘在り。此垣村ノ気多郡比曾寺ノ田十一町。 | 祀典所 山(ノ)神社(山ノ宮村)、戸(ノ)神社(十戸村)< /br>此垣 | |
三方 | 美加太 | ミカタ | 但馬考に今(ノ)、芝・安良川・猪(ノ)子垣・廣井・殿・栗山・觀音寺・知見・三所 (ノ)十邑(一か所足らない?数え間違いか?) | 横川ノ中堂領三方荘 五十九町、熊野山觀音寺領ノ田九町、 | 寛仁紀に建寺された觀音寺が有り、寺の後ろに鶴峰城趾が有り。弘安三年始め、安良川(荒川?)村山名(ノ)老臣垣屋氏菩提寺隆國寺有り。但馬國の巨刹と為った。祀典所 謂 神門(カント)神社、山王社と稱(たと)えられるのは此である。 |
楽前 | 佐佐乃久萬 | (ササノクマ) | 伊府・篠垣・佐田・野村、伊原 | 萬葉集には佐左那美と按じる、神楽馨波ノ字ヲ用イル、…篠ハ小竹ナリ、…本居(宣長?)氏曰く、天祖が天窟ニ隠れられた際に天鈿女(あまのうずめ)(2)の命が香山の小竹葉を採って舞った故事に因むとする(天岩戸の舞)。その音が佐佐と聞こえたので小竹の故名を佐佐(笹)と為す。楽前は即ち篠ノ隅(クマ)の段を借りる。 …弘安大田文 國分寺領氣多郡楽前ノ南荘田四十八町、楽前ノ北荘田二十四町 地頭楽前入道(垣屋隆国だろう)、一つ、但馬考 楽前ノ荘と云う、今は二つに分ける。曰く、北荘は伊府・篠垣・佐田 三邑、曰く、東方の野村、伊原(ノ)二邑… | 備後考には祀典所 佐久神社(佐田村) |
高田 | 多加多 | タカタ | 但馬考には今の高田郷は、夏栗・久斗・禰布・石立ち・國分寺・水上(みのかみ)(ノ)六邑。 | 安芸、石見、播磨、美作にも高田郷在り。…弘安大田文 高田郷田六十七町、地頭高田忠貞、國分寺領三十四町。 | 祀典所 久刀村ノ兵主神社 |
日置 | 比於岐 | ヒオキ | 但馬考は今の日置郷は、日置・多田ノ谷・伊福(ゆう)・上(ノ)郷・中(ノ)郷(ノ)五邑 | 大和・伊勢・丹波・丹後・因幡・出雲にも日置郷有り。姓氏録に日置部氏の出自は天櫛玉命男、天櫛耳命、今(ノ)日置神社(日置村)。弘安大田文 田百四十六町、地頭越生長経、伊福別宮領田五町、 | 祀典所 謂われには氣多神社(上郷村)、総社明神と称える。葦田神社(中郷村)、井田神社(伊福村)、楯縫神社(多田(ノ)谷村) |
高生 | 多加布 | タコフ・たこう | 但馬考は地下・岩井・宵田・江原(ノ)四邑。 | 武蔵にも高生郷有り。多介布とも訓じる。姓氏録に武生宿禰、祖王仁の孫 河浪古の首。天平神護元年紀、河内国の人馬益人等が登って武生の連の姓を賜る。…但馬考は今の宵田村に高生の代の地が有り。是を持って(高生の)の名とする。 | 高負神社 |
狭沼 | 左乃 | サノ | 但馬考には今の佐野の荘の佐野・上石(アゲシ)・竹貫の三邑。八代谷の藤井・奈佐路・谷・八代・猪ノ爪・奥八代・河江・椒(ハジカミ)・三原・段(ノ)十邑。 | 丹後にも佐濃ノ郷有り。弘安大田文 田三十四町、公文八木高貫に歓喜光院領八代荘田五十三町 | 祀典所 鷹貫神社(竹貫村)、天日槍五世ノ孫 葛城ノ高額比売命、即ち神宮皇后の妣(ヒ)也。雷神社(佐野村)は曰く佐野天神、[木蜀]椒ノ神社(椒村)、は八幡宮とも称える。…多麻良伎(ノ)神社(猪爪村)、須谷(ノ)神社(藤井村)、また段村に氣多軍団の遺趾有り、八代(ノ)薬師堂、大岡寺の号により白山権現を祀る。大岡神に従五位下授かる。 |
賀陽 | 加也 | カヤ | 但馬考は今(ノ)引野・土淵・加陽・八社宮(ハサミ)・伏村・清冷寺(ノ)六邑。 | 備中に賀夜郡、伯耆に蚊屋郷、大田文 上賀陽ノ荘田十七町六段、南方、地頭、小林三郎、北方(ノ)地頭、小林眞重、下賀陽(ノ)荘田五十九町、上村(ノ)地頭河越修理亮、下村(ノ)地頭野元孫三郎 |
(2)鈿=音:テン、デン、婦人のかんざし。青貝細工。「花鈿」は、唐人の婦人がひたいに貼った装身具
気多郡は、奈良時代に律令制が行われた後の時代に記された「和名抄」によると、九つの郷で構成されていました。西から太多(タダ)、三方(美加太ミカタ)、楽前(佐佐乃久萬ササノクマ)、高田(多加多タカダ)、日置(比於岐ヒオキ)、高生(多加布タコフ・たこう)、狭沼(左乃サノ)、賀陽(カヤ)、(気多郷)ですが、これはずっと後になって律令制度が整備された郷なので、縄文時代は違ったかも知れませんが、これが邑(ムラ:自然村:今の概ね区単位)を集合させた小国の単位であると思います。ちなみに山間部が多い太多(タダ・太田)と狭沼(サノ)、三方(ミカタ)の3郷は広大で、気多郡の平野部を除いた比較的山間部に位置し、約3/4を占めます。
弥生時代までに、こうした国境(邑境)は、地理的条件で、ある程度自然に分けられたのでしょうが、これらが後に郡・郷として気多氏の支配下にある郷名であり首長名になったのでしょう。最も大きな太多郷は兵庫県でも鉢伏と並んで最も古くから人が住み着いた遺構が発見された土地であり、稲葉(いなんば)から久田谷(くただに)までの円山川の支流稲葉川水系であり、気多氏にとって重要な中心部でした。狭沼郷も円山川の支流八代川水系と現在の竹野町椒、三原から八代川下流の円山川に注ぐ地点です。
■気多郡の沿革
平安時代中期に作られた日本語辞書である「倭名類聚抄」などを江戸期のものまで集成した『諸本集成 倭名類聚抄』外篇 日本地理志料/京都大学文学部国語学国文学研究室/編に、 「気多郡」…因幡にも気多郡有り、遠江に気多郷有り、本郡には大己貴神(オオナムヂ)を祀る気多神社…、高田、日置、高生、気多、狭沼の五郷、多太、三方、楽前、八代、賀陽、伊福の六荘、今の八十村を領し、出石郡出石町に在し気多郡を治める。…
と記し、 「気多(郷)」が四角い枠で囲まれて気多郡のトップに記されています。
「気多」…「原無、今補、按渉郡名及太多ノ郷、致脱簡(1)也、古者國府在此、後徒治高田郷云、弘安大田文には、気多ノ上郷、気多ノ下郷、但馬考、今府中組、領山本、松ノ岡、土居、手邊(辺)、國府市場、堀、野野荘、池ノ上、ノ九邑、是此域也、…」としつつ、気多の後に、太多(タダ)、三方(美加太ミカタ)、楽前(佐佐乃久萬ササノクマ)、高田(多加多タカダ)、日置(比於岐ヒオキ)、高生(多加布タコフ・たこう)、狭沼(左乃サノ)、賀陽(カヤ)を記しています。
「気多(郷)」…「郷名は現存せず。弘安大田文には、気多ノ上郷、気多ノ下郷、但馬考には今の府中組で、山本、松ノ岡(松岡)、土居、手邊(辺)、國府市場(府市場)、堀、野野荘(野々庄)、池ノ上(池上)、芝の九村がその域である。」と記されている。
手邊(辺)は現存しないが、和名抄は記載順が所在地に忠実に記載されているので土居と府市場の間に記されていることからその中間にあったと考えられる。それ以外の村はそのまま区名として現存している。
※脱簡(1)書物の中の一部が抜けていること。章・編の脱落や落丁のあること。
しかし、大田文に伝える日置郷は、日置、多田ノ谷、伊福、上ノ郷、中ノ郷の五邑、とされていてまた、弘安大田文には気多上郷、下郷とあり中郷がなく、日置郷には上ノ郷、中ノ郷があり下郷が抜けてしまっている。上ノ郷、中ノ郷は現存するから、下郷はのちに中郷と呼ばれるようになったのではないか。この時代に円山川をはさんだ対岸の気多上ノ郷、中ノ郷は日置郷に加わったことがわかるから気多郷名は消滅したのだろうか。あるいは気多の上ノ郷とは気多郷でないと、気多郷には上下の二郷しかなく、今の府中組が気多郷なら上下二郷では分けられないから、今の府中組は気多郷ではないはずだ。しかし、その後、他の郷にも上ノ郷、中ノ郷を除いたその他の(今の)府中組九村が記載されていない。
また出石郡の項では、同様に神戸郷が四角い枠で囲まれてトップに記され、「現存せず…但馬考は宮内、坪井二邑(村)と伝える。」としている。宮内、坪井二村は出石郷に編入され神戸郷は現存しないことが分かる。ところが、気多郷はすっかり消えてしまっているのだ。これは気多郡だから気多郡気多郷ではダブルので省略しているのだとする考えもある。但馬考は(気多郷は)今の府中組だとしてある。
「気多(郷)」に続いて、太多郷、三方郷、楽前郷、高田郷、高生郷、日置郷、賀陽郷が記されている。
明治以降の気多郡(旧日高町)の変遷
1889年(明治22年)4月1日 | 町村制施行(7村) 気多郡中筋村(賀陽郷)・日高村(日置の日と高田・或いは高生の高から日高)・国府村・八代村・三方村・西気村・狭沼郷三椒村 |
1894年(明治27年)12月15日 | 清滝村が西気村より分立 |
1896年(明治29年)4月1日 | 気多郡が美含郡とともに城崎郡へ編入され消滅 |
1925年(大正14年)11月1日 | 町制を施行し城崎郡日高町となる |
1950年(昭和25年)4月1日 | 城崎郡豊岡町、五荘村、新田村、気多郡中筋村が新設合併し、豊岡市発足 |
1955年(昭和30年)2月1日 | 養父郡宿南村の一部(浅倉、赤崎)を日高町へ編入 |
1955年(昭和30年)3月3日 | 竹野村、中竹野村、奥竹野村、三椒村が合併し、新たに竹野村となる |
1955年(昭和30年)3月25日 | 日高町、国府村、八代村、三方村、西気村、清滝村が合併し、新しい日高町が発足 |
1958年(昭和33年)1月1日 | 城崎郡日高町上佐野地区を豊岡市へ編入 |
1976年(昭和51年)9月1日 | 城崎郡日高町西芝字大向野の一部と豊岡市の間で境界変更 |
2005年(平成17年)4月1日 | 豊岡市、出石町、但東町、城崎町、竹野町と合併して新たな豊岡市が発足し、日高町消滅 |